いつも思うことだが、ネルフ総本部は広大だ。
 縦にも横にも広すぎる。
 ジオフロントという特殊な地形を利用して建造されたこともあるのだろうが、特に上下の移動は激しく、エレベーターやエスカレーターをいくつも乗り継がねばならない。
 その日、碇シンジは赤木リツコの部屋へと急いでいた。いや、正確を期すなら、その日も、と表現すべきだろうか。最近のリツコは初号機の搭乗試験をスケジュールに組み込むことがほとんどなくなり、碇シンジの「仕事」は簡単な心理テストや雑談、そしてチェスで終わってしまう。負傷の完治した綾波レイが完全な復帰を果たしたこと、天才と謡われたセカンド・チルドレンが来日したことも影響しているのだろうと彼は推察していた。無能なパイロットはさらに仕事がなくなり、暇になる。結構なことだ。別にネルフで栄達したいなどと考えたこともない。人類を救う偉業は、本職の軍人と優秀な科学者、辣腕の政治家と、そして異能に恵まれたパイロットたちに任せておけばいい。一般人たる自分は、それに似合った幸福を求めるのが分に相応というものだ。いや、むろんネルフに所属していたという肩書きと威光はせいぜい活用させてもらうが。
 自販機の立ち並ぶ休憩室の区画に差しかかる。
 普段なら幾人かの職員がたむろしており、互いに顔を合わせれば会釈くらいは交わすものだが、この日はしかし閑散としていた。
 代わりという訳ではなかろうが、見覚えのない男――青いシャツにネクタイをした男が、壁に持たれかかって缶コーヒーを傾けている。
 新顔かな、とシンジは漠然と思った。彼は一度会った人間の顔は忘れない。ネルフ本部でもっとも規模が大きいのは多数の整備員・技術者を抱える技術部だが、リツコと関係が深い彼は、そこの職員ならば大抵の顔を覚えている。本来の所属である作戦部の職員・派遣将校とも一通り顔合わせはしているが、その中にも目の前の男のような風体はなかったはずだ。
 気付かれないていどに男の顔と姿を一瞥し、記憶層にその特徴を叩き込んでから、彼は一応の礼儀として会釈した。
 第一印象は、ひどくだらしのない男。シャツはよれているし、ネクタイの形も崩れている。顎には不精髭が見えた。長く伸ばして束ねられた髪も、特に手入れされている様子はない。
 通常の軍隊であったなら、修正をくれてやる、の怒声とともに上官からビンタを張られているだろう。一般の企業であってさえ、上司から小言の一つもいわれているかも知れない。
 しかし、ここでは決してそうはならない――そして、そんな男が一概に見くびられるべき人間とは限らないあたりが、ネルフという組織の面白い所ではあった。
 対使徒迎撃機関であり軍隊ではあっても、ネルフには仕事さえきちんと果たしているならばその他のことはかなり大らかに許容される一面がある。何せ、ネルフでもっとも軍人らしくあるべき作戦部長・葛城ミサトからして、あの通り気さくな人柄だ。いささか意外なことだが、碇ゲンドウや赤木リツコですら、この点の寛容さについては例外ではない。実用主義者の権化であるだけに、結果さえ出すならばその他のことはどうでもいいと考えているのである。
 そしてそれは、裏を返せば、外見がどうであろうとそれで推し量れるような素直な人間がネルフには少ないことも意味していた。見るからに冷酷無比な策謀家という雰囲気のゲンドウはまた別だが、一見するところ高校生のような童顔の伊吹マヤはリツコの片腕と称されるハッカーだし、ミュージシャン志望の若者を思わせる風体の青葉シゲルは情報分析にかけてはネルフ屈指といわれるオペレーターだ。葛城ミサトに関しては――いうまでもない。
 目の前の男も、何がしかの能力があればこそ、こうした崩れた態度でネルフに籍を置くことが出来ているのだろう。
 とりあえず、礼儀と愛想を売っておくに越したことはない。
 せいぜい慎ましく礼儀正しい少年を取り繕い、通り過ぎようとした彼を、男はしかし見過ごさなかった。

「やあ、君がシンジ君かい?」

 親しみのこもった口調で、そう呼びかけてくる。
 碇シンジは足を止めて男の顔を見上げた。顔と名前を知られていることに特に疑問は抱かなかった。この世で三人しかいないパイロット、その中でもシンクロ率1%未満のまま籍を置かされ続けているパイロットのことは、良くも悪くも有名だろう。

「はい、そうですが……どこかでお会いしましたっけ?」

 初対面であることは確信を持っていたが、白々しく首を傾げて見せる。
 男は微笑を浮かべつつ、

「いや、失礼、初めてだよ。俺は加持リョウジ。アスカにくっついてドイツ支部から転属してきた、まあオマケみたいなものかな。リッちゃん……赤木博士から、君のことはよく聞いてる」

 ――加持リョウジ。
 その名を、彼はたしかに以前、リツコから聞いたことがあった。ミサトと並んで学生時代によくつるんでいた旧友。ミサトの恋人であったとも聞いたが、リツコはそのあたりのゴシップを深く語る人間ではなく、彼もまた深入りをするつもりはなかった。
 彼が興味を引いたとすれば、加持に対するリツコの評価だ。曰く、自分が出会った中でも有数の切れ者。そしてそれ以上に食わせ物。
 そのときのリツコの顔が珍しく楽しげに綻んでいたのを、彼は明確に記憶している。

「そうでしたか、貴方が加持さん……僕も、リツコさんからお噂はかねがね」
「多分ろくなものじゃないだろう?」
「いいえ。多分、リツコさんとしては絶賛に近い評価だったと思います」
「ますます何をいわれていたか気になる言い方だねぇ」

 加持は楽しそうに笑う。
 何気ないやり取りだったが、シンジはその合間にも観察を続けている。
 軽い男のように見えるが、年下相手にも同じ目線で語りかけ、それでいて馴れ馴れしさを感じさせない。そういう語り口が板についている。意図的に身につけた物腰であるならば、むしろ大したものだ。
 一通り、リッちゃんは厳しいタイプだから時々息が詰まったりしないかい、いえよくしてくれます、といった当たりさわりのない会話が交わされる。
 パイロットとしての碇シンジの話題には、加持はごく自然な形で触れない。
 第三使徒戦で大怪我をしたことに対する同情も口にしない。
 そうしたところでもわざとらしさを感じさせない雰囲気が、この男にはあった。

「今度、時間があったら一緒に飯でも食いに行こう。奢るよ。転任してきたばかりだが、評判のいい店にはいくつか目星をつけてある」
「いいですね。楽しみにしています」
「君とは、ゆっくり話して見たいね。こういう言い方は何だが、俺は君という人間に興味がある」
「僕、男ですよ」
「ならば腹を割って話ができるというもんだ」

 少々下品な冗談にも、余裕のある態度で応じてくる。
 諧謔を解する相手というのは、シンジは嫌いではない。機会があれば是非とも、と返したのは、満更社交辞令でもなかった。
 頃合を見計らい、

「それでは、僕はこれで。食事、楽しみにしてますよ」

 そういって歩き去ろうとした彼の背中に、

「ああ、最後にもう一つだけ」

 加持は何気ない口調で付け加えた。

「その猫の皮、取り繕うのに疲れたりはしないのかい?」

 本当にさり気ない、ともすれば普通に応えてしまいたくなりそうな、そんな口調だった。
 碇シンジは、振り返らなかった。
 意表を突かれたことは否定しえない。
 ただ一度の対面、ほんの数分のやり取りで見抜かれたこともそうだが、初対面でそれを切り出してくる相手とも思っていなかった。
 表情を見せぬままに、加持の真意を推し量るべく頭脳を回転させかけて、次の瞬間にその冷静な反応こそがむしろ相手の望んでいたものであることに気付く。

「……ははっ」

 彼はゆっくりと、顔だけ振り向いた。
 口許には、あえて慎ましく礼儀正しい微笑を、変わらず張り付かせていた。
 ただ、発された声音と内容だけが、冷たく乾いていた。

「何年繕い続けている外面だと思ってるんです? 今更疲れるわけもないでしょう」

 笑みを浮かべたまま、それだけをいう。
 加持もまた、相変わらずの砕けた三枚目の表情で、笑みを返してきた。
 そして二人はまったく同時に、十年連れ添った知己のような親しみに満ちた挨拶を交わした。

「いずれ、また」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

少年期
10th age

七瀬由秋

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 ネルフに所属する誰もが認めることだが、総本部の大食堂は料理の味と量と値段において、軍事施設のそれとしては稀有なほどに評判がよい。
 第参新東京の建設期、すなわち特務機関ネルフにとっての黎明期に、とある現場上がりの技術部員が熱心に運動した結果であるらしい。エヴァも本部施設も兵装ビルもすべてが着工段階であった当時、その保守整備・点検・開発を引き受ける技術関係の職員は、それこそ一ヵ月どころか数ヶ月は家に帰れないことが珍しくなかったから、せめて職場で取る食事くらいは上質にしたいと願うのは無理からぬことであったろう。
 ネルフ総司令・碇ゲンドウはというと、食事など可能な限り短時間で可能な限り高い栄養を取れればよいと考える型の人間ではあったが、このときは実にあっさりと食堂関連の予算を増額させている。寝食や衛生における配慮がどれだけ現場の士気増加に繋がるか、天性の組織管理者である彼は承知していた。

「こっちに来て一番の役得かも知れませんね、この食堂は。僕が前にいた基地のは、量はともかく味はひどいものでしたから」

 大食堂の片隅のテーブルでシチューを口に運びながら、国連軍中尉の階級章をつけた士官がいった。
 速水アツシ中尉。国連軍派遣将校団においては大神大尉に次ぐナンバー2的な立場にある青年だ。年齢は二十五歳、派遣将校の中でもかなりの若手に入る。

「役得というにはささやかな気もするがね」

 速水とテーブルを挟んで蕎麦を口に運んでいた士官が応えた。加山ユウイチ、階級章は速水と同じ国連軍中尉。

「まあ、そういいたくなる気持ちもわかる。美味い飯ってのはいいなぁ、速水君」

 砕けた口調で加山はいう。派遣将校に加わったばかりの新参とはいえ、階級は同じ中尉、何より中尉に昇進したのは加山の方が先任なので、特に非礼な物言いというわけではない。
 食堂内には二人の他に人影はなかった。時刻は午前五時を回ったばかりなのだから、無理もない。一週間ほど前までは、到着した弐号機の整備で夜勤の作業員も少なくなかったのだが、今ではそれも落ち着いている。ならばこの二人はというと、いくつかの作戦案を詰めるため、討議を交わしていたためについついこんな時間まで根を詰めてしまったのである。少なくとも、周囲にはそう説明するつもりだ。

「――で、諜報部の動きはどうです?」

 シチュー皿と口を往復するスプーンを止めることなく、速水が何気なく訊ねた。

「まだ探り始めたばかりだが、取り立てて不審な点はない。誰でも思いつくような活動しかしていないな。具体的にはネルフに非協力的な国への内偵と情報操作――まあ、協力的な国に対しても程度の差こそあれ似たような活動は継続しているが」

 加山は同様の態度で応える。

「ただ、これはまだ確定的とはいえない情報だが」

 と、先日まで国連軍情報部に籍を置いていた派遣将校は、声音を変えることなく、しかしほんのわずかに冷めた声で続けた。

「セカンド・チルドレンと一緒に来日した加持一尉。彼が、小さなトランクを一つ下げて本部を訪れたのを目撃した者がいる。もちろん、帰るときには手ぶらで――総司令に面会を申し込んだらしい」
「トランクの中身は? 古式ゆかしく、N2弾頭の発射パスワードあたりですか」
「エヴァを運用するネルフ、そのトップへの土産物だ、もっと物騒なものであることは確言できるね。空母に潜入していた俺の古巣の工作員がエスコートを装って運ぼうとしても、そのトランクにだけは触らせなかったらしい。政治関係の機密書類の束というならいっそ話は簡単なんだが」

 加山はいいながら、ほんの一瞬だけ、探るような目で速水の顔を見つめる。
 若い中尉は相変わらず呑気な―― 一部では「ぽややんとした」と表現される独特の気の抜けた表情で――、食事を続けていた。
 ――つくづく、若いのに底の知れない男だ。
 内心で、ある種の恐れにも似た物を抱きつつ、加山は思う。

「加持一尉とは、この間少しだけ話をしました」

 速水は相変わらずの口調でいった。抜け目がない、と思いつつも加山は続きを促す。

「総司令の犬であるとは、様々な意味で考えにくい人のようです。半分は勘みたいなものですけどね」
「彼は日本政府とも繋がりがある」

 加山は短くいう。古巣が国連軍情報部、さらに遡れば日本の戦略自衛隊ということもあり、その手の情報は必須事項として入手していた。

「ついでに、葛城三佐の昔の恋人とも聞きますが」
「耳が早いな。まあ、その通りだ。三佐に対する牽制の意味合いもあるのかも知れん」
「いえ、日本政府の方はともかくとして、総司令にそのつもりはないようですよ――少なくとも、今のところは。三佐はどうやら正真正銘軍事専門のスタッフとして抜擢されたらしいですし」

 幾分の皮肉と、それ以外の何かを含ませた声音で、速水はいった。
 そして、こう続ける。
 ――作戦本部のアクセスできるデータには、件の計画に関するものは含まれていないようです。
 つまりはそれが、速水アツシ中尉の立場であった。
 派遣将校団のナンバー2、国連軍若手屈指の戦車戦の名手、実戦経験豊かな青年士官。そして同時に、国連内のとある有力派閥に連なる男。
 彼の持つコネクションは、本職の諜報員である加山ですら手の出せない部分がある。正直な話、関わりを持つのは危険ですらあった。
 しかしそれでも尚、加山は彼から接触を受けたとき、断らなかった。むしろ協調し、相互に情報を交換し合うことを約束した。
 加山は表向き、防大の同期であり親友でもある大神イチロウ大尉の推挙でネルフに派遣されてきたという形を取っている。しかし実際には、古巣の国連軍情報部からそれなりの命令を受けて活動する立場にあったからだ。
 速水のいう「件の計画」。それは、国連軍情報部が前々から内偵を進めていた組織の手になるものと目されていた。

「やはり本丸は技術部ですね」
「同意するよ。しかし、迂闊に手を出すのは危険すぎる。下手をすれば、葛城三佐のおかげでようやく形作られたネルフとの関係が断絶する恐れすらあるぞ」
「そうなっては本末転倒、ですか」

 速水は苦笑する。癖のある男ではあるが、使徒殲滅こそが人類にとっての最優先事項であり、そのためには現状のネルフ作戦部のありようがもっとも望ましいと考えているという点で、加山との認識は共通している。むしろ、自身の関わる国連内の政治的力学の悪影響を、極力現場に及ぼさないよう動いているといってもよい。キャリアのほとんどを野戦で過ごした将校であるだけに、そうした事柄が現場に容喙することの愚かしさを理解している。だからこそ、加山はこの男と手を組んだのだった。

「まあ、当面の調査は俺の方で進めておく。これでも本職なんでね。何かあれば情報は提供するよ、むろん。そちらはそちらで本職に精を出してもらえるとありがたい」
「了解しました。――ああ、ただ、一つだけ」
「何だい?」
「貴方のいう僕の本職にも関わることなんですがね」

 速水はもったいぶるように、皿に残ったシチューの最後の一掬いを口に運んでから、何気なくいった。

「エヴァ初号機、そしてその専属パイロットたるサード。――僕の勘が正しければ、彼らがキーです」

 

 

 碇シンジにとっての学園生活は、ますます望ましい方向に向かっているように思われた。
 その理由は他でもない、セカンド・チルドレンたる惣流・アスカ・ラングレーである。
 総本部着任から数日して、彼女もまた第壱中学の二年A組に転入してきたからだ。ミサトはちょっとしたサプライズのつもりだったのだろう、そのことについて事前に伝えるようなことはなかったが、当のシンジはいわれるまでもなく明快な推測を抱いていた。事は実に単純な話なのだ。金品であれ人間であれ、貴重品は一箇所にまとめて保管しておくに限る。

「やっぱ可愛いよなぁ」
「他とは土台が違うね、うん」
「しかもあれだろ? あの巨大ロボットのパイロットで、しかもすげぇ凄腕なんだろ?」
「天は二物も三物も与えるのかねぇ」

 今日も今日とてクラスの男子が囁き合う風評を鼓膜で拾いながら、碇シンジは苦笑を押し殺した。己の口にしていることが、それこそ具体的な根拠に欠ける崇拝であり、ある種の差別に他ならないということに、彼らはいつ気づくだろうか。そんなことを思う。
 いや、それこそ僕が言えた義理でもないな。彼は別種の苦笑を浮かびかける。
 惣流・アスカ・ラングレーという少女を綾波レイに並ぶ偶像に仕立て上げたのは、半ばは彼の仕業だった。といっても、具体的には彼女が来日の途上で使徒を秒殺したという事実を、適当に美化しつつ宣伝しただけだが。後は何をしなくとも偶像が膨れ上がっていくのを観察しているだけでよかった。
 何せ彼女は控えめに表現しても美貌に不自由しない少女であったし、性格については活発で勝気な――これまた控えめな表現を用いるならば、だが――、ごく自然に目立ってくれるキャラクターでもあったからだ。加えていうなら、無条件の敬意というものを快く感じるタイプであるらしかったので、偶像に仕立てるのは綾波レイ以上に容易で呆気なかった。
 かくして現在、校内の物見高い連中の風評は、惣流・アスカ・ラングレーで独占されているかのような印象すらある。綾波レイについては、あまりに孤高を貫いている印象が強く、誰もが噂の対象とすること自体をはばかっているようだ。ただ、数少ない噂話を分析するに、「何を考えているかわからない奴」という声が3あるとすれば、「黙々と戦地に赴く孤高の少女」という好意的な声が7ほどはある、といった具合で、周囲の受けは以前ほどに悪くはない。
 人類を護るため巨大ロボットを操り戦う二人の少女。まったく、大衆受けする構図だとしみじみ思う。何ともありがたいことに、自分は背景に描かれたその他大勢の一部として、慎ましく暮らすことができる。

「はーぁ、猫も杓子もアスカ、アスカか」
「見た目に惑わされて、おめでたいもんやな」

 机に頬杖をついて呆れているケンスケに、さらに呆れた表情のトウジが相槌を打つ。
 碇シンジと特に親しい彼らは、アスカの素顔を知っている。おかげで、他の同級生よりも冷静な視点で彼女のキャラクターを把握していた。まあ、シンジの紹介で初めて顔を合わしたときからして、「これがアンタの友達ぃ? 少しは友達選んだらどうなの?」などといわれては、好意的な印象を持てというほうが無理だろうが(アスカとしては単純に、ジャージを普段着にしているトウジやミリタリーマニアのケンスケが、かなり奇異な人種に思えたらしい。その第一印象については、あながち彼も否定できない)。

「ワシらは学校で顔合わすだけやけど、センセは大変やの。ネルフでもあれか、あの女はワガママし放題なんちゃうか?」

 と、彼にも話を振ってくる。

「惣流さんはあれで、面倒見のいい性格だよ。まあ、物言いで損をしている点はたしかにあるけどね」

 彼はいつものように、フォローを入れておく。ただ、内容そのものは決して虚偽ではなかった。役立たずと最初から判明している同僚に対して、アスカは奇妙に親切なところがあり、態度も柔らかかった。天才と謳われる彼女を、彼が常に立てる態度を示しているのも、これに一役買っているらしい。反面、綾波レイに対しては敵愾心を剥き出しにしてもいるのだが、そのような瑣末な事実を伝えるつもりは、彼にはない。
 それに碇シンジにはもう一つ、アスカに対して義理を果たすべき理由があった。

「センセはほんまに人間が出来とるな。しかしあの女、悪いけど根性ババ色やとワシは思うで」
「同感。ま、被写体としてはいい素材だってのは確かだけどさ」

 シンジのフォローを聞き流しつつ、二人はなおもこぼすようにいう。
 ちなみに、被写体としてはいい素材だというケンスケの台詞には、良くも悪くも実感がこもっていた。カメラを趣味にしている彼は、裏でアスカの写真――れっきとした隠し撮り――を売りさばいて小銭を稼いでいるのである。表沙汰になれば生徒指導室に呼びつけられる類の所行なので、シンジはもちろんタッチしていない。
 もっとも、ケンスケのこの「商売」は、男子生徒には結構な好評をもって受け入れられており、世間的には度を越したマニアそのものである彼をして周囲に数目置かさせる所以ともなっていた。それに、隠し撮りとはいっても、あくまで日常生活のスナップ写真的なものばかりなので(少なくともケンスケは、更衣室を盗撮して学生生活を棒に振るような馬鹿ではなかった)、露見したとしても警察が出張ってくるほどの代物ではない。きわどいものがあるとすれば、せいぜいが体育の授業時の運動光景というていどの不健全さである。いささか問題はあるにせよ、これはこれで相田ケンスケなりの処世術であるのかも知れない。
 さらに何事か、外見と内面の美醜の乖離についての何事かを論じようとした二人を、シンジは片手を挙げて制止した。
 今まさに、その話題の当人が教室に入ってきたからだった。

「Hallo,Shinji!」

 日本人ではありえない発音、そして自分が注目を受ける立場であることを十全に自覚した態度で、アスカは朗らかに挨拶してくる。
 対する彼はいつも通りの穏やかさで、

「おはよう、惣流さん」

 と、当たり前のように返した。一時は相手に合わせて英語で返した方がいいのかと思ったこともあったが、発音を馬鹿にされるのがオチだろうという結論にすぐに到達できたので、彼の挨拶はあくまで日本的な基準に準じている。
 アスカは全身から活力を発散しているような足取りでシンジに歩み寄り、ついでのように彼の級友二人を眺めやって、

「二馬鹿は相変わらず不景気な顔をしてるわね。もう少し身だしなみに気を使ったらどうなの?」
「余計なお世話じゃ。朝っぱらからそれかい」

 藪睨みに近い目線でアスカを見据えつつ、トウジは答えた。とはいえ、必要以上に剣呑な態度に見えず、険悪な雰囲気にもならないのは、彼独特のキャラクターといえる。

「妥当な忠告でしょうが。とりあえず、まともに制服くらい着てきたらどうなの?」
「やかましいわっ。ワシの服装にいちゃもんつける暇があったら、おのれは口の利き方いうもんを勉強して来いっ」
「あたしの物言いのどこに問題があるってーの!?」
「問題しかないわ、このボケぇっ!」

 朝から随分と元気なことだ――完全に傍観者として二人の掛け合いを眺めつつ、碇シンジはつらつらと思った。
 同じく傍観者に徹することに決めたらしいケンスケが、耳打ちしてくる。

「一応は、お互いに間違ったことはいってないんだろうなぁ……」
「まったく。お互いがお互いの言い分に素直に従えたなら、何も問題はなくなるんだろうね」

 まあ、それが容易くできるようなら、世の厄介事の九割は解決できるのだろうが。
 自分のことは棚に上げて腕組みをしているケンスケを横目で眺めつつ、碇シンジはとりあえず、「ちょっと手洗いに行って来るよ」と立ち上がった。ここ数日の経験から、退くことを知らないアスカとトウジの口喧嘩がヒートアップした場合、それは前者による実力行使で幕を閉じることが予測できていた。いうなれば戦術的撤退であった。

「くぉのジャージ馬鹿がっ!!」

 まったく完全に彼の予測通り――
 一見細身ながらマーシャル・アーツで鍛えられたアスカのボディ・ブローにより、体育は得意でもまったくの一般人であるところの鈴原トウジ少年が撃沈したのは、それからきっかり十五秒後であった。

 

 

 その日の夕刻、綾波レイがネルフ総本部のパイロット控え室を訪れたのは、まったくの必然であった。
 彼女はネルフが擁する三人のチルドレンの最初の一人であり、もっとも豊富な実戦経験を持つパイロットだ。かてて加えて、碇ゲンドウが主導するとある計画において、重要な位置を占める存在でもある。総司令部と作戦部と技術部と、ネルフの主要をなすあらゆる部門がそれに同意している。放課後及び土日の予定がネルフ関連の事柄で埋め尽くされることは珍しくもなかったし、総本部で過ごす時間は名ばかりのパイロットであるサードはもちろんセカンドと比較してもはるかに多い。
 そうした日常の必然として、実験と実験の合間にぽっかり空いたブランクは控え室で独り過ごすのも、綾波レイにとってはれっきとした任務であり義務でもあった。
 それは時に数十分から数時間に及ぶこともあったが、彼女に退屈を苦痛と受け取る習慣はない。大抵は黙然とベンチに座っているし、気が向けば詩集を開くこともある。
 だがこの日、制服のまま控え室を訪れた彼女が目にしたのは、珍しい先客の存在であった。それも、二名の。

「……あら、ファースト? あんたも実験?」
「お疲れ様、綾波さん」

 セカンド・チルドレンとサード・チルドレン。書類上は彼女の同僚となる彼らは、それぞれの個性に合った挨拶をしてきた。
 二人がここにいることは、特に疑問を覚える理由はない。レイほどではないにせよ、二人は二人で何らかの実験や訓練に従事する義務を負っている身だ。
 ついでに、アスカの方が自分を見るなり顔をしかめたのも、今更始まったことではない。レイにとっては不可解な心理だが、アスカは彼女に対して猛烈な競争意識を持っており、エースの称号に相応しいのは自分だと直接間接に主張してもいる。そんなにエースを名乗りたいなら勝手にすればいいのに、というのがレイの偽らざる本音である。実際、アスカの能力が、ことエヴァの操縦に関する限り自分をはるかに凌駕していることは、紛れもない事実としてレイも認めていた。
 それでもレイが一種の違和感を覚えたのは、二人が何かの本をベンチに広げて、向かい合う形で座っていたことだ。
 何とはなしに居心地の悪さを覚えつつ、それでも毎日のルーチンワークをなぞるように、独り離れたベンチに座る。
 アスカは「ふん」と鼻を鳴らし、シンジはいつものこととあっさり関心を無くした様子で、再び向かい合う。

「要するに、ここで論じられている形而上学ってのは、もともとは哲学なのよ。我々は一体どこから来たのか、ってね。この世界に生まれたものには何か理由があるはず、というのがその大元」
「いっちゃ何だけど、まさに哲学だね。存在に理由を求めるなんて、感傷的だな」
「ロマンといってやんなさい。実際あたしも暇なこと考えるなーとは思うわよ。でもまぁ、そうした根源を探りたいって考え方は、ある意味で科学の発展したそもそもの欲求でもあるからね。満更否定もできないわ」

 漏れ聞こえてくる会話に、レイはこれまた珍しいことに、ぴくりと反応してしまった。
 我々は一体どこから来たのか。生まれてきた理由。根源。綾波レイという自我を形作る要素の一部は、そうした単語を無視できなかった。
 半ばは無意識のうちに彼女は立ち上がり、音もなく二人に歩み寄っていた。
 横合いから覗き込む形で、二人が議題にしている本の文面を読み取る。
 ――形而上生物学。
 そんな単語が真っ先に目に入った。

「……それは、何?」

 問いかけた声は、自分で思っていたよりも鋭い響きを帯びていた。

 

 

「はぁ?」

 議論に熱中していたアスカが驚いたように顔を上げてレイを見つめた。もっとも、シンジの方では初めからレイの様子に気づいていたので、あっさりと答える。

「リツコさんから借りた本だよ。あんまりにも難しいから惣流さんに解説をお願いしてる」

 レイはうなずいた。
 彼がリツコから何冊かの本を渡されて読みふけっていることは――彼曰く「宿題みたいなもの」――、彼女も承知している。
 次いで、レイは何気なく(少なくとも本人はそのつもりだろう)、アスカに視線を向けた。

「何よ。あんたには関係ないでしょ」

 アスカはいつもの如く挑発するような口調で突き放す。
 これがなければ悪い人間でもないんだけどな――シンジは内心でため息をつきつつ、二人の少女の姿を窺った。
 自己を小市民的な一般人として定義している彼としては、使徒殲滅に携わる二人のパイロットには円満に協力し合って欲しいものだった。肩を組んで仲良くして欲しいとまではいわないが(世の中の人間すべてが朗らかに握手できれば世話はないと思える程度には、彼も世間を知っている)、あからさまに険悪なのはよろしくない。肩を組むまで行かなくとも、肩を並べて共同歩調を取ってもらわねば困る。
 幸いなことに、レイは特に気分を害した様子はなかった。アスカに向ける視線は冷たいが、これはいつものことだ。彼女には、相手の声音や表情で気分を害するという習慣がない。言葉の内容が事実に即していれば肯定するし、そうでなければにべもなく否定する。よくも悪くも裏がないのが綾波レイという人間だと、彼は認識していた。

「別にこの本だけじゃないよ。惣流さんには最近、いろいろと物を教わる立場でね」

 さすがは大卒、まったく勉強になるし、ありがたい――と、彼はどちらかというとアスカに向けてフォローを入れた。
 案の定というべきか、彼女が満更でもない表情を浮かべるのを、目の端で確認する。
 実際問題として、彼はアスカが教師役を勤めてくれるのを至極ありがたく感じていた。その点に関する限り、彼の言葉はまったくの本音であって世辞や社交辞令の類ではない。トウジたちにもいったことだが、高慢な物言いとは裏腹に、彼女は本質的に面倒見がよい性格だ。自身が正当に評価されている限りにおいては、その才能に見合うだけの度量を示す。
 もちろん、その面倒見のよさが、ある種の優越感の裏返しに他ならないことはシンジも承知していた。
 彼女が教師役を勤めるようになったきっかけからも、それがわかる。
 ―― 一週間ほど前。
 今ではネルフ内でもっとも馴染み深い部屋となった赤木リツコの執務室で、碇シンジは惣流・アスカ・ラングレーと対戦している。
 対戦内容は当然の如くゲームだった。最初にチェス、次に将棋、それからリツコの部屋のパソコンを用いたパズルゲーム。
 そのすべてにおいて、彼は完勝した。
 実のところ、彼本人は今後の安穏な生活のためにも故意にいくつか敗北しておく必要性を感じていたのだが、それを察していたリツコに先回りされたのだ。

『――手加減する必要はないわよ、シンジ君?』

 からかうような台詞ではあったが、彼はそれを一種の命令として受け取っていた。リツコの視線には、揶揄というには鋭いものが含まれていたからだ。
 どういう意図かは不明だが、リツコがそう望むのであれば、彼としては従うしかない。一介のチルドレンの機嫌と、ネルフ技術部の頂点に立つ幹部の歓心。どちらの価値が高いかは歴然としていた。
 結果は、いうまでもない。
 惣流・アスカ・ラングレーは十分以上に優れた知性の持ち主ではあったが、それはありていにいって秀才の域を出ていなかった。努力せずに何でもできる才能ではなく、努力を十重二十重に重ね続けられる才能で今を築いた少女だった。
 一度負け、二度目も負け、さらに三度四度と敗北に敗北を重ねることで、アスカの表情は険しさを増していった。人付き合いの如才なさでは、リツコはもちろんミサトすら舌を巻いた彼をして、これはもう友好関係を望むのは諦めた方がいいだろうかと思ったほどの、それは険悪さだった。
 敗北が二桁に達しかけた頃、アスカはもう付き合っていられないとばかりに、こう吐き捨てた。

『こんなのが得意でも、エヴァとシンクロできなきゃどうしようもないじゃない!』

 ……ま、その通りではある。
 内心で彼はまったく同意していた。パイロットとしての自分の才能にはとうの昔に見切りをつけていたので傷つく理由も見当たらなかった。
 もっとも、それを口に出すことは差し控えた。火に油を注ぐのがわかりきっていたからだ。というより、周囲と常に友好的な関係を維持してきた彼には、感情のままに激昂する相手への対処法の引き出しがさして多くない。せいぜい、この場はあやふやに誤魔化して撤収し、後日頭が冷えたところで適当におだてて関係を修復するしかないかと思いついた程度だ。
 しかし、リツコは違った。
 アスカとはまったく対照的な態度で、彼女はおもむろに冷水を浴びせかけたのだ。

『――たしかに、パイロットとしての才能とはまったく無関係ね』

 まったく冷然とそう断言した後、ネルフの技術部長こと赤木リツコ博士は碇シンジ少年がパイロットとしてはまったくの無能であることを説明した。
 ご丁寧にも実際のシンクロ率やハーモニクスの数字、その推移のグラフ、各種実験結果などなどを用い、結論がどんな馬鹿にもわかりやすいよう懇々と。それはもう、悪意がない反面、あまりに容赦のない解説であった。
 激昂していたアスカが、毒気を抜かれるどころか逆に鼻白み、シンジへ気の毒そうな視線を向けたほどだった(このあたり、感情的に過ぎる部分はあっても彼女は根本的に善人だった)。
 そうしてアスカが落ち着いた頃を見計らって、リツコはおもむろにこう切り出した。

『でも、気づいたでしょう。碇シンジ君――彼は、少なくとも演算に関わる分野においては、あなたを明らかに凌駕しているわ』

 あなたならわかるはずよ、とリツコはいい、アスカは沈黙した。
 天才ではなく秀才。努力し続ける才能の持ち主。しかし、知性に恵まれていることには疑いを差し挟む余地のない少女だ。
 それまでシンジと対戦したゲームすべてにおいて、自分が彼の掌の中で遊ばれていたこと――チェスの勝負でいえば、自分が十手先を読んでも彼がそのさらに二十手先を読んで駒を動かしていたことには、漠然とだが感じ取っていた。
 ことがエヴァに関わらない分野であったため、気づいてしまえば認め受け入れるのは困難ではなかった。
 複雑な色合いは幾分残しつつも、天才と謳われたセカンド・チルドレンは、無能と認定されているサード・チルドレンを見据え、変なところで見所あるわね、あんたは――と、素直でない表現で、彼の才能、少なくともその一部を認めたのだった。

 

 

 碇シンジはつくづくと思い出す。
 理系の博士号持ち、それも天才とまでいわれた技術者・科学者と来れば、対人交渉においては疑問符がつくというのが世間一般の偏見だが、赤木リツコはそれを裏切る大した役者だった。
 演出と舌鋒と数字の羅列で、リツコはアスカを自分のペースに巻き込み、しかも最後には碇シンジの教師役となることすらアスカに承知させたのだった。さながらシナリオをなぞるようにとんとん拍子に話が進むのを、当事者であるはずのシンジが呆気に取られて見守る他なかったほどの、それは鮮やかな手口だった。
 実用主義の徒で知られる彼女には珍しい回りくどいやり口ではあるが、これはおそらく「趣味だから」なのだろう。短い付き合いではあるが、リツコの性格を彼もいくらか理解しつつある。徹頭徹尾ロジックに徹しているようで、意外にロマンチストなのだ。あるいは激情家と評してすらいいかも知れない。観察と洞察で対人関係を築いてきた彼は、赤木リツコが実際には危ういほどの感情を内包した人格であることを、薄々だが感じ取っていた。今のところ彼に向けられている感情は、少なくともマイナスの方向に向いているわけではないようなので、今後ともそうありたいものだとも思っている。
 まったく、どうやら僕の日常は望ましい方向に向かっている。
 碇シンジはそう実感する。
 巨大ロボットのパイロットになれなどといわれたときには処刑宣告をつきつけられた気分だったが、それもどうにかここまで持ち直した。
 友人関係は良好。何をしているわけでもないが、とりあえず後々有効活用できそうな肩書きもあるし、給料も出ている。葛城ミサトは理想的に近い上司のようだし、赤木リツコは(自分の何を気に入ってくれたのかはいまいち不明だが)好意的に接してくれる。綾波レイはいちいち気を使う必要のない無害な相手だし、惣流・アスカ・ラングレーはコツさえつかんでおけば実に扱いやすい同僚兼教師役。
 まったくもって、望ましい。
 一番望ましいのは、ネルフだの使徒だのには関わらず、もといた街で養父母と共につつがなく生活を続けることだったが――今更それをいっても仕方がない。僕は僕でせいぜい小賢しく立ち回るだけ。
 碇シンジは心底そう思っていた。
 だから、その後に再開されたアスカとの「授業」の最中、綾波レイが無言で自分たちを見つめていることにも、まったく気づいていなかった。気づいていたとしても、いちいち気に留めなかっただろう。
 綾波レイは無害な少女。気遣いをして見せるのは、人前だけで十分。もちろんこの場にはアスカもいるわけだが、そのアスカはレイを積極的に無視したがっている。ならば尚更に、レイに余計な気遣いを見せるのは、アスカへの対応としては褒められたものではない。
 彼にとってはまったく完全に当たり前の。
 ただそれだけの、ことだった。

 

 

 薄暗い部屋、重厚だが簡素なデスクで、男はいつものように口の前に組んだ手で表情を隠していた。色付きの眼鏡もまた、人がましい表情というものを消すのに一役買っていた。
 赤木リツコはいつも思う。
 表情を隠そうとするのは、やましい気分を抱えているからというのが定説だ。しかし、この男にだけはあてはまらない――誰もがそう思うだろう。この世の何物に対しても倣岸で不遜で、ただ冷酷に目的を果たす。やましさなどという女々しい感傷は一欠片もない。
 しかし、現実のこの男――目の前にいる自分の上司にして愛人でもあるこの男が、決して世間でそう思われるような鋼鉄の巨人ではないことを、リツコは知っていた。
 例えこの世界すべてを裏切りつつも、この男は揺るがない。それは自分の正しさを確信しているからではなく、己がいずれ罰せられる存在であることを知り抜いているからだ。自分が奈落に向けて堕ち続けていることを、この男は知っている。いや、自ら望んで堕ち続けている。
 いずれ自分が砕けて散ることを十全に知りながら、その瞬間にただ一つの儚い望みをかなえるために、この男は生きて動いている。
 救いがないのは、男にある種の才能が――世界そのものを巻き込めるだけの才能があったこと。ただ、それだけ。
 それに付き合う自分も、やはり救いがない。
 先がないことを十全に知りつつ、今もまた、自分の本来の意思に反する所業に手を貸している。

「――これが、暫定的なプランです」

 赤木リツコはクリップ留めされた書類の束を、デスクの上に差し出した。
 第十四次甲種適格者矯正計画草案――
 書類の一枚目には、そう表記がある。
 デスクの主、碇ゲンドウは無言のままに書類に目を通す。ぱらぱらとめくるだけのような、読んで理解しているとは到底思いがたい無造作で素早い動作だったが、この男の知性と知覚力ならそれで十分であることを、付き合いの長いリツコは知っている。
 数十秒で一センチ近い書面の束すべてに目を通してから、碇ゲンドウはぽつりといった。

「……以前に検討したときより、随分と手順を踏んだものになっているようだが」

 特に皮肉めいた響きはなく、単に確認しているだけといった口調だったが、リツコはそれでも背筋にわずかな緊張が走るのを感じた。
 もちろんそれを表に出すことはなく、彼女はいつも通りの学者然とした顔で答える。

「ただのパイロット候補を矯正するのとはわけが違います。彼は今や、替えの利かない人間ですので」

 パイロット、ではなく、「人間」と表現した自身に、リツコは気づいていなかった。
 碇ゲンドウはやはり無表情のままに、淡々とうなずいた。

「反対する理由は何もない。可能な限り早期に、サードをパイロットに仕立て上げたまえ、赤木博士」

 

 

 続劇


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後書き
 ようやく。まさにようやくのことでアップした「少年期」。
 書いてますアップしますといい続けて幾星霜、まさかこれほど間が空くとは七瀬自身も思いませなんだ。
 皆々様には「書く気がないのか七瀬由秋」「てめー遅筆にも程があるぞこのヤロウ」とやきもきさせましてまったく申し訳ありません。
 ともあれ。ペースが遅くはあっても書き続ける気は失っておりませぬので、何卒ご容赦の程をm(_ _)m
 ではではー。

 

 

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