私は私として生まれ、彼は彼として生まれ、そしていつしか一つの事象となった。
 回り回る回転舞台の上で抱き合い殺し合い愛し合い憎み合い終わりのないダンスを踊る。
 狂ったように壊れるほどに、永遠という言葉の意味も知らぬままただ踊り続ける。
 始まりがいつであったかなどとうに忘れ果てた。
 幾度くり返されたかなどいちいち数えてもいない。
 ただ、始まりから今に至るまでずっとこの身を支配する情動だけを、私たちは糧にしている。
 愚行と呼ぶなら呼べばよい。
 無価値と断ずるならばその通りだ。
 意味を問うことの無意味は身に染みて知っている。
 私たちはただ、馬鹿みたいに同じことをくり返し、そしてそれに飽きることはない。

 

 

 

 

 

 

 Engage

七瀬由秋



 

 

 

 

 

 

『…………っっ』

 プラグ内を映し出すモニタの中で、彼は喉が痙攣したような笑みを浮かべていた。
 ミサトとリツコは眉をひそめる。

「シンジ君……?」

 気遣わしげにミサトは問いかける。
 彼女の不安には理由があった。
 ここは第参新東京市ジオフロント、ネルフ本部――そして今は、地上で第三使徒が暴れ回っている、人類存亡の時。
 彼、碇シンジは、臨時徴集のパイロットだった。
 つい数時間前まで何も知らぬ普通の中学生だったのだ。
 緊張と不安と恐怖とに耐えかねて情緒不安定になったところで、不思議はない。

『――そうか』

 しかし今、少年が浮かべたその表情は、緊張とも不安とも、ましてや恐怖ともかけ離れた――あえていうならば、恋焦がれた女とやっと出会えたような、そんな表情だった。
 彼はモニタの中から発令所を睥睨し、

『そうか――今回は、ここからか……はは』

 わけのわからないことを呟いて、ただ笑い続けた。
 ミサトはある種の予感に満ちた視線をリツコに送る。
 科学者は慌てて頭を振った。

「まだ神経接続もしていないのよ? 精神汚染も何もありえないわ」

 囁くような返答。
 だが、誰も彼もが唖然とモニタを見つめている間に、事態は急変した。

「なぁっ!?」

 どこからか轟音が響く。
 揺れも感じる。
 そして、少年は笑う。
 気が触れたような、歓喜に満ち溢れた顔で。
 次の瞬間、マヤの悲鳴のような報告が発された。

「回路接続……神経接続開始……? な、なにこれ……か、勝手にシンクロが始まってます!!」

 ありえない報告に、ミサトは呆然と立ちすくんだ。

「!? そんな馬鹿な……!!」
「シンクロ率40……60……80……99……まだ上昇してます!」
「な、何だ、一体……!? メーターが滅茶苦茶です! 測定不能!」
「シンジ君!!」

 ミサトは悲鳴のような声で呼びかける。
 彼はぎょろりと、爬虫類を思わせる目つきで睨み返し、そして甲高い笑い声を響かせた。

『初号機はここに、僕はここに在る……! 素晴らしい、手間が省けた……!!』

 音程の狂った声でそう叫んで。
 その次の瞬間、スピーカーの可聴域を越える号音が周囲に轟いた。
 そして、発令所自体を揺るがす一際大きな震動。
 ミサトとリツコは手近なオペレーター席の背もたれにしがみつくことでかろうじて体を支えた。
 使徒の攻撃か。とっさに思ったミサトの推測は、オペレーターの一人の報告によってかき消された。

「しょ、初号機が……!」

 

 

 不幸にしてケイジに居合わせた作業員たちは、自分たちが死んだことすら気付かないうちに全滅していた。
 初号機が瞬時に展開したATフィールドで圧殺されたのだ。
 球形に広がったフィールドは無形の爆弾と化し、半径五十メートルの空間を綺麗に押し潰し、圧壊させた。
 真紅に輝く球体の中心で、紫色のエヴァンゲリオンの腹の中で、碇シンジは高らかに笑い続けた。
 頭の中で脳内物質が踊っている。
 細胞の一つ一つが猛り狂っている。
 ただの錯覚ではない。
 今この瞬間にも、猛烈な勢いで体細胞が造り直されているのだ。
 この体に満たされた魂に合わせて、器の方が変質している。

 

Freude! Freude!
喜びよ! 喜びよ!

 

 昂揚した気分のままに、歌を紡ぎ出す。
 はるか昔、彼の親友だった少年が好んだ曲だ。
 ために、ほんのわずかな間だけではあったが、繰り返し何度も何度も聴いていた記憶がある。
 親友と、少しでも心を通わせたくて。
 今となっては、自分にそのような可愛げがあったのが信じられないほどだが。

 

Tochter aus Elyisium.
楽園の娘よ

 

 心から愉しげに彼は歌を紡ぐ。
 フラッシュバックするように過去の思い出が次々と甦ってくる。
 積み重ねられた記憶は瞬時に飽和に達し、脳髄を燃やした。

 

Daine Zauber binden wieder was die Mode streng geteilt.
其の力は離されし者共を再び結び付ける

 


 その身を突き動かすただ一つの情動、その根源を再確認し、彼の歌声はさらに高くなる。

 

Freude! Freude! Freude! Freude! Freude!
喜びよ! 喜びよ! 喜びよ! 喜びよ! 喜びよ!

 

 途中からは原詞のままに歌うのが面倒になり、ただ自らの心をそのまま表す言葉だけを繰り返して。

「……………………ふぅ」

 そして不意に、醒めたように彼はため息をついた。
 体の変成はおさまりかけている。
 ヒトから、そうでないものへと。
 つま先から髪の毛一本に至るまでヒトでなくなって、すべては安定へと向かう。
 体内の反応が治まるにつれ、思考は集約し、感情は集束し、果たされるべき目的を想起させる。
 碇シンジは束の間、老人のような仕草で目を閉じ、それから気を取り直したように微笑を浮かべた。

 

 

 何が起こっているのかさっぱりわからなかった。
 緊急事態を告げるアラームの中、オペレーターがケイジの全壊とさらなる破壊の継続を伝えた。
 驚愕を通り越した思考停止に陥りそうになる自分を懸命に叱咤しつつ、ミサトは声を張り上げた。

「状況確認! 初号機と――それと上の様子は!?」

 怒鳴りつけるような命令に、オペレーターたちが鞭に打たれたように背筋を伸ばし、端末に向かい始める。

「使徒、依然として市街地を進行中」
「プラグとの通信は完全に途絶しました。向こうから切っているようです」
「死傷者不明。現時点で連絡の取れない者が約七十名います」

 まったく救いのない返答ばかりが飛び交う中、ミサトは親の仇でも見るような視線でリツコを見据えた。

「――どういうこと? あの子は一体何者なの?」

 当然の問いかけであったが、リツコは呆然と首を振った。

「わからない……本当にわからないのよ。何故こんなことが起こるのか……」

 二人の女は視線を転じて、司令席に座する彼女たちの上官を見上げた。

「………………」

 しかし、彼女たちの視線の応えたものは、彼女たち以上に自失したネルフ総司令の姿であった。
 誰にも心を開かず、誰からも恐れられる総司令は、このときまさに彼女たち以上に混乱していたのだ。
 ――何が起こった? 何が起こっている?
 十年も前に捨てた息子、三年ぶりに顔を合わせたあの息子に、一体何があったというのだ?
 ……まさか、これが報いだとでもいうのか……?

「8091番のカメラが初号機を捉えました! 主モニタに回します!」

 新たな報告に続いて、メインモニタの大画面に一つの映像が浮かび上がった。

「………………!!!」

 声にならない呻き声がそこかしこから漏れた。
 テストタイプ・エヴァンゲリオン初号機。その姿が、ピラミッド状のネルフ本部施設のすぐ側に浮かんでいた。
 紫色の装甲で鎧われた巨人の背には、真紅に輝く六対の翼が生えている。ある種の昆虫類を連想させる、淡く輝く半透明の翼。それはどこまでも美しく、同時にとてつもなく凶々しい。
 しかもそれは、明らかに飾りではなかった。
 映像の中で、初号機はゆっくりと浮上する。
 自重がないかのように悠然と、緩やかに、宙を舞い上がって行く。
 ジオフロント天井部を構成する装甲板は、それが触れるはるか手前で崩壊していく。
 超高出力のATフィールドがすべて叩き壊しているのだ。
 地上でN2兵器が使われてもびくともしなかった二十二層の装甲板を、卵の殻のように粉砕し、それは地上へと地上へと近づいて行く。
 ゲンドウも冬月も、ミサトもリツコも、そしてもちろん他の職員たちも、唖然として声が出ない。
 カメラが切り替わる。
 初号機はついに地上へと到達していた。
 ジオフロントより力強く羽ばたく異形の天使。
 満点の星空の下、それは解放の喜びを称するかのように、六対の翼を大きく広げて見せた。
 ――轟音。
 羽とともにATフィールドもまた広がったのか。
 初号機を中心に、半径十数キロの空間が跡形なく削り取られる。
 つい先刻までネルフの最大の敵であった使徒――第三使徒サキエルもまた、その惨禍に巻き込まれていた。
 人類科学の生み出したどの兵器にも耐えぬいたその生命体は、ただの虫けらのように呆気なく消滅していた。
 だが、誰もそのことに気付かない。
 発令所の誰もが、自分たちの矛であり盾であったはずの巨人の姿に眼を奪われていた。

『――エヴァ初号機よりネルフ総本部へ。せめてもの、そして最期の礼としてこの通信を送ります』

 途絶していたはずの通信回線が息を吹き返したのはそのときだった。

「シンっ……」

 ミサトが応じる間もあればこそ。

『本機はこれより独断専行致します。もう二度と会うことはないでしょうが、あなたがたの幸運をお祈り申し上げます』

 ひどく慇懃に、しかし一方的に宣告して。

『生きるも滅びるも好きにして下さい――後悔だけは、ないように。では、失礼』

 冷酷な一言を最期に残し、それきり通信は沈黙する。
 もはや呻き声すらあげる者もいなかった。
 ただ彼らは、夜空に羽ばたく紫色の天使の遠ざかる背中を、ずっと見守っていた。

 

 

 その少女はしばしの沈黙の後、ベンチから立ち上がっていた。
 はるか東の空を見つめ、嬉しげに微笑する。

「アスカ、もう大丈夫なのか?」

 近くの自販機まで飲み物を買いに行っていた加持リョウジが気遣わしげに問う。
 彼女は振り返って、満面の笑みを浮かべた。

「大丈夫かって? うん、もちろんよ、加持さん」

 弾むような口調でそう応えて。
 少女は堪えかねたようにくすくすと笑い始めた。

「お、おい……」

 加持はどう判断していいものか困ったように眉をひそめた。
 この少女と買い物に出て――彼女いわく「デート」――、途中の公園で唐突に彼女がうずくまってしまった、それがほんの数分前だ。
 ただごとでないのは見ただけでわかった。素人目にも呼吸が荒く、脈拍が異常に高まっていたのだ。
 正直、医療班に連絡すべきか迷ったほどである。
 ……しかし現実として、今彼女は小犬のように溌剌と、歓喜もあらわに振る舞っている。見る限りにおいて健康そのもの、否、これほど元気な彼女を見たのは初めてかも知れないとすら思える。
 当惑する加持に委細構わず、彼女は歌うような口調でいった。

「もう、すごくいい気分……今ならこの世界をまるごと叩き潰すくらい鼻歌混じりで出来そうよ?」
「……それは困るな。アスカは世界を守るチルドレンだろ?」

 加持はかろうじて苦笑しつつ、この少女が日頃自負しているその称号を口にする。
 彼女は吹き出した。

「世界? 守る? あ、そっかー、私ってばそーゆーものだったっけ」
「アスカ……?」
「あはは!」

 彼女は笑いながらステップを踏み、踊るようにくるりと反転して、「憧れの加持さん」を見上げた。

「ねぇ、加持さんはミサトの恋人なのよね?」

 唐突な問いに、加持は声を詰まらせた。
 先月、ドイツ支部から本部へ転属して行った女との関係は、アスカにはまだ話していないはずだった。
 ミサトの方からぺらぺら喋ったとも思えない。
 まあ、秘密というほどの秘密でもないから、誰かに聞いたということも十分ありうる。
 しかし、こうも明るく問い質されるとは、あらゆる意味で予想外だった。

「……まあ、そうなんだが」

 歯切れ悪く応えた彼に、アスカはふんふんとうなずき、

「ね、一つ訊いていいかな」
「……なんだい?」
「やっぱり加持さんも、『こいつのためなら世界なんてどうなってもいい』とか思えた?」
「…………」

 加持はしばし沈黙した。
 アスカの様子がおかしい。そのことが今の問いではっきりした。
 惣流・アスカ・ラングレーは、勝気な反面、どこか張り詰めた危うさも持ち合わせた少女だった。
 完璧な大人たらんと必要以上に気張っていた、とでもいうのだろうか。
 あるていど心を開いた加持に対してすら、その癖は抜けていなかった。いやある意味で、彼の気を引くために尚更「大人の女」を演じていた節がある。
 完全に肩の力を抜いてあけすけな問いを重ねてくるなど、逆にありえない。
 だが――そのありえない姿にこそ、生気と活気が満ち満ちているのは皮肉というべきか。

「……まあ、それに似たようなことも、思ったことはある」

 用心深く、加持は答えた。
 アスカは「そっか」と笑い、

「ね、加持さん。一つだけ忠告しておいて上げる」
「……忠告?」
「そ。――ドイツから、いえ、ネルフから離れた方がいいわ。ミサトを連れて、どこか山奥にでも隠れていた方がいいかもね。アダムとかゼーレとか、みぃんな忘れちゃってさ」
「…………!」

 何気ない台詞には、どうしても聞き逃せない単語が混じっていた。

「これは、かつてあなたに憧れていた少女としての、せめてもの忠告。出血大サービスもいいところよ?」

 ―― 一体、この少女は何を知っているのだ?
 かつてなく眼差しをきつくして、睨むように見つめる彼の前で、アスカはただ愉しげな微笑を浮かべて見せた。
 鳴動立てて地面が揺れ始めたのはそのときだ。
 まるで少女の微笑に呼応するかのようだった。

「LaLaLa……」

 抑揚のついた囁きがその唇から漏れる。
 初秋の空の下、少女は芝生の上にワルツを踊る。
 揺れ始めた地面のことなど意に介さず。
 くるり、くるりと反転し、抜けるような青い空に向けて両手を伸ばす。

 

You owe me ten shillings , Say the bells of St. Helen's
十シリング貸したとセント・ヘレン
When will you pay me? Say the bells of Old Bailey.
いつ返すんだとオールド・ベイリー

 

 歌いながら踊り、踊りながら歌う。
 軽やかに舞い歌う彼女はどこまでも美しく、可憐だった。

 

When I grow rich , Say the bells of Shoreditch.
返せる時さとショアディッチ

 

 少女の背中に広がる空に、加持は見た。
 蒼天に浮いた染みのような一つの点。

 

Pray when will that be? Say the bells of Stepney.
きっとだぞとステップニー

 

 淡い紅に輝くその点は、見る間にどんどん大きくなってくる。
 ――否、近づいてくるのだ。

 

I do not know , Say the great bell of Bow.
俺は知らんとボウが云う

 

 点であったものは、ほんの数秒足らずで塊として視認できるほどになっていた。
 直径数十メートルの紅の光球に覆われて、巨大な影が蠢いている。
 爛々と光る目で、こちらを――惣流・アスカ・ラングレーを見つめているのだ。

 

Here comes a candle to light you to bed,
寝床のあなたを照らす蝋燭が来た

 

 加持の全身が警鐘を発している。
 あれは、何か良くないモノだと。
 大地の鳴動も危険な水準に達していた。
 地震がさして珍しくない日本生まれ、加えて諜報員として訓練を受けた加持ですら、立っているのが精一杯。
 理性と感情の双方が、この場から逃げるべきだと叫んでいた。
 しかしそれと知りながら、加持は目の前の少女から目を離せないでいた。

 

Here comes a chopper
あなたの首を落とすため

 

 空と地の狭間で、なお鮮やかに舞い踊り。
 叫ぶように最後の一節を唱える赤毛の少女の背後の光景が――

 

to chop off your head !!
首斬り人がやって来た!!

 

 ――紅い光によって埋め尽くされた。
 凄まじい轟音と震動。
 とっさに顔を覆った加持リョウジは、しかしあるべき爆風がそよ風ほどにも吹きつけてこないことに気付いた。
 恐る恐る腕を下げる。
 周囲の様相は一変していた。
 どれほどの質量がどれほどの速度で落下してくればこうなるのか。
 閑静な公園は半ばが吹き飛び、クレーターと化していた。
 衝突の際に生じた熱量で発火したのか、方々で木々が燃え盛っている。
 だというのに、どうしたことか。
 惣流・アスカ・ラングレーと加持リョウジの周囲だけが、芝生も青々とそれまでの姿を保っていた。

「やって来た! やって来た! やって来た! 来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来た来たぁぁぁぁぁ!!」

 歌声はいつしかただの狂った音程に変わっていた。
 待ち焦がれた恋人を迎える表情で、彼女は叫んだ。

「大気圏から一気に突っ込んできたわけぇ!? 相変わらずやることなすこと無茶苦茶なんだから――こぉのバカシンジ!!」

 

 

 爆心地の中心にうずくまる巨体に、加持は見覚えがあった。
 エヴァンゲリオン初号機。
 今頃は第参新東京で一戦交えているはずのあの機体が、何故この場に在るというのか。
 加持リョウジにはまったく判断できなかった。
 ――膨大な熱量でぼやけた空気の只中を、一人の少年が歩いてくる。
 芝生も何もかもがめくり上げられた地表を踏みしめ、ただ悠然と。
 彼の顔にも、加持は見覚えがあった。直接の面識はないが、先日入手した資料で写真を確認している――サード・チルドレン候補、碇シンジ。

「――やぁ」

 彼は、まるでそれがありふれた街角であるかのように親しげに、目の前の少女に――惣流・アスカ・ラングレーに向けて会釈した。

「久しぶり、アスカ? 会いたかったよ」
「私も……すっっっっごく会いたかった!」

 アスカは感極まったような声でそれに応じ、小走りで彼に駆け寄る。
 数メートルの距離まで近寄って、軽快にジャンプ。
 ぽす、と軽やかな音とともに、彼は彼女を抱きとめた。

「派手な登場してくれちゃって。お気に入りの公園だったのよ、ここ?」
「いてもたってもいられなかったんだ」

 碇シンジは困ったように肩をすくめ、それから首を巡らせて周囲を見つめた。紫色のエヴァンゲリオンの落下で荒野と化した、ドイツの大地。
 熱された空気を切り裂いて、初秋の涼やかな大気が鼻をくすぐった。

「ああ、来るのは久々だけど、ドイツはやはりいい所だね。もう少し着地に気をつけるべきだったかな」
「そうそう。覚えてない? いつだったか、ここでピクニックしたこともあったじゃない」

 甘えるようなアスカの台詞に、加持は麻痺しかけた頭で疑問を覚えた。
 サード候補がドイツに来たなどという事実は知らないし、アスカが彼と知り合っていたという事実もありえないはずだった。セカンド・チルドレンに登録されて以来の彼女の交友関係は、すべてネルフが把握している。
 碇シンジは首を傾げ、ややあってからうなずいた。

「そういえばそういうこともあったっけか。懐かしいね」
「でしょう? あたしの思い出ベスト10に入る場所なのよ、ここは」
「そっかそっか」

 シンジはうんうんとうなずいた。

「それなら……」

 その口元がにこやかに笑う形に吊り上がる。

「死に場所としては文句ないだろ、アスカ?」

 語尾に、頭をもたげた初号機がATフィールドを発動する、鈍い音が響いた。

 

 

 加持の想像を絶する光景だった。
 碇シンジのすぐ目の前、すなわちアスカが今しがたまで立っていた空間に、巨大な赤い壁が突如としてそそり立ったのだ。ただ見たままをいえばそういう他はない。
 その壁が何なのかも知っている。ATフィールド――エヴァと使徒のみが展開可能な、絶対の防御壁だ。
 しかし、プラグに搭乗せずして、しかもこれほどピンポイントに位置を指定して展開するなどと、そんなことが可能だという話は聞いたことがない。
 周囲には濛々たる土埃が舞っている。
 地面は深く抉れている。
 フィールドはただそそり立ったのではない。地面に思い切り叩きつけられたのだ。

「アスカ!」

 加持は絶望的な気分で叫んだ。
 通常兵器を一切受けつけない無敵の防御壁、ATフィールド。すなわち、いかな圧力・衝撃にも耐え得るこの世でもっとも強固な物質が、一種のハンマーと化して叩きつけられたのだ。
 人体など、トラックに踏まれた蛙のようにへしゃげ、潰される……

「はは!! 呆気ないよねぇ、アスカぁ?」

 碇シンジはタガが外れたように笑い転げていた。
 正気の欠片もない、まごうことなき狂人の仕草。加持は震えるほどに唇を噛み締めて彼を睨んだ。
 この少年がアスカとどう知り合い出会ったかは知る由もない。
 だが、愛しげに抱き締め、親しく言葉を交わした次の瞬間に、笑いながら惨殺する、などと。
 許されることでは、断じてない。
 だが、「想像を絶する光景」には、いまだ続きがあった。

「あははは!!」

 碇シンジのそれと同質の――あるいはさらなる狂騒を含んだ笑い声が響き渡る。
 聞きなれた声の、しかし聞いたことのない響きのその笑い声に、加持は背筋が震えるのを感じた。

「詰めが甘いのは相変わらずねぇ、バカシンジぃ!?」

 さしものシンジすら驚愕に顔をしかめるその眼前で、ATフィールドの突き立った地面が隆起した。

「!」

 まるで噴き上がるマグマのように。
 赤い装甲に鎧われた腕が地中から突き出され、固められた拳がシンジに直撃した。
 ピンボールのように少年の体が宙を舞う。
 十数メートルの空間を吹き飛び、背後に控える初号機の足元でかろうじて態勢を立て直したとき、それは地中から姿を現していた。

「エヴァ弐号機……!」

 忌々しげな少年の声と、呆然とした加持の呟きが重なった。
 土埃を巻き上げて、真紅のエヴァンゲリオンが身を起こす。
 天空から降り立った紫色の悪魔に抗するが如き、地中より蠢き出でる紅色の巨人。
 エヴァ弐号機。ドイツ支部が開発した初の制式タイプ・エヴァンゲリオン。
 加持はただ呆然とその勇姿を見つめていた。
 あの機体が、何故この場に、このようにして現れる。馬鹿な。
 まさか、まさか。
 あの地面の鳴動は、これが地中を掘り進んでいたからとでもいうのか?
 加持の目は、土埃すらも従えるように立ち上がるエヴァ弐号機、その右肩に吸い寄せられた。
 そこが小春日和の公園のベンチであるかのように、一人の少女が腰掛けている。

「愉しい! 愉しい! 愉しい! もうイッちゃいそうなくらい――ヤバいくらい愉しい!! もっとイかせてよ、シンジぃ!!」

 少女の叫びに応えるように弐号機が動き出し、紫色のエヴァが迎え撃つ。
 正面から組み合い、せめぎ合う。

「天国地獄突き抜けた世界へイかせてあげるよ、アスカぁ!!」

 少年はやはり初号機の肩の上に陣取り、少女を睨み据えていた。
 大気に唸り声を上げさせながら巨人の拳が殴り合いを演じ、地面を捲りあげながら蹴りが放たれる。
 ――これは、一体何だ。
 まるで悪夢のようなその光景に、加持リョウジは急速に現実感が失われて行くのを感じていた。
 沈着にして不羈なその精神が、あまりの過負荷に悲鳴を上げている。
 何だというのだ。
 俺は一体、何を見ている?
 あれは――朗らかな殺意をたたえたあの少年は――愉悦に狂ったあの少女は―― 一体何だというのだ!?
 吹きつける暴風、揺るぎ続ける地盤、舞い上がる砂塵。その只中で争い続ける二人の巨人と二人の子供。
 加持は視界が急速に暗転するのを感じた。
 鼓膜にはしかし、風の唸り声すらも圧する二つの笑い声が響いている。
 ――冗談はよしてくれよ。なぁ、葛城……
 熱に浮かされたように胡乱な頭で、加持リョウジはかつての恋人にすがるようにそう呟いた。
 やがてその意識すらも希薄になる。
 狂った現実が感じ取れなくなっていく。
 だが、それが心地いい。
 加持リョウジはおそらく、生まれて初めて意識を手放す感覚を喜んでいた。

 

 

 ……空が乱れようと、陸が割れようと、時間だけは公平に流れていく。
 ヒトがいかにその瞬間を永劫のように感じようが、時計の針は規則正しく時間を刻み、日は移ろい行く。
 幼児のように駄々をこねたところで、陽は沈み、また昇る。
 生きるためにヒトは食わざるを得ないし、滅びを厭うならば立ち上がる他はない。

「――過去十五年間に遡り、あらゆる記録を調べましたが、見るべき情報は皆無です。サード、そしてセカンド。両名ともに何らかの組織・人物の接触を受けた形跡はありません」

 執務室の薄闇の中、赤木リツコは淡々と報告した。

「初号機及び弐号機に関しても同様です。初号機はいうまでもなく、ドイツ支部の全職員に尋問を行いましたが、弐号機に何らかの異常があったという報告はまるでありません。考えられる原因としては、やはり精神汚染による発狂しかないでしょう」
「…………」

 黙然と聞き入る碇ゲンドウの容貌に、往時の精彩はない。
 常軌を逸した原因不明の事態で初号機を失って以来、この総司令はほとんど虚脱状態にあった。
 罷り間違えば、彼が十年に渡り悲願としてきた計画が潰えるかも知れないのだ。
 ……いや、現実は、もうその望みは潰えたと判断すべき段階に入っている。

「……初号機は……今は、どこに?」

 掠れた声で反問が返って来た。
 リツコは努めて表情を殺し、

「東欧で今なお戦闘継続中の模様ですが、詳細は不明です。ご存知でしょうが、あの二機の戦いの場にはおいそれと近づくこともできず、といってATフィールドのために監視衛星の画像も不鮮明ですので」

 ばかばかしささえ感じながら、淡々という。
 もうそんなことにこだわっている場合ではなかろうに。そう思う。
 まあ、虚脱状態の総司令をよそに、全権を委任された葛城一尉の下、職員が一丸となって奮闘しているのだから、釣り合いが取れているといえばその通りなのかも知れない。
 実際、ミサトはすでに使徒殲滅だけが最優先事項と割り切り、今リツコたちが話題にしている事柄について頭を悩ますことを放棄しているようだ。
 あの悪夢の一日以来、絶望的とすら思えた劣悪な状況下でミサトは文字通り奮戦敢闘し、すでに第五使徒までも屠ることに成功している。
 逆境に陥ることで、かえってその才能が極限まで発現したというべきだろうか。むろん相応の被害は被っているとはいえ、驚くべき戦果である。
 それまで作戦部に非協力的であった諜報・技術などの各部局も、頼りにならない総司令に見切りをつけ、葛城ミサトの指揮下でかつてないほど精力的に運営されている。
 かなり皮肉なことだが、あの悪夢の一日は、ネルフをゼーレの政治的束縛から解き放ち、純軍事的な対使徒迎撃機関として再生させるきっかけになったともいえるだろう。
 リツコ自身、技術部長として多忙を極める毎日を過ごしているが、それは不思議に充実した日々でもあった。
 理由もはっきりと自覚できる。
 重荷が失せた。つまりはそれだけだ。
 あの女の魂を宿した初号機が消え去り、今また碇ゲンドウの影響力もネルフから失せつつある。
 ただの科学者として、人間として、純粋に忙しい毎日を過ごすというのは、それだけで妙に心弾むことだった。
 忘れかけていた学生の頃の感覚――己が才能を伸ばすためただ学び、考え、将来を夢見たあの頃の感覚。
 それを、赤木リツコは思い出していた。

「――司令。一つだけ申し上げます」

 ため息を一つついてから、リツコは口を開く。

「葛城一尉は明日を目指すために必死で今日を生きぬき、そしてネルフはその彼女の下で一つに纏まりつつあります。その中で、あなただけがこうして昨日にこだわっている……碇ユイ博士が目指していたものが何であったか、あなたが一番よくご存知のはずです」

 物言わぬ愛人に向けて、彼女は優しく諭すようにいった。

「……私は私のなせること、なすべきことを思い出せたように思います。そして、それはあなたにもあるはずです。そのことを、忘れないで下さい」

 

 

 炎上する街の只中で、それは飽きることなく殺し合いを続けていた。

「砕け散れ!」

 少年の号令と同時に、紫色の巨人からATフィールドの塊が放たれる。

「あっまーい!!」

 応じた少女の叫びとともに、紅色の巨人が刃の如きATフィールドを展開。巨大なハンマーの如き面状のフィールドを切り裂き、霧散させた。
 しかし、それが防がれることは既に折込済みだ。
 猫科の猛獣のような力感に満ちた敏捷性で、エヴァ初号機が一気に距離を詰め、豪腕を唸らせる。
 弐号機は対照的に、しなやかな柳を思わせる動作でその一撃を受け流し、肘打ちを返す。
 かわそうともせずに肩でその反撃を受けとめた初号機が、その逞しい両手で弐号機の両腕をつかもうとすれば、それを察した弐号機は肘打ちの反動を利用した鮮やかなバック転で距離を取る。
 歴史を感じさせるいくつかの建築物が吹き飛び、逃げ遅れた人々の骸が踏み砕かれても、彼も彼女も気にも留めない。
 否、最初からその存在に気付いてすらいなかった。

「逃すかぁ!」

 初号機の頭上に佇む少年が罵るように叫べば、

「あっはははははは!」

 弐号機の肩に乗った少女は哄笑を返す。
 剛と柔。
 力と技。
 地上最強の猛獣と、地上最大の技巧者。
 紫色の悪魔と紅色の巨人は、まさに対照的だった。
 双方ともにATフィールドを攻撃に用いる点は同じだが、初号機がすべてを叩き壊すような戦槌の如きフィールドを扱うのに対し、弐号機は白刃のように鋭く研ぎ澄まされたフィールドで切り裂くことを主体としている。
 重なり合いながら決定的に相反する両者の争いは、数え切れぬ骸を踏みにじり、街を廃墟と化し、山河を荒野に変えながら、いつ果てるともなく続いた。


 

to be continued


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後書き
 自由の秋と書いて由秋ー(←しつこく繰り返す男)。
 これまた、某所の投稿掲示板に投下したSS、その改訂版です。
 Labyrinceと、コンセプトも似てるかも。
 どーして俺は、素直なLASを書かないのだろう。

 

 

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