気持ち悪い。
 それが始まりの言の葉。
 あの日あのときあの瞬間に、僕らの運命は決まってしまった。
 つまるところ、僕らは知りすぎたのだ。
 この地上すべての中で、僕は彼女という人間をもっとも知悉してしまい、彼女は僕を深層まで知りぬいてしまった。
 ――お互いが別の人間であることを、破滅的なまでに知ってしまった。
 当たり前のことではあったのだ。
 僕は彼女ではないし、彼女は僕ではない。誰でも理解できる、当然の現実だ。
 けれども、ただ理解することと、それを絶望的なまで深く知り抜いてしまうことの間には、あまりに巨大な開きがあった。
 彼女の持つ醜さをすべて知ってしまった僕は、彼女の存在を許容できない。
 彼女の持つ美しさをすべて知ってしまった僕は、彼女の存在を無視できない。

 

 

 そうとも。
 僕は彼女を殺さざるを得ないのだし、彼女もまたそうであることを知っている。
















 

Ring

七瀬由秋
















「お帰りなさいませ、冬月司令」

 欧州への出張から戻ってきたばかりの冬月を、書類を片手に訪れたリツコがねぎらった。

「いかがでしたか、久しぶりのドイツは?」
「悪くはなかったな。まあ、政治的混乱はまだまだ長引きそうではあるが、我々への支援を継続するということでは与野党ともに一致しておる」

 機嫌よく応じると、冬月はデスクに腰を下ろしながら書類を受け取った。

「そちらの報告も聞こうか。留守中、立て続けに二体の使徒を撃破したことは聞いているが」
「はい。第十三使徒バルディエル、第十四使徒ゼルエル――市街地の被害は、許容範囲といってよろしいかと。問題は、エヴァ一機が使徒と認定され完全破壊されたことくらいですか。その他の機体、パイロットには、特に問題ありません」
「――相変わらず鮮やかだな、葛城君は。最初から彼女に全権を委ねていれば話は早かったかも知れん」

 ミサトの肩書きは、今やただの作戦部長ではない。副司令を兼任した、ネルフのナンバー2だ。
 いや、第三使徒戦以来、乏しい戦力をやりくりして勝利をもぎ取り続けてきた彼女の声望と権限は、もはや実質的な総司令と称しても反論する者はいないだろう。
 ――かつて絶対的な政治力を駆使してネルフに君臨した碇ゲンドウは、すでに総司令の座から退いている。
 失望、虚脱、葛藤、自棄、そして絶望を繰り返した後、かつて辣腕を謡われた総司令はそのすべてを通りすぎ、与えられた運命でなすべきことを決めた。
 今現在、彼は日本政府に身を寄せ、政治家としてネルフを援護する道を選んでいる。
 後を継いだ冬月も、ネルフを完全な対使徒迎撃機関に移行させる方針を大前提として掲げており、葛城ミサトにネルフの実戦指揮権を一任する一方、自身は外部の政府・軍部との交渉に駆け回っている。
 欧米列国では政争の嵐が吹き荒れ、キール・ローレンツをはじめとする政財界の黒幕として恐れられた大物たちが続々と引退させられた。
 初号機・弐号機のネルフ離脱と、その後にこの二機が欧州各地で暴れ回ったことによる混乱――そこにつけ込んだゲンドウ・冬月の謀略が功を奏した形だが、もはや補完計画などより使徒殲滅が最優先であるという認識は、ゼーレにも共有されていたようだ。ゼーレを構成していたメンバーは、冬月たちの方が驚くほどあっさりとネルフの介入を受け入れ、表舞台を去って行った。

「レイの様子は?」
「良好ですね。シクススが公私に渡り面倒を見ているおかげで、最近は周囲に心を開きつつあるようです」

 上層部と同様、パイロット――チルドレンたちにも変革は訪れている。
 ファースト・チルドレン綾波レイに加え、フォース・チルドレン鈴原トウジ、フィフス・チルドレン相田ケンスケ、シクスス・チルドレン洞木ヒカリらが続々と選出され、さらに予備パイロットとして山岸マユミ、戦略自衛隊少年兵から転属してきた霧島マナ、ムサシ・リー・ストラバーグ、浅利ケイタらが控えている。
 いずれも一癖も二癖もある、それも半数は素人同然という、問題だらけのパイロットたち――だが、戦いを重ねるうちにそれなりに技量も練られ、信頼も培われてきた、ネルフの主戦力たちだ。
 一時はまさに絶望としか評しようのなかった状況も、どうにか「子供たちの未来」を語り得るていどに挽回されている。

「初号機と弐号機については、どうなりました?」

 そう問いかけるリツコの声は、あくまで実直な響きがあった。
 冬月も似たような声音で、

「どうにもならんよ。手がつけられんならせいぜい遠くから見守る他あるまい。さしあたり、積極的に我々を害するわけでもなし、街に近づけば住民を避難させるよう手筈を整える――国連ともその方針では一致しておる」

 ――かつてネルフの主戦力たるべく建造された二機のエヴァ、二人の元チルドレンに対する、それがネルフと国連軍首脳の結論だった。
 むろん、ここに至るまでにはいくらかの紆余曲折があった。
 あまりに常軌を逸した戦闘能力を見せつける二機のエヴァンゲリオン、それも初期にはその戦いに巻き込まれた街が壊滅するといったケースが続出したため、当初国連軍は躍起になって排除を試みた。第三使徒襲来から――すなわちこの二機がネルフを離脱して争い始めてから約一ヵ月後、今から半年ほど前のことだ。
 四十個師団、五基のN2兵器を用いた一大作戦が敢行され――そして、完全に失敗した。
 立て続けのN2爆雷の投下にも、巨人たちはまったく無傷なままであり、雨霰と降り注ぐ砲弾とミサイルはすべて不可視の障壁によって遮られたのだ。
 それでいて、作戦参加部隊がほぼ無傷のまま「敗走」してきたのは、要は彼らが障害物としてすら扱われなかったからである。
 接近しすぎた戦闘機と戦車が何台か、巨人同士の争いに巻き込まれて破壊されたが、国連軍の損害は物の見事にそれだけに留まっていた。二機のエヴァとそれを操る少年少女は、あくまでお互いのみを敵としてただ戦い続け、撤退する国連軍に目もくれなかったのだ。いや、もしかすると攻撃されたことにすら気付いていなかったのかも知れない。
 ネルフの方もただ手をこまねいていたわけではなく、作戦部では殲滅作戦も何度か検討されたのだが、具体案がまとまることはついになかった。
 MAGIの分析によれば、エヴァ初号機及び弐号機の戦闘を見る限り、その機動力・敏捷性・破壊力・反応速度等は桁外れもいいところであって、達人クラスの技術・身体能力を持つパイロットが400%オーバーのシンクロ率を叩き出しているのに等しいという(まさに冗談のような)結果が出ていた。
 一方、ネルフの擁するパイロットたちの平均シンクロ率は60%前後。
 仮に、予備の四名までパイロットを総動員し、それに準ずる数のエヴァを揃え、全機で総攻撃をかけたところで、予測される勝率ははっきりと0%を示した。
 八名のパイロット全員が90%以上のシンクロ率を記録し、かつ技術的にも職業軍人と遜色ないほどに熟練した上で、現存するN2兵器すべてを装備した国連軍の全面的支援を受け、大陸一つ海に沈める覚悟があるのなら、どうにか相打ちに持ち込むことは不可能ではない――MAGIのシミュレーションはそう結論していた。
 しかし、二機のエヴァが人類殲滅に乗り出したというならいざ知らず、ただ自分たちだけで殴り合っているだけである以上、そのような全人類規模の総力戦などやる価値はない。
 互いに争っているのなら、勝手にさせて置けばいいのだ。
 相打ちになればしめたもの、そうならなかったとしても、勝者もまた深手を負うことになるはず。殲滅するのはそれからでも遅くはない。
 ――幾分後ろ向きではあったにせよ、それがもっとも現実的な選択肢であった。

「……とはいえ」

 冬月は肩をすくめ、

「あの人外の闘争がいつ決着するのか、正直想像もできんがね。そもそも、電源もなしにどうして休みなく戦いつづけていられるのやら」
「動力源については仮定は立てられます」

 リツコはあっさりと応じた。
 使徒の動力源とも見なされ、ゆくゆくはエヴァにも搭載が予定されているS2機関。考えられる可能性はそれしかない。
 初号機と弐号機がどのようにしてそれを得たのかについても、MAGIは推論を出していた。
 もともとエヴァは、使徒の祖ともいうべき異形の巨人たちの――初号機はリリスの、弐号機はアダムの――コピーだ。
 つまり、エヴァの持つ遺伝子情報の中に、S2機関の組成はあらかじめ組み込まれているといってよい。
 初号機と弐号機の生体細胞、その再生・復元能力が予想をはるかに越えて発現したならば、自力でS2機関をも発生させる可能性はゼロではない。

「……最悪、我々人類は未来永劫に渡って、この二機と二人を見るなり逃げ出す生活を続けねばならんということか」

 ため息をつきかけた冬月に、リツコはまたも即座に応じた。

「いえ、これは私見ですが、決着はそれほど遠い未来ではないように思います」

 訝しげに眉をひそめる冬月に、携えていた何枚かの書類と写真を手渡す。

「国連軍の無人偵察機が撮影しました、最新の画像です。詳しい分析はまた後ほどお知らせしますが……」

 冬月の目は食い入るように写真に引きつけられた。
 そこに写された二機のエヴァは――ありていにいって、満身創痍といってよい有様だった。
 特に初号機の左腕は根元から切り落とされ、弐号機は胴体の半ばが削ぎ落ちている。
 装甲はほぼ全体に亀裂が入り、無傷のところを探す方が難しいだろう。
 露出した素体部分も各所に損傷が見られる。

「……無限の動力を保証するS2機関、それをもってすら再生が追いつかなくなっている可能性があります。いえ、動力が無限でも生体細胞が限界に来ている、というべきかも知れません」

 繰り返しになるが、もともとエヴァはアダム・リリスのコピー ――それも、数知れぬ失敗の果てにどうにか完成した、デッドコピーである。オリジナルに比べて遺伝子が劣化していたとて、不思議はない。
 そんな機体であのような戦いを半年以上も戦い続けていれば、むしろ平気でいられる方がおかしいというべきだろう。
 こればかりは、いくらS2機関があったところで、どうにかなるものではない。車に例えるならば、ガソリンが無尽蔵でも車体フレームが歪んでしまえば走ることなど不可能、そういうことだ。

「……なるほど。たしかに、思っていたほど深刻なことにはならんかも知れんな」

 いや、楽観は禁物だが――そう付け加えつつ、明らかに重荷が失せた表情で冬月はうなずいた。
 初老の総司令は腕を組み、安堵の息をついてから、ふと思いついたようにいった。

「今更という気もするが……セカンドとサード、あの二人は一体何者なのだろうな」
「…………」

 リツコは、今度は応えなかった。
 ――碇シンジ、そして惣流・アスカ・ラングレー。
 一時は全人類の恐怖の的となった二体の巨人、その主と目されるこの二人については、MAGIをもってしても推論すら出せていない。
 わかっているのは、この両名が明らかに以前からお互いを知っていて、しかも強烈な敵愾心を抱いていること。
 そして、とうの昔に人間を辞めていること。
 事実として与えられているのはこれだけで、それ以上のデータは何もない。使徒以上に謎の多い存在だ。この場合、彼らが「発狂」するまではまったく普通の人間そのものであったという事実が、より真相究明を困難なものにしている。
 もっともリツコは、この二人についてはすでにどうでもいいと考えるようになっていた。
 いくら正体不明とはいえ、超絶的な戦闘能力を見せつける初号機・弐号機に比べれば、何ほどのこともないはずだ。
 実際、巨人同士の戦闘の最中、ATフィールドの余波に巻き込まれて負傷した二人の姿が何度か撮影されている。人間以上の存在ではあるにせよ、少なくともエヴァ級の力がないことはたしかで、だからこそ彼らはエヴァを操ることでお互い殺し合っているのだろう。
 ならば――、あえて正体を詮索する必要もない。
 二機のエヴァが倒れ、彼ら二人もまた相打ちになるなり殲滅されるなりした後に、ゆっくり調べればいいことだ。
 それは冬月にもわかっているはずだった。
 だからこそ、初号機と弐号機の脅威が幾分薄らいだ今になって、疑問を呈しているのだろう。

「いや、下らんことをいったな。忘れてくれたまえ。技術部は当面、今まで通りに使徒殲滅に全力を上げてくれ」

 冬月はすぐに首を振り、書類に目を通し始めた。
 いずれ初号機か弐号機かが、あるいはその双方が活動を止めたとき、そのときこそは碇シンジと惣流・アスカ・ラングレーの運命も終わる。
 彼らの正体と真意がどうあれ、いくつもの街を廃墟と化さしめた罪は消えることはないし、何よりエヴァ一機があれば単独で世界を屠れるような存在を放置しておくわけには行かない。
 ネルフと国連が合意している、もう一つの完全な確定事項だ。
 そのことについて、リツコにもむろん異存はなかった。

 

 

 例え不倶戴天の敵同士であったとしても、休戦期間というものはある。
 三百六十五日休まず戦い続ける体力があったとて、ただそれだけでは息が詰まってしまう。
 ――その日、碇シンジは久々に静かな一日を過ごした。
 空はまさに小春日和。広がる山々に緑は豊かで、小鳥たちの囀りすら聞こえてくる。
 いちいち地図を確認して移動しているわけではないが、脳裏に残る記憶と知識から、現在地がユーラシアの北東部だとシンジは当たりをつけた。
 初号機を待機させ、山道を歩く。
 蒼天に雲はわずかにたなびくていど、陽は南中に差し掛かったところ。鼻腔を青葉の匂いがくすぐった。
 しばらく歩き続けると、小川に出た。水の流れる音と、冷涼な空気が心地よい。
 人の手の届かぬ、世界の美しさ――
 彼は何となく愉快になって、靴を脱ぎ捨てた。
 手頃な大きさの岩に腰掛けて、清流に素足を浸す。
 自分にいまだこんな一面が残っていたことに、彼は驚いていた。
 瞼を閉じ、顎を上げて、草萌える匂いを胸一杯に吸い込む。
 つま先から足首で水の流れを楽しむ。
 小川のせせらぎが優しく耳に染み込んでくる。

「…………」

 我知らずため息が出た。
 自分がこれまで行ってきたこと、今現在も行い続けていること。
 そこに何の意味がある。
 今更のように彼はそのことを思い返していた。
 ああ、わかっている。
 意味などない。
 愚劣の極み。愚行の極み。
 価値などあろうはずはない。
 林檎が枝から落ちるのと同じように、ただ自分は同じことを繰り返している。
 この身を支配するあの原風景。あのときに感じた情動が、今に至るまで繰り返されている。
 甘美なほどに醜く、吐き気を催すほどに美しい情動で、この血とこの肉は成り立っている。
 ――瞼を閉じれば今でも鮮明に思い出す。否、忘れた瞬間などない。忘れられるものか。
 あの夏の終わりの一日を、自分も彼女も、ずっと繰り返し続けている。

「…………」

 碇シンジはゆっくりと目を開いた。
 ああ、そうだ。忘れはしない。彼女の醜さを受け入れることはできないし、彼女の美しさを手放すこともできない。
 小鳥の囀り。小川のせせらぎ。草の匂い。水の感触。陽の熱さ。……それが、何だというのだ。
 周囲の光景すべてが遠ざかり、一人の少女の面影が感覚を満たした。
 そうだ。そうとも。
 僕は殺し続けるし、殺され続ける。
 惣流・アスカ・ラングレー。あの少女は、僕のものなのだ。

 

 

「そうか――うむ。わかった。……問題ない。手は打っておく」

 短いやり取りの後、碇ゲンドウは受話器を置いた。
 物問いたげな視線を向けてくる第一秘書――加持リョウジに、軽くうなずいて見せる。

「……第十七使徒が殲滅されたそうだ」
「…………!」

 謹厳な表情を取り繕いながらも、加持の口元が歓喜の形に歪んだ。
 彼がこの元ネルフ司令の秘書となって、すでに半年近くが経過している。
 厳密には、実際の仕事――スケジュール管理や実務の補佐――は第二秘書がすべて担当しており、加持はあくまで碇ゲンドウとネルフ、日本政府の連絡役に等しい。
 それでも、なかなかにやり甲斐のある仕事ではあった。
 内閣顧問の肩書きで、実質的には日本政府の外交戦略の総責任者――気取っていうなら裏の外務大臣というべきだろうか――となっている碇ゲンドウの、いわば直属のエージェントなのだ。
 この半年間、危ない橋はいくらでも渡ったし、旧ゼーレ残党勢力の暗殺チームと銃撃戦をしたことすらある。
 その苦労が、今、一つの区切りを迎えたのだった。

「明日にもドイツに向かう。君も同行したまえ」

 浮ついた気分など欠片もなく、碇ゲンドウはどこまでも冷厳に言い放つ。
 加持は当然のようにうなずいた。
 ドイツ――旧ゼーレの議長、キール・ローレンツのお膝元であるかの国の政財界は、いまだに親ゼーレ勢力が根強い。
 使徒という脅威が消滅すれば、休眠させていた反ネルフ感情を甦らせる者も出てくるはずだ。
 そうなる前に、先手を打つ。
 碇ゲンドウが直々に赴いて彼らを説得し、「次」に備える。
 戦いは、いまだ終わったとはいえないのだ。

「司令――」
「……何度もいわせるな。私はもう司令ではない」
「では、碇教授」

 加持はうやうやしく呼びかける。ゲンドウは、某国立大学の名誉教授の肩書きで、内閣顧問に迎えられていた。

「アスカは――セカンドは、やはり」

 前々から覚悟は固めていた。けれども沈痛な響きの隠し切れないその声に、ゲンドウは素っ気無く応える。

「何者であろうと、人類の脅威は打倒する以外にない」
「……はい。いえ、失礼いたしました」

 顔を曇らせて頭を下げた加持は、ゲンドウの視線が自分ではなく、デスクの片隅に放置された書類に向けられていることに気付いた。
 より正確には、書類にクリップ留めされた一枚の写真に、冷徹無比の元総司令はおそらくは無意識に見入っていたのだ。
 ――人類の脅威と名指しされる二機と二人、そのうちの彼の息子に当たるはずの存在が、写真の中に小さく横顔をさらしている。

「……最新の報告によれば、エヴァ二機の損傷はそれぞれ素体部分の60%以上に及び、『元・人間』の二人も少なからぬ手傷を負っていることが確認されている。すべてが終わるときは、もう間近だ」

 感情のない――「冷たさ」すらも感じ取れない声音が、ただ静かに現実を告げた。
 加持は無言で、もう一度頭を下げると、彼の上司の執務室を辞去した。

 

 

 ……吹き荒ぶ風は湿った凍気を含み、荒涼たる大地はわずかに針葉樹が根を張るのみ。
 曇天に覗く陽光は弱々しく、傷だらけの素肌にただ風が染みた。
 ――戦い続け、動き続けて、行き着いた終焉の場所が、それだった。

「何とも……、似合いの墓所というべきかな、アスカ?」

 碇シンジは足下の少女を見下ろして、そう宣告する。
 白くしなやかな肢体の半ばを獰猛な暴力で叩き潰され、ほとんど皮一枚で上半身と下半身が繋がっている――にも関わらず、赤毛の少女は微笑みすら浮かべて彼を見上げた。

「あたしたちには似合いの場所なんてないのよ――あんたもわかってるでしょうに」

 ……少女の手駒であり守護者であった紅のエヴァンゲリオンは、すでに活動を停止している。
 主たる少女と似たような惨状、否、それ以上に原形を留めぬ有様で、荒涼たる大地に死骸をさらしている。
 彼女は悔しさの欠片もない表情で、

「あーあ、この巡りはあんたの勝ちか……前回、前々回と連勝してたのになぁ」

 そんなことを呟いた。
 少年は答えない。
 彼はしばし、今にもその命を閉じようとしている少女の姿を見下ろしていた。
 もう何度、こうして彼女の最期を看取ってきたことか。
 もう何度、逆の立場で自分が看取られたことか。
 ……彼にはもう、思い出せない。
 果てのない転生。巡り続ける同じ時間。
 誰かがそう摂理として定めたかのように、碇シンジと惣流・アスカ・ラングレーは、西暦2015年を繰り返し生き続ける。
 殺し殺され、その度にまた甦る。
 時間を越えて、過去の自分としてまた目覚める。
 サード・チルドレン碇シンジとして、セカンド・チルドレン惣流・アスカ・ラングレーとして意識を取り戻す。
 ……そして、始まりから今も続く情動のままに、ただ殺し合う。
「気持ち悪い」、その一言で拒絶された心のまま、拒絶した心のままに、憎み合い求め合い終わりのない闘争を続けるのだ。
 何度同じことが繰り返されたか、200度目までは律儀に数えていたが、そこから先は混濁した意識の彼方だ。
 永遠とも思える同じ時間の巡りの中で、様々なことをした。
 ただ殺し合うのにも飽きて、二人一緒に世界を焼き尽くしたこともある。赤子の一人に至るまで殺し尽くした世界の真ん中で、二人揃って狂ったように笑い転げたのを記憶している。
 求め合う気持ちの方が高まり合って、恋人のように時を過ごしたこともある。日がな一日、獣のように体を求め合い、汗だくになった顔でキスを交わした。
 ともに人間であった頃が懐かしくて、昔のように暮らして見たこともあった。葛城ミサトの家で、かつてと同じように生活し、学校に通い、肩を並べて使徒と戦った。
 けれど、結末はすべて同じだ。
 碇シンジは惣流・アスカ・ラングレーの存在が我慢できず、惣流・アスカ・ラングレーは碇シンジの人格を許容できない。

「――ねぇ、アスカ」

 彼は呼びかけた。
 萎びた、老人のような表情で。

「次の巡りでは――いや、その次でも、さらにまたその次でも、いつでもいい。一度、お互い関わり合わずに過ごして見ようよ」

 そう、提案して見る。
 何百、あるいは何千何万に及ぶやも知れぬこれまでの巡りにおいて、それだけは一度としてやったことがない。
 憎み合うことも愛し合うことも、そしてもちろん殺し合うこともなく。
 本来ありうべき、ただの少年と少女としての関係。

「ネルフで顔を合わせるにも、ただの同僚として。いや、お互いネルフから離れて、それぞれ別々の街に暮らして見るのもいい。僕はアスカのことを忘れて生きてみるし、アスカも僕のことを忘れて暮らして見るんだ」

 ……そうできれば。
 あるいは別の――今までとは違う、この果てのない時の連鎖の過ごし方も、見出せるかも知れない。
 ただ殺し殺される以外の結末を、迎えられるかも知れない。
 あるかどうかもわからぬ黄金を水平線の彼方に渇望するように、碇シンジは求めて見たかった。

「…………」

 彼女は意表をつかれたようだ。
 今にも息絶えようとしている肉体を横たえて、血の気の失せた顔に驚いたような表情を張りつけている。
 見下ろす彼に、まじまじと視線を合わせて。

「………………ははっ」

 やがて彼女は、吹き抜けるような笑い声を上げた。

「あははははははははははははははははははははははははははははははははははははは! あんた馬鹿ぁ!? そんなこと、できるはずがないじゃない! このあたしが! このあたしが!! あたしたちが!!!」

 紛れもない嘲笑を高らかに響かせて、惣流・アスカ・ラングレーは言い放つ。

「あんたの命はあたしのもの――他の誰にだって、譲りやしない! あんたを愛するのも憎むのも、抱くのも殺すのもすべてあたし一人の特権! 手放すなんて、誰がするもんですか! あはは、はは、はははははははははははは!!」

 狂ったように笑い続け、肺の奥から鮮血と一緒に空気を吐き出してから、彼女はぴたりと口を閉じた。
 澄んだ、底のない湖面のような青い瞳が、まっすぐに彼の顔を映していた。

「――また。次の巡りで、ね?」

 愛を語るように、そう囁いて。
 そして、彼女は死んだ。

 

 

 

 

 ――荒野を渡る風には、いつしか雪が混じっていた。
 太陽はとうの昔に雲に覆われ、薄闇の中に純白の欠片が降り注いでいる。
 碇シンジは物言わぬ屍となった彼女を眺めながら、ゆっくりと膝をついた。
 ごふりと、血の塊が口から噴き出た。
 見る影もなく裂けたシャツの左胸――見事に吹き飛ばされた心臓のあったあたりを、確かめるように撫でる。
 この巡りはあんたの勝ち。
 惣流・アスカ・ラングレーはそういったが、実際には相打ちに等しい。
 ただ、彼の方がもう数分、余計に生き長らえる力を残していた、ただそれだけのこと。
 恐怖はない。
 また死ぬんだな、という、乾いた認識があった。
 何より、彼女が死んだ今、この時間の流れで命を繋ぐ意欲を彼はまったく失っていた。
 ――ああ、そうだ。そうとも。アスカ、君は正しいよ。
 すぐ目の前の彼女の死に顔に目をやりながら、彼は呟いていた。
 どう取り繕おうが、僕は君から離れられない。離れて暮らせば発狂するのがオチだ。いや、とうの昔に狂ってはいるんだけど、その狂気すら崩れ落ちるだろう。もう他に何を考えることもなく、君だけを求める本能が残る。機械のように自動的に、君を殺しに行く。いや、それとも愛しに行くのか。どうかな。どの道、殺すか殺されるかするのは決まっている。
 まったく、僕らには救いがなく、そもそも先がない。
 何度生まれ変わろうが、馬鹿みたいに同じことを繰り返す。日が沈みまた昇りゆくのと同じように。まるでそういう現象として世界に組み込まれているように。僕と君は、ただ果てのない殺し合いを繰り返す。何より困ったことに、僕も君も、それが愉しくて仕方がない。
 彼は軋みを上げる首を回して、背後にいるはずの初号機を振り返った。
 紫色の巨人は彼のすぐ背後に跪き、激しくなり始めた雪から彼と彼女を守るように巨体を丸めている。
 彼の意識が閉じれば、この巨人もまた動くことはない。
 いやそもそも、彼と同様、初号機もまた限界をとうに迎えている。
 毎度のように付き合せてしまう巨人たちに、碇シンジは感謝と謝罪の視線を向けた。
 ――どこか遠くから、得体の知れぬ轟音が響いてきていた。
 初号機の背後、曇天の空に、いくつかの機影が垣間見える。
 それが何なのか、いくつかの経験から彼は理解していた。
 国連軍の爆撃機。それもおそらくはN2爆雷投下型。
 風雪のおかげで視認はできないが、戦車が地面を踏み砕く音も聞こえてくる。
 そして、数機のエヴァが進撃してくる気配も。
 この巡り、この世界における人間たちが、やって来た。
 嵐から身を伏せ、じっと時を待ち、ついにやって来た。
 碇シンジと惣流・アスカ・ラングレーを葬るために、やって来たのだ。
 ……まあ、今更だ。
 人間たちの到着を待つまでもなく、この身は尽きる。彼らはただ、少年と少女とその従者の遺体を埋葬するためだけに、ここに到着するだろう。
 視界が徐々に薄くなってくる。
 肉体の感覚が消えて行く。
 咳込むように吐き出した吐息に赤いものが混じっているのがぼんやりと見えた。
 残された最後の命を振り絞り、物言わぬ彼女に口づける。
 血の匂いのする少女の唇からは、ほんの微かな体温の残滓が感じ取れた。

 ――また。次の巡りで、ね?

 最期に、彼女とまったく同じ言葉を囁いて。
 周囲が熱と閃光に包まれるのを感じながら、碇シンジは安らかに、その意識を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 眼下には海が広がっていた。
 長い夢から覚めたような感覚で、彼は自分が生きていることに気づく。
 きょろきょろと周囲を確認する。
 おぼろげに見覚えのある、軍用ヘリの機内。

「空母が一、二、三、四、五、戦艦、四! 大艦隊だ! まさにゴージャス! さすが国連軍の誇る正規空母オーヴァー・ザ・レインボウっ!!」

 すぐ側で、やはりおぼろげに聞き覚えのある友人のはしゃぎ声。

「――ああ。そうか」

 今回は、ここからか。
 そう呟いた声は、ローターの音にかき消されて、誰の耳にも入らなかったようだ。
 老朽化した艦隊を皮肉げに見下ろす保護者。ジャージ姿に野球帽をかぶった友人。食い入るようにカメラを構えるもう一人の友人。
 そのすべてを無視して、彼は眼下の空母の甲板に視線をこらした。
 レモンイエローのワンピース。吹き荒ぶ潮風に赤い髪をなびかせた少女が、こちらを見つめている。甲板の端から、手すりに身を乗り出すようにして、ヘリの中の彼を見つめている。
 その口元が微笑む形に歪むのを、碇シンジは確かに見た。

「……あは」

 口元が緩むのを抑え切れない。

『お互い関わり合わずに過ごして見ようよ』

 先の巡り、その最期に彼女にかけた言葉など、もう頭から消えかけている。
 いや、自分は何故あんな世迷言を口に出来たのか。
 今はもう、火口から噴き出す溶岩のように、底知れぬ愛情と、それに分かち難く一体化した殺意が脳髄を満たしている。
 愉しい。愉しい。愉しい。愉しい愉しい愉しい愉しい愉しい愉しい愉しい愉しい愉しい愉しい愉しい愉しい愉しい愉しい愉しい愉しい愉しい愉しい愉しい愉しい。
 忘れられるはずはなく、堪え切れるはずもない。
 何故なら、彼は碇シンジで、彼女は惣流・アスカ・ラングレーなのだから。
 ――さて。
 状況は最悪。海のど真ん中。逃げ場なし。こちらに初号機はなく、あちらは弐号機を連れている。ついでに使徒も現れる。
 お膳立てもここまでくれば、泣くを通り越して笑えてくる。
 あるいは先の巡り、それなりに自分に有利な状況で開始されたツケが回ったか?
 まあ、いい。
 どうなるにせよ――愉しいことに、変わりはない。
 窓から見据える視線の先で、彼女が待っている。
 あの夏の終わり、「気持ち悪い」と呟いた瞬間と、何一つ変わらぬままで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 広がる海。
 燦々と降り注ぐ陽光。
 吹きつける潮風。
 少年を乗せたヘリが、少女の乗った艦に降り立つ。
 永遠に巡り続ける時間の中で、ただ愛し殺し合うために二人は出会う。
 決まりきった唯一の破局へ向けて、笑いながら駆け抜ける。
 始まりがいつであったかなどとうの昔に忘れ果てた。
 何度繰り返したかなどいちいち数えてもいない。
 ただ、始まりから今に至るまでずっとその身を支配する情動だけを、彼らは糧にしている。
 ……回り回る回転舞台。
 終りのないダンスを踊る。
 それは誰にも理解できない、二人だけのエンゲイジ。

 
 

the End or never End


back


後書き
 本作は、いって見れば「円環舞踊」のLASバージョンですね。
 それがまあ、Labyrinceにおける二人の設定と混合し合い、このようなひねくれた作品となった次第。
 まっとうなLASというのも、いずれ書いてみたいものです……無理かな(笑)。
 ちなみに、改訂に当たっては、投稿した当時の原題「Engage」を前編のサブタイトルとし、後編サブタイトルを「Ring」としました。
 前後編合わせてエンゲージ・リング――もっとも、本来の英語ではengagement ringと表記するのが正しいのですが、細かいことはいいっこなしということで(笑)。

 

 

inserted by FC2 system