一人の男に恋した女がいた。
彼女は彼のために世界を焼いた。
一人の男を欲した女がいた。
彼女は彼のために神を殺めた。
一人の女に愛された男がいた。
彼はしかし、世界も神も愛していた。
Frederica Bernkastel
……誓っていいます。
あのときの私は、そんなことになるなんて思っても見なかったんです。
私はただ双子の姉妹として、ちょっとしたアドバイスをしたかっただけなんです。
「……別に何のお人形だってよかったんだよ! ……圭ちゃんは……私だけもらってないって知ってたのに、……私にくれなかった。…………っく……、私に、……くれなかった。……魅音には似合わないよなって言って……くれなかった……ッ……。次に生まれて……くる時は……ひっく、男に生まれて来い……って……そぅ……言われたんだよ……。……言われたんだよ…………うっく……」
…………
「……やり直したい。……圭ちゃんに出会った最初の頃からやり直して……、今度はちゃんと女の子だと思ってもらえるように、……やり直したい……」
お姉、深刻過ぎですって。
お姉がやり直したいと思って、しかも向こうが何もトラブってない状態なら全然セーフじゃないですか。
互いに傷つきあって爛れちゃうと、まぁやり直しも面倒でしょうが。
「……やり直せる……かな」
圭ちゃんの前で涙を流してないなら、そもそも何も手遅れじゃないんです。
お姉がこの場で適当に涙して、明日から心を入れ替えていけば、修正可能ですって。
「…………うん」
そりゃ圭ちゃんのデリカシーのなさには呆れますけど、その結果は結局、今日までのお姉の積み重ねてきた結果なわけですから。
今日からの生活を少しずつ改めて、ポイントを稼ぎなおせばいいだけのことです。
「生活を改めるって……どうやって……?」
そうですね。
例えば……
……誰が言った言葉でしょう。
恋の炎は止められぬ。例え鬼でも仏でも。
茨の道に臨もうと、駆けて抜けるが乙女の気概。
ええ、はい。
私には悪気なんてこれっぽっちもなかったんです。
オヤシロさまと園崎の名にかけてそうです。
そりゃ、多少は面白がってたところもありますし、悪ノリした面もないとはいいませんが……
(破り取られたノートのページ)
ひぐらしはないているか
七瀬由秋
その日、前原圭一は欠伸を噛み殺しながらいつもの通学路を歩んでいた。
月曜の朝というものは毎度のことながら気だるい。まして、今朝の彼には憂鬱の種が一つあった。
画家をしている父の仕事の都合で、両親が揃って明後日まで留守にするというのだ。別に一人が心細いというわけではないが、それでも問題はある――人間が生きるために絶対的に必要とするもの、つまりは食事だ。
ああ、俺の馬鹿。どうしてあそこで「大丈夫」なんて返事しちまったんだ?
圭一は己の迂闊さを呪った。朝食時にそのことを告げられ、「ご飯の支度も一人で出来るわよね?」と訊ねられた彼は、睡魔に半分犯された胡乱な頭でうっかりうなずいてしまったのである。
あそこで明確な理性をもって「出来ないよ」といっていれば。十分な睡眠をとってさえいれば、それが可能だったはずなのに。
後悔の種は尽きることがない。
前日の「部活」――街の玩具屋で開かれたゲーム大会で、彼はいささかはしゃぎ過ぎた。帰宅後も興奮が冷めやらず、ついつい夜更かししてしまったのだ。
それで今朝も、眠気を引きずってしまった。
――まあ、いい。
圭一はため息を一つついて気分を切り替えた。
すんでしまったことは仕方ない。どうにかするさ。
ああ、そうだ。そんなことよりも、部活だ。昨日、魅音は勝負は次にお預けっつってたし。一体何をやらかすつもりやら――彼は意識して楽しいことを考えた。
総勢十五名ほどが参加した昨日の大会。
並みいる有象無象どもを蹴散らして、予選を勝ち残った五人の強者たち。そのいずれもが馴染みの部活メンバーであったことは、考えて見れば大した偉業である。
部員を選定した魅音の人物鑑定眼、そして普段行われている活動がいかに高レベルであったかを、如実に物語る事実ではあるまいか。
かぁいいモードにおけるレナの神憑り的なハンドスピード、たった一つのトラップで戦局をひっくり返した沙都子の観察・洞察力、万人を骨抜きにする梨花の計算され尽くした愛嬌、そして常勝不敗の代名詞たる魅音の悪魔的な権謀術策。
いずれも、「本当にこいつら現代日本の学生か?」と問い詰めたくなるほどのものだ。どこぞの秘密結社で工作員として育てられたといわれた方がまだ納得できる。
――もっとも、そう考える圭一の方とて、傍から見れば立派な彼女たちの同類なのであるが。
いざというとき彼が垣間見せるアジテーターとしての資質、口先で思うが侭に人を懐柔し、煽動し、誘導する才能は、かの魅音をして「圭ちゃんはいずれ世界を取れるかも知れない」といわせしめるほどのものなのだ。宗教家か政治家になれば、第二のキリスト、はたまたヒトラーになれる男であったかも知れない。
さて、決勝ではどんなゲームが選ばれ、どんな白熱した勝負になることか――期待を膨らませながら、後に「口先の魔術師」と呼ばれることになる男は朝の雛見沢を歩いていた。
「圭一君、おはよー!」
考え事をしているうちに、いつもの待ち合わせ場所に到着していた。
かぁいいモードに入らない限りにおいては健気でまともで一途だと評判の少女が、溌剌と顔を綻ばせている。
「おう、おはよう。何だ、魅音はまだなのか?」
圭一は腕時計を確認した。いつもの集合時刻ぎりぎりだった。
レナは困ったように首を傾げ、
「昨日は楽しかったから、夜更かししちゃったんじゃないかな」
まるで彼自身についても見透かしたかのような台詞に、圭一はつい苦笑する。
「しょうがねぇ奴だな。ま、俺も人のことはいえねぇけど」
「決勝戦はいつなのかな、かな? まさか今日の放課後とか?」
「どうだろな。魅音の奴、相応しい舞台を整えるとかいってなかったか? きっと、とんでもない時期と場所を選ぶと思うぞ」
何せ自腹を切って賞金まで出そうというほどの意気込みである。部長としての立場もプライドもあるだろうし、これまでにない激戦の舞台を整えるに違いない。
圭一はそう予想し、レナも期待半分不安半分といった顔で同意した。
「問題は種目なんだよなー。シンプルにトランプとかなら、かなり自信はあるんだが」
基本的に圭一は、ゲームの種目がオーソドックスであればあるほど強さを発揮する。先日のポーカー勝負では、僅差とはいえ魅音をすら下したほどだ。実際、彼の戦績が五分五分なのは、慣れないゲームばかりだから、という点が一番大きい。根本的な頭の回転の早さは、むしろ五人中トップクラスである。
ちなみにレナはというと、ここぞというところでのしたたかさはあるものの、好不調の波が激しい。かぁいいモードに入ると頭の切れも手の早さも超人的になるのだが。
「昨日みたいなかぁいいカルタの勝負なら、レナ、結構自信あるんだけどなぁ……」
いや、それやったらレナが絶対勝つって。
圭一は心の中で慎ましくツッコミを入れた。
あれこそは神業だ。格闘技界最速の技とされるボクサーのジャブ、それをすらおそらく凌駕する。男に生まれていれば世界チャンプのベルトを腰に巻けたであろう。
一通り、昨日のこととこれからのことを語り合いながら、圭一は再び腕時計を確認した。
約束の時刻より五分が経過。来ないようなら先に行っていい、と取り決められている時刻だ。
んじゃ、悪いけど先に行こうか。
――圭一がそう提案しようとした、その寸前だった。
「お……おはよう、圭ちゃん」
どことなく元気のない、しかし耳に馴染んだ声。
ゲームの帝王とでも称すべき部長には似つかわしくないその声に苦笑を浮かべながら、圭一は振り返った。
「おう、遅いぞみお」
ん、という発音は、ついに発されることはなかった。
前原圭一の頭脳活動が停止する。いや、時間そのものが停止していたのかも知れない。
……えーと、ここはどこ。今はいつ。俺は何。これは誰。
十数秒して、ようやく息を吹き返した理性が、目の前の現実をとりあえず知覚しようと努力する。
――ピンクを随所にあしらった白いワンピース。それも、フリルやらレースやらがそこかしこについている。
手に下げているのは実用一辺倒の学生鞄ではなく、慎ましいポシェットだ。
履いている靴は、えらくお洒落な革の靴。
髪型こそいつものポニーテール。しかしそれをまとめているのは、見間違えでなければリボンと呼ばれるものではなかろうか。派手ではないが随分と目立つ、真っ赤で大きなリボン。
麻痺しかけた頭脳で助けを求めるようにレナを見やると、彼女もしっかり凍りついていた。かぁいいモードが発動する前に、圭一同様受け入れ難い現実に凝固しているらしい。
「えー、あ、その」
しっかりしろ俺。ファイトだ俺。
ここは雛見沢村。今は昭和五十八年。俺は前原圭一。でもって目の前のこの人は。
この人は。この人は。この人は。
「……魅音さん?」
何故かさん付けで圭一は確認した。
「…………」
こくん、とえらく可愛らしい動作で魅音はうなずく。
クールになれ圭一。そうさそうともこいつは園崎魅音。顔見りゃわかるだろう?
いやまさか。どうして魅音が。おい俺、錯乱するんじゃないぜ。どうして朝の登校時にこんな格好を。
クールだ! クールになれ! 現実を見据えろ! その目で見たものが真実だ!
ああOK、俺は落ち着いているともさ。了解、アイサー。うん。園崎魅音。この深窓の令嬢は園崎魅音だ。うん。わかってるとも。
……よし。理解したか。それで次にすることはわかってるな? うん? その格好は何の意味があるのか、速やかに確認するんだ。新しいゲームの趣向かも知れんし、新手の冗談かも知れん。前者なら分析が必要だし、後者ならその意気込みを称えてウケてやれ。いいな!
イエス・サー。マイ理性。
――頭の中で、以上のような会話を器用にこなしてから、圭一はその結論を実行した。
「あの……その服、一体、ナニ?」
「……制服、洗濯して、乾いてなかったんだ。だから、これしかなくって……」
ぼそぼそと魅音は答える。
ンなわけねーだろ、おい! ――というツッコミを、圭一はかろうじて呑み込んだ。何故だか人として、そのようなツッコミはしてはならない気がした。
「そ、そうか。災難だったな。あはははは」
乾いた声で笑う圭一。
そうともさ。魅音がそういうならその通りなんだろう。うん。仕方ない。
ああ、仕方ない。でも、そうだとしてもあのリボンは何なんだろう。
馬鹿、つまらないことを考えるな。服とセットなんだ。決まってるじゃないか。ん?
そーなんだそーだよね。ははははは。
そーだよそーだとも。ははははは。
――涙ぐましいほどの努力で自分を騙す前原圭一、1X歳。長い人生、自分自身をすら欺かねばならないときがあるのだと知る。この日少年は、一つ大人になった。
しかし、そうした彼の努力を無にするかのように、目の前の深窓の令嬢はおずおずと彼を見上げ、
「……やっぱ、似合わないかな?」
泣きそうな顔でそう訊ねた。
「え、あー、似合う似合わないかと問われれば、似合うと思う、けど」
とっさに圭一は、正直に答えた。
もともと魅音は土台もいいし、着飾れば大抵の服は似合ってしまう。
……キャラクターと時と場合と用途とを度外視すれば、という但し書きつきではあったが。
魅音はしかし、見ている側の方がほっとするような安堵の表情を浮かべ、
「そ、そうかな? あ、ありがと……」
「いや、まあ、何だ。礼をいわれるようなことでも」
ああ、いや。それよりも。
思い出せ圭一。たしか今は、それなりに切羽詰った時刻じゃなかったか。
そうとも、遅刻したら先生が怖いぜ?
「……と、とにかく! 三人揃ったことだし、学校に行かなきゃ……ならないんだよ、な?」
「そ、そうだよね。うん、早く行こ?」
――マジですか!? その格好で!?
というツッコミを、またしても圭一は呑み込んだ。何だか、すべてがどうでもいい気分になり始めていた。
「レナ、おい、行くぞ。……レナ?」
レナはやはり、この期に及んでも生ける彫像と化していた。
「……圭一さん」
「訊くな。触れるな。何もいうな」
「……しかし」
「知らん。俺は知らん。断じて知らん」
「……魅音さんに、一体何が……?」
「知らんっつっとろーがっ!!」
授業中ということも忘れ、圭一はがたんと音を立てて立ち上がっていた。
しつこく小声で訊ね続けていた沙都子は、しかしなおもすがるような顔で彼を見上げている。
「……前原君、座りなさい」
知恵先生が落ち着いた声音でたしなめる。とはいえ、決して責める口調ではなかった。何やら達観しているような雰囲気すらある。
この日、常は授業中でも騒がしい教室内は、分校成立以来の記録的な静寂の最中にあった。
ある者は引きつった顔であらぬ宙を見上げ、別の者は普段はろくに開かぬ教科書を凝視し、さらに別の者は祈るような仕草で両手を組んでいる。
いずれにも共通するのは、教室のただ一点、より正確にはただ一人を、必死に視界に入れないよう努力し続けているというところだろうか。
――この日。雛見沢最強のゲームマスターこと園崎魅音の乱心(?)が引き起こした衝撃とは、それほどのものであった。
そして、その煽りをもっとも食らい、かつ、まったく身に覚えがないのにその原因と目されているのは、他ならぬ前原圭一その人であった。
例えば朝。一緒に腕を組んで登校してきた(「嫌、かな……?」などと潤んだ目で問われては断われるはずがなかった)
例えば休み時間。「圭ちゃんは、年上の女は嫌い?」などと真顔で訊ねられた(年齢にこだわったことはないと返すのが精一杯だった)。
例えばトイレに行くとき。さすがに中までついては来なかったが、入り口の所でじーっと待っている(窓から逃げるべきだろうかと真剣に悩んだ)。
それまでの彼女をよく知る人間ほど衝撃は大きく、まさかこれが今年のオヤシロさまの祟りかと囁く者まで出る始末。レナは朝からずっと塩の柱と化しているし、沙都子は「ど、どういう類のトラップですの!?」と戦々恐々している。梨花だけは表情一つ変えなかったが、いつにも増して口数が少ない。
ああ、神さま仏さまオヤシロさま。この際マリアさまでもいいですけど。俺に何か罪があったのなら教えて下さい。素直に認めるのは不条理な気がしますが、行いを改めるに吝かではありません。
現実逃避気味に天を仰ぐ圭一であった。
そうこうしているうちに、まるで戦場の如き緊張感溢れる授業時間が過ぎ去り、万人が――知恵先生も例外ではなく――待ち望んだ四時限目終了の鈴が鳴る。
「きりーつ!」
と、こればかりはいつもと変わらぬ魅音の号令。ただし、全員が号令者から慎み深く視線を逸らしているのが相違といえば相違であった。
「さ、さー、昼飯だ昼飯、飯飯飯飯飯飯飯ーーっ!!」
努めて明るくいつもの部員一同を振り返る圭一。
「ま、まあ、圭一さんったらはしたないですわね!」
すかさず合わせる沙都子。束の間合わさった両者の視線は、お互いへの感謝に満ちていた。
――沙都子。
――ええ、圭一さん。何も普段と変わりありませんですわ。フリフリのワンピースなんて、普段着ですわ普段着。
――そうとも。赤いリボンなんて俺は知らない。
無理やりにでも日常にしがみつこうと少年と少女。二人の心は一つであった。
いまだに本調子でないらしいレナの机へ、いそいそと全員分の机をくっつけ、各々弁当を広げる。
「今日の私の弁当は、梨花特製の肉じゃがですのよー?」
「おお、何たる奇遇! 俺も実は肉じゃが、大好物なんだよなー」
「あげませんわよ? 私も大好物なんでございますから」
涙ぐましいほどの努力で場を盛り上げようとする両名。このときまさに、彼らは義兄妹の契りを交わしたのかも知れない。
「あの、圭ちゃん」
「おう、何だ、魅音?」
満面の笑みで(というには口元がやや引きつっていたが)振り向く圭一。
もはや俺はすべての現実を受け入れたぞ、といわんばかりのその表情が、魅音がどどんと取り出した弁当――重箱五段重ねはあろうかという代物を見た瞬間、がくんと顎が外れそうになる。
「今日は、たくさん作ってきたから……よかったら、私のを食べるといいよ」
はにかむような表情で、フリフリワンピースに赤いリボンの令嬢は重箱を広げた。一座の中央ではなく、圭一の前にばかり並べて行く仕草が、何か獲物を囲い込むようですらある。
一体どこに、この巨大な弁当を隠していたのだろうか、などと圭一は冷や汗を流しながら考えた。記憶が定かなら、魅音はごくごく可愛らしいポシェット以外に持参してきたものはなかったはずなのだが。もしやあれこそが噂の四次元ポシェット?
極めて物理的な難問に囚われた圭一をよそに、絶望的な戦局にもなお抗戦意欲を失っていないらしい沙都子が口を挟んだ。
「ま、まあ、すばらしいお弁当ですわ、魅音さん。私もいただいてよろしいですかしら?」
「もちろん。皆も遠慮なく食べてよ」
思いもかけず寛容な、いや、これこそ普段通りの台詞に胸を撫で下ろしたのは、沙都子だけではなかったろう。
「わ、わー、すごいね、魅ぃちゃん」
「……みー。もしかして、魅ぃの手作りなのですか?」
「うん。久々に、料理して見たくなっちゃって」
ようやく復活しつつあるらしいレナが歓声を上げ、梨花がにぱーと笑いながら訊ね、魅音が誇らしげに答える。
どうにか稼動し始めたかに見える「日常」に、圭一と沙都子は感涙寸前の視線を交わした。
――圭一さん……
――よくがんばった……よく今までがんばってくれたよ、沙都子……
――はい、にーにー……
目だけで語り合う義兄妹。
ともあれ、たしかに歓声を誘うに相応しい豪華な弁当であった。
一段目が天麩羅や煮つけなどの和食、二段目がサンドイッチにハンバーグなどの洋食、三段目は唐揚や焼売の中華でまとめられ、四段目にはおにぎりが詰めてあり、五段目にはデザートの果物がぎっしりという完璧な布陣である。
「う、うまい……!」
とりあえず口に放り込んだ海老の天麩羅に、圭一は思わず賛嘆した。作ってから時間が経っているにも関わらず、衣はサクサクしていて、海老の身も瑞々しい。食材もよいのだろうが、油の使い方にコツがあるようだ。
「魅音って、料理もできたのか」
「そうだよ。魅ぃちゃん、普段はあんまりやらないけど、すごく料理が上手なの」
「……口惜しいですが、完敗ですわ」
「沙都子も上達してるのです。今にきっと、魅ぃにも負けないくらいの料理が作れるのですよ」
とりあえず皆、魅音の服装と行動については見なかったことにするという結論で一致したようだった。後ろ向きではあるが実に健全な姿勢である。
実際に弁当が美味だったこともあり、会話も弾んでくる(重箱五段重ねという、一人あたり普段のほぼ倍近くになる物量についても、実際に腹が膨れるまでは無視する方向で一致していた)。
「あら、この唐揚も絶品。魅音さん、さすがでございますわね」
「おいこら沙都子、俺にも寄越せ!」
「おーほっほ! 早い者勝ちですわー」
飯を巡って圭一と沙都子が喧嘩を始めるのもいつものこと。ただし、いつにも増して二人の顔が綻んでいるのが、実に微笑ましい。
「あ、圭ちゃん、唐揚好きなの?」
と、ちょうどその自作の唐揚を齧っていた魅音が口を挟んだ。
「当然だ。しかしこの偏食娘が最後の一つを掠め取りやがって」
ぶちぶちと文句をいう圭一に、
「はい」
と、しごく当たり前のようにして、魅音は唐揚を差し出した。
――つい今の今まで自分が齧っていた、食べかけの唐揚を。
「魅、魅ぃちゃん!?」
「な、何をなさっているんでございますのー!?」
「…………」
レナと沙都子の絶叫が木霊し、梨花の表情がほんの一瞬無表情になる。
そんな周囲の反応がまるで目に入らぬ様子で、
「食べかけだけど……いいよね?」
魅音はさすがに頬を赤らめつつ、唐揚を摘まんだお箸を圭一の口元に寄せる。
「はい、あーん……」
「あ、『あーん』!?」
何ばしょっとですか、姐さん!?
何故か鹿児島弁で心のツッコミを入れつつ、圭一はおたおたと周囲を見渡した。
しかし、ムンクの「叫び」と化したレナと沙都子、そして得体の知れない微笑を浮かべる梨花は、ただこちらを凝視している。
「圭ちゃん……?」
目の前の唐揚を恐怖にも似た目で見つめる圭一に、魅音は表情を曇らせ、
「やっぱり、嫌、なのかな。私なんかが口をつけたものなんて……」
「そ、そんなことはないとも!」
あああ俺の馬鹿!!
心の中で非情になり切れない己を罵倒する圭一に、
「…………」
「…………」
「…………」
そして、心なしか眼差しを鋭くする少女たち。
その視線から逃れるように、圭一は自暴自棄で目の前の唐揚に食いついた。
「…………」
正直、味などまったくわからなかったが、遮二無二咀嚼して嚥下する。
「どうかな?」
「あ、ああ……美味しいよ」
もはや、返答は脊髄反射のレベルであった。
それでもしかし、魅音は照れたように顔を俯かせ、
「……こんなのでよければ……毎日、作って上げるよ?」
上目遣いに、そう囁いた。
「あ、ははははははは……それは……嬉しい……なぁ……」
掠れた声でも答えを返せたのは上出来といえた。
レナ、沙都子、そして周囲で恐る恐る状況を覗っていたクラスメイト一同はすべからく塩の柱と化している。
そんな中、ただ一人、不自然なほどにいつも通りの表情で圭一を眺めていた梨花が、おもむろにいった。
「圭一、肉じゃがは嫌いなのですか?」
「え、あ、いや。そんなことはないけど」
横からの発言に感謝しつつ(しかしその表情に何故か恐怖を感じつつ)応じた圭一に、梨花はおもむろに自分の弁当箱から肉じゃがを取ると、
「……どうぞです。あーん」
「り、梨花ちゃん!?」
「あーんです」
梨花の表情がほんの一瞬、感情というものの消え失せた素の表情になった。
「――あーんです」
「い、いただきます!!」
ぴんと背筋を伸ばし、泣き出す寸前の表情で圭一は肉じゃがを頬張った。
それを目の当たりにした魅音が、対抗するように新たなおかずを差し出す。
「はい、圭ちゃん」
「圭一。もっと食べるといいのですよ」
「あーん」
「あーん」
――この後。
残った弁当すべてを一人で食い尽くした圭一は、食い過ぎで保健室に運ばれた(その際、当然の如く付き添おうとした魅音と梨花を、知恵先生が泣きながら引きとめた)。
あのときの前原さんは、ゴルゴダの丘を登るキリストのように崇高でした――と、何人かの生徒は後に語っている。
終礼の鈴が鳴った。
同時に、わぁぁぁ……と広がる歓声。苦しくも辛い時間からの解放を約束する、それはまさに福音であった。
「うっうっう……終わったんだよな、終わったんだよな?」
「そうとも、俺たちは生き延びたんだ!」
「母さん……今、帰るよ……」
まるで激戦区から戻ってきた帰還兵の会話である。
明日にはまた過酷な戦場が待ちうけているのかも知れない。しかし今このときだけは、解放の喜びを分かち合おうではないか、戦友よ。そう、せめて今だけでも――
太平洋戦争の記憶などはるかに遠くなった昭和五十八年の雛見沢、しかし彼らの歓喜に水を差そうとする不埒者は、この場には存在しなかった。
運悪く掃除を割り当てられた生徒を除き、非日常の教室を離脱して、各々日常の世界へと飛び出して行く。
――そして、園崎魅音は校舎裏にいた。
望んでのことではなかった。それは、不満げにしかめられた眉根からも明らかであったろう。
「ねえ、梨花ちゃん。何の用?」
彼女は目の前の背中に問い掛ける。
終礼の合図の直後、ポシェットを片手に保健室の圭一(彼は昼休み以来ずっとそこでうなされていた)を見舞おうとしたところを、半ば無理やりにここまで引っ張られてきたのだ。
「……いくつか訊ねたいことがあるだけなのです。すぐにすむのですよ」
梨花は振り返り、にぱーと笑う。
「うん。じゃ、早くすましてもらえるかな? この後も予定が詰まってるの」
「……何の予定なのですか?」
「大したことじゃないんだけど、婆っちゃに圭ちゃんを紹介しよっかなーって」
「…………」
いつも通りの笑顔を崩さない梨花、しかしその眼が猛禽の如く光ったのは、果たして陽光のせいだけであったろうか?
「へ、変な誤解しないでね? ただ、圭ちゃんとはこれからもずっと仲良くしていきたいし、だったら婆っちゃと引き合わせて家族ぐるみのお付き合いしていくのもいいかなーって思っただけなんだから」
訊かれもしないのにいらぬことを説明する魅音であった。
「ち、近いうちに、父さんと母さん、それに園崎の主な親戚連中にも会って欲しいとも思ってるし。ふ、深い意味なんてないんだよ、本当? ただ、園崎に受け入れてもらうには早いうちに地ならししといた方がって……あ、その、受け入れてもらうっていうのにも全然深い意味はなくって……」
語れば語るほど墓穴を掘っているのだが、本人は何故か幸せそうである。
「や、やっぱりアレじゃない? ウチって都会育ちの圭ちゃんには馴染みのない風習とか格式とかも多いし。早め早めに馴れてもらう意味でも急ぐ必要が」
頬を赤らめつつも矢継ぎ早に語られる(非常に一方的な)予定を、
「……もういい。黙って」
冷淡な一言が断ち切った。
「へ?」
ぽかんと口を開けた魅音の前に、見たこともない表情をした少女がいた。
それを何と評するべきだろう。
眼差しはどこまでも鋭く、それでいて明晰な輝きを宿している。口元に浮かぶのは、嘲るような冷ややかな微笑――
「――あなたは、この世界がどんなに脆いものかわかっているのかしら?」
古手梨花、少なくとも周囲からそう呼ばれる少女の姿をしたそれは、静かに問うた。
声色こそ幼い少女のまま。しかしそこに込められた響きは、この世の果てまで見通すような女のそれ。
「優しい世界。楽しい時間。そこにいるときは永遠のように思える日々。――けれど、永遠など、この世のどこにも存在しない」
言葉を失った魅音に、それは淡々と語りかけた。
「誰もが当たり前のように続くと信じている日常なんて、しょせんは砂上の楼閣も同じこと。喜怒哀楽で編まれた骨組に、現状維持を望む無意識の願望を張りつけただけの、見栄えのいい張子の虎。人が本来ひどく不安定で脆弱なものである以上、その本質が変わることは未来永劫ありえない。――園崎魅音、そのていどのことがあなたにはわからないのかしら?」
「そ、そんなことは……」
「ない、とでもいうつもり?」
「…………」
「勘違いしないで欲しいのは、だからといって私が目の前の現実を嫌っているわけではないということ。砂上の楼閣。張子の虎。いかに脆く危ういものであろうとも、私はそこに居心地の良さも感じている。それを――」
梨花は断罪するように眼を細めた。
「――あなたは崩そうとしている」
「…………!?」
「今のあなたは自分しか見えていない。その足下に何があるか、確認しようともせずに踏みにじる。何が壊され、何が失われたのか、まったく気付こうともしない。……許しがたい無知と盲目」
「わ、私が何を踏みにじったっていうの?」
「その問いを発すること自体が、あなたの罪を明らかにしている」
頭三つ四つ分は高い位置にある魅音の顔を、まるで逆に睥睨するように見つめて。
「責めはしない。償いも求めない。ただ従いなさい。そう――」
古手梨花――今代の古手家頭首は、神託を述べるようにして言い放った。
「とりあえず、圭一には不必要に親しくしないように」
「……は?」
一瞬、何をいわれたのかわからず、魅音は思わず状況を忘れて間の抜けた声を発した。
「そもそもあなたには圭一が常日頃から論じる萌えというものがわかっていない。いえ、わかっていないというよりそもそも致命的にキャラクターが適合していない」
「……はい?」
「少しくらい背が高くて胸が大きいからといって頭に乗るなどと笑止千万」
「もしもし?」
「時代はつるぺた。庇護欲をくすぐる年下の可憐さこそが萌えの原点。私の場合、それに加えて聡明さと包容力も持ち合わせているのだからさらに完璧。時には子猫のように甘え、時には母の如く包み込む。可憐さと母性の両立という、他には到底不可能な特性を私は実現した」
「……もしかして」
先刻までとは立場が入れ替わったように喋り続ける梨花へ、魅音は白い目を向けた。
「梨花ちゃんも、圭ちゃん狙ってたわけ?」
ぴたり。
「…………」
凍りついたように制止する古手家頭首。
それまで魅音をしっかと見据えていた目線が、さり気なく外されてあらぬ宙を眺めた。
「――事象の解釈は千変万化。言葉の表現もまた然り」
「?」
「そういう見方も、できなくもないのかも知れないと認めるのに吝かではないと思わなくもない今日この頃」
「無理して複雑な言い方にしないっ!」
一方的に気圧されていた至近の記憶を忘却し、魅音は弾劾の徒と化した。
「つまり何っ! 長々小難しい口上並べておいて、要は『圭ちゃんに近寄るな、自分が狙ってるから』って、それだけがいいたかったわけ!?」
猛然と食ってかかる魅音に対し、
「み〜?」
梨花はとてつもなく可愛らしい仕草と表情で首を傾げた。
「誤魔化されるかぁーっ!!」
しかし恋敵には通じなかった(当然である)。
古手家現頭首はあさっての方向を向いたまま表情だけを器用に改め、
「誤魔化すなどと人聞きの悪い。園崎というのはこれだから」
「いちいち妙な理屈をこねて自分を正当化する方が姑息でしょーがっ!」
「み〜〜?」
「都合が悪くなると可愛らしいフリすんの、やめなさいっ!!」
ぜーはーと呼吸を整えつつ、魅音は据わった眼で梨花を睨みつけ、
「よーくわかったよ。おじさん、レナが一番のライバルだと思ってたけど、真の敵とは気配を感じさせず潜んでいるものだったんだね……」
「……それはもしかして宣戦布告なのですか」
「確認の必要、あるのかなぁ……?」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
鬼を継ぐ娘と、オヤシロさまの生まれ変わりとされる少女は、無言で睨み合った。
人ならざるモノ同士の争い、神話の再現――
などという詩的な比喩をするには、内実があまりに俗っぽいのが珠にキズではあったが。
無言のままに十数秒、否、数十秒が流れ過ぎる。
次に動いたとき、それこそがどちらかか死ぬときだ、と両者ともに合意していた(男を巡る口喧嘩で、何故に人死にが出るのかは不明だが)。
「…………」
「…………」
高まる緊張。それは緩やかに、しかし確実に臨界点へと達しかけ――
「……いやー、しかし助かったよ」
少し離れた場所から聞こえてきた、意中の男の声を鼓膜に捉えるや、あっさりと四散した。
「!!」
「!?」
まったく同時に校庭の方へと視線を向ける、鬼の末裔とオヤシロさまの化身。
鋭過ぎるほど鋭いその視線にまったく気付かぬ風で、前原圭一少年は校門に向かって歩を進めていた。
一人、お供を連れながら。
「まったく、圭一さんも仕方ありませんわね。自炊もできないんですの?」
「う。キャンプでカレーを作ったことくらいはあるんだけどさ」
「経験の内に入りませんわ。そもそもまともに包丁使えるんですの?」
痛烈なツッコミに、圭一はぐぐっと言葉を詰まらせ、
「……すまん。自信はない」
「正直で結構ですわ。それに免じて、私が面倒見てさし上げます」
いつになく優しい沙都子のこの発言に、「!!!!」と顔を引きつらせた傍観者たちがいたことを、義兄妹の契りを交わした二人は気付いていなかった。
「そうと決まれば、まずはお買い物ですわね。何か食べたいものはありまして?」
「あっさりさっぱりの和食希望。味噌汁にご飯が恋しい。つーか、今日はもう、くどいものは入らねぇ」
「……そうでしたわね。じゃ、豆腐にワカメに……それだけじゃ寂しいから、何か煮物も」
「……お前、いい嫁さんになれるぞ」
「ほ、褒めたって何も出ませんわよ? ご飯は作ってさし上げますけど」
いつになく素直な圭一の「いい嫁さん」発言に(以下略)。
「ご両親は、いつまでお留守でございますの?」
「明後日までだが。正確には明後日の夜に帰ってくるのかな」
「じゃ、明日一日と、明後日の朝・昼食も必要ですわね」
「作ってくれるのか?」
「の、乗りかかった舟でございますから。ええ、圭一さんがよろしければ」
「悪い理由なんてないぞ。うん、全然ない」
「も、もう、調子のいい人ですわね」
「そういうなって。もはや頼りになるのは沙都子だけなんだ」
ぽんぽんと沙都子の頭を撫でる圭一。
恥ずかしそうに、けれどはっきりと嬉しそうに顔を綻ばせた沙都子が、「本当に、世話の焼けるにーにー……」と小声で呟く。
それを聞き取ったのかどうか、圭一は優しく微笑して、沙都子の手を取った。
「ほら、買い物行くんだろ? 荷物持ちに付き合うよ」
「と、当然ですわ!」
仲のいい兄妹そのものの笑顔を交し合う二人。
二人連れたって歩くその光景は、真面目モードでの監督が見れば落涙したかも知れない。
微笑を交し合いながら二人は歩く。
砂利の敷かれた校庭で、ざくざく、という圭一の足音に、さくさく、という沙都子の足音が重なる。
そして――
そのすぐ後に、ぺたぺたという足音が二人分。
「……ん?」
「……??」
思わず立ち止まる義兄妹。
ぺた、というステレオ音声の足音が、一つ余計に砂利を踏みしめてから停止する。
首を傾げながら振り返った二人は、そこに「恐怖」を見た。
「……つくづく……真の敵ってのは、思わぬところで牙を研いでいるものなんだねぇ……」
「……獅子身中の虫、トロイの木馬、カエサルにとってのプルータス。まさか妹萌えなどという直球勝負で挑んでくるとは……うかつ」
フリフリワンピースを纏った怒れる鬼と、童女の姿をした断罪の神がそこにいた。
微妙に威厳とか威容とかいうものとは縁遠い姿ではあったが、鷹の如きその視線と、氷よりも透き通ったその微笑とが、理屈抜きの迫力でもって圭一と沙都子の体を縛った。
鬼と神はその様を揶揄するかのように、笑う形に表情を一変させ、
「ねえ、沙都子? おじさん、抜け駆けってあまり好きじゃないなー」
「沙都子、ボクは思うのです。苦しいことも楽しいことも、共に分かち合ってこそ真の友たりうるのではないか、と」
何気ない言葉の端々に、常人なら気絶しかねない凄みがあった。
「に、にーにー……」
「し、心配ない」
泣きそうな顔の沙都子がしがみつき、我に返った圭一が庇うように前に出る。
「み、魅音、梨花ちゃん! 一体何を怒ってるんだよ!?」
我が身を省みず人外の相手に立ち向かう義兄。まさに麗しき兄妹愛であった。
震えた声ではあったが、力は失われていなかった。
御三家の末裔二名が一瞬、怯んだ色を見せ、そしてすぐさま回復する。
「圭ちゃん、ご両親、留守なんだ? もしよかったら、遊びに行ってもいいかな? 沙都子、一緒にご飯作ってあげようよ」
「どうせなら、ボクたちの家に泊まり込めばいいのですよ。部屋は余ってるのです。構いませんですよね、沙都子?」
素早く方針を転換し、沙都子を取り込む策に出る魅音と梨花。どうやら、沙都子のことはあくまでただの妹として割り切ることにしたらしい。恐るべき柔軟性と見切りであった。
そして言い終えるや、横目でじろりとお互いを睨み、不自然なほど穏やかな声でたしなめ合う。
「梨花ちゃん、曲がりなりにも女の子の家に、易々と男を泊めるなんて感心しないよ?」
「三人で川の字になって寝るのです。もちろん魅ぃも遊びに来ても構いませんですよ? ただ、ご家族が心配すると行けないから、暗くなる前に帰っていただくですが」
一応は道理であるはずなのだが、何故か底知れぬ下心を感じさせる台詞であった。
なけなしの勇気を使い果たした圭一は口をさしはさむことができず、沙都子は部長と親友の争いにただ恐怖している。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
そして再開される、命をかけた睨み合い(?)。
もはや義兄妹は、互いに寄り添い合って嵐の過ぎ去るのを待つしかない。
「……園崎家頭首代行、園崎魅音」
「……古手家頭首、古手梨花」
二人は宣誓するように己が名を唱え、
「……いざ」
「……尋常に」
各々、怪しい武術っぽい構えを取った。
『勝負ぅ!!!』
――この日、雛見沢に嵐が吹き荒れた。
「――すいません、葛西。もう一回、いっていただけますか?」
呆然と、園崎詩音は受話器の向こうに問い返した。
『ですから、大暴動です。雛見沢に在住していた園崎の親戚筋と、古手神社の氏子を中心としたグループが、それこそ命がけの殴り合いを』
「…………」
『詳細は不明ですが、魅音さんと古手の梨花さまのいさかいが発端らしいです。で、騒ぎを聞き付けた村人が次から次へと参戦して泥沼に』
お互い助け合うのが雛見沢の掟。それが物の見事に裏目に出た形らしい。
何より、乱闘の中心人物がよりにもよって園崎魅音と古手梨花であったのが大きかった。県下最大の武闘派暴力団たる園崎組はいうまでもなく、古手神社の氏子連中――通称「梨花ちゃま後援会」も、高齢揃いながら恐るべき結束力で知られている。
『おまけに、たまたま往診に来ていた入江診療所の先生……ご存知ですよね、入江先生。何故かあの人まで雛見沢ファイターズを率いて参戦し、他の生徒たちも連鎖的に加わって』
入江先生こと「監督」が沙都子を常に気にかけていたこと、そして前原圭一が学校の男子生徒たちから「心の師」「アニキ」と慕われていたことを、葛西は知らなかった。
『幸い死者は出ませんでしたが、負傷者は数え切れません。本家筋では大騒ぎですよ。親族会議で真相を究明すべきだとの意見も出ていますが、暴動には村の重鎮が揃って参戦してまして。公由家のご頭首ですら病院に担ぎ込まれたらしくって、会議をしようにも面子が集まれそうにないんです』
「お、鬼婆はどう対処するつもりなんですか?」
『それが一番不可解なところでして。何でも、事件の一報を聞いたときに、珍しく上機嫌で大笑いされたそうです。「恋の炎が大火になりおった」などと呟かれたそうですが……どういうことなんでしょうねぇ』
戸惑ったような葛西の台詞であったが、詩音はその一言に戦慄を伴う推測を組み立てていた。
「あ、あの、葛西?」
『何でしょう』
「一つ聞きたいんですけど……お姉、もしかしてすっごく可愛らしいワンピースで、いそいそお弁当作って持って行ってたりしました?」
『え? ああ、はい。そういえば、本家に務めてるお手伝いの方が、たしかそのようなことを。魅音さんもお年頃ということなんでしょうねぇ』
それがどうかしましたか? といいたげな口調で、葛西はあっさりと答えた。まさかそれと暴動とを結びつけて考えようとはしていないようだ。しごく当然で常識的な反応である。
「か、葛西……」
『はい?』
「も、もしかしてとは思うんですけど……事件の原因作ったの、私かも知れないです」
『ちょ、どういうことです?』
「ごめんなさい、詳細はまた後で!」
叩きつけるように受話器を置いて、詩音は呆然と宙を見上げた。
まさかとは思う。
信じたくはない。
だが、あの極端から極端へと走るお姉ならば……
「わ、私のせい? いやでも、恋のアドバイスをしたくらいで何でこんなことが!?」
まったくもってもっともな呟きであった。
うろうろと部屋の中を歩き回りつつ、詩音は苦悩する。
一年前に悟史を庇って祖母からの糾弾を受けたときですら、これほどの窮地ではなかったような気がしていた。
――ふぅん。やっぱりそうだったんだ……。
底冷えのするような声が部屋に響いたのはそのときだった。
「え?」
空耳かと思って足を止める。
室内に人影は――
――魅ぃちゃんが突然、あんな行動に走ったのは、誰かの入れ知恵あってのことだと思ってたけど……
人影は、あった。
窓の外。ベランダ。
そこに、月を背後に誰かが佇んでいる。
「……ひ……え……あ……」
詩音は呆然として声もない。
ベランダの人影が、右の腕をゆっくりと振りかざす。
巨大な斧がその手に握られていることを、詩音は現実から乖離しかけた精神の一部で認識していた。
――ねぇ……? オヤシロさまの怒りに触れたことって、あるかな? かな?
「%&+##*?¥=$@!!!!!!」
その夜、言語を絶する凄絶な悲鳴が響き渡ったことを、近隣の住民すべてが聞き取っていた。
……昭和五十八年六月X日、雛見沢で発生した大暴動について、確たることは何も判明していない。
全住民の約四十パーセントが参加し、うち半数以上が病院送りとなった大惨事にも関わらず、真相を知ると見られる関係者各位が揃って口を噤んでいるのだ。
この事件を、前年まで続いていた連続怪死事件と関連づけるのは、果たして早計であろうか?
たしかに、今回の事件は規模も大きく、日付も綿流しの数日前と(ちなみに本番の綿流し祭は、村人の二割がいまだに入院していたため、事前の予定よりかなりささやかなものとなってしまった)、それまでの事件と共通点を探すことは難しい。
だが、同じ土地の、ほぼ同じ時期に、これほどの惨事が生じたことは、見過ごすことが出来ない。
私、大石蔵人は、志を同じくする同僚たちを募り、公式非公式の捜査を行ったが……
見るべき成果は、皆無であった。
事件の中心にいると見られるK・M少年に接触を取ろうとしたのだが、園崎家次期頭首・古手家現頭首をはじめとする少女数名が常に周囲を固めており、立ち入った話ができる状態にない。
どうやら、御三家にとってもあの少年はよほど重要な存在のようだ(そのわりに、K・M少年本人が、こちらにすがるような視線を向けていたのは気のせいであろうか?)。
だが、私は諦めない。
負傷した村人たちのためにも、この惨劇の真相は必ず解き明かす。
雛見沢の闇を、いつか必ず白日の下にさらけ出して見せる。
それだけが、私たちの望みなのである。
(とある刑事の手記)
雛見沢大暴動参加者一覧
園崎 魅音
無傷。暴動後、親族会議において「今度婚約者を紹介します」と発言したとの情報あり(真偽の程は不明)。古手 梨花
無傷。暴動後、綿流し祭において「来年には新たな古手神社の主を紹介するのですよ」と発言、オヤシロさまの神託で将来の婿が決まったらしいとの噂が村に広まる(真偽の程は不明)。北条 沙都子
精神面に若干の後遺症あり。事件後しばらく、専門医のカウンセリングを受ける。竜宮 礼奈
暴動に参加せず。ただし暴動の終息した深夜、斧を片手にふらふらと歩いているところを目撃される。入江 京介
全治一ヵ月で入院。退院後に結婚、北条沙都子の法的保護者となる。富竹 ジロウ
暴動を撮影した写真(題名は「聖戦」)を雑誌社に売り込み、プロカメラマンとしてデビュー。公由 喜一郎
全治一ヵ月で入院。当初は暴動を治めようと乗り込んだものの、気が付いたら第三勢力を率いて暴動を拡大する側に回っていたらしい。(「魅音ちゃんと梨花ちゃんをたぶらかした若造はどいつじゃー!?」と叫んでいたとの証言あり)亀田 幸一
急を聞いて駆けつけ、雛見沢ファイターズとともに参戦。暴動後、負傷の身を押して全国高校野球選手権大会に出場。甲子園ベスト4にまで進出し、全国で感動を呼ぶ。富田 大樹
全治二週間で入院。岡村 傑
全治二週間で入院。園崎 詩音
暴動の翌日、自宅マンションで何故か半死半生となっているところを発見(詳細不明。事後の聴取で、本人は「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」としか語らず)。
前原 圭一
全治三ヵ月で入院(暴動の参加者中、もっとも重傷だった)。なお、入院中、園崎魅音・古手梨花・北条沙都子・竜宮礼奈の四名が付きっきりで看病していたとの報告あり。
付記:入院半月目に胃炎と胃潰瘍を併発。
ひぐらしはないているか 終
後書き
「目明し編」をやり終えた直後、突発的に書き上げてオフィシャルHPの掲示板に投下したSSです。
原作があまりに救いのないバッドエンドなので、思い切りお馬鹿でらぶらぶな話にしてやろう、と。
梨花ちゃんがえらく黒い性格になっているのは仕様です(笑)。