日の当たる窓辺に腰掛けて、彼はぼんやりと時を過ごしていた。
 窓の外に広がる緑地帯は、ちょっとした森と呼べるほどの規模があり、鮮やかな陽光に照らされて存分に枝葉を伸ばしている。
 ――けれど、そうした光景すら、彼の心を慰めることはない。
 彼はため息を一つつき、傍らのデスクの上に投げ出された新聞を眺めた。
 一面の見出しは、日本政府が推し進めている軍制改革――いや、形式上日本には「軍隊」など存在しないことになっているのだが――についてのスクープだ。
 使徒戦争より十年、五機のエヴァ、四人のパイロットを自国に留めることに成功した日本は、ある意味では世界最強の軍事大国となりおおせつつある。
 もとより反戦・反政府を旨とするマスメディアはそれ故、この種の問題に関して熱心に取り上げる。
 彼の目線はしかし、大きな見出しの右下に、ついでのように記載されている小さな見出しに向けられていた。
 ――「度重なる事故の隠蔽 行き過ぎた秘密主義に高まる批判の声」――
 記事の内容は、どうということはない。
 十日ほど前、東北の国連軍基地で生じた事故――十数人の死者を出した事故について、国連と日本政府は一週間以上に渡り発表を控えていた。国連と政府は二ヶ月ほど前にも、国内にある国連軍技術研究所で生じた事故について同様の隠蔽行為を試みており、昨今の情報公開の流れに逆行するこの種の体質について国民に不満の声が高まっている……云々、そういう記事である。
 事故――事故、か。
 彼は小さく呟いた。
 しばし目を閉じて、黙祷するように頭を垂れる。
 微風が窓を揺らすのが聞き取れた。
 窓に差す常夏の陽光はどこまでも眩しく、剥き出しの首筋や腕を焼く。
 どこかから、子供たちの声が響いてくる。
 続いて、廊下を元気に駆け回るいくつもの足音。
 それは、古い造りの床を鳴らしながら、彼のいる部屋へと近づいていた。

「碇せんせー!」

 ドアが開け放たれ、足音の主が顔を出した。十歳になるかならずかという年頃の、幼い子供たちだ。

「遊ぼうよー!」
「鬼ごっこ、するのー」
「戦争ごっこの方がいいって」
「あたし、そんなの嫌ー」

 口々にけたたましくいいながら、どかどかと部屋に入ってくる。

「あー、はいはい」

 彼は立ち上がりながら苦笑した。
 先程までの物憂げな眼差しは、子供たちの声を聞いた瞬間に蒸散していた。

「ご、ごめんね、シンジ。私一人じゃこの子達、押さえ切れなくって……」

 子供たちに続いて入ってきた、彼と同年代の娘が、すまなさそうにいう。

「いいよ、マナ。どうせ暇してたんだし」

 彼は穏やかに笑ってから、子供たちの前にかがみ込んだ。同年代の男性に比しても長身の部類に入る彼は、そうやってようやく子供たちと同じ目の高さになる。

「じゃ、何をして遊ぼうか?」
 

 

 

 

 

 

 

 

女神たちの晩夏
case 2: 3rd Children 〈怪物〉 碇シンジ -前編-

七瀬由秋

 

 

 

 

 

 

 

 愛車のスカイラインGT−Rは今日も快調にエンジンを回していた。
 郷に入っては郷に従え、日本車の中で最強最速のものを――という基準で選んだ車だが、アスカはその選択に大いに満足していた。信頼性の高さでは世界随一の日本車、その中でもレースに勝つために製作されたような車だけあって、馬力も最高速度も安定性も申し分ない。
 日本に帰国して一週間、慌ただしい日々が続いていたが、この爽快なエンジン音を聞いているとそれだけで気分が昂揚してくるのだから不思議だ。
 高速道路を出てから国道を逸れ、郊外へと進路を取る。
 日本の首都・第弐新東京。とはいえセカンド・インパクト後の国家のほぼすべてがそうであるように、都市部から少し外れると未開発の山や森林が剥き出しになる。
 前時代的な田舎町に近いレベルの集落を抜け、一つの建物の前でアスカは車を停めた。
 聖エリカ教会――掲げられた看板にはそう記されている。そしてその文字の横に、「こどもの家」という表記もある。
 車から降りて、アスカはその看板をしげしげと眺めた。話には聞いていたが、実際にここを訪れるのは初めてだった。
〈彼〉がここに勤めているというのは、納得した気分になると同時に、何か奇妙なおかしみを感じさせる事実でもあった。
 開け放たれたままの門を通り抜ける。
 古びてはいるが頑丈そうな教会の建物ではなく、広々とした庭の方に足を向けたのは、そちらの方角から子供たちの笑い声に混じって〈彼〉の声が聞こえてきたからだ。
 予想通り、〈彼〉はそこにいた。
 何の遊びをしているのかは知らないが、子供たちに囲まれている。
 困ったような笑みを浮かべてはいるが、それは紛れもなく幸せそうな姿だった。
 十年前に出会ったばかりの頃の〈彼〉からは想像もつかないほどの、濁りのない楽しげな笑顔。
 アスカは口許を綻ばせ、その名を呼んだ。

「シンジ!」

 視界の中で、〈彼〉が驚いたように顔を上げる。
 中性的な顔立ちがこちらに向けられ、目を丸くするのが見て取れた。

「アスカじゃないか――久しぶり!」

〈彼〉――十年前の使徒戦争を勝ち抜いた〈五人のチルドレン〉、その中でも最強と謳われたエース・パイロット。圧倒的という他はないその才能によって〈怪物〉とまで呼ばれたサード・チルドレンは、子供たちに囲まれながら顔を綻ばせた。

 

 

 ちょっとした挨拶を交わした後、シンジはアスカを教会の応接室に案内した。一緒に遊んでいた子供たちに詫びを入れたのは当然のことだ。その際、「綺麗な人ー」「浮気だ浮気だ」「霧島先生、いいんですかー?」などと、子供たちは当然の権利でもって囃し立てたものである。

「ま、座ってよ。コーヒーと緑茶、どっちにする?」
「コーヒーはインスタント?」
「確認するようなことじゃないな。ここは清貧を旨とする神の庭なんだ」
「んじゃ、コーヒーで。ミルク入れて」
「はいはい。砂糖はいらなかったね」

 彼女の好みについてはすでに承知しているシンジは、手際よくインスタントコーヒーを淹れてくれた。クッキーの載った皿も添えている。

「なかなか堂に入ってるじゃないの」

 コーヒーを淹れる仕草にではなく、先刻見た光景について、アスカはいっていた。

「変われば変わるものねぇ。あんたが今や、孤児院の先生、保育士か――いや、孤児院の場合も保育士っていったっけ? ま、いいか」
「ほとんどボランティアだけどね。実質的には無職みたいなものだよ」

 自身は緑茶の湯呑みを傾けながら、シンジは苦笑する。
 この聖エリカ教会は、ささやかながら孤児院も営んでいた。先程の子供たちを含め、十人ほどの孤児が養育されている。いずれも、セカンド・インパクトや使徒戦争で親を亡くした子供たちだ。

「例えボランティアにせよ、ある意味すごい組み合わせよ。教会の孤児院に予備役とはいえ軍人の、それもエヴァパイロットが、なんて。なんたって、あたしたちは神の遣いと戦争やらかした当事者なんだから」
「大山神父――院長が、大らかな人でね。宗派がどうであれ――仮に無神論者であったとしても――子供たちを可愛がってくれるなら大歓迎だってさ」

 楽しげに答えてから、彼はついでのように付け加えた。――院長は、ここで唯一僕の経歴を知ってる人なんだ。

「楽しくやってる、みたいね」
「毎日が、それこそ十年前に匹敵する戦争状態だけどね。泡を吹きながら走り回ってる」
「でも、それが楽しいんでしょ?」

 断定するように訊ねると、彼は躊躇なく「うん」とうなずいた。
 それからしばらく、近況報告を兼ねた世間話が交わされた。
 かつて繊細すぎるほど繊細で、時に柔弱にすら思えた少年が、今やその優しさを残しつつも一人の男として地に足をつけている現状を確認し、アスカは嬉しくなった。
 一通り話してから、彼女はふと表情を改め、本題へと入った。

「――鈴原の葬儀、参列したのよね?」
「……ああ。通夜には間に合わなかったけど、葬儀には、どうにか」

 シンジは沈んだ表情でうなずいた。
 鈴原トウジの死は、彼にすら秘匿されていたらしい。ただし、国外にいたアスカとは異なり、葬儀にだけはどうにか参列することが可能だったようだが。

「洞木さん――いや、ヒカリさんには会った?」
「一昨日ね。……正直、何をいっていいのかわからなかったけど」

 アスカはため息をつく。
 鈴原ヒカリは、思っていたよりも元気そうだった。――もちろん程度問題、それもあくまで表向きは、ということだが。
 一人娘のためもあるのだろう、痛ましいほど気丈に振る舞い、海外から駆け付けたアスカに感謝したものだ。
 幸い――といっていいものかどうか、〈五人のチルドレン〉で唯一、ネルフ解体後も正規軍人として任官していたトウジは、パイロット時代の給与も含めて十分な遺産を残しており、見舞金その他もあって母子が路頭に迷う心配だけはないという。むろん、精神的な衝撃と空白がそれで埋められるわけではないが、とにもかくにも生きるためには食わねばならない。

「あんたは、どう思う? 今回の一件について」
「――見当もつかないよ。トウジとはこまめに連絡を取り合っていたけど、軍隊そのものにはあまり関わりたくなかったしね。……もちろん、エヴァにも」

 まあ、一生遊んで暮らせるほどの給料を払ってくれたことには感謝しているけど、と付け加えつつ、シンジは頭を振った。
 第三使徒サキエルの来襲とまったく同日に徴集され、当時実験中の事故で負傷・療養していた綾波レイ、ドイツで最終調整を行っていたアスカの代わりに、まったくのぶっつけ本番で出撃させられた経験を持つ彼は、エヴァパイロットたることに何ら喜びを見出さない異色のチルドレンだった。そうでありながら解雇も懲罰もされなかったのは、何の訓練もないままにエヴァを起動し、使徒を屠り、そして以後も五人中最高の武勲とシンクロ率を叩き出して見せたからだ。
 最終的な使徒撃破数は二十三。うち、単独出撃による撃破数は十三。彼に次ぐ撃破数を誇るアスカが、使徒撃破数十五、うち単独出撃による撃破数わずかに一に過ぎないから、その武勲は文字通りの意味で飛び抜けていた。おとなしげな外見とは裏腹に、碇シンジにはまさに怪物的と評する他にない巨大な才能があった。

「……これから、どうする?」

 アスカは、短く訊ねた。
 何を、とはあえて口にせず、何が、という反問が帰ることもない。
 シンジは自嘲と苦笑の入り混じった笑みを浮かべ、ただそれだけを答えとした。
 ――それだけで、十分だった。
 トウジはエヴァを用いての戦いで敗北し、戦死した。
 つまり敵は、何物であるにせよ使徒かそれに準じる存在であることに疑いはない。
 表現を変えるなら、警察はもちろん軍の手に負える存在でもなく――アスカたちチルドレンと、それの駆るエヴァでなければ対処できないのだ。
 国連軍は総力を挙げて犯人追及に臨んでいるが、同時にアスカたちを現役に復帰させる段階を窺ってもいるはずだ。
 いや、もともとが、今の予備役という立場すらも半ば名ばかりだった面がある。
 使徒戦争終結後、ネルフが解体されるに伴って、かつてのエヴァパイロットたちは自動的に国連軍に編入されていた。エヴァ自体も国連軍の直轄下に置かれることになり、日本国内の各基地に分散配置されたのだ。
 国連主要国は、日本一国にエヴァとパイロットを集中させるのは軍事バランスの偏りにしかならないと指摘し、世界全土に均等に配置するよう――平たくいうなら、自分たちの国へエヴァとパイロットを寄越すよう――要求したのだが、アメリカが口を開けばフランスが噛みつき、ドイツが演説すればイギリスが反論するといった次第で、議論は百出し一向に妥協点が見出されることはなかった。結局のところは現状維持が望ましいという結論に落ち着き、日本が漁夫の利を得たのだが、それによって外交関係が著しく悪化したのだから、果たして利といえるほどの利であったかどうかはかなり怪しいところである。
 アメリカなどは、ならばと矛先を変えて、アメリカ国籍を持つアスカに帰国するよう伝えてきたし――むろん、数千万ドルの報酬や軍における階級、博士号やら勲章やらの見返りをちらつかせて――、他のパイロットに対しても各国から様々な接触が図られたようだが、いい加減国家や組織に弄ばれることに飽きていたパイロットたちは誰一人としてそれに応じなかった。
 何より、当時の彼女たちは十代にして人類を守りぬいた英雄だったのだ。それをあえて強硬に政治的術策の道具として扱う度胸は、少なくとも主要先進国のいずれにもなかった。万が一にもパイロットたちの素性と、自分たちが彼らをどんな死線に立たせたかがマスメディアに露見すれば、どうなるか知れたものではなかったからだ。ソヴィエト・ロシアや大陸中国の共産党独裁体制が健在であればどうなっていたかわからないが、この両国は国内問題だけで手一杯で、純粋に即物的な意味でパイロットたちに手出しをする余裕を持たなかった。
 もっとも、それでパイロットたちが晴れて一般人に戻れたかといえば、もちろんそうではない。地上最強の兵器たるエヴァンゲリオン、そのパイロットを手放すなど、どんなお人好しにもできない相談だった。
 後に正式に国連軍に入隊したトウジだけでなく、アスカもシンジも、そして渚カヲルも、月に何度か国連軍基地に出頭し、エヴァを用いた各種の実験に協力することが義務付けられたのである。そしてそれは、現在ももちろん継続されている。
 つまるところ、予備役であろうが現役であろうが、彼女たちが今もってエヴァパイロットである事実に変わりはなかった。

「あたしにとっては望むところだけどね。あんたの前でこんなこというのもなんだけど、エヴァに乗ること自体には別に抵抗ないし」

 ま、国連軍は気に入らないけど、と付け加えつつ、アスカはあえて明るい表情を作った。
 それからふと、声音を低くして付け加える。

「……それに、あの熱血バカにはいくつか借りもあったし。仇の一つも討ってやらないと」
「仇……か。たしかに、そうだね」

 複雑な表情で、シンジはうなずいた。凄惨な戦闘経験ゆえ、普段の彼は極力争いごとを嫌う。トウジの死を痛む気持ちはむろん大きいだろう――彼らはプライベートでも親友といえる関係だった――が、復讐という概念があまり好きになれないらしい。
〈怪物〉と呼ばれ、味方からすら恐れられたエース・パイロットの、意外な素顔というべきだった。彼のそういうところが、アスカは嫌いではない。
 彼女は純粋に、慰めるつもりで微笑んだ。

「あんたが出るまでもないわよ。相手が何だろうが、あたし一人で十分」

 昂然と、胸を張って言い切る。
 それに対してシンジが何か答えかけたとき、ドアがこんこんと控え目にノックされた。

『すいません、ちょっといいですか?』

 ドアの向こうから、若い女性の声が聞こえてくる。先程中庭でちらりと顔を合わせた女性の声だ、とアスカは当たりをつけた。シンジには「マナ」、子供たちからは「霧島先生」と呼ばれていた。
 シンジはアスカに目で謝ってからドアに向けて声をかけた。

「どうぞ?」
「失礼します。――ごめん、シンジ。実は……」

 入室してきたマナが、小声で弁解するように何事か囁いた。
 アスカは特に聞き耳を立てるつもりもなくコーヒーをすすっていたが、漏れ聞こえてくる単語から判断するに、夕食の買い出しに行きたいのだが手が足りない、出来れば手伝ってもらえないか――ということらしい。
 そういえば、シンジは料理が得意だったわね、とアスカは懐かしく思い出した。使徒戦争当時、彼とアスカは上官の家に居候していたのだ。その頃、食事の支度はほとんど彼の担当ということになっていた(家主たる上官――葛城ミサトもアスカも、料理が得意ではなかった)。どうやらここの孤児院でも、料理は彼の領分らしい。
 何とはなしに微笑ましい気分になりながら、彼女は空になったカップを置いた。

「あたしのことはいいから、仕事に戻ったら? つか、長居し過ぎたような気もするし、そろそろお暇するわ」

 ちらちらと迷うようにこちらを窺うシンジとマナを見やって、微笑する。

「す、すいません、惣流さん」
「あら、あたしのこと、知ってる?」

 若干驚いて、アスカは反問した。先述したように、チルドレンについては一般に伏されている。

「話は伺ってます。あ、私は霧島マナっていいます。シンジ、いえ、碇さんとはここの同僚みたいなもので」
「アスカでいいわ。敬語もいらない。歳は多分、同じくらいでしょ? でもって、そこの馬鹿のこともいつもの呼び方してて構わないし」

 シンジから写真でも見せられていたということだろう。アスカはからかうようにいった。
 馬鹿呼ばわりされたかつてのエース・パイロットは苦笑しながら、

「アスカも夕食、一緒にどう? 味はともかく量は保証するよ」
「御邪魔しちゃ悪いわよ。子供たちのご飯を横取りするのも気が引けるし」
「その点は心配ない。ここの孤児院の方針は、子供にひもじい思いだけはさせないってものでね。大山神父は、セカンド・インパクト直後においてすら子供たちに腹一杯食べさせていたことを一番の自慢にしてるんだ」

 おかげで建物の方はいい加減ガタが来てるんだけど、と笑いながらシンジはいった。
 アスカはしばし、返答を迷った。
 先程はああいったが、正直、シンジとはもう少し話して行きたい気分があった。同じ第弐新東京の住人とはいえ、決して近所に住んでいるわけではなく、さらに最近は多忙でもあったので、顔を合わせるのは数ヶ月ぶりだった。
 とはいえ、突然押しかけて飯をご馳走になるというのは、控え目にいっても図々しいように思う。シンジ本人の自宅なら話は別だが、ここは孤児院で、彼女は外来の客だ。
 口篭もった彼女を決断させたのは、ドアの所からちらちらと覗き込む複数の子供たちの姿だった。
 そのいずれもが、期待と好奇心に目を輝かせてアスカを見つめている。いかにも、話しかけるきっかけを今か今かと窺っている様子だ。この孤児院の子供たちは、存外人懐っこいらしい。
 半ばはその子供たちに向けて、アスカはいった。

「OK、ご相伴に預かるわ」

 語尾に、幼い声の無秩序な歓声が重なった。

 

 

 その夜の食事は、アスカにとっては久方ぶりの、騒がしいことこの上ない食卓となった。
 シンジの口にした孤児院の――院長たる大山神父の方針は、誇張でも何でもなく、むしろ事実を控え目に伝えたものであることが、アスカにはよくわかった。いや、パスタが山盛りの大皿を当然のように差し出されれば、どんな愚か者にも理解出来るだろう。
 あまり大食とはいえない彼女は、それを四苦八苦しながら腹に詰め込んでいったが、食事の後にデザートのケーキ(これは教会のシスターの手作りらしい)が控えていることを知って、正直気が遠くなった。
 後になって聞いたところでは、セカンド・インパクトにより人口が激減した各国の政府は、近年になって孤児の育成・教育に結構な額の補助金を出してくれているらしい(シンジは神父たちに敬意を表してか、「産めよ増やせよ地に満ちよ、というわけさ」と表現した)。
 むろん、神父やシスターの性格も大いに影響していることに疑いはない。
 教会兼孤児院の主である大山神父は、名は体を表すという言葉の生きた実例――聖職者よりも大工の棟梁だといわれた方が納得できる大柄でいかつい顔つきの人物で、中身もそれを裏切らぬ豪放な人となりだった。歳は五十歳を越えているらしいが、体格といい声の張りといい老いの兆候を感じさせるものは微塵もない。

「いや、シンジ君にこのような麗しい友人がいたとは驚きですな」

 食事しながら、大山神父は大声でからかうようにいった。とはいえ、裏表のない満面の笑顔に陽性の声音なので、嫌味というものがまったく感じられない。

「おや、食が進んでおられないようで……遠慮なさらず、どんどん食べて下され」
「い、いえ、本当にもうお腹一杯いただいてますから」
「そうですか? いや、失敬。私がこうなものか、どうもご婦人方の食事の量には疎くて」

 自身はアスカの五割増のパスタの大皿、付け合せにボウルに盛られたサラダを平然と平らげながら、神父は笑って見せた。

「そうだよー。神父様を基準にしたら、この世から食べ物がなくなっちゃうって」
「いい歳なんだから食を減らしたらどうですか?」
「さんせーさんせー」

 嬉しそうに子供たちが囃し立てる。

「黙らっしゃい、罰当たりども。食こそは人生の基本、人はパンとワインのみで生きるにあらずと主もおっしゃっておる」

 悔い改めよ、といいつつ、神父の顔は笑っている。教義を濫用しているような気もするが、どうでもよさそうではあった。神父とはいえ、そのあたりは大らかに考えているらしい。

「食事は全部、あんたが作ってるの?」

 アスカはシンジに訊ねて見た。

「大体は僕の担当だね――それしか取り柄がないし。何分、量が量だから、マナにも結構手伝ってもらってるけど」
「私がやってるのは本当に簡単なお手伝いだけです。細かな味付けはシンジじゃないと、とてもとても」

 マナが苦笑混じりに補足する。

「さよう! シンジ君が来てくれて以来、我が家の食生活は著しく改善したのです」

 孤児院のことを「我が家」と表現しつつ、神父が重々しくうなずいて見せた。

「昔、神父様が調理してた頃は、凄かったですからねぇ……」

 子供たちの中で比較的年長の少年が、遠い目をして口を挟んだ。

「不味いわけじゃなかったけど、味付けがえらい大雑把で……火を吹くように辛い麻婆豆腐が、巨大な大鍋一杯に満たされているのを見たときは、俺は本気で地獄の実在を信じかけましたよ」
「ほほう、反抗期か、イツキ?」

 神父が発言者の子供――イツキの顔面を抱え、こめかみにぐりぐりと拳を押しつける。

「痛いっす痛いっす! 体罰反対!」
「神罰と呼べぃ。料理を地獄になぞらえるとは許せん」
「どうして料理にそこまでこだわるんですか!」
「主よ、我らに今日の糧を与えられたことに感謝します――というのが我が家の座右の銘じゃ!」
「それは祈りの文句ではあっても座右の銘というには……あいたたたたたたた!!」

 悲鳴を上げるイツキ少年を小脇に抱えつつ、大山神父はシンジを見やった。

「ま、かように君はウチに幸福をもたらしておるわけじゃ。それしか取り柄がないなどと卑下するのはやめなさい」

 口調は相変わらず豪放そのものだが、声音の奥には柔らかく諭すような響きがあった。外見がどうあれ、彼が聖職者に相応しい人間であることは明らかだった。

「どうじゃ、前々からいっとるように、正式に我が家に勤めんか? 多いとはいえんが給料も出すし、寝床と三食は完全保証するぞい」
「僕、クリスチャンじゃありませんよ」
「構わんよ。私もウチの子供たちも気にしやせん」

 豪快に笑いながらもそれ以上は無理に勧めず、神父はマナに視線を転じた。

「霧島君はどうじゃ? 今なら、シンジ君と式を挙げる際の料金も割引するという特典付きじゃが」
「しししししし神父様!!」
「おお、失敬失敬」

 慌てたマナがアスカをちらりと見やって制止し、大山神父も素直に頭を下げた。

「あのー……あたしとシンジは、古い付き合いではありますけど、そーゆー関係じゃないですよ?」

 若干の呆れを込めた微笑を浮かべて、アスカを肩をすくめて見せた。内心で、呟く。――シンジには、決まった相手がいたしね。死んでしまったあの娘。畜生。反則だ。死なれてしまっては勝負もできない。

「……シンジ君。君とアスカさんとはどれくらいの付き合いになるのかね」
「十年ですけど」
「その間、その、そーゆー関係になったことは一度もないと?」
「ええ」
「……シンジ君、立ち入ったことを訊くようじゃが、君は恋愛に関して、何か特殊な嗜好でもあるのかね。例えば同性にしか魅力を感じないとか、幼女に対してよからぬ妄想を抱くとか」
「ありませんよ!!」

 何てことを訊くんですか貴方は!! と悲鳴のように声を高めるシンジを眺めながら、その場にいた全員が笑い転げた。
 もちろんアスカも例外ではない。
 遠慮なしに腹を抱えて笑いながら、彼女は密かに決心していた。
 ――うん、やっぱりあの話は伏せておこう。こいつはもう、戦いに関わっちゃいけない人間だ。
 惣流・アスカ・ラングレーは、一つ彼に伏せていたことがあった。
 国連軍から、今回のエヴァ参号機敗北の一件に関して、アドバイザーという形で調査協力してくれないかという打診があったのだ。むろんアドバイザーというのは名目だけに過ぎず、いざというとき即日現役復帰させるための下準備に過ぎないことは、彼女には話が来た瞬間に理解していた。
 大学には休職届を出すしかないが――まあ、仕方ない。
 鈴原トウジを殺めた相手に対し、本格的に自分一人で対峙する腹を、彼女はこのとき固めていた。

 

to be continued


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