碇シンジの看護日記


七瀬由秋







 四月十日

 アスカはまだ入院している。
 僕はずっと彼女の看護をしてきたわけだが、今日、担当のお医者さんから日記をつけることを勧められる。
 よければカウンセリングの参考にしたいとのこと。
 そういうことならと喜んで了承したのだけれど、僕にはこれまで日記をつけたことがない。
 とにかくやるだけやって見よう。――アスカのためなんだ。



 四月十二日

 アスカの回復は、身体的には順調といっていい。
 何も見ず、何も喋らず、周囲に心を閉ざしているのは相変わらずだけれど、とりあえず食事やトイレなど、最低限の行動は自分で行っている。
 廃人同様だった以前に比べれば格段の回復ぶりといっていいと思う。
 まあ、そうでなければとてもじゃないけど僕に看護が出来るはずはないのだけれど。
 ……いつかはまた、元気に僕を馬鹿にしてくれるよね、アスカ。



 四月十五日

 経過は変わらず。
 お医者さんに言われたとおり、傍らでいろいろ呼びかけたりしているのだが、相変わらず反応はない。
 まあ、でも、短期間でどうにかなると考える方がどうかしているんだ。
 根気よくいきたい。



 四月二十七日

 相変わらず反応はない。
 でも、僕はあきらめない。



 五月十日

 以前と変わりなし。
 時々くじけそうになるけれど、がんばるんだ。アスカのために。



 五月二十日

 特記すべきことはなし。
 ……まだまだ。僕はあきらめない。



 六月九日

 特になし。



 六月三十日

 特になし。



 七月二十七日

 特になし。



 八月二十五日

 ……疲れた。



 九月九日

 うれしい、すごくうれしい。こんなうれしいことはない。
 日記をつけ始めてから五ヶ月、ついにアスカが喋ってくれた。
 記念すべき一言目が「お腹すいた」だったのは少し残念だけど、僕に、そう、僕に向かって口をきいてくれたんだ!
 生まれて初めて神様に感謝したくなった。
 正直、最近は疲れてきていたのだけれど、そんなものはもう吹っ飛んだ。
 これからも僕はずっと側にいるよ、アスカ。



 九月十日

 病院に泊り込むことにした。
 だって、アスカがまた口を開いてくれたときに、絶対側にいたいから。
 ミサトさんも快く了承してくれる。
 これからだ、すべてはこれからなんだ。



 九月十四日

「お腹すいた」とか「眠い」など、日に一言二言だけだが、アスカは喋るようになってくれた。
 たかだか数日で結論を出すのも無茶だろうけど、日を追うごとに少しずつ口数が増えているように思う。
 ……幸せだ。



 九月十七日

 診察に立ち会う。
 気がついたことだが、アスカはお医者さんにも看護婦さんにも喋りかけようとはしない。
 もしかして、僕だけに、僕の前だけでは口を開くようになっているのかな……。
 本当は喜んじゃだめなんだろうけど、率直にいってうれしい。



 九月二十日

 最近、僕は痩せてきたらしい。看護婦さんに指摘された。
 そういえば、昨日様子を見にきてくれたミサトさんにも同じことをいわれたっけ。
 たしかに最近、アスカがいつ何をいっても応えられるよう、ろくに寝ていなかった。
 というより、看護を始めて以来、まともな食事をお腹一杯食べる機会も数えるていどだったように思う。
 でも、いいじゃないか。
 アスカは今が大切な時期なんだから。



 九月二十三日

 ……今日は大変だった。
 昼頃、アスカが突然暴れ出したんだ。
 それこそ何の前触れもなかった。
 ナースコールを押しつつ、アスカの体を押さえつける。
 しかし、看護婦さんが駆けつけたときには、発作はぴたりと治まっていた。
 ほっと胸を撫で下ろしていると、看護婦さんがアスカではなく僕の方を青い顔をして見ていた。
 気づかなかったのだが、僕の右の首筋からは派手に血が出ていた。
 どうやらもみ合っているうちに噛み付かれたらしい。
 よく見ると、アスカの口許にも血が滲んでいた。
 彼女のものではない、僕の首から出た血だ。
 別段傷を負ったのはどうでもいいことだ。アスカが回復してくれるなら。
 それにしても、アスカはどうしていきなり暴れ出し、そしてどうしてそれがいきなり治まったのだろう。



 九月二十四日

 お医者さんをはじめミサトさんにも、アスカに付きっ切りで看護するのを止めるよう勧められる。
 何てとんでもないことをいうんだろう。
 僕は誓ったんだ。アスカを元気にするって。
 そのためなら、どんなことだって我慢できる。



 九月二十五日

 あれから毎日のようにアスカは発作を起こす。
 この場合、発作という言葉が正しいのかどうかは知らないけど、まあ便宜上そう呼んでもいいだろう。
 彼女は唐突に暴れ出し、その度に僕はどこかから血を流す。
 今日気がついたことだけど、傷はすべて噛み傷だ。
 どういうわけか、引っ掻かれたり殴られたりということはない。
 長く入院しているので手や腕に力があまり入らないということだろうか。



 九月二十七日

 今日も発作があった。
 左手に半月状の歯型がつく。痛いのにはもう慣れた。
 むしろ、アスカが元気になっている事の証のようにすら思える。
 一通り暴れた後、アスカは僕の顔を正面から見つめ、一言呟いた。
 あまりに意外な言葉だったので呆然としてしまう。
 ……「子供、欲しいの」とは、どういうことなんだろう。



 九月三十日

 発作が始まって以来、暴れっぷりと比例するかのようにアスカが喋ることは多くなっている。
 それぞれの言葉は断片的で、まともな会話になった試しはないが、その中で気になった言葉をいくつか記録しておく。
「あたしは、汚れてる」
「やり直したい。最初から」
「綺麗で純粋な、赤子から」



 十月二日

 今日は久々に、病院ではなく家でこの日記をつけている。
 これは本意ではない。
 ミサトさんに無理やり連れて帰られたのだ。
 原因となったのは、多分、この左手だ。
 包帯の巻かれた僕の左手には、指が四本しかない。
 今朝、小指をアスカに食いちぎられた。
 今でも鮮明に思い出せる。
 彼女は僕の左手の小指を、まるで上物の骨付き肉のようにしゃぶり、血をなめ、肉を噛んだ。
 骨をごりごり音を立ててかじり、飲み下した。
 恍惚とした、美しい表情だった。
 今までお粥のような病院食しか食べていなかったから、胃腸の方がびっくりしたのだろう。
 直後にアスカは嘔吐しかけたのだが、喉元までこみ上がった胃の内容物――僕の指を、彼女は無理やり嚥下していた。
 そして、血相を変えた看護婦さんが駆けつけてくるまで、僕の左手から滴り落ちる血をずっと舐めていた。
 血の一滴、肉の一片までも無駄にしない、というように。

 左手はジンジンと痛む。
 けれど、あのときのアスカの顔を思い出すと、気にならない。
 いや、それどころか、痛みすらも心地いい。



 十月九日

 明日から、ようやくアスカとの面会が許されることになった。
 彼女と会えなくなってからこの一週間というもの、ろくに食事も取れなかった。
 ふと鏡を見ると、頬がごっそりこけていることに気づく。
 けれど、目だけがギラギラと歓喜に輝いているのが自分でも見て取れる。
 面会は一時間だけという制限はついたけど、構うものか。



 十月十日

 事前に聞いていたが、アスカは隔離病棟に移され、さらに拘束着を着せられていた。
 けれど、そんなになってもアスカは変わらず綺麗だ。
 僕の姿を認めると、その眼が途端に生気を取り戻してくれた。
 そして、「欲しい」「欲しい」とうわ言のように呟いていた。
 何が欲しいんだろう?
 アスカが望むものなら、僕は何だって差し出すのに。



 十月十五日

 連日、一時間という面会時間の制限を無視して、アスカの病室に見舞う。
 最初はうるさくいっていた病院の人も、あきらめたらしく何もいわなくなった。
 本当は泊り込みたいけど、さすがにそこまでは許して貰えなかった。



 十月二十日

 アスカは急速に復調している。
 前々から少しずつ喋るようになっていたが、特にこの十日間で急激に会話が増えた。
 といっても、それぞれの会話が断片的なのは相変わらずで、有体に言えば脈絡がない。
 感情の起伏も激しく、理由もなく泣きそうになったかと思えばすぐに笑う。
 まるでテレビのチャンネルが変わるように。
 でも僕は、そんな風にころころと表情を変える彼女が好きだ。



 十月二十三日

 アスカがまた、以前に一度だけ呟いた言葉を口にする。
「子供、欲しいの」
 そして、僕を、いや、正確には包帯に巻かれたままの僕の左手をじっと見つめていた。
 言葉の意味はわからないけど、視線の意味はなんとなくわかる。
 今度は薬指が欲しいのかな。それとも親指かな。
 今度は、騒ぎにさせずにゆっくりと彼女に味わわせてあげたい。



 十月二十八日

 久しぶりに、非常に長い時間、会話が続いた。
 回復していることの何よりの証だ。うれしい。
 以下、そのときの彼女の言葉を記録する。

「あたしは生まれ変わりたい。やり直したい。
 パパやママにたくさん甘えて、日が暮れるまで友達と遊んで。
 映画みたいなデートもして見たい。
 でも、もうあたしには無理なの。
 あたしは心も体も汚されちゃったから。
 だからシンジ、あんたのすべてが欲しいの。
 シンジの血と肉を全部ちょうだい。
 あたしはシンジを食べて、シンジの血と肉でできた子供を生むの。
 それは二人目のあたし。
 汚されていない、純粋で綺麗な赤子。
 あたしの願いとシンジの血肉を受けて生まれた、二人目のあたし。
 他の人間じゃだめなの。シンジのすべてが欲しいの。
 それがかなうなら、あたしは何もいらない」








 十ニ月四日

 この一ヶ月間、考えに考え、準備を重ねたことを、今夜実行する。
 ナイフ、のこぎりをそれぞれ五本ずつ。
 生の血肉を切ると血脂ですぐに切れなくなるそうだから少し多めに持っていく。
 ナースセンターに忍び込んで手に入れた隔離病棟の鍵。
 病室の監視カメラのレンズに吹き付けるための黒いスプレー。
 ドアにバリケードを作るために、他にもいろいろ持っていきたいところだけど、そんなに多くの荷物は持てないので諦める。
 まあ、アスカのベッドでも立てかければいいことだ。

 それは無意味なことかも知れない。
 愚かなことかも知れない。
 けれど、僕はアスカの望みをかなえたい。
 僕はアスカに喰われ、その胎内で新たな体の元となるだろう。
 アスカの願いと僕の血肉を受けて生まれた、二人目のアスカ。
 幸せになるために生まれる、僕たちの子供だ。











第参新東京市立医科大学病院の記録

 隔離病棟0606の患者が女児を出産。
 当初は自然分娩を試みるも、分娩中に担当医がこれを困難と判断、帝王切開に切り替える。
 出産時のショックにより患者は死亡。
 もとより出産に耐えうる体力はないと見なされていたにせよ、いかなる蘇生作業も無為に終わった。
 女児の出産時刻がすなわち患者の死亡時刻となる。
 生まれた女児に身体的な欠損はなく、極めて健康。
 ドイツから来たという患者の両親に引き取られる。

 なお、出産に立ち会った担当医や看護婦の間に、奇妙な噂が流れている。
 患者の生殖器には、いわゆる処女膜がたしかに存在していたというのだ。
 のみならず、生殖器全体に、性交の痕跡が認められなかった、と。
 担当医は驚き、戸惑って、自然分娩の予定を帝王切開に切り替えたそうのだが……

 だとすると、患者はどのようにして妊娠したというのか?

 医学的に極めて不合理な噂ではあるが、しょせんは噂の域を出ない。
 たちの悪いゴシップの類であろう。
 患者が一年前、あのような凄惨な事件を起こしていることも関係しているのかも知れない。
 いや、おそらくはそうだ。
 職員には無責任な噂を広めることのないよう固く戒める。


 最後に、女児を引き取った患者の両親の言葉を記録する。

「私たちは、あの娘の親として失格でした。
 ですからこの子は、あの娘の生まれ変わりだと思って、心から大切に育てたいと思います。
 そう、死んでしまったあの娘の名前を……この子にとっての実の母親の名前をつけて」









後書き
 一時期、某掲示板に入り浸っていた頃、匿名で書いたSSです。
 以前は自分がLRSな人間だと思っていたのですが、アスカもそれほど嫌いでもないことに気づいた頃ですね。
 とはいえ、扱いはこの通り。
 つくづく自分がひねくれていることを実感します。

 

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