葛城ミサトは予定通り、一日半を彼らと過ごしてから、翌々日の朝早くに慌しく旅立って行った。
 出掛けの様子から察するに、ごく短い帰宅も相当に無理をした結果なのだろう。
 彼女のいる間中、アスカはいつにも増しておおはしゃぎで、学校と睡眠以外の時間のすべてを「家族の団欒」に費やした。
 彼も当然のようにそれに付き合った。
 楽しくはあったものの、拷問に近い時間でもあったように思う。
 葛城ミサトは、彼らが幸せであった頃を象徴する人であったから。
 かつて何も考えることなく笑っていられた時間。
 憎むことを知らずに過ごせていた日々。
 使徒との戦いはつらいものだったけれども、葛城ミサトを家族と呼んだ生活はたしかに一つの拠り所だった。
 物心ついて以来、ためらうことなく「家族」と呼べた相手を、彼はミサト以外に知らない。
 だが、だからこそ。
 だからこそ。
 葛城ミサトが「家族」と信じた彼ら二人、その間に横たわる真実を、見せたくはなかった。
 ――身勝手なものだと自覚してはいる。
 けれど、碇シンジは絶対的に惣流・アスカ・ラングレーを憎悪していて、もう取り返しはつかないのだ。
 そう、後戻りなどとうに出来なくなっていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

Labyrince

“――そして私は鏡を殴る”

七瀬由秋

 

 

 

 

 

 

 

 笑い話にもならない真実だが、碇シンジと惣流・アスカ・ラングレーは恋人同士だった。
 周囲の誰もがそう思っていて、だからそれは真実だった。
 ――当人が内心で何を思っているかなど、瑣末なことでしかない。
 恋人であるからには一緒に住むのにも不思議はないし、休日に同じ時間を過ごすのは当然ともいえる。
 だから、ミサトが発った三日後の日曜日、彼は摂理のように彼女の傍らにいた。

「ほら、シンジ! 急いでよ!」

 いつものように手を引いてくるアスカに、いつものようについて歩く。
 繋がれた手を振り払うことはないし、抗うこともない。
 いや、「抗う」というスイッチを入れた瞬間、自分は彼女を殴り殺すだろう。彼には確信があった。
 漫然と、ただ彼女に手を引かれるままに歩く。
 第参新東京の駅前商店街。
 休日ということもあって、かなり人通りは多い。
 元来彼は雑踏というものが苦手だ。
 昔ほどではないにせよ、他人の存在そのものが苦手なことには変わりがないし、暑苦しいのも騒がしいのも好みではない。
 まして、惣流・アスカ・ラングレーが傍にいるとあっては――
 もはや拷問を通り越して、苦痛すら感じ取れない。
 あるのはただの憎悪と殺意。
 公衆の面前でこの赤い頭をさらに紅く染めてやればさぞ気分が晴れるだろうな、とか。
 そんな埒もない空想に浸る。
 いや、実のところは空想ですらない。
 刻々と水位を増す黒い何か、彼はそれを他人事のように眺め続けていた。
 臨界を越えれば溢れ出す。
 空想は惨劇として形を得る。
 そのことを、既定の事実として受け止めてさえいた。
 唯一困ったことは、その臨界がどこなのか、彼自身にも予想がつかないことだ。
 それは数時間先かも知れないし、一秒後かも知れない。
 数十年は先とも思えることもあれば、今まさに限界に達したかと思えるときもある。
 タイトロープ。そんな言葉が頭をよぎる。
 地上数百メートルの摩天楼、その間に張り渡されたロープの上を歩く曲芸。
 そして彼には、ロープを渡り切る技量も自信も、意思すらも、ない。
 漫然とした心のままに、どうでもいいような会話にどうでもいいような相槌を打ちながら、ただ歩く。
 その日、彼らは評判のイタリアレストランで昼食を取ってから、一応の主目的である映画の鑑賞に時間を費やした。
 パターン化された「恋人」の休日模様。それを皮肉に思う感性はとうの昔に擦り切れた。
 疲れ果てた精神で、ただ憎む。
 踏みにじり、引き裂くことを待ち望む。
 醜く蠢くものを抱えながら、彼はときに笑顔を作り、ときに優しく振る舞ってさえ見せた。
 その度に彼女が見せる嬉しげな笑み、軽やかな声を聞くたびに、さらに全身が軋む。
 臓腑が悲鳴を上げている。肉が弾けんばかりに震えている。血が血管を駆け巡る。心はとうに壊れている。
 胡乱な頭で記憶を探る。
 一体どうして、碇シンジは惣流・アスカ・ラングレーをここまで憎むのだろうか。
 出会ったばかりの頃の淡い憧憬。
 ともに戦っていた時期の頼もしさ。
 育まれたひそやかな慕情。
 ほのかに光り輝いていた綺麗なものが、いつの時期からか腐り始めた。
 敗れ傷ついた彼女の背中。
 拒絶の言葉。
 虚空を眺める濁った瞳。腐臭を発さないのが不思議なほどの。
 遠い思い出にすがるように、病室の彼女を汚して。
 互いが綺麗だった頃を懐かしむように、今の自分たちを拒絶し合った。
 どこで間違ったかなど、わかるはずもない。
 必然として出会い、運命のように憎んだ。
 誰かが敷いたレールをなぞるように、ただ憎んだ。
 どうあがこうとそれは変わらず、きっと他になりようもなかったのだろうと妙に納得する。
 笑うしかない結論とはこのことだろう。
 実際彼は、いつしか微笑を浮かべていた。
 応じてアスカも、鮮やかな笑顔を浮かべる。
 ――何より嫌う雑踏の中を、誰よりも憎む女とともに、笑いながら歩く。
 それはまさに、恋人たちの休日に相応しい一枚絵。

 

 

 一日中街を遊び歩いてから、夜が更ける前に家に戻った。
 夕食を済ませ、アスカが風呂に入るのを見届けてから、彼は何とはなしに窓の外を眺める。
 ネオンの灯された街の夜景。
 夕刻に増え始めた雲は空を覆い、月を隠していた。
 一雨来るかな。そう思い始めたとき、見計らったように雨音が耳を叩いた。
 ふん、と鼻を鳴らす。
 朝から降り続いてくれればよかったのに。そう思った。そうであれば、まだしも平和な一日だったろうに。
 無言のままに、窓を睨む。雨は見る間に激しくなり、遠雷が轟いていた。
 四角に切り取られた世界が、刹那、白金に染まる。
 数秒の時差を置いて、巨石が転げ落ちるような轟音が鼓膜を貫いた。
 ――雷雨だ。
 彼は唇を動かさずに呟いた。
 雷は嫌いではない。荒々しい力の胎動、すべてを破壊し尽くすような閃光と轟きは、憧憬の対象ですらあった。
 一晩中続けばいいのにな――
 そう思った瞬間、唐突に部屋の明かりが消えた。
 停電か?
 そう思ったけれど、ふと見ると部屋のエアコンの電源は切れていなかった。
 妙な具合にブレーカーが落ちたのか、それとも単に電灯が切れたのか。
 とりあえずブレーカーを見ようと振り返りかけたとき、不意に暗闇に声が響いた。

「シンジ」

 アスカの声だ。いつの間にか風呂から上がってきていたらしい。
 暗闇の中、何か動く気配がある。

「ああ、何だかよくわからないけれど、電気が切れちゃって。しばらくじっとしていて――」

 そういいかけたとき、二度目の落雷が周囲を照らした。
 刹那の間、照らされたアスカの体。
 ――白い肢体を稲光にさらして。
 彼女は、微笑んでいるように見えた。

「電気はつけないで……」

 素足が床を踏む、微かな音。
 漆黒に眼が慣れるに連れて、彼女の輪郭が浮かび上がる。
 彼は呻き声を上げそうになった。
 なんて拷問だ。そう心で悲鳴を上げた。
 火照った掌が頬を撫でる。
 引き寄せられて、口付けされる。
 脳が痺れるような感触があった。
 揺さぶられ、引きずり込まれ、閉じ込められる。
 彼は無言のまま、彼女の背中に手を回し、ゆっくりと床へ押し倒した。

 

 

 月明かりもない闇の中で彼女を抱く。
 腕の中で喘ぐ惣流・アスカ・ラングレーの顔。
 組み敷いた体は細く、今にも折れそうで。
 ――呪わしくすらあった。
 無我夢中で抱きながら、頭のどこかで疑問符が回る。
 僕は何をしている。
 アスカを憎んで、何度も何度も殺そうとして。
 そして今、彼女を抱く。
 僕は、何をしている。
 ――巡り巡る自虐と自嘲。循環される憎悪と侮蔑。
 忌まわしくて仕方がない。
 肌に感じる体温が、耳に聞こえる吐息が、鼻腔をくすぐる匂いが、忌まわしくて仕方がない。
 何より虫唾が走るのは、同時に愛しさも感じている自分自身だ。
 殺したい。壊したい。犯し嬲り弄び、叩き潰して投げ捨ててしまいたい。
 こうして肌を合わせる都度、何度その欲望をかなえようとしたことか。
 けれども彼は抗えない。
 獰猛な愛しさに流されて、醜悪な営みを繰り返す。馬鹿のようにただ繰り返す。
 そうして朝、思わず世界を叩き潰したくなるような気分で目覚めるのだ。
 彼にはそれがわかっていた。空恐ろしさすら覚えるほどに自覚できていた。諦めとともに受け入れてすらいた。
 ――結局のところは、道化なのだ。
 彼は彼女が殺したくて仕方がなく、彼は彼女が愛しくて仕方がない。
 碇シンジの存在は、もう手の施しがないほどに、惣流・アスカ・ラングレーに占有されている。
 笑い出したくなるような事実だが、占有されている。
 殺意に塗れ、憎悪に染められながら、彼女は彼を支配している。
 だから、彼は道化だ。
 踊り踊らされ、殺し殺される。
 彼女を憎みながら、自分の胸にナイフを突き立てる。
 己が臓腑をかきむしるようにして、彼女への殺意をかきたてる。
 そして、優しく殺めるように愛するのだろう。

 

 

 雷雨はいつしかおさまっていた。
 黒雲はいずこかへ姿を消し、冷気に満ちた大気の中で、月が顔を覗かせている。
 月明かりの中で、彼はアスカの寝顔を眺めた。日中遊び疲れた体で何度も達したからだろうか、頭は妙に空っぽで、冷えている。
 緩慢な動作で抱き上げ、彼女の部屋のベッドまで運んでシーツをかける。
 彼女はどこまでも安らかな顔で眠っていた。
 しばらくベッドの脇に立って、その寝顔を見つめる。
 ずきり、と今更のように右手が痛んだ。
 数日前、アスカを殺しかけたときにつけられた傷だ。
 包帯は取れているが、完治したわけではない。
 彼は当たり前のように、彼女の首にその手を当てた。
 細い喉仏からは、とくとくと鼓動が感じられた。
 彼は一つ息を吐いて、それからごく自然な動作でアスカの唇に口付けた。

 

 

 翌日、彼は学校を休んだ。
 彼女が目覚める前に身支度を整え、一人家を出て、そのままあてもなく歩き続けたのだ。
 アクアリウムの魚のように街を泳ぐ。
 目に映る景色は妙に色彩がなく、行き交う人々は皆同じ顔に見えた。
 空っぽの中身を抱えたまま、ただ歩く。
 自分がひどく意味のないことをしているという自覚はあった。
 いや、そんな自覚ならずっとしていた。
 もう何年も前からずっとしていた。
 それはずっと、変わらない。
 そしてきっと、これからも変わらないのだろう。
 彼には確信にも似た思いがあった。
 ずっと、一緒だ。
 彼は愛し続ける。彼は殺し続ける。
 死が二人を分かつまで、ずっと、ずっと。
 そしてすべてが終わったとき、そのときにはおそらく何も残っていない。
 憎悪も殺意も――愛情も。
 まるで存在すらしていなかったように、消え失せているのだろう。
 それはそれで素敵な未来図という気がした。

 

 

 雑踏に紛れて商店街を抜ける。平日の朝方、人通りは多い。
 交差点で赤信号に掴まった。
 信号灯のランプを無機質な目で見上げる。
 何の気なしに道路を通りすぎる車の群れを見渡す。
 そのとき、

 

 

 

と ん

 

 

 

 背中に軽い衝撃を感じた。
 なす術もなくバランスを崩し、無様に倒れ込むようにして前方に転げる。
 とっさに、状況が理解できなかった。
 尻餅をついた格好で、視線を巡らせる。
 一緒に信号待ちをしていた人々が、大きく目を開くのが確認できた。
 そしてその中に、

 

 

 

赤い髪の翻るのが、

 

 

――見えた気がした。

  

 

 

 

 甲高い急ブレーキの音。
 他人事のように見やる。
 トラックがタイヤを滑らせて拡大してくる様が見えた。
 恐怖よりも何よりも、奇妙に安らいだ気分があった。
 親しい友人を迎えるように、彼は目の前に迫る鉄の塊を眺めた。

 

 

 

 

 

 

「……馬鹿、だよな」

 

 

 

 

 

 

 

 衝撃は意外に軽く、宙を吹き飛ぶ感覚は奇妙に心地よかった。

 

 

 

 

to be continued


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