合わせ鏡のラビリンス
 愛も殺意も反射して
 出口を失くしたラビリンス
 愛も殺意も閉じ込めて

 

 

 

 

 

Labyrince

“合わせ鏡のラビリンス”

七瀬由秋

 

 

 

 

 

 

 

「――うん、そう。だから心配しないでよ、ヒカリ。大丈夫だって。――はいはい。……んじゃ、切るわよ?」

 ため息を一つつきながら、彼女は受話器を置いた。
 洞木ヒカリ、彼女がこの国に来て以来の親友は、真面目で誠実で面倒見がよい、友人として理想的に近い人間だ。
 ただ、心配性に過ぎるのがたまに傷ではある。
 今しがたも、現在一人で暮らしている彼女を心配して電話をかけてきたところだ。
 五日前の「事故」以来、たしかに大変だった。
 葛城ミサトからは真っ先に電話がかかってきた。あのヒカリに負けず劣らずの心配性の保護者は「すぐに帰る」とまで言い出した。
 もちろん彼女は頑として制止した。
 冬月副司令の退任以来、将来の総司令昇格を視野に入れてその地位を継いだミサトの立場がどれほどのものか、彼女もよく知っている。
 このていどのことで呼び戻すなど、あってはならないことだ。
 現総司令たる碇司令からも、一度だけ詳細を訊ねる連絡があった。直接ではなく、リツコを介してではあったが。
 放任主義を極めた父親でも、そのていどの義務感は残していたらしい。
 もっとも、あれはあれで息子のことを理解しているのではないかとも思う。
 碇シンジには、既に父としての自分に価値がないことを知っているのだ。
 だから傍目には放任としか釈れない距離を維持している。
 そしてそれこそが、あの親子にとっての理想的な在り方なのだろう。
 互いに互いを、傍に在ることでは幸せに出来ないと知っている。
 相互不干渉。それこそが碇家の親子の絆なのだ。
 それはある意味では葛城ミサトよりも深い――、この世で二番目に碇シンジを理解している人ではないかとすら思える。
 ちなみに、何故この世で二番目かといえば、答えは簡単だ。
 彼女、惣流・アスカ・ラングレー以上にシンジを知っている人間など、いようはずもないのだから。

 

 

 綺麗に畳んだパジャマや下着、ついでに頼まれていたMDウォークマンとクラシックのMD。そして、出掛けに購入した花束。
 それらを手土産に、彼女は今日も碇シンジの病室を訪れた。
 ――そう、彼は死ななかった。
 道路がそれなりに混雑していたが故、トラックがあまりスピードを出さなかったのが幸いしたのだ。
 左腕の骨折と、肋骨五本に亀裂、他に打ち身や裂傷などがいくつか――ただそれだけで、彼は彼女の殺意を切り抜けていた。
 いつもながら悪運が強い。彼女はそのことに感心していた。
 まったく、彼は昔からそうだった。
 殺そうとしたのはこれで187回目だが、そのすべてが失敗している。手加減など、もちろんしたことはない。
 実に悪運が強く――加えて、勘もよい。
 先日など、調理を手伝っている最中に不意をついて包丁で切りつけたのに、額の皮一枚で避けられてしまったものだ。
 バットで殴り殺そうとしたこともあるし、拳銃を持ち出したことすらある。
 なのに、彼は今なお生きている。
 まったく……、実に悪運が強く、勘がいい。
 この男は、一体何度殺されれば気が済むのだろう?
 ――彼女は賛嘆の入り混じった眼で、ベッドの上の彼を見つめた。左腕のギブスは相変わらずだが、肋骨の回復は順調らしく、顔色はかなりいい。
 念のために行われた精密検査の結果も良好だったようで、あと一週間ほどで退院できるそうだ。
 彼女は率直に歓喜し、待っている、と伝えた。そこに、虚偽や演技はない。彼女は心から、彼の回復と退院を喜んでもいた。
 応じて「……うん」と言葉少なに答えた彼の顔は、あまり明るくはなかったが。
 多分、いや間違いなく、彼女と再び暮らすことへの喜びと、彼女と再び殺し合う憎しみに、堪え難い二律背反を感じているのだろう。
 彼の、紛れもない欠点だ。
 碇シンジはいまだに世間一般でいうところの常識めいたものを引きずっていて、惣流・アスカ・ラングレーと離れるのが最上の方法だと考えている。
 そんなことが、できるはずもないのに。
 ――まったく。愛することも憎むことも同じくらいに愉しめば、余計な苦悩を抱えずにすむものを。
 そう、自分のように。
 彼女は内心で苦笑した。
 悪夢を見たときにはすがりついて甘え、欲しくなれば獣のように抱き合う。
 赤子の名前を考えるような気分でどう殺すかを考え、無防備な背中をトラックの前に突き飛ばす。
 彼女にとっては矛盾なく共存する二律の感性だ。
 だというに、彼はどうしてもそこまで割り切ることは出来ないらしい。
 もっとも、そうした甘さ、未熟さも、れっきとした一つの美点だ。
 沈んだ表情を懸命に押し殺すシンジの顔を見ながら、彼女は胸の奥に疼くものを感じた。
 純白の雪原を望んだときのような、美しさに対する賛嘆と、足跡をつけて汚してしまいたいという欲求。
 それらはまさに不可分のもので、ベクトルを同じくしながら質の異なる二つの感情に、彼女はいつも目眩がするほどの恍惚を覚える。
 愛憎半ばする、という表現がこの国にはあるが、彼女は時折、それこそが人が人に向ける感情の究極ではないかとすら思える。
 ――そう、愛しさと憎しみを同時に味わうことほど、忌まわしい心地よさはない。

 

 

「それじゃ、今日はそろそろ帰るね。無理したりしないで、早く退院して」

 面会時間ぎりぎりまで粘ってから、彼女は最後にそういって、ついでのようにキスをせがんだ。
 彼はためらいつつもそれに応えてくれる。
 唇を合わせた瞬間、不意に思いついて、彼の唇を噛み切って見た。
 滲んだ血をぺろりと舐めとって、唇を離す。
 微動だにせず、ただ眼差しだけを鋭く冷ややかなものにした彼に、彼女は明るく笑うことで応え、口の中に残った血の味を確かめた。

 

 

 日の暮れた街角を歩きながら、ぼんやりと思う。
 ――この迷路は、いつまで続くのだろうか。
 彼は彼女の弱さを誰よりも愛し、彼女は彼の誠実さを心から憎悪する。
 彼は彼女の純粋を誰よりも蔑み、彼女は彼の未熟さを心から愛する。
 正と負が結合し、美醜が合一する。そして、愛と憎すらも。
 螺旋よりも歪に絡まり合い、反発し、惹かれ合う――おぞましくも煌びやかな、合わせ鏡のラビリンス。
 困ったことに、この迷路には出口がない。
 救いがないことに、彼と彼女には出口を求めるつもりがない。
 行きつく先は極彩色の破滅だ。
 狂ったままに走り続ける馬は、いずれ奈落へ突っ込んで行く。
 今回は失敗した。
 いつかは失敗された。
 殺し損ねてきたし、殺され損ねてきた。
 けれど、いつかは殺してしまうのだろう。
 そしてそのときは、殺した方にも何も残っていない。
 惣流・アスカ・ラングレーにとっては碇シンジがすべてで、碇シンジにとっては惣流・アスカ・ラングレーがすべてなのだから。
 愛するものも憎むものも失ってしまった後には、何も残ることがない。
 彼女は実のところ、そのときこそを待ち望んでいるのかも知れない。
 ……まあ、いい。
 どうでもいい。
 先のことなど考えても仕方がない。いや、どうせ結末がわかっているのなら、せめて過程を楽しむのが当然ではないか。

 

 

 彼女は空を見上げた。
 蒼銀の月が世界を見下ろしている。

「――馬ぁ鹿」

 誰にということもなく、この体一杯に満ちた祝福と呪詛を囁いた。







the End or never End


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