弦は音色を紡ぎ上げる。
永遠の夏の空は、蒼く、遠く、高く。
陽光を透かした大気に、音ははるかに融けていく。
夏の音色
七瀬 由秋
その日も、目覚まし時計のベルが鳴り響く前にアスカは眼を開けた。
カーテンの向こうから覗く日差しは、今日も快晴であることを彼女に教えている。
伸びを一つして、既に覚醒した意識に体の方を順応させる。
睡魔の残滓は跡形もない。
目覚める前、何か嫌な夢を見たような気もするが、彼女はそれを覚えていなかった。
強いて思い出すつもりはなく、そもそも気にするつもりもない。夜毎の眠りで拝まされる代物にいちいち分析を持ち込むのは、よほどの暇人か心理学者くらいのものだ。自分はよほどの暇人ではあるかも知れないが、夢よりも他に思いを馳せる事柄を持ち合わせている。それだけのことだった。
洗面所で最低限の身支度を整え、着替えを済ませて、キッチンへ行く。
時刻は早いが、朝食の準備を済ませるつもりだった。家事は持ち回りの交代制で、今日は彼女の当番だった。
この家の本来の家主、葛城ミサトは、昨日から欧州へ出張している。よって、作るべき食事は自分を入れて三人分。
自分のためにはカリカリに焼いたベーコンに目玉焼き、そしてトーストを二枚。
同居人の一人にはコンソメスープを一杯。
もう一人の同居人には野菜サラダ。
自分のものが一番手間もかかれば量もあるという事実にいささかのやるせなさを覚えるが、まぁ自分で調理するのだし体重も増えていないしという結論で納得することにする。
トーストが黄金色に焼き上がる頃になって、二人の同居人が起き出してきていた。
Tシャツに短パンというラフな姿の少年と、その後ろにぴたり寄り添うようについて歩く銀髪の少女だ。
アスカにとっては同居人であるという以上に戦友であり、それ以外の何かでもある二人。碇シンジと、綾波レイ。
ちなみにレイは、起きたばかりというのに学校の制服を一部の隙もなく着込んでいた。実はこれでも改善された方で、以前は下着にシャツ一枚を羽織るだけで平然としていた。アスカが語彙の限りを尽くして良識と慎みについて説いた結果、今の格好に落ち着いたようだ。早いうちに適当な普段着を買わせるべきだとアスカはつくづくと思う。
「おはよう、アスカ。今日も早いね」
「……おはよう」
二人はいつも通りの挨拶を口にし、応じてアスカも「おはよう」と片手を挙げた。
いかなるときでも挨拶くらいはきちんと。万事ずぼらなこの家の主が同居人たちに課した、ほぼ唯一のルールだ。変なところで軍人らしいというべきなのか、彼女なりの家族という概念へのこだわりなのか。ただ、その内容自体は共感できるものなので、三人の子供たちにも異論はない。
食卓に並んだ椅子の一つをレイが引き、シンジが「ありがとう」と腰掛ける。一般のマナーとは逆だが、やむを得まい。今の彼には左目の視力がなく、従って距離感がない。何より、世話をしているレイの方が好んでそうしているのだから、第三者が口を挟む筋合いではないのだろう。一般に一般のマナーがあり、この家にこの家の掟があるように、二人には二人のルールがある。
いただきます、と、こればかりは変わらぬ声が唱和されて、朝食が始まる。
一番量を食べるアスカが一番食べるのが早い。コーヒーを含みながらトーストを齧り、合間にベーコンと目玉焼きを詰め込む。
シンジはスプーンの柄を掌で包み込むように持って、ゆっくりとスープを喉に流し込む。
レイは仔兎か何かのような仕草で野菜サラダを食べていく。
食べる間は皆総じて静かだ。
ほんの時折アスカがどうでもいい世間話を振り、シンジが相槌を打つ。窓の外からは蝉の鳴き声が響く。カーテンが風に揺れる音がかすかに聞こえてくる。
平和で怠惰で暖かな、そんな時間。
レイは食事の間も、じっとシンジの横顔を見つめている。
応じて、彼はふと彼女を振り返り、その柔らかそうな銀髪を撫でてやる。
同居し始めて以来何度となく目にした、当たり前の情景。
アスカは口元を綻ばせつつも、どういうわけか、今朝方見た夢の内容を思い出しかけた。
具体的な内容は覚えていない。ただ、嫌な夢だったことだけを知っている。鋭く胸に走る痛みが彼女に教える。それはいつもの、毎夜のように見る悪夢だと。
そういえばあの夢を見始めたのはいつからだったか。埒もなく考えかけて、アスカはその疑問を放棄した。
考える必要すらありはしない。
彼女はその嫌な夢を、目の前の少年がもう間もなく死ぬ、そう彼自身の口から聞かされた夜から見始めていた。
魂の劣化、という表現を使ったのは赤木リツコだった。
後遺症みたいなもの、といったのは葛城ミサトだった。
要はエンジンが焼き切れかけているらしいね、と当の本人があっさりと評した。
つまりはそれだけで、それ以外にどうしようもない事実だった。
神の紛い物を用いた、全人類の魂の統合。補完。
一時的にせよその核に成りおおせたことが、少年の魂から本来の命数を奪った。
体に異常はない。脳にも損傷はない。おそらくは心にも欠損はない。
しかし、そのさらに奥、存在を規定する根幹の部分で、碇シンジはどうしようもない磨耗と消耗を背負い込んでいた。
つまりはそれだけで、それ以外にどうしようもない事実として、彼は死ぬ。
「ごちそうさま」
そして彼は、今日も穏やかに笑う。
「どーいたしまして。んで、今日の予定は?」
「いつもと同じさ。ゆっくりしてるよ」
若さに似合わぬ、けぶるような淡い微笑。
椅子から立ち上がる彼に、レイが当然のように続く。
食器を洗おうと踵を返しかけたとき、リビングのドアに足をぶつけて転びかけた彼と、素早くその体を支えるレイの背中が見えた。
アスカも思わず駆け出しかけたが、困ったように笑いながら礼を口にしている彼と、何でもないという風に無言で首を振る銀髪の少女の姿に、結局はそのまま踵を返した。
彼には支えてくれる少女がいる。そうすることを望んだ少女がいる。互いに互いを半身と断じる、愛しい恋人がいる。
ならば自分は、自分にできることをしよう。
一欠片。
ほんの一欠片。
碇シンジにとっての世界を構成する、取るに足りない一欠片でよい。
彼が思い描く世界の中に、自分も含まれているのなら。
たったそれだけで、惣流・アスカ・ラングレーは満足できる。
それ以上の思考を、彼女は封殺した。
洗い物を終えてリビングに入ると、窓の前にデッキチェアを置いてまどろむ彼の姿が見えた。
家事の当番でないときの彼はいつもそうだ。
何をするでもなく静かに時を過ごし、まどろみながら一日を費やす。
南向きの窓からは燦々と陽射しが降り注ぐ。
硝子の向こうには生い茂る緑と、箱庭のようにいくつかの民家が見下ろせた。
第参新東京の郊外、小高い丘の上に位置するこの家は、半壊したマンションに代わって葛城ミサトが用意したものだ。交通のアクセスは良好とは言い難いが、静かに過ごすにはうってつけの立地条件を備えている。それが何の、誰のためのものであるかは、説明を受けるまでもない。
彼の膝にもたれかかるようにして床に腰掛けていたレイが、アスカの気配に気づいて振り返った。
アスカは口の前に人差し指を立ててそれに応える。レイはやはり、無言でうなずいた。
デッキチェアの傍に歩み寄り、彼の顔を見下ろす。すーすーと、心地よさそうな呼吸の音が聞こえることに、無意識に安堵した。
「…………バカシンジ。のんびり寝ちゃって……」
寝顔を見下ろしながら、柔らかく毒づく。
避けようもなく至近に迫る最期の刻。
それを聞かされて以来、アスカは何度も泣いた。
神とか運命とか、そういうものを呪ってわめき散らした。
何故と叫んで壁を殴りつけたこともある。
手の施しようがないことをはっきりと思い知って、絶望にも暮れた。
そんな彼女をなだめたのは、いつも、当事者であるはずの彼だった。
震えるアスカを抱きしめ、優しく頭を撫でて、涙を拭ってくれた。
本当は彼にこそ、呪い、泣き、わめき、怒り、叫び、絶望する権利があったはずなのに。
――ありがとう。でも、仕方ないことなんだよ。
朗らかな諦観をこめて、彼はいつも微笑していた。
かつては誰よりも弱虫で、頼りなかったはずの碇シンジ。
しかし自身の最期を間近に控えた今、涙も恐怖も彼は見せない。あるいは綾波レイには見せたことがあるのかも知れないが、アスカにはない。
彼女の前では、彼はいつだって、とうの昔に橋を渡り終えた男の顔で、静かに笑っていた。
だからアスカは、泣くよりも笑うことにした。
彼の笑顔が曇るのは、アスカが泣いているときだと理解してしまったから、笑うことにした。
「…………」
何かが胸から溢れそうになったのを悟って、アスカは慌てて上を向いた。
安らいだ顔で眠り続ける彼の顔に、安堵だけでなく、黒い染みのように心を蝕む何かを感じてしまった。
「……そいつのこと、よろしくね」
銀髪の少女にそれだけを囁いて、足音を忍ばせリビングを出る。相手がうなずいたことは、確認するまでもなく確信ができた。
扉を閉め、階段を上る。彼女の私室は二階にある。
泣くな、喚くな、叫ぶな。
彼のまどろみを侵してはならない。
悲哀や絶望などというもので、碇シンジの静寂を汚してはならない。
そう誓いつつも、時に絶望に狂いたくなる自分を彼女は感じる。
いや、一度、本当に狂いかけたこともある。
一ヶ月ほど前の一日、先刻のようにリビングで眠っていた彼の首に、両の手をかけたのだ。
蝉の鳴く音がうるさく耳を貫き、窓からの陽射しがやけに鋭く肌を焼いていた。
頬を伝った汗がぽたりと落ちて、彼の額を汚したことを、何故かはっきりと記憶している。
そしてレイは、そんな無様で愚かな自分を、無言で見つめていた。責めるでもなく、止めるでもなく、ただ睥睨するかのように見つめていた。
すんでのところで我に返れたのは、道徳や良識に基く故ではない。
細く白い首に食い込んだ指、そこに力をかけたとき、彼の寝顔が苦しそうに歪んだからだ。
それは、呼吸や血流がどうこうというより、本当にただ単に寝苦しくて顔をしかめた、という――ただそれだけの様子だったけれども。
それだけのことに、惣流・アスカ・ラングレーは耐え切れなかった。
彼を殺しかけたことよりも、彼の安息を汚しかけたことに、アスカは恐怖した。
……彼女が本当の意味で絶望を知ったのは、あるいはそのときであったかも知れない。
西日が部屋を橙色に染める頃、階下から伸びやかな音色が響いてくるのをアスカは聞き取った。
極力音を殺して階段を降り、ドアを細く開けてリビングを覗く。
デッキチェアの向こう側で、紅色の空に向けてチェロを弾く彼の背中が見えた。
ゆったりと、怠惰に最期の刻を待つ彼の、唯一の趣味。気まぐれにチェロを弾き、戯れに音を大気に融かす。
アスカも、ドイツにいた頃はヴァイオリンを齧ったことがあるので、音の良し悪していどの判別はつく。
技量的には堅実そのもの――派手さはないが、穴もない、それだけのものであったけれども。
ただ、その音は何よりも涼やかで、透き通っていた。
濁りも澱みも何もなく。
綺麗、という表現が何よりも似合う。そんな音。
聞く者の心に響くというより、ただ自然に染み込み融けていくような。
あの空のように優しく穏やかで澄み渡った、正しく今の彼そのものを表す音。
レイはデッキチェアの前に居場所を移しているようだ。彼の背中に隠れてその顔を見ることはできないが、両膝を抱えて座るような姿勢でいるらしい。
アスカはそれ以上ドアを開けることもなく、その場で佇んで眼を閉じる。
見なくともわかるような気がした。脳裏に描かれる情景は、現実と寸分たがわぬものであることを確信できた。
この世の何物にも囚われることなく、ただ無心に音を紡ぎ上げる彼と。
その彼に寄り添い、すべてを受け止めることを選択した、銀髪の少女。
この世の何よりも純粋で、脆く、儚く、強い絆で結びついた、恋人たちの姿。
自分という異物はそこに似つかわしくない気がした。
壁にもたれかかり、ドアの影に身を伏せるように座り込む。
でも、これでいい。
これでいいと思えた。
寄り添うことはできずとも。
半身として在ることはできずとも。
――傍にいることは、できる。
彼らの世界のほんの一欠片として在ることができる。
それこそが、惣流・アスカ・ラングレーの選択だったから。
規則正しく刻まれる時の足音。
泣き叫び喚き散らしても歩み寄る。
陽は昇り、また沈みゆく。
それはただそれだけの――、
そこに在るというだけの、ロジック。
翌朝、朝食の時刻になっても碇シンジは下に降りて来なかった。
この日は彼の家事の当番だ。
カラダが壊れても欠かしたことのなかったはずのそのルーチン。
定刻までキッチンのテーブルで黙然と待ってから、アスカはやおら立ち上がり、廊下を走って、階段を駆け上った。
歯を食いしばり、叫び出したい衝動を堪える。けれども涙だけは流さなかった。
蹴破るように彼の部屋のドアを開ける。
果たして、彼はそこにいた。
ベッドに腰掛けて、荒い息をつくアスカを見上げていた。
「やあ、おはよう」
――もうこんな時間か。ごめん。今日は僕が当番だったよね。
いつも通りの声音で、そんなことをいって。
彼は右の手を挨拶するように上げた。
その五指が微かに震えていることを、アスカはぼんやりと確認する。
「今日起きたら、こんな感じでね。どうも、治る見込みはなさそうだ」
両手の感覚が消失したことを、彼は淡々と教え、これからは家事ができそうにない、と詫びるようにいった。
アスカは驚かなかった。怒りも嘆きもしなかった。
ただ、残された時間が、おそらくは後半月ほどもないことを確信した。
「……家事、私がやるから」
いつの間にか背後で佇んでいたレイが、そっと囁いた。
アスカは無言でうなずき、ドアを閉めた。
銀髪の少女とともに、階下に戻る。
――最初は、瞳に映る世界の色を。
次に嗅覚を。
その次に味覚を。
さらにその次に熱を感じる感覚を。
それから、左目の視力。
そうして今朝は、両の手の感覚。
一つずつ、一つずつ、彼のカラダはその機能を停止していく。
医学的には何の異常もなく。
ただ、機能だけが停止していく。
それは壊れたエンジンで動き続けるために、何かが少しずつ切り捨てられるということ。
やがて切り捨てるものがなくなったとき、彼は、死ぬ。
それはもう、ずっと前に決まってしまったこと。
その日も彼は、陽射しのまどろみの中で夕暮れまでを過ごした。
アスカもまた、その傍で一日を過ごした。
安らかな寝息を立てる彼の横顔を、じっと見つめていたのだ。
見つめながらたくさんのことを考えた。
出会ったばかりのときのこと。
命がけの戦い。
肩を並べたあの頃。
挫折と嫉妬、そして憧憬。
気がつけば、彼は自分の一番大事なものになっていて。
彼がいないなら、他に何があっても無意味と思えた。
けれどそのときには、彼はすでに、いなくなることが決まってしまっていて――
彼の傍らに在るべき少女も、決まってしまっていた。
いつだって自分は手遅れで、場違いだったのだ。
何でもできたはずだったのに、望んだことは何もできなかった。
「ねえ、ファースト」
アスカは彼を挟んで反対側にいる少女に呼びかけた。
「あたし、何なのかしらね」
支えになることもできず、受け入れることもできず。
絶望に囚われることもできず、といって忘れることもできない。
――すべてをあるがままに受け入れ、目の前の彼へ寄り添い、当然のようにして共に在る。
文字通りの半身。
迷いなくそれを選択できた綾波レイが、アスカには眩しかった。
「あなたは、あなた」
返答は期待していなかったが、しかしレイは囁くように応えてくれた。
「私は此処に在る。あなたは其処に居る。碇君は、そのことをとても喜んでた」
淡々とした声音。無機質なようで、けれど優しい。
それが今の彼ととてもよく似た声であることに、アスカははじめて気づいた。
「私は、あなたが羨ましい。あなたが私になれなかったように、私はあなたになれなかったから」
羨ましい。それこそ、意外で、望外な言葉。
いつも見上げて、憧れていた世界からの、心からの羨望の言葉。
「意味わかんないわよ、ばか……」
アスカは呟いて、身を丸くした。
ほんの一欠片。取るに足らないほんの一欠片。
けれども、彼が最期まで忘れることのない、たった一つの欠片になりたかった。
陽だまりの中で形を失う意識を感じながら、アスカはそのことだけを思った。
荷物の中で埃をかぶっていたヴァイオリンを出したのは、大した理由があったわけではない。
両手の感覚を失って、碇シンジはチェロを弾くことがなくなった。
彼の音色は、もう聴けない。
だから、代わりに自分が――などというのは、ただの自惚れだろう。惣流・アスカ・ラングレーには、どうしたって彼のような音は出せない。
アスカはただ、弾いてみたかった。言葉で語るのではなく、指先で触れるのでもなく、それ以上のすべてを彼に覚えて欲しかった。
碇シンジが紡いでいた、優しく、穏やかで、澄み渡る音色。それは正しく彼そのものを表していて。
――だから、彼女は。
彼と同じやり方で、自分の紡ぐ音を知らせたかった。
惣流・アスカ・ラングレーの音を、碇シンジに刻みたかった。
つまりはそれだけの、理由だった。
長く使っていなかったヴァイオリン。まずはまともな音を出せるようにするため、楽器屋に持ち込まねばならなかった。
復興途中の第参新東京に一軒しかない楽器屋を探し当てるのに丸一日をかけた。
弾いていた頃の感覚を取り戻すためにはもう十日間。不完全な雑音を彼に聞かせたくはなかったから、買い物に行くと偽って町に出て、人気のない廃墟で練習した。
その間に、彼はまたいくつかの機能を停止させていた。
左目に続いて右目の視力。
右脚の感覚。
見た目ではわからないが、内臓の機能もいくつか停止してしまったようだ。
打ち寄せる波がついに足元を浸し始めた。そのことを、彼自身があっさりと認めた。
日に日に焦燥が強まった。
けれども、未完成な音を、不完全な自分を、彼に聴かせることだけはできなかった。
昼から夕刻までの五時間と決めた、無人の廃屋での演奏。
その五時間を、さらに密度を高く、煮詰める。
光も味も匂いも熱も失った碇シンジが、終に音をも失うその前に。自分の音を、間に合わせるために。
奏でるべきは唯一つ。ヴァイオリンではなく、惣流・アスカ・ラングレー。
楽器は彼女の声。言葉。鼓動。そして心。彼女の一部であり、彼女の全て。
響く音符の一つ一つに全身全霊の意識を向け、連なる楽節により以上の精神を集中する。
ほんの半音でも気に入らなければすべて一からやり直した。
脳裏の奥のさらに奥で、何百何千何万何億とイメージを繰り返し、自分の音を確かめ続けた。
そして、埃を被ったヴァイオリンが陽の下に出てから、ちょうど十二日目。
暮れなずむ橙色の光の中で、彼女は絶叫した。
童女のように涙を流し、迸る感情のままに泣き喚いた。
廃墟に響き渡った音が、正しく自身の望んだ通りの音であることを知って、剥き出しの声を上げた。
それは純粋な歓喜の産声。
今回は、間に合った。
彼女は、間に合ったのだ。
聴かせたいものがあるからちょっと時間をくれない?
朝食の場でアスカがそう切り出したとき、二人の同居人は不思議そうにうなずいた。
いつも彼が使っているデッキチェアを拝借し、ヴァイオリンのケースを持ち出した段階で、初めてレイは合点が行ったようだ。耳元でそれを囁かれた彼は、ただ嬉しげにうなずいていた。
手早く調律を済ませ、ヴァイオリンの持ち位置を再度確認するアスカの前で、シンジとレイはクッションを椅子代わりに並んで座っている。
シンジは足を崩して、レイはおそらく彼がチェロを弾いていたときもそうだったのだろう体育座り。
すべての準備が整ってから、アスカはまずレイを見て、謝罪するように頭を下げた。彼女はわずかに微笑んだようだ。
次いでシンジに視線を移し、その表情を正面から見つめる。今の彼には視力がない。だから、何も見えたはずがない。けれども彼はすべてがわかっているように、優しくうなずいた。
アスカもうなずきを返した。緊張で震えかけていた指先が、それだけで普段通りに戻った。
一呼吸置く。
それから、彼女は弓を躍らせた。
チェロよりも高く響くヴァイオリンの音色。
彼のような透き通る純度は、彼女にはない。
波紋一つない湖面のような心など、彼女にはない。自分はどこまでも愚かで浅ましく。欲することを止められない。
だから、溢れ出る心をそのまま音色に映した。
出会ってからの想い出を。
辛かった戦いと、騒がしかった日常を。
そこで育まれた幾多の想いを。
愛した母を亡くし、その面影を追い続けた自分。
がむしゃらに高みを目指し続け、挫折した自分。
すべてができなければと思い定めて、何一つできなかった自分。
けれど、これだけは手に入れた。
今此処にある確かな想い。
惣流・アスカ・ラングレーは、碇シンジのことが、大好きです。
それだけは、絶対で、確実な、たった一つの真実。
日が昇り沈みゆくのと同じくらいたしかな、自分の得たたった一つの答え。
だから、死んで欲しくない。いなくなると悲しい。彼が死ななければならない、それが運命だなどとは認めない。
憤怒、絶望、悲哀。
そして、愛と恋。
すべての激情を音色に乗せて。
惣流・アスカ・ラングレーを彼の魂に刻む。
願わくば。
碇シンジがほんの少しでも、この音色を心地よく感じてくれるように。
彼がこの音色を受け入れてくれるように。
……惣流・アスカ・ラングレーを、受け入れてくれるように。
ただそれだけを、痛切に思って。
「いい、音……だね」
食い入るように音に聞き入っていたレイの耳を、そんな呟きがくすぐった。
ほんの一瞬、横目で確認する。
そして、驚愕する。
静かで穏やかな、彼の横顔。
すべての運命を――己の死すら諦観と共に受け入れたはずの彼の瞳から、一筋の涙がこぼれ出ていた。
「でも……残酷だな。わがままで、激しくて……本当に、どうして、今更……」
ぼやくように、苦笑するように。――悔やむように。
彼は呟いていた。
本当に、今更。
どうしてこんなに、もっと生きていたいと、思えてしまうのか。
バカアスカ。
どっちが莫迦だよ。このじゃじゃ馬。
静かに消えゆくはずだったこの身を、どうして引き上げようとするんだ。アスカ。アスカ。……掛け値なしの莫迦娘。
忘れかけていた熱が胸にこみ上げる。
枯れたはずの涙が流れ落ちる。
死を受け入れたときに捨て去ったはずの物が甦る。
――ああ、そうだ。
これが、命か。
……とこしえの夏に響き渡る音色。
切り取られた永遠に、奏でられる命の賛歌。
やがて少年の体が傾いて、傍らの少女の肩にもたれかかる。
瞳はいつしか閉じられて。
触れる体に鼓動はない。
そしてその表情は、哀しそうに、悔しそうに――
けれども、たしかに微笑んでいて。
響き続ける音色の中、銀髪の少女は無言のままに、彼の体をぎゅっ……と、抱きしめた。
ありがとう、アスカ。
ごめん、綾波。
立ち並ぶ墓標の群れに埋もれるようにして、それはあった。
〈 SHINJI IKARI 2001-2016
〉
ただそれだけが刻まれた、彼の墓標。第参新東京の町並みを見下ろす高台の墓地、そこに葬られた彼の最後の寝室。
一時は彼の母のと同じ墓地に――あるいは養父母のいる街に葬るという案も出たが、葛城ミサトが特に願い出た。彼はきっと、この街で眠ることを望むはずだ、と。そして碇ゲンドウも、それを否定しなかった。
ま、あんたには多分どうでもいいことだったんだろうけどね――二つ持ってきた花束、その一つを供えながら、アスカは苦笑する。
彼が逝ってから、そろそろ一年が経っていた。
街並みは復興しつつあり、人も戻ってきている。
ただ、かつてに匹敵するほどではないし、より以上になることもないだろう。
今のネルフは、その活動を段階的に凍結している。
この街も、おそらくはありふれた地方都市の一つとして――風変わりな履歴を持つ地方都市の一つとして、ごくごくささやかな営みを続けていくことになろう。
「あたしは、さ。それでもこの街に残ることにしたの。何だかんだいって、住めば都ってーの? 今更ドイツに戻るのも面倒だしね」
墓標に向かって、彼女は報告する。
「勤め先は、どうしようかなって迷ってるの。パイロットの給料やら年金やらで、一生働かなくてもいいくらいなんだけど、ぐーたらしてるのも何だしね。ま、自慢じゃないけど国連とか役所とか研究所とか、選り取り見取りで引く手数多だし、じっくり考えていくつもり」
戻ってきた人々の中には、懐かしい顔ぶれも何人もいた。
洞木ヒカリ、鈴原トウジ、相田ケンスケ……
彼ら彼女らは、逝ってしまった旧友の墓標の前、つまりはここで涙を流し、絶叫し、死に目に合えなかったことを心から悔いた。
そうした素直な感情表現が、アスカには羨ましかった。あるいは自分も、このように彼に接した方がよかったのだろうか。
同時にこうも思った。
バカシンジ。バカファースト。ずっと澄ました顔しちゃって。残された人間の気持ち、考えたことあったの?
アスカは一つ隣の墓標に視線を転じた。
〈 REI
AYANAMI 2001-2016
〉
彼と寸分たがわぬ生年没年を刻んだ、銀髪の少女の墓標。
彼女が逝ったのは、彼がいなくなって二ヵ月後のことだった。
前触れも何もない。
ある日、突然倒れて病院に運ばれ、そのまま息を引き取った。
彼の死因が魂の劣化であるとするならば、彼女のそれは魂の限界だったらしい。
たった一つの目的のために造り出された彼女は、その目的のために必要とされる時間しか、与えられていなかったのだ。
アスカは息を引き取る前の、レイの最期の言葉を覚えている。
――先、行くから。
それだけが、銀髪の少女の遺した言葉。悔いのない、というよりは、躊躇のない。
碇シンジに寄り添うことを選んだ彼女は、最期までその誓いに殉じた。多分、それだけのことなのだろう。
「本当……あんたって、友達甲斐のない奴だったわ」
アスカは用意していたもう一つの花束をレイの墓標に供え、柔らかく毒づいた。
自分は一度でも、彼女の友達であることができたのだろうか。そんなことをぼんやりと思う。
ただ一つだけ慰めがあるとすれば、今わの際に綾波レイが遺してくれた、その手の暖かさだろうか。
銀髪の少女は、最期の最期にアスカの手を取り、感謝するように――あるいは詫びるようにきゅっと握り締め、そして逝ったのだ。
「…………」
数瞬の沈黙の後、アスカは頭を振って立ち上がった。
二つの墓標に最後の一瞥を投げかけ、そのまま踵を返す。
生きている者は、生きることを望んだ者は、立ち止まれない。
逝ってしまったあの二人も、アスカが停止することを望まないだろう。自分たちはさっさと逝ってしまったのに、勝手なものだ。
振り返ることなく歩を進める。
見上げた空は、どこまでも蒼く、遠く、高かった。
今日は久々にヴァイオリンを弾いてみるのもいいかも知れない。
あの空の向こうに届くほど思い切り、弾いてみよう。
溢れる想いと、なお褪せぬ記憶を紡ぎ上げて。
陽光を透かした大気に、音ははるかに融けていくだろう。
終
後書き
知っている人は知っている、north様の所で開催されたSSコンペに出品した作品です。
何を隠そう締切一時間前に何とか書き上げて応募したというドタバタぶり。おかげで今見直すと粗も見えるのですが。
ちなみに結果は、何と望外の一位。結果発表の際、リアルタイムで開かれていたチャットをドキドキしつつ見守っていたのですが、「一位 夏の音色」の文字が見えたときは「……まじ?」と我が目を疑いました。まさかというかありがたすぎるというか。
またの機会があれば参加してみたい……と思いつつ、第二回コンペが開かれた際は、参加表明したというのに締切に間に合わずリタイアしたという暗いオチがつくのでした。orz