机の上のラジオを眺めることが、いつしか暇なときの習慣になっていた。
もとから調子の悪かったそれが、ついに完全に故障したのは、もう半年以上前のことだ。
何度か修理を試みたのだが、彼にはとうとう直せなかった。
アスカなどは、買いなおせば? と当然のようにいったが、奇妙に愛着のあるそれを手放すことは躊躇われた。
結果、古ぼけたトランジスタ・ラジオは黒いオブジェとなって、以後ずっと彼の机を飾っている。
彼は手を伸ばし、いつものようにラジオの電源を入れた。
周波数のダイヤルをいくら回しても、スピーカーはただノイズを奏でるだけ。
砂の流れ落ちるようなその音が、永遠に寄せ続ける波のようなその音が、彼はしかし嫌いではない。
もはや言葉や音楽を紡ぐことのない、古ぼけたトランジスタ・ラジオ。
電池を浪費するだけの、壊れたトランジスタ・ラジオ。
けれども碇シンジは、それを手放す気にはなれなかった。
砂の国
七瀬由秋
所々破れた障子を開けると、むせるような緑の匂いが肺を満たした。
小鳥の囀る声と、うるさいほどの蝉の声。
永遠に続く夏の光が、東の空から差し込んでくる。
昨日まで降り続いていた雨のせいだろう、開け放たれた障子から見える木々は奇妙に輝いていた。
視線を巡らせて、背後を見る。
今し方まで彼が眠っていた布団には、二人の少女が幸せそうな寝息を立てている。
彼女たちより先に目覚めるのは久しぶりな気がした。
目映い光に眠りが乱されているのか、赤毛の少女が呻きに似た声を上げながら寝返りを打つ。その頭が、傍らで眠る銀髪の少女の腕に当たる。
変わらぬ様子で眠り続けていた銀髪の少女が、おそらくは無意識の動作であろう、赤毛の少女の頭を抱え込むように抱き締めた。
まるで優しい母親と甘えん坊の子供のようなその姿に、彼は我知らず微笑んでいた。
別の街に引っ越そう。そう言い出したのはアスカだった。
潮の匂い。灼けつく太陽。公園の砂場の幾千倍に相当する浜辺。きらきらと光る波飛沫に、時折よぎる魚の影。
それはそれは綺麗で楽しくて素晴らしいものではあるのだけれど、ただそれだけではいずれ飽きてしまう。
今度は山なんかいいわね、と彼女は言った。大丈夫、この街が恋しくなったらまた戻ってくればいいだけなんだし。
レイも反対はせず、ならば彼にも異論はなかった。
その日のうちには荷物をまとめ、次の日の朝には住み着いていた廃屋を出発した。
途中、行き付けの雑貨店で半月分の保存食を買い込む。
顔馴染の店主は、気を付けてな、と少し残念そうに笑った。
兄妹仲良く力を合わせていくんだよ、最近物騒みたいだし、とも。表向きには彼らは、孤児院で育った義理の三人兄妹という形にしてある。
移動はすべて徒歩で行くことにしていた。
セカンド・インパクト以来、地方は都市部に比べて著しく復興が遅れている。
どうにか日に一、二度バスが通るだけの地域など、珍しくもない。
彼らが二年近くを暮らしていた街も、それは例外ではなかった。
色褪せたアスファルトの道路を三人して歩く。
人の少ない街並に、擦れ違う人影もまた少ない。
歩きながら、アスカはよく喋った。彼が時たま相槌を打ち、レイは楽しげに微笑していた。
彼も彼女たちも体は頑丈な方だ。それなりに鍛えられてもいる。
もともとこれといった目的などない。時間は有り余るほど持っている。
旅費についていうならば、かつて暮らしていた場所を抜け出したとき、鞄一杯に積め込んできた札束がまだまだいくらでも残っている。
何より彼らは、三人一緒なのだ。
綾波レイがいて、惣流・アスカ・ラングレーがいてくれるのなら、彼は他の何物も怖くはない。それは他の二人にもいえることだ。
歩くのに疲れたら、手近な木陰で休息を取った。風呂は海や川ですませた。
運よく旅館やホテルを見つけられたら、もちろんそこに泊まった。
親切な老婆の家に厄介になって、一晩泊めてもらったこともある。復興の進んでいない地方の街は、そうであるが故に概して住民は親切で、暖かい。生活が豊かでないがために、助け合うことの尊さを身に染みて知っている。
そんな生活が一ヵ月ほど続いた。
旅の後半、さすがに疲れが溜まってきたが、そういうときこそアスカは明るくはしゃいで見せた。
レイは甲斐甲斐しく食事や野宿の準備を整えた。
そして彼は、二人の少女の体調をさり気なく気遣っていた。
三人ともに、決して無理をしないことと、疲れたらすぐに口に出すことを事前に申し合わせていた。
あたしたちは運命共同体、一人で倒れるなんて贅沢は許さないんだから。
そう言い放ったアスカの言葉に、レイも彼も完全な同意を込めてうなずいていた。
互いに迷惑をかけること、互いに迷惑をかけられること。それすらも彼らにとっては一つの特権。
他の誰にも許されない、彼ら三人の間で許された特権だ。
三つの柱で支えられた神殿は、うち一つが折れただけでも崩れてしまう。
山間の潰れた村落に辿りついたときは、さすがに三人とも疲れ果てていた。
けれど、廃れてはいても十分に雨露のしのげるねぐらを見つけると、三人でハイタッチして互いの健闘を称え合った。
その夜の心地よい安らかな眠りを、彼は一生の思い出の一つとして刻みつけている。
飽きもせずにずっと二人の寝顔を見つめていると、やがてアスカが目を覚ました。
自分がレイに抱きかかえられるように眠りこけていたことに気付くと、少し恥ずかしげに身を起こす。
はにかんだ笑顔が、いつになく可愛かった。
腕の中の重みがなくなった、そのことに気付いたのだろう、レイもぱちりと眼を開ける。
寝ぼけ眼をこする少女に向けて、彼は心から、アスカは恥ずかしさを紛らわすように、おはよう、と告げた。
今日は気持ちのいい天気だよ。
彼は障子の外を示しながらそう教える。
二人の少女は顔を綻ばせ、よかった、とうなずいた。
服を着替えてから、三人連れたって台所へ向かう。彼はいつものシャツとジーンズ、二人の少女は揃いの白いワンピース。
この廃屋は、どうやら昔は寺だったらしい。
仏像こそ残っていなかったが、広い和室造りの部屋がいくつもある。
当然ながら、ガスや電気の類は通っていない。水道すら例外ではなかった。
もっとも、彼らはその点に不満を覚えていない。
薪を集めて火を起こし、近くの滝から水を汲んできて調理に使う。
食材は、月に一度、麓まで出て行って買い込んでくる。往復で半日の道程だ。
都会で育った身にはきつくなくもなかったが、馴れてしまえばどうということはない。
例えどれだけ快適な環境であろうが、より過酷な日々に身を置いていたことがある。
心が壊れるほどの体験もすませている。
それを思えば、大抵のことは笑って片付けられる。
いや、今このとき、三人一緒でいられることを思えば、あの辛かった過去ですら悪い取り引きではなかったとさえ思えるのだ。
味噌汁と御飯で簡単な朝食をすませてしまうと、午前中は各々家事に専念する。
アスカは掃除と洗濯、レイは食事の仕込み。彼の役目は水汲みと薪拾い。
昼になると一緒に食事をして、それから夜までが遊びの時間だ。
今日は山歩きにしましょ。
昼食の、魚の塩焼きを突っつきながら、アスカがいった。
釣りはもういいの? と、シンジが笑う。
つい先日まで、アスカは近くの渓流での釣りに凝っていた。
手製の竿に、廃寺の物置をひっくり返して見つけた釣り糸と針をつけ、御飯粒を餌にして日がな魚と根競べしていたものだ。
……あれはもういいの。
アスカは拗ねたように答える。三日前、彼とレイが二人合わせて二十匹の鮎を釣り上げたのに、自分だけがまったく釣れなかったのを根に持っているらしい。
あーゆー地味なのは、もともとあたしに向いてないの。負け惜しみのようにいう彼女に、レイと彼は思わず笑い出した。
もともと人が住んでいただけあって、山にはいくらか整備された道が巡っていた。さすがにアスファルトで舗装された道などはないが、手すりのようにロープが張られている場所もある。
とはいえ、人がいなくなって久しいのもまた事実であって、獣道同然になっている個所も多い。
出掛けに彼らは、薪を一本地面に立て、その倒れる向きを確かめた。
薪は西に向かって倒れる。
よし、じゃあこっちね。アスカは西を指差しながら宣言する。
彼とレイはうなずいた。
雨の雫が垂れる木陰は驚くほど涼しかった。
歩きながら、アスカは大声でデタラメな歌を歌った。
時折ステップを踏んで、からからと笑った。
彼とレイは弾けたように笑って、アスカの歌声に唱和する。
季節は夏。
永遠に終わらない夏。
蝉は叫び、鳥は囀って。
風が木の葉を鳴らしていた。
緑の匂いが鼻腔を刺す。その感触が何とも新鮮で、彼は嬉しくなった。
彼がいて、アスカがいて、レイがいて、揃って山を歩いていて。
ただそれだけのことが、何よりも優しく、暖かく、心強い。
緑の迷路を歩くだけで胸が高鳴った。
迷路は深く、どこまでも続くよう。
立ち入り過ぎれば帰れないかも知れない。
けれどそれも、恐くはない。
アスカとレイがいるなら、自分の帰るべき場所はそこだから。
例え迷路の奥底であったとて、暖かい家は築くことができる。
南中を過ぎた太陽が西に傾きかけた頃、レイが小川のせせらぎを聞き取った。
くいくいと彼の袖を引っ張り、アスカに声をかけて先導する。
それは本当に小川というのが適当な、大して幅のない水の流れだったけれども、歩いているうちに汗をかき始めていたアスカは歓声を上げた。
靴を脱いで裸足になって、川の流れに素足を浸す。
あんたたちも早くなさい、と彼女は言って。彼とレイも喜んでそれに倣う。
――結局その日は、夕暮れまで水遊びに興じた。
はしゃいで水を掛け合っていたアスカがつるりと転び、川底にお尻をぶつけて悲鳴を上げたり。
川面に泳ぐ魚を取ろうとしたレイが、失敗ばかりして少し涙目になったり。
川辺に座って遠慮なく笑い声を上げた彼が、彼女たち二人に水の中に引きずり込まれてずぶぬれになったり。
子供みたいに馬鹿げた、夢のように楽しい時間を、この日も過ごす。
やがて空が朱に染まる頃、彼らは廃寺に戻った。
夕食は、決まって鍋物だ。
山の夜は意外に冷える。皆で囲炉裏を囲んで一つの鍋に箸を伸ばす。海辺の家では久しくなかったこのメニューが、アスカもレイもいたく気に入っている。
麓で買い込んできた雑多な肉類や野菜に加え、川で釣った魚、山で取ってきた山菜がぶち込まれるときもある。
野趣溢れるというには大雑把すぎる味付けが、しかし山歩きで疲れた体には驚くほど美味しい。
今度、自家製味噌でも作って見ようか。そう彼が何気なく呟くと、二人の少女は口を揃えて食べたい! と連呼した。
鍋の具を一通り食べてしまうと、今度はその出汁を使って雑炊を作る。
意外なことに、レイはこの雑炊をかなり楽しみにしているようだった。
炊き上がると、待ちかねていたようにおたまですくい、茶碗に盛りつける。
んくんくと子供のように雑炊をすするその姿に、彼とアスカは顔を見合わせて笑った。
くちくなった腹を抱えて半刻ほどをまったり過ごした後、お風呂に入る。
廃寺の裏庭にあつらえられた、ドラム缶の五右衛門風呂。
満天の星空の下、薪を焚いて湯を沸かす。
あったかいし眺めもいいけど、狭いのだけが唯一の不満よねー、などと、湯に浸かりながらアスカはいった。
一緒に浸かっているレイは、薪をくべている彼に気遣わしげな視線を向けてくる。
何気なく視線を上げると、ほんのり色づいた少女たちの肌が目に入った。
アスカが慌てて胸を隠し、レイは顔を赤らめて湯にもぐり込む。
今更恥ずかしがる必要があるのかな?
思わずそう呟くと、お湯に濡れた二枚の手拭でばしばし叩かれた。
その夜も彼女たちを激しく抱いた。
昼にどれだけ疲れても、朝がどれだけ早くても、彼女たちは彼を求めるし、彼も彼女たちを貪るように愛する。
そこにいることを確かめ合うように、無我夢中で抱き合う。
子供、欲しいな、といつか彼女たちは語り合っていた。
どちらが先に産んでもいい。どの道、二人でたくさん産んで上げる。自分たち三人の大切な子供。
子守り歌を歌って、御伽噺を聞かせて、綺麗な服を着せ替えして、手を繋いで一緒に歩いて。
お前にはたくさんの未来があるんだよ、と。そう教えて上げる。
幸せになるために産まれてきたことを、一生かけて教えて上げる。
甘く語らいながら素肌を寄せ合い、折れるほどに抱き締めて重なり合って。
やがて落ちるように意識を手放すまで、彼と彼女たちは求め合う。
――先に眠りに落ちた二人に布団をかけてから、彼は寝巻きを羽織り、障子を開けて、縁側に出た。
虫の鳴き声が耳に染み込む。
空は驚くほど澄んでいて、星が瞬いていた。
裸足のまま庭に出る。荒れ果てた、雑草だらけの庭。
風の鳴る音。葉の擦れる音がかすかに聞こえた。
彼は夜空の月を見上げながら、囁くように呟く。
「……まあ、こういうわけです。そっとしておいていただくわけには行きませんか」
荒れ果てた庭の茂みが、ほんのわずかに音を立てた。
虫の鳴き声が止む。風は微風。しかしそれきり、枝葉が音を立てることはない。
やがて、茂みの中で何か大きなものが、ただの一度だけがさりと音を立て、そして最後まで無言のまま去って行った。
「……ありがとうございます」
そんな一言だけを、彼は別離の言葉として送る。
答える声はなく、それを期待してもいない。
ただ虫だけが、再び鳴き始めていた。
あのトランジスタ・ラジオはどこにしまっただろうか。
彼はぼんやりと考えた。
あのノイズが、何故か無性に懐かしい。
もしかしたら、海辺のあの廃屋に置き忘れてしまったのかも知れない。
主のいない部屋の机に、物言わぬ姿で置かれたままなのかも。
いずれ取りに戻るのもいいだろう。
あの海が懐かしくなった、そのときにでも。
流れて落ちる砂のような、寄せては返す波のような、ラジオが奏でたその調べを彼は思い出していた。
砂と波――どこまでも広がる海。三人で駆け抜けた紺碧。
――彼らは浜辺に絵を描く。
たくさんの、たくさんの。子供の頃に見た夢を、描く。
永遠の夏の光の下を、三人で歩き、戯れ、笑い、愛し合う。
そんな――ほんのちっぽけな、無数の夢を。
脆くて儚くて、例えすぐに消えてなくなるものだとしても。
飽きることなく、繰り返し繰り返し。
新しい夢を、何度も何度も。
砂に描かれ、築かれる――彼らだけの、夢の形。
終
後書き
2005年正月の年賀状メールに添付した、お年玉SSです。
「砂の城」の正統な続編ですね。いつから続き物になったのやら私にも不明です(笑)。
コンセプトはずばり、「海の次は山」。凄まじく安直ですが、気にしてはいけません。