僕はただ、彼女の空気が好きだった――





























Moon Phase

序章 聖女の寵辱

七瀬由秋






















 夜半に降り始めた雨は、明け方にはもう止んでいた。

 鼓膜をくすぐる鳥の鳴き声。カーテンの隙間から零れさす白い光に、僕は目を覚ます。
 時計を見ると、六時を少し回ったところだった。
 最後に確認したときから、三時間ほどしか経っていない。

 ろくに寝ていないにも関わらず、頭はすっきりしていた。

 このところはずっとそうだ。
 浅い眠りをくり返しては目覚め、眠気もないのにまた眠りに落ちる。
 いや、起きているときでも、ふと自分が夢の中にいるような錯覚を覚えるときがある。
 それはうたかたの幻のような、あるいはまどろみに見る白昼夢のような。
 この世界そのものが、僕に対して嘘をついているかのようで。

 くすっ

 訳もなく僕は苦笑する。
 自分で自分が何を考えているのかわからない。
 これは重傷だな、と僕は僕に苦笑した。

「……どうしたの?」

 声をかけられて、僕は我に返った。
 微かに重みを感じる胸元へと視線を移す。

 彼女はやっぱり、もう起きていた。
 明け方の光に、元から白い裸身が綺麗に輝いている。
 白い白いその輝きの中で、真紅の瞳がじっと僕の表情を見つめていた。

「何でもない。眠りが足りないのかな――訳のわからないことを考えてた」
「……そう」

 彼女――綾波は素っ気なくうなずいて、またじっと僕の顔を見つめた。
 以前はひどく居心地の悪かったその視線が、今となっては見守られているような気分になれる。
 それは、とてもとても、気持ちのいいこと。

 綾波の寝顔を見た記憶が、僕にはほとんどない。
 僕が目覚めたとき、彼女はいつも先に目覚めていて、こうして僕の顔を見つめていた。
 僕にはそれが心地良かった。
 目覚めてすぐに感じる、彼女の視線が。彼女の体温が。彼女の匂いが。僕は好きだった。
 無我夢中で肌を重ねているときとはまた違った、優しい、暖かい、包み込まれるような空気が好きだった。

 ――それは遠い昔になくした半身を見つけ出したような、砕け散った欠片が少しずつ埋められていくような、そんな感覚。



 僕が僕の家――と、呼べるものだったのなら――に帰らなくなって、もう何日になるのかわからない。
 きっかけは、ミサトさんだった。

 ――『もし……もう一度会えることがあったら、八年前に言えなかった事を言うよ』
 ――馬鹿……あんた、本当に馬鹿よ……

 留守番電話に記録されていた、加持さんの……おそらくは最後の言葉。
 リビングから漏れ聞こえるミサトさんの嗚咽に、僕は耳を塞いだ。
 他にどうすることもできなかった。
 自分の年齢を免罪符にして、僕はミサトさんから、ミサトさんの悲哀から逃げた。
 雷鳴に怯える子供のように、ただ嵐の過ぎ去るのを待っていた。
 ……けれどその嗚咽は、それから毎晩途絶えることはなかった。

 そして、次はアスカ。
 衛星軌道上に現れた、鳥のような姿をした使徒――
 その戦いで精神汚染を受け、成す術なく敗北した彼女は、家に寄り付かなくなった。

 ――その……よかったね、アスカ。
 ――うるさいわね! ちっともよかないわよ!

 さんざん迷った挙句、愚にもつかない慰めをした僕に叩き返された、血を吐くような叫びが忘れられない。
 翌朝目覚めたとき、彼女は部屋にいなかった。
 後で知ったところでは、洞木さんの家にずっと泊まり込んでいるらしい。
 学校にも行かず、ゲームばかりして時間を潰している、と受話器の向こうで洞木さんは心配そうにいっていた。
 今はそっとして置きましょ、とミサトさんが寂しげに呟いた言葉に、僕はうなずくしかなかった。

 ミサトさんが想い出にすがり、アスカが去って、最初から血のつながりなどなかった家族は元の他人へと戻ってしまった。
 寂しくもあったけど、そんなものだったのかも知れない。
 元からちぐはぐだったジグソーパズルが、ようやく分解されたようなものだろう。

 僕は早々とあきらめていた。

 あきらめることには、ずっと前から馴れていた。
 あきらめてさえしまえば、心も砕けずにすむ。
 ずっと前に、僕はそう学んでいた。

 

 アスカに倣ったというわけではないけれど、僕も学校に行かなくなった。
 当たり前の日常をこなすことさえ、苦痛を感じるようになっていた。
 何より僕は恐かった。
 トウジから……友達から片足を奪ってしまった僕が、どんな顔をして学校に行けばいいというんだろう?
 ケンスケや洞木さんと顔を合わせる事を――クラスメイトたちから責められることを、僕は恐れていた。
 ミサトさんも何もいわなかった。
 僕の気持ちを理解してくれたということもあるだろうが、何よりミサトさん自身、僕に構っていられる余裕がなかったのだろう。
 ミサトさんは毎晩仕事から帰ってくると、山ほどのビールを抱えて、リビングから持ち込んだ電話機とともに自分の部屋に籠もってしまっていたから。
 毎晩のように聞こえる嗚咽の響きは、アスカがいなくなっても変わることはなかった。


 ……間もなく僕は、家にいることすら苦痛に思うようになった。
 少し前までの騒がしくも楽しい思い出の詰まったあの家は、今の空虚さを痛切に思い知らせる。
 アスカのいない部屋も、嗚咽の聞こえるミサトさんの部屋も、掃除することもなくなった僕の部屋も、何もかもが苦痛だった。

 そして僕は、財布だけを持って家を出た。



 夜露がしのげるならばどこでもよかった。
 あてもなくふらふらと街を歩きながら、前に家出したときと同じようにオールナイトの映画館で夜を明かそうと、そんなことをぼんやりと考えていた。

 ――だから。
 綾波と会ったのは、本当に単なる偶然だった。

「……どうしてここにいるの?」

 公園のベンチに座り、コンビニのパンで遅めの昼食を取っていた僕の前に、彼女はいつの間にか立っていた。
 最初、僕は理解できなかった。
 彼女が目の前にいるという事実も、彼女の問いかけの意味すらも。
 十秒ほどそのまま硬直して、ようやく僕は、平日の昼間にどうしてこんな所にいるのか、と彼女が問い掛けていることに気づいた。
 そういう綾波の方こそどうしてここにいるのか、ということはわからなかったけれど――
 後になって冷静に考えると、実験か何かでネルフに行った、その帰りだったのだろう。
 そのときの僕はそこまで頭が回らず、ただ学校をサボったことを責められている気分になって、顔を伏せた。
 よくは覚えていないのだけど、学校には行きたくないんだ、家にもいたくないんだ、などという、それこそ支離滅裂な台詞を言い訳がましく呟いていたように思う。

 彼女は何もいわなかった。

 僕はちらちらと綾波の顔を伺ったけど、彼女はただじっと、僕を見下ろしているだけだった。
 いたたまれなくなって、僕はベンチから腰を上げた。
 綾波から、いや僕を知っている皆から逃げたかった。

「それじゃ」

 別れの挨拶にもなってない言葉を捨て台詞に逃げようとした僕の手を、無言のまま綾波が掴んだ。
 いや、掴んだというより握ったという感じだったけど、意外なほどの力強さが彼女の掌から感じ取れた。
 とっさに振り払おうとして、僕は見てしまった。
 彼女の、深い――すべてを見透して、そして受け入れるような、紅い瞳を。
 金縛りにあったように、僕は動けなかった。

 動いてはいけない。
 逃げてはいけない。
 目をそらしてはいけない。
 耳をふさいではいけない。

 僕の中でもう一人の僕がそう命じていた。

「……どこにも行く場所がないのね?」

 綾波が静かにいった。
 僕は無意識にうなずいた。

「……どこにも帰る場所がないのね?」

 綾波が静かに問いを重ねた。
 僕は無意識にうなずいた。

「だったら……」

 綾波は、それが当たり前のことであるかのように、静かにいった。

「……私の所へ来ればいいわ」

 ――僕は、断わる言葉を見出せなかった。

 

 綾波の部屋を訪れるのは、随分久しぶりだった。
 前にここに来たのは――僕がトウジを傷つけてしまう少し前、学校のプリントを届けに来たときだ。
 そのとき、勝手に部屋に上がりこんで、頼まれもしないのにゴミを片付け、トウジに呆れられたのを覚えている。
 ほんの数ヶ月前。
 けれど、はるか遠い過去のような、淡い記憶。
 楽しい想い出というものは、時に苦味を伴うものだと、僕は知った。
 ミサトさんの気持ちが、ほんの少しだけわかったように思う。

「適当に座ってて」

 綾波はそういって、コンビニの袋(途中で購入した、二人分の食料だ)を持って、キッチンに入っていった。
 ほどなくして、冷蔵庫を開ける音が微かに耳に届いた。
 僕は落ち着きなくその場できょろきょろして、綾波の部屋を見回した。
 綾波の部屋は変わっていなかった。
 壁紙すらないコンクリの壁も、飾り気のないパイプベッドも、実用性一点張りのデスクも、小さな箪笥も。
 ただ、床の埃とゴミだけは、前に見たときより随分マシになっていた。
 掃除らしいことをまるでしていないわけでもないようだ。

 僕はとりあえず、ベッドに腰を下ろす。
 デスクの所に椅子は一つあったけれど、それは当然綾波のために空けておくべきだと思ったからだ。
 とはいえ、座ったその次の瞬間には僕は後悔していた。
 ここが女の子の部屋で、座っているのは紛れもなくその子のベッドだと気づいたからだ。
 どうでもいいことかも知れないけど――特に綾波はそんなことを気にする性格じゃないとわかってもいたけど、一度そう認識してしまうと、僕の想像は止まらなかった。
 毎晩、このベッドで綾波が寝ている。そう思うと、顔から火が吹き出そうだった。

 ――やはり床に座るべきだろうか、でもわざわざ座る場所を変えたりしたら、意識していると思われそうだし……

 頭の中でぐるぐるとそんな考えが踊り、僕は腰を浮かしたり下ろしたりしながら無益な時間を過ごした。

 だから、

「……どうしたの?」

 唐突にそう声をかけられたときは、口から心臓が飛び出るかと思った。
 食料を冷蔵庫に詰め終わったらしい綾波が、キッチンから出てきていた。

「な、何でもないんだ! ちょ、ちょっと緊張しちゃって……」

 我ながら説得力に欠ける返答だったと思う。つくづく僕に俳優の素質はない。
 けれど、それを疑いなく受け入れてくれるのが綾波なわけで。

「そう……」

 と、こっくりうなずいて、彼女はあっさり納得してくれた。
 僕は気づかれないように安堵の息を吐きかけ――たんだけど。
 うなずいた綾波が、そのまま椅子には見向きもせず、僕のすぐ隣に腰を下ろしたので、再び心拍数を跳ね上げた。

「あ…………綾波!?」
「なに?」

 彼女は僕の顔を真っ向から見つめながら、微かに首を傾げる。
 幼子のように無垢な表情。あるいはその逆、すべてを見通すような透徹した表情。
 濁りのない、どこまでも澄んだ瞳に、僕は一瞬すべてを忘れて吸い込まれた。

「ど……どうしてそこに座るの!? ほ、ほら、椅子があるじゃないか!」

 どうにか我に返り、あたふたとデスクの前の椅子を指差しながら押し出した声は、見事に裏返っていた。
 返答は、ある意味で予想通りだった。

「構わないわ……」
「そ、そう……」

 抑揚のない声であっさりいわれて、僕はうなずく以外の選択肢がない。
 心臓は、相変わらず速い鼓動を刻んでいる。
 どくどくどく、どくどくどく、と。
 それでも恐慌に陥らずにすんだのは、綾波が本当に、他意なく横に腰掛けたことがどうにかわかったからだ。
 彼女は、僕のつまらない見栄とか妄想とか、そんなものから遠くかけ離れた場所にいる。そう思えた。

「…………」
「…………」
「…………」
「…………」

 無言で見詰め合う。
 綾波の目は、どういうわけだかそらすことが出来ない。
 滅多に人と目を合わせずに生きてきた僕ですら、いつしか彼女の眼差しに引き込まれていた。
 胸は高鳴り、頬は熱い。
 ただ、眼だけが彼女の瞳に吸い寄せられる。

「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」

 いつしか太陽は西に傾いていた。
 窓から茜色の光が差している。
 すべてを朱色に染める陽光の残滓――
 それに撫でられて、彼女の白銀の髪が輝いていた。

 ――綺麗だ、と思った。

 加速する鼓動、加熱する体、けれど頭の一角だけが妙に覚めて、そんなことを思っていた。

 彼女がまるで人間でないかのような、夢幻めいた現実感。
 触れれば融けて消えてしまうのではないか、そう思えるほどの危うさ。

 月光に照らされる彼女の笑顔を見たことがある。

 陽光に透ける彼女の横顔を見たことがある。

 けれど、これほどまでに鮮烈に、彼女を綺麗だと思ったことはなかった。

 顔の造形だけを比べるなら、アスカが一番だと思う。
 女性的な成熟した美しさということなら、ミサトさんが上だろう。
 けれど綾波には、他にはない独特の、透き通るような空気があった。

 汚れのない新雪を思わせる、淡く、無垢で、純粋な。

 そう、それは――
 何かの気まぐれのように刹那的に、無茶苦茶に壊してみたい、と。

 そんな熱病めいた衝動を揺り起こすような。


――もし。


 僕は綾波の顔に手を伸ばした。


――もし、ここで。


 頬に触れ、唇の輪郭を確かめるようになぞる。


――彼女を。


 紅の瞳が茜色の光を映していた。


――彼女を、僕で。


 加速した鼓動が突き動かす、発作的な激情。


――僕自身で、汚してしまえたのなら。


 加熱した体に渦巻く、嵐のような独占欲。


――彼女を、僕の。


 そして、


――僕のものに、してしまえたのなら。

 幼子の懺悔にも似た想い。


――僕も一緒に、堕ちていけるのだろうか。













「――――っ!」

 華奢な肩に手を回し、力一杯抱き寄せる。

「――――――――っっ!!」

 無我夢中で唇を奪う。

「―――――――――――――――――っっっ!!!」

 そして、ベッドに押し倒す。

 綾波は抵抗しなかった。
 夕陽のせいだろうか、その白い頬がわずかに上気しているように見える。
 紅の瞳が、僕を責めもせず、ただ静かに見つめていた。

 それが、僕の中の衝動を加速させた。

 制服のリボンタイをむしり取り、ブラウスの前を力任せに開ける。弾け飛んだボタンがいくつか僕の胸を打った。
 視界に飛び込む白い肌。シンプルなブラに覆われた二つの膨らみ。
 綾波の裸を見たことはある。
 IDカードを届けに来たとき、ちょっとした事故みたいなことで、シャワーを浴びたばかりの彼女を押し倒したときだ。
 けれど、今のように、脳を焼けた針で刺激されるような感覚は、ついぞなかった。

 頭の中で割れ鐘が鳴り響く。
 目眩がするほどの昂奮が眼下に渦巻く。
 吐き気をもよおすほどの激情が胸に満ちる。

 欲望か、罪悪感か、愛情か、自棄なのか。

 そんなことはどうでもよかった。
 今はただ、この得体の知れない衝動を、目の前の白い肢体に叩きつけたい――――――!!!!



 ブラを引き千切り、スカートを引き摺り下ろしても、綾波は抵抗しなかった。
 自分が何をされているのか、わかっていないはずはないのに。
 これから何をされるのか、知らないはずはないのに。

 最後の一枚に手をかけたとき、僕はさすがに、ほんの少しだけ躊躇した。

 熱に浮かされた頭の、ほんの一部が、警鐘めいたものを放っている。
 自分が何か、とつてもない罪を犯そうとしているという、確信めいた予感があった。

 それは時間にしてほんの一瞬。
 一秒にも満たない、ほんの一瞬の静止だった。
 そしてその一瞬の間に、僕は見てしまった。

 綾波の、すべてを受け入れてくれる、あの瞳を。
 淡くほころんだ唇を。

 その瞬間、

 ――僕の中で、最後の何かが音を立てて砕け散った。





 その夜、全身の力が尽き果てるまで、僕は綾波を犯した。
 その華奢な体を蹂躙し、陵辱した。

 僕も綾波も、当然ながら経験などあるはずもない。
 快楽よりもただ、衝動と肉体を叩きつけるような sex 。
 獣のように獰猛に、獣よりも無意味に交わり合う。

 まるで何かに憑かれたような――あるいは、自分自身を彼女の体に刻み込むかのような。


 彼女は無言で、それを受け入れた。
 いや、応えすらしたのかも知れない。

 何度果ててもくり返し犯し続ける僕を、その度に彼女は抱き寄せ、荒い息を吐いた。
 絶えず漏れる微かな声が、僕の劣情を煽り立てた。


 それはまるで甘美な悪夢。
 現実感の失せた、それはまるで白昼夢のような。
 麻薬にも似た悦楽と戦慄。
 熱に浮かされるままに、僕はその感覚に酔い、綾波を犯し続けた。





 すべてが終わって、僕は崩れ落ちるようにベッドに身を投げた。

 何度達したのか、まったく覚えていない。
 ただ、体中に疲労が張りついて、息を整えることすらままならなかった。
 手足が棒のように重い。過大な運動を強いられた心臓が張り裂けるほどに鳴っている。
 かなうことなら、このまま融けて消えてしまいたいほどに――


 ――そのとき、僕はようやく我に返った。


 重たい疲労が、熱病のような感覚にとって代わり、一緒に現実感も連れて来たのか。
 火照った体を突き刺す夜陰の冷気が、頭まで冷やしてしまったのか。

 自分が何をしてしまったのか、唐突に僕は理解した。

 いつしか体が震えている。
 いや、本当はとっくの昔から、あるいは最初から震えていたのかも知れない。
 抑えつけようとしても止まらない。骨格自体が振動しているように、関節ごとに骨がぶつかり合うのが感じられる。








僕は一体何をした?








 がちがちと歯の鳴る音が耳を刺す。
 うるさい。うるさい。
 シーツに顔を押し付けて耳を塞ぐ。
 それでも音は鳴り響く。
 がちがち、がちがちと、僕を責めたてるかのように鳴り響く。










僕は一体何をした?










「うるさいったら!」

 吐き捨てるように叫ぶ。
 そう、うるさいんだ。
 自分のことなら自分が一番よくわかってる。
 わかってるはずなんだ。

僕は一体何をした?



 弾かれるように身を起こす。
 あてもなく周囲に視線を走らす。
 すぐ傍らに女がいる。
 誰なんだよ、こいつは?



僕は一体何をした?



 誰だって?
 いや、知ってる。
 きっと知りすぎるほど知っている。
 蒼銀の髪。紅の瞳。真っ白い肌。
 微かに紅潮したその顔が、まっすぐに僕を見つめていて――










僕は一体何をした?











 その白い肌にこびりついた、白濁した液体。
 吐き出された欲望の残滓。
 薄汚くて醜い、下劣な衝動の。
 陵辱の、爪痕。
















俺は一体何をした?



















ぁあぁぁ


 音程の狂った叫び声が噴き出す。
 転げ落ちるようにベッドから飛び出す。
 何かに足を取られて無様に転ぶ。
 引き千切られたシャツ。
 飛び散ったボタン。

 恐怖と後悔が加速する。

 裸同然の格好で這い回る。
 頭に鈍い衝撃。
 壁にぶつかった。剥き出しのコンクリートの冷たい感触。
 もう逃げられない。
 もう逃げられない。
 どこにも逃げられない。
 逃げる場所なんて最初からない――!!!

 頭の中でただ一言だけが渦巻く。

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい

 許されるはずなどないのにただ渦巻く。
 体を丸め、頭を抱えて。
 恐怖を必死に堪えて、指の隙間から綾波を見る。

 彼女は上身を起こしていた。
 首を傾げるようにして、僕を見ている。
 ――その表情を見た瞬間、僕は、自分が決して許されないことを知った。

 彼女の瞳は相変わらず静かで、責める色など微塵もない。
 悲しみも憎しみも何もなく、ただ僕のあるがままの姿を映していた。
 澄んだ湖面に映る影のように、僕がただ受け入れられていた。

 そう、綾波は無垢で純粋だ。
 僕の欲望も、衝動も、あるがままを受け入れる。
 すべてを理解しながら、すべてを受け入れる。

 だが、だからこそ。
 彼女が彼女だからこそ。


 僕は許されることは、決してない。






 いつしか震えは治まっていた。
 気付けば歯鳴りも止んでいる。
 何故だろう。
 僕は決して許されないことをした。
 愚かで馬鹿げた最低のことをした。
 それを思い知った瞬間、それまで感じていた恐怖が薄らいでいた。
 それはあるいは、処刑台に立つ死刑囚のような静けさだったかも知れない。

 彼女が無言のままに立ちあがり、こちらに歩み寄ってくるのを、僕は呆然と見つめる。

 夕焼けはとうの昔に姿を消し、月明かりが窓から射し込んでいた。
 そう、そういえば今夜は満月だった。
 青く白い光に彼女の裸身が照らされて。

 ひどく綺麗だった。

 全身にこびりついた欲望の残滓も色褪せるほどに、

 綾波はただ、眩しいほどに美しかった。


 彼女が僕の前に膝をつき、手を差し伸べる。
 いつかも見た、あの微笑を浮かべて。

 僕は、そうすることが義務であるかのように、恭しくその手を取った。
 白く細いその手の甲に、そっと口づける。

 彼女のもう片方の手が、僕の背中に回されるのを感じた。
 意外なほど強い力で、彼女の胸に抱き寄せられる。
 とくんとくんと、彼女の鼓動が感じられた。
 それは暖かくて穏やかで、遠い昔にどこかで聞いたような響き。


――いつか、この世界が果てるときでも。

 綾波の唇が、何かを呟く形に動く。

ずっと、


二人で。

 僕は何も答えず、ただ彼女の唇に自分のそれを重ねた。





 頬に冷たい何かが伝う感触がある。
 これは涙だろうか。僕の? それとも彼女の?

 何の涙かなんて、知る必要はない。考える必要もないのだろう。

 僕はこのとき、この瞬間から、彼女のものになった。

 ただそれだけが、確かな事実だった。









 

 

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