雨音が遠ざかるのをずっと聞いていた。
 空が白み始めるのを、窓からの光で私は知る。

 終わらない永遠の夏――

 夜明けの訪れはいつも早い。
 メトロノームよりも正確に、この街の空は毎日同じ時刻に白み始める。
 黒から灰色へ。灰色から白へ。
 世界は瞬く間に彩りを変えて、私と彼を照らし出す。

 私はその時間が好きだった。

 夜闇の中ではおぼろげな彼の姿が、明け方の光で徐々に輪郭を取り戻す。
 彼の形をこの眼で確かめられるこのときが、私は好きだった。

 彼はいつも通り、静かな表情で眠っている。
 健やかな寝息が私の耳に染み込む。

 だから私は安心するのだ。

 ――私は間違いなく彼のもので、彼は間違いなく私のものなのだ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Moon Phase

第一章 少女の聖域

七瀬 由秋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私には過去がない。未来がない。何もない。
 この肉体ですら、紛い物の出来損ないだ。
 世界は常に私によそよそしく、時計は勝手に回っていく。
 それでも別に構わなかった。
 哀しいとか寂しいとか、そういうものがそもそも私にはわからなかった。
 ヒトが生きていく中で自然に身につけていくもの。あるいは生まれつきに備わっているもの。
 感情とか欲望とか衝動とか、そんなものが私にはなかった。
 私を生み出し、これまで育ててくれたヒト――碇司令が、教えなかったというわけではない。
 公平に見て、司令は司令なりの最大限の努力をもって、私をヒトと同様に育てようとしてくれたと思う。
 私の出生、正体を考えれば、地下深くのラボで生涯を終えても文句はいえない。いや、むしろそれが当たり前だったと思う。
 それが、廃屋同然とはいえ家を与えられ、ヒトのように学校に通わされている。
 可能な限り他人との接触を減らしつつも――本性が露見する危険を減らしつつも――、ギリギリの所ではヒトのようにあるべしと。
 そう配慮されていることが、私にはわかっていた。
 けれど、私は生まれた瞬間から変わらなかった。
 ヒトらしい心というものが、まるで宿らなかった。
 結局のところ、司令の努力は無駄だったのだ。
 烏の卵を海で孵そうと、魚になるわけではない。
 種なき土に水を撒こうと、花が芽吹くはずもない。
 私はどこまでも私であって、ヒトにはなりえなかった。
 要はそういうことだ。

 私の中に、心という概念がまったく存在しないわけでもなかった。
 ヒトとはかけ離れたものであったとしても、体の内部に息づく自我は確かにある。
 平坦で平穏で淡白な、自己保存のためのソフトウェア。
 紛い物の体を自律し維持するために形成された、付属品のような。
 私という一個人を認識する、私という自我。
 構造的には心とはとても呼べないかも知れないけれど、それに類するものは確実に存在した。
 それはおそらく、多分に後天的に発生したものだったのだろう。
 自我=魂と肉体とが同時に形作られるヒトに対し、私の自我=魂は、肉体が出来た後で、それが生き延びるための要素として偶発的に発生したものだ。
 あるいは、この肉体の元となった一人の女と一つのモノ、その自我の残滓が奇跡的に結合したのかも知れない。
 事実がどうであろうが知ったことではないが。
 けれど、そうして生じた自我にしても、ヒトらしい感情の起伏とは無縁だった。
 私は生命というものが理解できない。
 自分が生命であることも実感できない。
 ……私は、私が生きていることがわからない。
 うたかたのまどろみに見る淡い夢のように、私はあやふやなままでこの世界に漂い、そして消えるのだろう。
 私はずっとそう思っていたし、それでいいと思っていた。それでいいと思っていたのだ。

 この世界と私とをつなぐ糸があるとすれば、それは碇司令だった。
 あのヒトは、私という存在を必要としていて、私を生かすことを必要としていた。
 碇ユイの面影を私に見ているだけであっても、彼女と再び会うための道具としてであっても、あのヒトは私を必要としていたのだ。
 他の何者にとっても、私はいてもいなくてもどうでもいい存在でしかなかったが、碇司令にとっては私は唯一無二のものだった。
 ヒトのいうところの愛情とかいうものでないことはわかっている。
 結局、碇司令が見ているのは碇ユイでしかなく、私はよくいって代用品であり道具でしかない。
 けれど、あのヒトは私を絶対的に必要としていて、私はあのヒトの役に立つためにのみこの世界に存在する意義を持つ。
 私をこの世界に留める絆はただそれだけで、それがあるからこそ私は生まれたのだろうと、そう思えた。
 実際問題として、司令の計画が成功しようが失敗しようが、私にとってはどうでもよかったけれども、とりあえず私はそのために生存を望まれていた。
 一昔前のコンピューターにも似た愚直さで、私は自らの生きる理由をそう定義づけていた。

 ――そして、私は彼と出会った。



 私が目覚めるのは夜明けも遠い時刻だが、碇君が目覚めるのも世間一般ではかなり早い時刻だろう。
 彼は目を開けると、すでに起きている私を何故か嬉しそうに見つめ、それからしばしの時間を過ごす。
 違いの体温を確かめるように素肌を寄せ合い、何をするでもなく過ごす。
 それはとてつもなく無意味で、とてつもなく贅沢な時間。
 やがて、頭だけでなく体も目覚めて、空腹を訴え始める頃、碇君は名残惜しそうに体を離して服を着る。
 私はいつもそれが残念だった。
 それまで自分の一部のように感じていた温度が消えてなくなるというのは、控え目にいっても心地よいものではない。
 半身が削ぎ取られたような、そんな気分になる。
 こんなとき、ヒトというものの不便さを痛感する。
 食事も排泄も、老いも死すらもなく、ただ彼の体温を感じていられればいいのに。

「今朝は何がいい?」

 学校に通わない今では意味を成さなくなった学生服を着込みながら、碇君が問う。
 朝ご飯はトーストかご飯か、そういう意味だ。
 私の答えはいつも同じなのだけれど、彼は律儀に尋ねてくる。
 今朝も、私の返事は変わらなかった。
「何でもいい」、とても都合のいい台詞。そうとしか答えられない自分に嫌気が差すけれど、他に答える言葉を私は知らない。
 食事なんて、ただ栄養が取れればそれでいいと思っていたし、今でもそれに変わりはない。
 私にとって重要なのは碇君が傍にいて、碇君が私のために食事を作ってくれることであって、食事そのものについてはどうでもよかった。

「それじゃ、和食にしようか。昨日の味噌汁がまだ残っているし」

 そういいながら、碇君はキッチンに行く。
 私は当然のようにそれについていく。
 着替える間も惜しいので、下着とシャツをつけただけの格好だ。
 彼が味噌汁の鍋のかかったコンロに火をつけ、急須のお茶っ葉を取りかえる。
 私はテーブルに二人分の食器を並べながらその後姿を見つめる。
 少しでも彼の姿が視界から消えると不安なのだ。
 碇君の体温が感じられないなら、せめて彼の姿だけは網膜に留めていたい。
 本当を言うなら、お手洗いにだってついていきたいし、彼にもついてきて欲しい。
 けれど、何度かそう頼んで見ても、さすがにそこまでは了承してくれなかった。
 代わりに、どちらかが用を足している間、定期的にノックで存在を確かめることを許してくれた。
 ――それは愚かなこと。幼稚なこと。余所の人間ならば笑って嘲るだろう、ひどく馬鹿馬鹿しい執着。
 けれど、私には必要なことだったのだ。



 碇シンジ。碇司令の息子。エヴァ初号機、あのヒトの妻が融けたエヴァに乗る、サード・チルドレン。
 私の中で彼を形作る情報は、ただそれだけだった。
 顔の造作は、どちらかというと母親寄りだろう。
 男性としては華奢で中性的な印象がある。
 よくいえば繊細、悪く言えば脆弱。
 初号機とシンクロができるという一点を除外すれば、どう間違っても優秀な兵士にはなれそうもない。
 肩を並べて戦うべき同僚としては、ひどく頼りない――もっとも、この点についてはどうでもいいことではあった。
 使徒と戦うのは私の役目だったが、未熟なパイロットを指揮したり育て上げたりするのは作戦本部の役目だ。
 私はただ黙って、命令された通りに戦えばいい。
 私に求められるのは命令を過不足なく果たす能力であって、それ以外を求められる義務はなかった。
 彼、碇シンジに対しても、何を求める理由はない。
 彼には彼で与えられた任務を果たしてもらうだけのことだ。
 未熟だろうが何だろうが、知ったことではなかった。
 運がよければ生き残るだろうし、死んだら死んだで初号機には私が乗ることになるだろう。
 逆に、彼のミスで私が死ぬことになったとしても――それこそ考慮すべき事象ではなかった。
 私には、代わりがいる。
 今の私が死ぬことで起動する次の私がいる。
 すべては他人事であり、何を思う理由にもならない――私にとっての世界、自分も彼をも含めた世界とは、つまるところそういうものだった。



 朝食を取ってから、何をするでもなく二人して再びベッドに寄り添い合う。
 飽きることなく互いに違いの顔を見つめて、同じ時間を共有する。
 時には戯れのように肌を重ね、互いの体をむさぼり合った。
 彼に初めて抱かれてから半月、私の体もようやくその行為に慣れて、痛みの代わりにちょっとした快感も感じられるようになっていた。
 もっとも、碇君が朝に私を求めるのは、ごくごく稀だ。
 それはそれで仕方のないことなのかもしれない。
 彼はその心の奥底で、ひどく潔癖な道徳観を引きずっていて、学校にも通わずに私と体を重ねることに、罪悪感を覚えるところがあるらしい。
 言ってしまえば、それは彼の未熟さでもあっただろう。
 私たちの年頃で異性の肌を知っているというのは、ただそれだけで褒められたことではない。
 すでに一線を超えている以上、開き直ってしまえばよさそうなものだが、碇君にはどうにもそこまで割り切ることはできないようだ。
 あるいは碇君は、私の体だけが目的ではないのだと、そう言い聞かせようとしているだけなのかも知れない。
 自分と私の双方に向けて、拙劣なまでの誠実さで主張しているのかも知れない。
 でも、私にはどちらであっても構わないことではあった。
 彼が私に何を求めていても、それによって私の傍にいてくれるのなら。
 私はどんなことだって受け入れる。
 痛みも恥辱も、何であっても構わない。
 それによって私の心と体に彼の存在が刻み付けられるのなら。
 彼の心と体に私の存在が焼き付けられるのなら。
 例え何を差し出しても、惜しむ必要はない。



 私がいつ彼を「特別」と感じるようになったのか、それははっきりとしない。
 第五使徒を倒した夜からだったのか、「お母さんみたいだった」といわれた頃からだったのか。
 ただ一つはっきりしているのは、その時期ではなくその理由だ。
 彼は私の近くにいてくれた、私に近づこうとしてくれた、唯一のヒトだったのだ。
 私は流されるままに彼の接近を受け入れて、気がつけばそのことを何物にも変えがたく感じていた。
 碇司令は何くれと私に気を使ってくれたけれど、究極的な部分では私からずっと遠い場所にいた。
 あのヒトの目的を考えれば当然のことだ。
 何度か食事をともにしたことはあったが、そのときですらあのヒトは、私を通した妻の幻影と対話していた。
 交わされたいくつもの会話を、仮に文章にして残したとき、「レイ」という名前を「ユイ」に置き換えても、まるで違和感は感じなかっただろう。
 私にとっての碇司令、碇司令にとっての私とは、つまりそういうものだった。
 これまで出会ってきた無数のヒトたちにしても、ただ通り過ぎて行くだけで、私に近寄ろうとはしなかった。
 私は空気のように扱われ、視界から外されていた。

 碇君はそうではなかった。

 それは別に、特筆すべき理由などはない、当たり前の成り行きではあったのだろう。
 碇君は私の正体を知らないし、同じクラス、同じエヴァのパイロットである以上、あるていど親しくなろうと考えるのは当然のことだ。
 彼はお世辞にも社交的な人間ではなかったけれど、少なくともそうなろうと努力はしていた。
 まったく完全に常識的な意味で、碇君は私を女の子として扱い、ヒトとして親しくなろうとした。
 けれど、ただそれだけのことが、私にとっては新鮮な経験だったのだ。
 それは、鳥の雛でいう刷り込みに近いものだったろう。
 あるいは、夜陰の中で育った獣が、初めて火の明るさと温かさを知ったときのような。
 ……ヒトのいう愛情ではなかったかも知れない。
 いや、おそらくは違ったのだろう。
 私はただ、初めて自分に近しくなったというだけの理由で、彼を無二のものとして認識したのだ。
 はっきりいってしまえば、他の誰であっても、そうなる可能性はあった。
 けれど、理由がどうであれ、これだけはいえる。
 今や私は、どうしようもないほどに碇君に依存していて、他の何者も彼に代わることはできない。



「買い物に行こうか」

 そう碇君が提案してきたのは、遅めの昼食を取ったときのことだった。
 食料に加え、いくつか購入しておきたいものがある、彼はそういった。
 台所用と洗濯用の洗剤、お風呂の石鹸。換えの下着も買い足しておきたいしね。綾波も、何か欲しいものがあるだろ?
 そういわれても、私にはまったくピンと来なかった。
 彼が私の家にきて半月、二度ほど同じように買い物に出かける機会はあったが、私にはもどかしいだけだった。
 外では、碇君とは手を繋ぐくらいしか出来ない。
 素肌で体温を感じることは出来ないし、体を求めるなどもっての他らしい。
 私は二人でいられればそれでいいのに、碇君はそのためにこそ必要なものがあるという。
 それが私にはもどかしく、わずらわしかった。
 あるいは私は、碇君と二人で構成された世界を崩したくなかったのかも知れない。
 外に出れば、様々な人間がいる。
 余分な人間と雑音が多すぎる。
 混じり気のない水晶のように純粋な、二人だけの世界と比べて、不純物だらけの街は不快なものとして感じられるようになっていた。
 二回目に買い物に出たとき、はっきりそういってみたこともある。
 碇君は驚いたような顔をして、しばらくしてから、それじゃダメだよ、とたしなめるようにいった。
 ヒトは一人では生きていけないし、二人だけでも生きていけない。
 何気なく食べている食料も、それを作っているヒトがいるからこそ食べられる。服や住居ももちろんだ。
 碇君の言葉は理屈としては理解できたが、それでも私にとって不満なものには変わりなかった。
 余分なモノの必要性を認めるにしても、それとの接触は最低限に留めたかった。

 私の表情を見て、碇君は苦笑し、今日は服屋にも寄ろうか、といった。

「僕もいい加減、学生服だけじゃ何だし。綾波も新しい服を買ってみたら?」

 どうして、と聞くと、彼は照れ臭そうに答えた。

「制服以外の綾波も、見てみたいんだ。きっと、どんな服でもよく似合うよ」

 服などどうでもよかったし、実際のところは早く家に帰って来て碇君に抱かれたかった。
 けれど、彼がそれで喜ぶのなら、私はそうしたいと思った。だから、私はうなずいた。
 彼は嬉しげに笑った。



 碇君に出会って、初めて誰かの温かみを知って。
 それをかけがえのないものと感じ始めて。
 けれど、はっきりとはそのことを自覚していなくて。
 当惑と焦燥の中で日々を過ごした。
 わけもわからないまま、ただ、この身を焦がす何かが碇君と会えば治まるだろうことはおぼろげに理解していた。
 けれどその頃、彼はセカンドと一緒に家に篭もり切りで。
 学校に顔を出しても、ずっと休んでいるらしいことが判明しただけだった。
 彼の家を尋ねようにも、心のどこかでそれを畏れる部分があった。
 それは、十数年間維持してきた平坦な精神を崩すことへの畏れだったのだろう。
 未知なる何かへの恐怖は、結局、すべてを圧する。
 ただ流されるままに生きてきた私には尚更だった。
 欲することと恐怖すること。互いに同一の方向を向きながら互いに相反する、初めての葛藤。
 ――家を出た碇君を見つけたのは、それが頂点に達した頃だった。
 公園のベンチでうなだれるその姿を見たとき、最初に感じたのはやつあたりじみた怒りだった。
 彼は私の葛藤も知らぬ顔で目の前にいた。
 彼は私に何の準備も与えずに現れた。
 ……彼は、私の知らないところで悩んでいた。
 すべてが腹立たしく、苛立たしかった。
 私はこのときすでに、彼を私個人のものとして認識していたのかも知れない。
「どうしてここにいるの?」とは、抱え込んでいたすべてを吐き出す言葉だった。
 碇君は途切れ途切れに答えた。
 葛城部長やセカンドが自分の殻に篭もっていること。
 それを癒す術が自分にはなかったこと。
 そのことに居たたまれなくなったこと。
 学校にも行けなくなったこと。
 ――帰る場所も行く場所もなくなったこと。
 理屈で考えれば、私の取るべき態度は一つだった。
 彼の所在を葛城部長に連絡し、相応のケアを要請して、後は帰って寝ればいい。
 けれどそのときの私には、そんなことは露ほども思いつかなかった。
 いや、正直に言おう。
 私は狂喜していたのだ。
 臓腑が震えるほどの昂奮と歓喜を抑制するのに必死だった。
 それまで感じていた葛藤、やり場のない怒りの反動もあったのだろう。
 私は目の前に転がり込んできた幸運――彼をこの手に掴み取る機会がのこのことやって来た幸運に、感動すら覚えていた。
 他の人間が聞けば同情を禁じえないはずの彼の境遇を聞かされながら、私はただ狂ったように浮かれていた。
 私は碇君を家に誘った。おそらく彼がそれを拒む言葉を持たないのを承知の上で。
 結果はまったく予想通りで、私の願望をかなえるものだった。

 ――十数年間維持してきた平坦な精神を、私はこのとき、壊れた玩具よりも簡単に放棄した。



 五日ぶりに出た街は、予想通り騒がしく、雑多なもので溢れていた。
 使徒の来襲も激しくなって、疎開する市民が増えてきたとはいっても、まだまだ世界にヒトは多すぎる。
 否応無しに耳に飛び込んでくるノイズの濁流を、私は意識を遮断することでやり過ごした。
 往来の中を、碇君に手を引かれて歩く。
 歩いている間、彼は特に何も言わない。私も何も言わない。
 ただ時折、彼は振り返って私の顔を確認し、その度に安堵したように微笑む。
 私は決して碇君の横には並ばない。
 彼の形をいつも確認していたいから、半歩後ろをついて行く。振り返る微笑が好きだったから、それ以上前に出ることはない。
 コンビニで、一週間分くらいの食料を買い込んだ。
 私も碇君も小食のほうだが、それでも一週間分ともなるとそれなりに量がある。他にも、洗剤などの消耗品や下着などがあるから尚更だ。
 本当は、一週間どころか一ヶ月分くらいは買い溜めて置きたいのに。
 そうすれば、買い物に出る必要もなくなるはずなのに。
 私はつくづく、非力な自分の腕が憎らしい。
 二人して、コンビニの袋を両手に下げながら、帰りに服屋に寄った。
 昼の宣言通り、制服以外の私服を購入するためだ。
 私は私服と呼べるものをまるで持っていなかったし、碇君はそのすべてを葛城部長の家に残してきている。
 実のところ、彼が服を取りに戻るとは言い出さなかったことに、私はひそかに安堵を覚えていた。
 すでに崩れてなくなったとはいえ、そこはかつて紛れもなく碇君の家だったのだ。
 理由はどうあれ、彼がそこに戻って、そのまま帰ってこなくなることを、私はひどく恐れていた。
 実際、私のそうした心理は、碇君に半ば見透かされていたのだろう。
 また、碇君の方でも、再び葛城部長の家に戻って、何を再認させられるのか、恐れていたに違いない。
 服云々について彼が話を持ち出したのは今日が初めてで、かつて自分が持っていた服については欠片も口にしなかった。
 時刻は夕方の四時を回っている。
 服屋の女性店員は、両手にコンビニの袋を下げた中学生の二人連れに一瞬訝しむような色を浮かべたが、すぐに微笑を浮かべてそれを打ち消した。
 親が共働きの兄妹とでも思ったのだろうか。まさか二人で同棲しているとは思っていないはずだ。
 もっとも、例え事実を看破されていたとしても、どうでもいい話ではあったのだが。

「可愛らしいお嬢さんですね。色が白いから何でもよく映えそう」

 愛想よくそういった女性店員に、碇君は、服のことはよく知らないのでとにかく彼女(私のことだ)に似合いそうなのを見繕って欲しい、と頼み込んだ。
 もちろん私にも否やはない。
 女性店員は満面の笑顔のまま、私に水色のワンピース、白いシャツ、オレンジのキュロット、チェックのスカートなどを薦めた。
 私は言われるままに購入を決めた。
 碇君は、Tシャツを何枚かとジーパンを自分で選んだようだった。
 試着して見ては、とも女性店員はいったが、それについては私はあっさりと首を横に振る。
 誘ってくれた碇君には悪かったが、やはり私は早く家に帰りたくて仕方がなかった。
 碇君の体温が、匂いが、素肌の感触が、恋しくて愛しくてどうにかなりそうだった。
 焼け付くような欲望を自覚すると、尚更それが強くなる。
 目の前の店員ですら、購入をすませた今となっては邪魔者だった。
 碇君はそんな私を見て、顔を曇らせたようだった。

「どれか、着て帰るのもいいんじゃないかな。綾波の私服姿、早く見てみたいんだ」

 ……碇君はずるい。
 卑怯だと思う。
 ひどいヒトだとも思った。
 そんな顔をされて、私が拒めるはずもないことを知っているはずなのに。
 早く帰りたくて、早く抱かれたくて、狂いそうになっていることを知らないはずもないのに。
 なのに彼は、そんなことをいう。
 結局私は、女性店員が選んだ服の中から、白いTシャツとオレンジのキュロットを選んで着て帰ることにした。
 それらを選んだのは、手っ取り早く着れて、手っ取り早く脱げそうなものだったからに過ぎない。
 ただ、制服よりも身軽で動きやすいその服装は、思ったより気に入った。
 試着室から出てきた私を碇君は眩しげに見て、嬉しそうにうなずいてくれる。
 よく似合ってるよ、可愛い。
 そういって、笑ってくれた。
 その笑顔を見た瞬間、私の中で何かが弾けて、思わず彼に抱きついていた。
 獰猛な獣が食らいつくようにキスをする。唖然とした視線が横から突き刺さる。構うものか。見たければ見ればいい。
 今の今まで自制した――いや、今でも自制している。着たばかりのこの服を破り捨てなかっただけでも、私は十分に自制している。
 碇君は驚いたように、戸惑ったように私を見つめている。
 けれど、私を拒むことだけは決してしなかった。
 その事実に、私はささやかな満足を覚えた。





第一章終






後書き
 ようやくのことで第一章更新。
 序章はシンジ君の一人称、本章からはレイちゃんの一人称です。
 なかなかに節操のない書き方をしてますが、これも一つの実験作ということで。
 女性の一人称は初めてでしたが、えらく楽しんで書けました。
 さー次はWhokillだ!
追記:序章のタイトルの意味について質問がありましたので、一つ注釈など。
 寵辱というのは、字義通り、もてはやされることと落ちぶれること、すなわぢ「栄光と没落」くらいの意味になります。
 たしかにわかりにくいつーか意味なんて誰も知らないでしょうね。反省。

 

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