初めて碇君と結ばれたときのことを、私は今でも克明に思い出せる。
 乱れた呼吸、滴り落ちる汗、体の中心を貫いた破瓜の痛みと、満腔の狂喜。
 そう、私は覚えている。
 細部に至るまで思い出せる。
 この目と耳と鼻と舌と肌、体で感じたすべてを克明に記憶している。
 誘ったつもりはなかったし、それと期待していたわけでもない。
 ただ、初めて素肌で感じた彼の体温と、その剥き出しの感情をこの身で受けとめる感触は、ただの一度で私を虜にした。
 すべてが終わって、我に返った彼が絶叫したときは、絶頂すら覚えたほどだ。

 そうとも、私は覚えている。
 あの日あの時、私はついに彼を手に入れたのだ。

















Moon Phase

第二章 淑女の蜜月

七瀬 由秋


















 買ったばかりのTシャツとキュロットを、帰ってすぐ脱ぎ捨てた。
 戸惑った様子の碇君をベッドに押し倒す。
 表情には出ていなかったろうけれど、私は浅ましいほどに息を荒らげていた。
 彼の胸に顔をうずめ、口と鼻とで大きく匂いを吸い込む。
 少しの汗と、碇君の匂いがした。
 頭がくらくらする。
 心臓はうるさいほど鳴ってる。
 もう誰の邪魔も入らない。
 もう誰にはばかることもない。
 手に触れるところに彼がいて、私はそれを自由にしていい。
 私だけが、自由にしていい。
 それはなんて、目もくらむような幸福。
 むしゃぶりつくようにキスを求める。
 彼の学生服のシャツをもどかしげに脱がせる。
 白い肌が露になる。
 無音の歓声を上げて、そこに素肌を合わせた。
 彼の体温を直に感じる悦楽――ただそれだけで、気が狂いそうになる。
 背中に回された手が、私をぎゅっと抱き締めてくれる。
 それを確認して、私はふ……と唇を離した。唾液の橋が窓からの光に照らされる。
 抱き合いながら姿勢を入れかえる。
 私が彼を組み敷くのではなく。
 彼が私を組み敷くように。
 彼が私を見下ろすように。
 私は眩しげに碇君の顔を仰ぎ見る。
 黒い瞳が、欲望と、それ以外の澄んだ何かをたたえて私を見つめていた。
 手を伸ばして、その頬にそっと触れる。
 彼は上体を傾ける。
 私はうっすらと微笑んで、彼からのキスを待った。


 その日も、夜が更けるまで碇君は私を犯した。

 私は彼の他に男を知らず、彼は私の他に女を知らない。
 だから、私たちのsexはいつも野蛮で、時に暴力的ですらあった。
 未熟な愛撫に痛みを感じることもあったが、私にはそれすらも心地よく感じられた。
 生身の碇君を受け入れる感触は、いつも私を狂わせる。
 与えられる快感と苦痛、その何もかもが私を狂わせる。
 そうして、果てた彼がすまなさそうな目をするたび、私はさらに狂うのだ。
 もっと私に溺れて、もっと私を食らって。
 あの夜――私を初めて犯したあの夜を繰り返して。
 今しがた達したばかりの体に熱を帯びさせて、私は彼を抱きしめる。
 まだ大丈夫、まだ求めてもいいと、無言で彼に教える。
 それを何度も繰り返して、本当に力尽きるまで私は彼に犯され続けるのだ。
 私が彼を刻み込むために。
 彼に私を覚えさせるために。


 夢中で交わった後の気だるさは、いつも体に心地よい。
 疲れ果て、泥のように眠り落ちるまでの短い時間、碇君は私を抱き寄せて、静かに天井を見つめる。
 私は何も言わず、彼も何も言わない。
 巷でいうところの恋人同士の甘い語らいというものはしたことがない。
 彼の方では、何か言うべきことを探しているようにも見えるのだが、私にそのつもりはない。
 私はただ、彼の体温を満喫できる時間が大好きなのだ。
 心で通じ合える、なんて厚かましいことはいうつもりはない。
 言葉で語り合うより肌を合わせる方が好きというだけのことだ。
 滑らかな皮膚、滲んだ汗、硬質な髪、規則正しい鼓動、すべてが私には好ましく、心地よい。
 これが――このすべてが私の手の中にある事実を思うだけで、世界を手に入れるより強力な快感が走り抜ける。
 この圧倒的な存在を前に、ヒトの作り出した言葉がどれだけ価値を持つというのか。
 夜が更けるのをただ眺める。
 時計の針音を無意味に数える。
 ただそれだけの時間が、永遠に続けばいいと心から思う。
 彼は時折、思い出しように私の髪をくすぐり、肩に回した腕に力を込める。
 私は時折、気の向くまま彼の胸に顔をうずめ、キスをせがむ。
 窓辺で風の鳴る音が聞こえる。遠いどこかの出来事のようにそれを聞く。
 世界は。
 世界はここで、この部屋だけで完結して、私と碇君だけで成り立っていると。
 そんなことを錯覚し、夢想する。

 ――もしもこの世に神がいるとしたら。
 それはきっと私と彼で。
 約束の楽園は、もう、ここに在る。



 翌朝、いつも通りに朝食を食べたすぐ後、箪笥の上に置きっぱなしにしていた携帯電話が鳴り響いた。
 無視しようとしたのだが、碇君がそれをたしなめた。
 大事な用件かも知れないから出るだけ出たほうがいい、そういった。
 私は珍しく不快感を表情に出したと思う。
 彼と過ごす以上に大事な用件を、今の私は知らない。
 使徒が出ようが知ったことか。
 それでも、碇君が顔を曇らせるのを見て、私は不承不承ながら出ることにした。
 私が強硬に拒めば彼は何もいわなくなるだろうが、少なくともしばらくはこのことを気にし続けるはずだ。
 彼が私以外の物事に意識を向けるのは、まったく不快なことだ。
 通話ボタンを押す前に着信画面を確認する。
 小さなディスプレイに表示されていたのは、赤木博士の名前だった。



「彼との生活は楽しんでる?」

 執務室を訪れた私に対する、それが赤木博士の第一声だった。
 台詞そのものは揶揄めいたものだが、口調は冷淡といってよかった。

「はい、とても」

 劣らず冷ややかな声音で答える。
 私と赤木博士との関係には、親愛とか友愛とかいう類のものは含まれていない。

「正直でいいわね。けれど、それが吉と出るとは限らないわよ」

 やはり冷淡な口調でいって、赤木博士は手元の書類に何事か書き込んだ。
 私はそれをさり気なく観察する。

「――碇司令が、何か?」
「え? ああ、あの人は別に何もいっていないわ。せいぜいダミー計画の進行に差し障りがないか尋ねて来たていどよ」

 予測できた対応だった。
 碇司令にとって、私は結局計画を進めるに不可欠の手駒でしかなく、私生活で多少羽目を外したとしても気にする理由はない。
 いや、あるいは司令独特の心遣いの一種というべきかも知れない。
 計画に支障が出ないていどにという条件付きで、私の自由を許してくれているということだ。
 碇ユイ以外に眼中にない――いや、いれようとしないあの人は、その面影を持つ私に奇妙に甘いところがある。
 実のところその甘さは、碇君に対してすら同様なのではないかと思うことがある。
 やはり計画に支障が出ないていどにおいてなら、自由にもさせるし咎めもしない。その代わり手も差し伸べないし、計画に必要なところでは遠慮なく駒として扱うわけだが。
 そう、しょせんは、計画、計画、計画だ。
 いや、それも正確ではない。
 やはりこう評するべきだろう――ユイ、ユイ、ユイ、と。

「……では、本日の用件は?」

 私は意識を目の前の相手に戻して訊ねた。
 ダミー計画云々と今しがた赤木博士はいったが、実のところそれはすでに私が関わるべき段階を通りすぎている。
 少なくとも試作品は既に完成して、実戦でも一度使われている。
 細かい微調整や耐久性などの問題は残るにしても、オリジナルとしての私が実験データを提供する必要性はほぼなくなっているはずだった。

「大したことではないわ。ちょっとした聞き取り調査みたいなものね」
「では、手短にお願いできますか」
「そんなに彼が恋しい?」

 わかりきったことを、赤木博士は尋ねて来た。
 休憩室で待ってもらっている碇君のことを考えて、私は即座にうなずく。

「大した懐きようね」

 嘲るとも呆れるともつかない様子で、赤木博士はため息をついた。

「赤木博士」

 私は急かした。
 碇君と離されて、数分が経過していた。
 たかが数分。けれど、私にとっては拷問に近い数分だった。
 この半月というもの、彼を視界に入れずに過ごした時間は皆無に近かったといえるのだから。
 半身をもがれたどころの騒ぎではない。
 体の中身を根こそぎもぎ取られたような空虚感が、刻一刻と広がりつづけていた。

「――なるほど。冗談事ではないようね」

 今度こそ本当に呆れた様子で、赤木博士は再びため息をつく。
 私を見据える視線を心持ち細めて、彼女はいった。

「それじゃ、何でもいいから話しなさい」

 私の反応は、数秒遅れた。

「――質問の意図がわかりません」
「文字通りの意味よ。シンジ君とどう暮らしているか。どんなことを話すか。思ったこと。感じたこと。考えていること。願っていること」
「…………」

 私は戸惑った。
 赤木博士が私に明快ならざる感情を抱いている、そのことは自覚していた。
 理由は単純だ。
 赤木博士は碇司令の愛人で――彼女が司令と密会の約束を取りつけている場面を、私は何度か見ている――、にも関わらず司令が私を碇ユイと混同しているから。そして、おそらくは赤木博士もそれは同様であるから。
 身も蓋もなくいえば、本妻に嫉妬する愛人の心境というわけだ。
 まったく単純な構図という他はない。
 勝手に本妻と混同されている私にして見れば傍迷惑な話なのだが。
 碇君を得た今となっては、尚更に迷惑はなはだしい。
 私は私で彼を手に入れた。
 だから司令と赤木博士も二人で勝手にして欲しいものだ。
 その結末が再婚だろうと破局だろうと、さしあたって私には関係がない。
 だが、だからこそ、今回の碇君との同居生活に関して、赤木博士は黙認を決め込むだろうと私は踏んでいた。
 私の知る彼女なら、碇司令から離れて碇君に溺れる私を冷ややかに蔑むだろうと、そう推測していた。
 嫉妬の反動としての侮蔑、そしてその延長として無視を決め込むだろうと思っていた。
 思っていた、のだが。
 今、赤木博士は、私の生活を知りたがっている。

 ――まあいい。話せというなら答えるまでだ

 私は浮かんだ疑念をねじ伏せた。
 理屈だけで考えれば、E計画担当者にしてダミープラグ開発責任者である赤木博士が私の現状を知りたがるのも当然ではある。
 邪魔さえされない限り、私生活を知られようが吹聴されようが知ったことではない。

「では、碇君が私の部屋へ来た日のことから話せばいいでしょうか」
「何でもいい、といったわ」

 まったく意外なことに、赤木博士は興味深げですらあった。
 コーヒーカップを傾けながら、私の表情を観察している。
 私はあえてその意図を考えないようにしながら、口を開いた。


 それから私が話したことは、学校の教師あたりが聞けば卒倒しかねない内容だったことは間違いない。
 何故なら私はすべてを話したからだ。
 あの日、私の服を荒々しく引き裂いた彼の眼差しと、耳に残る絶叫。
 二人で迎える朝。灰色の光に照らされた彼の寝顔。安らかな吐息。隔絶された世界。
 昨日私を組み敷いたときに見た、瞳の奥の何か。
 彼がそこにいるという確かな実感。溢れて尽きない独占欲と、なお増し続ける愛おしさ。
 私はすべてを話した。
 何の計画も打算もない。
 話せといわれたから話しただけだ。
 ただ、奇妙な気分の昂揚は感じていた。
 話すことで私はこの半月をつぶさに反芻し、この身に刻まれた碇君の存在を再確認した。
 自分がどれだけの至福の中にいるかを改めて感じ、彼への想いを膨らませる。
 同時に私は、目の前の赤木博士の反応も観察した。
 今の平穏の存続は、ある意味で彼女が握っている。
 現在黙認しているらしい碇司令にしても、赤木博士が一言いえばあっさり態度を変えるだろう。
 彼女はこう一言、報告書に書けばいい――「サードとの共同生活は、レイの精神面に悪影響を与えています」、と。
 翌日には保安部が踏み込んで来て、碇君は葛城部長宅に連れ戻され、私はドグマにでも監禁。そんなところか。
 ――むろん私は、そんな事態を受け入れる気は毛頭ない。
 誰であっても許さない。
 碇司令だろうが赤木博士だろうが容赦しない。
 この私、忌まわしい出自を持つこの私の全知全能をあげて、私は世界に抗おう。
 そう、必要とあらば。
 今この瞬間、赤木博士の喉笛を食いちぎってもいい。
 ……私はそれと悟られないように、わずかに脚を引いた。

「――なるほどね」

 自分が獣の前に座っていることも知らぬ様子で、赤木博士はうなずいて見せた。
 私は無表情の奥に殺意を隠してそれを見守る。
 その沈黙をどう解釈したものか、赤木博士は手元のバインダーに書類を綴じて、あっさりといってのけた。

「貴方の現状については了解したわ。手間を取らせたわね。帰っていいわよ」

 あるていど予想はしていたにせよ、その返答はあまりに呆気なく投げ出されて、私はわずかに息を吐いた。
 ほんの少しだけ、安堵する。
 ただ、まだ緊張は解かなかった。
 今すぐ碇君の所へ行って、私たちの家に帰って。
 私たちだけの世界で、彼に抱かれるのだ。
 そうしてまたいつも通りの朝を迎えて、そこで初めて安心することにしよう。
 今日のことは、これからずっと彼と過ごすための必要な通過儀礼だと消化して。
 踵を返し、煙草の匂いの染み付いた執務室の扉に向かう。
 ぷしゅっと、微かな空気音を立てて扉が開く。
 振り返らずにそこを出ようとしたとき、赤木博士の囁くような声が聞こえた。

「――化け物」

 私は歩を止める。

「人の形をした化け物が、恋愛?」

 無言の背中で、感情の欠けた言葉を受けとめる。

「見せて御覧なさい。化け物が、どうやって人を愛せるのか」

 ――私は最後まで無言のまま、赤木博士の執務室を後にした。





 廊下のタイルを数えながら歩を進める。
 投げられた言葉の残響が耳に響く。

 化け物。

 私は碇君のことを思い出す。
 彼の顔、彼の声、彼の匂い、彼の体温。

 化け物、化け物。

 顔を上げて、前を見る。照明は薄暗く、青白い廊下はどこまでも続くよう。
 私は歩調を速めた。



 ふと腕時計を確認すると、一時間近くが過ぎていた。
 私にしては珍しく、かなり長い時間喋り続けていたようだ。
 碇君との生活を反芻しながら喋っていたのだから、それも当然といえるかも知れない。
 とはいえ、悪いことをしてしまった。
 彼は一人、じっと私を待っているはずだから。

 休憩室までもう少し、という所まで来たとき、ひそやかな会話の断片が鼓膜をくすぐった。
 うち一方が誰かは考えるまでもなく確信が持てた。
 ――碇君だ。
 彼が、誰かと話している。
 一体誰と?
 駆け込むように休憩室に入ると、見覚えのある赤いジャケットが視界に映った。
 葛城三佐だった。
 碇君からは家で塞ぎ込んでいると聞いていたが、いつ職務に復帰したのか。
 室内に並んだ長椅子の、碇君の向かい側に腰掛けた彼女の顔は、幾分やつれていた。
 けれど、表情は心持ち以前の生気を取り戻している。

「――から……い、そう…………」
「……うよ、――――、うん」

 会話の内容は聞き取れない。
 けれど、葛城三佐の眼差しは穏やかに、優しくて。
 控え目に笑う碇君を、慈しむように見つめる。

「碇君――葛城三佐」

 割り込むように声をかけ、二人に歩み寄った。
 葛城三佐に対して、ぺこりと一礼する。
 お久しぶりです、などという皮肉めいた挨拶は口にしない。
 もともと私はそれほど彼女と親しくはないし、必要最低限の儀礼を果たすだけで互いに十分といえる関係だ。

「おはよう、レイ。――それと、ありがとう。シンジ君がお世話になっているらしいわね」

 純粋な感謝を込めた声。私は無言でそれを受け入れる。
 赤木博士とは違い、私は葛城三佐にそれほど深い印象を抱いてはいない。あまりよく知らない、ともいえる。
 指揮官としては有能といってよく、部下に細やかな目配りも出来る。実際これまでの戦闘すべてで勝利している。
 反面、私についてを含めたネルフの裏側はほとんど知らされていない。
 純粋な軍事機関としてのネルフを、もっとも忠実に体現するヒト――
 つまりはどこまでも優秀な軍人というわけだ。
 私は彼女を尊敬していたわけではなかったが、上官としては満点に近いとも考えていた。
 むろん今では別の評価もある。
 碇君のかつての家族。姉代わり。同居人。保護者。
 ――つい最近まで、おそらくは碇君が最も頼りにしていた相手。
 思い出す。
 一緒に暮らし始めた当初、碇君は時々遠い眼をすることがあった。
 口に出しては何も語ったことはなかったけれども、それは、かつてその手に在り今は失われた何かを懐かしむようで。
 失われた何かが、紛れもない暖かさを伴っていたことを、如実に物語る。
 例え作り物であったにせよ、葛城三佐はたしかに碇君の家族だったのだと。ごく自然にそう確信できた。
 その点について、私は彼女にある種の好意、いや、信頼感すら抱いたといっていい。
 究極的な部分では、必ず碇君の味方に回るヒト――信頼するにはそれだけで十分だ。
 ……けれど。
 そうした評価とはまったく関わりなく。
 私はこのとき、発作的に湧いた殺意を懸命に抑制していた。
 それは先刻の赤木博士に対して向けたものとは根本的に違う。
 必要があれば、どころではなく。
 状況さえ許せば、今この瞬間にその頭を叩き壊したいと、何よりも強烈に私を駆り立てる。

「――問題ありません。私も望んだことです」

 普段から表情のない声音をしていた自分の日常に、このときは感謝した。
 激情を殺した声が自然に受け取られるというのは、悪くない。
 足音を忍ばせ、背後から刺すのは、生態学的に見てもっとも安全な外敵への対処だ。
 葛城三佐は私の言葉に嬉しげにうなずき、

「……正直、シンジ君には合わせる顔がなかったのよ。けど、今日、ここで話せて少し安心したわ。レイ……本当にありがとう」

 そういって、もう一度頭を下げた。

「――私も望んだことです」

 私は同じ言葉を繰り返す。
 満面の笑顔の葛城三佐から視線を外し、碇君の表情を確認する。
 彼はばつが悪そうな色を浮かべて、私の方を見ていた。ほんの少しだけ、気が安らいだ。

「何か必要なものがあればいってちょうだい。私に出来る限りのことをさせてもらうわ」
「……はい。そのときには遠慮なく」

 私としては最大級の社交辞令といえた。
 どちらかといえば碇君に対する配慮だったが、それでも葛城三佐は何度もうなずいていた。

 二、三、当たり障りのない会話をしてから「それでは」と碇君の手を取った私を、葛城三佐は名残惜しそうにしながらも引き止めなかった。
 これまた以前の印象のせいだろうが、素っ気無い態度も私にとっては自然のことと受けとめているのだろう。
 自発的に碇君と手を繋いだ私の仕草を、微笑ましげに見守っていた。
 碇君も、私を止めようとはしなかった。ただ彼は、先日までの保護者に「また電話します」とだけいって、頭を下げていた。
 寂しげに笑って手を振る葛城三佐に、会釈だけ返して帰路を急ぐ。
 碇君も何もいわない。
 ――わかっていたことだ。
 彼と葛城三佐の中で、束の間の家族生活は終わっていた。
 セカンドと、葛城三佐自身がそれを壊した。
 碇君が許したとて、葛城三佐が自分を許せない。
 彼女のそうした誠実さを、私はまったく完全に信頼していた。
 だからこそ、私は碇君が自分から葛城家に帰ろうとする可能性は恐れていたが、葛城三佐が碇君を連れ戻す可能性は考慮すらしていなかった。
 そして、その碇君は、私の手を解かなかった。つまりはそういうことだ。
 それならば――
 この胸に満ちた狂暴なものは何だというのだろう。
 目の前の女を叩き潰し、踏みにじりたいと強烈に欲した、あの黒い衝動は。
 嫉妬なのだろうか。
 私よりはるかに成熟し、経験と魅力を兼ね備えた女に対する嫉妬。
 あるいは、私より以前に碇君と同じ時間を過ごした元同居人への嫉妬。
 葛城三佐はその双方の条件を兼ね備えているのだから、たしかに私が嫉み妬むに十分とはいえる。

 けれど、本当にそうなのだろうか。

 私は、碇君に惹かれ始めたとき以来の――実に生涯で二度目の――「当惑」という感情を持て余した。
 前に比べればささやかなものではあったけれど、得体の知れない何かが自分の奥に沈殿しているという認識は、気持ちのいいものではない。
 私は我知らず、碇君の手を握り締めていた。
 彼はちょっと驚いたように私を見つめ、「どうしたの?」と訊ねてくる。
 私は無言で首を振る。
 元から口下手なせいもあるが、この感覚を説明するのはどうにも不可能だった。
 ただ、そんなちょっとしたやり取りが、私を少し落ち着かせてくれた。
 彼の存在を確認することは、いつだって私を心地よくする。
 ネルフ本部を出て、地上直通のモノレールに乗った。
 がらんとした車内の座席に並んで座りながら、碇君は他愛のない話題をいくつか振ってくる。
 依然握ったままの手は、さらに力強く握り返される。
 碇君に心配されている、その事実自体が妙に嬉しくて、私は胸中の当惑を忘却することに決めた。
 体を傾け、碇君に寄りかかる。彼の肩にこすりつけるように頭を預ける。彼がちょっとだけ緊張しているのが感じられた。
 微かな振動とともにモノレールは走る。
 目を閉じて、その振動に身を任せた。
 私にはどんな意味でも記憶にあるはずのない、母の胎内で感じるような心地よさ――絶対的な安息と充足。
 彼と二人になるだけで、こんな気分になれる。
 殺意も当惑も何の価値も無くなる。
 私が彼に塗り潰される。
 それはきっと、何より幸せなこと。

 モノレールが地上に着いた。
 車内アナウンスが鼓膜に響く。
 私は顔をしかめた。

「綾波」

 眠っていたと思っているのだろう、碇君が私の肩を揺らした。
 私は目を開けて、こくりとうなずく。
 二人連れ立ってモノレールを降りた。
 第参新東京市の中央駅は、市内バス、市外へ至る鉄道、そしてモノレールが交差する交通の中心だ。
 とはいえ、モノレールそのものの利用者はネルフの職員にほとんど限られるので、ホームは奇妙に閑散としていた。
 自動改札機を抜け、階段を降りる。
 出口から一歩踏み出すと、スライドが切り替わるように世界が変わった。
 時刻は昼を少し過ぎたあたりだが、駅前の人通りはさすがに多く、無数の人々がざわめきながら往来する。
 歩きながら携帯電話で喋っているスーツの男。
 自転車で走り去る若い女性。
 買い物袋を下げた老婆、その横ではしゃぎ回る孫らしい男の子。
 使徒迎撃の要塞都市とはいえ、そうした光景は他のどこの街とも変わりがない。
 日差しは強く、南中をようやく過ぎた光が目を焼いた。

 ――その瞬間、雷鳴に打たれたように、私は答えを見つけ出した。

 何ていうことはなく、どうということはない。
 答えは最初からすぐそこにあったのだ。
 当たり前すぎて、それが意識できなかっただけのこと。

「ねえ、綾波。どこかに寄って行こうか」

 凝然と立ち尽くした私に気付かぬ素振りで、碇君がそんなことを提案してくる。
 たしか、すぐそこの映画館で新しい映画が封切られたはずなんだ。近未来SFアクションだけど、なかなか面白いって評判だよ。

「…………」

 私は即座に頭を振ると、そのまま彼の手を取って歩き出した。
 向かう先は当然、私たちの家だ。
 私が率先して彼をリードすることは珍しい。
 碇君は驚いた様子だったが、すぐに気を取りなおしてついて来てくれた。
 私はずっと彼の手を握り締めながら、ただあの部屋、味気なく素っ気のない私たちの部屋を心に描いていた。

 寄り道もせず、わき目も振らず、私たちはマンションに戻った。
 碇君はあれから、私の表情をちらちらと気にしながらも、結局あれ以上何か提案してこようとはしなかった。
 赤木博士の執務室で何かあったのかと心配しているのかも知れない。
 私はその誤解を解こうとはしなかった。別段、隠す理由はないし、聞かれれば答えるつもりもあったのだが、私から説明する余裕はなかった。
 部屋に入り、ドアをいささか荒っぽく閉める。
 がたんという音が、廃墟同然の部屋に響いた。それは私たちと世界を隔てる音。
 その音を確認して、私はようやく一息ついた。

「綾波……?」

 訝しげな碇君の声。
 私は安心させるように微笑すると、無言のまま彼に抱きついた。
 むしゃぶるように唇を求め、音を立てて唾液をすすった。
 ――誰もいない。何も聞こえない。
 ここには私と碇君だけがいて、私と碇君の声だけが聞こえる。
 他のものなんていらない。
 他の人間なんていらない。
 彼が他の誰かと話すのは嫌。他の誰かを認識するのも嫌。
 彼はずっと私の傍にいて、私をずっと抱いてくれればいい。
 この部屋だけで世界が完結して、外の世界なんて壊れてしまえばいい。
 戯けた妄想と罵りたければ罵ればいい。
 私には、碇君だけが必要なのだ。

 玄関先ではあったが、私は構わず彼を求めた。
 そうすることに何のためらいも覚えなかった。
 碇君は戸惑った様子だったが、私の表情を見ると、黙って私の服を脱がせ始めた。
 ――太陽はいまだ高く、時間に果てはない。
 けれど、彼に溺れられる時間には、いまだ限りがある。
 私は心から決意していた。
 使徒なんて知らない。世界なんて知らない。
 ただ私は、彼を完全に手に入れるためだけに、これからの先の生涯を費やそう、と。













廊下のタイルを数えながら歩を進める。
投げられた言葉の残響が耳に響く。

化け物。

私は碇君のことを思い出す。
彼の顔、彼の声、彼の匂い、彼の温度。

化け物、化け物。

顔を上げて前を見る。照明は薄暗く、青白い廊下はどこまでも続くよう。
私は歩調を速めた。

化け物、化け物、化け物。

微笑の形を唇に刻む。
弾む足取りは、そのまま世界も踏みにじれそうで。



――そうとも、私は化け物だ。
だからどうしたというのだ。
化け物だって恋をする。
化け物は、化け物なりのやり方で。




第二章終



後書き
 テーマは「ひとでなしの恋」。
 生態寿命肉体機能出自出生教育環境その他諸々が違えば自ずと違った感性、価値観があるだろう、一つそいつを肯定的に書いてみようというのが執筆の動機だったりもしました。
 ちなみに。
 Moon Phaseは一種の実験作としての側面もあり、いろんな書き方を試してみたいと思ってます。
 まあ、それをいうならこのHPで発表したすべての作品が実験作といえるんですけど(苦笑)。
 たかが文字のつながりと思いきや、文章というものは実に奥深く、いろんな表現法や演出があるものだなーとつくづく思います。
 うむ、精進あるのみ。そのためにはいろんな作家さんのいろんな小説を読んで学ぶのが一番なんですが……最近あまり読んでないなぁ……

 

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