まどろみに見る夢のように日々は移ろい、私たちは体を重ねる。
 黄金よりも大切な、碇君との時間。
 私はただ彼に溺れ、むせぶような快楽に身を任せる。
 彼は私だけのものであり、私は彼だけのものでなければならない。
 他ならぬ私がそう決めた。
 ……だが、現実はそうではない。
 碇君は私以外にも、大切なものを――友人や家族と呼べるものを持っている。
 不遇の半生を過ごした彼の持つものはそれほど多くはなかったけれど、だからこそ彼はそれらをずっと大切にしていた。
 それはそれで仕方ないとは思う。理解もしよう。
 だが、納得はできない。できるものか。
 私は碇君を手に入れる。
 彼にとっての唯一になる。彼にとっての無二となる。
 大切なものの中の一番では我慢はできない。私以外の誰かが彼の中にいることがそもそも許されない。
 No.1 ではなく Only 1。
 私だけが碇君の大切なものになる。
 現実として無理だというのなら、現実をも私は従えよう。
 理が不可能と断ずるならば、理すらも私は捻じ曲げよう。
 そんなものはすべて瑣末事だ。
 例え世界を敵に回したとて、私は必ず碇君を手に入れる。
 この血この肉この骨すべてを捧げ、私は彼を手に入れる。


















Moon Phase

第三章 天女の断罪

七瀬由秋


















 

 地平に沈む夕陽を、二人でベッドから見送っていた。
 朱色の光に照らされて、部屋全体が奇妙にぼんやりと見える。
 ――私は彼の腕に抱かれていた。
 服は着ていない。私は素肌で彼の体温を感じ、その心地よさを満喫する。

「ご飯の支度……」

 碇君がぼんやりと呟き、腕を解こうとした。
 私は拒んだ。
 しがみつくように彼の体に抱きつき、その首筋にキスをする。
 碇君は柔らかく笑って、私の頭を撫でてくれた。
 冷房のない部屋は蒸し暑い。
 先刻まで素肌を叩きつけるように抱き合っていたため、私も彼もかなり汗をかいていた。
 首筋に垂れる碇君の汗を、私は当然のように飲み下す。
 脳が麻痺したような感覚があった。
 麻薬じみた快感が脳髄を刺す。
 ――私は骨の髄まで彼に溺れていた。

「綾波……」

 碇君が腕に少し力を込めて、私を抱き締める。
 私は声を上げそうになる。思わず達しかけていた。
 静かに私をベッドに押し倒した彼の意思を、私は当然のように受け入れた。

 

 時計というものの存在を、私たちはほとんど忘れるようになっていた。
 朝だろうが夜だろうが、私は構わず碇君を求めるようになったからだ。
 いや、場所さえ問わなかった。
 気が向けば、ベッドの上だろうがキッチンだろうが構わず私は彼を誘い、体を重ねた。
 浅ましいと思われても構わない。淫らと思われるのも当然だ。
 私はただ、私がどれだけ碇君に溺れているかを教えたかった。
 彼がどれだけ私を求めても構わないということを教えたかったのだ。
 情欲に溺れる私の姿がどう映ったものか、碇君は一度として私を拒まなかった。
 彼の方から私を求めることも、以前に比べてはるかに多くなった。
 気が向いたときに肌を重ね、そうでないときは始終体を寄せ合い、お腹が減った時間をすなわち食事の時間にする。
 生活時間も何もあったものではない。
 深夜から真昼まで体を重ね合って、パンを齧った後で泥のように眠り、深夜にまた目覚めて抱き合うことも平気でやった。
 気が付いたら三日ほど何も食べていなかったということもあった。
 汗と体液でぐしゃぐしゃになったシーツの上でも当たり前のように過ごした。
 食料が尽きたら宅配を頼むことにした。振り込みはネットで事足りる。
 ……私たちが外に出かけることは、まったくといっていいほどなくなっていた。

「綾波ってさ」

 久方ぶりにシャワーを浴び、ベッドのシーツを取り替え、二人して清潔な布地の感触を――もちろん裸で――楽しんでいるとき、碇君がやおらそういった。

「これまで、どんな風にして過ごしてたの?」

 漠然にすぎる問いかけに、私は首を傾げる。
 どんな風に、といわれても、答えようがない。
 彼は慌てたように手を振って、

「あ、ええと、つまり……僕と出会う前は、どこで、どんな風に育ってきたのかなって」
「……出会ったときと、変わらないわ」

 隠すようなことでもないので、私はあっさりと答える。

「一人暮らしを始めたのは、中学に入ってから。それまでは、ずっとドグマで育てられてた」
「ドグマ?」
「本部の奥。多分、碇君のカードでは入れないと思う」

 おぼろげに彼の意図がわかって、私は少し嬉しくなった。
 彼は私のことを知りたがっているのだ。
 どうせなら言葉よりも体でより深く知って欲しいところなのだが、そこまで贅沢はいうまい。

「本部にって……ずっと?」
「ええ」
「……両親とかは?」
「いないわ」

 これもまた、隠すようなことでもない。
 私にはどんな意味でも父母と呼べるものはない。
 分身、あるいは本体と呼べるものならあるのだが。

「……ごめん」

 何故か碇君は謝ってきた。ただの事実を伝えただけなのに謝罪されるというのは、何とも不思議な気分だった。
 彼は取り繕うように、

「……でも、今更だけど。これまでこういうこと話し合ったことってなかったよね。その、抱き合ったりは何度もしてるのに」

 別段、それは残念がるようなことでもないと思う。
 私にとって、過去も未来もどうでもいいことだ。今この瞬間、碇君が傍にいてくれるのならば、話すべき何事もない。
 彼はしかし、少し真面目な顔で、

「えっと、綾波の方からは、何か訊きたいことはない?」
「…………?」
「だから、僕について」
「ないわ」

 私は即答した。
 少し、怒ったような口調になっていたかも知れない。
 面食らったような表情の彼の胸に、顔を寄せる。

「……私が傍にいない頃の碇君のことなんて、知りたくない」

 囁くようにそういうと、柔らかく肩を抱き締められる。
 私は自分の匂いをこすりつけるように、彼の胸板に頬をつけた。
 シャワーを浴びたばかりの体からは、快い石鹸の香りがした。
 彼が微笑んでいることを、その暖かさから確信する。
 その匂いと、その体温が何よりも心地よい。
 幸せな気分で目を閉じると、急速に眠気が襲ってくるのを感じた。
 丸二日ほどろくに寝ずに抱き合っていたことを、頭の片隅に思い出す。

「……碇君」

 夢現のままに、私は口を開いた。
 本当に今更のように、訊きたいことを一つだけ思いついていた。

「私のこと、好き?」
「好きだよ」

 迷いのない口調。揺るぎのない言葉。
 私は自分自身に苦笑した。
 本当に、何で今更、そんなわかりきったことを訊ねたのか。
 まるで人間のような問いかけではないか。
 彼がここに在ることこそが、どんな言葉にも勝る唯一の真実だというのに。
 心地よい空気を胸一杯に吸い込みながら、私は眠りに落ちた。

 

 目覚めたときには、日は既に高々と昇っていた。
 太陽の高さからして、おそらく正午くらいだろうと当たりをつける。
 久しぶりに、本当に久しぶりに時計を確認し、その推測が間違っていないことを知った。
 碇君はいまだに眠っている。
 体力の問題なのか、それとも体構造の問題なのか、私の眠りは概して彼より短く、浅い。
 いずれにしても、そのおかげで私は彼の寝顔を見つめるという幸福を享受できる。
 私はいつものように、その特権を行使した。
 安らかな表情で眠り続ける碇君の顔は、いつものことだが見ていて飽きが来ない。
 このまま永遠に見つめ続けていても、飽きることなどないのだろう。私には確信があった。
 一緒に暮らし始めてから、彼は心持ち肌が青白くなったように見える。
 もとから日焼けした肌ではなかったが、学校どころか買い物にも出かけなくなったため、その白さに拍車がかかっているようだ。
 ついでに、少し痩せたようにも見える。
 これについては私にも責任がある。
 今のような、一般の常識からすれば滅茶苦茶としかいいようのない生活習慣に変えてしまったのは私だ。
 とりあえず、ご飯は食べられるときにお腹一杯食べるよう勧めるべきだろう――規則正しい生活とやらに立ち返るつもりなど、私には毛頭ない。
 寝顔を見つめながら、これからのことについてあれこれ考えていると、ほどなくして碇君が目を覚ました。
 私を見ると、嬉しそうに顔を綻ばせて「おはよう」といってくる。
 応じて私も「おはよう」と返し、ついでに先ほどの思いつきを実行に移すことにした。つまり、食事の提案だが。
 起きたばかりだったが、碇君の方も空腹を覚えていたようだ。

「すぐに支度するね」

 彼はそういってシャツと短パンを着込み、キッチンに向かう。
 当然の如く、私もシャツを一枚羽織ってからそれに続いた。
 最近私は、食事の支度を手伝うようになっていた。
 理由は何ということはない。二人でやった方が手早くすむので、その分後で抱き合うことができるから。つまりはそれだけのことだ。
 それに、碇君の方も嬉しそうでもある。

『何だか……いいよね、こういうのって』

 手伝い始めたばかりの頃、彼はそういって照れ臭そうに笑ったものだ。
 何故照れるのかは私にはいまいちわからなかったのだが、彼が喜んでくれるのはいいことだ。
 手伝いながら、私はさり気なく、いつもより多めの食事を作るようにした。
 たっぷりのサラダ、いつもより三枚多いトースト、具を贅沢に使ったスープ。
 もっと肉類も配達してもらうべきか、と私は考えた。私は肉が嫌いだが、だからといって碇君にそれを付き合わせる理由はない。
 まあ、何となれば栄養剤のカプセルでも服用すればすむ話ではあるのだが。
 二人してテーブルを囲み、胃に食事を放り込む。
 会話はほとんどない。私が団欒というものに価値を置かないことを、既に碇君も知ってくれている。
 その代わり、食事をしながらも時々キスをしたり、髪を撫で合ったりする。言葉などよりもよほど想いが触れ合うし気持ちもいいと、私はそう思う。
 何度目かのキスの最中、碇君の手がスープ皿に当たって、中身がこぼれた。

「熱っ……!」

 碇君が小さく悲鳴を上げる。テーブルの下まで滴り落ちた熱いスープが、彼のつま先を濡らしていた。
 私は迷わず彼の足元に膝をつき、軽い火傷を負った足の指に口を付けた。
 ぴちゃぴちゃと舌を這わし、彼の足の指に付着したスープをすべて舐め取る。

「……痛い?」

 目線を上げて、訊ねて見る。
 彼はくすぐったそうな表情で、首を横に振った。

「……そう」

 私はうなずき、それからしばらくの間、彼の足を舐め続けていた。

 

 無粋な携帯電話の呼び出し音が鳴ったのは、その日の昼下がりだった。
 先日の赤木博士の呼び出しのときとは違って、私と碇君、二人の携帯電話が揃って鳴り始めたのだ。それが意味するものは、一つしかない。
 携帯などさっさと水にでも漬けて壊しておくべきだった、と、私は心から後悔した。

 

 アダムから数えて十六番目の使徒は、どうにも形容しがたい形をしていた。
 二重螺旋の光の帯で出来た円環、というべきだろうか。それが、郊外の森の上空で緩やかに回転し続けている。
 生物らしくないという点では第五使徒あたりといい勝負だが、どんな攻撃をしてくるのかはまったくの不明。見当もつかない。

『パターン青からオレンジへ、周期的に変化しています』
『どういうこと?』
『MAGIは回答不能を提示しています』

 双方向回線がオープンになっているため、通信機から発令所のやり取りが聞こえてくる。
 ――使徒から数十メートル離れた森の陰、そこに控えた零号機の中で、私は無言でそれを聞いていた。

『あの形が固定形態でないことは確かね』
『うかつに手は出せない、か』

 私は自分の感情を制御するのに苦労していた。
 命令に従わねばならない立場をこれほど苦痛に感じた記憶はかつてない。
 すぐにでも飛び出してしまいたい衝動をかろうじて堪えていた。
 焦燥。渇望。苛立ち。もどかしさ。寂しさ。
 そういう不快なものが、頭の中でぐるぐると回る。
 使徒。ヒトよりはよほど私に近い、異端の同朋。
 しかし今の私にとって、それはただの邪魔者だ。
 私と碇君の生活を疎外する、無粋な闖入者。
 先日の赤木博士の場合はまだ理解できる。
 赤木博士はまだ、私がどれだけ碇君に溺れているかを聞き取り、とりあえずそれを黙認してくれた。
 私たちの生活を続けるためには必要なことだったのだと消化することが出来た。何しろ、今のところは住居も生活費もネルフが出しているのだから、渋々ではあるが受け入れられた。
 だが、今目の前にいる使徒は、文字通りの邪魔者だ。
 野放しにしていては世界が滅ぶという、そんなちっぽけな理由で私は貴重な時間を奪われている。
 ……狂おしい。
 零号機に搭乗して、すでに一時間。それまでにかかった準備その他の時間も入れると、悠に二、三時間が経過していた。
 つい先刻まで、ずっと碇君の形を感じ、その体温を自らのそれと錯覚しそうな生活を続けていた私にとって、もはや拷問を通り越して生き地獄以外の何物でもない。
 碇君の匂いが恋しい。彼の表情が、暖かな体温が、素肌の感触が、柔らかな声音が――
 すべてが狂おしく、待ち遠しい。
 脳が煮え立つような気分で、零号機に持たされたライフルを構え直した、その瞬間だった。

『レイ!!』

 急激な変化だった。
 二重螺旋が寄り合わされ、環の一部が千切れて、ただの光の帯となった。
 そしてそれは――空を舞う大蛇のような敏捷さで、こちらに向かって来ていた。

「!!」

 ……回避できない!
 とっさに展開したATフィールドが、あえなく貫通される。凝縮したATフィールドで紐状の体をコーティングしているらしい。
 頭のどこかでそう判断した瞬間、腹部に熱を伴う衝撃を感じた。
 撃ち抜かれた? 抉り取られた?
 いや、違う。
 モニタに映る光景を、私はかろうじて確認した。
 零号機の腹部に、光の帯の先端がめり込んでいた。
 愛撫とも苦痛とも取れない感覚が脳髄を走り抜ける。
 わずかに覚えがある感覚だった。シンクロに失敗したときの精神汚染に似ている。
 だが、今のそれは、あまりにも明晰で、具体的で――

『レイ!?』

 零号機の左手で使徒を掴み、右手に構えたライフルの銃口を直に押し当て、引き金を引く。
 ごん、ごん、と衝撃音が鳴り響く。
 私は歯を食いしばった。
 零距離からの射撃にも関わらず、使徒には傷一つついていない。
 腹部の違和感はなお深く食い込み、さらに広がり続けている。
 零号機の機体に限ったことではない。
 エントリープラグの中の私にまで、その影響は及んでいた。
 シンクロによる感覚の伝達――などではない。
 実際、プラグスーツの下で、私の体には葉脈めいた筋が走り始めていた。
 どういう原理かは知らないが、使徒は零号機を介して私にまで侵食を始めている……!

『使徒が積極的に一次的接触を試みているというの?』
『零号機の生体部品が侵されていきます!!』

 通信機から悲鳴のような声。
 頭の中で不快なまでに反響する。
 脳髄を直に撫でられるような感覚が上下する。
 臓腑が露出していないのが不思議な気がした。
 皮膚の下で無数の蟲が蠢き、体を食い荒らされているような。

『エヴァ弐号機、リフトオフ!』
『…………』
『出撃よ、アスカ! どうしたの!?』
『だめです、シンクロ率が二桁を切ってます!』
『何ですって!?』

 心底どうでもいいような会話が、やけに遠く聞こえた。
 古いビデオ録画のように視界がブレて、一瞬、意識が遠くなった。

 

 ――そして私は、紅い海のほとりで目を覚ました。
 太陽はなく、月もなく、星もない空は、それ自体がそういう色であるかのように、ただ紅かった。
 眼下にはどこまでも広がる海。見渡す限りにおいて陸はなく、海、と表現せざるを得ないのはそういうわけなのだけれども、もっと正確な表現をするならば、海ほどに広い水溜まりというべきなのかも知れない。空の色を映したように紅く輝くそれに波はなく、流れもない。
 私はその水面の上に浮かんでいた。重力の感触はあるのだが、奇妙に足元の感触は不確かで、しかも自然に宙に浮かんでいる。

「――誰?」

 目の前に誰かの気配があった。
 紅い海に腰まで浸かった人影。白いプラグスーツ。蒼銀の髪。笑う形に釣り上がった口元――
 鏡で何度も見たことのある、綾波レイと呼ばれる私の形。
 私ではない私が、そこにいた。

「使徒? 私たちが使徒と呼んでいるヒト?」

 それは顔を上げ、私の顔を正面から見据えた。

「――私と一つにならない?」

 私と同じ形の唇が、私と同じ声を発する。

「いいえ。あなたは碇君じゃないもの」

 当たり前のこととして即答する。
 ――私でない私の微笑が、さらに深くなった。

「そう。でも、遅いわ」

 嘲うような声が響いた瞬間、皮膚の下であのおぞましい感触が甦った。
 腹部から頬にまで、一息に触手を伸ばす醜い筋。

「私の心をあなたにも分けてあげる。この気持ち、あなたにも分けてあげる。――痛いでしょ? ほら、心が痛いでしょ?」
「痛くはないわ。不快なだけ」

 私は顔をしかめて吐き捨てる。
 無遠慮に神経を撫でまわされる感触。
 碇君に抱かれたときの愛撫に似ているようで、まるで違う。
 彼の愛撫は未熟なものではあったけれど、私が心地よく感じる温度と優しさがあった。

「――誰でもよかったくせに」

 それは拗ねたように口を尖らせる。

「愛してくれるなら、誰でもよかったくせに。寂しさと悲しみをなくしてくれるなら、彼でなくてもよかった。違うの?」
「違わないわ」

 糾弾するような声音に、私はあっさりと答えた。
 目の前のそれはさらに声を高めて、

「――あなたの心は欠けていて、どこまでも不完全。欠けた部分を補うために、あなたは彼を利用した」
「そう。そうかも知れない」
「彼はあなたを好きだといった。あなたは彼が好きだといえるの?」
「もちろん」

 私は哀れむように顔を上げ、それを見下ろした。

「いえるわ。私は彼を愛している」
「――自己欺瞞。それとも自己満足。あるいは勘違い。あなたはそれを愛と言い換えているだけ」
「だから何?」

 私は心から反問した。
 下らぬ問答だ。
 私と同じ姿形をしているくせに、どうしてそのていどのこともわからないのか。
 言葉の定義など知ったことか。
 愛した理由など私が誰よりも知っている。
 この身を抱かれるのが気持ちよかった。
 二人寄り添って過ごすのが何より幸せだった。
 彼の笑顔を見ると私も楽しくなった。
 他には何もいらない。
 他には誰もいらない。
 この血この骨この肉すべてを捧げ、彼のものになりたいと願い、彼を手に入れたいと願った。
 空気よりも水よりも、私にとっては彼が大切で、必要だと思った。
 何よりも尊く、貴いと感じた。
 世界の理よりも確実で、揺るぎ無い、それはただの真実だ。

「――失せなさい。私にあなたの入る場所はない」

 私は告げる。
 むしろ精一杯の優しさのつもりで。

「私は綾波レイ。この世でただ一人、碇シンジのモノ」

 ――それは応えず、唇を何か叫ぶ形に開いた。

 

 耳元で何か不快な大声を立てられた感覚があった。
 脳裏で衝撃が反響している。
 私は目を見開いた。
 痛みの走る頭で状況を確認する。
 ――変化はない。
 使徒は相変わらず零号機の腹部に食い込み、その機体と私自身とを侵食している。
 いや、先ほど垣間見た幻想そのままに、その侵食が私の全身に広がっているのが、唯一の変化らしい変化といえるだろうか。

『ATフィールド展開! レイの救出、急いで!』

 通信機から聞こえる葛城三佐の声。
 一瞬、何のことかわからなかった。
 おぼろげだが、弐号機が稼動できず、さっさと引っ込められたのは記憶していた。
 だとすれば――作戦部長が命令を下すべき相手は、一人しかいない。

「碇君!」

 視線を巡らせて紫色の機体を探す。
 侵食の影響だろうか、わずかにぼやけた視界の端に、パレットガンを片手にリフトオフしたばかりの初号機が見えた。
 そして、そこに一直線に伸びて行く――長大な光の帯。

「!!」

 悲鳴か絶叫か、声にならない叫びが吐息の塊となって、空しくLCLに溶ける。
 使徒はその紐状の体の一端を零号機に食い込ませたまま、もう一端を初号機に伸ばしていた。
 初号機を、否、碇君をも侵食しようというのか。
 危うく回避した初号機の身代わりのように、手にしていたパレットガンが両断された。
 まさに大蛇そのものの執拗さで使徒はその身をうねらせ、さらに初号機を狙い続ける。

「これは……!!」

 もしや――いや、間違いない。
 あの使徒の執着は、私の心理を読み取ったもの。
 碇君を求める私の心を、あの使徒は忠実に模倣し、初号機を狙っているのだ。

「碇君!!」

 侵食されたらどうなるのか。
 私は醜い筋の走る体を見下ろし、先の幻想を思い出した。
 あの使徒の特性は生体侵食。究極的には魂の侵食、そして融合。
 ヒトではない私でさえこうなのだ。
 碇君がその侵食を受ければ……どうなる?

『そう。でも、遅いわ』

 脳裏にあの嘲うような声が甦る。
 あの使徒の。貪欲で。獰猛な。
 脳裏の奥で、私と同じ姿をしたそれが、碇君に手を伸ばす光景が浮かび上がった。
 彼はその頬といい腕といい全身すべてを侵され、そして――

「…………!!」

 その瞬間、全身に広がる侵食の不快感が、一気に消し飛んだ。

 

 視界が真っ赤に染まったような錯覚があった。
 頭髪からつま先まで、全身が溶岩で満たされたかのよう。
 砕けんばかりに奥歯を噛み締める。
 かたかたかたと耳障りなほどに骨格が鳴る。
 脳髄が沸騰寸前まで灼熱する。

 

ふ ざ け る な

 

 腹部にめり込んだ使徒、この身に蠢くその異物へと、私は吐き捨てる。
 激情に目が眩み、心が憤怒で埋め尽される。
 睨みつけたその先で、今まさに初号機を貫こうとしていた光の帯が、怯えたように動きを止めていた。

 

私は彼だけのモノ。彼は私だけのモノ。他ならぬ私がそう決めた。

 

 私は宣告した。
 喉がその通りに動いたかどうかは定かではない。
 いや、声を成したかどうかは問題ではないのだ。
 この身に繋がった異物へと、その意が伝わればよい。

 

触れることも許さない。共有するなどと、できるはずもない。例え神であったとて、私が決して許さない。

 

 あらん限りの憎悪を込めて、私は呪詛を叩きつける。

 

それを――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お 前 如 き が

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 繋がった腹部から直接叫び声が聞こえてくる。
 それは断末魔。恐怖の悲鳴。哀れに許しを乞う愚か者の叫び声。
 好きなだけ泣き、喚け。悔いるがいい。
 これは裁き。
 身のほど知らずの道化に対する、私の裁きだ。
 ――光の帯は、悶え苦しむように地に落ちて蠢き続け、その表面には気泡のようなものが浮かび上がっては破裂していた。
 零号機を介して私を侵食しようとした使徒は、今、零号機を介して私に侵食されていた。
 そして私には、当然ながらこのような愚物を取り込む気などない。
 ただ苦しみ、そして死ぬがいい。私の意思はただそれだけ。
 破滅の指令を憎悪に乗せて、私は使徒を侵食する。
 頬や胸からは、いつしかあの葉脈めいた醜い筋は消えていた。
 零号機の装甲にこそ痕跡は残っているようだが、生体部品のメーターは正常値に戻りつつある。
 ――逃げたがっているのだ。
 だが、許さない。
 逃してなどやるものか。
 私から解き放たれるときがあるとすれば、それはお前が死を迎えるとき。
 死ねる体であることを感謝するがいい。本来ならば、未来永劫に渡り苦しませてやるところだ。
 お前は、それだけの罪を犯した。
 冷然と見下ろす視界の中で、使徒の活動はもうかなり弱々しくなっていた。
 あれほどまばゆく輝いていた体が光を失い、ばらばらに崩壊しつつある。

「さよなら」

 微笑みながら、私は呟いた。

 

 通信の向こうでは何か騒がしい。
 事態が理解できていないようだ。
 その中で、これだけは絶対に聞き間違えることのない声が、私を呼んだ。

『綾波! 無事なの!?』

 全身を支配した情動が熱を冷ましていく。
 碇君。
 誰よりも何よりも大切な人の声が、私を呼んでいる。

「ええ……大丈夫」

 私は答えた。端末を操作し、映像も出しておく。侵食の痕跡は、少なくとも私の体に関する限り完全に消えていた。

『よかった……』

 彼は泣きそうな声でそういってくれる。

「碇君……」

 私はもどかしい気分で呼びかけた。
 彼とを隔てる空間が、エヴァとチルドレンの身分とが、何よりわずらわしい。
 ようやく混乱を回復したらしい通信の向こうから、作戦終了を知らせる指令が出ていた。
 いわれるまでもない。
 私はチルドレンの義務とやらを果たした。
 後は、いつものように好きにさせてもらう。
 プラグの端末でエジェクト操作をし、外に出る。
 LCLに濡れた体に、清涼な風が吹きつける。
 髪から垂れる雫を振り払いながら、私はふと、森の奥を眺めた。
 薙ぎ倒された木々のそこかしこに、いわく言い難い液状の物質がこびりついている。
 それは愚か者の残骸。
 こともあろうに碇君を私から奪おうとした、身のほど知らずのなれの果てだ。

 

痛かったでしょう? ほら、心が痛かったでしょう?

 

 幻想の中で投げかけられた言葉を、嘲りとともに返してやる。
 ――光栄に思いなさい。
 嘲笑されるだけ、お前は恵まれている。
 顧みられぬこともなくただ死ぬより、よほど気の利いた餞別だ。

 

 私は気を取り直して振り返る。
 初号機からもまた、プラグが排出されるのが見えた。
 碇君もまた、考えることは一緒だったようだ。それが何よりも嬉しい。
 今しがた殺めた使徒のことなど忘却の彼方へ投げ捨てて、私は駆け出した。
 焦燥。渇望。苛立ち。もどかしさ。寂しさ。
 それらの衝動を押さえる必要は、もうない。
 私の帰るべき場所。私がいるべき所。
 この世界よりもずっとずっと大切な人の懐へ、私はわき目もふらず飛び込んだ。

 

 

第三章終

 



後書き

 題して「綾波さん本領発揮」(笑)。
 ううむ。もともとはしごくまっとうな(健全ではないけど)恋物語として構想したなどと、誰が信じようか。
 にしても、結構忘れてるもんだなー……使徒戦のシーンはフィルムブックと睨めっこしながら書いてました。
 それでどーしてあーなるのだというツッコミはさて置いて(笑)。

 

 

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