レイ――というのは、そもそも。
 碇ゲンドウと碇ユイ、その間に生まれた子供のために用意された名前の一つだったという。
 つまり、生まれた子供が息子ではなく娘であった場合は、そう名づけられるはずだった、そういうことだ。
 ――父さんは。
 その名を、彼女に与えた。
 何のつもりでそうしたのか。何の意味があったのか。それは多分、本人にすら説明できまい。
 理解する必要があるとも思えない。
 それはもう、そういうものなのだろう、と。諦める他はないことなのだ。
 リツコさんの言葉を借りればこういうことだ――
 わからないのが当然なのだ、と。 

 

 

 

 

 

 

Moon Phase

間章 魔女の条件

七瀬由秋

 

 

 

 

 

 

 

 

 あらゆる意味で異常な結末を迎えた戦いの後、綾波はミサトさんやリツコさんから無数の質問を受けていた。
 無理もないことだろう。
 零号機に――綾波に、侵食を仕掛けていた使徒が、突如として自壊した。
 唐突に苦悶し、のたうって、その身を分解させた。
 ……一体どこの誰が、疑問を覚えずにいられるだろうか。
 侵食を受けていた当の綾波に質問を重ねる他に、どうしようもない。
 ミサトさんなどは、そのメカニズムを明らかにすることで、今後の対使徒戦に役立てようと考えている節もあった。そんなことが可能なのか、素人の僕ですら疑わしく思うのだけれど、ミサトさんの立場からすれば当然の思考法でもあるのだろう。
 戦闘後のミーティングを終え、着替えをすませた僕が帰宅を許される段になっても、綾波はまだ解放されていなかった。控え室にちらりと顔を出してくれたミサトさんは、リツコさんが随分としつこく絡んでいる、と苦笑まじりにいった。

「ごめんね、シンジ君もレイも、疲れてるのに」

 本当にすまなさそうに、ミサトさんはいう。
 僕は曖昧な笑みを浮かべて誤魔化す。
 ……正直、この人にどう接すればいいのか、迷うところがあった。
 ついこの間まで、同じ屋根の下で家族として暮らした日々。作り物の、けれど間違いなく楽しく暖かだった毎日。この人は――葛城ミサトさんは、立場の許容するギリギリの部分まで家族であろうとしてくれて、立場と関係ない部分で僕を、僕たちを思いやってくれていた。
 ああ、そうとも。離れた今なら尚更断言できる。この人は、僕の家族だったのだと。
 けれども、今の僕はこの人の所へ帰れない。
 綾波がそれを望まない。彼女は決して、僕を手放さない。
 僕が一人戻るのではなく、ミサトさんに頭を下げて綾波を新たな家族の一員として加えてもらうというのも、同じ理由で不可能だ。仮にそうなった場合、ミサトさんは二つ返事で受け入れてくれるだろうけど――その点には確信がある――、綾波は決してうなずかないだろう。未熟な僕にもそれくらいはわかる。彼女は、僕を独占したがっている。惚気といえるならさぞ幸福だろうが、それはつまり他者の排斥だ。
 つまり、二者択一。
 ミサトさんか綾波か。
 ……ならば僕に、汚してしまったあの娘を捨てることなどできるはずもない。

「先、帰っとく? レイには伝えておくわよ」

 ミサトさんの表情は、優しかった。

「いえ……、待ってますよ」
「OK。早く帰らしてやんなさいって、リツコの尻引っぱたいとくわ。まったくあの理系人間、気が利かないったらありゃしない」

 からかうような声音の中にも、気遣いを感じ取れるようになったのはいつからだったか。
 ――うちに帰って来ないか、と。ミサトさんは決して口にしない。何度かそれらしきことを言いかけるのだけど、その度に慌てて別の台詞へとすり替える。いや、気のせいではないはずだ。
 あるいは待っているのかも知れない。いや、待っているのだろうし、望んでもいるのだろう。帰ってもいいですか、と、僕から口にするのを。
 加持さんを失ったことで、一度僕もアスカも放り出しかけたこの人は、自らがそれを望むのを厳しく禁じている。――不器用なまでの、その誠実さ。
 それが一面で、ありがたくもある。
 ……もしもミサトさんからそう望まれれば、拒むことができるかどうかわからないから。
 だから、僕は。

「いえ、いいです。……いつまででも、待ってますから」

 不器用な誠実さに甘えて、自分も誤魔化す。
 決して恨んでなんかいませんし、ましてや嫌ってなんかいません。けれど、今は、綾波の傍にいたいから。そうしなきゃいけないから。――不出来な家族の我侭を、今しばらくは見逃してください、と。
 恐ろしく身勝手に利己的に、そう願いながら。

 

 結局その日は、日が暮れるまで綾波はリツコさんに拘束されていた。
 都合五時間近く、訊問を受けていたことになる。
 リツコさんの立場からすればやむを得ないことだろうとは思うのだけど、正直そこまで時間がかかるとは意外だった。
 帰り際に垣間見た、あの人の目つきが忘れられない。

「本当に――、懐かれているわね」

 控え室に駆け込むようにして戻って来るや、僕に抱きついた綾波の姿を見て、リツコさんはいったものだ。
 皮肉よりも、なお冷ややかな感じがした。

「…………」

 綾波は物もいわずに僕の胸元に顔を埋めている。体温と、鼓動と、匂いと、形と――すべてを感じ取ろうとする、彼女独特の仕草。
 リツコさんは唇だけで微笑し、

「……興味深いわね。ぬくもりを求めているのか、それとも半身を求めようとしているのか……」

 よくわからないことを、いった。
 ――何か、あったのだろうか。
 少し気にかかった。
 正直、僕はリツコさんを苦手としていた。ミサトさんの親友、ネルフの技術部長ということで、比較的接点は多い。しかし、どうにも馴染めない。
 ミサトさんの家で暮らしていた頃、何度か一緒に食卓を囲んだことはあったし、笑みも交わせば他愛のない冗談も口にしていたけれど、どこかで「怖い」という印象が拭えないのだ。まるで、抜き身のナイフがその表情の下に秘められているようで。
 ただし、これはいささか奇妙なことに、悪い印象だけは受けたことがなかった。苦手としてはいても、嫌うことができない。できれば遠くから付き合いたい人ではあるにせよ、付き合いそのものを断とうという気にはなれない。我ながら理解に苦しむ、そんな印象がある。

「……それじゃ、失礼します」

 何やら居心地が悪くなったので、とりあえずさっさと頭を下げる。
 綾波が胸元から渋々顔を離し、代わりというように腕に抱きつく。
 そのまま二人して辞去する寸前、何とはなしに気になって、僕はリツコさんを振り返った。
 どこまでも冷たく恐ろしいあの人は、ただ黙って僕たちを見つめていた。

 

 そして――
 彼女に溺れる。
 廃屋のような部屋に戻り、錆の浮いた扉を閉めると同時に、彼女はしがらみを投げ捨てる。
 碇君。碇君。碇君。碇君。碇君。
 うわ言のように僕の名を繰り返して、僕を求める。
 玄関口で、堪えかねたような激しい口付けを交わして、まずはその場で彼女を抱く。
 そこで一度お互いに達して、体の火照りを冷ましてから、次にベッドに場所を移して。
 再び――何度も彼女を抱く。
 あるいは抱かれるといった方が正しいのか。よく、わからない。
 綾波は貪欲だ。
 肉食の獣が獲物を食らうように、彼女は僕を欲する。
 流されるままに応じる自分が、ひどく浅ましく思えてならない。
 綾波は綺麗な女の子だ。純粋で、貪欲で、冷たく、暖かで、一途で、恐ろしい。
 全存在かけて僕を求める。ひたむきに。ただひたむきに。――戦慄すら、誘うほどに。まるで決壊したダムから打ち寄せる大波を眼前に眺めるような。
 ……だから僕は、ミサトさんの所に戻れないのだ。
 白い肢体を歓喜に震わせ、むしゃぶるようにキスを求めて、幾度果てても力尽きるまで求め続ける彼女を、どうして捨てられよう?
 戦慄と一体化した愛しさ。嬉しさ。
 他の誰が、ここまで僕を求めてくれるというのだ。

「っぁ…………」

 また一つ、彼女は達して、僕の体にしがみついた。
 無意識の動作だろうが、首筋に噛みつかれ、ぎりりと鈍い痛痒が走る。

「痛……」

 お互いに荒い息を整えながら見詰め合っている最中、首筋から胸へと汗以外の何かが垂れるのを感じる。
 彼女に食いつかれ、破れた皮膚から流れ出た血だ。
 当然のように綾波は顔を寄せ、ぽろぺろと僕の血と傷口を舐め上げた。
 まるで吸血鬼のようだな、とも思えるのだけど、そうしている彼女の仕草や表情は小犬のようだ。
 痛みもあるが、それ以上に愛しさが増す。
 無心に血の味を確かめている彼女を再び押し倒す。
 無言の歓喜の悲鳴を上げて、彼女はそれを受け入れた。
 もう何回も――何十回、何百回も体を重ねてきたためか、僕も彼女の体を知り尽くしていた。
 どこをどう触われば彼女がどう鳴くか、何をすれば悦ぶか。一切合切知り尽くしている。
 それが楽しくて仕方がない。
 無我夢中で彼女を蹂躙する。侵略する。飽食する。
 いや、蝕まれているのは僕の方か。
 僕は綾波に溺れ、沈み、酔う。
 頭まで彼女という存在に浸かりながら、それを心地よく感じるのだから。

 

 夜半、いくらかの寝苦しさを感じて目を覚ました。
 全身汗だくで、蒸せるような湿気を感じる。
 ふと見ると、窓が閉めっぱなしだった。開けるのを忘れて事に及んでいたらしい。……まったく、僕は、僕たちは、どこまでも浅ましい。
 手を伸ばしてロックを解き、窓を開ける。この部屋にはエアコンがない。
 ――満月の夜だった。
 真円の月が、夜空に穿たれた穴のように輝いている。
 雲一つない漆黒から、白い光が降り注いでいた。
 綾波は、よく眠っていた。今日は彼女一人で戦っていたようなものだから、疲れているのかも知れない。
 あどけない、そう評してよいほど無垢な姿で眠り続ける彼女を見るのは、意外に新鮮な気分がした。
 顧みて見れば、彼女はいつでも、どんなときでも僕を見つめ続けていた印象がある。
 力尽きるまで睦み合って、泥のように眠り落ちて――そして目覚めたときには、常に彼女の紅の瞳が僕を見つめていた。僕の寝起きが悪いからか、彼女の眠りが浅いせいか、どちらかは知らないが。
 幼子のような顔で眠るこの娘が、つい先刻まで僕の下で呻き、喘ぎ、いくつもの淫らな姿を見せた。その事実が何とも不思議で、なまめかしく、そして自己嫌悪を増す。
 無言のままに、彼女の頬を撫でる。滑らかな肌の感触が心地よかった。

「……んー…………」

 彼女はむずがるような声を上げて、僕に擦り寄ってくる。
 ――本当に。
 眠れる彼女はあまりにも無垢で、可愛らしい。
 涼やかな寝息を聞きながら、静かに夢想する。
 いずれ、彼女が僕以外の人にも心を開けるようになったなら。
 ミサトさんの家に、彼女を連れて戻れるようになったなら。
 きっと、目も眩むような幸せな日々になるのではないだろうか、と。
 アスカもきっと立ち直る。今度こそ、僕も逃げない。かつて淡い憧憬を抱いたこともある彼女を連れ戻し、話し合って、また以前のような気の置けない関係を取り戻す。……もちろん、お世辞にも良好とはいえなかったアスカと綾波との関係も、仲介して。
 そして、四人の家族で暮らすのだ。騒がしくも楽しい、そんな日々を。
 綾波は……今ほど、その、僕と肌を重ねることはできなくなるけれども、他にも楽しいことを一杯教えて。
 休日にはデートしたり、皆で一緒に遊んだりして。
 かつてたしかにあった家族という絵の中に、いつしか綾波も違和感なく融け込む。
 本当に――涙が出るほど幸せそうな、夢だ。
 現実の僕は、この廃屋のような部屋で、彼女と二人、互いを貪るような日々を送っているのに。
 いや、これはこれで幸せなのだ。それは間違いない。
 自分を絶対的に愛し、受容してくれる女の子を――それも、とびきりに綺麗で無垢な少女を好きに弄べる、そんな生活。堕ちて爛れた愛欲の継続。
 本当に、たしかに幸せなのだ。実際そう思うし、綾波に至っては欠片の疑問も感じていない。
 ――しかし僕は、夢を捨て切れないのだ。

 

 そのまま、一睡もせずに夜を明かした。
 綾波の寝顔を見つめながら、一夜を明かしたのだ。
 それだけで、特に退屈はしなかった。
 時計の針が正午を回った頃になって、マナーモードにして枕元に置いていた携帯が唸り声を発した。
 相変わらず眠り続けている綾波を起こさないよう、慌てて手に取り、通話ボタンを押す。

『――今、レイは側にいるかしら?』

 それが、電話の相手の――リツコさんの、第一声だった。
 挨拶も確認もなく、切りつけるような声音。
 僕は慌てて、

「はい。ただ、まだ寝てますけど……」

 いいながら、しまったかな、と後悔する。
 今更のような話だが、寝床を一緒にしていることを認めるようなものだ。
 しかし、リツコさんは何も気付かなかったように、『ならば好都合だわ』と答えてから、

『――貴方たちにつけられていたガードを外したわ』

 平坦な声音で、そう続けた。

『悪いけど、レイには黙って一人で来てもらえないかしら』
「……何でですか?」

 囁くような声で、反問する。

『そのレイに関する話だからよ。――貴方にも興味があることじゃなくって?』

 気のせいだろうか、嘲るような響きがあった。
 しかし、決して聞き逃せないことでもあった。
 僕は、綾波について詳しいことを何一つ知らない。
 何度か直に訊ねたことはあるにせよ、立ち入ったことまで聞き出すにはまだ躊躇があった。ただ、親がいないこと、子供の頃からネルフのドグマとかいう場所で育てられていたという話を耳にしたくらいだ。そこから、孤児だったのをネルフに引き取られたのだろうと、漠然と想像していた。
 しかし、リツコさんの口振りからすると、それだけではすまないような雰囲気もあった。大体、同居している話題の当事者を置いて来い、というあたりからして、穏便ではない。
 ――しばらく迷った末、結局僕は「わかりました」と答えていた。
 後ろめたい気分はあった。不安もあった。
 しかし、リツコさんの声音の奥底にあった、何か張り詰めたものが、すべての反論をねじ伏せた。
 僕は、ネルフから呼び出しがあったので出かけてくる、できるだけ早く戻る、といった旨をメモに書き残してから、慌ただしく服を着て部屋を出た。

 

 暗がりの中を、リツコさんの後ろについて歩く。
 横にはミサトさん。詳しい経緯は知らないけれど、加持さんが伝言か何か残した結果らしい。このドグマへ通じるゲートの所で、リツコさんに後ろから銃を突きつけて(驚いたことに)、同行してきた。
 こつこつと、三人分の足音が寂れた廊下に響く。
 この区画は、清掃というものがされなくなって久しいらしい。エアクリーナーすら設置されない時代の建造らしく、通路のそこかしこには埃が積もっている。ただし、まるで使用されずにいたわけではないことを示すように、うっすら積もった埃の中に獣道の如く汚れた床が顔を出している。

「レイとの暮らしは楽しい?」

 先を行くリツコさんが訊ねて来た。冷ややかな、皮肉めいた口振りで。傍らのミサトさんが緊張するのがわかる。

「……ええ」

 何と答えていいのかわからず、曖昧にそううなずくと、リツコさんは笑ったようだ。

「『はい、とても』と即答しないのね? 以前あの娘に同じ質問をしたときは、躊躇なくそう答えたわよ」
「…………」

 ――気まずい気分で、うつむく。
 ミサトさんが横で顔をしかめ、僕を庇うように足を速めて一歩前に出た。

「リツコ――」
「貴方はレイのことをどう思っているの?」

 ミサトさんの存在を無視するかのように、リツコさんは問いを重ねてくる。
 ――僕はやはり、それに迷わず答えられる言葉を持たない。
 数秒の沈黙。
 リツコさんは、委細構わずにさらに問いを重ねた。

「あなたはレイを、愛しているのかしら?」
「……多分」

 かろうじて、僕はそう答える。

「憐憫、罪悪感、情欲、自己嫌悪、自己満足、同じ穴の狢の親近感。つまり、錯覚ではなくて?」
「…………」

 問いかけに容赦はなく、そして誤謬がなかった。
 僕は再び、うつむいて沈黙する。
 先刻よりもさらに長い沈黙。
 リツコさんは新たな問いを発することはなく、今度こそ僕の答えを待つつもりらしい。
 逃避を許さない厳しさというより、1+1の計算式の答えを待っているような、そんな乾いた雰囲気があった。
 ――そうではありません、そう答えるのは簡単だった。
 僕は綾波が好きです。そう叫ぶのも容易だったろう。
 あるいはそれこそが義務ですらあったはずだ。
 しかし、リツコさんの纏う乾いた空気が、このときは逆にそうした反応を許さなかった。
 やがて、沈黙に耐えかねたミサトさんが再び口を挟もうとしたとき、僕はようやくのことで声を絞り出した。

「――わかりません」

 ……自分で嫌になる返答だった。
 綾波なら、間違いなくこんな物言いはしない。先ほどリツコさんがいったような、まるで躊躇のない反応を示すはずだ。そう、微塵の時差も逡巡もなく。
 ――だというのに、僕は。僕は。
 こうして改めて問われると、途端に自分で自分がわからなくなる。以前、綾波から似たような問いをされたときは、好きだとすぐさま答えられたはずなのに。
 あれは嘘だったとでも、あるいは情欲に流されただけとでもいうのか?

「正しい答えだわ」

 意外なことに、リツコさんの声には純粋な賞賛めいた響きがあった。

「どんな人間も、自分のことを正しくは把握できない。主観と客観が一致することはありえないものね。ことに貴方はその認識を強固に保持している――まあ、人目を気にする性格と裏表ということでしょうけど、それはそれで賞賛すべき資質よ? これは、皮肉抜きでね」

 持って回った言い回しではあるにせよ、これほど好意的なリツコさんの台詞というものを、初めて聞いたように思う。

「悩み疑い揺らぐ。自分自身についてすら。それが普通の、当たり前の、そして賞賛すべき資質。悩みもなく疑いもなく揺らぎもないというのは、よほどの馬鹿か狂人か……さもなくば」
「……さもなくば?」
「そうね、化け物、とでも評する他はないんじゃないかしら?」

 ――リツコさんは、楽しげですらあった。
 本当に可笑しそうに、歩きながら笑いを堪えている。

「赤木博士。私もシンジ君も、アンタの人生観を拝聴しに来たわけじゃないんだけど?」

 ミサトさんがようやくのことで、苦々しげにいう。
 リツコさんは鼻で笑ったようだった。

「いいえ、忠告よ。多分、私に残ったぎりぎりの偽善による、ね」

 囁くようにそういって。
 白衣の背中が立ち止まる。
 両開きの大きな扉が、そこにあった。
 扉の横に据えつけられた端末のスリットに、リツコさんがカードを通し、いくつかの番号を打ち込む。
 微かな空気音を立てて、扉が開く。
 中は闇だ。何か、暗いからとかいうのとはまた別の部分で、嫌な感じがした。
 白衣の背中はしかし、当然のように室内に踏み込んでいく。
 ミサトさんがそれに続き、僕もやむを得ずその後に続いた。

「――そしてこれが、掛け値なしの真実」

 乾いた声が、そう告げて。どこかでスイッチの入るような音が響く。
 漆黒の空間に証明が灯った。
 ――そしてそこに、悪夢が広がっていた。

 

 そこから先のことは、あまりよく覚えていない。

 

 周囲を取り囲む硝子の壁。満たされた橙色に近い薄紅色の羊水。笑いさざめく何十人ものヒトガタ。

「綾波レイ。それは仮の名。このいくつものヒトのカタチ、それを支配する一つの魂、そこにつけられた仮初めの名前」

 中身のない抜け殻のヒトガタたち。向けられるその瞳。虚ろな硝子玉。

「それがどこから来たのかははっきりしている。何故生じたのかも、推測はできる。ただしその正体だけはわからない。おそらくは、名づけたあの人にすら、正確には」

 いつしか見慣れた顔。傍にあるのが当然のように思い始めていた顔。しかし、浮かぶ表情だけが、見たこともない。

「わからないままに役目だけが定められた。使い道だけがはっきりしていた。一つは戦いの駒。二つ目はダミープラグのコア。そして三つ目、やがて遂行される人類補完計画、その結果を望む方向へとずらす道標」

 ――綾波レイ。いや、違う。違うはず。今朝僕の傍にいたのは誰だ。犯して汚して幾度となく抱いたあの娘は誰だ。

「道具。まさに道具。一から十までその使途を定められた生き人形。意思も自我も必要とされずに生存のみを求められた。そのはずだった」

 無数のヒトガタが笑う。羊水の中で。喉を震わせて。笑う。笑う。笑う。

「――なのに私は勝てなかった。そんなものにも私は勝てなかった。ええ、わかっていたわ。わかっていたのよ。私も道具。使い勝手のいい、いくつもの道具の一つ。何より私は、あの女には――碇ユイには縁も所縁もない。顔も性格も、何一つ似通うところがない」

 笑う。笑う。笑う。笑う。笑う。笑う。

「わかりやすいでしょう? 基準は一つ。たった一つ。碇ユイ。あの人の妻。貴方の母。たったそれだけ。それだけのために私は勝てなかった」

 笑う。笑う。笑う。笑う。笑う。笑う。笑う。笑う。笑う。笑う。笑う。笑う。笑う。笑う。笑う。笑う。笑う。笑う。

「――だから壊すの。憎いから」

 

 ……崩れ行く無数のヒトガタたち。
 虚ろな笑い声を響かせて、肉のヒトガタは肉のカケラへと還っていく。

「あんたっ! 何をしてるかわかってるの!?」

 ミサトさんの絶叫。
 向けられた銃口を、リツコさんは笑いながら見つめる。

「全部、わかっているわよ? これでお終い。あがり。ゴール。デッド・エンド。馬鹿げた結末だけど、これ以外の結末はありえなかった。――何ともお似合いなことにね?」

 笑いながら泣いて。泣きながら笑って。
 リツコさんは崩れ落ち、殺したければ殺して、と懇願するかのような声で告げた。
 頼りなく震えるその背中が、その姿が、何故だか僕自身と重なって見えた。
 ――自分が何故、この人を苦手としながら嫌えなかったのか、その理由を僕は理解した。

 

 日も暮れた頃にようやく帰って来た僕へ、彼女はいつものように物も言わずに抱きついた。
 目が覚めたときに僕がいなかったのが、よほど堪えたらしい。
 強く強く僕を抱き締め、しがみつく。
 背中に回された手は、ほとんど爪を立てているようで。少し、痛い。
 食らいつかれるようなキスをされる。
 呆然と立ち尽ちつくすままにそれを受ける。
 唾液が入り乱れる音が、静寂の廃屋にただ響いた。
 ――僕はすぐ目の前の彼女を見つめる。
 無心に僕を求めるその表情。
 迷いのない、一途な顔。
 そこには悩みはなく、疑いはなく、揺らぎもない。
 僕がそこに在るという事実だけを、ただ尊ぶ。

 

それが、何より、堪えた。

 

 乱暴に――ほとんど殴りつけるように引き剥がし。
 叩きつけるように押し倒す。
 彼女は、綾波レイと名乗る少女は、まるで抵抗しなかった。
 いつもそうなのだ。
 彼女は僕のすべてを許容する。
 例えそれが陵辱であっても、暴力であっても。
 いかなる理不尽も、彼女はそれを許容する。
 ――底無しの愛欲。
 絶対的で、圧倒的な。
 碇シンジが碇シンジであるという一点のみで、彼女はすべてを受け入れる。

「――リツコさんと、会っていたよ」

 僕は告げる。
 襟首を掴み上げ、ブラウスを引き裂くようにはだけさせて。
 覗いたブラジャーを、ついでのように引き千切る。
 どこまでも白い肌は、こんなときにまで劣情を誘った。

「綾波のスペアの体も、見てきた。粗方のところは聞いた。綾波が、何物なのか」

 綾波は――表情一つ、変えなかった。
 そう。それが? と。
 まったく平然と。平静に。

「――化け物。本当に、そうなんだね?」

 彼女は――
 そうよ、と柔らかくうなずいた。
 どうでもいいことのように、あっさりと。
 ――その瞬間、何かが決定的に砕け散った。
 せめて否定してくれたのなら、それを信じるふりも出来たのに。自分を騙すことも、出来たかも知れないのに。
 悩み疑い揺らぎながら、そう努力することも出来たはずなのに。

「―― 一つ、教えておくよ? リツコさん、綾波のスペアを全部、壊しちゃったよ。憎いからって。一切合切、全部ね」

 引き裂かれたブラウス。
 あらわな白い肌。
 ――細い首。
 そこに、両手を伸ばす。

「綾波にはもう、代わりはいない」

 温かな首筋を両掌で包み込む。
 ――握り締める。
 絞め上げる。

「――化け物」

 どくどくとした鼓動。血の流れを掌に感じる。
 これが、頚動脈か。

「――化け物」

 彼女は――
 この期に及んでも、抵抗しなかった。
 いや、それどころか。
 上身をわずかに浮かせて、顎を反らして。
 まるで、僕が絞めやすいように気遣うように。

「――綾波、レイ」

 そう、彼女はどこまでも不変だった。
 僕の与えるものならば、すべてを受け入れる。
 理不尽な死さえも、例外ではない。

「…………っ!!」

 ぐらぐらに煮え立った脳髄が沸点に達する。
 綾波の首を絞め上げながら、その頭を床に叩きつける。
 鈍い打撲音が木霊する。何度も何度も。何度も何度も。
 あの日、初めて彼女を犯したあの日のように、衝動だけが体を動かす。
 かつてのそれは情欲だった。愛情もあったろうし、渇望もあったはずだ。
 ならば今のこれは何だというのだろう。
 憎悪。失望。嫌悪。絶望。
 わかるものか。
 何一つわからない。
 ああ、わかってたまるものか。

「…………」

 嬲るように叩きつけ、殺意をこめて絞め続けて。
 ――いつしか、両手から力が抜けている。
 激情が激情のまま反転し、殺意が殺意のまま歪曲する。
 そして、気付くのだ。
 嬲られても殺されかけても静謐な、彼女の瞳。
 僕だけを求める、その絶対。
 手放せるわけがなく、失えるはずがない。

「綾波は―― 一体、何がしたいんだ?」

 僕は訊ねる。
 すがるように。

「私が求めるのは、碇君だけ」

 声に澱みはなく、意思に迷いはなかった。
 ――知っていた。彼女がそう答えることを、僕は知っていた。きっと、最初から。
 目から涙が零れ落ちる。
 もう嗚咽を堪える気にもならない。
 力なくもたれかかった僕を、綾波はいつものように、優しく抱きとめた。
 ……畜生。
 ああ、そうだ。
 僕にももうわかっていた。
 空恐ろしいほどに知覚できていた。
 僕たちにはもう、戻れる場所も辿りつく場所も、ない。

 

 

 

 

 

 

 

 無我夢中で綾波の体を抱きしめ、貪るように犯しながら、ふと思い出す。
 あの無数のヒトガタを壊す、その最後のスイッチを入れる間際に、リツコさんが告げた言葉だ。

「あの人にとって、レイは一番大切な道具。何より欠くべからざる道標。そして、初号機――そこに何が融けているかは、もうわかっているはずね?」

 虚ろな響きの中に、自虐と嘲弄と、そしておそらくは――善意とでも呼ぶべきものをにじませて。

「今や、レイは貴方の傍に在り、初号機は貴方にしかシンクロしない」

 赤木リツコさんは、いったのだ。

「カードは、貴方の手にある」

 

間章終



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