朝食の後、軽くストレッチ。
 それからは、何をするでもなくベッドに寝転んで目を閉じる。眠るのではなく、それは瞑想に近い。
 実際、彼には何もすべきことがなかった。
 懲役を課された囚人であれば、どこぞの工場で作業に従事することもあろう。
 しかし、彼に山ほどの罪状を押し付けた者たちが望んでいたのは、彼が名目上の罪に相応の罰を受けることではなく、その一身にすべての真実と責任を背負って人類社会から退場することだった。
 言い換えれば、例え相手が囚人であっても、彼が他者と会話するなどという事態は極力避けねばならなかったのである。
 そのために、彼に割り当てられた牢獄には、専用のシャワーまでついていた。
 これまた普通の囚人なら、毎日決められた時刻に浴場での集団入浴が義務付けられているところだ。
 シャワー付きの個室など、ある意味で破格の好待遇といえた。
 あくまで牢獄としては、だが。
 このように、一種偏執狂的な処置によって、彼は他人と名の付くあらゆるものから隔離されていた。
 唯一、食事の配給や監視に当たる看守だけは例外だったが、その彼らにしても上司の命令が行き届いているらしく、彼と目を合わせることすらしない。
 牢獄自体が、地下二十メートルに作られた一室で、おまけにシェルターまがい――というより元はシェルターだったのだろうが――の強化コンクリート製だ。
 すべてが沈黙の帳に覆われた、静寂の檻。
 もっとも彼にして見れば、この環境は決して悪くはないものだった。
 三年前に満喫した一大喜劇は、まるでサーカスのように刺激的だった。
 道化師たちが踊り、猛獣たちが咆え叫ぶ、文字通りのサーカスだ。
 だが、墓地を思わせる今の静寂も、これはこれで心地良い。
 することはなくても、考えることはたくさんあった。
 我思う故に我あり、という哲学的な思考から、郵便ポストは何故赤いのか?という命題まで。
 世にはあらゆる思索の種がある。
 起床、朝食、瞑想、昼食、瞑想、夕食、入浴、就寝。
 スケジュールにすれば小学生のそれよりも単調な日々を彼は過ごし、そしてそのことに満足していた。
 誰に理解できなくともいい。
 理解されることなど既に求めていなかったから。
 彼は本当に満足していたのだ。
 このまま地の底で生涯を終えるのも悪くない。
 本気でそう思っていた。
 いつしか彼は、この牢獄の外にも世界は広がっていて、そこに無数の人間が「生きている」ことすら忘れかけている自分に気づく。
 現実として、彼になんらかの関わりを持とうとする人間はおらず、そのことに何の不都合も覚えていないのだから、同じことだ。

 ……しかし、そんな彼のささやかな希望をよそに、外の世界では新たな激流の刻が訪れようとしていたのである。

 

 

 

 

 

 

 


Who killed Cock Robin?

Chapter 1 : Returners

七瀬由秋

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 天に光が瞬いた。
 赤くもあり、青くもあり、そして紫でもある、奇妙に美しく禍々しい光。
 光は、かつて第参新東京市と呼ばれた廃墟に墜ちた。
 天文学者は瞠目し、マスコミは囃し立て、大衆は興味をかき立てられた。
 だが、一番仰天したのは、現地に赴いて実物を確かめた調査団であったろう。
 ――かつて最強の守護神として登場し、最悪の破壊神として退場した、紫色の巨人。
 人類の二割が赤い海へと溶けた忌まわしき日に、神殺しの槍とともに天空の彼方へ飛び立った悪魔。
 衝突の激しさを物語るクレーターの中央にうずくまるその巨体を――
 その傍らに突き立った螺旋の巨槍を――
 調査団の学者たちは声もなく見つめたのである。

 美しくも禍々しき帰還。
 声なき無音の歓迎。
 ……それが、喜劇の第二幕を告げる鐘だった。

 

 

彼は闇の中に身を起こした。
東に面した壁に目を向ける。

「……還ったのか。思ったより早かったな……」

そしてまた寝転んだ。

「……ま、どうでもいいさ」

 

 

Who saw him die?
誰が死ぬのを見届けた?
I,said the Fly,
それは私、蝿がいった

 

 

同時刻。
LCLに満たされた水槽の中で、三年間眠りつづけた少女が目を開いた。

「来たのね……」

そしてまた目を閉じた。

「碇君……」

 

 


With my little eye,
小さなこの目でしっかりと
I saw him die.
私が彼の死 見届けた

 

 

 特務機関ネルフ――かつて対使徒迎撃機関として、その秘密主義を外部から批判されつつも、渋々「人類最後の切札」と認められていた組織は、しかしこの三年でその地位と権限を幾何学的に飛躍させていた。
 N2兵器をすら凌駕する最終兵器・エヴァンゲリオンの軍事力、それに基づくオーヴァー・テクノロジー、そして「サード・インパクトを最小限の被害で食い止めた」という実績。
 これらを盾として、ネルフはサード・インパクト後に各国で頻発した動乱に積極的に介入、そのことごとくを鎮圧することで、「サード・インパクト後の秩序確立の立役者」という名声を得ることとなった。
 唯一の弱みであった「エヴァ以外の通常戦力」の欠如も、日本政府との合意によって戦略自衛隊の八個師団を編入することにより、一気に解消された。
 この時期、本来ネルフの対抗馬となりえた欧米の先進国は、ゼーレの老人たちがことごとく赤い海へと溶けたことによって、政治的混乱の真っ只中に放り込まれており、強引かつ強硬なネルフの内政干渉に成す術を持たなかった。
 かくしてネルフは、形式的には国連直下の一機関でありながら、実質的には国連を裏で牛耳る一大勢力へと成り上がったのである。
 曰く「人類の守護者」、
 曰く「新世紀の救世主」、
 曰く「正義の軍隊」、
 曰く…………
 新聞各紙には連日ネルフを賞賛する言葉が踊り、大衆は熱狂的に彼らを支持した。
 この時期、万民の人気と期待は、自国の政府よりも、ネルフの方にこそ向けられていたのである。
 ある意味異常とも言うべきこの事態の背景には、一つにはネルフがあるていどマスコミに対して融和姿勢を取り、ブラウン管にその幹部が顔を出す機会が増えたということもある。
 特に、一連の功績によって「極東の戦女神」の異名を冠された作戦部長や、「使徒戦争における武勲第一等たるエースパイロット」のセカンド・チルドレンの人気は、下手なアイドルを寄せ付けないほどであった。
「セカンド・チルドレンが作戦部長の指揮に従って、国連太平洋艦隊を半壊させた第六使徒を見事に打ち破った」時の記録映像は、繰り返しテレビで放映され、人々はため息をついたものである。
 この世で望みうる最高の栄誉、最強の武力、そして最大の権勢。
 アレクサンダー、チンギス・ハン、始皇帝、織田信長、アドルフ・ヒトラー……有史以来、数え切れぬほどの人間が夢見て果たせなかった、この地上すべてに君臨する覇王。
 今のネルフはまさにそれであった。
 目もくらむようなその栄光の前には、
 オーヴァー・テクノロジーを独占しているだとか、
 相変わらず予算をバカ食いしているだとか、
 しかもその予算が非公開だとか、
 鎮圧のやり口がいちいち強権的で無用な犠牲と損害を出すとかいった事柄は、
 すべて瑣末なこととして忘れられた。
 まして、「ネルフを裏切って人類の二割を殺戮した」一人の少年のことなど、侮蔑や憎悪とともに忘却の淵に追いやられていたのである……

 

 

「第七・第八機甲師団、展開完了」
「エヴァ弐号機、リフトアップ。定位置につきました」
「報道機関はすべてシャットアウト。この領域の人工衛星もすべてMAGIの制御下にあります」
「日向一尉より連絡。状況はすべて予定通り。開始の許可を請う」

 部下達の報告を腕組みして聞きながら、ネルフ統合作戦本部長・加持ミサト一佐はおもむろにうなずいた。

「状況開始。気を引き締めていって」
「了解。――状況開始。繰り返す、状況開始」

 ――旧第参新東京市。
 もはや住む者とてなく、時折物見高い観光客が訪れるだけの廃墟に、この日は騒々しい来訪者が目白押しであった。
 居並ぶ戦車、装甲車、重武装の兵士たち。空には最新鋭の戦闘機や重爆撃機、ヘリが舞う。
 そして何より、小高い丘陵の上に敢然と立つ、真紅のエヴァンゲリオン。
 ミリタリーマニアであれば、いや、そうでなくとも人並みの流行に関する好奇心を持ち合わせた者であれば、
 興奮の余り涙を流してもおかしくはない光景であった。
 何せ、今をときめくネルフが、その気になれば一国の首都を落とすに足る戦力を展開し、しかもそれを今や時の人となった加持ミサト一佐(旧姓葛城)が直率しているのである。
 惜しむらくは、神経質ともいえるほどの念の入りようでマスコミを排除しているこの状況では、それが映像として世間に流れる日はおそらくないということだが。
 ネルフがここまで神経質にならざるを得ない理由は、むろんあった。
 二日前、この廃墟に飛来したエヴァンゲリオン初号機、そしてロンギヌスの槍――
 ネルフにとっては忌まわしい記憶とともに封印されたはずの、過去の遺物。
 サード・インパクトの直接の引き金となったそれを回収するには、どれだけ神経を使っても惜しくはなかった。
 エヴァ初号機がS2機関を備えた機体であり、しかもパイロットなしで起動した記録もあるという事実が、彼らの緊張に拍車をかけている。
 指揮車のモニターに映し出される紫の機体を眺めながら、ミサトは無言であった。
 クレーンなどの重機によって、輸送トレーラーに横たえられる初号機は、今のところ起動している様子はない。
 ワイヤーで固定にかかる野戦服の兵士に混じって、防護服で身を固めた技術者たちが歩み寄り、様々な計測機器を取り付けていく。
気の進まない作業を一刻も早く終わらせたい一心であろうが、最高水準の人材が集められたネルフの技術者だけあって、流れるような手際である。
 思ったよりもスムーズに、かつ平和に進められる作業に、モニタ越しに眺める指揮車のスタッフにはほっとした空気が漂い始めていた。

「伊吹一尉、どう?」
「S2機関に反応はありません。本部で検査しないと詳しいことはいえませんが、素体にも損傷はないようです。装甲に一部劣化が見られますが、これは予想の範囲内です」

 アメリカに出張中のリツコに替わってこの場にいる技術部副部長・伊吹マヤ一尉がテキパキと答える。
 彼女の手元には、トレーラーに積まれた計測機器からもたらされる膨大なデータが流れるように映し出されていた。
 ミサトはうなずき、

「そう……。今のところ心配はいらない、か」
「はい。今のところは、ですが」

 マヤにしては微妙に引っかかる物言いになってしまったのは、表面を取り繕っても虚心ではいられないという証明だったろう。
 エヴァ初号機は、彼女達全員にとっての罪の象徴だったのだから。
 それを過去のこととして割り切るには、マヤは若すぎた。
 だから彼女は、不要であり無用でもある問いかけを、このときしてしまったのかも知れない。

「しかし……、どうして今になって、戻ってきたんでしょう。今になって、どうして……」
「さあ? とかくこの世は謎だらけ、ってね。リツコがよくいってたわ」
「謎、ですか……」

 もっともではあるが、それだけに都合のいい言葉に、マヤは一瞬眉をひそめたが、口に出しては何も言わなかった。
 無言で手元のモニターに目を落とし、職務に集中する。
 しばしの沈黙。
 機械のうなる音と、キーボードを叩く音だけがその場を支配する。
 何とはなしに気まずい空気に耐えかねたか、ミサトは弐号機との回線を開いて呼びかけた。

「アスカ、調子はどう?」
『変わりないわよ。まったく! どうしてあんなポンコツのために、このあたしまで駆り出されるのよ! あたしはエースなのよ、エース!』

 沈黙の指揮車のスピーカーから、吠えるような返答が響いた。
 ミサトは苦笑混じりにたしなめる。

「それも仕事よ。文句いわないの」
『はん! ま、安心して見てなさいよ。例えあのポンコツが暴れ出しても、即座にスクラップにしてやるから……!』

 そう言い放つ口調には、隠し切れない憎悪が滲んでいた。
 弐号機エントリープラグの内部を映すモニタに、底光りする目をしたセカンド・チルドレンの姿がある。
 その眼差しが睨み付けているのは、モニタのこちら側ではなく――まず間違いなく、眼下に横たわるエヴァンゲリオン初号機だろう。

「心強いわね。頼りにしてるわよ」
「…………………………」

 ミサトは気楽に聞き流したが、マヤはやり切れないように顔をしかめた。
 指揮官とパイロットが無駄口をかわしている間にも作業は進み、初号機の荷台への固定と機器の取り付けはすでに完了していた。
 ロンギヌスの槍については、ある意味でエヴァ以上に不確定要素が強く、かつ軍事的な危険性そのものは比較的薄いと判断されていたため、当面は旧第参新東京市全域を封鎖することで世間の目から隔離するという決定がなされており、槍そのものに手をつける必要はない。
 よって、後は一通りのチェックをすませて、初号機を厳重に梱包し、帰還の指示を待つばかり。
 ここまでくれば、任務の八割がたは完了したも同然だろう。
 誰もがそう思っていたとき、技術部所属のオペレーターが不意に首を傾げ、マヤに指示を求めた。

「なに?」
「はい、これなんですが……」

 示された数値の羅列を眺めていたマヤの顔が、瞬時に引きつった。

「…………………………!?」

 マヤは思わず、部下を押しのけて端末を操作し、より詳しいデータを呼び出す。
 緊迫したその表情に、弛緩しかけていた空気が一斉に強張り、全員が忙しくマヤの顔と手元の端末との間で視線を往復させた。

「何があったの!?」
「初号機エントリープラグ内に生命反応です!」

 確信を込めてマヤは叫ぶ。それは悲鳴に近かったかもしれない。

「どういうこと!?」
「わかりません……が、人間です! プラグ内映像は出せる!?」
「やって見ます!」
「六番のケーブルをつなげ!」
「回路の取替えします!」

 マヤの指示を受けて、技術部の部員たちが忙しく立ち回る。
 モニタの中で、兵士たちが雷に打たれたように銃火器を構え、技術者たちが死に物狂いで作業を急ぐのが見えた。

「全部隊に緊急連絡! 総員第三種戦闘態勢! アスカ、油断しないで!」
『わかってるわよ!』

 弐号機から、歯軋りするような声。

「応急処置完了!」
「プラグ内映像、出ます!」

 全員が固唾を呑んで見守る中、モニターの映像が切り替わった。
 所々にノイズが走る、荒いグラフィック。
 紅のLCLの中に浮かぶ、エヴァンゲリオンの操縦席。
 そこに、一人の女がいた。
 意識はないようで、LCLの中に力なく裸体を浮かべている。

「か、拡大できる?」
「りょ、了解」

 ミサトの声を受け、マヤが震える手で端末を操作する。
 女の顔が拡大される。
 すやすやと眠っているような、安らかな顔。
 その顔に、ミサトは見覚えがあった。
 直接の面識はないが、資料で見た記憶がある。
 シャギーの入ったブラウンの髪に、かつて彼女の被保護者であった少年の面影を映した顔。
 ミサトは呆然と、その名を呟いた。

「……碇……ユイ………?」

 

 

 

 

 

……to be continued


再会。
男と女。夫と妻。
父を辞めた男と母で在り続ける女。
侵された静寂。壊された檻。
――Next Chapter : broken cage




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後書き
 Whokill第一話。
 改めて読みなおすといろいろ不満な点があったのでちょこちょこと改訂してます。
 書き始めた当初は本当に勢いだけで書いていた上、推敲もろくにしてませんでしたからね……
 けど、今となってはあの頃の勢いというか、「書きたい!」という衝動が懐かしい。
 何事もそうですけど、衝動に身を任せ、衝動を形にするというのは気持ちがいいものです。

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