ネルフ統合作戦本部は、二年前、旧作戦部がその規模の大幅な拡大に伴って名称を改めた部署である。
 語頭に「統合」とつくのは伊達ではなく、旧作戦部があくまで非常事態における指揮権の優越を認められていたのに対し、統合作戦本部は司令部に対してのみ責任を負い、技術・保安・警備・諜報をはじめ、他のすべての部署に対して命令権を持つ。
 その長たる統合作戦本部長は、すなわち司令・副司令に次ぐネルフのナンバー3であり、上位者二名の不在時は総司令代行の肩書きを帯びる。
 ネルフが以前よりはるかに軍事機関としての色合いを強めたことによる処置の一つといわれればそれまでだが、今日におけるネルフといえば、すなわち人類社会最強の軍事力そのものである。
 弱冠三十二歳にしてその職にある「極東の戦女神」こと加持ミサトは、階級はたかが一佐――正規軍で言う連隊長クラス――でありながら、国連軍の軍令本部総長をも平伏させうる絶大な権勢を誇っていた。
 また、統合作戦本部長就任と同時期に式を挙げた彼女の夫は、ネルフ諜報部長の座にあり、「碇司令の懐刀」としての地位を固めつつある。
 このカップルは、まさに権力と栄光に祝福された夫婦であるといえた。
 加持ミサト(旧姓葛城)という女の人生は、まさにこのとき絶頂を迎えていたのかも知れない。
 そしてこの日――
 エヴァ初号機が松代ネルフ本部に搬入されたこの日、加持ミサト統合作戦本部長はその肩書きを帯びるようになって以来、実に三度目の、「総司令代行」の肩書きを帯びる栄誉に恵まれたのである。

 

 

 本部は喧騒に満ちていた。
 書類の束を抱えた職員たちがそこかしこを駆け回り、保安部・警備部の兵士が機関銃を片手に目を光らせる。
 ――初号機のケイジへの搬入・拘束作業が、つい先ほど終わったのである。
 サード・インパクトを引き起こした紫の鬼神は、向けられる恐怖と忌避の視線に何ら感応することなく、おとなしくケイジにつながれた。
 それでも、数百にのぼる拘束具が接続され終わるまで、強化ガラスを挟んで見守る職員たちは生きた心地がしなかったという。
 この後は、技術部員の半数を動員しての機体調査が行われ、破棄するか否かの決断がなされる――その予定であった。
 しかしこのとき、その決断を下すべき碇ゲンドウ総司令の姿は、執務室にもケイジにも、ましてや発令所にもなかった。
 拘束作業を終えて、今後暫定スケジュールを報告に来たマヤの声を聞き流しながら、ミサトは空の司令席を仰ぎ見て、軽くため息をつく。

「まったく、司令にも困ったものねぇ……」
「……まったくです」

 せっかくの報告を中断する――というより、最初から聞いてなかったことを認めるかのようなミサトの呟きであったが、当のマヤもため息まじりにうなずいた。
 ――旧第参新東京から極秘回線で報告を入れたときの、碇ゲンドウの反応は特筆に価した。
 あの冷酷な鉄面皮を地で行く総司令が、数瞬の間絶句し、次に震える声で「……ほ、本当かね!?」と叫んだのだ。
 それには文字通り、震えるような歓喜が滲んでいた。
 ミサトが松代に帰還し、初号機をケイジへ、ユイの身柄は検査を兼ねてネルフ直属の病院に送るよう手配している中、待ちかねたように駆けつけたゲンドウは、ベッドの上に寝かされた妻の手を握って肩を震わせたものだ。
 そしてそのままゲンドウはユイに付き添って、病院に行ったまま戻ってこない。
 冬月副司令が国連との折衝のために欧州に出張している今、司令部のあらゆる業務が彼の責任にかかっているというのに。
 涙ぐましい夫の愛といってしまえばその通りかも知れないが、ネルフ総司令としての義務を完全に忘却した態度だった。
 それほどに、「初号機エントリープラグ内より碇ユイ博士を保護」という報告は意外であり、かつ喜ばしかったと見える。
 ……例え、息子を食い物にして、自らの権勢を保持した男であっても。
 ミサトは、自分にその資格がないのを忘れて、義憤に唇を噛んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Who killed Cock Robin?

Chapter 2 : broken cage

七瀬由秋

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 待てば海路の日よりあり。
 苔の一念岩をも通す。
 信ずれば楽あり。
 捨てる神あれば拾う神あり。
 ……ネルフ総司令・碇ゲンドウのこのときの心境を表せば、このような言葉が列挙できたであろう。
 人類そのものを代償としても追い求めた妻の、その生きた体が、今目の前に息づいているのだ。
 平静でいられる方がどうかしていた。
 医師の検診が行われていた二時間を例外として、ゲンドウはずっとユイの傍らにあり、その手を握っていた。
 十数年前とまったく変わらぬ妻の、細く美しい手は、心臓のたしかな脈動を伝えてきて、ゲンドウの期待を増幅させる。
 栄養剤の点滴の針を腕に射たれたユイは、まだ目覚めてはいない。
 だが、身体的には何ら損傷がないことを、担当した医師は保証した。
 この場合の身体とは、脳も含まれている。
 もっとも、脳に損傷がないイコール精神に影響がないということではないのだが、医師はそこまでは告げなかった。
 気を使ったというより、爛々と目を輝かせたネルフ総司令の狂喜に水をさす度胸がなかっただけのことだったが。
 むろんゲンドウは、そのような一介の医師の内心にはまったく頓着しなかった。
 彼にとって大切なのは、自分の目の前にユイがいること。
 かつて自分を唯一理解し、受け入れてくれた妻が生きていることだけだったから。

 

 

 サード・インパクトが終息した、あの日。
 目覚めたゲンドウの心を占めたのは、生きているという喜びよりも不条理に対する怒りであった。
 何故自分は生きているのか? 人の形を取り戻して生きているのか?
 そのことが理解できなかった。
 あの紅い海に、妻の魂とともに永遠に溶けていることが、彼の本望だったというのに。
 数日して、世界人口の実に二割に当たる人間が紅い海から帰還していないことを知ったとき、その疑問はいや増した。
 それだけの人間が帰還を拒んだ中で、どうして自分が還って来たのか。
 やがて疑問は氷解した。
 何といっても、人類補完計画は彼の手になる計画である。
 サード・インパクトの中心でありキーとなったもの。
 彼の息子、碇シンジ。
 あの気弱で脆弱な息子がサード・インパクトを拒み、さらに余計な気を回した結果、今の状況がある。
 ゲンドウはそう結論した。少なくともそう信じた。
 初号機がロンギヌスの槍とともに天空の彼方へ飛び去った――偵察衛星が捉えたその映像を見たとき、絶望は憤怒に転じた。
 あの忌々しい化け物は、妻の魂をその胎に抱えたまま、自分の手の届かないところへと行ってしまった。
 すべてはあの愚かな息子のせいだ。
 ――奴は自分から妻を奪った。
 ゲンドウはそう解釈した。

 

 

 ……やがて、大衆が自失から覚め、真実を求め始めた。
 一口に二割というと、大した数でもないように思えるが、十人に二人、五人に一人が消えたという事実は決して小さくはない。
 五人世帯の家族なら、その子供なり父母なりが一人は消えた計算になる。
 セカンド・インパクトの悪夢と恐怖を思い起こした者も少なくないだろう。
 事態の核心にネルフがいることは、深く考えなくともわかる。
 もともとネルフはサード・インパクトを回避するために設立された機関なのだから。
 言い訳の利かない状況で、ネルフは窮地に立たされたかに見えた。
 だが、ゲンドウは座して滅びを待つ気はなかった。
 生きていれば、そう、生きていれば、いつか初号機を回収することもできるかも知れない。
 天文学的に小さい確率であっても、ゼロではない。
 もともと人類補完計画も、そのようなものだったではないか。
 ……大衆が求めているのは実は「真実」ではなく、「罪人」なのだということを、ゲンドウは正しくわきまえていた。
 小難しい理屈よりも、目に見える非難の対象を、世間の大多数は求めている。
 人でなしと糾弾し、悪魔と罵れる犠牲の羊を一匹放り出せば、それで満足する。
 その大役を息子に担わせることを、ゲンドウは当然のように選択した。
 それが例えどれだけ不条理なものでも、それはゲンドウ自身にとっては正当な復讐だった。
 犠牲の羊を羊たらしめるには、協力者が必要だった。
 いくらネルフが力説しても、蜥蜴の尻尾切りと見なされればそれまでだ。
 外部の証言が必要だった。
 協力者は容易く見つかった。
 ――日本政府である。
 MAGIのレコーダーには、サード・インパクトの直前に戦略自衛隊が行ったことがまざまざと記録されていた。
 同僚の遺体を引きずる女性職員を射殺し、火炎放射器の業火をダクトの中にぶち込み、手投げ弾で十数人を肉塊に変える。
 そういった無残な映像が、はっきりと残っていた。
 戦略自衛隊の兵士たちにして見れば職務を遂行しただけのことだろうが、非武装の職員を虫けらのように殺戮するシーンは、控えめにいっても凄惨に過ぎた。
 もともと日本人は、軍隊とか戦争とかいう言葉にアレルギーを示す傾向があるが、一連の映像がその傾向に拍車をかけることには、疑問の余地がなかった。
 ゲンドウの巧みなところは、このときの交渉相手を「政府」ではなく、実際に決断を行った首相とその側近に絞ったところだろう。
 民主主義のこの世の中で、MAGIの映像が公表されたとき、選挙民に対してどう言い訳するのか?
 遠まわしに、そんな疑問を突きつけた。
 翌年に総選挙が迫っていることも影響していただろうが、紆余曲折の末、首相は「これ以上の混乱を防ぐため」という名目をつけて、ゲンドウの提案を受け入れた。
 合意がなると、後の展開は迅速だった。
 膨大な量の資料が改竄・捏造され、脚本が整えられて、それに添った形で出演者が選出された。
 マスメディアはネルフの注文通りに動き、政府は犠牲の羊を裁く舞台を手際よくあつらえた。
 当の羊が、予想に反して寡黙であり、自らの潔白をまるで主張する気配がなかったのが不気味といえば不気味であったが――それと、証言に立ったときに聞いた奇妙な笑い声も、何やら背筋が寒くなった――、それ以外はすべてゲンドウの思惑を出ることはなく、羊は史上最悪の裏切り者の汚名とともに、地の果てに監禁された。
 ネルフは責任を問われるどころか、逆に救世主としての名声を得て、以前を凌駕する強大な権力を手中に納めた。
 唯一の気がかりは、ゼーレの老人たちが逆襲に転じ、その経済力と政治力をもってネルフに牙を剥くことだったが、その後の調査でゼーレのメンバーのことごとくが「未帰還」であることが明らかになり、世界の趨勢は決まったのである。
 それでもゲンドウは満足していなかった。
 いくら賞賛を集め、権勢を誇ろうとも、妻がいない。
 ユイの暖かさを感じることが出来ない……
 だがそれも今日までだ。
 明日からは真に満ち足りた生活が始まる。
 自分は真の意味ですべてを手中にした――
 ゲンドウは固くそう信じて疑わなかった。

 

 

「う……ん……」

 碇ユイが病室に運び込まれてから、二日目の朝。
 眠りもせずに妻の手を握り続けていたゲンドウは、弾かれたように顔をあげた。
 微かなうめき声。微かに震える瞼。
 間違いない。妻は目覚めかけている――!

「ユイ……ユイ!」

 患者に不用意な刺激を与えないように、という医師の忠告を、彼は忘れた。
 何度も何度も繰り返し妻の名を呼び、その手を強く握り締める。
 7度目の呼びかけで、妻の手が握り返してきた。
 12度目の呼びかけで、妻の瞼が大きくしかめられた。
 26度目で、ついにそれが開いた。

「ユイ……おお、ユイ………っ!」

 ゲンドウは溢れ出る涙を拭おうともせず、十数年ぶりに見る妻の目を覗き込んだ。
 ユイは、明るさに馴れるためだろう、しばし瞬きを繰り返していたが、やがて正面からゲンドウの顔を見つめた。
 ややあってから、迷うような呟きがその唇からこぼれた。

「あなた……?」

 ユイが初号機に取り込まれたのは、実に十五年前。
 当時に比べてゲンドウは老け、髭も生やした。
 だが、ユイはそれでも夫の顔を見分けた。
 そのことが、ゲンドウには無性に嬉しい。

「そうだ……!」

 ゲンドウは大きくうなずいて、妻の体を抱きしめた。

「ああ、あなた……あなた……!」

 ユイもまた、歓喜に声を震わせて、夫の体を強く抱きしめた。
 これだ――これこそが――これだけが――自分の求めていたもの。
 十四年前に失った不可分の半身。
 このぬくもりを取り戻すために、自分の命はあった。
 いや、命だけではなく、存在そのものが、今このときのためにあった。
 ゲンドウは心からそう思い、華奢な体を抱きしめる腕に力をこめた。

「ユイ………………」
「……あなた………………」


 どれくらい抱擁しあったことだろう。
 やがて、やや落ち着きを取り戻して、ゲンドウは未練を残しながらも腕を解いた。

「ユイ……体は大丈夫か?」
「え、ええ……でも、これは一体…私は、どうして……何を……」

 ユイは首を傾げていた。
 ゲンドウも今更に思い出したが、彼女は初号機のコアから出てきたばかりなのだ。
 人類の歴史上、エヴァンゲリオンのコアに取り込まれ、出てきた人間はユイが二例目だ。
 控えめにいっても、体調を予測するにはデータが不足していた。

「そう……エヴァ……実験……実験をして……」
「落ち着け。何も焦ることはない。追々、思い出していけばいいし――お前がいなかった間のことも、説明していく」

 額に手を当てて呟く妻に、ゲンドウはいたわりを込めていった。
 そう、これからは時間が充分にある。
 ネルフ総司令は心に呟く。
 これから、自分たちが失ったもの、空白の十五年間で得るはずだったものを取り返していけばいい。
 薔薇色の未来図、というにはいささか年齢的にも性格的にも不適切だったが、ゲンドウは明日からの生活を夢見るのに忙しかった。

「でも……」
「お前は目覚めたばかりだ。少し休め。……時間はあるのだ」
「……はい、そうですわね」

 妻は従順にうなずいた。
 もともと彼女も一人の学者だ。
 落ち着いて物事を考える姿勢が身についている。

「あ、でも、一つだけ……」

 と、ユイは顔を上げた。
 ゲンドウは優しい声で、

「何だ?」
「今は、西暦何年ですの? あなたとは……どれくらいぶりに……?」
「今は西暦2019年。私の主観では……最後にお前と話してから、十五年が経っている」
「十五年……そうですか……」

 さすがにユイは呆然としたようだった。
 浦島太郎になった気分だろう――どうやらユイには、初号機に取り込まれていた間の記憶はない。
 少なくとも今の時点では思い出してはいない。
 それならそれで一向に構わない――むしろ、あのような化け物に取り込まれていた間の記憶など、ないに越したことはない。
 ゲンドウは、気にするな、というように妻の肩を叩き、再度休むように促した。

「はい……でも、十五年……そう、そんなになったのね。どうりで、あなたも老けちゃって……」
「……ああ。だが、お前は変わらず美しい……」

 泣く子も黙るネルフ総司令らしからぬ、浮いた台詞だった。
 ユイは「お上手……」と微笑んだ。
 そしてその表情のまま、ふと病室を見回した。

「…………」

 訝しげに眉がひそめられる。
 どうした、とゲンドウが尋ねる寸前に、ユイは不思議そうに口を開いた。

「あなた、シンジは……シンジはどうしたんです? 学校ですか?」

 ――ゲンドウの表情が、それとわからぬていどに強張った。

 

 

 冬月コウゾウはベンチに腰掛けて、1071というプレートの下がった病室のドアを見つめていた。
 彼はつい先ほど、出張先の欧州から戻ってきたばかりだ。
 予定にあった国連幹部との会合をほとんど独断で切り上げて、チャーターした飛行機に飛び込み、空港に到着したその足でこの病院に向かって来たのである。
 ほとんど不眠不休といってもよい過密スケジュールであったにも関わらず、副司令の目はむしろ生気を増しているようにすら見えた。
 その目の輝きは、彼の唯一の上司にして同志、あるいは共犯者でもある男とほぼ一致するものであり、その理由もまた一致していた。
 碇ユイ――二十年以上も昔、彼が大学で教鞭を取っていた頃、穏やかな母性の中にきらめく才能の輝きを放っていた教え子。
 彼女のレポートを読んだときの興奮は、数十年間にわたる教職生活の中で、最高に新鮮なものであったことを冬月は覚えている。
 天才と称される学者、その道の第一人者、などと称される学界の権威の幾人かと、冬月は直接の面識を持っていたが、ユイほど斬新で鋭利な知性を持つ者はいなかった。
 彼女は美貌も際立っていたが、冬月はまず、その天性の才能のきらめきにこそ、魅了されていたのである。
 今、そのユイが、生きて再びこのドア一枚を挟んだ空間で息をしている。
 これほどの僥倖を、冬月はにわかには信じることが出来ないでいた。
 それが現実であることを確かめるため、飛行機の中では極秘回線で送られてきたデータを何度も何度もくり返し確かめたものだ。
 ゲンドウが職務を放棄して妻の看病――といっても実際にはただ側についているだけだが――に当たっていると聞いても、怒る気にもなれなかった。
 冬月にも、その気持ちは痛いほどよくわかる――というより、帰国したその足でここに来たという事実が、彼が確かにゲンドウの「同志」であることを証明していた。
 もっとも冬月には、ゲンドウほどには妄執じみた執着はなく、理想と現実に折り合いをつけられるていどには齢を重ねてもいたので、自分達の全権を加持ミサト統合作戦本部長に委任する旨、正規の書類にして通達するていどの義務は果たしてきていたが。
 唯一といっていい問題は――
 冬月は、自分の傍らで悠然とベンチに腰掛け、ユイの診察データらしき書類を眺めているリツコを横目で眺めやった。
 自分と同様、彼女もまた、アメリカの学会から急遽帰国してきたばかりだった。
 彼女はE計画の担当者であり、エヴァに代表されるオーヴァー・テクノロジーの第一人者である。
 医学についても専門家級の知識がある。
 その立場からすれば、ユイの容態にもっとも適切な診断を下せる人材として、彼女がこの場にいるのは当然の成り行きであった。
 しかし、彼女がユイに対して冷静な医師ないし学者としての判断が下せるものかどうか、冬月は深刻な懸念を抱かざるを得なかった。
 ゲンドウもリツコもそれと宣言したことはなかったが、二人がいわゆる男女の関係にあったことを、冬月は承知していた。
 少なくとも三年前まではそうだった。
 今ではどうかわからない。
 紳士で知られる副司令には、他人の男女関係に口を挟むなど考えられないことだったし、ゲンドウもリツコも職務の上では完璧な公人としての責務を全うしていたから。
 いずれにせよ、碇ゲンドウとユイのこれからについて、リツコが虚心でいられると思うほど、冬月は楽観的ではなかった。
 複雑を極める副司令の内心の葛藤をよそに、リツコは至極冷静な顔つきで書類をめくり、何事か分析しているようだった。
 そこには、少なくとも冬月の不安の材料となるような感情の揺らめきはない。
 逆にいえば、それが彼女の内心を完璧に隠し通してもいた。
 それが冬月には不可解であり、不気味ですらあったが、口実を設けて遠ざける余地もまたなかった。
 彼女が今後、どう出るにしても、ユイの現状についてもっとも正確な判断を下せる者は他にはいないのだから。
 変化が待ち遠しくもあり、居心地が悪くもある時間が、無言のうちに流れた。
 冬月は何も喋らなかったし、リツコも手元の書類に集中していた。
 書類がめくられる、その音だけが病院の廊下に響く。
 やがて、かちゃり……という音とともに、病室のドアが開いた。
 冬月は思わずベンチから腰を浮かし、リツコは書類から顔をあげた。
 果たして、予想通りの顔が、開かれた隙間から出てきていた。
 ネルフ総司令・碇ゲンドウ。しかしその表情は、冬月の予想に反して、どこか厳しい。
 地顔からしていかつい男だが、それがさらに険しく、苛立っていることに、付き合いの長い二人にはすぐにわかった。

「おい、碇。ユイ君はどうなのだ?」

 開口一番、冬月は尋ねる。
 リツコは冷ややかな眼差しでゲンドウを眺めているだけで、ベンチから腰をあげもしない。
 ゲンドウは、そんなリツコなど眼中にもないようで、冬月に歩み寄り、

「……ユイは目覚めた。今のところ、大して異常は見受けられない……会話の受け答えもしっかりしていた」
「そうか……」

 万感の思いをこめて、冬月は安堵のため息をついた。
 今すぐにもゲンドウを押しのけてユイの顔を見たいという衝動が、老いた副司令の脳裏を占めていたが、病人に過度の刺激は禁物という常識的な判断と、何よりゲンドウの表情がそれをためらわせた。
 物問いたげなその視線を受けて、冷酷無比で知られるネルフ総司令は、常よりもさらにマイナス方面に傾斜した顔で、察しのいい無二の腹心に口を開いた。

「……冬月。すぐに日本政府とコンタクトを取れ」
「うん? どの道、ユイ君の戸籍も回復せねばならんのだし、それは構わんが……どうした」

 訝しさを増した視線に、ゲンドウは吐き捨てるように答えた。

「……ユイがシンジに会いたがっている」

 その一言が、冬月の顔に愕然と不安のカクテルを躍らせた。

「! そうか……そのことがあったな……」

 ネルフ副司令は凝然と立ち尽くした。
 深く考えるまでもなく、真っ先に考慮して然るべきであった。
 にも関わらず、彼はすっかり忘れていたのである。
 三年前、彼らが自分たちの計画のために呼びつけ、弄び、使い捨てた挙句、社会の裏側に打ち捨てたあの少年のことを。
 冬月にも冬月の言い分はある。
 あの当時、人類の二割が失われた混乱から、全世界を秩序へ導くには、扇の要となる存在が必要だった。
 そしてその要には、エヴァンゲリオンを擁するネルフ以外にはない、と彼は信じたのだ。
 世間の糾弾からネルフを守るためには犠牲の羊が必要だというゲンドウの主張は、もっともなように聞こえた。
 そしてその候補が、操るべきエヴァを失い、利用価値の消失した少年であることにも、消極的ながら彼は賛同した。
 どの道、生き残った戦略自衛隊の兵士が、エヴァ初号機のサード・インパクトを起こす瞬間を目撃していたので、それ以外に選択肢はないように思えたのだ。
 そう、すべては仕方がない。
 仕方ないことだったのだ――
 だが、ユイがその考えに納得し、同意してくれるかどうかは別の問題である。
 彼女は「子供たちが笑って暮らせる未来のため」に、その身を神の紛い物に捧げた女だ。
 そんな彼女が自分たちの所業を知ったとき、どう反応するかなど、冬月は考えたくもなかった。

「ユイ君には、どう説明したのだ? まさか事実を教えたはずもあるまい」
「シンジは病気で療養中。しばらくは会えない――そういっておいた」
「……一時しのぎにしかならんぞ」
「……わかっている。だからこそ、急がねばならん」

 ――要は、ユイが納得する形で、五体満足のシンジを目の前に差し出してやればいい。
 ゲンドウは、自らがこの十数分で立案した暫定的なシナリオを、冬月に示した。
 シンジはすぐに連れ戻す。
 表向きには、碇シンジは獄中で病死と発表し、新たな戸籍を作って与えればいい。
 ユイには当面、三年前にあった事実は――裏はもちろん、表向きのものも――伏せておく。
 そしてシンジとユイを対面させ、ユイが落ち着いたのを見計らって、適当に脚色した事実を吹き込む。
 三年前に起こったことは、すべてがゼーレの老人たちの情報操作によるもので、自分たちは世間の糾弾からシンジを守っていた――そんなシナリオをでっちあげてもいい。
 ユイはゼーレの末路を知らないし、多少無理のあるシナリオであっても、当のシンジが息災にしていることに納得すれば、深く考えることもないだろう……

「……しかし、そううまくいくのか? シンジ君本人が暴露すれば、それまでだぞ」

 冬月は懸念を込めていった。
 ユイもそうだが、シンジが自分たちの所業に理解を示し、その思惑通りに動くなどとはとうてい思えない。
 いっそのこと、世間向きの事実をそのまま事実としてユイに教え、自分たちはかくも努力したのだが、ゼーレがシンジを傀儡とするのを防げなかった――と主張した方がよくはないだろうか?
 ゲンドウは親としての監督責任をユイから糾弾されるだろうが、真実を知られることに比べれば安いものだ。
 ユイとてもともとはゼーレに属していた身、その権勢と恐ろしさを理解している。
 ゼーレがその気になれば、子供一人を傀儡に仕立てることなど造作もなく、それを止めるのは至難の業だとも察してくれよう……

「……それはできん」

 ゲンドウは頭を振った。
 苦々しげな表情が、さらに陰鬱さを帯びる。

「……話していてわかったことだが、ユイは今、決して情緒が安定しているわけではない。シンジに会わせなければどうなることか、予想がつかん」

 実際、ゲンドウが苦し紛れに「シンジは病気で療養している」と告げたとき、ユイはただそれだけで卒倒しかけたのだ。
 その後は、シンジのことばかり気にして、シンジはいつ退院するのか、自分はいつ退院できるのか、いつになったら会えるのか、そればかりをくり返し尋ねてきた。
 まるで自分よりシンジの方が気になっているかのような様子に、ゲンドウは内心苦虫を噛み潰したが、それと表に出すわけにもいかない。
 結局彼は、言を左右にユイを誤魔化し、逃げるように病室を出て来るしかなかったのである。
 思い出すだに苦さが募る感情を押し殺しつつ、ゲンドウは吐き捨てるようにいった。

「どの道、ただの子供だ。脅しつければ何とでもなるし、奴とて自由が欲しかろう。ユイと対面させるときも見張りをつける。もし万が一、余計なことを口にするようなら、即座に黙らせればいい」

 そして、ユイさえ落ち着けば、シンジなど手元に置いておく理由もない。
 ユイには留学したとでも説明して、またどこかに監禁してしまえば万事それですむ……
 ゲンドウはそのように告げ、冬月は渋い顔でうなずき続けた。

 

 

 ――ネルフのトップ二人の謀議を眺めながら、リツコは一人、冷笑の波動を書類で隠していた。
 その気になれば全世界の国家元首を跪かせることも可能なネルフの支配者たちが、公私混同ということもまるで意識せず、一人の女のご機嫌取りに顔色を変えているのが、リツコにはおかしくてたまらない。
 こうなることは知れていたのだ。
 ユイが復活して、ゲンドウは万歳三唱を叫びたいところだろうが、現実はそれほど甘くない。
 かの女は、ゲンドウにとっては追い求め恋い焦がれた妻であると同時に、破滅をもたらす引き金でもある。
 極端な話、ユイが夫への愛情を憎悪に塗り替えたその瞬間、ゲンドウの精神は崩壊を始めるだろう。
 実のところ、ゲンドウとリツコの関係は、三年前の時点で切れていた。
 今では公務以外で顔をあわせることもない。
 にも関わらず、自分がネルフに留まっている理由は、リツコ本人にもよくわからなかった。
 MAGIを残していけないというのはある。
 オーヴァー・テクノロジーの研究開発に魅力を感じてもいる。
 ネルフを抜けたとしても監視つきの生活が待っているのは確実――どころか、命すら危うい、ということもある。
 細々とした理由をあげれば際限がないが、結局のところ、自分はネルフから逃れられないのだということを、リツコは自覚していた。
 そしてこの場合のネルフという定義に、碇ゲンドウの影が重なっていることも。
 吹っ切れたつもりでも、ゲンドウの顔を見るたびに心がざわめくのを感じる。
 未練がある、といわれれば、否定できない。
 だが、だからこそ、今回のユイの復活劇で、リツコは傍観者に徹することを決めていた。
 浮気くらいは、普通のサラリーマンでもする。
 一度の浮気で夫を見捨てる妻というのは、そうはない。
 だが、自分が腹を痛めて生んだ子供を――それも自らの身を神の紛い物に捧げてまで守ろうとした我が子を――、道具のように使い捨て、さらには濡れ衣をなすり着けて投獄しました、などと。
 どこの母親が納得するというのだ。
 何かの弾みでユイが真実を知ったとき、どう反応するか。
 ゲンドウや冬月にとっての悪夢が、リツコには興味深い見世物だった。
 シンジがどうにでもなると、ゲンドウなどは信じきっているようだが、リツコにはそうは思えなかった。
 可愛さあまって憎さ百倍ともいうが――愛憎のもつれが絡むと、人は打算も倫理も無視した行動に出る。
 例えば、愛人の妻に似た人形を、すべて破壊してしまうといったような。
 暗い未来への期待に喉の奥を震わせながら、リツコはいつまでも、ゲンドウと冬月の謀議を見物していた。

 

 

 その日、加持ミサト統合作戦本部長は、朝から不機嫌だった。
 目つきは険しく、足音は荒く、ぬるくなったコーヒーをがぶ飲みするその表情は、険悪と称するに足るものであった。
 理由は、誰の目にもはっきりしていた。
 先日以来、総司令が職務を放擲し、急遽帰国した副司令までそれに倣うに及んで、司令部の決済のすべてが彼女にかかってきたからだ。
 性格的にデスクワークを厭い、栄華を極めた今でも現場の軍人としての感覚が抜けないミサトには、ひたすら苦痛の日々であった。
 彼女は部下に当り散らす型の上官ではなかったが、それでも統合作戦本部の士官たちは息を潜めて嵐の過ぎ去るのを待ち望み、職務上やむなく彼女に声をかけなくてはならないときは、その役割を互いに押し付け合ったものだった。
 とりあえずあと数日は、まだまだこの状況が続いてしまうだろう――誰もがそう思い、覚悟を決めていた、のだが。
 変化は唐突、かつ劇的だった。
 午後に入って、統合作戦本部の士官たちが見たものは、賛美歌の一つも歌いそうなほど――実際に鼻歌を歌っていたが――上機嫌になった、統合作戦本部長の姿だったのである。
 目許は緩み、つま先でリズムを取り、ぬるくなったコーヒーも美味そうにすするその表情は、内心の歓喜を余すことなく表現していた。
 この上機嫌の理由は、誰にも皆目見当がつかなかった。
 朝と昼、不機嫌と上機嫌との時間帯の隙間には、昼休みの五十分間が横たわっており、さらに厳密にいえば、昼休み中に司令執務室に呼び出された十分間ほどがその中央に位置していた。
 午前中は不平満々で書類を片付け、せめて豪華な昼食で憂さ晴らしをしようとしていた統合作戦本部長は、焼肉定食を今まさに征服しようとした瞬間、いつの間にやら戻っていたらしい総司令の呼び出しを受けたのである――
 内在していた不満やストレスが暴発しても、不思議はないところだった。
 またそうなったとしても、統合作戦本部長の軽挙を非難する者は少なかったであろう。
 先日来の総司令の職場放棄は、ネルフの下級職員の間ですら噂の的になっていたから。
 ところが今や、蓄積していたはずのストレスも中断された昼飯のこともきれいに忘れ去ったミサトは、あれほど嫌っていたデスクワークに嬉々として勤しみ、部下たちの苦労をねぎらう余裕すら見せたのだった。
 苦労性の日向一尉に代表される部下一同は、上官の精神状態の急激な改善に胸を撫で下ろしつつも訝しみ、その理由を口々に問うたが、美貌の統合作戦本部長はのらりくらりと追求をかわし、部下たちを煙に巻いた。
 彼女はその上機嫌の理由を、実際には声を大にして説明してやりたかったのだが、地位と事情が許さなかったのだ。
 しかし、部下たちに対してはともかく、自分と同じネルフの最高幹部たる友人には守秘義務を守る理由を見出せなかったミサトは、折りよくその友人を見つけるや自らの執務室に引っ張り込んで、つい先刻総司令から受けた密命を説明したのであった。

「ねえ、リツコ、聞いてよ! 実は私、シンちゃんを――」
「連れ戻してこい、といわれたんでしょ? 碇司令に」

 得意満面のミサトの台詞を、しかしリツコは冷淡なほどの声音で先回りした。
 ミサトは豆鉄砲を食らったような表情で、

「な、なに? 何で? 何でリツコも知ってんの?」
「私がさっきまでどこにいたと思うの。司令や副司令と一緒に病院にいたのよ? ユイ博士の診断のために」
「そ……そういえばそうだっけ。ちぇーっ、驚かせてやろうと思ったのに」

 当てが外れてミサトは残念そうな表情を浮かべたが、すぐさま笑顔を取り戻し、

「でもでも、これでようやく、シンちゃんも戻ってこれるのよねぇ……。もうかれこれ、二……いえ、三年ぶりだっけ? いい男になってるかしら?」
「どうかしらね。私は詳しいことは知らないけれど、牢獄が健全な養育環境だとはお世辞にも思えないわよ」

 リツコは冷ややかさを増した声音で、親友の能天気な期待に冷や水を浴びせた。

「だいたい、どうしてあなたはそんなに喜んでられるのかしら、ミサト? シンジ君と会えるのがそんなに楽しみなの?」
「もっっっちろんでしょっ? 私はシンちゃんの家族よン」
「彼の実の父親と一緒になって、山ほどの冤罪を押しつけた家族?」

 痛烈な指摘に、ミサトは顔を強張らせた。
 しばしその痛烈さを受け止めかねたかのように沈黙してから、視線をそらしつつ途切れ途切れに口を開く。 

「そ、それはー、その……仕方のないことで……シンちゃんだって、わかって……」
「くれるかしら? 少なくとも私だったら無理でしょうね」

 リツコはにべもなく切り捨てる。
 ミサトは顔色を失って叫んだ。

「だ、だって、他に方法はなかったのよ!? ああする以外に、ネルフと人類が存続する方法なんてなかったのよ!」

 それは不満と苛立ちを凝縮した、悲鳴のような抗弁だった。
 かんしゃくを起こした子供のような、という表現も出来たかも知れない。
 実際彼女は、自分がいわれのない非難を受けている、と感じていた。
 せっかく自分の「家族」が「帰宅」してくるというのに、この親友はどうして水を差すのか?
 その衝動が命じるままに、彼女は自分の正義を親友に精一杯訴えた。

「そ、それに、私はシンちゃんの罪を軽くするために、精一杯努力を……」
「でも、彼が無実だとは一言もいわなかったわね」

 親友の必死の抗弁を、リツコは冷ややかに粉砕した。
 彼女はむしろ穏やかに言い聞かせるように、

「いい加減認識なさい、ミサト。あなたはもう、とっくの昔に『こちら側』の人間なのよ。罪を軽くしたとか重くしたとか、そんなのは関係ないわ。三年前のあの裁判に、司令のシナリオに従って出席した時点で、あなたは……」

 しょせんこの親友も自分と同類なのだと、リツコは見透している。
 つまり――加持ミサトもまた、骨の髄までネルフの一員なのだ。
 だからこそ、ゲンドウは自分と冬月に次ぐ統合作戦本部長の地位を、彼女に与えた。
 軍人として有能で、世間受けもよく、しかも最終的には自分の決定に必ず従う忠実な共犯者への報酬として。
 もしミサトの内部に、造反者としての資質が欠片でも存在していたなら、そんなことにはならない。
 ゲンドウはその種の資質をかぎ分ける嗅覚が恐ろしく確かだ。
 そもそも三年前――ミサトが真実、シンジの味方であったなら、とるべき手段はいくらでもあった。
 外部の報道機関に情報をリークしてもいいし、野に下って地道に弁護活動をしてもよかった。
 いや、もっと直接的に、少年を連れて逃げてもよかった。
 それをしなかった、あるいは考えつきもしなかった時点で、ミサトの実像は見え透いていたともいえる。
 ゲンドウの謀略に最終的に同意し、その脚本に添って「証言」を行ったことで、彼女は「こちら側」にいることを自ら証明したのだ。
 あえて非難はすまい。
 リツコとて、自分にその資格がないことをわきまえている。
 だが、ネルフの軍人として、そのエゴイズムを実践しながら、一方で被害者の味方ぶるなどと、嫌悪を通り越して吐き気がする。
 リツコはミサトの明るい性格を嫌いでなく、羨望すらしていたが、彼女の持つこの種の偽善には――偽善を偽善として認識しない鈍感さには、時として殺意すら覚えた。

「違う! 私はただシンちゃんのためを思って……シンジ君の味方だったのよ!」

 ミサトはなおも、虚しい抗弁を続けている。
 リツコは無言で、その顔を見つめていた。
 叫びたければ叫べばいい。それで気がすむのなら。
 それはむしろ、リツコなりの友情であり優しさだったかも知れない。
 夢は見たいだけ見ればいいのだ。
 ――どうせ、現実に変わりがあるわけでなし。

「シンちゃんなら……シンジ君なら、きっとわかってくれる……私は信じてる……そうよ……きっとそうよ……」

 もはやリツコが返答する気もなくしている中、ネルフ統合作戦本部長のすがるような弁解が、白々と流れていた。

 

 

 その日も彼は、朝食の置かれる音で目を覚ました。
 いつも通りのメニューを、いつも通りの手順で平らげ、いつも通りに軽くストレッチを行う。
 それから瞑想にふけろうとしたとき、彼は今日が三日に一度の着替えの日であることを思い出した。
 トレイの横に、替えの囚人服が慎ましく置かれている。
 彼は無造作に灰色の囚人服を脱ぎ捨てると、一つにまとめて搬入口の前に放り投げた。
 この三年間で、彼は随分と身長が伸びた。測ったことはないが、180には達しているだろう。
 肉付きも、まるで運動をしていなかったわりには決して薄くはない。多少痩せ気味、というていどだ。
 もっとも、肌が病的に白いことまではどうしようもなかったが。まるで蛍光灯の光が写ったようだ、と思ったこともある。
 散髪などという贅沢とも縁が切れて久しかったので、髪も伸び放題。いまや先端は腰近くにまで届いてしまっている。
 さすがにこれには閉口した。食事のときなどに鬱陶しくて仕方がない。
 あまりに鬱陶しかったので、衣服のほつれ糸をちぎって、束ねるようにしている。
 ちなみに、髭はというと、これは先天的な体質なのか何なのか、彼の頬にも顎にも産毛以上のものが生えることはなく、そもそも剃る必要がなかった。
 着替えを終えると、彼はいつも通りのスケジュールに忠実に、ベッドに寝転がる。
 昨夜、時間の流れとは滝壷に落ちる水のようにただ流れていくだけなのか、それとも輪となって無限に循環しているのか、という三日がかりの命題に答えを出したばかりだった。
 今朝からは何を考えようか――彼は悩んだ。
 悩むこともまた、彼にとっては楽しい作業の一つだった。
 ランダムに思い浮かぶいくつかの命題を吟味していくだけでも、十分に楽しい。思索とはまた違った趣がある。
 三十分かけて吟味し、ようやく今朝の命題を定めかけたところで――
 彼の平穏は、唐突に終焉を迎えた。

「……碇シンジ、出たまえ。面会だ」

 ――三年。1100日。26400時間。1584000分。
 時計の秒針が、実に95040000もの時を刻む時間――
 それだけの時間、呼ばれることのなかったその名を、彼は確かに聞いた。

 

 

 

……to be continued

 

 

 

 

 

呼ばれた名前。壊された小さな世界。
道化の女。騒音。ガラスの目。
虚飾の都。栄光と権勢。富と力の集う場所。
そこに、彼と彼女は再会する。
――Next Chapter : the glorious city

 



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