すぐに反応しなかったのは、何も意図的に無視した結果ではない。
自分の名を呼ばれたことがまず信じられなかったし、そんな人間が存在することもついぞ忘れていた。
彼は十数秒の沈黙を挟んでから、ゆっくりと顔を上げた。
「いささか信じがたいですけど……」
声を出すのも随分久しぶりだった。この歳にしてはまだまだ高い響きを持つ、若い声。
「『碇シンジ』。今のは僕を呼んだんですか、もしかして」
「そうだ」
看守は律儀に答えた。
「面会、と聞こえたが、それは僕に誰かが会いに来たと解釈していいのですか?」
「そうだ」
看守は律儀に答えた。
「なんとねえ」
彼――シンジは嘆息した。
「……盆と暮れと正月が一度に来るより稀有な珍事だな。僕に面会だって?」
律儀な看守は、今度は答えなかった。
答える代わりに、がちゃりと開錠の音を響かせながらドアを開ける。
「早く出たまえ」
感情のない、機械的な物言いだった。
シンジはもう一度嘆息した。
Who'll toll the bell?
誰が鐘を鳴らすのか?
I,said the
Bull,
それは私、雄牛が言った
Because I can pull,
私が一番力持ち
I'll toll the
bell.
私が鐘を鳴らしましょう
――永遠に続くものと信じていた平穏が破られたことを、彼は理解した。
コンクリートの廊下を、看守たちに挟まれながら歩く。
甲高く響く、足音たちの無秩序な協奏曲。
それは久しぶりの、ある意味新鮮な響きだった。
この三年間、彼の耳の捉えたものといえば、自らの立てる音でなければ、搬入口が開いて食事の置かれる音だけだったから。
悪くはない。……ただし無原則に過ぎる。
シンジは内心で評した。静寂の牢獄が早くも懐かしい。
廊下の突き当りでエレベーターに乗る。
もとは物資搬入用らしいそれは、どこまでも実用一辺倒の造りで、容量が巨大な代わりに内装は剥き出しの鉄骨で覆われている。
内装などはどうでもよかったが、鉄骨のすれる音、軋む音、モーターの作動音が馬鹿みたいに響くのだけは閉口した。
実用だけのエレベーターに、デジタルの階数表示はない。
扉の上の、横列に数十個も並んだ光点だけが、ささやかに現在の階数を示している。
不規則なノイズの響く中、規則的なリズムで右から左へと移り行く光点が、ついに左端へと到着したとき、エレベーターは止まった。
最後に甲高い耳障りなノイズをあげて、扉が開く。
エレベーターを出て、廊下を真っ直ぐ。突き当たりを右へ。
その一番目のドアで、先頭の看守が立ち止まった。
振り返って、他の看守たちに目で合図する。彼らはうなずいた。
先頭の看守もうなずきを返すと、ごくりと唾を飲み込んで、おもむろにドアを開けた。
「……連れてまいりました、本部長閣下」
ドアの向こうには、陽光差し込む大きな窓と、重厚なソファ、デスク、そしてどこかで見たような女が一人いた。
Who killed Cock Robin?
Chapter 3 : the glorious city
七瀬由秋
看守たちから見送られるようにして――彼らには、室内に入る権限は与えられていなかったらしい――、部屋に入ったシンジがまずしたことは、開け放たれた窓に歩み寄ることだった。
「シンジ君……シンちゃん……! 久しぶり…………え?」
何か感極まったような、そして語尾の方では戸惑ったような声が聞こえたが、彼は無視した。
今はただ、窓の外に興味があった。
三年ぶりに眺める、青い空、眩しく照らす太陽。
彼は、天に映える金色の太陽に目を細め――
「……やはり眩しいだけか」
落胆したように呟いた。
わかっていたことではあったが、空はどこまでいってもただ青いだけで、太陽はただ眩しいだけだった。
いっそのこと――太陽が百個くらいに分かたれていれば、まだ観賞の余地はあったものを。
百の小さな太陽に囲まれて、昼と夜は境界をなくし、世界は黄昏に染められる。
素晴らしく幻想的になるであろうその光景は、一見の価値があるはずだった。
もっとも、単色の空はいずれ飽きるかも知れないが、既にして十分飽きた色よりはまだマシだ。
……まったくつまらない。
シンジは頭を振って、窓から興味を無くした。
まあ――よしとしよう。空にまったく変わりがないことを確認できただけでも、まだ意義のある「外出」だったと思いたい。
ため息まじりに自分に言い聞かせる。
「シ、シンジ君?」
そのときになって、彼はようやく、この部屋にいたもう一人の人間のことを思い出した。
どうやら、さっきからずっと彼の名を呼んでいたらしい。
美しい女ではあった。歳の頃は三十前後。瑞々しい活力と熟した魅力とが共存している。
――ただ、眼が気になった。
安っぽいガラス玉を、派手なだけのネオンで仰々しく飾り立てたような眼だ。
もしこの眼が店頭に並んでいたら――彼は考えた――10円の値札がついていても、手に取る気はしないだろうな。
たまに眺めると楽しいものかも知れないが、自宅にあるとさぞうんざりするだろう。
「どうしたの? 何か気分でも……」
シンジが無言でいると、女は何やら勘違いしたようだった。
彼は手を上げてそれを制すると、先刻から脳裏をとらえていた疑問を口にした。
「――失礼ですが、どちらさまで?」
彼としては当然の質問であり疑問のはずだった。
だが、女は理不尽にも、傷つけられた表情で目を見開いた。
――なんなんだろう、この人。
シンジは閉口した。
新手のコメディアンだろうか、とも思うが、看守たちが自分をそんなものに引き合わせる理由が思いつかない。
呆れと好奇心が半々で見守る彼の目の前で、女は荒々しくドアを開け、外に待機していた看守たちに向かって、記憶がどうの精神がどうのと問い質している。
理性を失いかけたヒステリックな声は、しばしば可聴域を超えてしまって、訳がわからない。
もっとも、それ以前に理解しようという意欲を失わせる声だったのも間違いないが。
どうにか聞き取れた部分を要約すると、牢獄内で不当に虐待して記憶喪失になったのではないか、といいたいらしい。
意外に想像力が豊かな女だ――シンジは感心した。
それとも逆か。
看守とは暴虐なもので、囚人は虐待されるものと安直に信じているのかも知れない。
どちらにせよ、「忘却した」という可能性は思いつかないらしい。普通なら真っ先に考えつきそうなものだが。
女の質問、いや、詰問に対し、看守たちはおろおろした表情ながら、誓ってそんなことはない、とくり返した。
何人かはシンジにすがるような目を向けていた。
「看守さんたちのいう通りですよ。虐待どころか静かな生活を送らせてもらいましたから」
やむなく、シンジは加勢する。
少なくとも看守たちには、この三年飯を食わせてもらった義理がある。
あらぬ疑いを晴らすくらいはしてやってもいい。
自分の前では無表情を崩さなかった彼らが、卑屈なまでの顔で狼狽する様は、それなりに興味深くはあったが。
看守たちはあからさまにほっとした表情で大きくうなずきつつ、自分たちは職務に忠実で潔白である旨を口々に訴えた。
何人かは必要以上に切実な顔を作っていたかも知れない。
それに納得したのかどうか――いや、明らかに疑いは残していたが、それ以上は詰問できないといった表情で――、女は渋々引き下がり、最後に看守たちを一睨みしてから、大きな音を立ててドアを閉めた。
次いでシンジに向けられた目には、哀れむような光があった。
――さっぱり訳がわからない。
シンジは首をひねる。
この女が何者で、いったい何をしたいのか、まったく理解できなかった。
「あの……本当に思い出せないの?」
女が口を開いた。
同情と憐憫をカクテルした声だったが、いささか大仰すぎてかえってわざとらしく聞こえる。
「最初からそういってるんですけどね。とりあえず名前を聞かせてくれるとありがたいんですが」
どうやらこの女と自分に面識があるのはたしからしい。
なんとなく、というレベルだが、見覚えがある――あまり認めたくはないが。
シンジはため息まじりに考えた。
女は顔を曇らせながら、
「私は加持……いえ、葛城ミサト。ミサトよ。シンジ君、思い出せないの?」
葛城ミサト?
その名前にも、たしかに聞き覚えはあった。
安っぽいガラス玉の眼――ヒステリックな声――突飛ではあるが安直な発想――葛城ミサト。
いくつかのキーワードがつながり、彼の脳裏に一つの光景が蘇った。
『……ですから! 私にはわかります、彼は本来とても優しい子で……』
赤いジャケットを羽織り、両手を振って力説する姿だ。
『……ゼーレの甘言に惑わされ、このような惨劇を引き起こしたのも、偏に彼の悲惨な幼児体験が原因であって、更正の余地は充分に……』
演技力は並以下だったが、役になり切っているという点では彼女以上の人間はいなかった。
単に役に酔っているという言い方もできるが、愉快さという面では一、二を争ったのはたしかだ。
そう、名は葛城ミサト。
たしか肩書きは……
「ネルフの作戦部長さんですか」
記憶の中の絶叫する顔と、目の前の顔とがようやく一致して、シンジはうなずいた。
「……!? そ、それはそうなんだけど……」
しかし、せっかく思い出したというのに、理不尽なことに、女――ミサトはまたも傷つけられた表情になった。
要望通り思い出したというのに何が不満なのかはさっぱりわからなかったが、シンジは構わず、
「三年前はどうも。ネルフには世話になりましたね」
まったく、存分に楽しませていただきましたよ。
そんな思いを込めて、彼は頭を下げたのだが、ミサトはまたまた傷つけられた表情になって黙りこくってしまった。
この女は、きっと自分が傷つくことに何かの存在意義でも見出しているのだろう――シンジはそう思うことにした。
「非礼を詫びましょう。最近、考えることが多くてね。どうでもいいことはさっさと忘れることにしてるんです」
「…………!」
女――ミサトは沈黙を続けている。
どういう理由かははなはだ不明だが、シンジの何気ない謝罪に衝撃を受けている様子だった。
――結構。静かになってくれて助かる。
シンジはソファに腰を下ろしながら欠伸をした。
正直、この女の声は耳障りに過ぎる。
いや、一人で勝手にがなり立てる分には文句をつける気もないが、返答を求められるのは御免だった。
それでなくともこちらには考えることが山ほどある。
楽しい思索のときを、このヒステリックな声で邪魔されたくはない。
しかし、ミサトはシンジのささやかな願いを無視した。
というより、気づこうとする素振りもなかったという方が正しい。
「あ、あの……シンジ君。あなたは私たちを憎んでいるかも知れない。いえ、憎むのは当然だと思う……」
……また始まったのか。短すぎる静寂だったな。
おずおずとしたミサトの声に、シンジはため息をついた。
好意的とはいえない彼の視線を受けて、ミサトの声はしかし、さらにボルテージを上げた。
「……でも! これだけはわかって。私たちはあなたが憎くてあんなことをしたんじゃない……仕方のないことだったの。私だって、本当は止めたかったわ。けれど……」
――監督・脚本・演出・主演・その他諸々:葛城ミサト。
一人芝居「傷つけられたかわいそうな私」 第二幕「涙の弁明〜仕方なかったの、わかってくれるでしょう?〜」
題名をつけるとしたらそんなところか。
シンジはそんなことを考えながら、初めて目の前の女に興味を抱いた。
耳障りなのは相変わらずだが、そこに含まれた一種の陶酔、自分の台詞に自分で酔った響きが、彼を感心させた。
そう――三年前もそうだった。これとまったく同じ口調、同じ声、同じ表情。
自分は優しくて誠実で正しい人間だと、高らかに主張するような。
誰よりもまず、自分自身に向かってそう言い聞かせているような、そんな弁明。
そういえば、この女とは麗しい思い出らしきものもあった――シンジはつらつらと思い出した。
まるで子供の御伽噺のような――それも、シニカルな笑いを誘う類の――、大して感興を催すほどでもない記憶。
今となってはどうでもいいと思える、そのていどの記憶だ。
「……私も、アスカも、もちろん碇司令だって、他に方法があったなら、迷うことなく……。でも、仕方なかったの。お願い、わかってくれるでしょう?」
彼が回想に浸っている間に、残念ながら一人芝居は終わりかけているようだ。
語尾が自分に問い掛ける形で終わっていることに、シンジはまたもやため息をつきかけた。
道化の芝居は見る分には文句なく楽しい――しかし、自分の参加が強制されるのは御免被る。
この女に道化として欠ける資質はまさにそれだ。
役に浸るなら、最後まで一人で浸っていればいいものを。
この女には自分が道化である自覚がないのだろうか?
――確かめるまでもなく、ないのだろう。
ここまで道化の才を持ち合わせていて、そのことに自覚がないというのはかなり驚愕に値することだが。
「……で、何の用なんです? いえ、今の弁明そのものが用件だとおっしゃるなら、それに越したことはありませんが」
ミサトの問いかけはきれいに無視して、シンジは本題に入った。ふと思いついて、補足して見る。
「ああ、もしかして――僕を公開処刑にする日取りでも決まりましたか?」
公開処刑――ほんの思いつきでしかなかったが、実際に口に出してみるとその響きにはまた格別なものがあった。
三年前の裁判は、まさに絶品の喜劇であり祭りだった。
ただ欠けていたのは、参加者の絶対的な数だ。
裁判官、検察、弁護人、証人、傍聴人。
全員が全員、ネルフなり日本政府なりの息のかかった者ばかりだった。
極秘の秘密裁判ならば当たり前で、それこそ仕方のないことだ。
だが、公開処刑ともなれば違う――
きっと、「サード・インパクトを引き起こした極悪人」の顔を見るために、大勢の観客が集まることだろう。
憎悪、嫌悪、侮蔑……公式発表を素直に信じる彼らの剥き出しの感情、そのうねりを、生で見て取ることができる。
それは素敵な想像だった。
「そ、そんなことあるはずないじゃない!」
ミサトはまたも、衝撃を受けたようだった。
私たちがそんなことをすると思うの!? と、その表情が語っている。
むろん、思っているからこそシンジはわざわざ尋ねたのだが。
「……それは残念」
期待を裏切る返答に、シンジは心から落胆したが、ミサトはそんな彼の内心に感応した様子もなく、それどころか何が楽しいのか満面の笑みへと器用に表情を造り変えた。
まるで取って置きの宝物を差し出すかのような無邪気な笑顔――
彼女は大仰に手を広げ、感極まったように叫んだ。
「聞いて――シンジ君、ここから出られるのよ!」
「はあ?」
期待とはまるで逆な宣言に、シンジは目を丸くし、次いで心から嫌そうに眉をしかめた。
今、この女は何と言った?
――人の平穏な生活を奪うことが、それほど喜ばしいのか?
「三年もこんな所にいて、つらかったでしょう?」
――いえ、まったく。幸せな毎日でしたよ。
いちいち言い返す意欲すら失せて、シンジは心の中で呟いた。
この女には何を言っても無駄だ。そういう女だったことを、今更に彼は思い出していた。
「でも、もう大丈夫――碇司令、いえ、あなたのお父さんがいったのよ、あなたを連れ戻してこい、って」
――お父さん? ああ、あの最高に面白い台詞を吐いてくれた髭男ね。
さすがはこの女の上司、自分の都合で余計なことをしでかしてくれる。
「でも、ね? それだけじゃないのよ? シンジ君――シンちゃん、驚かないでね?」
声を出すのも面倒になってきたシンジの前で、ミサトの得意げな口調は絶頂を迎えた。
「お母さんよ――シンちゃんのお母さんのユイさん! 今、ネルフで保護されているの。シンちゃん、お母さんに会えるのよ――!」
――お母さん? ああ、そんなものもあったな、そういえば。
シンジは欠伸を噛み殺しながら思い出した。
そういえば、自分にも人並みに母親というものがいたのだった。
父親がいるのだから当然だが――つい今し方まで、すっかり忘れていた。
「――――で?」
会えるからどうだというのだ。
シンジはその先が聞きたくて続きを促した。
「……へ?」
ミサトは意表をつかれたように目を丸くした。
「『で?』って……シンちゃん、嬉しくないの?」
「そもそも何を嬉しく思わなければならないのか、それから教えてもらえませんか」
シンジは心からの疑問を口に出した。
ミサトは最初、唖然とし、次に愕然とし、さらにその次に当惑し、最後に何やら勝手に納得した様子で、うんうんとうなずいた。
「あ――信じられないのも無理ないわ。でも、これは本当のことなの。実はね。半月くらい前だけど、第参新東京市に初号機が降って来たのよ」
知ってますよ、それくらい。
シンジは思ったが、とりあえず無言で続きを促した。
「でね。その初号機のエントリープラグの中から、ユイさん――あなたのお母さんが保護されたの。どうしてなのかはいまだにわからないけれど……」
――なるほどね。思ったより帰還が早かったのはそのせいか。
シンジは呆れまじりにため息をつく。
情けない話だ。人恋しさに戻ってくるくらいなら、最初から家出などしなければいいものを。
「でもね、体には何一つ異常がないって診断されてるし――その、ちょっち体は弱ってるみたいだけど――、それで、あなたに会いたいって。ずっとそういってるらしいのよ。だから、ね?」
「『だから』、なんなんです?」
この女には、どうも自分の尋ねるところが理解できていない――そのことは既に明白だったが、シンジはあえて尋ねた。
的外れな回答が返って来ることは疑っていなかったが、こうも鮮やかに的を外され続けると、逆にそれが面白くもある。
そうでもなければ単なる苦痛でしかないのも間違いないが。
「だ、だからぁ、シンちゃん、ここから出て、両親と一緒に暮らせるのよ? すごいじゃない!」
「無条件でそう思えるあなたの神経の方が、ある意味ですごいですね」
本心だった。
どうしたらこうも勝手に人の幸せを定義できるのか。
まったく、この女は大した道化だ。
感嘆と冷淡とが微妙に調和した物言いに、ミサトは眉を引きつらせた。
からかわれている、と思ったのかも知れない。
むろん、彼女がどう感じようが、シンジの知ったことではない。
「シンちゃん……どうしてそういうことをいうの? やっぱり……私たちを憎んでいるの?」
……どうやら一人芝居の第二幕がまたもや繰り返されてかけているようだ。
さすがにこれにはシンジも閉口した。
ネタのわかった道化ほどつまらないものはない。
いや、ネタの明らかな道化を面白く見せるには、彼女は役者不足というべきか。
どうせ、さっきのくり返しになるのは目に見えている。
「どうでもいいんですよ、単に。今更、母親がどうだといわれてもね。――ああ、別に憎んでいるとかいうわけじゃありませんよ? 不幸になっても構いやしませんが、幸福になったところで文句をつける気もありません。 父君母君にはせいぜい第二の新婚生活を楽しんでくれとでも伝言してください。僕は僕で勝手に生きて勝手にくたばりますので」
いい加減、この女と会話することが本格的に面倒になってきて、シンジは一息にいった。
このていどの理屈がどうしてわからないのか、という思いは大きかったが、現実としてこのていどの理屈がわからない女なのだから仕方がない。
いちいち説明するのは、シンジとしては破格の誠意だった。
だが、目の前の相手はその誠意すらも理解できない道化だということだけが、誤算だった。
「どうしてそういうことをいうの!? シンジ君、意地を張るのもいい加減になさい!」
ミサトはたまりかねたように怒鳴りつけた。
どうして、と問うならば、それこそ今更返答の必要もないほど明確にシンジは明言したはずなのだが、記憶の端にすら留めていないらしい。
シンジは頭を抱えたくなった――これだからこの女の相手をするのは疲れるのだ。
勝手に自己完結して、勝手に決め付け、勝手に理解を拒む。
傍から見ている分にはそれなりに面白いが、相手をするのは著しく疲労を伴う。
「もういいわ! 首ねっこ掴んでもご両親の元へ連れて帰ってあげる! 親子でじっくり話し合いなさい!」
話し合うべき何事もないのに、どうしろというのだ?
もはや頭痛すら覚え始めたシンジの前で、ミサトは不意に、慈愛に満ちた――と、本人は思っているらしい――表情を浮かべた。
「――逃げてはダメよ。お父さんとお母さんに向き合って、あなたの本当の願いを見つけなさい」
シンジは天を仰いだ――といっても、眼に映るのは白い天井だったが。
これほど絶望的な会話しかできない人間だったとは、想像以上だった。
どうあがいても、あの小さな部屋には帰れそうにない。
そして、ふと思い出した。
ずっと前にも、こんなことがあった。
あれは三年、いや、四年前――笑い話の種にすらならない茶番劇の始まった日。
人気の絶えた街で、この女と初めて出会った日。
「長々演説して下さいましたが――早い話が、またもや僕を連行しに来られたわけですか。四年たってもやることはまったく変わってませんね、作戦部長殿」
女の顔が見苦しいほどはっきりと強張るのを眺めつつ、彼はもう一度、最後のため息をついた。
誇り高くNERVのロゴを掲げたヘリが、空に舞う。
その窓から、遠ざかる地表をシンジは眺めていた。
まばらな緑と土の狭間に浮かぶ、親指の先のような形の建造物。
それが、彼の今朝までの住処だ。
施設の大部分が地下に造られていることもあるだろうが、存外にちっぽけな感じがした。
今朝、そう、つい今朝までは、その中のさらにちっぽけな一室が、彼にとっての世界の全てだったのに。
シンジは視線を転じて、遠くにかすむ地平線を眺めた。
太陽は南中に差し掛かり、燃え立つような陽炎が地平に靄をかけていた。
その先が何処まで続くかなど、見えるはずもない。
――つくづく、世界は無駄に広い。
生きるに最低限の機能しかなかったあの白い牢獄は、同時に洗練の極致にあった、といささかの郷愁を込めて思う。
そう、少なくとも――思索には最適の環境だった。
耳に轟くローターの音に顔をしかめながら、シンジは黒革張りのシートに背中を預けた。
本来、軍用ヘリには余分なスペースはない。
しかし、高級士官の移動を主目的として改装を受けたこのヘリは、軍務に支障を来たさないていどに無駄なスペースと、無駄に豪奢な内装がもうけられていた。
衣食足りて礼節を知る――
衣食足りて、さらに栄耀栄華極めれば、無駄な浪費が権威と化す。
いささか救われがたくもあるその性が、馬鹿らしいと同時に可愛らしくもある。
無駄といえば――シンジは、己の身につけている衣服を見下ろした。
ヘリに連行される(彼にはそうとしか受け取れなかった)前に着替えさせられたその服は、体に馴染んだ灰色の囚人服ではなく、まっさらな白いシャツに黒いズボンだ。
殊更意図したわけではないだろうが、学生の夏服と大差ない。
ちなみに、長く伸びた黒髪も、一緒に与えられた黒い紐で束ねている。
連行するだけなら、それこそ囚人服の方がよほど似合っていることだろうに――と、着替えるときにいってみたら、とんでもないとばかりに眼を剥いて仰天された。
つくづく、道理のわからない女だ、と彼は思う。
その女――ミサトは、シンジの真横のシートに座り、何が面白いのか彼の横顔を微笑ましげに見物していた。
「意地っ張りな子供を説得することに成功したお姉さん」の気分にでも浸っているのだろう――
シンジは自分の推論を確認する意欲さえ起こらなかった。
彼が結局、ミサトの強制に従ったのは、単に平穏の日々がもはや還らぬことを潔く悟ったからでしかない。
自由など別に欲しくはない――といえば、彼女は「子供が拗ねている」と見なす。
親などに今更興味はない――といえば、「子供が意地を張っている」としか受け取らない。
そういうおめでたい思考をする女であることを、シンジは否応なしに知らされたのである。
人語の通じない犬、それもよく吠える子犬を相手にフェルマーの定理を説くようなものだ。
……まあ、黙っている分には文句はない。
会話と称するのもはばかられるノイズの濁流に巻き込まれなければ、どんな夢だろうが勝手に酔いしれてくれればいい。
シンジは目を閉じて、あの牢獄の白い壁を思い出した。
白い壁に隔てられていた彼の世界――果たして、閉じられていたのはあの小さな牢獄だったのだろうか。
それとも、眼下に広がるこの景色の方こそが閉じられていたのだろうか……
夢見る女、否、夢しか見れないらしい女の生暖かい視線に包まれながら、彼はつらつらとそんなことを考えていた。
――松代・新ネルフ総本部。
かつてはネルフの実験場が散在するに過ぎなかったこの地方都市は、三年前に要塞都市としての地理的価値を買われ、新生ネルフの本拠地として選ばれるという栄誉を得た。
膨大な資金を湯水のように費やし、大規模な施設を突貫工事で建設し、そこに「人類の守護者」の権威と権勢が舞い降りた結果、松代はかつての第参新東京を凌駕する一大要塞都市としての偉容を整えている。
さすがに、ジオフロントのような超大規模――というより超自然的な威厳を伴った偉容ではないが、整然たる都市計画に従って定められた区画と、正統な軍事学的定石に乗っ取って配された各軍事基地、そして何より都市の中心に建設された壮大なネルフ総本部ビルは、人々のため息を誘うに足りた。
その、ネルフ総本部ビル――地上70階、地下30階――のヘリポートに、シンジの乗ったヘリは降下した。
ヘリから降りると、即座に無表情の黒服の一団が進み出て、シンジとその脇に立つミサトの周囲に壁を作る。
ヘリポートはドーム型で、ヘリが降着すると同時に屋根が閉じて視界を遮っていたが、それでもなお用心する必要があったのだ。
「人類の守護者」たる彼らが、「人類を滅ぼしかけた裏切り者」を連れてくるなど、それだけで大きなスキャンダルだった。
シンジとしては、そのあたりの事情に興味はないし、いかつい黒服の男たちの無表情な顔にも特に含むところはなかった。
無表情のいかつい男など、あの牢獄の看守たちで見慣れている。
むしろ傍らにいるミサトの方が、よほど遠ざけて欲しい。
「お帰りなさいませ、本部長閣下」
黒服の男の一人が、ミサトに向かってうやうやしく敬礼した。
シンジに対しては、ミサトの付属物ないしは荷物扱いらしく、視線を向けもしない。
ミサトもまた、男の態度が当然のものであるかのように鷹揚に、
「ご苦労様。で、司令はどこに? 執務室でいいのかしら」
「はい。ただ、現在総司令は執務中ですので、しばらく別室で待つようにとのご命令です」
「執務中……って、シンジ君をせっかく連れてきたのに!?」
声を荒らげるミサトに、男は恐縮したように、
「申し訳ありません。小官は総司令の命令をお伝えする以外の権限を許されておりません」
「そりゃそうね。……ま、いいわ。案内して」
「はっ」
男はくるりと回れ右すると、ヘリポートの一画に設けられた高級士官専用のエレベーターへと一同を先導した。
ジオフロントに倣ったというわけではないが、ネルフ総本部ビルの主要なセクションは、壮麗な地上部分ではなく地下に在る。
これは伊達や酔狂で設計されているわけではなく、純軍事的な事情による。
天高くそびえ立つビルなど、敵砲の格好の的でしかないのだ。
真に重要で、機密性を要するセクションのすべては、分厚い装甲板を重ねられた地下10階以下の下層部分に集中している。
それより上は、「表」の業務を担当するセクションばかりである。
いって見れば、70階を数える地上部分など、大衆にネルフの権威を知らしめるお飾りでしかなかった。
というより、大衆のほとんどは、ネルフ総本部ビルに地下10階より下があるなどと知りもしない。
今、シンジは、ミサトと数名の保安部員に囲まれながら、エレベーターでその最下層へと下っていた。
ヘリポートのある地上70階の屋上から、地下30階まで降りようというのだから、それなりに時間はかかる。
シンジはその間、二、三十ページほどの冊子をぺらぺらとめくっていた。
今のネルフを知ってもらうために――と、ヘリの中でミサトから押し付けられたものだ。
「ようこそネルフ江」と表紙に書いてある辺り、まったくもって愉快な冊子であった。
どういう懐古趣味の類であろうか、表紙をデザインした人間の神経も、それを満面の笑みで押し付けたミサトの神経も、同じくらいに愉快だった。
内容は――端的に言えば、自画自賛の嵐といったところだ。
ネルフがどれだけ人類社会に貢献し、どれだけ崇高な目的を掲げているかをとうとうと書き連ねている。
その冒頭を飾っているのが「サード・インパクトを最小限で防いだ功績」であることはいうまでもない。
まあ、これについては特に文句をつけるべきところはなかった。
広報誌に悪事を書き連ねる団体など、もし存在するようならこちらから伺ってみたいものだ。
シンジとしては、自画自賛だろうが美辞麗句だろうが、それなりにひねった文学的修辞が見受けられればそれでよかったのだが、あいにくと「ようこそネルフ江」は散文的な筆致で統一されており、特に目を引くものではなかった。
一応、最後まで確認して、シンジはあっさりとその内容に「忘却可」の烙印を押した。
欠伸を噛み殺しつつ、丸めた冊子をズボンのポケットに押し込む。後でちり紙の代わりくらいにはなるだろう。
ぴん、と耳に心地良い電子音を立てて、エレベーターが制止した。
地下30階。
地表からの距離、実に百メートルに達した地底。
エレベーターの扉が、シュー……と、ほんの微かな空気音を立てて開いた。
こんこん……と、甲高い複数の足音が廊下に響く。
ヘリから眺めた壮麗を極める総本部ビルの地上部分に比して、地下ブロックは実用一点張りの造りだった。
廊下自体、それほど幅が広くはない。
といって狭いわけでもないが、人が五人も横に並んで歩けば窮屈に感じるだろう。
シンジは右横をミサトに、左側と前後を黒服に固められて歩いていた。
手錠の一つもかけられないのがまったくもって不思議と思えるシチュエーションである。
先程からミサトは、何かと彼に語りかけてきていた。
ヘリでは文句なく静かで、エレベーターでは黒服の男の一人と何やら喋っていたのだが、どうやらまたもや会話の情熱に目覚めたらしい。
シンジは適当に相槌を打ちつつ、その声のすべてを聞き流していた。
時折スイッチを入れ直さなければ金切り声を上げる、ガタの来たスピーカー。
それから流れる一種の環境音楽だと思えば、ミサトの声も大して気にはならなかった。
施設はむろん無人ではなく、ネルフの制服を着た職員と何度かすれ違った。
この階に立ち入れるということは、末端であるにしてもそれなりに機密に接する立場にある職員ということである。
彼らは一様に、ぞろぞろと連れたって歩く一団に不審の目を向け、さらにそれらに囲まれたミサトの顔に恐縮し、最後にシンジの顔を認めてぎょっとして立ち尽くした。
ある者は驚愕を貼りつけ、ある者は険しい顔で睨み、またある者は決まり悪そうに顔を伏せた。
様々な反応、その際に見せる表情の変化が、シンジには興味深い。
思えば、この五年間で彼が見た人間といえば、揃いも揃って感情を廃した無表情というのが定番だったから。
唯一の例外といえばミサトだが、この女の場合、表情の変化を観察する前に甲高いノイズが耳につく。
何人目のことか、すれ違う――というより、角を曲がりかけたときにはち合わせた女が、訝しげな視線を走らせたかと思うと、不意に耳に突き刺さるような大声を上げた。
「…………!? ちょっと、ミサト! どういうことよ!? 何よそいつは!」
広いとはいえない廊下に、耳をつんざくような甲高い声が響く。
腰まで流れる紅の髪に、純粋な美しさならばミサトをも凌駕するであろう顔立ち――年の頃はシンジと同じくらいだろうが、すでにして妖艶といっていい美貌である。
その視線が真っ直ぐに自分を射ていることに、シンジは気づいた。
焼け付くような憎悪と嫌悪、嫉妬と侮蔑がその青い両眼から噴き出している。
ほう、とシンジは感嘆の吐息をつきかけた。
悪くない。
率直にそう思った。
これほどまでに膨大な感情のエネルギーを、隠すことなく叩きつけてくる眼というものは、滅多にあるものではない。
ミサトの眼が派手なだけのネオンで飾り立てたガラス玉なら、この眼はドス黒い溶岩を噴き出す火口だ。
その顔ではなく、まさにこの眼に、明確な記憶があった。
惣流・アスカ・ラングレー。
人に褒められることが生き甲斐という、かつての彼にも共通した――今となっては忘却の彼方にある価値観を拠り所にした元同僚。
五年前のあの裁判では、もっとも熱意を込めた弾劾をしてくれた女だ。
演技力はミサトといい勝負だったが、彼に対する露骨な殺意と害意を隠そうともしないその口調に、感心したのを覚えている。
「ア、アスカ?」
「どういうことだって聞いてんのよ! 何でそんなクズが、のほほんとした顔でここにいるのよ!?」
「ちょ、ちょっと、落ち着いて、ね?」
「落ち着けるわけないでしょ!?」
金切り声とはまさにこのことだろう。
耳に突き刺さるという表現がこれほど当てはまるケースも珍しい。
ミサトはうろたえつつも、何かなだめるような言葉を二言三言、アスカにささやいている。
ふと周囲を見回すと、黒服の男たちも対応に困っているようだった。
今やエースパイロットとしての名を轟かせ、最重要VIPに名を連ねているセカンド・チルドレンの狂態に、無視することも出来ないがうかつになだめることも出来ない、そんな顔。
ご苦労な話だ――シンジは男たちの肩を叩いてやりたくなった。
「これは、れっきとした碇司令の命令なのよ。わかるでしょう?」
「だから何でなのよ! だいたい、そいつがさっさと死刑にならなかっただけでも、あたしには我慢ならなかったっていうのに……!」
「ア、アスカ、そんなことをいっちゃ駄目よ!」
「はん! そいつは世界を滅ぼしかけた、最低最悪のクズなのよ!? 死刑になって当然でしょうが!」
「そ、それはその……アスカ、あなたもシンジ君とは家族だったじゃないの。そんなことをいっちゃ……」
「うるさいうるさい! あたしはそんな奴と家族なんて上等なものになった覚えはないわよ!」
「い、いい加減にしなさい、アスカ! それ以上いったら怒るわよ! それに、繰り返すけどこれは碇司令の命令なの!」
「く……!!!!」
彼がしげしげと観察している中で、「使徒戦争の英雄」たる美女と美少女の会話は、意外に早く終息に向かっている。
ミサトは「総司令の命令」をさかんに言い立て、アスカの方はといえば納得できるはずもないが司令に逆らうこともできない様子で、この場は引き下がらざるを得ないと判断したようだ。
おやおや……? 似ていないかと思ったが、内面は存外似通っているみたいだな。
シンジは二人を眺めながら思った。綺麗事で武装しなければ気がすまないらしいミサトと、本音を隠そうとしないアスカ。
まるで逆のタイプかと思っていたが――表現の仕方が違うだけで、どうやら両者は同じ世界の住人だ。
世間一般でいうところの権威、しがらみというものが、よほど大事なものらしい。
アスカは歯軋りしながらミサトを睨み、次いで彼に睨むというのも生易しい眼光を向けた。
「はん! せいぜい束の間の自由を楽しめばいいわ! どうせあんたなんか、すぐにまた薄汚い牢獄に逆戻りよ! いいえ……さっさと死刑にでもなればいいのよ!」
「奇遇だね。僕もそれを願っていたんだが」
彼は正直に答えた。
先刻、ミサトに提案し、一言で退けられた公開処刑の想像図が、いささかの未練とともに脳裏に蘇ってくる。
「…………!? な……なんですって!?」
傷つけるつもりで口にした罵詈雑言が効果をなさないと、人は怯むか、さもなくばさらに激昂する。
このときのアスカは、まさにそのパターンを二つとも踏襲した。
一瞬、怯んだように仰け反り、次いでその事実に一層腹を立てた様子で頭に血を上らせたのである。
「あんた、人を馬鹿にしてるの!?」
「いや、別に」
それが相手の神経を逆撫ですることを承知の上で、シンジはすました顔で短く答える。
「っ……こ、この……っ!!!!」
まったく完全にシンジの予想通り、アスカはその髪の色が顔にまで写ったかのように真っ赤になる。
憤怒の余りとっさに言葉が出てこないらしいその表情に、シンジは心から感心しつつ、顔色の変化を楽しんでいた。
これだから、この女は楽しい――ミサトなどとは反応の手応えが違う。
悲劇の主人公の気分に浸ってしまうミサトに対し、アスカは猛然と食らいついて来る。
感情のベクトルが内に向かうか外に向かうかの違いといってもいい。
こちらのいうことをまるで聞かないという点では共通しているが、反応を楽しめるという点ではアスカの方が上だ。
火薬庫の側で火遊びをしているような気分が味わえる。
シンジは駄目押しとばかりに、暴発寸前の彼女に満面の笑顔を向けてやった。
別に嘲りや侮蔑を表したわけではない、本当にただの笑顔であったのだが――
「…………!」
アスカが爆発するには、それで十分だった。
意味をなさないわめき声、罵詈雑言よりもよほど直接的な憤怒と憎悪の表現が、廊下に響き渡る。
「……! ……………!! ………!!」
栄光のセカンド・チルドレンは、着衣のスカートがめくれるのにも構わず、猛然とシンジに掴みかかろうとした。
すかさず黒服の男たちが動いて、彼女を制止しようとするが、理性をなくした人間のがむしゃらな突進というものは、訓練を受けた人間でも容易に止められるものではない。
いや、止めるだけならいくらでもやりようはあるはずだが、傷つけず、しかも後々本人から不興を買わないように――となると、著しく手段が限定される。
何せ相手は名実ともにネルフ屈指のVIPであり、統合作戦本部長の同居人でもあるのだ。
その統合作戦本部長も、他人事ではないと見えて、アスカの制止に加わっていた。
赤毛のセカンド・チルドレンの右腕を取りながら、必死の表情で呼びかけている。
「ア、アスカ! 落ち着いて!」
――落ち着けといわれて落ち着いた人間が、有史上どれだけいることだろう。
シンジは完全に観客の気分で、獣のように暴れ回る元同僚と、それを押さえようとする元保護者、そして黒服たちの乱闘を見物していた。
見ると、黒服たちの幾人かは、すでに頬に青痣や引っかき傷ができていた。
これがただの暴徒が相手なら、さっさと殴るなり足を払うなりして組み伏せ、腕をねじって制圧しているところだろう。
それができず、ただただアスカのヒステリーが収まるまで耐え忍ばざるを得ないのが、彼らのつらいところだ。
――まったく、職務とはいえ気の毒に。まあ、種を蒔いたのは僕だがね。
思わず、くすっとした笑い声が喉から漏れる。
「…………!」
それがまた、目敏くアスカの逆鱗に触れたようだった。
どうやら、制止している人間など眼中にない一方、彼については一挙一動たりとも見逃さないらしい。
耳朶を打つわめき声が、さらにボリュームを上げる。
勢いを増した赤毛の少女の暴走に、それまでシンジの背後に控えていた残る黒服の男二名も、とうとう制止に加わった。
「落ち着いて、アスカ! お願いだから……!」
「そ、惣流二尉、どうかお気をたしかに!」
「くっ……もっと人手を呼べ!」
「は、はいっ!」
当人たちにとっては深刻極まることなのだろう――
しかし贔屓目に見ても、それは茶番以外の何物でもなかった。
たかが十七、八の小娘のヒステリーに、「人類の守護者」の栄誉を担う大の大人達が右往左往しているのだ。
……とはいえ。
――変化に乏しいな。いささか飽きが来る。
シンジは欠伸を噛み殺した。
有り余る感情のエネルギーを全身から発散するアスカと、それを必死の形相で制止するミサトとその部下一同という構図は、それはそれは観賞に値するものではあったが、初めから終わりまで構図に変化がないというのはいささか興を削ぐ。
もう少し、そう――アスカが黒服から拳銃を奪って乱射するとかすれば、面白くなるかも知れないのだが。
――…―――――……―――
そこまで思った時、ふと誰かに呼ばれたような気がして、シンジは周囲を見回した。
元同僚、元保護者、黒服の男たち、怯えたように遠巻きに見守るネルフの職員たち。
そういった、目に見える光景が急速に色褪せ、聴覚だけが研ぎ澄まされる。
――――…………―――――――……―――――
気のせい、ではない。
たしかに誰かが呼んでいた。
遠く高く。
近く低く。
くり返しくり返し、間を置いて。
何度も何度も、彼の名を呼んでいた。
―――…………―――……―――――………………――――
どこかで聞いた声で。
たしかに聞いた声で。
――そうか。これは……
シンジは微笑した。
懐かしさに顔が綻んだ。
――どこにいる?
――Here.I'm here.
――そうか。
彼はうなずいた。
まるで影のように滑らかにその場から歩き出した彼の動きに、誰も気づきはしなかった。
唯一、赤毛の少女だけは気づいたようだが、その言葉に誰も注意を払いはしない。
皆、彼女を制止するのに精一杯だったから。
それが彼にとっては幸いした。
無機質なスチールの廊下を、足音を立てることもなく彼は歩く。
悠然と散歩するかのような、ごく自然な歩調。
見る者が見れば、それが本当にただ歩いているだけなのに、常人が全力疾走しても追いつけるものではないことに気づいただろう。
いくつかの角を曲がる。
交差する十字路を直進する。
擦れ違う者たちは、彼が通り過ぎてから、怪訝そうな顔で振り返り、首をひねる。
今自分の横を通り過ぎたのは何者か、いやそもそもそんな者が存在したのか、そんなことを訝しむように。
やがて目の前に大きな扉が現れた。
見上げるように大きな、そして頑丈な扉だ。右脇にIDカードを通すための端末がついている。
彼はごく自然な動作で扉に手を伸ばす。
その手が扉に触れるか触れないか――というところで、やや唐突な感じで扉が左右にスライドした。
開いた扉の向こう側から、資料の束を抱えた女性職員が出て来る。
どうやらいいタイミングで開けてくれたらしい。
「どうも」
彼は微笑を浮かべて、その女性職員の肩をぽんと叩き、扉の向こう側に滑り込んだ。
――懐かしい、紫の鬼神がそこにいた。
……to be continued
下らないいくつもの再会。心弾むたった一つの再会。
怒り恐れる人間たち。猛り狂う紫の鬼神。
愚者のエゴの行き着く果て。静寂を壊す惨劇の後。
終末の鐘は、鳴り響く。
――Next
Chapter : I,said he.