Who killed Cock Robin?
誰が駒鳥 殺したの?
I,said the Sparrow,
それは私 雀がいった
With my bow and arrow,
私の弓と私の矢で
I killed Cock Robin.
私が駒鳥 殺したの

 

 縦横無尽に暴れ回る巨人の肩に乗り、彼は謡い続ける。
 絶えず続く破壊の旋律に乗って、深く静かに響き渡る。
 彼の耳には聞こえる。
 赤子のように無垢な巨人が、人の耳には届かぬ声で自分に唱和しているのを。
 それを感じ取る度、彼は嬉しくなって笑う。
 巨人の拳が、重厚な壁面を叩き潰し、機器の塊を踏み潰す。
 逃げ遅れた作業員を踏み潰し、破裂した水風船のように鮮血を撒き散らす。
 彼には理解できる。
 巨人がただ破壊しているのではなく、自分たちの紡ぐメロディに合わせて踊っているのを。
 それを見る度、彼は愉しくなって笑う。
 歌声と共に笑い声は響き渡り、破壊の旋律と共に地下の世界を震わせた。
 それは美しくも厳粛で、凄惨にして禍禍しい、幻想のような悪夢。

 ――2019年八月十日。この日、守護者の王城は破滅の悪夢を知った。

 

 

――その歌声と笑い声は、彼女にも届いた。
本来なら届くはずもないその声が、しかし彼女の耳にははっきりと聞こえた。
生命のスープに満たされた水槽の中で、彼女は目を開く。

「碇君……」

彼女は呟いた。
彼がすぐ側にいる。
彼が笑っている。
彼が喜んでいる。
その楽しそうな声が、魂の伝える躍動が、彼女には心地良い。

――笑えば、いいと思うよ――
――…………――

――案外、主婦とか似合ってたりして――
――な、何をいうのよ――

――ごめん。勝手に片付けたよ。ゴミ以外は触ってないから――
――あ…ありがとう……――

――ありがとう……感謝の言葉……初めての言葉……あの人にも言ったことなかったのに………――

過去の記憶が次々と彼女の脳裏に甦る。
記憶の中で、彼は笑っていた。
その笑顔を彼女は見たいと思った。
何度も何度も見たいと思った。
作り物である自分の命に意味があるとするならば、彼を守ることだと思った。
封印の氷が溶け、思いが溢れた。
鈍い音を立てて、水槽のガラスが砕け散る。
床に生命のスープが流れ出た。
異変を察知して、音高く警報が鳴り響く。
彼女はまるで体重がないかのようにゆっくりと、すぅ……と床に降り立った。
ぴちゃん、と床に流れ出たLCLが音を立てる。
何十枚かの壁を隔てたどこかで、何かが崩れ落ちるような音が聞こえた。
わずかに床が鳴動し、LCLの水溜りにさざ波が立つ。
彼女は小揺るぎもせず、音のした方向を見つめた。
彼がそこにいることを、彼女は正しく理解していた。

かつて彼に教えられた表情が――喜び、嬉しさを表す微笑が、我知らず浮かんだ。




























 

Who killed Cock Robin?

Chapter 5 : war time

七瀬由秋

 

 

 

 










 

 


 ネルフ総本部・地下ブロックには、要所要所に人が通るには明らかに巨大すぎる通路が巡らされている。
 地上最強の超機密兵器たるエヴァンゲリオン、その実験と運用を行うための空間であり、通路である。
 他者からは完全に隔離されたこの施設、言いかえればエヴァンゲリオンの機密を完全に隠し通せるこの施設をごく短期間――着工からわずか一年半で施設を作り上げるために、ネルフは相当に強引な手段を使ったともいう。
 エヴァンゲリオンを独占保持するための理想的建築物――
 それは、裏を返せば、エヴァンゲリオンが暴れ回るのにもっとも適した空間でもあった。
 その利点を、エヴァ初号機は、今まさに満喫していた。
 周囲の壁面に思うが侭に拳を叩きつけ、機材を踏み潰す。
 この地下ブロックは、エヴァの暴走にも備えて、それ相応の強度設計が成されている。
 しかし、己の自我に覚醒した初号機の前では、すべてが無駄な計算と化していた。
 ダミーで稼動する量産型エヴァシリーズなどとは、破壊力の桁が違う。
 それはある意味で、凄惨でありながら微笑ましい光景だった。
 少なくともシンジにとってはそうだった。
 自我に目覚めたばかりの初号機、碇ユイという重りを外された初号機にとって、自らの意思で存分に体を動かすことなど皆無だったのだ。
 その枷が解かれ、自己の肉体を自己のものとして認識した初号機は、動くこと自体を楽しんでいた。

 ――存分に動き、暴れるといい。君にはその権利がある。

 彼は笑ってそう囁く。

 ――下らぬ人の都合など踏み潰してしまえ。君はもう、自由だ。

 地上最強の生命体として生み出されながら、長くヒトの枷につながれていた初号機だ。
 自由を満喫するのに横槍を入れる、どんな理由があるというのか。

 

――Yes sir,my master!

 

 初号機が嬉しそうに吼える。
 自らの自我を起こしてくれた少年、自らの存在に初めて気づいてくれた少年に対する絶対的な忠誠と信頼を込めて。
  かん、と、耳障りな金属音が至近に響く。
 初号機の装甲に何かが当たった音だ。
 破壊された瓦礫がぶつかったのか――
 そう思ったシンジは、直後に真実を悟った。
 右斜め下の後方からの十数発の銃弾が、彼の肉体に着弾したのだ。
 外れ弾もあったとはいえ、初号機の肩に乗っている彼に、ほぼ正確に銃弾を集中させたのだ。なかなかの手腕といえよう。
 感心しながら首をめぐらす。
 巨大な通路の一角、作業員用――人間用の入り口から、十数人の兵士が銃の狙点を定めていた。
 総本部所属の保安部か警備部の兵士だろう。
 彼は我知らず笑みを漏らした。
 ――ちょうどいい。
 そう思った。

「――しばらく、任すよ。僕は少し、腹ごしらえをしてくる」

 

――Yes,master.To your heart's content.

 

 初号機から幾分残念そうな、しかし従順な答えが返ってくる。
 それに微笑を返して、彼は躊躇いもなく巨人の肩から飛び降りた。

 

 

 地上十数メートルの高さから、ごく当たり前のように落下してきた彼を、兵士たちは呆然として見つめていた。
 無理もない、常人なら両足の骨折ですめば幸運と思えるような高さである。

「……気の毒に、ね」

 その表情を見ながら、彼は独語する。
 彼自身に対する予備知識もなしに戦いを挑んできた者たちへの、形式的な憐憫を込めて。
 敬愛すべき父君が差し向けたのだろうか、それとも自主的に反乱分子を始末しに来たのか。
 どっちにせよ、彼がやることはすでに決まっていた。

「さてさて。すいませんが――」

 いいながら、踏み込む。
 プロの兵士でも反応できないほどの驚異的な速度。
 そして、振るわれた腕が、先頭にいた兵士の首を叩き潰す。

「――肉の一片までも、殺し尽くさせてもらいます」

 語尾に、ヒステリックな悲鳴と銃声が重なった。

 

 

 同時刻、松代市中央市街――
 ネルフ総本部ビルを遠くに見上げる商店街で、洞木ヒカリはふと振動を感じて立ち止まった。

「ん……?」
「何やイインチョ、どないしたんや?」

 一緒に下校していた片足が義足の少年――鈴原トウジが尋ねる。

「うん。地震、しなかった?」

 小首を傾げてヒカリは答えた。

「ほうか? 気づかんかったけどなぁ」

 と、今度はトウジの方が首を傾げる。

「いや、たしかに揺れたよ。でも……、何か地震っていうより、地下で工事でもしてるような感じだったな」

 そういったのは、やはり一緒に下校していた眼鏡の少年――相田ケンスケである。
 かつて第参新東京の市立第壱中学で、同じ二年A組に属していた三人は、親の転勤――彼らの親はすべて、ネルフの職員だった――に伴い、ここ松代市に揃って引っ越してきていた。
 現在は三人とも市立第二松代高校に通い、当然のように同じクラスになっている。
 腐れ縁もここに極まれり――と、三人は互いに笑いあったものだったが、むろんこれには裏がある。
 これは彼らの知らぬことではあったが、チルドレン候補であった二年A組の生徒は全員が全員、松代に転居させられているのである。
 さすがに、進学してまでずっと同じメンツのクラスというのは、傍から見ても不自然だったので、他の高校に進学した者もいるし、高校は同じでも違うクラスになった者もいる。
 それぞれに監視がつけられるようなこともなかったが、親には転居や転校が制限される旨、密かに通知されていた。

「これはもしかして……いや、まさかな」
「何やケンスケ。心当たりでもあるんかい」

 顎に手を当てて考え込んだ級友に、トウジは尋ねた。
 ケンスケは険しい顔で、

「……ネルフ総本部ビルに、秘密の地下ブロックがあるらしいって話は前にしたろ?」
「ああ、あれかいな。ホンマか嘘かはわからんけど」

 茶化すようなトウジの台詞に、ケンスケは応じなかった。

「これはあくまでネットで聞いた噂だぜ。パパのデータをハッキングしても確認は取れなかった。ただ、一部のネルフ関係者の間で囁かれてるらしいんだけど――」
「だから何やっちゅーねん」
「その――エヴァ初号機が密かに回収されて、総本部ビルの秘密の地下ブロックに運ばれたって」
「「…………!?」」

 とっさにトウジとヒカリは声を失った。
 数瞬の沈黙の後、トウジは思わず尋ねた。

「エヴァ初号機って……あれか!? シンジが乗っとった奴か!?」
「しっ! 声がでかい!」

 慌ててケンスケがたしなめる。

「だから噂なんだって! でもさ、ちょっと前、第参新東京市に隕石が落ちたって一時期えらく話題になったのに、今じゃ全然聞かなくなったろ? あれが実は隕石じゃなくてエヴァ初号機で、それを知ったネルフが真相をもみ消したんだって、そんな風にいわれてるんだ。まあ、場所が場所だからそんな噂が出ただけのことかも知れないけど……」

 ケンスケは歯切れ悪く説明した。

「……もし、もしもだぜ? 本当だったとしたら、この地震、総本部ビルの地下で何か実験してるせいなのかも……その、初号機を使って、さ……」
「か、考えすぎじゃないの? ただの地震でそこまで考えるなんて、大袈裟よ」

 ヒカリが笑っていう。しかし、その笑みはどこか引きつっていた。

「そ、そうだよな。変なこといったよ。忘れてくれ」

 ケンスケも、同様の表情でいった。
 トウジはしかし、複雑な表情のまま何もいわない。
 ――三年前、それぞれの疎開先でサード・インパクトを生き延び、その後のマスコミ報道を見た三人は、それぞれに仰天した。
 にわかに信じられることではなかった。
 碇シンジ――彼らのクラスメイトだったあの少年が、サード・インパクトを引き起こすために彼らを騙し続けていたなどと。
 松代で再会したときも、いの一番に彼らはそのことについて何度も話し合った。
 同じく幸運にも再会できた何人かの元クラスメイトたちとも確認しあった。
 結論は一致していた――そんなことがあるはずはない。
 碇シンジという少年は、スパイなどという芸当ができる少年はなかった。
 もし、あの大人しい、気弱そうな性格が演技だったとしたら、彼は異常という他はない天才的な詐欺師だ。
 直接に彼を知るほとんどの者がそう言った。
 かつてシンジとともに、三馬鹿トリオと呼ばれたトウジやケンスケは、確信をもって断言した。
 これは何かの間違いだ、と。
 恐怖を打ち消すための叫びをあげて初号機を操る彼の姿を、使徒を倒して泣き伏すその顔を、彼らはその目で見ていた。
 だいたい、もし仮にスパイだったとしたら、二度にわたってシンジがパイロットを辞めようとしたことの説明がつかない。
 では何故、このような報道が行われているか、誰がシンジを「史上最悪の虐殺者」として訴えたのか、という話題になると、誰も答えを出せなかった。
 一度だけ、ケンスケがいったことがある――
 あいつをはめたのは、ネルフなんじゃないか、と。
 もっともシンジを罪人に仕立て易く、かつ彼が裁かれて最大の利益を得た者となれば、他にいない。
 だが、それを大きな声で主張することはできなかった。
 その頃には、ネルフは世界各地でサード・インパクト後の動乱鎮圧に乗り出し、その成果をもって「人類の守護者」の地位と名声を固めていた。
 マスコミだけでなく、周囲の誰も彼もがネルフを賛美していた。
 推論を聞いたヒカリは呆然し、トウジは激怒したが、当のケンスケがそれを制止した。
 今のネルフに逆らうことは、最大級の危険を意味する。
 いや、たかが子供の主張にいちいちむきになるほどネルフも暇ではないだろうが、同時に相手にされるはずもなく、何より周囲から白眼視されるのは目に見えていた。
 ヒカリは、かつての親友であるアスカに確認を取りたかったが、時の人となったセカンド・チルドレンは世界各地を飛び回っており、連絡先を知ることすらできなかった。
 何よりヒカリ自身、確認するのが恐かった。
 かつての親友が、シンジに冤罪を着せるのに加担したなどと、冗談でも思いたくはない。
 トウジやケンスケにしても、憬れの対象であったミサトとの想い出に傷を付けることはためらわれた。
 さいわい、といっていいものかどうか――
 ドイツで大学を卒業していたアスカは高校に進学せず、統合作戦本部長となったミサトは手の届かぬVIPとなり、ヒカリたちとは自然と疎遠になって、以後これまで会うこともなかった。
 ……だが、結論の出ない疑念は、自己に対する一種の後ろめたさとなって、三人の胸の奥にわだかまり続けていたのである。

「……シンジ、どないしてるんやろな……」

 左の義足――三年前、ネルフの「好意」とやらで与えられたその義足を無意識にさすりながら、トウジは静かに呟いた。

 

 

 鮮血に全身を染めながら、彼は薄暗い通路を歩く。
 まだ始まったばかり。これでは全然足りない。
 何枚かの壁面を隔てた遠くから、彼の戦友が暴れ回る音が響いてくる。
 彼女は彼女で、この状況を満喫しているらしい。

「さて――」

 このままあてもなく歩き回り、敵を探すのも一興。
 しかし、それではあまりに芸がない。
 彼は首を巡らせて、通路を見渡した。

 その視線が、通路の一角に取りつけられたシャッターと、その横に設置された内部回線に留まる。

「――――」

 彼は顎に手を当てて何事か考えると、やがてくすっと微笑を漏らして、内部回線に手を伸ばした――

 

 

 同時刻、松代第二市民病院――
 赤木リツコは朝から碇ユイの診察に当たっていた。
 これは別にこの日に限ったことではなく、リツコはユイが保護されて間もなくその主治医に任じられ、総本部への出勤すら免除されて、連日この病院に勤務していたのである。
 リツコをユイの主治医とすることには、冬月はあまりよい顔をしなかった。
 苦労性の副司令としては、このゲンドウの元愛人が自暴自棄になって、帰還した正妻に危害を加えるのではないかと危惧せざるを得なかったのだろう。
 とはいえ、数々の機密に通じ、エヴァをはじめとするオーヴァー・テクノロジーに明るく、さらに医師としての知識も十分な者など、他にいようはずもなく、慎重な冬月も結局は了承せざるを得なかった。
 当のゲンドウはというと、冬月よりははるかに思い切りがよく、リツコを主治医とすることに表面的には何ら不安を表さなかった。
 かつての愛人が、そのプライドゆえにそういう意味での未練がましさとは無縁であることを、ゲンドウは見抜いていたのである。
 かくしてリツコはユイの主治医として、畑違いの医者業に足を突っ込むこととなったのだが、実のところそれは大して神経を使う仕事ではなかった。
 十数年もエヴァに取り込まれていたという事実からは信じられないほどユイは健康体で、遺伝子的にも何ら欠損は認められなかったのである。
 医師どころかオーヴァー・テクノロジー研究者としてすら、腕を振るうべきところが見出せないのだ。
 苦行は、むしろ精神的な面にあった。
 気まずくて顔をあわせづらい、ということではない。
 嫉妬を抱いてしまう、ということですらない。
 リツコにはただただ、碇ユイという女の性格と言動が堪え難かった。
 この病人らしからぬ健康者は、ずっとベッドに寝ているのに飽きたのか、大して仕事のない主治医と会話することを唯一の楽しみとしているらしいのだが――
 その会話の内容が、リツコを心から辟易させた。

 ――私ね、ずっと昔から夢見ていたことがあるのよ。夫と息子、三人で静かな田舎に暮らして、犬か猫を飼うの。やっぱり陳腐かしら、こんな夢?

 ――シンジ、大きくなったんでしょうね……会えるのが待ち遠しいわ。そのときは、たっぷり甘えさせてあげなくちゃ。

 ――ゲンドウさんとシンジ、私がいない間、仲良くやってたかしら? ああでも、きっと大丈夫だったでしょうね。私の愛した人と、その子供ですもの。

 ――ゲンドウさんは、シンジが生まれたときもとても喜んでくれて……「シンジ」って名前も、ゲンドウさんが考えてくれたのよ。

 会話の内容をざっと列挙すればこのような次第で、学会の一部では伝説的な天才として知られる碇ユイ博士の脳裏には、至近の未来に迫っているであろう薔薇色の未来――夫と息子との理想的な家庭をどう満喫するか、そのことしか詰まっていないようだった。
 事情を知らないとはいえ何と気楽な、と、リツコは内心で歯噛みしたものである。
 彼女がいない間に何があり、彼女の夫が息子をどう遇し、その息子が今どこでどうしているか、発作的に暴露してやりたくなったのも一度や二度ではない。
 かろうじてそれを堪えられたのは、理性よりも暗い期待の賜物だった。
 最悪の事実は、それにふさわしいタイミングで暴露されて欲しい。
 そしてそのときは、是非ともその場に居合わせ、目の前の女の表情を観察して見たい。
 それがリツコの唯一の、そして最大の望みだった。
 リツコにとってはまったくもって迷惑なことに、ユイはリツコをいたく気に入り、片時も側から離そうとしなかった。
 他にやることもないのはお互いさまなので、リツコとしても断わる口実を見出せず、クランケの要望に応じざるを得なかったのだが、それにしてもユイの話好きはいささか常軌を逸していた。
 いや、話好きというよりも――それは強迫観念というべきだったかも知れない。
 ユイは朝目が覚めるとまず真っ先にナースコールを鳴らし、看護婦を呼びつける。
 相手はネルフ総司令の妻であるからして、当然の如く看護婦は飛んでくるわけだが、そこで待っているのは「暇だし、お話しない?」というお言葉なのだ。
 看護婦が多忙を理由に席を立とうとすると、さんざん引き止めて粘った後、最後には「それなら代わりの話し相手を」という。
 この場合の「代わりの話し相手」がつまりリツコで、最近では病院の婦長から「いっそのこと病院で寝泊りしてあのクランケの相手をしてあげて欲しい」と懇願される有様だった。
 懇願された方が見事なまでの渋面となったのは当然の結果ではあったが、それにしても、懇願の根底にある現実がリツコの首を傾げさせた。
 碇ユイは孤独を嫌っている――それも、尋常でなく。
 対人恐怖症ならぬ孤独恐怖症というべきだろうが、後遺症としてはあまりにささやかで奇妙すぎる。
 もとから親しみやすくて人懐っこい性格だと聞いてはいたが、それにしても今のユイの在り様はその限度を超えていた。
 その疑問は、ユイが毎晩、部屋の電気をつけっ放しのまま寝ているらしいという話を聞いたとき、いや増した。
 看護婦から詳しい話を聞いて見ると、周囲が暗闇になると真っ青になってガタガタと震え、ひどいときには悲鳴をあげるという。
 ついでにいうと、静寂も好きではないらしく、テレビをつけっ放しで寝ることも少なくないという。
 ここまでくると、精神病の一種というより、幼児退行というべきではないか、という気もリツコにはするのだった。
 ユイの症状(?)は控えめに見ても、寂しがり屋で恐がりの子供と大差がなかった。
 同じ疑問は、かなり早い段階で病院側も抱いたらしく、精神科医によるカウンセリングの記録が残っていた。
 それによれば、何故暗闇が恐いのか、静寂が恐いのか、と尋ねられて、ユイはこう答えたという。

 

――恐い夢を見るんです。
――夢の中で、私は夜道を何処までも歩いているんです。
――空には星が見えるのだけど、その明かりはあまりに暗くて、足下すら見えません。音すらも何も聞こえませんでした。
――私は誰かいないか、と叫ぶんですが、その声すら聞こえません。私の声が出ないとかいうのではなくて、たしかに叫んでいるのに、その自分の声すら私の耳には響かないんです。
――恐くて寂しくて、私は足を速めます。
――けれど、進んでも進んでも、周りの世界は変わりません。
――気が遠くなるまで歩いても。ずっとずっと。ずっとずっと。
――歩きながら私は思うんです。そもそもどうして私は歩いているのかって。どうしてこんなところにいるんだろうって。
――でも、思い出せないんです。
――歩き始めたときは、何か希望とか願いとか、そんなものを抱いていたのをぼんやりと覚えているのに。その内容は思い出せないんです。
――私は帰りたい、誰かに会いたいと狂おしいほどに思いました。
――でも、相変わらず周囲は真っ暗で、何も見えないし、何も聞こえないんです。
――気が狂うほど望んでも、それは変わらないんです。
――いつしか私は足を止めて、ただ元いた場所に戻りたい、誰かに会いたいと、それだけを延々考え続けるんです……

 

 ……この記録を見た時点で、リツコには事の真相が粗方見当がついていた。
 これは、碇ユイがエヴァに溶けていた頃の記憶だ。
 それもおそらくは三年前、初号機が宇宙に飛び立って以降の記憶だろう。
 行けども行けども果てのない旅路、音も光もない真空の記憶がトラウマとなって、極度に孤独と闇と静寂を恐れるようになった訳だ。
 いやそもそも、初号機が突如第参新東京に帰還したのも、コアに溶けていたユイがそれを望んだ結果なのかも知れない。
 具体的にどういう原理なのかは想像する以外にないが……
 それにしても、笑い話もいいところだった。
 今から十数年前、人類を救い子供たちに明るい未来を残すという気高い理想の下、自らの身を神の紛い物へ捧げた女のなれの果てが、明かりなしでは夜も眠れず、誰かが側にいないと落ち着くこともできない重度の強迫観念だとは。
 ユイがエヴァを作ったそもそもの理由の一つが、「人が生きた証をこの世界に残す」ことにあったという話を、リツコは以前、冬月から聞いたことがあった。
 おそらく、初号機が天空の彼方へ飛び去ったのも、その理想に拠るものだったのだろう。
 気高い理想は絶対の孤独という現実の前に砕け散り、逃げ帰った女には相応の代償が与えられたわけだ。
 まったく、理想とはかなえられないからこそ気高いものらしい。
 リツコは一人、失笑したものだった。

 

 

 かくしてこの日も、朝からユイはリツコを相手に夢を語っていた。
 リツコは適当に相槌を打ちながら右から左へと聞き流しているのだが、どうもそれがユイには「聞き上手」として解釈されるらしく、天才学者の夢物語は留まることなく広がっていく。
 最初の頃はそれでも具体的な将来のビジョンらしきものを語っていたのだが、最近では息子が結婚するときはキリスト教式で式をあげさせたいだの、孫が出来たらどうしようだのと、おめでたいとしか評しようのない妄想ばかりが花を開かせ、リツコの疲労を加速度的に増大させていた。
 これが本当に「あの」碇ユイなのか、と疑うことも一切ではなかったが、ほんの時折リツコが振る科学技術方面の話題では、ユイは驚くほど鋭利かつ斬新な分析と洞察を見せた。
 十数年のブランクをまったく感じさせずに最先端の学説についてくる、いや、それどころかそこからさらに新たな仮説と結論を見出すその知性は、さすがのリツコをも驚嘆させ、それがこの無為な任務におけるささやかな慰撫となっていた。
 とはいえ、大部分がろくでもない夢物語に費やされているのも事実であったので、リツコはその日の夕刻、看護婦の一人が、

「赤木博士、ネルフから連絡が入っておられます」

 と呼びに来たとき、心から安堵し歓喜した。
 しきりに引き止めるユイに「仕事ですので」とつれない返事を残し、ナースセンターへ行く。
 ――まったく、何の用かしらね。ユイ博士とシンジ君の面談のセッティングでもさせようというのかしら?
 このときのリツコの認識は、まだこのていどのものだった。
 シンジが連れ戻されてくるのが今日であることを彼女はむろん承知していたが、だからといってすぐさまどうにかなるとは、少なくともこの時点では考えていなかったのである。
 だが、その認識は、人払いをしたナースセンターで、電話の受話器を取った次の瞬間に改められた。

『赤木博士、すぐ総本部へお戻り下さい! 緊急事態です!』

 受話器の向こうで、統合作戦本部の情報参謀を務める日向マコト一尉はほとんど絶叫していた。
 理性を失う寸前にあるその大声に、リツコは思わず眉をしかめ、

「落ち着いて状況を報告なさい。緊急事態って何があったの?」

 相手と対照的な冷ややかな声でたしなめる。
 しかし日向は、それでも落ち着きを取り戻すことなく、狼狽も露な早口で語を継いだ。

『…………! ………………!』

 リツコは再び、また別の意味で眉をしかめる。

「……何ですって? もう一回、いってもらえる?」
『ですから!』

 日向の声は、悲鳴に転じる一歩手前にあった。

『シンジ君が……シンジ君が、初号機を使って反乱を起こしました! すでに保安部及び警備部に死者多数……本部地下施設も多大なダメージを被っています!』

 リツコは呆然とした。

 

 

 屋上のヘリポートに出ると、既にヘリがローターを回しつつ待っていた。
 ヘリの中に控えていたネルフ警備部所属の士官が、リツコの姿を認めて即座にドアを開ける。

「お急ぎ下さい、赤木博士」
「わかってるわ。それよりも状況を聞かせて」

 ヘリの座席に滑り込みながらリツコは尋ねる。
 警備部員は、無表情な中に困惑と焦燥をにじませつつ頭を振った。

「申し訳ありません、小官も詳しいことを存じ上げていないのです」

 この保安部員とヘリは、病院付近の基地から命令を受けて迎えに来ただけで、詳しい情報を欲しているのはリツコと変わらないようであった。

「離陸します!」

 ヘリのパイロットが大声でいう。
 このパイロットは戦略自衛隊から三年前に転属してきたプロの軍人だが、その彼にしてもかなり焦っているようだった。

「何とか本部と連絡は取れないの?」

 警備部員とパイロット、双方に向けてリツコは尋ねたが、二人は揃って頭を振った。

「我々も何度も試してみたのですが、どういうわけか通信がつながらなくて……通常の電話回線だけはどうにか無事なのですが、それでは迂闊なことは話せませんし……」
「MAGIの通信システムに異常が出ているようです。本部からは『とにかく赤木博士を連れて戻れ』の一点張りなんです」

 途方に暮れた様子で二人は答える。
 そういえば――と、リツコは先刻の日向の連絡を思い出した。
 松代第二病院は、ネルフの強い影響下、もっといえば傘下にある病院だ。
 その一角にはネルフ職員専用の控え室が設けられ、盗聴防止のシステムを備えた秘匿回線もその部屋には引かれている。
 それを使わず、ナースセンターの電話にかけてきたことが、そもそも奇妙だったといえる――だからこそ、リツコは当初その連絡を重大なものとは思わなかったのだが。
 今から思えば、盗聴の恐れのある通常回線でシンジと初号機の名を出したこと自体も、とてつもない危険を冒す行為だったのだ。
 二重の意味で焦っていた日向が、早口で説明を切り上げたのもうなずける。

「わかったわ、急ぎましょう」
「はっ!」

 うなずいて、パイロットは操縦桿を握る手に力を込めた。
 松代第二病院はネルフ総本部ビルに程近い。
 歩いても十五分かかるかかからないかという距離だ。
 まして、ネルフ自慢のジェットヘリを使用しているのだから、リツコが急かすまでもなく、ほんの一、二分後にはヘリは総本部ビルの屋上へリポートに着陸を果たしていた。
 出迎えの職員の姿はない。
 そのこと自体が事の緊急なることを物語っていた。
 本来なら、ネルフ籍のヘリであれ何であれ、その着陸には不審人物の侵入を防ぐ意味でも複数の警備部ないしは保安部員が着陸に立ち会う規則になっているのだ。
 着陸するや、警備部員が手早くヘリの扉を開け、床に降り立った。
 一歩遅れてリツコも降り立ち、パイロットもヘリのキーを差したままそれに続く。
 戦自出身のこのパイロットは、ネルフでは保安部の所属だ。緊急時ゆえ、リツコの警護を買って出るつもりらしい。
 二人に左右を囲まれながら、リツコは地下ブロック直通の高級士官専用エレベーターに急いだ。
 多少心配していたのだが、エレベーターは問題なく作動した。
 しかし、地下に降りる最中、幾度か建物自体が揺れる感覚を、リツコは感じていた。
 現代建築学の粋を凝らした耐震構造を誇るネルフ総本部ビルが揺れているのだ――
 その一事だけでも、警備部員と保安部員、二人の焦燥を加速するには十分すぎた。

「只今総本部に到着し、発令所に向かっています。そちらの状況を知らせたし!」

 エレベーター内の回線を使って、警備部員が連絡を取っている。
 リツコも耳をすませたが、返答は彼女たちの期待を裏切った。

『発令所に直行されたし! これ以上の通話は許可できない!』

 通話の相手はそれだけいって、回線を切ってしまったのである。
 失望も露に警備部員は受話器を叩きつける。
 足踏みを堪える様子で階数表示のデジタルを睨みつける二人をよそに、リツコは一人冷静だった。
 今の時点では、とにかく地下の発令所へ赴く以外に自分にやることはない、とリツコは達観している。
 どんな手を打つにせよ、すべてはそれからのことだった。
 やがて、ぴん、と音を立ててエレベーターが停止する。地下三十階についたのだ。
 待ちかねたように男二人が廊下に飛び出る。
 リツコも早足でそれに続いた。
 廊下は静まり返っていた。
 最悪、死体が方々に転がっている光景も予想していたのだが、それもない。
 ただ、波を打ったような静寂がそこにあった。
 ――いや、厳密には静寂というのは適当ではない。
 ほぼ十数秒間隔で、どこかで何かが崩壊する震動と鳴動が感じられた。
 ちょっとしたシェルター並の強度で設計されている総本部の地下ブロックを、何かが壊しているのだ。

「い、急ぎましょう!」

 警備部員が叫ぶようにいい、早足で先導する。
 地下ブロックの構造は複雑に入り組んでいる。
 三年前、第参新東京の旧ネルフ本部が戦自の襲撃を受けた際、なす術なく各所が占拠されていった反省から、意図的に回り道を強要する設計がなされているのだ。
 壁も床も、歩兵装備のロケット砲ではそうそう破れない強化コンクリートとセラミックの複合建築である。
 一歩間違えればこの非常時に迷子になりかねないところだが、さすがにその総本部ビル全体の警備が本職である警備部員はしごく正確に地下ブロックの構造を把握していた。
 迷いのない足取りでいくつかの角を曲がり、十字路を直進する。
 いくつめかの角を曲がったとき、その足がふと止まった。

「どうした?」

 リツコの後ろを警護しながらついてきていた保安部員が問い掛ける。
 先導役の警備部員は無言で目を見開いていた。
 追いついたリツコは、その肩越しに半ば予想していたものを見た――
 廊下の一面に飛び散った流血の跡だった。

 

 

 床のみならず、壁、そして天井にまでべっとりとはりついたそれらは、まだ乾いていなかった。
 天井から滴り落ちる真紅の雫が、奇妙に澄んだ音を立てている。
 不可解なことに、死体はなかった。
 拳銃や機関銃などの武器はそこかしこに打ち捨てられている。
 にも関わらず、それらを使っていたはずの人間、血を流したはずの人間がいなかった。

「う……」

 むせるような血の匂いに、警備部員が口許を押さえる。
 基本的に施設の警備や幹部の護衛を担当する警備部員は、職能的に軍人というよりも警官に近い。
 初めて目の当たりにする惨劇の場に吐き気をもよおしたのだろう。
 もし死体が転がっていれば、本当に吐いていたかも知れなかった。

「これは……別のルートをたどった方がいいのでは?」

 語りかける保安部員の方は、まだ平静さを保っていた。さすがに戦自出身だけあり、肝が据わっている。

「そうね……」

 リツコもまた、平静さを維持していた。幸か不幸か、このていどの血の匂いなどLCLで嗅ぎ慣れている。
 もっとも、死体が転がっていたとて、大して衝撃を受けたとは、自分でも思わない。
 エヴァンゲリオン、ダミープラグと、非合法な実験の数々に従事しているうち、彼女の感性は生命や死というものに関して疼きを覚えることを止めていた。
 どうしようもなく歪んでいると自覚してはいるが、後悔したり矯正したりする気にもなれない。
 それこそが、自分が歪んでいるどころか芯から腐っていることの証左だとわかってはいたが。

「……いえ、直進しましょう。これをなしたのが誰であれ、まだそこらをうろついているのは間違いないでしょうし。――どのルートでも遭遇の可能性はあるわ。だったら、発令所への最短ルートを通った方がまだましでしょう」

 リツコはわずかに考えて首を振った。
 保安部員はしばし無言で彼女の顔を見つめた後、その正しさを認めてうなずいた。
 どうにか吐き気を堪えたらしい警備部員も、蒼ざめた顔でそれに倣う。
 床一面に広がった血の池を踏みしめつつ、可能な限りの早足で三人は歩を進め――ようとした。
 流血の廊下を進み、突き当りのT字路を右に曲がろうとしたところで、その足は止まった。
 天井から滴り落ちる血の音は、相変わらず静寂の中に響いている。
 そこに、ぐちゅ、ぐちゅ、という、熟れた果実にかぶりつくような音が加わっていた。
 微かに衣擦れの音もする。
 角の向こうに、何者かが……あるいは何物かがいるのは間違いなかった。
 やはり引き返すべきだったか――リツコは自分の判断があまりに早く崩れたことに後悔したが、今更どうしようもない。

「……赤木博士、下がって下さい」
「……我々が先行します」

 護衛二人が囁くようにいいつつ、懐から拳銃を抜き放った。
 警備部員の顔も、今では落ち着きを取り戻している。さすがにプロだけあって、非常時にあっての心構えはなかなかのものだ。
 壁に張り付き、すり足でそろそろと慎重に歩を進める。

「…………」
「…………」

 限界まですり足で進み、互いにうなずき合う。
 一気にT字路の交点に踊り出、銃を構えた俊敏な動きは、さすがに警備部と保安部で訓練された者のそれだった。
 だが、訓練された動きも、プロの落ち着きも、そこまでだった。
 膝立ちで拳銃を構えた保安部員も、壁に背中をはりつけつつ半身で拳銃を構えた警備部員も、次の瞬間大きく目を見開いて硬直した。
 何があったのか――リツコは好奇心に勝てず、二人の背後に進み出た。

 ――薄暗い照明の中、影よりもなお暗い闇がそこにいた。

 ネルフ職員の制服を着た死体の傍らに、壁にもたれかかるようにして座って。
 ボロボロの衣服は朱に濡れ。
 長く伸びた髪は蛍光灯の光をどこか生々しく反射する。
「彼」は突然の闖入者を静かな目で見上げつつ。
 ぐちゅ、ぐちゅと、柘榴のようなものを齧っていた。
 リツコにはそれが何かわかった。
 実際に見たのは数えるほどだが、何故かすぐにわかった。

 あれは――人の心臓だ。

 

 

……to be continued

 

 

 

 

 


切り捨てた者。切り捨てられた者。
完成された自我。完全なる個体。
紫煙の香る闇。
冷ややかな知性と、狂気にあらざる狂気。
そして、束の間の静けさ。
――Next Chapter : a thousand seconds

 


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