それは異形であり畸形であった。
 それは異様であり異常であった。
 しかしそれは、呆れるほど素っ気無くそこに存在していて、ただそれだけのことであるといわんばかりに平然としていた。
 蠢く闇。
 人の形をした怪物。
 いかなる伝説に現れるそれよりも凶々しく、いかなる寓話に語られるそれよりも確固たる存在感を持って。
 彼はただ、そこにいた。
 それは、悪魔と言うものが存在するならば、きっとこんな風に在るのだろう、と。
 当たり前のようにただ納得させる。
 ――そのとき、赤木リツコが感じたものは、突き詰めればそういうことだった。
 制止したときの中で、彼は屍を食らう手を休めることもなく、ほんのついでのようにこちらを見上げていた。
 その視線が、一瞬だけリツコの顔に焦点を合わせる。
 特に彼の方では意識はしていなかったのだろう。
 一巡りさせた視線が、たまたまぶつかったというだけのことだ。
 けれど、その一瞬の間に交錯した彼の目は、リツコの背筋に氷の杭を押し込むのに似た恐怖を感じさせた。
 この状況下にありながら、彼の目はまるでそれが通行人と行き違ったときであるかのように平坦だった。
 自らの成している行為、それを見られること、見た人間の存在、そのすべてに対して特別な感情を持っていないことを、無言で物語る。
 そこに驚愕はなく、憎悪はなく、ただ事実をあるがままに受け入れる知性と自我があった。
 ――ああ、でも。
 リツコは自分の感じた恐怖という感情に、どこか麻痺した声音で答える自分を自覚した。
 それはきっと、自明のこと。
 自分が人間であることを声高に主張する者がいないように。
 悪魔もまた、己が存在を主張することなどなく、ただ悪魔であるが故の行為を当たり前に行うのだろう。

「…………」

 ひとしきりこちらを観察するように眺めてから、彼はあっさりと興味をなくしたように手元の肉塊へと視線を落とした。
 大きく口を開けて、むしゃぶるように齧りつく。
 ぐじゅり、と、血に濁った咀嚼音がリツコたちの耳を打った。




















Who killed Cock Robin?

Chapter 6 : a thousand seconds

七瀬由秋
















 目にした光景よりも、あるいはその音こそが意味を持たらしたのだろう。
 止まっていた時が、再び動き始めた。

「き、貴様……っ!」

 若い警備部員がうめくようにいって、拳銃の照準を合わせた。
 即座に撃鉄を引こうとする指を、ぎりぎり残った理性で抑えつけているようだ。

「一体何をしている!?」

 裏返った声で問われて、少年は意外なところから意外な質問を受けたかのように、きょとんとした目でこちらを見上げてきた。
 心底迷惑そうな表情は、煤と朱に彩られていて、リツコはぞくりとする。

「見ての通り、食事ですが」

 それ以外に何が? と彼は肩をすくめたようだった。

「こ、この……」
「両手を挙げて壁につけろ! さもなくば撃つ」

 戦自出身の保安部員が、腹に響くような声で命じた。さすがというべきか、衝撃から立ち直った彼は強靭な理性を回復させている。
 少年は苦笑した。困ったようなその表情に、ごく一部、見る者の背筋を凍らせる冷ややかさがある。

「まだまだ、食事は口でする癖が抜けていないんですけどね――」

 その表情のまま、彼はもう一度だけ、肉塊にかぶりついた。
 ぶちぶち、と高密度の筋繊維を噛みちぎり、一息に飲み下してから口元を拭う。
 奇妙なほど年齢相応の少年じみた仕草。

「――まあ、やむを得ない」

 半ばまでを食いちぎられたヒトの心臓を、まるで野球のボールか何かのように放り投げる。
 赤黒い肉片が緩やかな放物線を描いた。
 あまりに自然で、あまりに異様な光景に、一瞬だけ銃を構えた二人の視線が吸い寄せられる。
 その刹那に、
  ――彼は行動を起こしていた。
 まるで小型の砲弾が炸裂したかのような音がした。
 ある意味異常な注意力によって、投げられた肉塊ではなく少年だけを凝視していたリツコの視界で、彼の座り込んでいた空間がそのような音を立てたのだ。
 音が鼓膜に轟いたそのときには、彼の姿はそこにはない。
 常軌を逸した脚力が床を弾いた音だと気付いたのは後々になってからのことだ。
 たん、たん、と軽やかな音。
 壁面が何かに弾かれる衝撃音。
 ある種の音楽のようにも聞こえるその音が、正確に二つ。
 天井と側壁から響いた。
 職業軍人として訓練を受けた二人の男たち、その動態視力ですら捉えることもできないほどの。
 リツコに至っては、ただ単に「消えた」としか思えないほどの、人体の限界を超えた速度と跳躍。
 ただ音だけが鼓膜を叩き、次に気が付いたとき、リツコの眼前で大柄な保安部員の頭蓋が卵のように粉砕されていた。
 単純な物理的破壊力で圧壊された頭部が、鮮血を噴水のように撒き散らす。
 リツコはその直撃を浴びることは避けえたが、わずかに飛んだ飛沫が彼女の頬に染みを作った。
 濁った水音が壁面をノックするのに加えて、びちゃりという落下音。
 つい先ほど、少年が投げ捨てた肉塊が床に接吻した音だ。それは、ほんの一瞬のうちに繰り広げられたこの悪夢が、確かに事実であることを物語るようで。
 まるでその音が合図であったかのように、屈強であった保安部員、その首から上を失った広い背中が、ようやく自分が死んだことに気付いてゆっくり崩れ落ちる。
 倒れ伏したその背中の向こうに、跳ね上がった血飛沫のカーテンの向こうに、リツコは見た。
 ――血飛沫に顔を洗わせながら、彼は悠然と立っていた。
 同世代の少年に比べても細身の腕は、華奢という表現が似合うほどで。
 ただ、その肘から先にこびりついた紅だけが、違和感よりもなお濃い凄惨な色彩を描き出す。

「う……あああぁぁぁぁぁ!!!」

 目にした光景を理解できない表情で、ただ衝動に突き動かされたのだろう、警備部員が両手に構えた拳銃を向ける。
 だが、引き金にかかった指が引かれるよりも、朱にまみれた掌がその喉を掴み上げる方が早かった。

「ぐがっ!?」

 プラスチックのマネキンよりも軽々と持ち上げられ、そのまま壁に全身を叩きつけられる。
 若い警備部員の口から呻き声とともに少量の血が吐き出された。
 新たな鮮血に、彼の横顔が汚される。
 彼はわずかに顔をしかめて、空いている左手でごしごしと顔を拭った。
 一連の凶行、人間離れした膂力からは想像もつかない、中性的で優しげな横顔。
 そこにリツコは、三年前の彼の面影を見た。

「し、シンジ君……?」

 震える声で、その名を呟く。
 呼ばれて、彼――シンジは、このときようやく振りかえった。
 自分の名を呼ばれた事実に対する、純粋な驚きがその顔にある。
 大の男一人を片手で吊り上げながら、彼はわずかに考え込むような表情になったが、ややあって納得したようにうなずいた。

「――ああ、たしか。技術部長の赤木リツコさん、でしたよね」

 呆然としたリツコの目の前で、彼は首だけ傾けて会釈する。

「お久しぶりです。お元気そうで何より」

 こればかりは三年前とあまり変わらぬ声で、場違いなほど当たり前の挨拶をする。
 続けて何か言おうとしたとき、不意に銃声が轟いた。
 吊り上げられた警備部員、喉を半ば握り潰された男が、眼下の少年の顔に向けて発砲したのだ。
 苦痛と恐怖にまみれてなお、その眼は戦意を失っていなかった。
 だが、不屈のその戦意も行動も、無為に終わった。
 銃声が廊下に木霊する中、リツコが見たものは、至近から銃弾を受けながら傷一つついていない彼の横顔だったのである。
 先端のひしゃげた銃弾だけが、乾いた音を立てて落下する。
 生身で防弾チョッキ以上の防御力を有する生物――リツコの中で、科学者としての彼女が驚愕とともにその事実を受けとめていた。

「……やれやれ」

 シンジは疲れたように首を振った。
 攻撃されたことへの怒りではなく、会話を中断されたことへのわずらわしさがその仕草にある。

「失礼。ちょっと待っていて下さい」

 再び首を傾けるだけの礼をする。

「!!」

 吊り上げられた警備部員の肉体が、痙攣するように震えた。

「ぐあがぎゃがああああ!?」

 言語を絶した悲鳴が耳朶を打つ。
 鷲掴みにされたその首筋から、葉脈のような何かが顔に広がるのを、リツコはたしかに見た。
 耳を塞ぐことすらできず、彼女はただ、自分を警護していた男の最後の姿を見つめた。
 ビクン、と。
 警備部員の肉体が、もう一度痙攣した。
 そしてそれきり、その四肢が力を失って垂れ下がる。
 すでに顔面だけでなく、制服の袖から覗く手首から指先まで、葉脈めいた筋が浮かび上がっていた。
 恐るべきことに、その筋は生きているかのように蠢いてすらいた。
 ――どこかでこれと同じものを見た。
 リツコの中で、このようなときにも冷静な科学者としての知性がそう囁いていた。
 無意識に記憶を探る彼女の眼前で、吊り上げられた警備部員の全身が淡く発光しようとしていた。
 いや、彼の体内にもぐり込んだ何かが発光しているのだ。
 ――終焉は、唐突だった。
 警備部員の肉体がわずかに膨張したように、リツコには見えた。
 淡い燐光が最後の瞬間、その輝きを増したようにも思う。
 そして次の瞬間、忠良なネルフ警備部員の肉体は、内から弾け飛ぶように消失していた。
 血飛沫一つ飛ばすことなく、服すらも残すことはなく――まるで、最初からそんな人間がこの場には存在していなかったかのように。
 からん、と、乾いた金属音が響いた。
 リツコは視界の端でその正体を確認する。
 先刻まで警備部員が握り締めていた拳銃。
 ――ただそれだけが、持ち主がたしかにそこに存在していたことを、ささやかに証言していた。

「ご馳走様」

 足元に転がった拳銃など一顧だにすることなく、下ろした掌で合掌しながらシンジは満足の吐息をつく。
 そして彼は、わざとらしいほど仰々しく、リツコに向けて一礼した。

「お待たせしました、赤木リツコ博士? お元気そうで何よりです」

 親しげですらある口調で、平然という。
 浮かべた微笑は、透き通るほど綺麗なものだった。
 ――リツコは自分が震えていることに気付いた。
 かちかちと、歯のぶつかる音が鼓膜に直に響く。
 碇シンジ――三年前の記憶の中で、おどおどと人の顔色ばかり窺っていた彼。
 その彼の微笑が、リツコの全身に得体の知れない戦慄と恐怖を呼び起こしている。
 リツコは三年前にネルフが行った一連の情報操作に、かなり早い段階から関与していた。
 裁判の証言台にこそ立たなかったが、それ以外の事柄にはかなりの割合で携わっていたといえる。
 MAGIのレコーダーを始めとする一連の資料の改竄・捏造には、彼女の持つ知識と技術が必要だったからだ。
 別にシンジを憎んでいたわけではなかった。蔑んでいたわけでもなかった。
 さらにいえば、自分の行為が必要なことだとも思ってなかった。
 あえて理由を探すなら、どうでもよかったから――なのだろう。
 あの頃の彼女は、相も変わらずゲンドウの命令に逆らえぬ自分を嘲笑いつつ、ただ機械的に課せられた職務を遂行していた。
 正義よりも秩序よりも、ただ組織の保全という馬鹿げた目的のために差し出された犠牲の羊。
 その運命と、それを演出した自分たちの行動に、若干の感興をもよおしはしたが、そのていどのものである。
 そこまでの事情を目の前の彼が知悉しているかどうかは知る由もない。
 ただ確実にいえることは――彼には彼女を憎む理由があり、殺す手段があるということだった。
 そして自分には、己が身を守る力がない。
 熟練の職業軍人であった保安部員が瞬殺され、警備部員に至っては常軌を逸した方法でこの世から消滅させられた――殺されたのだ。
 これで自分が生き残る可能性を信じるほど、彼女は楽天的ではなかった。
 ――ふぅ、と。
 己の死期すらも冷徹に受け入れてから、リツコは大きなため息をついた。
 耳障りだった歯鳴りの音が、吐息に吹き飛ばされでもしたかのように鳴り止む。
 至近に迫る不可避の死。その存在を認めたとき、彼女の内心からは冷や汗が急速に引いていた。
 胸ポケットに煙草の新箱を入れていたのを思い出し、取り出す。
 死刑囚にも最後には一服の機会が与えられるという――何かで読んだ知識が脳裏を掠めた。
 自分がそんな立場に立たされるとは、今の今まで考えもしなかったが。
 これで終りなんて、まったく呆気ないものね――私には似合いかも知れないけど。
 自分自身に苦笑しながら、真新しい煙草の箱のパッケージを開け、一本取り出す。
 指先が震えていたので少し苦労したが、煙草を口にくわえ、ライターで火をつけたときには、震えは既に治まっていた。
 すぅぅ……と、紫煙を存分に吸い込み、勢いよく吐き出す。
 ここ半月というもの、禁煙なのが当然の病院に通っていたため、久々の煙草はそれはそれは美味だった。
 これが最後だと思うと、尚更美味く感じるのは気のせいだろうか。
 ――いやいや、ただの気のせい、感傷に過ぎない。
 自分自身の感慨にすら科学者としての解釈をすませて、彼女は存分にニコチンのもたらす脳の痺れを堪能した。
 シンジはそんな彼女を無言のうちに見守っていた。
 吸い終わるまで猶予をくれるつもりなのかも知れない――リツコは感謝すら交えた視線で彼の顔を眺めた。
 三分ほどかけて、半ばまで吸った煙草を床に投げ捨て、踏み消す。
 ネルフ総本部は、一部の喫煙コーナーと上級幹部の執務室、応接室等を除けば総じて禁煙だ。
 精密機器がごろごろ転がっている組織の施設としては当然の決まりごとであったが、そのド真ん中で煙草を吸って、行儀悪く吸殻を投げ捨てるのは、ヘビースモーカーとしての彼女の密かな夢だった。
 うん、天なる神はやはり死刑囚には寛大だ――今際の際に、馬鹿らしくはあっても夢を一つかなえてくれた。
 リツコはもう一度ため息をつくと、

「久しぶりね、シンジ君」

 落ち着きを取り戻した表情で、今更のように挨拶を返す。
 シンジはにっこりと笑い、

「ああ、よかった。いきなり煙草を吸い始めるのでどうしようかと思いましたよ」
「それは悪かったわね」
「いえいえ、お気になさらず――話の通じる相手がいて、ほっとしているところです」

 満更世辞でもない口調でいって、やや苦笑じみた表情でこう付け加える。

「何せここでは、どうもまっとうな会話をしようとする人間がいない。揃いも揃って人の話を聞かない方々ばかりですからね」

 皮肉というより、本当にただ呆れているという口ぶりだった。

「訊いていいかしら?」
「何をです?」
「あなたは本当にシンジ君――碇シンジ君なの?」

 リツコの問いに、シンジはくすくすと笑った。

「他の何に見えます? まあ、三年も経てば僕の顔を忘れられても不思議はありませんが」
「忘れてはいないわ。ただ、確認したいだけよ」
「相変わらず慎重ですね。――ま、そういうのは嫌いじゃありませんが。僕は紛れもない碇シンジ、碇ゲンドウとユイの息子ですよ」
「そう。それじゃ、もう一つ」

 リツコは一つ息を吸ってから尋ねた。

「――あなたは何物? まだ、人間なのかしら?」

 リツコの目に、学究の徒としての光が甦っていた。
 どうせ死ぬのなら、目の前の少年が何物か、彼女はそれを知っておきかった。
 あるいは彼が気を悪くして、即座に自分を殺す気になるかも知れない。
 しかし、それでもいい。そう思った。

「…………」

 シンジは無言で、リツコの目を覗き込んだ。
 リツコは目を逸らすことなく、彼の目を真っ向から観察する。
 沈黙のうちに数秒が過ぎる。
 ふ、とシンジの口許が綻んだ。

「くす……あはははははははは」

 不意に彼は笑い出す。心から楽しそうな、好意的とすらいってもいい笑い声。

「いいですね……いや、実に素晴らしい! やはり僕はあなたが嫌いじゃありませんよ。その目――自分自身を含めたすべてを冷ややかに眺め、観察するような目がね」
「褒められているのかしら?」
「手放しの賞賛のつもりですよ。あなたの目は鑑賞の余地が十分にあるだけでなく、実に楽しいものだ――値段をつけるのが難しいくらいに」

 台詞の後半はリツコには理解できないものだったが、とりあえずその賛辞が混じり気のないものであることは理解できた。

「いいですよ、お答えしましょう――僕は人間です」

 笑みを浮かべたまま彼はいった。

「この身は十八番目の使徒リリン。だから成長もすれば腹も減る――前者についてはいささか鬱陶しいことですが」
「……私たちは生身で銃弾を跳ね返すことなどできないわよ?」

 重ねての問いに、シンジはやれやれ、とばかりにため息をついた。

「あなたがたも三年前に体験したことでしょうに――心の境界線、体を形作るのがATフィールド。それがゼロになれば、肉体は形を失い、LCLに還る」

 彼は幼子に言い聞かせるように、

「裏を返せばこうもいえる――肉体が形を失うことがあるのなら、本来柔らかい血肉を鋼の殻で鎧うこともできる。同じリリスの胎から生まれた兄弟たちには出来たことです、人にできないとどうしていえます?」

 そこまでいってから、彼は不意に肩をすくめ、

「まあ、S2機関のない人の身の悲しさ、さすがに他の兄弟たちのような――つまり、肉体の外部に現出するような高出力のフィールドを使うことはできませんけどね。それでも、そう、炭素を凝縮すればダイアモンドとなるように、それなりの強度で肉体の形を維持することができるわけです」

 得意げな口調ではなかった。ただ事実をありのままに解説する口調。
 リツコは脳裏で思考を高速回転させ、彼の言葉に分析とシミュレートを繰り返した。
 そんなことがあるはずはない、という常識と、理論上は不可能ではない、とする理性とが、彼女の内部でせめぎ合っている。
 ややあってから口に出たのは、さらなる疑問だった。

「……その化け物じみた怪力も、ATフィールドの応用なのかしら?」

 その問いは、彼女がATフィールドの本質を正しく把握していることを示していた。
 シンジは嬉しそうに笑みを深める。

「ええ。そもそもATフィールドとは肉体の在り方そのものを司る根本的な摂理。ならば、それを制御することで、肉体の構造と機能をあるていど操作することもできるんですよ。といっても、やっぱりS2機関がないおかげで、操作といってもたかが知れていますがね」
「『たかが知れて』はいても、第十一使徒や第十六使徒の真似事は出来る、というわけ?」

 リツコはこのとき、先刻心に浮かんだ疑問に答えを見出していた。
 警備部員を消滅させたあの力は、かつて細菌型の形をとってMAGIを侵食した第十一使徒イロウル、そしてエヴァ零号機を侵食した第十六使徒アルミサエルと同じものだ。
 おそらく、肉体の表皮細胞を変質させているのだろうが、彼は文字通りの意味で「体で食う」ことが可能なのだ。
 彼自身も、先刻何気なく呟いていた――まだまだ、食事は口でする癖が抜けていない、と。
 シンジの返答は、リツコの推論を保証するものだった。

「先刻の台詞を繰り返しましょう。同じリリスの胎より生まれた兄弟たちには出来たこと。出来ない理由は存在しません」

 素っ気なくいってから、彼は肩をすくめた。

「まあ――前言を翻すようですが――、僕以外の人間にも出来るとは思いませんがね」
「それはあなたがサード・インパクトの引き金となった人間だから、ということかしら?」

 間を置かぬ指摘が、シンジの気に入ったようである。
 彼はリツコの反応の速さに純粋に賞賛する表情で、

「半分は正解ですよ。あの三度の裁きのとき、僕は魂とATフィールドの原理とをこの身をもって体験し、理解しました。ただ、それだけでは不十分ですけどね」
「……と、いうと?」
「いくら原理を知ってはいても、リリンでは本来、肉体の形をかろうじて維持するていどのATフィールドしか扱えません。それが郡体として進化することを選んだリリンの限界であり生態でもあるのですから」

 シンジはいいつつ、一歩踏み出した。
 リツコは思わず一歩後退しかけて、寸前で踏み止まる。
 血の匂いをまとわりつかせたその手が、ゆっくりと、優美なほどの動作で彼女の頬を撫でた。
 彼は優しく囁くように、

「では、郡体としての生を捨て、単体として生きることを選択したリリンはどうなるのか、考えたことはありませんか?」
「…………!」

 リツコは雷鳴に打たれたように目を見開いて、今や自分より頭一つ分高い位置にあるシンジの顔を見上げた。
 リリン――人類は、同胞を増やし共に生きるという生態を選択した。
 それによって、他の使徒たちにはない繁栄を極めえたともいえる。
 逆にそれは、他の使徒たちのような強靭な肉体や特異な能力、永遠の生命を放棄することでもあった。
 だがここに一つの仮定がある。
 そもそもの人類の祖、リリスの胎より生まれ出でた最初の人間。
 それが、他の使徒たちと同じく、個体としての生態を選択していればどうなっていたか――
 その仮定を現実にしたサンプルが、今、リツコの目の前にいた。

「一つことわっておきますが、他人の存在を拒絶するとか逃避するとかいうことではありませんよ? もしそうだとしたら、世の自閉症や対人恐怖症の人間はすべからく僕と同じ力を使えることになる」

 注釈を入れてから、シンジは続けた。

「拒絶でも逃避でもなく、選択。そう、選択するんですよ。二又に分かれた道の一方をただ選ぶんです。己と同じ形をした同胞と縁を切り、ただ単一の生体として生きることをね」
「……あなたはその選択をした、ということ?」
「三年前――そう、サード・インパクトが終わって、しばらくした頃にね」

 何気ない、しかし身を刺すような事実を含んだ台詞に、リツコは一瞬、声を失った。
 もっとも、当のシンジは皮肉や弾劾を含ませたつもりもないようだった。
 それまでリツコの頬を撫でていた手を自分の胸に当て、ただ淡々と説明を続ける。

「故にこの身はリリンであってリリンではない。肉体的にはリリンのそれですが、郡体としての生態そのものがリリンの定義に含まれるのなら、僕はそこから外れていますから。まあ、いうなれば、リリンが歩んでいたかも知れないもう一つの可能性――そんなところです」
「……なるほどね」

 リツコはシンジのいわんとする所を完全に理解していた。
 ――四年前から三年前にかけての一年間、ネルフの擁する最強の、真のエースパイロットとして使徒を屠り続けた碇シンジ。
 訓練も経験もない間に合わせのパイロットでありながら、ただその才能だけをもって、先達たるファースト、セカンドの両チルドレンを圧倒する能力と戦果を示し続けた少年。
 例えそれが、暴走という事象を含んだエヴァ初号機の持つ特異性と、強運ないしは狂運ともいうべき運勢に支えられたものだとしても、シンジはたしかにある種の天才だった。
 彼が求めていたのは、たった一つのものだった。
 すなわち、自分以外の他者のぬくもり。
 幼い頃に失った家族そのもの、といっていいかも知れない。
 誰かに自分の存在を肯定され、受け入れられることを、彼は狂おしいほどに願っていた。
 それこそが彼の生きる理由であり、その天才の所以でもあった。
 他者の存在を求める願望こそが、チルドレンたる資質の最たるものでもあったから。
 不完全に欠けた心を、他者の存在によって埋めようとすること。
 エヴァンゲリオンとのシンクロとは、まさにそういうことだった。
 また、サード・インパクトの引き金たる者に求められる資質も、それと同一だった。
 ――そして、三年前。
 彼は求め、得ようとしていたすべてのものから裏切られ、切り捨てられた。
 踏みにじられ、使い潰され、放り捨てられた。
 だが同時に、彼もまた切り捨てていたのだ。
 それまで自分が求めていたすべてを。
 自分以外の誰かと理解し合えるかも知れないという幻想を。
 受け入れることと受け入れられること、肯定することとされることを、彼は切り捨てた。
 具体的に「選択する」という行為がどういうことなのか、それは想像に頼る他はない。
 ただいえることは、それによって不完全に欠けていたはずの心、魂が、一つの完成を見たということだ。
 所々のピースが抜け落ちたパズル。
 元が何を描いたものであったにせよ、端のほんの一片が欠けていただけでも、それは完成品とはいえない――本来ならば。
 だが、何をもって完成とするかなど、しょせんは本人が決めることではないか。
 所々が空白のままであったとしても、本人がそれで完成であると認識した瞬間、そのパズルはすでに完成している。
 シンジはまさにそのようにして、いくつかのピースが抜け落ちたままのパズルを是とし、それをもって完成とした。
 本来、郡体で生きるリリンが「他者の存在」によって埋めようとする部分を、彼は捨て置いた。
 それだけでなく、空白部分に自らの手で独創的な色を付け加えた。
 リリンであってリリンでないという、その言葉は完全に正しい。
 いうならば、碇シンジは「碇シンジ」という一個の種として歩き始めている。
 リツコはもう一本、煙草を口にくわえて火をつけた。
 今度はもう、手が震えることはなかった。
 深々と紫煙を吸い込み、吐き出したその息は、満足の吐息でもあった。
 自分は今、途方もない可能性の目の前にいる。
 そしてその一端に、わずかながら触れることができた。
 そのことに、リツコは満足していた。

「最後に一つ、いいかしら?」

 紫煙をくゆらせながら、彼女は尋ねた。

「どうぞ」

 彼は鷹揚に先を促す。

「私はあと何秒ほど生きていられるのかしら? 大雑把な見積もりでも教えてもらえると、こちらとしても心の準備がしやすいのよ」

 リツコは傍らに転がる死体を見下ろし、次いで主を亡くした拳銃を眺めた。

「あまり酷い死体を残すのは遠慮したいわ。これでも一応、女だから。――ま、死んだ後のことなんて知ったことじゃないというのも事実だけど」

 出来ればあの警備部員のように跡形なく「食われた」方がマシだ、と彼女はいっていた。
 S2機関のないヒトの身の悲しさ、とシンジはいったが、まさにそのために、彼は人外の力を振うに際して莫大なエネルギーを摂取しなければならない。
 ――つまり、ヒトの魂と血肉だ。
 口で食うか、体で食うか、それはその時々の状況と気分によって違うようだが。
 馬鹿げた話ではある、そうリツコは皮肉な気分で考えた。
 これまでシンジを殺そうと立ち向かったネルフの職業軍人たち、彼らはより多くの同僚を殺戮するためのエネルギーとして取り込まれ、消費されてしまったのだ。
 今のシンジに人間が戦いを挑むことは、子牛の丸焼きがのこのことテーブルに並びに行くことに等しい。
 彼はヒト一人を殺す都度、その人間の保有するエネルギー、存在そのものを摂取する。
 そして、ふと思った――これから先、自分のすべてが碇シンジの血肉の一部として取り込まれて、そして碇ゲンドウが彼に殺されたとしたら。
 それは一つの復讐になるのではないか、と。
 自分は結局、あの男に対して直接的な復讐ができなかった。
 あれだけ弄ばれ、利用されたというのに、結局彼女はあの男に従う以外の結論を持てなかった。
 三年前、あのサード・インパクトのあった日、自分になしうる最大の復讐が「母」の造反で崩れ去って以来、彼女はあらゆる復讐を諦めたはずだった。
 それが果たされるというのなら、この惨めな結末も悪くはないのかも知れない。

「ふむ?」

 シンジはきょとんとしたようだった。
 まるきり意外なことをいわれた、というようなあどけない表情。
 彼は無言でリツコの顔を見下ろし、ややあってから楽しげな笑い声を響かせる。

「そうか――そういえばそうでしたね。あなたも立派にネルフの一員で、ただ今僕とは交戦状態にある。よって僕がここであなたを殺すのはまったく当然のことだ。いやいや、久方ぶりに実のある話ができたんですっかり忘れていた」

 彼はそのまましばらく笑い声を響かせてから、ふと黙り込んだ。
 リツコはその表情を注意深く観察する。
 自分はもしかして地雷を踏んでしまったのだろうか――彼女はわずかながら後悔した。
 どうもシンジは、リツコにいわれる今の今まで、彼女を殺す必然性を忘れていたものらしい。
 何もいわなければ案外あっさり見逃してもらえたかも知れない――そう考えてから、彼女は苦笑を浮かべてその考えを振り払った。
 それは楽観的な考えというものだ。
 今のシンジはよくいって怪物だ。
 その思考は、リツコの想像――いや、人間の価値観とは別のところにある。
 真摯に聖書を読みながら十字架を踏みにじり、優しく赤子をあやしながら町一つを灰にする。
 今の彼は、そういう存在だった。

「――ふむ」

 リツコが固唾を飲んで見守る中、人の姿をした怪物は、十数秒の黙考の末に何か決したようにうなずいた。

 ――おいで。

 その唇が、そう呟く形に動いたのを、彼女は確認する。
 誰に、何者に向けられた呟きかは、考える前に結論が出た。
 シンジの背後の壁が、弾けるような破壊音を立てて砕け散る。
 そして、砕けた壁の向こうからこちらを覗き込む、紫のエヴァンゲリオン。
 無機的な装甲で鎧われたその目が、明確な敵意を浮かべて自分を見据えているのを、彼女ははっきりと感じた。
 シンジの持つ、底なしの奈落を覗き込んだようなプレッシャーとはまた違う。
 純粋で獰猛な暴力の存在を感じさせるプレッシャー。
 さすがのリツコですら一歩後退らせたほどの、それは強烈な圧迫感だった。

「…………」

 さては初号機の圧倒的な質量とパワーで一息に押しつぶすつもりか――彼の糧として取り込まれた方が自分の本懐なのだが。
 そんなことを考えたリツコに、シンジは優しいほどの口調で語りかける。

「さて、リツコさん。こちらからも一つ伺っておきたいんですけどね」

 ――最後に言い残すことは? かしら。別に言い残す何事もないのだけど。
 リツコは観念して目を閉じた。
 しかし、シンジの口から紡ぎ出されたのは、思いもかけない問いだった。

「ここから発令所まで、あなたの足で何分ほどかかります?」
「……は?」

 思わずリツコは間の抜けた声をあげてしまった。

「ここから、発令所まで、あなたの足で、何分ほど、かかるんです?」

 シンジは噛んで含めるように、わざわざゆっくりと区切って繰り返した。

「……普通に行けば十分。急げば五分といったところだけれど」

 やや呆然としながら、リツコは正直に答えた。
 複雑に入り組んだ地下ブロックの間取りや発令所の位置を問い質しているにしては、シンジの質問の仕方は妙にずれている。
 リツコの当惑をよそに、シンジはうなずき、

「結構。では……そうですね。余裕を見て、カウント1000といきますか」
「……カウント1000?」

 鸚鵡返しにリツコは問い返す。
 シンジはもう一度うなずいて、

「僕と初号機は1000秒だけ、ここで侵攻を一時中断しましょう。つまり、十五分強といったところですがね。――その間に、あなたは発令所まで大急ぎで行って、今この場で得た情報と分析をお仲間たちに知らせてあげるといい。そして、ネルフの技術部長としての職責を果たし、今後のネルフの作戦運営に尽力していただきたい」

 どこまでも楽しげな口調で勧める。
 リツコは唖然とした。

「わ……私を逃してくれるというの?」

 逃すどころの騒ぎではない。
 たかだか十数分の期限つきとはいえ、わざわざ迎撃の猶予をくれるとまでいっているのだ――この人類の新種は。
 信じられぬ思いで反問するリツコに応えたのは、涼やかな笑い声だった。

「逃す?」

 心底可笑しそうに笑いながら、

「誰が?」

 彼はリツコに歩み寄り、

「誰を?」

 呼吸が感じ取れるほどの距離まで顔を近づけた。

「――まさか!」

 狂ったような、というには明確な知性の存在を感じさせる笑い声。
 それゆえにこそ、むしろリツコは戦慄した。
 彼は狂っている。イカれている。人間として大事な部分が壊れている。
 だが、違う。
 彼はすでに人間ではない。
 人間であることを辞め、碇シンジであることを三年前に選択した。
 空飛ぶ鳥と海泳ぐ魚とでは見るものも感じるものも違う。
 それは差ではなく違いだ。希望も絶望も入り込む隙間はない。摂理としてただ在るだけの、ただの違いだ。
 人間にとっての狂気を、彼は正気とする。
 狂っているのでもイカれているのでも壊れているのでもない。
 人間とは別の道を歩んでいる。ただそれだけのこと。
 ――ただそれだけのことが、リツコには例えようもなく恐ろしかった。
 彼は彼女の耳にそっと囁いた。

 

Who'll be the parson? 
誰が牧師を務めよう?
I, said the Rook,
それは私、烏が言った
With my little book,
私の小さな本を持ち
I'll be the parson.
私が牧師を務めよう

 

 マザーグース。
 英国に伝わる童謡。
 その中の歌の一つが耳をくすぐるのを、彼女は呆然と受け止めた。

「――僕は誰も逃しはしない。あの心地よき孤独から僕を連れ出し、久しく忘れていた興奮を思い出させてくれたんだ。逃す必然が何処にあります?」

 彼は優しく諭すように、

「けれど、祭りは長く、楽しく、そして騒がしくなければ意味がない。一方的な殺戮など、盛り上がらないことはなはだしい。殺し殺され、壊れ狂える熱い祭り――想うだけで心が踊りませんか?」

 そして彼は一歩後ろに下がり、くい、と顎を上げて彼女を促した。

「さあ、お行きなさい。今のネルフは羊の群れに等しい。迷える子羊を導くのは牧師の役目。羊が道を見極めるにはあなたの知と智が必要だ。あなたはあなたの全知全能をあげて、ネルフの力とならねばならない」

 ――そして祭りの最後を見届けるといい。その冷ややかで聡明な眼をもって。
 もはやいうべきことはなく、問うべきこともなかった。
 リツコはそろそろと後退った。
 シンジはポケットに手を突っ込んで、静かに笑って彼女を見送っている。

 ――999、998、997、996……

 彼が口の中でカウントを始めていることを、リツコは把握していた。
 数歩、彼のその表情を観察しつつ後退ってから、彼女は身を翻して駆け出した。

「――では、いずれまた」

 穏やかなほどの声音が、最後に再会を約した。

……to be continued





牧師と仔羊。
示された真実と向かうべき道。
よろめきふらつき立ち上がる。
ヒトはもがき、彼は笑う。
――Next Chapter : hell drive







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後書き
 よーやっと更新。前半部は掲示板SS時代のそれから大幅に書き直しましたが、後半部はほぼそのまま。
 書き直し率ほぼ50%。そしてこの数字は順次高まることが予測されます(笑)。
 平たくいうと、掲示板SSでこの章書いてた時期は、義務感でSS書き始めた頃と重なるんですよねー。
 予想外の好評に無理して応えようとしていたというか。
 うむ、やはりSSは義務で書いてはいかん、楽しんで書くべきだ。
 何といってもアドレナリンの分泌が違う。
 そもそも七瀬由秋の強みとは、アドレナリンでいい感じにイッた文章とシナリオではないか。
 ――というわけで、脳内物質と親しくお付き合いしながら書き進めて行く予定ですー。
 ほらそこ、引かないよーに。

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