その草原には盲目の羊の群れが暮らしていました。
 羊たちは皆、目が見えません。
 けれど、「見る」ということを知らない羊たちはそれに不自由を感じることもなく、皆仲良く穏やかに暮らしていました。
 あるとき、そこに一匹の狼の仔が迷い込みます。
 狼はもちろん目が見えます。
 けれど、周囲にいるのはすべて羊ばかりなので、自分もまた同じ姿をしているのだろうと、自分は羊なのだろうと信じていました。
 一年が経ち、二年が経って、狼はどんどん育ちます。
 そしてある日、とうとう自分が羊ではなく狼であることに気付きました。
 狼は悩みます。自分は皆とは違う、狼なのだと。
 盲目の羊たちは答えます。いいえそんなことはない、貴方は私たちの仲間です。
 さてさて。
 狼は一体、どうしたでしょう――?

 

 

 

 

 

 

fairy tale
七瀬由秋

 

 

 

 

 

 

 ――夢を見た。
 おぞましく浅ましい、自らの醜さをまざまざと思い知らせてくれる、そんな夢だ。
 悪夢と呼ぶのが適当かも知れない。
 けれど、素直にそう呼ぶことは、心のどこかが抵抗を覚える。
 夢の中で、彼は彼女を抱いていた。
 男として、女を抱いていたのだ。
 汗にまみれたカラダを叩きつけるように抱き寄せ、小振りだが形のいい胸にむしゃぶりつき、その華奢な体を汚し尽くした。
 すべてが終り、彼女の中で果てた後、虚脱感とともにどうしようもない自己嫌悪が湧き起こる。罪悪感といいかえてもいい。
 彼は決して自分が許されないことを知っていた。
 自分が罪を犯していることを知っていた。
 自分がどうしようもなく下劣な人間であることを知っていた。
 ベッドの傍に拳銃があったなら、うっかり自分のこめかみを撃ち抜いてしまいそうな、そんなどうしようもない想いに苛まれた。
 けれど、彼はそれをしない。
 心を侵食する黒い染み、だが同時にそれすらも圧倒するものがある。
 ――愛しさと独占欲。
 道徳が何だというのだ。余人の戯言など知ったことか。
 好きに食らい、好きに犯せ。
 認めてしまえ。受け入れてしまえ。
 愛することと愛されること、その結果として睦み合うことに、どこに責められる理由がある。
 彼の中の狂暴な部分がそう叫ぶ。獣のように猛り狂い、叫び続ける。
 ……聞くだに吐き気がした。
 冗談ではない。人は獣ではないというのに。耳を貸すな。無視してしまえ。
 表層の意識がそう警告する。
 けれど、何より怖気を誘う現実は、心の奥底で自分が獣の叫びにうなずいてしまっているということだ。
 彼はそのことを知っていた。
 知りたくもないけれど、知ってしまっていた。
 人間は、自分自身をも騙せるほど器用ではない。
 世界のすべてを欺けても、知ってしまった自分だけは欺けない。
 ――ああ、そうとも。
 認めよう。受け入れてやるさ。
 福沢祐麒は、実の姉に心底溺れている。

 

 悪夢から目覚めたときに感じるのは、いつだって憎悪だ。
 世界に向けて罵詈雑言を喚き散らして、土塊の一片に至るまで叩き潰してしまいたい。
 そんな気分で福沢祐麒は目を開ける。
 体を起こすと、申し訳ていどにかけられていた毛布がずり落ちた。
 季節は晩秋。世界は冬支度を始め、風に冷たいものが混じっている。
 彼は束の間、目を閉じた。目に映るすべてを拒絶したくなった。
 次に目を開けたときには、世間一般でいうところの普通の世界が広がっていて。
 あれは、本当にただの悪夢で。
 自分は埒もない夢を見た自分に呆れながら、ただの高校生として暮らしているのだと。
 そんな一日が始まることを夢想する。
 1,2,3,4,5,6,7,8,9,10。
 祐麒は口の中で正確に10まで数えてから、目を開けた。
 ――絶望的な気分になった。
 やはりどこまでも現実は現実で、世界は頑として揺るぎ無くあるのだと理解する。

「……んー」

 感情を殺した視界の中に、一人の女がいる。
 肌寒いのか、毛布を引っ張って丸まろうとしている。
 毛布の下に覗く肢体には、パジャマも何も纏われていない。
 寝顔は幼く、どうしたことかひどく可憐だった。幼子のような、あるいは小動物のような、という表現が似合うだろう。
 背中に届くくらいに伸びた髪には癖があり、白いベッドのシーツにささやかに広がっている。
 ――ああ、やはり。
 祐麒は彼女を見守りながら絶望を噛み締めた。
 あれは夢などではなく、いつも通りの現実だった。
 無言のうちに見守る祐麒の前で、彼女は――祐巳は、むずがるように体を丸めて肩を震わせてから、ぱちりと目を開けた。
 あどけない、そう評する他はない視線が祐麒のそれとぶつかる。

「…………」

 思わず息を呑んだ。
 絶望も憎悪も何もかもが、圧倒的な何かに押し流されて行く。
 白く純粋で、透明な。
 空恐ろしいほどに綺麗な、混じり気のない愛しさ。

「おはよう」

 祐巳は毛布がずり落ちるのにも構わず身を起こし、童女のように無垢な笑みを浮かべて、当たり前のように朝の挨拶を口にした。
 朝の光に目映く輝く裸身。劣情と尊崇とを分かち難く抱かせる、白い肌。
 もう何度も体を重ね、同じような朝を迎えたというのに、祐麒はいまだにそれに馴れることがない。

「…………?」

 魂を奪われたように見惚れていると、姉は不思議そうに首を傾げた。生まれてから十数年、何度も見てきたのと変わらぬ仕草。

「……あ、ああ、おはよう」

 祐麒は慌ててそう応え、頭を振る。
 脳裏に甦る、あの悪夢――いや、昨夜自分が成した現実。
 あさましくも心踊る光景を、彼は必死に振り払う。

「もう、本当に朝には弱いんだから」

 弟の内心になどまるで気付かぬ風で、祐巳はあやすように笑った。

 

 姉はどこかで狂ってしまった。
 福沢祐麒はそう思っていた。あるいは思いたかっただけかも知れない。
 年子ゆえに双子のようにして育ってきた姉は、素直で、明るくて、天然ボケで、子狸に例えられる愛嬌のある顔立ちで――
 どこにでもいる、普通の女の子だった。だったはずだ。
 姉としては少し頼りないところのある祐巳を、祐麒は物心ついて以来何かとフォローしてきたし、姉の方も生意気だなんだと文句をつけながら弟を可愛がってきた。
 少なくとも中学の頃までは、どうということはない姉弟として二人は振る舞っていたし、事実そうだったのだ。
 ――変化が訪れたのは、高校に上がるか上がらないかという頃合だったように記憶している。
 風呂上がりにバスタオル一枚で家を闊歩する姿に、薄着でおやすみの挨拶をする声に、彼は「女」を感じるようになっていた。
 それだけなら珍しい話でもない。
 祐麒だって年頃の男だ。そういう方面に対する興味はあるし、人並みに性欲だってある。
 同じ年頃の異性である姉、身近で無防備な姿をさらけ出す存在に対して、欲望の欠片を感じ取ってしまうことも、ままあることなのだろう。
 思春期におけるマザコンやシスコンなど、世の中には掃いて捨てるほど事例がある。
 もちろん、理屈と感情は別物であるからして、そうした欲望を感じるたびに軽い自己嫌悪にも陥ったものだが、それこそ祐麒が健全な男である証明といえた。
 何事もなければ、それは文字通り思春期特有の一過性のものとして、いずれ「俺も若い頃には」などと笑いながら語り得る思い出になったはずだ。
 ――それなのに。
 その「何事」は、まるで必然のようにして福沢祐麒の人生に現れ、そして今なお継続している。

 

 今年に入って、福沢家の両親は家を空けることが多くなった。
 父が仕事の兼ね合いで関西の方に出ずっぱりで、母がことあるごとに泊まり込みでそれに付いて行ってしまうからだ。
 その日の朝も、祐麒は祐巳と二人だけで朝食を取った。
 焼き立てのトーストを齧りながら、祐巳は付けっぱなしのテレビのニュースに見入り、時折ため息をつき、ときに笑い出す。
 くるくると変わる表情は、なるほど百面相といわれるだけのことはある。
 祐麒も同級生の悪友たちからよくいわれることだが、姉は輪をかけてその傾向が強い。
 子供っぽい、というのが適当なその様子に、当たり前のように胸が高鳴る。
 両親が留守がちなのをいいことに、毎夜のように弟と体を重ねる――そんな狂った関係を続けながら、姉はまったく普通の姉として祐麒に接してくる。
 一体どういう神経をしていればそんな風に割り切れるものか、祐麒には想像もつかない。とりあえずいえるのは、姉が普通ではないということ、ただそれだけ。
 その反面、現金なことに、彼は安堵を感じてもいるのだ。
 本能に拭い難く染みついた倫理観とは別のところで、祐巳と気まずい関係になるなどと考えたくもない自分がいた。
 獣のように姉を貪り、世界をまるごと呪いたくなるような罪悪感とともに目覚めて、にも関わらずそれ以外の場所では「仲のいい姉弟」として振る舞うことにこの上ない居心地のよさを感じてしまう。
 祐麒は、そんな自分に吐き気がするほどの厭わしさを覚える。

「ん? なに?」

 視線を感じたのだろう、祐巳はテレビから目を放して、弟を正面から見つめた。
 音程をさらに一つ高くした鼓動に気付かれないように、祐麒は精一杯の笑顔を浮かべる。

「……いや。時間、大丈夫なのか?」
「あー。ひどい台詞。まるで私がいつも時間ギリギリで家を出てるみたいじゃない」
「……違うのか?」
「そんなことないよ。私、これでも遅刻したことないんだから」

 祐巳は頬を脹らませて拗ねたようにいう。
 もちろん祐麒も、そのていどのことは知っている。もともと二人一緒のベッドで起きる朝は、普段よりよほど余裕がある。祐麒は夢の中でまで自身を苛む絶望にどうしても眠りが短くなるし、祐巳は祐巳で彼が起きた気配を察して目を覚ますからだ。

「……学校の方、最近どうなんだ? 山百合会は」
「楽しいよ? ちょっと忙しいけど、やり甲斐もあるし」
「大丈夫なのか?」

 何気なく発した問いかけは、期せずしていくつもの意味合いを含んでいた。
 少し前、祐巳はリリアン女学園の山百合会――他校でいうところの生徒会――に加わった。
 詳しい経緯は聞いていないが、山百合会の一員たる「紅薔薇のつぼみ」小笠原祥子からロザリオを受け取り、姉妹の契りを交わしたという。
「紅薔薇のつぼみの妹」、それが今の祐巳に与えられた称号だ。
 わかりやすくいうならば、生徒会役員候補見習ということになるだろうか。二年の三学期には、正式に生徒会役員選挙に立候補し、「紅薔薇さま」としてリリアン高等部生徒の範となることが期待されている。
 最初にそれを聞いたとき、祐麒は耳を疑った。
 福沢祐巳は、間違っても生徒会役員と聞いて一般が思い浮かべるイメージに当てはまらず、全校生徒の憧れの的などという柄でもない。
 勉強、スポーツ、判断力、リーダーシップ、いずれにおいても十人並というのが適当だろう。
 何より彼女は――実の弟と関係を結んで、平然としていられるような人間なのだ。
 薔薇の称号にふさわしい資格がどうの、などという文句をつけるつもりはない。少なくとも祐麒にはそんなことがいえるはずもない。
 祐麒がとっさに心配したのは、祐巳が周囲の生徒から注目を集めることで、その爛れた対人関係が露見してしまうことだった。
 姉が、リリアン女学園生徒の幾人か――もちろん同性――と、自分と同じような関係を結んでいることを、彼は知っていた。

「もう、つくづくひどいこというなー。そりゃお姉さまに迷惑かけたりもしてるけど、頑張ってるんだから」

 弟の内心も知らぬ風で、祐巳は笑う。
 その言葉を素直に受けとめられれば、どれほど幸せだっただろう――祐麒は曖昧な苦笑で誤魔化して、食後のコーヒーを飲み下した。

 

 陰鬱な気分を抱えたまま学校に行き、授業を受ける。
 祐麒の通う花寺学院は、リリアンと同じ丘に建てられた男子校だ。どういう経緯でそんな立地になったのかは知らないが、男子校・女子校の違いがあるだけでなく、リリアンがカトリック系のお嬢様学校であるのに対し、花寺は仏教系の進学校と、何から何まで対極の校風である。
 とはいえ、今時の日本で宗教対立などあるはずもなく、両者の関係は至って良好で、文化祭が催される際などは互いに生徒会(リリアンからは山百合会)の役員が手伝いに出向いたりしている。
 実際、先だっての花寺の文化祭では、山百合会の幹部がメインイベントの審査員として参加していたし、その後に行われたリリアンの学園祭では、花寺の生徒会長が山百合会主催の演劇「シンデレラ」で王子役を張った。
 初老の教師が英文法について講義するのを聞き流しながら、祐麒は距離的にそう遠くない場所にいるはずの姉のことを考えた。
 同じ丘に建つ隣接校とはいえ、教室の窓からリリアンの学舎が見えるわけもない。
 それでも彼は、窓の外に視線を向けざるを得なかった。
 耳に入る教師の声は雑音として処理され、気付いたときに慌てて取るだけのノートには脈絡のない英文が羅列されている。
 姉と同様、勉強せずとも満点が取れるような頭脳は持ち合わせていない祐麒は、二学期に入って以降、自宅での予習復習の必要度が各段に増していた。
 先日の中間試験のときは、とりわけ死に物狂いだった。
 勉強が、だけではない。
 さすがに気を使って夜に誘わなくなった姉――その体を、その肌を、その声を、夜毎に思い出し、体の奥から突き上げてくる欲望を抑えるのが何より苦痛だったのだ。
 机に向かって問題集を開いていたはずが、気付いたら姉の部屋の前に立っていた、などということも何度かあった。
 祐巳――優しさと明るさと健気さと、それに相反する爛れた性的倫理を持った姉。
 彼女と関係を結んだのは、三ヶ月ほど前の夏の一日だ。
 前兆がなかったわけではない。
 高校進学以降、祐麒は姉に「女」を感じることが何度となくあったが、ある時期からそれが変わった。「女」というよりも「艶」を感じるようになった――とでもいうのだろうか。
 それは例えば、何気なく髪をかきあげる仕草だったり、就寝前の一時にふと彼女が浮かべる眼差しだったりした。
 思えばその頃から、彼女は同じ学び舎の女生徒と関係を持つようになっていたのだろう。
 そして、夏休みを間近に控えたその日――
 福沢家に、祐巳の級友が泊まりに来た。
 緩やかにウェーブのかかった長い髪と、可憐な顔立ちをしたその少女のことを、同じクラスの藤堂志摩子さん、と祐巳は紹介した。
 志摩子は美しい少女だった。
 顔立ちだけでなく、立ち居振る舞いが上品で清楚で、それでいてまったく嫌味がない。
 さすがに本人の前で口笛を吹くほど無作法ではなかったが、台所でお茶の用意をしている姉に、

「祐巳と違ってまさにリリアンの生徒って感じだよな」

 などと軽口を叩き、

「どういう意味よ」

 と膨れっ面で返されたものだ。
 例によって、両親のいない晩だった。
 女同士の会話に割り込むつもりもない祐麒は、食事と風呂を済ませると早々と部屋に引き払い、就寝した。
 夜中にふと目を覚ましたとき、隣の祐巳の部屋から何か囁くような声が聞こえてきたが、友達同士で夜更かししているのだろうと大して気にも留めなかった。
 ――福沢姉弟の日常が終りを告げたのは、翌朝のことだ。
 朝起きて着替え、朝食の支度をした祐麒は、姉がまだ起きてこないことに気付いた。
 後になって考えればまったく不注意なことだったが、そのとき彼は、藤堂志摩子が泊まりに来ていた事実をすっかり忘却していた。
 そして、寝坊している姉を叩き起こすべく、彼は祐巳の部屋のドアを開け――
 一つの布団の中で、全裸で寝入る姉とその友人の姿を発見したのだ。
 七月も半ばを過ぎ、気候が本格的な夏を迎え始めた時期だ。
 祐巳も志摩子も、タオルケットを申し訳ていどに腹にかけていただけで、その白い素肌が惜し気もなくさらけ出されていた。
 撫でたら気持ちよさそうなふわふわの髪が、祐巳の胸の上に乗っていて。
 そして姉は、そんな少女の頭を慈しむように抱き締めたまま眠り込んでいた。
 二人の首筋には、何か吸ったような紅い痕がいくつも残っていて――
 ――彼は束の間、その常軌を逸した光景に、とりわけ、どうしたことか志摩子ではなく姉の体に見入られ、我に返ってから慌ててドアを閉めた。
 何も考えることが出来ず、せっかく用意した朝食にも手をつけないままに家を出て、その日の授業すべてを漫然と過ごした。
 小学生に上がるか上がらないかの時分、一緒に風呂に入ったのを最後に見ていなかった祐巳の肢体――それだけで脳裏が埋め尽くされた。
 そういえば、夜中に耳にしたあの声は奇妙に艶かしかったな、などと。余分な記憶を再構成させた。
 授業が終わってからも、家に帰るのが億劫で、それまで数えるほどしか足を踏み入れたことのない図書室で時間を潰した。
 衝撃は大きかった。
 けれど、何より愕然とさせられた事実は、姉の性癖そのものよりも、自分が嫉妬を抱いているらしいという現実だった。
 ――そう。
 福沢祐麒は、倫理だの道徳だのという理屈から衝撃を受けたわけではない。
 ただ純粋に、姉が志摩子を抱いていたという事実に、堪えようのない巨大な喪失感を覚えていたのだ。
 それがゆえに彼は、おそらくは最良の選択であったはずの「見なかったことにする」という対応が思いつかなかった。
 たっぷり時間を費やして家に帰ってから、彼は姉と顔を合わす前に台所へ直行し、初めて酒を飲んだ。冷蔵庫に残っていた父のビールに手をつけたのである。
「理由」を彼は必要としていた。
 忘れることなどできず、見過ごすことなどできようもない。
 朝に見た光景を、何かの笑い話のようにしてでもいいから問い質すには、「酒に酔った弾みで」という理由が必要だった。
 祐麒は頭のどこかで願っていた。アレは、夜が暑かったからとか、単にふざけていただけだとか、そんな風に姉が照れ笑いして答えてくれるのを。
 そうすれば、彼はこれまで通りに弟でいられる。酒を飲んだせいで馬鹿な勘違いをしたと、後日に笑って言い訳ができる。
 しかし、姉は期待を裏切った。

「そういえばさー、今朝、見るとはなしに見ちまったんだけどぉ――」

 真っ赤に染まった顔、必要以上にろれつの回らぬ口調で朝のことを話した祐麒に、祐巳はしばし目を丸くしてから、あっさりとこう答えたのだ。

「何だ、気付いてたの? もしかして、ヤってるときのあの声も聞かれてたとか」

 そのとき、視界が赤から黒へと目まぐるしく色合いを変えたのだけを、祐麒ははっきりと記憶している。

 

 気付いたときには、授業終了のチャイムが鳴り響いていた。
 起立、礼、着席、というお決まりの号令に慌てて従う。
 朝からこれまで、時間の感覚がひどく曖昧になっていたのだが、既に昼休みになっていた。

「ユキチ、飯はどうすんだ?」

 級友の小林が誘ってくる。
 祐麒はひどく緩慢な仕草で首を振った。

「悪い。食欲ないんだ」

 空腹を感じていなかったわけではない。
 ただ、それが苦痛であると認識できなくなっているだけ。
 祐巳が傍にいなければ、食事すら億劫になってしまう。
 ――彼女を抱いた翌日はいつもそうだ。

「何だ、まだ親父さんの食事療法に付き合ってんのか?」

 小林は呆れたようにいう。
 以前、祐麒が適当に並べ立てた昼食抜きの理由をいまだに信じているらしい。

「大概にしとけよ。そりゃ体にはいいのかも知れないけどさ、俺たちの年頃じゃ腹一杯飯を食うのも義務みたいなもんだ」

 冗談混じりに。だが、いくらかの真摯さも込めた声音。
 小林は、祐麒の抱えた事情など知る由もない。適当な言い訳をあっさり信じて受け入れている。
 だからこそ、その言葉には掛け値なしに純粋な気遣いがあった。

「……ああ。無理はしないさ」

 かろうじてそれだけを返して、祐麒は教室を出た。
 廊下では忙しげに生徒が行き交っている。
 その光景が、奇妙に遠い。
 人の姿を避けるように、祐麒は校舎を出た。
 冬が近くなってきたこの時期、校庭に人影はない。
 手近な木陰に腰を下ろし、目を閉じる。
 ――俺は何をしているんだろう。
 飽きもせず、同じことを問い続ける。
 考えるまでもなく、無様だ。罪悪感に怯え、何も知らぬ友人の姿に引け目を感じ、人目を忍んでため息をつく。
 そのくせ、頭のどこかでは常に姉の姿を思い描く。
 あのとき――裸で同級生と抱き合っていたことをあっさりと認めた姉は、邪気のない微笑すら浮かべていた。
 何年も見慣れたその表情のまま、祐麒の顔を観察し、その奥にあるものを抉り出すような。
 そして、あどけないほどの声音でいったのだ。

「祐麒もしたい? 私、祐麒とだったらいいよ?」

 ……その後の記憶は、奇妙におぼろげだ。
 缶半分ほど空けただけのビールが思ったより効いていたのだろうか。
 いや、それすらもおそらくは口実だ。酔っているから、正気ではないから、というのを理由にして、彼は自分の欲望を受け入れた。

『祐麒とだったらいいよ』

 その一言が頭の中で何度も反響して、朝に見た祐巳の素肌がフラッシュバックのように思い出されて。
 カラカラになった喉で呑み下した唾が、やけに粘ついた。
 認めたくはない。認めたくはない。断じて、認めたくはない。
 だが、事実は道端の石ころよりも自然にそこにあって、その存在をなくすことなどできるはずもない。
 ――福沢祐麒は、福沢祐巳を抱きたがっていたのだ。
 拒絶することなど思いもつかず、うなずく以外の動作を彼はなしえなかった。
 祐巳は嬉しげに笑って、彼を自分の部屋に誘い――
 ――そして――そして――
 翌日。すべてに取り返しのつかなくなった朝。
 傍らに眠る姉の姿を確認し、ベッドのシーツに染みついた破瓜の痕跡を見て、福沢祐麒は声にならない絶叫を上げた。

 

 この夢がいつ終わるのか、祐麒にはまるでわからない。
 校舎のざわめきがやけに遠く聞こえる。
 どこかで誰かが自分を笑っているような気がした。

 

 

 


後書き

 ほわいと・がーでん初の「マリア様がみてる」SSです。
 あああ、エヴァがメインだっちゅーのに浮気しちまった……でも、思い付いてしまったしなぁ。
 それも何故か(?)ダーク風味。清楚・一途・純粋・敬愛・慕情といったキーワードで埋め尽くされた原作の世界観をどう解釈したんだ、俺は。
 ところで、話は飛びますが、マリみての同人誌で「ほわいと・がーでん」っていうのがあるらしいですね。
 以前何気なく「ほわいと・がーでん」で検索かけたら一緒にヒットしてたんですが。
 マリみてファンの方々に明言しておきますが、これは完全にただの偶然ですよー。

追記:本作品は早瀬千尋様の「CG−POCKET」に投稿しました。お馴染みの掲示板SSスタイルですね。あああ我ながら同じようなことを繰り返してる……

 

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