初めて祐巳を抱いた夜のことを、祐麒はおぼろげにしか覚えていない。
 その代わり、長く短い夜が明けた翌朝のことを、鮮明に記憶している。
 窓から指し込んだ光の加減から、鼻腔をくすぐった匂いに至るまで、一切合切を記憶している。
 忘れられない。忘れるものか。
 喉から噴き出した絶望の叫びは、そこに込められた情念があまりに濃く煮詰まり過ぎていたため、掠れたような異様な響きになった。
 彼女は風変わりな目覚し時計を耳にしたように顔をしかめ、そして目覚めて。
 祐麒の表情と、シーツに垂れた血の痕を見比べ、ああそうかと勝手にうなずいたものだ。

「男の人は、祐麒が初めてだったっけ。そういえば」

 まるで、新作のケーキを初めて食べて見た、というのと、まるで変わらぬ口調だった。
 悪夢と呼ぶにはあまりに濁りのない視界の中、福沢祐巳はそれだけをいってから、童女のような笑みを浮かべた。

「おはよう、祐麒」

 

 

 

 

 

  

 

 

stray sheep
七瀬由秋

 

 

 

 

 

 

 

 その日、藤堂志摩子は精一杯の勇気を振り絞った。

「あの……祐巳さん?」
「? なに?」

 放課後の教室掃除を終えた一時、鞄を片手に立ち上がりかけた姿勢の祐巳に、志摩子は語りかけた。

「その……週末、お宅にお邪魔していいかしら?」

 口にした途端、顔から火が噴き出るかと思った。
 あまりにあからさま過ぎる台詞ではないか、その思いが脳裏を占める。

「えーと……」

 祐巳は小首を傾げた。
 両親が留守にしているかどうか、記憶を探っているようだ。
 ――そう、志摩子が祐巳の家を尋ねるというのは、取りも直さず一夜を共にしたいと誘っているのに等しい。
 高まる期待に濡れた視線で見守る中、祐巳はやがて残念そうに顔を曇らせ、

「……あ。ごめんなさい。先約、入れちゃったの」
「そう……いえ、こちらこそごめんなさい。無理をいってしまって」

 言葉の上では取り繕ったが、落胆は隠し切れたかどうか自信はない。
 二学期に入ってからというもの、志摩子はまったくといっていいほど祐巳と体を重ねていない。
 学園祭の準備でまず忙しかったし、その後も何やかやとあって、互いに時間が取れなかった。
 ――ありていにいうならば。
 カラダが祐巳を渇望していた。
 彼女と出会うまでは、まったく未知だった感覚だ。
 祐麒と半ば重なる意味で、志摩子はそんな自分を心から恥じていた。
 寺の娘に生まれながらシスターを志し、カトリックの教えを学ぶためにリリアンに入った身が、何と堕落したことか。
 父が祐巳との関係を知ったら、どれほど怒り狂い、嘆き悲しむだろう。発作的に首をくくりたくなるような自虐感に浸ったことも、数え切れない。
 けれど、志摩子の純潔を奪った目の前の少女は、あっさりとこういったものだ。
 ――私は志摩子さんが好きだし、志摩子さんも私が好き。愛し合った結果として体を重ねることまでは、マリア様も否定しないはずだよ。
 達観しているというべきか開き直っているだけなのか、どちらとも知れない。
 福沢祐巳という少女にとって、Sexは愛情と分かち難く付随した行為であって、例えば言葉で愛を語ることやキスを交わすことと、何ら変わりないのだ。
 志摩子は初めて彼女と体を重ねてからの半年で、そのことを痛感していた。
 性に関わるタブーが余人に比べて皆無に近い、とでもいうべきだろうか。
 それでいて、祐巳は決して肉欲に狂っているわけではない。体だけを目的として人と付き合うことを、彼女は決してしない。愛してもいない相手を抱くこと、抱かれることを、何より嫌っている。
 福沢祐巳は、自分が愛し、自分を愛してくれている相手にのみ、体を許す。それも、愛情と友情の区別をかなりはっきりとつけている。あくまで、愛し合う者同士のスキンシップの形の一つとして、Sexを認識しているのだ。
 あるいは、タブー云々というより、体を許すほどの愛情を、特定の一人ではなく特定の複数に向けているというべきかも知れない。そこに、道徳だの良識だのが割り込む余地はないというだけのことだ。
 何より自然で、明快で、そして異常な――狂気の形。
 藤堂志摩子はしかし、その狂気に魅せられていた。
 祐巳本人はまったく意識していないだろう。けれど、彼女にはたしかに、自身が含む自然な狂気へと、好いた者を巻き込む妖しさがある。
 マリア様、お許し下さい――
 それでも私は、祐巳さんが愛しいのです。

「ね、薔薇の館まで、一緒に行こうか」

 祐巳はてらいのない顔でそう提案してくる。
 志摩子は首を振り、

「今日は環境整備委員会があるから……」

 だからこそ、掃除が終わったすぐ後を狙い撃ちしたのだ。それくらいでなければ、チャンスはない。――祐巳の傍には、絶えず人がいる。

「そっか。じゃ、また後で」
「ええ……ところで、祐巳さん」

 歩き出しかけた祐巳を、志摩子はふと引きとめた。

「つかぬことを伺うけれど、先約って、どなた?」
「お姉さま。家に遊びにいらっしゃいって、誘われちゃって」
「……そう。そうなの」

 弾んだ声音であっさりと応えてくる祐巳に、志摩子は気付かれないよう唇を噛んだ。
 祐巳の姉、小笠原祥子さま。彼女もまた、祐巳と関係を持っているであろうことを、志摩子は確信していた。
 それと明言されたわけではないが、この種のことには何故か勘が働く。祐巳と体を重ね始めてから自覚した感覚だ。
 山百合会内部に限ってみても、祐巳と関係を持っている者は既に何人かいる。
 祥子はもちろんのこと、志摩子の姉、白薔薇さまこと佐藤聖もそうだし、黄薔薇さまこと鳥居江利子も怪しい。黄薔薇のつぼみの妹、島津由乃も、キスくらいは済ませていそうだ。まだ関係を持つまでには至っていないようだが、紅薔薇さまこと水野蓉子、黄薔薇のつぼみの支倉令も、祐巳を可愛がっている。
 もともと、山百合会のメンバーは、生徒としても人としても魅力に溢れた「いい人」ばかりなのだ。
 祐巳が好意を抱かない理由はない。
 彼女は自分ではない他の誰かと、この二学期に入ってからも何度も体を重ねて――
 自身の内に澱みかけた暗い情念を、志摩子は懸命に打ち消した。
 愛する人を独占したい、誰にでもある欲望と欲求。
 けれど彼女の愛した人は、唯一体を許した人は、誰のものにもならない。
 福沢祐巳は、そういう人だから。
 そんな人を、愛してしまった。そんな人だから、惹かれてしまった。
 仕方ない。仕方ないことなのだ。
 ……けれども。

「本当にごめんね。近いうちに埋め合わせするから」

 けれども、それでもなお。
 藤堂志摩子は、福沢祐巳を欲している。

 

 武嶋蔦子がその光景を目撃したのは、カレンダーも十二月にさしかかり、季節が本格的な冬に突入した日のことだった。
 彼女はそれを、中庭の茂みの陰から目撃した。
 ちなみに、盗み見るような形になったのには、別段後ろ暗い理由はない。
 蔦子は写真部のエースだ。
 授業中以外、ほとんどカメラを手放さない。
 最高の一瞬は何気ない日常の無意識に現れ、それを見逃さないことがよきカメラマンの使命だと信じている。
 その使命感ゆえ、といっていいものか、撮られた側がそのことに気付きもしないという盗撮まがいの真似も、彼女は日常的に行っていた。
 ただ、そうして撮影した写真を勝手にばらまいたりすることはなく、第三者に公開する際には必ず被写体となった人間に断りを入れ、もし公開不可とされればネガごと焼却するというある種の潔癖さがあるため、周囲は(苦笑交じりではあったが)彼女の手法と哲学を受け入れている。
 それに何より、蔦子の写真の腕は実際かなりのもので、あくまで「人が美しく輝く瞬間」を追求するその写真は、ほとんどの場合において撮られた人間からも好評を博していた。
 だからその日、中庭を何気なく歩いていた蔦子が、人の気配を感じるやさり気なく茂みに身を隠したのは、彼女にとっては当たり前の反応といえた。
 さてさて、何かベストショットたりうる光景はないものか――
 手元のカメラの感触を撫でながら、蔦子は現れた人間の顔を確認する。
 あらら、珍しい組み合わせ――蔦子は思わず嘆声を発しかけた。
 見知った顔が二つ、十数メートル離れた木立の間を歩いている。
 福沢祐巳と、支倉令。
 つい数ヶ月前に山百合会に加えられて注目を浴びた紅薔薇のつぼみの妹と、剣道部エースという肩書きにボーイッシュな外見からミスター・リリアンの異名を取る黄薔薇のつぼみという、いろいろな意味で「おいしい」組み合わせだ。
 これは見逃してはならん、と蔦子は使命感を新たにする。
 令の方はともかく、祐巳と蔦子はそれなりに親しい関係にある。同じ一年桃組のクラスメイトだし、何より彼女が小笠原祥子の妹となった経緯に、蔦子はちょっとした縁で関わっている。
 それに――
 福沢祐巳という少女について、蔦子は他のクラスメイトよりいささか深い部分を知る立場にあった。

「何話してんのかしら……」

 祐巳と令は、中庭を散歩がてら会話を弾ませているようだ。
 二人とも随分楽しげだ。
 まあ、姉妹ではないとはいえ同じ山百合会、普通の先輩後輩より接点が多いのはむしろ当然だろう。それに祐巳は、先日、令の妹の島津由乃が入院した際、見舞いに行ったり相談に乗ったりといろいろ骨を折ったらしい。令と由乃がベタベタといっていいほど仲のいい姉妹なのは周知の事実だから、それが縁で祐巳と令の距離が接近するのもまた当然といえる。

「――…………、――――…――」
「……――? ……――……」

 よくよく見ると、令はただ楽しげというだけでなく、少し顔が赤くなっている。ありていにいうと、どこか照れくさそうだ。
 くるくるとよく表情の変わる祐巳の顔を見るたび、その赤みが増しているように見える。
 やがて二人は、ちょうど校舎からは陰になる木立の隙間で立ち止まり―― 一瞬だけ周囲を確認してから、キスを交わした。

「あちゃぁ……」

 蔦子はひそかに天を仰いだ。
 これこそベストショットという気もするが、さすがに写真に撮るわけにはいかない。万が一にも他人の目に触れたら、考えるまでもなく大騒ぎになる。
 反射的にシャッターに伸びかけた指を、彼女は努力して制止した。武嶋蔦子はカメラに青春を懸けているが、そこに「友人の社会的立場を無視してでも」という条件は含まれない。

「…………。――……っ」

 一瞬だけのあっさりとした口付けだったが、令にとっては十分な刺激だったようだ。
 ミスター・リリアンの異名を取る美少年顔の上級生は、唇を離してからあたふたと祐巳に語りかけ、真っ赤な顔で何度もうなずいてから、茂みの陰の蔦子には気付かぬまま駆け足で去って行った。
 小さく手を振って見送る祐巳を何度も振り返りながら、長身の影が校舎に消えて行く。
 ふぅ、と蔦子はため息をつきかけた。
 彼女は仲睦まじい姉妹の姿を撮るのは好きだったが、スキャンダラスな現場に首を突っ込む趣味はない。
 それにしても、彼女は相変わらず――

「蔦子さん?」

 嘆息しかけたまさにそのとき、当の祐巳にその名を呼ばれて、蔦子は心音を跳ね上げた。
 びくりと硬直した肘が、とどめのように茂みを不自然に鳴らしてしまい、彼女は観念した。

「あー、もう。気付いてたの?」

 頭をかきながら、蔦子は茂みを出て祐巳に歩み寄った。
 ツインテールのクラスメイトは悪戯っぽく笑いながら、

「ううん。いるかも知れないなーって思ったから、試しに呼んで見ただけ」
「……騙された」

 手近な木の幹にもたれかかりつつ、蔦子は慨嘆する。

「いつの間にか随分手強くなったわね、祐巳さん」
「覗き見する方が悪い」
「ごもっとも。ごめんなさい、でも写真は撮ってないわよ。何ならカメラ調べてもいいけど」
「何だ、そうなの? 撮ってたなら一枚欲しかったのに」
「……ご冗談」

 蔦子は呻き声を上げる。度胸がいいというべきか神経の配線がズレているというべきか、このクラスメイトはいまいち掴めないところがある。

「にしても、あの黄薔薇のつぼみにまで手を出していたとはねぇ……祐巳さん、まさか山百合会を乗っ取るおつもり?」
「まさかー。私にそんなことできるはずないじゃない」

 心底冗談と取った様子で明るく笑う祐巳に、そうでしょうね、と蔦子はため息まじりにうなずく。
 ――福沢祐巳が複数の女生徒と深い「お付き合い」をしていることを、蔦子は承知していた。今日と似たようなシーンに、これまで何度か遭遇しているのだ。
 祐巳もその時々のお相手の少女も人目がない場所を選んでいるようなのだが、それは常にベストショットを探してうろつく蔦子も同じことで、互いに行き着く場所が似通ってしまうのかも知れない。
 おかげで、本来の信条に反するパパラッチの気分を何度か味わわされた。もちろん写真など撮ったことはないが、他人の濡れ場に居合わせるというのは、控え目にいっても気分のいいものではない。
 ただのキスだけならばまだ可愛い方で、一度など、祐巳が優しく胸を愛撫されている(もちろん制服は着ていたが)ところに出くわして、心臓が止まるような気分を味わったこともある。そのときのお相手が、合唱部の歌姫として知られる蟹名静だったことは、後になって気付いた。

「あんまり罪作りなことしない方がいいわよ。外野がいうのも何だけど」

 口調を少し真面目なものに変えて、蔦子はいった。

「今のシーンなんて、祥子さまが見たらヒステリー起こすじゃすまないよ?」
「うん、気を付ける」

 姉の名前を出されたこともあるのだろうが、祐巳は神妙にうなずき、その表情のまま続けた。

「お姉さまと令さまを、今度一緒にお誘いしてみようかな」
「……は?」
「三人一緒に楽しめば、問題ないでしょ?」
「本気でいって……るんでしょうね、やっぱり」

 ――こういう性格なのだ、福沢祐巳という少女は。
 蔦子は頭痛と、ある種の畏怖とを同時に覚えた。
 本質的に祐巳は、嫉妬という概念が実感できない。大好きな人たちで仲良くできれば、それが一番。ついでに一緒に気持ちいいことができればもっと幸せ。
 具体的なことは知らないし、そもそも知る気もないのだが、実際彼女は複数の「恋人」と同時に愛し合うのも経験済みらしい。
 それが悪いことなのかどうかは、蔦子はあえて考えないようにしている。
 だが、その危うさだけははっきりと認識していた。
 ――祐巳は「恋人」たちを平等に愛しているが、愛された側にとって福沢祐巳は一人しかいない。

「ちなみに私は混ぜてもらわなくていいから。例えどんな状況になっても」
「あはは、それは大丈夫。私、蔦子さんはいい友達だと思ってるから。悪い意味じゃなくて、蔦子さんを抱きたいって思ったことはないの」

 少々毒のある冗談のつもりだったが、祐巳はしごく当たり前のようにそう答えた。

 

 絶望という感情に、祐麒はいつしか馴れ始めていた。
 結局のところ、自分は姉が欲しいのだし、愛してもいるのだと自覚する。
 罪悪感のわめき声を聞き流し、諦めて事実を受け入れてしまえば、心が壊れずにすむ。
 つまりは絶望だ。
 ――十二月に入って、祐巳は家を空けることが多くなった。
 朝帰りこそ滅多にないが、日も暮れてから帰って来ることがほとんどだ。
 休日などは、それこそ朝から晩まで出かけてしまう。
 頃合を同じくして、十一月はほとんど関西に居座っていた両親も帰って来た。さすがに年末年始くらいは親としての義務を果たそうと考えたらしい。
 幸いというべきか、娘の生活習慣が一変した点について、両親ともに特に不審は抱かなかったようだ。
 山百合会に入ったので遅くまで学校に残るようになった、という話を素直に信じていたし、それを差し引いても帰宅が遅くなるときは、事前ないし事後にしっかり電話が入ってきた。その電話の相手というのが薔薇さまやそのつぼみだったりするので、リリアンOGの母などは疑うそぶりすらない。むしろ、いい方々とお近づきになってるみたいね、などと、嬉しげにいったものだ。――福沢家の両親は、子供たちを全面的に信用していた。
 当たり前といえば当たり前だが、家に両親がいる以上、祐巳と祐麒は体を重ねることができない。祐巳はどうか知らないが、少なくとも祐麒はできるはずはないと考えていた。
 そしてそのことを、当初彼は前向きに捉えていた。
 いい機会かも知れない。そう思ったのだ。
 姉がリリアンの生徒たちと関係を持っている事実は、この際棚上げする。同性とはいえ、それはあくまで個人の趣味だ。人によっては理解もすれば許容もしてくれるだろう。
 だが、血の繋がった姉弟というのはそうは行かない。
 一度、姉との関係をただの姉弟のそれに戻し、頭を冷やして見よう――
 祐麒は、祐巳に向かってそう提案した。
 姉は少し寂しげに「わかった」とうなずいた。
 思った以上に素直な反応と、そしてその表情とに、祐麒は心を痛めたが、祐巳はしかしただうなずくだけではすまさなかった。
 彼女は続けて、純粋に心配そうな顔でこういったのだ。

「でも、大丈夫?」
「……何がだよ」
「私はともかく、祐麒の方が心配だよ」
「意味がわからん」

 祐麒は努めて明るく笑って話を終わらせたが、数日後には姉の言葉の意味を嫌というほど思い知った。
 それまでが毎夜のように抱き合っていた反動だろうか。
 三日も経たずして、心に空洞が穿たれたことを祐麒は自覚した。
 一週間後には、渇望が頭を焦がした。
 ただ情欲に駆られるだけなら、予想はしていなかったわけではない。中間試験があったときに経験済みだ。
 だが、帰りが遅い祐巳の姿を見る都度、別の感情が首をもたげた。
 ――強烈な嫉妬と独占欲。
 祐巳は時折寂しげな色を浮かべるものの、祐麒ほど切羽詰った様子はなかった。
 何故か? 決まっている。
 彼女には、祐麒の他にも共に同じ時間を過ごす相手がいるからだ。
 家のいない間、彼女がどこで何をしているのか。想像がついてしまうだけに、暗色の情念は加速した。
 考えるな。自分には関係ない。姉の――姉の、生活なのだ。
 自らで課した当初の誓約を、祐麒は何度となく繰り返した。
 それに――そう、帰りが遅いからといって、他の誰かに抱かれているなどと何故いい切れる。
 ただ山百合会の仕事をしているだけなのかも知れないし、お茶でも飲みながら談笑しているだけかも知れないではないか。
 ……結局のところ、それらはすべては希望的観測であり、現実逃避に過ぎなかった。
 誰よりもそのことを祐麒自身が知っていた。
 祐巳が夕食の最中に「優しいお姉さまと山百合会の方々」について幸せそうに語る都度、脳髄が煮え立った。
 家で使っているものとは違うシャンプーの匂いを漂わせていることに気付く都度、臓腑が軋んだ。
 そして、十二月が終りに近づいた頃、とうとう祐麒は限界を迎えた。
 階下に母親がいたのにも関わらず、自室で祐巳を押し倒したのだ。
 欲望よりもなお強い激情に目を血走らせた祐麒を、祐巳は拒もうとしなかった。
 笑おうとさえしなかった。

「……やっぱり、大丈夫じゃなかった」

 ただ一言、すべて見透かしていたようにそう呟いて。
 まるで、愛し子を抱き締める聖母のような表情で、彼女は彼を受け入れたのだ。
 ――福沢祐麒は絶望した。
 自分自身に、絶望したのだ。

 

 福沢家の両親は、一月の二日までを自宅で過ごしてから、再び慌ただしく旅立って行った。
 本当はもう少し家に留まるつもりだったのが、山梨の祖母が今年は一人で新年を過ごしているとかで、その様子も見に行きたかったらしい。山梨で数日を過ごしてから、そのまま関西へ出向くという。
 祐麒たちも山梨まで同行するかどうか尋ねられたのだが、結局二人とも断わった。祐巳は山百合会の人たちと約束があるからといって、祐麒はその姉から離れたくなかったので――もちろん両親には、やはり友達との付き合いがあるからといっておいたが。
 口が裂けてもいえることではなかったが、祐麒は内心で待っていたのだ。姉弟の二人きりの生活がまた始まることを。おそらくは無意識のことであったが、実際に何人かの友人から初詣や遊びの誘いがあったにも関わらず、祐麒はそのすべてを断わっていた。
 時間はまるで白昼夢のように、福沢祐麒の周囲を過ぎ去って行く。
 絶望に馴れた心は痛みを痛みとして感じることも忘れ、彼はただ夜毎祐巳を抱く生活に耽溺していた。
 ――そして冬休みが終わり、三学期が始まって間もない一日。

「失礼ですが――福沢祐麒さん、ですか」

 学校からの帰路、M駅前のバス停。そこでかけられた声に、彼は振り返った。
 声の主は、銀縁眼鏡をかけた少女だった。傍らにもう一人、こちらは祐麒より一つ二つ年上と見える少女がたたずんでいる。
 二人とも、見慣れたリリアンの制服を着ていた。

「……そうですけど」
「突然ですけど、お時間少しよろしいですか? 三十分ほどで結構です」

 祐麒がうなずくと、年長の少女が口を開く。どこか、有無をいわさぬ口調だった。

「……どちら様で?」

 その台詞というより態度の方に若干の不安を覚えて問い返すと、二人の少女は「ああ、すいません」と意外に素直に非礼を詫びた。

「私は築山三奈子、こちらは武嶋蔦子さん。リリアン女学園の生徒です」

 少女――三奈子はそう名乗ってから、祐麒に歩み寄った。

「福沢祐巳さん――あなたのお姉さまのことで、お話がありますの」

 二人の顔が微妙に強張っていることに、祐麒はこのとき気付いた。

 

 日も暮れてから蒼褪めた顔で帰ってきた祐麒を、珍しく早めに帰宅していたらしい祐巳は心配そうな顔で迎えた。
 何かあったの、という問いかけに、こっちも生徒会の仕事があってさ、と答える。まったくの嘘ではなかった。花寺学院生徒会長の柏木優は祐麒を妙に気に入っており、最近何かと手伝いを頼まれることが多い。

「祐麒も生徒会に入るの?」
「一応、誘われてはいる」

 不思議そうに尋ねる姉に、彼は答えた。これは完全な事実だ。どういうつもりなのかは知らないが、柏木は最近、次期生徒会役員選挙に立候補するよう、祐麒にしつこく勧めてきていた。

「うーん、意外ではあるけれど、結構似合うかも」
「よせよ」
「本気だってば。祐麒って、面倒見いいし、優しいし、適任かも知れないよ?」

 存外真面目な、誰がどう見ても「姉」としか表現できない表情で、祐巳はいった。

「それに――」
「何だよ」
「来年の文化祭が楽しみになるじゃない。姉弟力を合わせて両校の文化祭を盛り上げる、なーんて」

 リリアンと花寺の協力関係のことである。
 祐巳もまた山百合会――リリアンの生徒会――の一員なのだから、祐麒が花寺生徒会に入れば、必然的に文化祭で力を合わせることになる。開催前には互いの学校を訪問しあって協議することになるだろうし、各々の企画したイベントで同じ舞台に立つこともあろう。
 祐麒はそのことを想像して、思わずぞくりとした。
 家だけでなく、学校の中で祐巳と堂々と会うことのできる絶好の機会――そんなことを考えてしまった自分に驚愕したのだ。
 凍りついた祐麒の表情をどう解釈したのか、祐巳はくすくすと笑って、彼の頬を撫でる。

「――リリアンにはね、銀杏の連なる並木道があるの。私のお気に入りの場所。二人で歩いて見るのも、悪くないんじゃないかな」

 囁くようにそういって。
 祐巳はあっさりと身を翻し、「さ、一緒にご飯の支度しよっか」と提案した。
 返す言葉もなく祐麒は後に続く。
 台所へ入り、料理の下ごしらえを手伝ったり食器を並べたりして祐巳を手伝いつつ、彼は考え続けていた。

『正直、もう何が起こっても不思議じゃありません』

 築山三奈子、そして武嶋蔦子――家に着く直前まで話し込んでいた二人の少女、彼女たちの言葉がずきりとした痛みと共に脳裏に甦る。
 二人は、祐巳の秘められた行状を承知していた。もちろん、さすがに祐麒との関係までは知らなかったようだが(そうであれば彼に話を持ってくることはなかったろう)、リリアン内での姉の「交友」関係についてはかなり正確な部分まで調べていたようだ。
 その上で彼女たちはまず、同性で性的関係を結ぶことについてはとやかくいうつもりはない、と明言した。シスターが聞けば卒倒するような話だろうが、自分たちには風紀の何のという問題を論じるつもりはない、と。合意の上のことであれば――、そして他の生徒に露見しない限りにおいては当事者個人の問題だろう、というのが彼女たちの意見だった。達観しているというより、むしろ悪い方へ考えないよう努力しているという風でもあったが、それについては祐麒が悩むことではない。
 問題は、他にあった。
 福沢祐巳の「恋人」が、学内だけでも十人以上はいるいう事実だ。深く考えるまでもなく、「恋人」が自分以外の人間に抱かれていると知って、愉快になる人間はいない。

『祐巳さんは、どういうつもりなのか、そのことをお相手の方々に隠そうとしてないんです。それにもともと、そういう雰囲気って、わかる人にはわかるものだし。女の勘、というのとは少し違うかも知れませんけれど』

 ……うなずけることだった。
 福沢祐巳にとって、複数の「恋人」を同時に愛することは、何ら恥じることではない。彼女にとっては大好きな人に体を許した、それがただ一人に留まらないという、それだけのことだからだ。愛したことを恥じる習慣を、祐巳は持たない。さすがに、ぺらぺらと自分から明かすほど物好きでも悪趣味でもないが、自らの愛した「恋人」から問い質されて嘘をつくことなどないだろう。実際祐麒も、祐巳がこれまでに抱いた女生徒の名を何人か、寝物語に聞き出したことがある。

『――特に山百合会の方々は。もともと聡い方ばかりで、しかも授業の後は下校までずっと一緒の空間で過ごしているわけでしょう? 紅薔薇さま、黄薔薇さま、白薔薇さま、祥子さま、志摩子さん……とにかく、ほとんどの方は、真相に気付いてるみたいです』

 山百合会。リリアン高等部女生徒の敬愛を一身に受ける、人格でも美貌でも抜きん出た少女たち。
 確証はないが、おそらくは既に全員が祐巳と関係を持って、しかも互いにそのことに気付いているはず、と蔦子は断言した。彼女は何度か、祐巳と山百合会の幹部が「仲良く」している光景を目撃したという(詳細については彼女は省いた)。
 ――今のところ、山百合会にせよ、あるいは他の生徒にせよ、表立っておかしな行動に出た者はいない。
 祐巳の存在が、この場合は逆に歯止めになっているのだ。どんな意味でも彼女を害することは、「恋人」たちの誰にとっても本意ではない。
 だが、それが恐ろしい。そういったのは、三奈子だった。
 彼女はこの一件を調べ始めてから、何度か理由をこじつけて薔薇の館に出向き、その様子を観察したらしい。
 見たままの結論をいえば、奇妙な点はゼロだった。
 山百合会は、すべてが始まる以前に三奈子が接したときと、何一つ変わらない日々を過ごしていた。
 ……異常といえばそれ自体が異常だ。あるはずの混沌、あるはずの緊張が、そこにはなかったのだから。
 三薔薇、つぼみ、そしてつぼみの妹。彼女たちは各々学業成績や人柄で目立つ存在ではあったにせよ、怒りもすれば悩みもする、普通の人間であったはずだ。
 にも関わらず、彼女たちは恋敵同士で笑い合い、冗談を言い、普段の業務をこなしていた。
 ――それはまるで、次の瞬間に何か破滅的なことが起こっても、誰も何も気にしないような。
 皆が皆、懐にナイフを忍ばせて笑い合っているのではないか。そんな錯覚すら覚えたと、三奈子は語った。
 ……祐麒にはわかるような気がした。
 語られた光景を、手に取れるほど明瞭なイメージとして浮かべることも可能だった。
 誰もが同じだ。自分と同じだ。
 福沢祐巳という少女に魅せられ、彼女を抱くという麻薬じみた悦びを知った。
 無垢な狂気に愛されることを望み、進んでそれに囚われた。
 華奢な体を独占したいと渇望しつつ、そう考える自分自身を恥じた。
 罪悪感と自己嫌悪の虜となりつつ、それまで通りの日常に上辺だけでもしがみついた。
 同じ一つを求めた群れの一部分として、福沢祐麒はそのことを理解できた。

「……なあ、祐巳」

 シチューの鍋をかき混ぜている姉に向けて、祐麒は呼びかけた。

「? なに?」

 鍋から目は放さず、鼻歌すら歌いながら祐巳は答えてくる。

「……最近、何か変わったことはなかったか? 例えば……友達のこととかで」
「ないよ、別に」

 ためらいもなく彼女は応えてくる。

「もともとウチはカトリックのお嬢様学校だもん。変なコトしたら、マリア様が見過ごさないのよ」
「女同士で、それも何人もの相手と愛し合うのは、変なコトに含まれないのか?」

 我知らず含まれた棘は、軽やかな笑い声で報われた。

「私は皆、大好き。薔薇さまたち、お姉さま、令さま、志摩子さん、由乃さん、静さま、祐麒……皆、皆、大好き。誰にだって、胸をはってそう言える。だから、体も心も愛したい。私が愛した人、私を愛してくれた人のすべてを」

 福沢祐巳は初めて祐麒を振り返り、穏やかな確信をその声に込めた。生まれてからずっと一緒に過ごしてきた姉だ、祐麒にはわかる。祐巳の言葉には、嘘偽りも飾りもない。

「マリア様にも、恥じるところなんてないの」

 

 ――築山三奈子は最初、学内新聞に載せるスクープが目的で祐巳を調べ始めた、といった。
 ストーキングまがいの調査を続けるうち、祐巳の爛れた対人関係を知ってからは、今度は素朴な義憤に駆られたと語った。
 もとより、これほど多数の人間が、肉体関係に至るほどの交際を行っているなどと、記事にできるわけがない。控え目にいってもリリアン創立以来の大スキャンダルになる。関係者全員の停学、どころの騒ぎでは済まないだろう。三奈子は決して山百合会と良好な関係にあるわけではなかったが、彼女なりに尊敬もしていたし、好意も抱いていた。何より、独特の空気に包まれたリリアンの校風を愛していた。
 だから彼女は、福沢祐巳がゲーム感覚で多くの女生徒を弄んでいるのだと考え、すべてを調べ上げて「恋人」たちに暴露してやろうと思ったという。そうすれば、「恋人」たちの目も醒めるだろうと。
 だが、調べれば調べるほど、頭がおかしくなりそうになった――三奈子は泣きそうな声でそう呟いた。

『祐巳さんにとって、すべては「当たり前」で、「純愛」なのよ。彼女は、自分の「恋人」に何かあれば、例えそれがただ一度抱いただけの相手であっても命がけで助けようとする。傍目にもそれがわかるのよ。彼女は嘘をつけない。何を考えているかなんて、顔を見れば見当がつく。――だから私には、もう何もできないの』

 しょせんは部外者。周囲で嗅ぎ回っただけの人間が、真剣に愛し合っている者たちに、何をいえるはずもない。
 だから、頼れるのは祐麒しかいない。
 三奈子と蔦子はそういって頭を下げた。
 他力本願なのは重々承知。だが、血の繋がった家族の言葉であれば、祐巳も考え直すかも知れない。
 彼の口から祐巳を説得してもらい、この狂った状況に何らかのピリオドを打たせて欲しい――

「……この、俺が?」

 祐麒は自嘲の笑い声を立てた。
 食後の一時。祐巳は風呂に入っている。
 居間で付けっぱなしのテレビを眺めながら、彼の視線はさらに遠くを見つめていた。
 よりにもよって、この俺が。最後の頼みの綱だとは。
 笑うしかない現実とはこのことか。
 引きつったような笑い声を、福沢祐麒は立て続けた。

「祐麒ー、お風呂空いたよー?」

 居間の扉が開いて、祐巳が顔を見せる。
 バスタオル一枚巻いただけのその体の味を、祐麒は知っている。
 彼女が自分を愛し、自分が彼女を愛していることを知っている。
 どうしようもない絶望に馴れながら、そのことだけは知っている。
 風呂上がりで赤らんだ顔に親しげな微笑を浮かべ、また後でね、と囁いて自室に戻って行く祐巳の背中を見つめながら、彼は何かを呪い続けていた。

 

 風呂場に向かう廊下の途中、祐麒は何とはなしに思いついて、壁に頭を打ちつけてみた。
 脳髄を衝撃が駆け抜け、鼓膜から空気が漏れたような気がした。

「どうすればいいんだよ、こんなの……!!」

 掠れた声で呻いてから、彼は何事もなかったように風呂に入った。
 ――その夜もやはり、彼女を抱いた。

 

 


後書き

 毎度のことながら読み違い。
 前後編でまとめるつもりが中編も入れないとおさまりがつかなくなりました。
 あまりに長いと読んでる方も中弛みするだろうと思ってますので。
 ここらへんは書き手ごとに個人差もあるでしょうが、七瀬由秋は一編乃至一章につきだいたい20KB〜30KBを一つの目安としてます。ちょっと前には60KB近い短編(ちなみにエヴァSS「円環舞踊」のこと)なんかも書いたもんですが(笑)、今から思えばこれも前後編に分けるべきだったな、などと。
 で、ついでといっては何ですが、サブタイトルもつけることにしました。
 前編は「fairy tale」、この中編は「stray sheep」。和訳するとそれぞれ「童話」、「迷える羊」となります。
 後編「heaven's door」――「天国の扉」も、早めに書き上げたいと思います。


 

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