鳥は空に、獣は野に、魚は水に。
あるべきものはあるべき場所へ。
花は枯れ、果実は落ちて、骸は腐る。
千の終りは千の始まりへ。
――この星と命に祝福あれ。
我ら定めのままに生を謳歌し、
我ら定めのままに土へと還る。
heaven's
door
七瀬由秋
築山三奈子と武嶋蔦子の忠告――あるいは懇願を、結果として祐麒は無視する形となった。
彼女たちの言葉を信じなかったわけではない。
むしろ実感として把握できたほどだ。
しかし彼は、自分に祐巳を説得する資格があるなどとは思えなかった。
考えようによっては自分こそがもっとも下劣な人間ですらあるのだ。実の姉を、その行状を知った上で愛してしまった人間に、なすべき何事もない。
その意味では、三奈子と蔦子は最悪の人選をしたことになる。むろん、祐巳と祐麒の関係を知らぬ彼女たちには罪のないことなのだが。
一方で祐麒は、姉の置かれた状況を楽観していたわけでもなかった。
リリアン学内という同じ空気の下で、同じ一つに囚われた少女たちが何を思い、何を欲しているのか。
恋敵どもと日常的に顔を合わせるという気分がどれほどのものか、祐麒は想像して寒気すら覚えたほどだ。
このままではいけない。
そのことは理解できる。
馬鹿でもなければ理解できる。
……しかし、何をすればいいのか、何ができるというのか。何の資格が、あるというのか。
福沢祐麒は疲れていた。
罪悪感は変わらず耳元でがなり立て、諦観は足下の影の如く佇んでいる。
いつしか馴れてしまったとはいえ、心は確実に侵食され、削られて行く。
――どうとでもなるがいい。
彼は投げやりにそう思っていた。
破滅だろうが何だろうが知ったことか。
……それ以上考えることを、福沢祐麒は放棄した。
三学期に入って以後も、祐巳の生活は変わらなかった。
いや、多少の変化があるとすれば、よその家に泊まり込む頻度が多くなったということだろうか。
だいたいにおいて、週に一度は別の家で朝を迎えるようになっている。
祐麒はその理由について誤解しなかった。
「恋人」の数が、この短期間で増え過ぎたのだ。
祐麒が知る限り、九月以前までの祐巳の「恋人」は、彼自身と藤堂志摩子を含めてせいぜい三、四人だったはずだ。それが新年を迎えた今、十人以上に膨れ上がっている。
紅薔薇のつぼみの妹となったことにより、志摩子以外の山百合会幹部たちとも必然的に「親密」になったこと、そしてその仕事及び立場上、それまでまったく接点のなかったクラスメイト以外の一般生徒(特に上級生)などとも関わりを持つようになったのが影響している。
祐巳が山百合会に入ったという一件は、幸いにして祐麒が危惧していたような結果――彼女の爛れた行状が露見する、という――はもたらさなかった。
これは三奈子と蔦子がいっていたことだが、山百合会がリリアンにおける絶対的な憧憬の対象であることが、この場合はプラスに働いているという。根本的に信用があるし、少々度を越して誰かと仲良くしていても「山百合会なのだから慕われて当然」と片付けられてしまう。表現を変えるなら、疑いを持つこと自体が一種の罪悪なのである。直接的な性行為に至っているのが目撃されるのでもない限り、大抵のことは噂のレベルに留まり、看過されてしまう。
――しかしその一方で、祐麒が危惧していたのとはまるで逆の結果が導き出されていた。
それまでごく一部の人間のみが貪っていた禁断の果実が、より多くの人間にも触れる機会を作ってしまったのだ。
そして、同じ果実に手を伸ばした者たちは、それぞれの顔を見合わせて、陰鬱な情念を沈殿させつつある……
とはいえ、祐麒個人についていえば、取り立てて「同類」が増えたことによる弊害は感じ取れなかった。
たしかに祐巳の帰りは遅くなった。休日も出かけてしまう。
しかし、何といっても祐巳の家は祐麒の家でもあるのだ。
外泊が多くなったとはいえ、週に一度くらいなら我慢することもできる。
両親がまたもや関西に出払っている今、毎夜のように彼女を抱く日々に変わりはない。
絶望を半身の如く身近に感じつつも、祐麒の普段の生活に変わりはなかった。
――だからその日。
いつものように帰宅した祐麒が、玄関に自分たち姉弟以外の人間の靴を発見したときも、何がしかの予兆めいたものは感じ取れなかった。
靴は姉と同じ、リリアン指定の黒い革靴だった。
ならば話は簡単だ。彼は了解した。姉が、同じ学校に通う「恋人」を連れ込んだのだろう。
祐巳はこれまで何人かの「恋人」を家に招待し、祐麒とも引き合わせている。一度など、「三人で一緒にしよっか」などとも誘われたが、さすがに断わった。今更隠し立てしてもどうしようもない――あるいは祐巳の口からすべてが漏れているかも知れないとわかってはいても、姉を抱く自分の姿を誰かに見られたくはなかった。
ため息を一つつき、靴を脱ぐ。玄関から見る限り、居間に人の気配はない。
おそらく、祐巳の自室で話でも――あるいは別の何かを――しているのだろう。
今夜は一人寝だな、と安堵や寂寥など諸々含んだ気分で階段を昇ろうとしたとき、頭上からドアの開く音が響いてきた。続いて、何故か慌てた様子で二階の廊下を走り、階段を駆け下りてくる音。
階下から見上げると、鞄を両手に抱えるように持った少女の姿が目に入った。
顔に見覚えがある。藤堂志摩子。すべてが始まったあの夏の日、祐巳に抱かれていた少女――祐麒が知る限り、もっとも早くに祐巳と関係を持った、彼女の「恋人」の一人だ。
西洋人形を思わせる端整な顔立ちは真っ赤に染まっていて、それが祐麒を見た瞬間にはっきりと強張った。
「どうも」
「…………っ」
とりあえず挨拶しかけた祐麒に応じる余裕もなく、志摩子は飛び降りるようにして階段を下りてくる。
慌てて廊下の端に飛び退いた彼の眼前を、彼女は無言のままに駆け抜けた。
そのまま引っかけるようにして靴を履くと、最後まで何をいうこともなく玄関から飛び出して行く。
祐麒は唖然とその背中を見送っていた。
何だあれは? ――率直にそう思う。
祐巳の「恋人」の一人として、その弟と顔を合わせるのが気まずいというのはわからないでもない。彼もまた祐巳の「恋人」の一人なのだと知られているのなら、尚更だろう。
だが、今のは。祐麒の存在に気付く前から、十分以上に慌てていたように見えた。
首を傾げたまま階段を昇り、二階の自室に入ろうとしたとき、祐巳の部屋のドアが開けっぱなしになっているのに気付いた。
「ただいまー……」
隙間から姉の部屋を覗き込み、挨拶する。
「……って、おい」
思わず、祐麒は呆れた。
祐巳はベッドに半身を起こしていた。祐麒の声に、「んー?」と応えつつ、体を伸ばしている。
当然の如く、彼女は全裸だった。ベッドの周囲にリリアンの制服が脱ぎ散らかされている。
「少しは恥じらいを持てよ。――今更かも知れないけど」
小振りだが形のよい胸を隠そうともしない祐巳から目を逸らしつつ、祐麒は苦情を並べる。夜に抱き合うときを除いては、あくまで普通の姉弟。祐巳にとっては当然の、祐麒にとってはせめてもの慰めとなる、それが二人の日常だった。
「お帰りー。ちょうどよかった」
「なんだよ」
「救急箱、取ってきて」
「は?」
「だから、救急箱。居間にあったでしょ? お願い」
重ねて依頼されて、祐麒は呆気に取られつつもうなずいた。
とりあえず自室に鞄を放り込んでから、注文通り救急箱を調達してくる。
祐巳は服を着直す様子もなく、ベッドに座ったままそれを待っていた。
ほいよ、と相変わらず視線を逸らしつつ差し出された救急箱を、礼をいって受け取るやすぐさま中を探り始める。
「んじゃ、さっさと服着ろよ」
言い捨てて、自室に戻ろうとした彼を、祐巳は「ちょっと待って」と引き止めた。
「ごめん、ちょっと手伝って」
「はあ?」
訳のわからないまま祐麒は振り向き、この日初めて姉の姿を直視した。
――瞬間、呼吸が止まった。
祐巳は左手で救急箱の中身を探っていた。彼女は右利きだ。
ベッドの上の救急箱にただ添えられただけの右手首は、蒼く腫れ上がっていた。
「……おい」
ようやく目当てのもの――湿布と包帯を探し当て、右手首に巻き始めた姉に、彼は歩み寄った。
「どうしたんだよ、それ」
「んー。はしゃぎ過ぎた代償、かな」
けらけらと――本当にてらいなく笑って、祐巳は答える。
包帯巻くの手伝ってくれる? そういいながら差し出された右手を、祐麒は文字通り腫れ物に触れるように手に取り、慎重に手当てを手伝った。
慣れないながらも丁寧に包帯を巻き終え、テープで固定してから、祐巳は「そうだ」とうなずき、祐麒に背中を向けた。
「ついで。背中にも軟膏か何か塗ってもらえる?」
見事なミミズ腫れ――いや、そう呼ぶには躊躇いを覚えるほど深い傷が、白い背中に刻み付けられていた。どれほどの力で爪が立てられればこうなるのか、もはや裂傷に近い。
祐麒は感情も理性も麻痺した頭で、いわれるままに薬を塗り、ガーゼを貼りつけた。
「ありがとうね。本当、助かった」
感謝の言葉を虚ろに聞きながら、祐麒は呆然と周囲を見渡した。
脱ぎ散らかされた制服と下着。だが、よくよく見れば襟のあたりがわずかに裂け、ブラの肩紐は引き千切れていた。――まるで力任せに体から剥ぎ取られたような。
今の今までうかつにも気付かなかったのだが、ドアのすぐ脇には口の開いた鞄が中身を吐き出している。
机の前の椅子は横倒し。棚の上に飾られていたはずのテディ・ベアが床に落ちていた。
そして、祐巳の右手首。思い切り誰かに捻り上げられたのでもなければ、こうはならない。
冷静な判断を持ち合わせた人間なら――いや、誰がどう見ても――、陵辱の現場だと思うしかない。
「これは……もしかして」
「ん。志摩子さんが、ちょっとね」
祐巳は相変わらず笑いながら、困ったものだといいたげに答える。
対照的に、祐麒の顔からは急速に血の気が引いていた。
思い出す。つい先刻、逃げるように彼の目の前を駆け抜け、飛び出して行った。目が合ったときの表情。決まり悪げというより、犯行現場を通行人に目撃された犯人のようだった。
いや、犯人そのものだったのだ。藤堂志摩子は。
祐巳は動かしにくい右手に苦労しながら下着を着け、ワンピースを羽織る。
本当にいつも通りの、ただ道で転んで膝を擦りむいたというのと何ら異ならない様子の彼女に、祐麒は問いを重ねた。
「……何で、あの人が。そんなことを」
あの夏の日、初めて会ったときの藤堂志摩子を思い出す。
ふわふわの巻き毛は綿菓子のようで。儚い、しかし芯の通った微笑を浮かべていた。
マリア様のようだと思えるほど清く純粋で、濁りのない。
祐巳さん、と呼ぶ声が、心地よいほど透き通っていた――
「んー。志摩子さんとはしばらくご無沙汰だったからかな。夏休みが終わってからこっち、お互い何かと忙しかったし」
ひどくあっさりと。
「久しぶりに誘ったら、部屋に入るなり押し倒されちゃって。凄かったなぁ……志摩子さんの新たな側面を発見した気分」
愉しそうに、本当に愉しそうに、彼女はいった。
――けれども。
祐麒が思い描いた、おそらくは限りなく真実の再構成に近い映像は、どんな意味でも笑い事ですませられる類のものではなかった。
夏休みが終わってから――ということは、つまり九月からこの一月までの四ヶ月以上。
それだけの長期間に渡り、祐巳を抱くことができなかった、福沢祐麒の同類。
人目がないところでキスや軽い愛撫くらいはしていたのかも知れない。けれど、本当の意味で体を重ねることはできず。
次々と新たな「恋人」を増やし、体を許してきた祐巳を、同じ教室、同じ空間で眺め続けていた。本来潔癖なその羞恥心と、優しく穏やかな心根ゆえに、何を言い出すことも出来ず。祐巳を抱いた自分以外のすべての人間を呪いたくなって、しかしそんな自分が許容できなくて。
泣くことも憎むこともできず、ただ他の誰かの隣で笑っている愛しい少女を見つめる。
――その想い。渇望。積もり積もった情念。
目に浮かぶようだった。
久しぶりにウチに来ない? ――そう誘われた瞬間、体の中で無音の歓声と共に何かが弾け飛ぶ。
忘れられていたのではなく、嫌われていたはずもないのだと。哀れなほどの必死さでそのことを再確認し、己が内に封じ込めようとしていた想いの巨大さを再確認する。
学校からバスを乗り継ぎ、この家に至るまでの時間はきっと長過ぎたのだろう。ほんの一歩踏み出す、ただそれだけの動作が拷問のように思えたに違いない。
前に立って先導する愛しい背中。人前であろうが無意識に伸びてしまう手を、その都度我に返って押さえつける。
ようやくのことで、見覚えのある家に辿りつき。靴を脱いで。廊下を歩き。階段を昇る頃には、もう目の前が真っ赤に染まりかけている。
吐息は乱れ、臓腑は唸り、骨格が軋む。肌があわ立ち、目が血走り、耳鳴りがする。堅く握り締めた手の指は、そうしなければ細かく震えていた。
そして、そして。
『どうぞ、入って』
そんな風に自室に招き入れられたのと、まったく同時に。
――すべてが破裂する。
椅子が蹴倒され、放り投げられた鞄が棚にぶつかり、テディ・ベアを落下させる。
まるで叩きつけるようにベッドに押し倒す。床の上であっても一切構わなかったに違いない。たまたま傍にベッドがあったからそうなったという、ただそれだけのこと。
引き裂くように服を剥ぎ取り、現れた白い肌に迷わずむしゃぶりつく。
心臓はガンガンに鳴り響く。うるさいほどに。けれど気にならない。
優しくする余裕なんて欠片もない。
抵抗されるのが怖くて腕を捻り上げる。
……そのとき、初めて目が合うのだ。
福沢祐巳。誰よりも愛しくて憎らしい、無垢の狂気をたたえたその瞳。
彼女の狂気に拒絶はない。愛し愛された者のすべてを受け入れる。
今このときの乱暴という表現を超えた浅ましい行いにも、彼女は嬉しげに笑って応えてくれる。
その事実が。
一瞬、我に返りかけた欲望を、さらに加速させて――
「…………っ」
白い体を蹂躙するその顔、姿が、自分のそれとまさに重なって、祐麒は両手で顔を覆った。
かろうじて呼吸を整え、現実を確認するように、姉の右手に掌を重ねる。
「祐巳……」
震える声が押し出される。
今の今まで、自分が、自分たちが立っていた場所が、どれほど脆く危ういものか。
ちょっと足下を確認すればすぐにわかるはずのその事実に、彼はようやくのことで気付いていた。
……いや、違う。
本当はずっと前からわかっていた。すべてが始まったあの日から、わかっていたことなのだ。
それなのに、気付かないふりをしていた。
自分が手に入れてしまった関係。夜毎に姉を抱く、狂った日々が心地よくて、目を逸らし続けていた。
築山三奈子と武嶋蔦子の忠告が今更に思い出される。そうだ。何が起こっても、不思議なんて、なかった。
藤堂志摩子は特殊な例外などではない。決して。
祐麒が、いや、福沢祐巳を愛してしまった者たち全員が、等しくなりうべき一つの帰結。同じ果実に手を伸ばした者たちの末路の形。
果実が一つしかないのなら、取るべき道は限られている。
他の連中を排除するか。それとも、自分一人でがむしゃらに食らいついて、芯までむしゃぶり尽くしてしまうか。
自分から身を引くなど論外だ。それをするには、失うものはあまりに甘美で大きすぎる。
今回は手首の捻挫と背中の爪痕ですんだ。だが、その次は? 次の次は? 次の次の次は?
抑えつけられた情念の噴出はより激しく、熾烈で、そして凄絶なものになるだろう。
「祐巳……頼む。俺がいえることじゃないけど……それでも、聞いてくれ」
祐麒はいつしか祐巳の傍らに跪いていた。
「……誰でもいい。俺でなくても構わない。構わないから……恋人と呼べる相手は、ただ一人だけに決めてくれ」
包帯に包まれた右の手を抱え込むようにして、懇願する。
「ゆっくりと、少しずつ……今付き合っている人間を減らして行けばいいんだ。何もはっきり別れを口にして縁を切れとはいわない。さり気なく、接触を減らしていって……自然に、忘れてしまうように……」
いいながら、それがどれほど困難なことであるか、祐麒は身をもって知っていた。
志摩子もそうだったが、福沢祐巳との距離が離れてしまう――その体と心を愛せなくなるというのは、一度それを味わった者にとり、生身を業火で炙られるに等しい苦痛だ。
気長に風化を待つとしても、どれほどの時間がかかることか。待っている間に何か起こらないと考えるのは楽観に過ぎる。
それは、摩天楼に張り渡した細いロープを渡るようなものとなるだろう。つま先から頭頂に至る全身のバランス、風の強弱、ロープの弾性・強度、細かな足運び、呼吸、センスと集中力。どれか一つを間違えただけで、常闇の淵へと落下する。
自業自得といってしまえばその通りだ。けれども、すべてがとうの昔に手遅れになっているとだけは、思いたくはなかった。
「頼む……頼む、頼む、頼む!」
祐麒はいつしか土下座までして懇願していた。
とんでもない偽善だ、と頭のどこかで誰かが笑っていた。
お前は自己満足でそうしている、と嘲る声が聞こえていた。
わかっている。わかっている。すべてわかっている。
今の今まで姉に溺れていた男が何をいえるはずもないと、痛切に自覚している。
だからこそ彼は、無様を承知で頭を下げる以外の選択をなしえなかった。
「…………」
祐巳は無言のままだ。その表情を直視して確かめる勇気は、彼にはなかった。
呆れているのかも知れず、笑っているのかも知れない。
失望しているのかも知れず、戸惑っているのかも知れない。
どれでも構わない。
ただ彼は、そうしなければ気が済まなかった。
――やがて、彼女がベッドから立ち上がる気配があった。
祐麒はびくりと体を震わせ、下げたままの頭で床を凝視する。
断罪を待つ死刑囚の気分で全身を硬直させた、その次の瞬間。
ふわり、と。
柔らかに風が頬を撫でる感触がした。続いて、鼻腔をくすぐる匂い。
幾度も感じた、姉の匂い。
彼女が傍らに膝をついたのだと、視界の端で確認できた。
「…………っ」
優しく、頭が抱えられる。
幼子に膝枕をするように、祐巳は祐麒の頭を抱き締めていた。
「……ありがとう」
溢れんばかりの愛しさ、慈しみを込めた声。
祐麒を、皆を狂わせたあの声が、静かに彼の鼓膜を震わせた。
「祐麒は本当に、優しい子だね……」
聖女のような優しい仕草で、祐麒の頭をそっと撫でて。
彼女は静かに、言葉を紡いだ。
「……うん。すぐには返事できないけれど、考えて見る。……今はそれでいいかな」
「あ……ああ……」
――胸に暖かい、安堵と呼べるものが流れ込んでくる。
それは福沢祐麒の全身をあっという間に満たし、目から溢れ出た。
「祐巳……!」
彼は顔を上げて、慈母の如く自分を抱く女の顔を見つめた。
彼女はにっこり笑って、うなずいてくる。
「……祐巳……!!」
涙でぐちゃぐちゃになった顔で、彼はより強く祐巳の体に抱きついた。柔らかな姉の体は、優しく包み込むように彼の体を受けとめる。
彼女はただ、優しくあやすように彼の背中を撫で続けていた。
――夜も更けてから、祐麒は一人で部屋に戻り、ベッドに寝転がった。
月明かりに照らされた天井を見上げながら、今日と、これからのことを考える。
祐巳は、考えて見る、といってくれた。
はっきりした返答ではないにせよ、これは一つの前進だ、と思う。彼女はきっと、これまで何を悩むこともなく、常軌を逸した愛欲のままに恋人を増やし続けていたのだから。
これから。すべてはこれからだ。
磨耗しかけていた弟としての義務感を呼び覚ましつつ、彼はその言葉を繰り返し続けていた。
一つには、そうしなければ、自虐と未練が頭をもたげかけてくるためもあった。
つい数時間前まで自分を捕えていた絶望という名の楽園。
何を考えることもなく、祐巳に溺れていた日々。
何度も抱いたあの体、甘い声、笑顔、暖かさ、悦楽、
――心から愛し、愛してくれた少女の姿形。
思い出してはならない。封印しろ。
祐麒は、かつてそうしていたように、思考の一部にブレーキをかけた。
結局のところ、自分は何一つ変わっていない。そのことを自嘲まじりに自覚する。
男として福沢祐巳に耽溺していたときは、弟としての意識を封印していた。
そして今は、弟としての義務感にすがりつくことで、男としての意識を封印しようとしている。
回り続けるコインの裏表。
自分はただ、その回転を無理やり止めて、自分に都合のいい目を出そうとしているに過ぎない……
いや、余計なことを考えるな。
男としてであれ弟としてであれ、祐巳の安全が最優先という認識に、偽りも誤りも存在しないはずだ。
――ベッドに入ってから、どれほどの時間が経ったのだろうか。眠気は一向に起こらず、そもそも瞼を閉じようという気がしない。
彼はただ、睨みつけるように天井を見つめ、同じことを飽きることなく考え続けていた。
窓の外の月は満月。真円の光が射し込んでいた。身動き一つしない祐麒の顔半分を、それは白く照らし出す。
雲が月を陰らせたのだろうか、視界のぼんやりとした明るさが急に陰った。
――きぃ、と微かな音が立ったのはそのときだ。
祐麒は何気なく視線だけを動かし、次の瞬間に息を呑んだ。
部屋のドアが細く開かれ、思い描き続けていた少女が顔を覗かせている。
「祐麒、起きてる?」
「っ……な、何だよっ!!」
とっさに、叫ぶように祐麒は反応していた。
こんな夜中に部屋を尋ねてくるなどと――
彼は反射的に込み上げた期待と悦びを振り払うように、姉に向かっていった。
「ひ、昼にいったこと、もう忘れたのかよっ! せめて今日明日くらいはじっくり考えてくれよ……っ!!」
祐巳にというより、自分自身に向けて彼は叱咤した。
そうしなければ、うっかりいつものように押し倒してしまいそうだった。
闇を透かして見る祐巳の姿は、パジャマを着ていてさえ、彼の体を疼かせる。
「うん、わかってる」
彼女はうなずいて、ためらう様子もなく部屋に入ってくる。
月はいまだに陰ったまま。
窓から見える街灯と星の光だけに顔を洗わせて、彼女は微笑んでいた。
「お話、しよ? 別に、夜中に一緒の部屋にいるからって、やることがSexって決まってるわけじゃないでしょ」
そういう風にいわれると、祐麒には返す言葉がない。
むしろ、姉と弟という立場で考えれば、当然の台詞だ。
弟としての自分を懸命に思い出しながら、祐麒はややあってからうなずいた。
「……わ、わかったよ。本当に、話だけだからな」
わざわざ釘をさしたのは、いうまでもなく自分自身に対する戒めであった。
ん、と軽くうなずいて、祐巳はベッドに腰掛ける。
祐麒は上身を起こすと、さり気なく壁にもたれかかり、彼女から体を離した。
「……久しぶりだね。こういう風に、二人で夜中にお話するの」
懐かしむように祐巳はいう。
期せずして、祐麒もおそらく彼女が思い浮かべたのと同じ情景を思い出していた。
それはもう十年ほども前。福沢家の子供たちがいまだ個々の部屋を与えられず、一緒の部屋で育てられていた頃のことだ。
年子とはいえ、小学校に上がるか上がらないかの子供にとって、一年の年齢差はそれなりに大きい。
夜に一緒の寝床に入ったときなど、姉に甘えるようにくっついて離れなかったものだ。どういうわけか祐麒は、その頃から母や父よりも姉に懐いていた。それが今の状況の萌芽であったとは考えたくはないが。
眠れない夜は、姉弟二人して布団の中で語り合い、気付いたら眠りに落ちていたということも何度かあった。
御伽噺のような遠い、しかしたしかに在った、昔の話だ。
「祐麒は、人を好きになったことはある?」
彼女は唐突に尋ねて来た。
相変わらず明朗な、からかうような響きすら含んだ口調だった。
「――あるよ。いわせんなよ」
祐麒はぶっきらぼうに答える。
――ああ、たしかに自分はこの姉を愛してしまった。
その事実だけは、変えようもない。
そしてそのことを、祐巳も知っているはずだ。
だからこそ、彼女は自分に体を許したのだろうから。
「どんな気分になった?」
祐巳は問いを重ねてくる。
彼は一瞬、顔を逸らして口を噤みかけ、姉の表情が思ったより真剣なものだったことに気付いて、諦めて口を開いた。
「どんなって……普通だよ。その娘に側にいて欲しいし、笑ってくれると嬉しい。自分のことを好きになってくれたなら何より幸せで、自分でその娘を幸せにしてもやりたい……」
「抱きたいとかって思う?」
「――思うよ。その娘を抱くことを考えたら、すごくドキドキする」
俺は何を言っているんだろう――羞恥心と共にそんなことを考えたが、口に出してしまったものは取り消せない。
祐巳は、そっか、と微笑んで、祐麒の髪をくしゃりと撫でた。まるで昔、寝つけない彼をあやしたときのような仕草で。
「だったら、私と同じだ」
彼女は笑った。薄闇を通してさえ眩しく感じる、濁りのない笑顔だった。
「私もね、好きな人が出来たら、その人のことがたまらなく欲しくなるの。側にいて欲しいし、笑っていて欲しいし、幸せになって欲しい。その人と体を重ねることが出来たら、どんなに幸せだろうって思う」
それは愛しさと慈しみで織り上げられた言葉。
「その人の方でも私のことを好きでいてくれてるんだな、ってわかると、もう限界。性別とかそんなもの、全然関係なくなっちゃう。自分のすべてを捧げて、その人のすべてが欲しいって、そう思う。心も体も愛し合って、全部全部私のものにしたいって」
――でも、と。
聖女の微笑に、このとき初めて陰りが見えた。
「――私の場合、それが一人に特定されないんだ。惚れっぽいというのか、多情というのか」
体を許すほどの愛情を、同時に複数の相手に抱いてしまう。
優劣も順序も上下もなく、純粋に、平等に。
彼女は沢山の人を愛し、沢山の人の心と体を欲する。
――それが彼女にとって、自然なことだから。
「祐巳……」
祐麒は、震える声で彼女の名を呼んでいた。
紡がれる言葉を聞くうちに、胸に広がり始めた予感。その感情。
それを彼は知っている。もうずっと馴染み深く知っている。
「――私、これでもずっと考えてたの。どうして私は、たった一人を選べないのかな、って。そしたら、祐麒も志摩子さんも、お姉さまや他の方たちも、苦しまなくて済んだのに、って」
呼ばれたことになど気付かぬ様子で、彼女は語り続けた。
――皆が苦しんでいたことも、きっとわかってた。
わかった上で、放置してたんだ。ひどいよね、私。
「……もういい」
私も結局、甘えてたし、諦めてたんだ。
全部、仕方ないことなんだって。
私が確かに愛してさえいれば、きっとわかってもらえるはずだって。
しばらく体を重ねることが出来なくても、私が愛していることだけは、わかってくれてるはずだって。
「……もういい」
その先に何があるのかも、私、薄々はわかってた。
けれど、考えないようにしてた。
目の前の人たちを愛していれば、それで幸せだったから。
祐麒は「俺がいえることじゃないけど」なんていってたけど、それは違うの。
私にこそ、何をいう資格も、なかった。
「……もういいんだ」
さっきまで、ずっと考えてた。
今まで考えなかったこと。
祐麒が心配してくれていたようなこと。
うん、もうはっきりとわかるよ。このままだと、どうなってしまうか。
でも、私には、こうする他はなかった。
私には、こんな風にしか、愛せない。
誰の責任でもない、私はこういう人間だったから。それだけのこと。
――だから、後悔は、ない。
今までも。これからも。
「もういいっていってるだろ!!」
気が付いたら、祐麒は叩きつけるように彼女の言葉を遮っていた。
彼が願った通り、彼女が見つめ直したこと。
そしてその末に、彼女がたどり着いたこと。
そのすべてを、彼は耳にしたくなかった。
生まれてからずっと一緒に過ごしてきた姉、幾度となく体を重ねた愛しい少女。
言葉で説明されるまでもない。彼女がたどり着いたその場所を、彼は確信できてしまった。
――そんな確信を、彼は求めてなんかいなかったのに。
「……祐麒は、いい子だね」
だというのに。
彼女は今このときですら、そんな自分を受け止めてくれる。
その言葉に、その仕草に、その姿に。
震えが来るほどの神々しさを、彼は感じてしまっていた。
「私はやっぱり、祐麒が好きだな」
心からの想いをこめて、そう囁いて。
彼女が彼を差し招く。
パジャマの胸元を開き、腕を広げて。
抗うことなど思いつきもせず、彼は誘われるままに彼女の胸に顔を埋めた。
躊躇も恐怖も、彼女を神々しいと感じてしまった瞬間、溶けるように消え失せていた。
ああ――
彼は馴れ親しんだその感情を――絶望と呼ばれるその感情を、諦めと共に再び受け入れていた。
――この女は、地響き立てて唸り続ける巨大な車輪だ。
近寄る者を否応無しに巻き込んで、車輪はどこまでも進み続ける。
誰も、抗えない。
逆らうことなど、できるはずもない。
止められる者など、いるはずがない。
行き着く先がどこであろうと、車輪はどこまでも回り続ける。
「祐巳……!」
彼女の体温を全身に感じ、その匂いに包まれながら。
彼は愛しいその名を、何度も呼び続けていた。
……その夜、力尽きるまで抱き合い、眠り落ちる寸前に聞いたその話を、彼は後々になっても思い出すことが出来た。
夢現に交わしただけのその会話を、何故かはっきりと記憶に刻印していた。
「――盲目の羊の群れと、そこで育てられた狼の話を知ってる?」
――知らない。何だよ、それ。
「つまらない話よ。目の見えない、盲目の羊の群れ。そこに紛れ込んでしまった、狼の仔がいたの。どこかから迷い込んだのか、それとも拾われたのかはわからない。とにかくその狼の仔は、気がついたらそこにいたの」
……ふぅん。それで?
「羊たちはそれが狼だと気付かなかった。だって彼らは目が見えなかったから。自分たちとその仔の姿形の違いに気付かなかった。――それは、狼の方もそうだった。狼は目が見えたけど、自分で自分の姿を見ることはできない。鏡なんて、なかったしね。だから、自分もまた羊なんだろうって、そう信じてた」
まあ、それは仕方ないのかも知れないな。
「でしょ。――でも、やがて狼はどんどん育っていった。体は大きくなって、たくさんのものを考えるようになった。そしてある日、とうとう気付いたの。羊たちより自分の手足がはるかに逞しく、爪は長く、牙は鋭いってことに。自分が狼だってことに、気付いてしまったのよ」
……それで?
「狼は悩んだの。自分は皆とは違うって。けれど、盲目の羊たちには、そもそも狼が何で悩んでいるのかわからない。狼が狼であることに気付かない。自分たちとは姿形が違うということ、いえ、そもそも姿形が異なる生き物がいるということすら、彼らは知らなかったから。狼は自分たちの仲間なんだって、疑うことなくそう思ってた」
なら、問題はないんじゃないか? 種別はどうあれ、羊の方が仲間だと思ってくれるなら構わないだろう。
「うん、そうだよね。狼も、盲目の羊たちのことが大好きだったから。仲間だって、そう思ってたから、問題なんてないはずだった。……けれども」
けれども、何だよ。
「狼はやがて、見た目よりもよっぽど深刻な違いに気付いたの。だって、狼の四肢は、獲物より速く野を駆けるためのものだったから。その爪は獲物を切り裂くために、その牙は獲物を噛み砕くためにあったから。羊たちのように、草だけを食んで生きることが、もともと狼にはできなかったのよ。理由なんて別にない。狼は、狼だったから。ただそれだけのこと」
…………。
「狼は苦悩する。どうすればこの飢えを満たせるのか。どこで獲物を見つけたらいいのか。でも、目の前にいるのは羊たちだけ。目の見えない、羊たちだけ」
……それで?
「狼はとうとう限界を迎える。本能の叫びに耐え切れず、羊の一匹を襲ってしまう。その脚の一本を噛みちぎり、食べてしまったところで、我に返るの。自分は何てことをしてしまったんだ、って」
…………。
「狼は怯えながら夜を明かした。でも翌朝、狼は、羊たちがそれまでと何一つ変わらず自分に接してくることに驚いた。盲目の羊たちは、何が起こったのか気付かなかったのね。狼が仲間を襲ったことに、気付かなかった。――それは、襲われた羊ですら同様だった。何だか痛いな、歩くのが不自由だな、って。それくらいにしか、思ってなかった」
……………………。
「狼はやがて、同じことを繰り返し始める。羊たちが気付かないことを幸いに。ある羊は前足を、ある羊はお腹を、ある羊は尻尾を、それぞれ食べられてしまった。けれど、盲目の羊たちはそれでも気付かない。狼とも、それまで通りに仲良く暮らし続ける。刻まれた傷痕、失われた体の一部、決して消えない痛みを抱えながら、それまで通りに」
…………………………………………。
「狼はいつしかそれに馴れていった。狼は羊たちに酷いことをしてしまったけど、それでも羊たちのことが大好きだったから。ただ、一緒にいたかった。狼が望んでいたのは、ただそれだけ」
……それで。
どうなったんだ、狼は。その後。
「さあ」
『さあ』?
「わからない。ある日、狼は突然消えてしまったから。どこに行ったのか、羊たちにはまるでわからなかった。狼が、自分たちの大切な仲間がいなくなってしまったことを、ただ悲しんだ」
…………なんだよ、それ。
「これはただそれだけの、つまらない話。盲目の羊の群れに紛れ込んだ狼がいたという、ただそれだけの話――」
――語られた言葉。
愛しい声。慈しむ笑顔。
彼女は確かに彼らを愛していたのだという、その証。
その夜に語られた童話をなぞるかのように――
半年後、祐巳は死んだ。
大気が熱を孕み始めた初夏の一日、いつものように学校に出かけ、そして帰らなかったのだ。
翌朝、薔薇の館と呼ばれる建物の傍で、冷たくなった彼女の遺体が発見された。
発見した生徒が、最初はただ眠っているのだろうかと勘違いしたほどの、それは綺麗な骸だったという。
薔薇の館は、二階の部屋の窓が開け放たれており、福沢祐巳はそこから落ちて、死亡したのだと推測された。
事故、自殺、あるいは他殺。いずれとも知れない。
とりあえず確実なことがあるとすれば、少なくとも福沢祐麒が姉を手にかけたのではない、ということくらいだろうか。
現場に争った跡がなく、遺書もないことから、警察は速やかに事故の判定を下した。
重要参考人として扱われることも覚悟していた祐麒が拍子抜けしたほどの、それは呆気なさだった。警察は、ただの一度だけ福沢家を訪れ、死の直前の祐巳の様子を尋ねただけで、あっさり帰っていったのだ。
祐麒はその理由について誤解しなかった。
リリアン女学園は良家の子女が多く通う名門だ。どんな意味でも厄介事を厭う父兄には事欠かず、その中には政界にも財界にも名を知られた者も少なくない。つまりはそういうことだ。
祐麒は霊安室で対面した、冷たくなった彼女の顔を覚えている。
眠るように目を閉じたその表情は、まるで最期の瞬間まで愛を語らっていたかのように、優しく穏やかなものだった。
死すらも愛しげに受け入れるような――殉教者のような、というにはあまりに崇高過ぎる、それは静かな終焉だった。
だから、彼は、泣かなかった。
夏が終わり、季節が秋にさしかかった頃、福沢祐麒はリリアン女学園を訪れた。
彼は前年度の末に柏木優の推薦を受け、その年の花寺学院生徒会長に就任していた。
そして花寺とリリアンは、各々の学園祭に際して生徒会が協力し合う慣習がある。
当校の雰囲気を知る意味でも、まずは一度リリアンへいらして下さい――という先方の誘いを祐麒は受け入れ、花寺生徒会の仲間を連れてそこを訪れたのだ。
仲間たちは、しばらくお前は休んでいたらどうだ、学園祭のことなら心配するな、といってくれたが、祐麒はその言葉を謝絶した。気遣われるどんな理由も、少なくとも彼にはなかった。
薔薇の館の二階で、彼はこの学園でもっとも姉の身近にいた人たちと対面した。
小笠原祥子、支倉令、藤堂志摩子、島津由乃、二条乃梨子。
山百合会に咲き誇る三薔薇と、そのつぼみたち。ただ、紅薔薇のつぼみだけが欠けていた。
彼女たちは長机を挟んで、祐麒たち花寺側と対面に並んで座っていた。向かって右側から薔薇さまたち、続いてつぼみの二人が、それぞれ学年順に――という順序だったのだが、藤堂志摩子と島津由乃は何故か不自然な間隔を空けて座っていたように見えた。いや、見えたのではなく、実際に空の椅子が一つ、その間に挟まれていたのだ。
――まるで、その間に座るべき人物のために、席を空けているかのように。
それが誤解でないことは、山百合会側が自己紹介を始めたときに、明らかになった。
「二年、藤堂志摩子です。白薔薇です」
祥子、令と続いた後に見覚えのある少女が立ち上がって挨拶し、小林が――彼は、花寺生徒会の会計に就任していた――「ああ、小寓寺の」と呟いて、ご住職がうちの学校に講演にいらしたんですよ、などと話題を振った。その娘さんがリリアンに通ってるのは最近知ったことですが。お目にかかるのを楽しみにしていました。
「それは……、父が大変失礼しました」
顔を赤らめて志摩子が着席した後、しばし沈黙があった。
見たままの順序をいえば、次は隣に座る黄薔薇のつぼみの番だ。
だが、彼女は立ち上がらない。
その代わりというように、小笠原祥子が当然の如く口を開いた。
「そして二年、福沢祐巳です。紅薔薇のつぼみ、つまり私の妹です」
志摩子と由乃の間に座るはずだったその少女の名を、祥子は「紹介」した。
凍りついたのは花寺側――それも、より正確には祐麒を除いた――だけで、山百合会の少女たちは表情一つ変えない。
やがて、人一人が一礼して着席するだけの時間を置いてから、島津由乃が立ち上がり、
「二年、黄薔薇のつぼみこと、島津由乃です」
何事もなかったかのように――不自然と評すべき何事も存在しなかったように、そう名乗る。
花寺生徒会の仲間たちは何をいうこともできず、ただ時折祐麒の顔をちらちらと眺めた。
彼は当然のように、それを無視した。
気を取り直しての会議が始まる。
花寺の学園祭で予定している生徒会の主催イベント、その内容、賞品、依頼したい薔薇さま方の役割……
一通りの打ち合せが終わると、今日のところは麦茶で乾杯してお開きとしましょう、ということになり、全員に紙コップが配られた。
主のいない椅子の前にも、麦茶を満たされたコップがぽつんと置かれた。誰もそのことについて尋ねようとはしなかった。
祐麒も別に、気にしなかった。
自分がそうであるように、彼女たちにとっても福沢祐巳はまだそこに「いる」のだ。
その体と心に焼きついた彼女の面影を共として、彼と彼女たちは昨日も今日も、そして明日も生きていくのだろう。
刻まれた思い出と失われた半身、決して消えない痛みを背負いながら。
――何一つ終わったものなどないのだと、彼は理解していた。
年が移り、高校二年の三月を迎える頃、福沢祐麒は一つの噂を聞いた。
先だってリリアンで行われた生徒会役員選挙、すなわち山百合会の選挙で、例年三名の「薔薇さま」が選出されるはずが、その年は二人の候補者しか出なかったという。
立候補した二人の名は、今更いうまでもない。であれば、何故一人が欠けていたのかも、考えるまでもない。
事情を酌んだ学園側は、欠員一名の選挙をそのまま黙認し、山百合会からは薔薇の称号が一つ消えた。
ただそれだけの、つまらない話だ。
――盲目の羊たちは、狼を探し続けました。
見えない目で、そこら中を歩き回り、声を上げて呼びかけて。
どこに行ったとも知れない狼を、ずっと、ずっと、探し続けたのです。
刻まれた傷痕、失われた体の一部、決して消えない痛みを抱えながら、ずっと、ずっと。
春の芽が育ち、夏の日差しが陰り、秋の葉が落ちて、冬の氷が溶けても、ずっと、ずっと。
ずっと、ずっと。
そう、永遠に。
これはただそれだけの、つまらない話。盲目の羊の群れに紛れ込んだ狼がいたという、ただそれだけの話――
終
後書き
というわけで、「狂える羊」、完結でございます。
うーん、短期集中連載という形でしたが、紆余曲折あったなぁ……いや、私個人の頭の中でということですが。
当初の予定を大幅にオーバーする長さになっちまったし。総計40〜50KBていどの前後編でまとめるつもりだったのですが。この後編だけですでに40KB近いっつーの。もはや前中後編ですらない四話構成にしてやろうかとよほど思いました。
これだから私はろくにプロットが立てられないんですな。新たなシーンやら描写やらをどんどん追加して、ストーリーも書きながら微調整するから、事前に立てたプロットなんて跡形も残りやしねぇ(笑)。結局、最近は脳内プロットだけで書き始めることにしてます。
まあ、予定は未定、図面と現場がくい違う場合は現場を優先、ということで。だからっつって予定と図面を疎かにしていい理由はないはずですが(←セルフツッコミ)。
ともあれ。初のマリみてSSということで、いろいろ試行錯誤しながらではありましたが、なかなか楽しんで書けました。
瞳子や可南子をどうしようか、などとも思いましたが、出しても蛇足にしかならないはずなので割愛。
ではではー。