絞った雑巾をベランダの物干しにかけると、シンジは大きく伸びをした。
日本に降り立って既に二十四時間以上が経っているにもかかわらず、
シンジの体は落ち着かない浮遊感に包まれていた。
まるで自分の体の一部が未だに空の上を飛んでるみたいだな、とシンジは思った。
 

秋晴れの昼の街並みが目の前に鮮やかに広がっていた。
見慣れぬ日本の街並み。
そこに属する何もかもが新鮮であり、又脅威でもあった。
街に漂う空気でさえもが、自分の育った町とは違っているようにシンジには感じられた。
 

『、、、、、第三新東京市か、、、、、、、、、、』
 

戸惑いの連続の中で、現実感はいつ自分に追いつくのかとシンジは訝った。
少年が振り返ると、そこには整然と家具が揃えられた部屋が待ちかまえていた。
コンフォート17の1102号室。
シンジの母、綾波ユイが娘のレイと息子のシンジに遺したマンション。
その部屋には家具と電化製品が殆ど新品のままそっくり用意されており、
シンジが思いつく限りで、この他に暮らしに必要な物は食材と幾つかの日用雑貨だけだった。
更に、生活した痕跡が見られないその部屋は隅々まで綺麗に掃除されていて、
シンジは折角準備した雑巾を持って、部屋をうろうろと歩く事しかできなかった。
まるで周到に用意された冗談の中に、自分が紛れ込んでしまったかのような、
そんな錯覚にシンジは何度も陥った。

それまでの人生において何度も夢に描いた新しい暮らしが、今、目の前にひろがっている。
日本での生活はシンジがずっと憧れていたものの一つだった。
だが、それでも何故か、シンジの心はまるで沸き立たなかった。
ただただ不安だけが彼の胸の内を占めていた。
去った地に友達がいたわけではない、家族がいたわけでもない、ましてや恋人がいたわけでもない。
それでもそこには慣れ親しんだ生活があった。
波間の上に佇んでいるかのように頼りない心の足場。
いつの日かこのベランダからの風景が自分の日常に溶け込むのだとしたら、
いったいそれまでに何度不安な夜を過ごさなければならないのだろう、
とシンジは眼下の街並みを見下ろしながらそう考えた。
 

『、、、、、、新しい家、、、、、、新しい生活か、、、、、、、、、、、』
 

昼の街並みに新たに生活を共にする事になった、少女の面影が浮かんだ。
 
 
 
 

自分の頭がかくりと落ちる衝撃で、シンジは目を覚ました。
時差ボケのせいだろうか、ひどく重い意識を少年は目を擦る事で覚まそうとした。
ゆっくりと覚醒する意識はやがて、自分が病室の椅子に座っている事を思い出させた。
そこでシンジは慌ててレイの方へと目をやった。
彼女は既に目を覚ましていた。
 

「、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、」
 

何秒もの間、二人の視線は噛み合って離れなかった。
透き通るような色をした少女の瞳が少年の意識を掴んで離そうとしない。
虹彩さえも白い、幻想的な白い瞳。
瞳の中央で鮮やかな赤い色が微かに煌めいて、光って見えた。
 

更に数瞬もの間、シンジはレイの圧倒的な存在感の前に何も話せないでいた。
本当にこの子は比較的存在感が希薄な自分の妹なのだろうかと、少年の胸に疑惑が浮かんだ。
だが少女と少年の父親の姿を思い出すと、その疑問も萎んで消えていった。

「、、、、、、、、、、、、、、、、、お、起きてたんだ、、、、、」

ようやく自分の声帯が空気を震わせた事を認めた直後、
シンジは自分が第一声に選んだ言葉が無神経なものである事を悟った。

「えっと、あの、つまり、、大丈夫?かな、、、、、
、、、、、、その、、、、体の調子は、、、、、、、」

更に間違った選択肢を選んだ後で、ようやくシンジは本当は自分が何を言うべきなのかを理解した。

「ぼ、僕は碇シンジ。、、、、、、、、君の兄だよ、、、、、」

「、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、」
 

『、、、さ、さすが父娘だ、、、、、、、なんだか雰囲気がそっくりだよ』

つい先程その身に受けた威圧感にも似た雰囲気を、少女の瞳が発しているようにシンジには思えた。
それでも、今のシンジには随分と余裕があった。

「あの、眼鏡取ろうか?」

あるいは彼女は眼鏡を必要としているのかもしれないと思い、シンジは尋ねた。
 

「、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、」
 

少女からの返事は無かったが、
何度も頭の中で描いたシュミレーションの欠片が、シンジの心を前へと急き立てていた。

「今日ここに来たのは、、、つまり、、、、今度、君と暮らすことになるかもしれないからなんだ。
その、勿論君が良いって言ってくれたらの話なんだけれども」

「、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、」

「、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、そう、、、、、、、」

肯定とも否定とも取れる返事だった。
だがシンジにはそのどちらでもないように聞こえた。
少女の瞳の奥で揺れる感情はどこか遠くに向けられているかのようだった。
 

「、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、」
 

「、、、、、、、、、、、、、あ、これミサトさんからお見舞いにって、、、、」
 

「、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、」
 

「、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、」
 

「、、、、、よかったら林檎剥こうか?、、、、、、、、、、、、、、」
 

「、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、」
 
 
 
 
 

レイはシンジの顔をただ静かに見続けていた。
 
 
 
 
 
 


She`s so lovely

第二話



 
 
 
 
 
 

「じゃあ私はレイの退院手続きしてくるわね。シンジ君はどうする?」

車から降りると、ミサトはシンジに問いかけた。

「あの、僕はちょっと冬月さんに挨拶してこようと思うんです」

「そう。それじゃあレイの病室で落ち合いましょう。レイの病室の場所は覚えてる?」

「はい」

「それじゃあ、また後でねん」

そう言うと、ミサトは一般病棟に向けて駐車場を横切っていった。
ミサトの背中を見つめながら、シンジは彼女が自分にこうもやさしくしてくれる理由を考えていた。
父親が研究所の上司だからだろうか。
たまたま同じマンションに住む者同士だったからだろうか。
冬月老人に頼まれたからだろうか。
あるいは身の上に同情して?
その理由がなんであれ、彼女の助けはシンジにとってありがたいものだった。

現実的な問題を前に、ただ戸惑うしかない自分。
そんな自分がひどく無力に思えて、情けなく思えて、、、、。

シンジは頭を振って、落ち込む自分の思考を駐車場に起き捨てて行った。
 
 
 

シンジとレイの引っ越しに伴う数々の事務手続き。
その殆ど一切を冬月とミサトが代行してくれていた。
大家に挨拶へ行き、銀行カードの裏面にサインし、転校先の制服を仕立てに行き、
その他に十数枚の書類にサインするだけで、シンジの新生活はスタートを切った。
 

自分にとっては一大決心だったはずの船出。
出港していく船をただ見ているだけしかない自分がひどく歯がゆかった。
そしてまた、同時に不安でもあった。
 
 

これから自分はどこへ向かおうとしているのか。
 
 

答えは用意されていなかったから。
 
 
 
 
 
 



 
 
 
 
 
 

「どうぞ」

シンジが冬月の病室の扉をノックすると、中から老人が返事した。
少年はゆっくりと扉を開くと、病室に足を踏み入れた。

「やあ、シンジ君か。
また見舞いに来てくれたのかね」

冬月の問いはシンジの耳を素通りした。
病室に入るなり、少年の眼差しは病床の老人の脇に立つ黒づくめの男の背中に縫い止められていた。
黒い髪に、黒い服、そして黒い靴。
シンジに見えるかぎりその男は黒一色に包まれていたが、
それでもその黒い男が昨日廊下で会ったあの男、即ち自分の父親であろう事は瞬時に理解できた。

自分が選んだタイミングの悪さを、少年はひどくうらめしく思った。
 

「しかし、こうして父子揃って見舞いに来てくれるとはありがたいじゃないか。
なあ?綾波」

そう言って、冬月老人は綾波ゲンドウを見上げた。
ゲンドウは返事をせず、ただ黙って直立し続けた。
 

「ところでシンジ君?」

「、、、、、、、、、、、、、、、、!は、はい」

冬月の問いから数秒の後に、シンジは答えた。
実の父親に会う事を不運と考える自分。
シンジはそんな自分の心の動きを戒めていた。

「マンションの方はどうかね?
何か問題があるようであればいつでも言ってきなさい」

「あ、はい。
あの、いろいろとありがとうございました。
今日はそれでお礼を言わなくちゃと思って。
ミサトさんから冬月さんがいろいろと手続きを手配してくれたって聞いて。
それで、、、、本当に助かりました。ありがとうございます」

精神のバランスを取るのにひどく苦労しながら、シンジは冬月に話した。
数歩前に立つ男の存在がシンジの意識の中を席巻しようと暴れる中、
少年はかろうじて用意しておいた台詞を言い終えた。

「礼には及ばんよ。
同じマンションに葛城君が暮らしていると聞いてね。
それで今回の引っ越しの準備をお願いしたら、
入院中の私に代わってほとんど全部の手続きをやってくれたのだよ。
だから礼なら葛城君に言ってくれたまえ」

「あ、はい。
あの、とにかくありがとうございました。
それで、あの、お大事にして下さい」

日本語の敬語を使い慣れないシンジは、こういった場合何と言うべきなのか分からなかった。
父親の前で拙い母国語を話す自分がひどく惨めに思えた。

「ありがとうシンジ君。
まあ立ったまま話すのもなんだから、ほら二人ともその椅子を持ってきて座ったらどうだね」

冬月は部屋の隅に置かれたパイプ椅子を指差した。
どうやら術後の経過が良いのだろう。
老人は昨日に倍して生気に満ちているように、シンジには感じられた。
皺の目立つ老人の顔も心なしか明るい色合いを見せ始めているようだった。
老人に勧められるままに、シンジは部屋の隅へと足を運んだ。
 

「、、、、、、、、、、、、それでは例の件はそのように手配しておく、、、、、、、、、」

シンジが歩み寄ったパイプ椅子の元で一脚にすべきか、二脚にすべきか悩んでいると、
ゲンドウは抑揚のない声で冬月に何事かを伝えて、病室を後にした。
またもやシンジの網膜に焼き付けられたのは、父親の黒い大きな背中であった。
父の無駄のない足運びは、何故だかシンジの心を虚しく揺さぶった。
未だにその素顔さえ見れずに、ただ黒い影が父の記号として少年の心に刻み込まれようとしていた。
 

「、、、、、、、、、、、、、、、、まったく。照れおって」

パイプ椅子を持って戻ってきたシンジに向かって、冬月は病室の扉を見つめながらそう呟いた。

『、、、、、、、、、、、、、、、、じょ、冗談なのかな、、、、、、、、
、、、、、、、、、、、、、、、、この場合、、、、わ、笑った方がいいかな、、』
 
 

病室にシンジのかすれた愛想笑いが浮かんだ。
 
 
 
 
 
 



 
 
 
 
 
 

「ふい〜〜〜〜。着いた、着いた。よっこいせっと」

ミサトは1102号室に上がると、抱えていた段ボール箱を廊下の床に置いた。

『ミ、ミサトさんて結構おばさんくさいんだな』

さすがに口には出さずにそう考えてから、シンジは自分の持ってきた荷物を並べ置いた。
そこで二人の視線は同時に玄関へと向けられた。
綾波レイは入り口からきょろきょろと忙しなく辺りに視線を配っていた。
無表情な少女の表情豊かな仕草に、ミサトとシンジの顔がほころんだ。
レイは靴を脱いで家に上がり、
それから肩にかけていた大きな茶色の旅行鞄を床に下ろした。
 

『な、何か気の利いた事を言わないといけないような雰囲気だな、、、、、』
 

家人として一日しか先輩でない自分が何か言うのもおかしいかな、
と迷いつつも、結局シンジはごく当たり前の言葉を口にした。

「これから、よろしくね」

自分に向けて発せられた挨拶に、レイは
 

「、、、、、、、うん、、、、、」
 

とだけ小さな声で答えた。
兄妹のまだまだぎこちないコミュニケーションを、ミサトは静かに見守っていた。

「それじゃあ、お茶でも煎れますね」

三人はシンジの言葉を合図にリビングへと向かった。
 
 
 

「それで部屋割りはもう決めてあるの?」

「あ、はい。奥の部屋の方がクローゼットも広いし、女の子にはいいかなと思うんですけど」

実際には日の当たりがきつくない部屋の方がレイの体に良いと考えたからなのだが、
たった今運び込んだ衣装の数からすると、空々しくさえ聞こえる答えをシンジは返した。
シンジに劣らず、レイの引っ越し荷物もまた異様なほど少なかった。

段ボール二つに、鞄一つ。

兄妹って変なところで似るものだな、とシンジは一人感心した。
 

「そっかー。で、レイはどう思う?あの部屋でいい?」

「、、、、、、、、、、、、、、、、はい、、、、、」

「ふむふむ。じゃ決まりね〜」

落ち込んだ様子でミサトがそう宣言した。

「はあ〜〜〜〜」

どこかわざとらしく、ミサトが大げさなため息をついた。
ミサトの蒔いた餌に、シンジはまんまと食いついた。

「ど、どうしたんですか?どうしてミサトさんが落ち込んでるんですか」

「えーーー。だって、部屋割りでもめた兄妹がつかみ合いのケンカするところが見たかったのよー。
はぁ〜〜〜〜。せっかく期待してたのに、、、、、、、、、、、、」

「つ、つかみ合いって、、、、、、、、、、、、、」

「部屋割り。テレビのチャンネル権争い。おやつの奪い合い。
日本人は古来そうやって兄妹のスキンシップを図ってきたのよ」

「、、、、、いくら僕でもすぐ嘘だって分かりますよ、それ」

「そ、そんな。本当なんだってば。ねー、レイ?」

「、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、はい、、、、、」

シンジとミサトの白々しい掛け合いにレイはあまり興味がないようだった。
ガラスのコップに注がれたウーロン茶をじっと見つめながら、
ときどき目をしばたたかせて静かに佇んでいた。
それでも、そのいかにも適当に合わせただけの返事にミサトはご満悦だった。

「ほらね〜。ふっふっふー。
シンジ君。日本人はまずカタチから入るものなの。基本はしっかり覚えておきなさい」

「そ、そうなんですか、、、、」
 

話を聞いているのかいないのかよく分からないレイと、しきりに場を盛り上げようとしているミサト。
そんな二人を前に、シンジの胸中は複雑だった。
彼の意識にまとわりつく一つの危惧。
少年にとって何よりも気がかりなのはレイの胸の内であった。

彼女は本当に同居を望んでいたのだろうか。
あるいは仕方なく決めた事なのだろうか。

できれば直接聞いてみたい気もしたが、よしんばその勇気をシンジが絞り出せたとして、
少年に輪をかけたように寡黙なレイを前に、どう切り出していいか分かろうはずもなかった。

だからこそ、二人に気を配ってしきりに話しかけてくれるミサトの心遣いが嬉しかった。
兄妹水入らずで話してみるアイデアも捨て難くはあったけれども、
数日前までは赤の他人だったミサトの見せてくれるやさしさが、シンジにはとても温かく感じられた。
人のぬくもりになれないシンジは、賑やかなリビングの雰囲気に少々照れながら一人思った。
 

『なんだかくすぐったいものだな』
 
 

それからしばらくの間、ミサトは生活に欠かせない雑務のこなし方について手ほどきした。
光熱費の支払い方や、市役所の利用法、ゴミの出し方や、
更には学校に通う上での様々な手続き等に、シンジは熱心に聞き入った。
これからは自分の事は自分で出来るようにならなくてはいけないのだ、
という義務感に加え、自分が兄であるという認識がシンジの体に重くのしかかってきた。
それでも初めて体験する責任感は、何故だか甘く自分の心を奮い立たせた。
 
 
 

一通りの説明が終わる頃には、時計の針は六時を回っていた。

「あのミサトさん。
今日これから引っ越し蕎麦を頼もうと思ってるんですけど、良かったら一緒にどうですか?」

かねてからの計画をシンジは切り出した。

「え?引っ越し蕎麦?
へえ〜。シンジ君意外と日本の文化に詳しいじゃないの」

「それが、実は以前読んだ本に引っ越し蕎麦の事が書いてあって。
それ以来、一度食べてみたいなって、そう思ってたんですよ」

「へー、なるほどね。そういう事なら喜んでごちそうになるわ」

「そういうわけなんだけど、今日の晩はお蕎麦で構わないかな?」

一向に会話に加わろうとしないレイに、シンジは問いかけた。

「、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、」

レイは小さくこくりと肯いて、それに答えた。
 

「さってと、そういう事ならちょっと買い物に行ってくこなくちゃね。
車でひとっ走り行ってくるから、シンジくん注文おねがいね」

ミサトはシンジにそう告げながら、早速玄関に向かって歩き始めた。
何を買いに行くのかも気にはなったが、とりあえずシンジはミサトに何を注文するかを尋ねた。

「、、、、、えっとねー、、、、、じゃあ私は天ソ一ね。
じゃあ、行ってきます」

「え、あ!、、、、、行ってらっしゃい、、、、」

慌ただしく出ていくミサトを見送ってから、シンジは首を傾げた。

「うーん、、、、『てんそいち』ってなんだろう?知ってる?」

シンジはレイに問いかけた。
レイはちょっと視線を宙に彷徨わせてから、首を横に振った。

「そっか。どんなお蕎麦なんだろうね」

それからシンジは備え付けのタウンページで、最寄りの蕎麦屋の電話番号を調べた。
数分の後、丁度良さそうな店を見つけてから、シンジはレイに話しかけようとしてある事に気付いた。
 

『彼女の事何て呼べば良いのかな』
 

『綾波さんじゃ変だし、
レイちゃんじゃ子供っぽいし、
レイさんでもないし、やっぱり、、、、レイ、、、かな』
 

妹に対する日本特有の呼称があるかもしれないな、
とも考えたが、結局シンジは本人に聞いてみるべきだと決断した。

「あ、あのこれから、、、な、なんて呼んだらいいかな?、、その、君のこと、、、、」

顔を耳まで赤く染めながら、シンジはレイに話しかけた。
何で自分が赤面しているのか自分でも理由は分からなかったが、
どうにか言葉にすることができたシンジはレイの反応を待った。
 

「、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、」
 

思ったよりも長い間、彼女の口は沈黙し続けた。
不躾な質問を口にしてしまったかもしれないと、謝罪の言葉を口にしようとした時、
シンジはレイの瞳を見て思い止まった。
彼女の瞳の奥でちらちらと感情が微かに揺れているのを、シンジは確かに見た。
白い瞳の奥に映る赤い影。

『あるいは気のせいかもしれないな』

それでもシンジはしばらく彼女を見守った。
 

「、、、、、、、、、、、、、、、、、綾波、、、、、、、、、」

「、、、、、、、、え、、、、、綾波?、、、、、、、、、、、」

シンジが問い返すと、レイはただ一度ゆっくりと肯いた。
その言葉を聞くと、シンジの胸の奥で古傷がうずいた。
綾波という名字はシンジにとって最もつらい思い出に直接結びつく言葉だった。
幼い自分から剥奪された二文字。
自分の人生に足りないものの全てが『綾波』という名字に詰まっている、
シンジはずっとそう考えていた。
 
 

、、、、、だけど、

今までのしがらみは、全て忘れようって、そう決めたんだ
 
 

昨日の自分の決心が早くも試されているかのように、少年には思えた。
強ばる口からシンジはゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
 

「そ、それでね、えーっと、あ、綾波は何食べたい?
お蕎麦そろそろ注文しようと思うんだけど」
 

「、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、」
 

「、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、」
 

「、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、緑のたぬき、、、」
 
 
 
 
 
 



 
 
 
 
 
 

「あははははは。
いやー、それにしても『てんそいち二つと緑のたぬき一つ』にはまいったわね」

「もう。
いい加減に笑い止んでくださいよ。
そもそもミサトさんがちゃんと『天ぷら蕎麦一つ』って言ってくれたらよかったんですから」

「ごめんねー、バイトしてた時の癖でね、つい」

晩ご飯も済み、シンジはミサトの晩酌に付き合い、リビングでくつろいでいた。
冷蔵庫にはミサトが買い込んできた大量の缶ビールがしまいこまれ、
ダイニングテーブルには既に二本の空き缶が置かれていた。
それにしてもミサトほどおいしそうにビールを飲む人を、シンジは他に知らなかった。
一口飲む度に実に楽しげで、
お茶を口にするだけのシンジでさえも、
ふわふわと軽やかになっていくかのようだった。
 

「バイトって、お蕎麦屋さんでしてたんですか?」

「そうなのよー。蕎麦屋小町って呼ばれててねー、看板娘だったのよ」

「なんですか小町って。それに看板娘?」

「小町っていうのはねー、、、、、」

なおもシンジがミサトに付き合って話していると、
お風呂から上がったレイがリビングを通り抜けて行った。
湯上がりのレイはバスタオルを頭にかぶり、薄緑色の入院服のような物をパジャマ代わりに着ていた。
そのまま寝室に入っていくレイを見て、
シンジは『今日はもう話す機会を作れそうにないな』と幾らか残念に考えた。
 

『だけどまあ、疲れているだろうからってお風呂を勧めたのも僕だし、しょうがないかな、、、』
 

「あらら。あれってネルフのじゃない。
まったくあの親父はー。パジャマくらい買いに連れていってあげなさいよー。ね、シンジ君?」

「え、そ、そうですね。、、、、、、、、、でもほら男親だから、、しょうがないのかも、、、」

ミサトの意見に心中では肯きながらも、何故かフォローの言葉が口から零れた。

「そうなんだけどさ。
それにしたってもう少しなんとかならなかったのかしら。
レイだって年頃の女の子なんだから、服だってあれだけじゃ全然足りないわよ。
、、、、、、、、、、そうねー、今度マヤちゃんに相談してみようか。
ほら、あの子だったら私より年も近いし、それに服の趣味なんかも幼いから」

「伊吹さんにですか、、、。
そうですね、綾波が服を欲しいようだったら、お願いしてみたらって言っておきます」
 

「、、、、、、、、、、、うーーーーーん、、、、、、、、」
 

そこでミサトは唸りつつ、その細い首を傾げた。
何か不味いことを言っただろうかと、シンジは瞬時に身をこわばらせた。

「ねえ、シンジ君。
誰かと同じ家に住む時に、一番大切な事ってなんだと思う?」

唐突にミサトが問いかけた。
先程までの緊張感の抜けた朗らかな表情とは打って変わって、
ミサトはただ静かに落ち着いた眼差しでシンジの瞳を覗き込んでいた。

「え?一番大切な事ですか?」

「そう」
 

『相手を思いやる事』

だろうかと、シンジはとっさに思い浮かべた。
 

「私はね『その相手と暮らしたいと思う気持ち』だと思うの。
本当に心からそう思っているかどうか、それが大切なんじゃないかな」

「、、、、、、暮らしたいと思う気持ち、、、、、、、、、、、、、、、」

「勿論、シンジ君がレイを思いやる気持もとても大切なものよ。
でも今はレイがシンジ君をどう思ってるかよりも、シンジ君がレイをどう思ってるかが大切だと思うの、
シンジ君にとってはね」

自分の心を見透かしたかのようなミサトの言葉に、シンジの体がぴくりと跳ねた。

「どうシンジ君?シンジ君はレイと暮らしていきたい?」

その質問は今のシンジにとって最も答えづらい質問の一つだった。
 

「、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、」
 

「、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、」
 

「、、、、、、、、、、、、、は、はい、、、、、、、」
 

それでもシンジは赤面しながら肯いてみせた。
今まで、シンジに対して何事かを真剣に尋ねてくれた人はいなかったから。
だからシンジにとってミサトの真摯な眼差しはとても心地よいものに思えた。

「、、、、、、、、、、、、、、、、、、、そっか。
うん。私はねその想いがスタートラインだと思うわ。
その気持ちの上に、ゆっくりと、二人の生活を築き上げていけばいいんじゃないかな」
 

シンジは初めてレイを見た時の事を思い出していた。
暗い病室に白くぼんやりと浮かび上がるレイはひどく悲しげで、儚げで、
今思い返してみてもシンジの胸はひどく切なく締め付けられた。
そんな風に自分の心が泣く声をシンジは初めて聞いた。
あまりの切なさにどうにかなってしまいそうな、そんな気持。
 

「いいなー、レイは。私もシンジ君みたいなお兄ちゃんが欲しかったわー」

シンジの顔を見つめながら、その顔に輝く笑顔を戻してミサトが言った。

「ミ、ミサトさん」

「ふふふ。ごめんねー。
酔っぱらうと説教くさくなっちゃって駄目ね。リツコにまた嫌み言われちゃうわ」

「、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、」

「あんまり心配しすぎても駄目よシンジ君。
シンジ君の気持ちはいつかきっと伝わるから。だからのんびりと時間をかけるつもりでがんばんなさい」

「、、、、、、、はい」
 
 
 
 
 
 



 
 
 
 
 
 

電気を消した部屋に微かな青みを帯びた光が射し込んできて、
その光の真ん中で天井を見上げると、まるで深海の中にゆらりと漂っているかのようだった。
昨晩とはまるで違う部屋にいるかのような、そんな不思議な感覚。
 

シンジはゆっくりと目を閉じて、頭を枕に沈めた。
ヘッドフォンから聞こえてくる馴染みの音達。
ゆっくりと自分の意識が揺り動かされていく。
閉じた瞼の裏にレイが暮らしていたアパートの部屋が思い浮かんだ。
 
 
 

何も無い部屋。
生活の匂いも、生活の道具も、何も無い部屋。

生まれながらに色素を持たない綾波。
どんな風にして彼女の生活からさえも色が抜け落ちていってしまったのだろう。
無口な自分の妹。
彼女は何を望み、何を好み、何を考え、そしてどんな夢を見るのだろう。
 

『今は思いやる事よりも、自分の思いを確かめる事が大切よ』
 

確かミサトさんはそう言っていた。
まるで綾波の顔色を窺ってばかりの自分を諭すように。

でもどうしようもないんだ、、、、、、、、。

希望と記憶。
どちらも恐くて、、、、、、、。

忘れられない事があるから、だから人生は辛いのかもしれない

それが記憶。だとしたら希望は?
 
 
 

シンジは生まれて初めて、自らの意志で、その心の扉を開け放った。
求めるのは絆。
叩こうとするのは少女の扉。
裸になった自分の心はひどく無防備で、心許なく、そして寒かった。

すぐに挫けそうになる自分の心をどうしたら繋ぎ止められるのだろう、とシンジは思った。
一人で膝を抱えて暖を取っていた頃が、懐かしくさえ思える。

閉じた世界は寂しいけど、安全だから。
それがどれだけ虚しい事なのだとしても、自分の体温だけは感じる事ができるから。
 
 
 

『、、、、結局のところ綺麗事なのかもしれないな、、、、』

一人が嫌なだけなのかもしれない。
自己満足なのかもしれない。
自分の都合ばかり考えてるし、、、、、、。
 
 
 

どこまでいっても不完全でしかない自分が、シンジにはもどかしく感じられた。
もどかしさすら越えて、嫌悪感さえ感じる。
残像が幾つも重なり合って、本当の自分の心をシンジは見つけ出せなかった。

自分が何を求めているのかすら、自信が持てなくなる。
 

今まで触れた事のない感情に突き動かされる少年の想い。
そして、、、、、
嫌悪感と絶望が波をつくり、寄せては返してくる。
まるで振り子のように揺れるシンジの心。
 
 
 

『、、、、、でも、、、
 

、、、、、でも、、、、それでも、、、、、、、、、、、、、、』
 
 
 
 
 
 
 
 
 

でも

それでも進んでいくしかないのなら

君の扉を探しに行きたいんだ

、、、、、、、、、、そうなんだと思う
 

いいかな?

いつか

いつか君が応えてくれたらとても嬉しいだろうから
 

自分の気持ちを素直に認める事すら

それすら

今の僕には難しいけど
 
 
 

君の扉はどこにあるんだろう

僕はいつかそこに辿り着けるのかな

この寒さに捕まってしまう前に

君が寒さに捕まってしまう前に
 
 
 
 
 
 
 


 

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( hajimesu@hotmail.com )

 

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