箱根小涌谷駅にシンジとレイが降り立ったのは、
朝鳥の鳴き声もようやく止んだ、冬の日曜の午前中だった。
駅の周囲は木々に囲まれていて、とても静か。
がらりとした構内。
抜けた先のロータリーにも、人影はまばらだった。

「なんだか寂しいところだね」

言いながらも、さして気にする風でもないシンジは、登山道案内の書かれた表示板に歩み寄った。
背中に背負ったリュックサックから地図を取り出して、案内板と照らし合わせている少年と少女の装いは、
まだ真新しいトレッキングシューズに、厚手のしっかりとしたズボン、
それに防水性のダウンジャケットを羽織っていて、
些か大袈裟な程、十分に用意してきた事が窺える出で立ちだった。

先日レイが一人でここを訪れた折りには、
中学校の制服に、ただのローファーという格好だったという事で、
それを聞いたシンジがいろいろと買いこんできたのだった。

「それじゃあ、行こうか」

道を確認し終えてから、シンジが言った。






She`s so lovely

第十一話








一歩、一歩、足を踏み出す度に吐く息はとても白い。
冷たい空気が火照る頬を冷やして、後ろへと抜けていく。

ごつごつとした登山道。
少し濡れていて、歩きづらい。
それでも、高熱をおして、ふらふらと歩いたあの日とは、どこか違う。

それは体調のせいだろうか、、、、、
それは、
それとも、、、、、

「大丈夫?」

そう言って、差し出された手。
ゆっくりと、段差の上へと引き上げてくれる。

正確に私の二歩前を歩く背中。
離れそうになる度に、待っていてくれる。

立ち止まっては野鳥や、野草や、野花を見る。

「何ていうのかな?あの木?りっぱな木だね」

一緒に見上げる。
冬山の木々は寂しげ。
それでも、それはやはり生気を溢れさせている。
名も知らない老木。

「帰ったら、調べてみようか?」

「、、、、、うん」

土を踏む音と、呼吸の音。
鳥の声と、風の音。












鷹ノ巣山の頂上。
芝草に覆われたそこから広がるのは、駒ヶ岳から神山へと続く一面のパノラマ。
冬の山並みは、どこか厳しそう。
冷えた山の空気。
それは凛とした響きをもって、山間の様々な色彩をまとめ上げている。
シンジとレイはベンチに腰掛け、足を休めつつ、眼前の眺望を眺めていた。

「はい、どうぞ」

「、、、、、、ありがとう」

シンジの差し出すお茶を受け取ってレイが言った。
一息つく。
きゅっ、きゅっと音をたてて、ポットの口をシンジが閉めた。

「おいしいね」

「、、、、、、おいしい」

小涌谷から鷹ノ巣山までは一時間半あまりの緩やかな登り道。
道程の丁度中程に、今日の目的地である千条の滝がある。
そこを迂回して、先にこの展望台に来た。
せっかく出かけてきたのだから、山の上からの眺めも楽しもう、というシンジの意見だった。

「、、、、、、、ほら、あそこ、、、、ね?あれがトビだよきっと」

「、、、、とび」

「とんびとも言うって、そう書いてあるよ」

「、、、、とんび」












閉塞感
窒息しそうな感じ
引き裂かれそうな苦しみ
幾つもの感情に縛られて、どこにも行けなかった

乾いた音をたてて、足下の枝や枯れた葉が砕けた。
下りは登りよりも疲れるから、シンジはゆっくりと足を進めていた。
傾斜がきついところや、段差のあるところでは、後ろを行くレイの様子を振り返って確かめた。

悲鳴をあげる心
それでもどこかバランスがとれていた
常に心は生き残るための安定を自動的に必死に求めていた
罪悪感すら感じさせない、無意識の内に、、、、、、

空気が湿り気を帯びてくるのが感じられて、シンジは目的地が近づいてくるのだと分かった。
段々と深みを増していく緑。
苔むす木肌と岩肌がシンジの目には優しく映った。
どこか遠くから聞こえてくる、轟く低音の響き。
やがて、ぼんやりと辺りが靄がかってくる。
一歩足を進める度に、白い、霞んだ世界に入っていくかのよう。

どうしようか?
今、結界が壊れていく音が聞こえる
抑えられていたモノが波濤となって、流れ出ていく
溢れ出る何か、、、、、、、
暴力的なまでの力でもって、心が突き動かされていく
無防備に、裸身をさらして、流されていく
流されていく?

『そうして、又、誰かの所為にして生きていくの?』

何故か、後ろを歩く綾波が声をかけてきたような気がして、
シンジは後ろを振り向いた。
少年の視線を受けて、レイはきょとんと首を傾げた。
「大丈夫?」、と声をかけて、少女が肯くのを確かめてから、シンジは前を向き直した。

ほら、手がつくでしょ?
そんなに底は深くないの
どうにか、やっと、立っていられるぐらいの流れだけど
どうにか、やっと、立っていられるのよ

ね?












ふいに、森が開けて、眼前に白い世界が広がった。
辺りは靄がかかっていて、湿度の濃く、温かい霧がすーっと二人の身を包んできた。
砕ける水の音。
こうして間近に来てみると、思ったよりもその響きには迫力がなかったけれども、
まるで聞く者を包み込むかのように、その音の流れは広がりを持っていた。

それまで、シンジの後ろを歩いていたレイが、ついと、少年の前に進み出て、
辺りに響くその音源へと向かっていった。

程なく歩くと、霧が開けて、千条の滝がその姿を現した。
幅広く横に広がった岩壁から、幾筋もの白い滝糸が吹きこぼれていた。
その白糸はやがて清冽な音を奏でるその瞬間まで、
滝壺に向かって引き込まれていっては、音をたてて砕け散った。

一度その姿を見れば、千条の滝と名付けられた理由は容易に理解できた。

岩壁の横幅は三十歩あまりだろうか、高さはさほどでもない。
しとどに黒く濡れそぼったその岩の壁の上を、幾筋もの白く細い滝糸が流れ落ちていく。
辿り着いた先の滝壺は、細長い池となって、その身で流れを受け止めて、
一方で川となった水の流れを、高きから低きへと導き去らせていた。
どうやらその水はやや温かいらしく、滝壺の周囲の空気は柔らかく湿っていた。

頭の片隅で、まるで絵に描いたような大瀑布を想像していたシンジは些か拍子抜けしてしまった。
少年にとって、滝とは激しくて、破壊的なイメージでもって存在を主張するべきものと捉えられていたから。

シンジは自分の斜め前に立つ、レイの後ろ姿を見た。
そこからは少女の表情は見えなかったけれでも、
それでもその背中はなんだかとても真摯な雰囲気を発していて、
少年は声がかけられなかった。

とりあえず、腰を落ち着ける場所を確保しようと、シンジは辺りを見回した。
周囲は枯れた芝草に囲まれており、その中から比較的湿っていない場所を選んでから、
リュックの中から敷布を取り出して、広げて敷いた。
灰色の格子縞。
厚い毛布地でできた敷布は、シンジの数少ないイギリスから持ち帰った私物の一つ。
レイからも、滝からも、さほど離れていないその場所に、少年は腰を降ろした。

じっと、滝を見つめるレイ。
少女の横顔を見つめながら、シンジは妹の胸に去来している想いが何か、想像してみずにはいられなかった。

なおもじっと、レイは水の流れを見つめていた。

そんな妹の様子をぼんやりと眺めているうちに、
シンジは自分の内部から何かが抜け出ていくような快感を感じていた。
疲れた足を休める心地よさではなく、、、、、、、、
もっと別の何か。

そっと目を閉じて、少年は去来する変化の正体を探ろうと努めた。
瞼の奥に広がる暗闇。
その暗がりの中、聞こえてくるのは水が奏でる音だけ。
流れて、ぶつかり、
わだかまり、ほどけて、
引き寄せられ、引き寄せ会い、音を奏でる。
背筋をすっと柔らかい指先で撫でられているかのよう、、、、、、それはとても耳に心地良かった。
水音がそっと岩肌を這い、聞く者の耳を舐め、何かを流し清めていく。
清冽に流し洗われて、黒く艶めかしいツヤを陽の光に晒す岩肌のイメージ。

ゆっくりと目を開けて、もう一度、その姿を目に入れた時、
少年はやんわりと光を撒き散らすその滝をとても気に入っている自分に気付いた。












何物もとどまってはいられないの

同じではいられないの

私もそう

レイ、、、、、、、アナタもそう

みんな変わっていくの

そう

ううん

それは良い事でも、悪いことでもないの

ただ、変わっていくの

ただ、変わっていく

大丈夫よ

ほら手をとって

、、、、、、、、、

そうね

レイの手も温かいわ

ふふ、レイはくせっ毛ね

そうね

レイの心臓もとくんとくんって言ってるわ

赤ん坊の頃のシンジもよく

そうやってぐりぐりってしてたわ

そうね、、、、、、、、『碇君』、、、、、、

アナタのお兄さんよ、、、、、

そう、お兄ちゃん

そうね、きっと温かいわ、シンジの手も

うん、教えてあげたら、きっと喜ぶわ

きっと、教えてあげてね

きっと、真っ赤になって喜ぶわ

きっと、ぎゅっとしてくれるから

不安になった時、きっと見つけに来てくれるから

だから、大丈夫よ

とくんとくんって、安心する音を聞かせてくれる

ごめんね

ごめんなさい

ううん、悲しいわけじゃないの

、、、、、、ただ、ごめんなさい

、、、、、、、、、、ごめんね

レイ、レイ、、、、

全ては変わっていくの

だから、この痛みも過ぎ去っていくわ

だから、喜びはしっかり覚えていてね












唐突に、くるりと振り向いて、レイは敷布の敷かれている場所までてくてくと歩いてきた。
そうして、白い瞳でシンジを見つめてから、靴を脱いで、ちょこんと隣りに腰掛けた。

しばらく、そうして並んで腰掛けながら、ぼーっとした時を過ごした。
時折、ちらりと、シンジに視線を向ける少女に、少年は微笑みをかえした。
辺りを白い霧が包む中、瞳の奥、その白い虹彩のずっと奥が、きらきらと赤く光って綺麗だった。
一面が薄靄にぼかされた世界で、まるで、ただ一人色彩を放っているような、
そんな妹の様子がひどく寂しげに思えて、少年は不器用に微笑むしかなかった。

やがて、昼の時間が訪れて、二人はお弁当を広げることにした。
ポテトマカロニサラダ、卵焼き、おにぎり、それに温かいお茶。

「はい、どうぞ」

「、、、、、、ありがとう」

シンジの差し出すお茶を受け取ってレイが言った。
一口お茶を飲んで、ほっと一息。
それから、それぞれ一つずつおにぎりを取って、口にした。

「、、、うん、僕のは昆布だ。おいしい。綾波は?何だった?」

「、、、、、、、、すっぱい」

口をすぼめるレイの様子を見て、シンジは声をたてて笑った。

「、、、、、、、、でも、おいしい」









 


 

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( hajimesu@hotmail.com )

 

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