トリプルレイ2nd

第8回「カヲル登場」

間部瀬博士



1.
 夕刻、シンジは憂鬱そうな顔をしながら、近所のスーパーで食材の買出しをしていた。自炊生活に慣れたシンジはこうした買い物はしょっちゅうしているが、このところ外出ぎらいになっている。今日こうしてスーパーに来たのも飢え死にしないためやむなくである。
 近所の目が気になるのだ。
 先日の温泉ホテルでの事件は、瞬く間に近所の噂になってしまった。曰く、『碇さんは新婦の強奪が目的で式場に乱入し、取り押さえられた』『パンツを穿いていたというのはウソで、本当はフルチン姿を大勢の前で披露した』『最近出没する露出狂は、実は碇さんに違いない』などと、根も葉もなく、尾や鰭が沢山ついた話が近所中に広まっている。シンジもその手の話が行き交っていることを知っているので、人と顔を合わせるのがいやになってしまったのだ。あるいは引越しも検討しなければならないかと思う、この頃のシンジである。
 事件の方は、五島夫妻に対して上司のミサトも加わった必死の謝罪と、いくらかのお祝い金によって、やっと夫妻の赦しをもらい終息した。モエコについて警察は一応捜査を約束したが、何かを盗まれたわけでもないので、おざなりの対応しかしていない。マヤが取り付けた貞操帯は、錠前業者によりはずされた。恥ずかしくもイチモツを他人の目に晒したのである。その上にかなり高額な料金を請求された。
 そんなわけで、暗い顔をしたシンジが買い物を終え、スーパーを出た時、突然背後から声が掛かった。「あら、シンジ君じゃないのお」
 シンジがはっとして振り向くと、そこにいたのは懐かしい人物。
「マヤさん」
 伊吹マヤが小走りに近づいて来た。以前と同様、明るいキャラクターである。同じスーパーで買物をしていたらしく、シンジと同じレジ袋を持っている。
「しばらくー、シンジ君。どう?元気にしてた?」
「はは、まあ一応。ほんとに久しぶりですね。マヤさんはどうしてたんですか?」
「えへ。私は今、就職活動中ってとこね。中々これといったのがなくてさー。ま、あせらずじっくり考えてるわ」
「そうですか。あんなことになってしまって…。本当にお気の毒です」
「もういいの。済んだことをいつまでも愚痴ってても仕方がないわ。前向きに生きるようにしなきゃね」
「強いんですね、マヤさんは」
 そう答えるシンジの表情には覇気が感じられない。どこか空ろなものがある。
「あらあら、なんか元気ないぞー。どしたの?あの娘たちとうまくいってない?」
「そんなんじゃないんです」
「悩み事ならお姉さんが聞いてあげる。そうだ。ちょっとあの喫茶店に寄って行きましょう。ね、奢ってあげるから」
 マヤはシンジの腕を掴んで道路の向こうにある喫茶店を指した。
「そんな!いいですよ」
「いいから、遠慮しないで。シンジ君とは久しぶりだからゆっくり話がしたいの」
 シンジの手を引っ張ってその喫茶店に連れて行こうとする。シンジは最初尻込みしていたが、やがて素直に同行して共に喫茶店に入った。

「…そうだったの。大変だったわねぇ」
「ひどい目に遭いました」
 シンジとマヤは、喫茶店の席で差し向かいになり、一連の事件について話し合っている。
「そのモエコって女、ほんっとひどい女ね。許せないわ」
「なんとかして見つけたいです」
 ふっ。目の前にいるのがそのモエコよ。マヤは心の中で舌を出しながら面白がっているのだ。
「ファイトよ、シンジ君。私も応援してるからね。元気出してさ。そんなんじゃあの娘たちにも嫌われちゃうよー」
 マヤの励ましに、シンジも少し元気が戻ってきたような気がした。口元に笑みが浮かんだ。
「そうですね。人の噂も75日って言いますし、くよくよしないようにしますよ」
「その意気よ。頑張って」
 それから15分程話をして、そろそろ帰ろうということになった。シンジが最後に訊いた。
「マヤさんの家はこの近くなんですか?」
「そう。ここからちょっと行ったとこにアパート借りてるの。今度遊びにいらっしゃい」
 マヤが伝票を持って立ち上がった。その時、ふと気づいたように言った。
「そうだ。シンジ君、私と会ったことはアスカに内緒にしといて。ほら、アスカも忘れたいと思ってるのに、私のこと聞いたら、きっとすごく気を使うと思うの。私は別にそんなこと望んでないから。そっとしといてあげたいの」
「優しいんですね。マヤさんって」シンジは心の底から感じ入っていた。
 それから二人は喫茶店を出た。そこから帰る方角が違うので、シンジとマヤは手を振ってお互い離れて行った。十分距離が開いたところで、マヤはにやりと笑った。
 まず第1段階終了ね。これで少なくともシンジ君はモエコと私を結びつけなくなるわ。まさか敵が積極的に近づいて来るとは思わないでしょ。それにこうやって接触を続けていけば、いろいろなチャンスが巡ってくるわよ。一石二鳥ね。むふ。面白い計画が浮かんできたわ。くくくくく。

2.
「みんな、聞いて。素晴らしい作戦を思いついたの」
 昼下がりのリツコ邸。リツコは三人のレイを前にして目を輝かせながら言った。四人はいつもの午後のお茶会をしているところ。テーブルにはコーヒーや紅茶、クッキーなどが乗っている。
「どんな作戦ですか?博士」
「なんだか凄そう」
「わくわくする」
 リツコは自身満々といった様子でレイたちを見回した。
「これは、あなたたち三人が完全な連携を取れるところから発想した作戦よ。これが成功すればシンジ君の心は間違いなくアスカから離れるわ」
 三人のレイは期待を込めてリツコを見つめた。
「あなたたちの内一人は男に化けてもらいます」
「「「えっ!」」」
 レイたちの間に動揺が走った。三人は戸惑いを覚え、顔を見合わせる。リツコはいたずらっぽく微笑んだ。
 レイコが疑わしそうに言った。「もしかして、男に化けてアスカを誘惑しろと?」
「それは難しいと思う。アスカが乗ってくるとは思えないわ」と、レイカが言った。
「そうでしょうね。私もそこまでしろとは言いません」そう答えて、リツコはコーヒーを口に含んだ。
「では、具体的にどうするんですか?」
 レイナが訊いた。リツコは立ち上がって傍らに置いてあったホワイトボードを移動させた。
「説明するわ。1.一人が男に化けてアスカに近づく。誘惑する必要はないわ。世間話をするだけでいい。肝心なのはそれをシンジ君に見せること。これが作戦の第一段階ね。要はアスカと、仮にA君としましょう、そのA君がアスカと知り合いであることをシンジ君に認識させるの」リツコはボードに簡単に箇条書きをしていく。
「2.A君とアスカは付き合ってるような噂を立てる。そうやって徐々にシンジ君に疑念を吹き込んで行くのね」
「3.適当な日を選んでシンジ君を呼び出す。そのシンジ君を人気のない、ムードのありそうな場所へ連れて行く。なんとその場所には!」リツコはボードに簡単な模式図を描き、にやりと笑みを浮かべてレイたちを見回した。「A君とアスカがいるのよ」
「「「えーっ」」」
 三人のレイは一様に驚きの声を上げた。
「A君とアスカは親しげに話していて、それをシンジ君とあなたたちの内の誰かが見守るの。そのうちアスカの方はいいムードになって、終いには抱き合ってキスなんかしちゃう。シンジ君、大ショック!あんな浮気者はもういい、やっぱり僕は綾波がいいやっ、てことになるのよ」
 リツコは胸の前で手を組んで遠い目をし、熱弁を終えた。レイカは早速胸の裡の疑問を呈する。
「アスカとそうなる事自体、凄く難しいことだと思いますけど」
「別にアスカと本当にそうしろとは言わないわ」
 リツコは即座に答えた。レイたちは訳が分からず、顔を見合わせる。
「あなたたちの内のもう一人にはこの」リツコは横のサイドテーブルにあった箱を持ってきた。「アスカ鬘で変装してもらいます」
 リツコがその箱から取り出したのは、アスカの髪の毛とそっくりな色、形をした鬘である。髪止めも本物そっくりだ。
「もう私が何を言いたいか分かるわね?」
「あっ、そうか!」レイナが気づいて声を上げた。「誰かがアスカの振りをして碇君に見せるんですね?」
「そうよ。アスカの髪は特徴があるから、遠目にもアスカだと思うわ。後姿だけ見せるのが肝心ね」
『碇君、こっちよ』
『なんだよ、綾波。見せたいものって?』
『あれよ』
 レイの指差す先にはアスカと例の男がベンチに並んで座っている。
『あ、アスカ……』
『ここで黙って様子を見ていましょう』
 二人は親しげに話しているように見える。するうち、男の腕がアスカの肩に掛かり、男は体をずらす。男の顔がアスカの顔と重なり合う。
『……アスカ……』
 シンジは呆然とそれを見つめる。レイはシンジにそっと寄り添い、ささやく。
『分かったでしょ、碇君。アスカの正体が』
『分かった。ああいう奴だったんだね』
『そうよ。猿よ。ボノボのような女なのよ。だまされていたの。可哀想な碇君』
『もう行こう、綾波』
『うん』
 そして二人は手を繋いでその場を立ち去るのであった。
「いいかもしれない。この作戦」レイナが感心したように言った。
「そうかしら。一番肝心なところが難しいと思うわ」
 レイコが水を差すように言った。皆の目がレイコに集中する。
「男に化けてアスカに近づくといっても簡単じゃないわ。物腰もそうだけど、一番ばれやすいのは声よ」
「そうね。男の声を作るのは大変だわ」レイカが賛同した。
「その通り!そこを解決するのが私の発明したこれよ!」
 リツコはうれしそうに叫んで、サイドテーブルからもう一つの箱を持ち出した。箱から出てきたのは金属性の小さな平べったい小箱のようなもので、そこからコードが伸びていて、二つに枝分かれした先端には、それぞれ丸い小さなボタン状のものがついている。
「名付けて『誰でも物真似名人くん1号』よ!」
 三人のレイは珍しそうにその機械を見つめた。
「レイコ、立ってこっちへ来て。早速実験してみるわね」
 レイコは嬉しそうに立ち上がり、リツコの傍に立った。リツコは箱の中からノートパソコンを取り出し、コードを使って機械に接続した。パソコンを起動し、ソフトを立ち上げた。機械をレイコに持たせ、ボタン状のものをレイコのブラウスの襟に留めた。
「これで準備は整ったわ。ではレイコ、モニターに映る文字を読んでみて」
「ふぅじこちゃぁああん」
 レイコが出したのはおなじみのあの声だ。レイカとレイナは驚いて声を上げた。
「これ知ってる!」
「ルパン3世だわ!」
 リツコは胸をそらして自慢そうだ。「どう、すごいでしょ。まだまだあるのよ。次、これ読んでみて」
「わが巨人軍は永久に不滅です」
「「長島シゲオね!」」
「正解。次いってみましょう」
「ポー」
「馬場さん…」
「まぁ、このぉー、日本にはねぇ、まだまだ土地があるんですよっ!そでしょっ!だから改造しなきゃいかん」
「これは田中ナントカよ」
「あぁぁあああぁぁうぅぅううううぅぅぅぅ……」
「大平首相だわ」
「痛みに耐えて良く頑張った!感動した!」
「小泉首相よ」
「なんだか古いのばっかり…」
 リツコは頭を掻いて苦笑いをした。「作者がおやじだからしょうがないのよ。ところであなたたちこそ、なんでこんな古いこと知ってるの?」
「「「………………」」」
「まぁ、いいわ。で、どう?楽しいでしょう」
「「「はい!」」」レイたちは朗らかに答えた。
レイカがたずねた。「この装置ってどういう原理なんですか?」
 リツコはよくぞ訊いてくれましたと、得意げに胸を反らした。「これはね。もともと声紋認識装置破りのために開発したものなの。あらかじめ記憶させておいた声紋パターンと、このボタンに見せかけたマイクから入力された音声の声紋を比較し、もう一つのボタン型フルレンジスピーカーから強調すべき周波数帯を補強、削るべき周波数帯は逆相で鳴らし打ち消して目的の声紋を再現するというものよ。これだけの技術はネルフにしかないわ」
 三人のレイは感心して装置を眺めた。
「こんなに便利な装置が、専用キャリングバッグもつけて月々3,000円の36回払いと、とってもお得よ」
 リツコが微笑んで言うと、レイたちは困ったような顔をした。
「お金取るんですか…」
「冗談よ。今回はこの装置のテストという目的もあるの。気づいたことはどんどん言って。レポートもお願い」
「「「分かりました」」」
「話は決まったわね。そこで一番大事なことなんだけど」リツコは三人のレイを愉快そうに見回した。「誰が男に化ける?」

3.
 ここは第三新東京大学のキャンパス。1時限目の終了のベルがなり、生徒たちが三々五々校舎から出て来た。その中にアスカとヒカリがいる。彼女らは真っ直ぐ校門の方へ歩いて行った。2時限目から登校するシンジを待とうというのである。アスカにしてみればシンジと一緒に登校したいのはやまやまだが、1時限目の講義を選択した以上、単位を落とすわけにもいかず、不本意ながら早々と大学に来ているアスカだった。癪に障るのはレイも2時限目からの講義なので、この時だけはシンジとレイが二人きりで登校して来ることである。
「シンジいないかな?アイツらいつもぎりぎりに来るから、会えないことないと思うけど。ヒカリも周りを見ててね」
「うん、分かった」
 最近のヒカリは、長距離恋愛の相手トウジと会う機会もなく、こうしてLAS同盟秘密工作員としてラブマシーンと化したアスカの下僕、もといパートナーを努めることに専念している。そのことに一抹の寂しさを覚えながらも、親友の満願成就を心の底から願っているヒカリである。
「あの、惣流先輩じゃないですか?」
 突然後ろから男の声が掛かった。高めの甘い響きを伴った声。アスカは立ち止まって振り返った。
 眼鏡をかけた華奢な感じの男が立っている。手足に首や胴体も細く、全体に少年のような雰囲気がある。髪の毛も眼も黒く、その髪型はさわやかな短髪だ。なにより際立つのはその端整な顔立ちで、アスカもヒカリも思わず見つめてしまった。
「アンタ誰?」アスカが訊くと、その男は一歩近づいてぺこりと頭を下げた。
「お久しぶりです、…と言っても分かりませんよね?僕、惣流さんの後輩なんですよ。名取トオルっていいます。初めましての方がいいですね」
「へー。じゃ、アンタ、第壱高校卒?」第壱高校とは、アスカやシンジたちが卒業した高校の名だ。
「ええ、1年後輩なんです。ここでまた会えたのが嬉しくてつい声をかけちゃいました」
「名取…名取…知らないわねぇ。ヒカリ知ってる?」
「いいえ。1年下のことはちょっとねぇ」
「そうでしょうね。でも惣流さんは壱高の有名人だから、僕は良く知ってました」
 アスカほどの美少女で、学業優秀、運動神経も抜群となれば、無名でいろと言う方が無理だろう。実際、在校中は全学年から山ほどラブレターをもらっていたのである。
「ほー。アタシのファンの一人だったってわけね」
 こんなのいたかなぁ。これだけ可愛いかったら覚えていそうなもんだけど。ちょっとシンジの弟って感じもあるな。
 名取トオルの頭の中では別の思念が飛び交っていた。
(レイナ。待ってて。もうすぐ碇君がそばに行くわよ)
(早くしてレイコ。こんなの一刻も早く止めたいわよう)

 名取トオル。それはすなわち変装したレイナなのだ。その役がレイナに決まるまでには、かなりの時間がかかった。なぜなら、変装するにしても女と見破られないためには、男らしく、つまり髪を短くしなければならない。そのうえで黒く染める必要がある。誰もそこまでされたくなかったのだ。結局すったもんだの議論の末にさいころで決めることになり、一番小さい目を出したレイナにお鉢が回った。レイナは泣く泣く髪を切り、結構愛着のあった蒼い髪を黒く染めたのだ。レイナがレイになる時は新しく誂えた綾波鬘を被ることになった。
 レイナは別の女に化けることには慣れているが、男はさすがにやりづらい。それも難敵アスカの前で演ずるのである。さっさと切り上げたいというのも無理はなかった。ちなみに『誰でも物真似名人くん1号』の本体はレイナの腰に装着され、ポロシャツの襟にあるボタンの一番上はスピーカー、2番目はマイクである。その声は某人気アニメの声優の声をもとに作られていた。

「あーあ、今日の授業はいきなりドイツ語かぁ。先生、厳しいんだよね。予習してないからいやだなぁ」
「頑張って。碇君なら大丈夫」
 シンジとレイコは話しながら校門から学内に入った。広々としたキャンパスが眼前に広がっている。レイコはシンジへの受け答えとレイナへのテレパシーを同時にこなしている。
(レイナ、学校の中に入ったわ。もうすぐよ)
(早くぅ。こっちは学生会館の前だから)
 レイナは自分の姿をシンジに認めさせた時点でその場を離れる予定だ。レイコとシンジはレイナたちのいる場所にどんどん近づき、残り50メートルほどの距離になろうとしている。その時、後方からシンジの耳に聞き覚えのある鼻歌が聞こえてきた。
 ♪フンフンフンフンフンフンフンフン、フンフンフンフンフーンフフン♪
 ベートーヴェンの『歓喜の歌』。シンジはその声にはっとして立ち止まる。声の主は歌をやめ、シンジに呼びかけた。
「シンジ君。碇シンジ君だろ?」
 シンジは信じられない思いでゆっくりと振り返った。目に入ったのは、おそらくシンジが最も取り戻したいであろう男だった。
「カヲル君…?」
「渚カヲル…」レイコも目を丸くしてカヲルを見つめた。
「会いたかったよ、シンジ君。たぶん君もそうだったろう。長いこと待たせて悪かったね」
 渚カヲルがそこに立っている。勿論、6年前と同じ姿ではない。身長が伸び、肉付きも良くなり、年齢にふさわしい青年がそこにいる。しかし銀髪とルビーのような紅い眼は以前と変わらず、それがカヲルであることはシンジにもレイコにもすぐに分かった。
「カヲル君っ!」
 シンジの眼から大粒の涙が溢れた。だっとシンジはカヲルに駆け寄り、その体を抱きしめた。
「カヲル君、生き返ってくれたんだね。良かったあ。良かったよぉぉおおお」
「そういうことさ。あいにく僕は二人目だけどね」
「百人目だっていいよお!ぐすっ、ぐすっ」
 カヲルもシンジを抱きしめ、二人は固く抱擁しあった。嗚咽するシンジの肩をカヲルは優しく叩く。レイコはその有様を呆然として眺めるだけだった。

「それにしてもアンタって、細っこいわねぇ。体鍛えたら?」
「そうですね。でも僕病弱で…。実はずっと入院してて、登校するのは今日が初めてなんです」
「そうだったの。どうりで見たことない顔だったわけね」
 アスカとトオルの話は調子づいてきている。そのアスカの袖をヒカリが引っ張った。ヒカリの表情にはありありと動揺の色が見える。
「アスカ、あれ見て」
 いけない。シンジ、来たかしら。アスカはヒカリの指し示す方向を見た。なんと驚いたことに男同士抱き合っているのが見えた。それをぽかんとして見守っているのはレイだ。とすると、あの後姿は――。
「シンジッ!」
 考えるより先に足が動いていた。たったっと走って二人に近づくうちに、シンジが頬ずりする男の顔がはっきりしてくる。そこでアスカは愕然として立ち止まった。
 あれ、渚カヲルじゃない!?アスカはあの大事件後、数々の資料を見る機会があった。その中に17番目の使徒・渚カヲルのファイルがあったのである。シンジを裏切った使徒・カヲル。そして同性愛者の疑いを仄めかす記述が…。
大変!なんであんな奴が今頃復活してくんのよ。まったくレイと言い、コイツと言い、常識を疑うわ。シンジもまあ嬉しそうにしちゃって。だめよ。ここまで来てホモに転向されてたまるもんですか。
 アスカは一計を案じた。向きを変えてシンジたちのいる歩道の横にある広い芝生の中に入った。大回りしてカヲルの背後に回ろうというのだ。シンジとカヲルは依然として抱き合っている。待ってなさいシンジ、今アタシが助けてあげる。アスカはカヲルの後ろ、わずかな距離のところに立ち、間合いを計った。シンジは目をつぶり、何も見えていない。
「くおらああああああ!!」
 アスカは気合と共に一気に距離を詰め、カヲルの後頭部めがけて必殺の右ストレートを放った。まさにその瞬間、危険を感じたカヲルは素早い身のこなしで体を開いた。すんでのところでかわされたアスカの拳は空を――切らなかった。シンジの眉間にものの見事にヒットしたのである。

4.
 …ああ、お星様がいっぱいだ。
 シンジは青空とゆらゆら揺れる沢山の星を見た。それっきり何も分からなくなった。意識が吹っ飛び、道路にばったり倒れこんだ。
「きゃあっ!シンジ!大丈夫!?」アスカは慌ててシンジを起こそうとする。
「碇君!!」事態の推移を見守っていたレイコもすかさずシンジに近寄る。
「シンジ君、しっかりしたまえ」カヲルも心配そうにシンジの顔を覗き込む。
 アスカは仰向けに倒れたシンジの脇の下に腕を入れ、上体を起こした。
「ちょっとアンタ!足のほう持ちなさいよっ!」
 アスカはカヲルに向かって噛み付くように叫んだ。カヲルは表情一つ変えずシンジの足を持った。
「いいよ。どこに運んだらいいのかな?」
「ひとまずあのベンチよっ」アスカは傍にあるベンチを顎で指した。
「碇君、碇君。しっかりして」レイコはおろおろしながら、シンジの顔を覗き込み、声をかける。
 アスカとカヲルはぐったりしたシンジの体をベンチに横たえた。何だなんだと、いつの間にか野次馬が集まって来て、ベンチの回りを取り囲んでいる。その中には勿論ヒカリとレイナもいる。アスカはハンカチを取り出し、シンジの頭の下に敷いた。そのまま少しの間様子を見てから、憤怒の形相でカヲルに対峙した。
「アンタ!よくもやったわね!」
 あちこちでずるっとコケる音が立った。
「僕は何もしてないよ。惣流さん」カヲルはきょとんとした顔で応じた。
「うっさい!うっさい!こんなことをアタシにさせたアンタが悪いのよ!…今、アタシの名前呼んだわね。アタシのことも先刻ご承知ってわけぇ?」
「そうさ。君は有名人だからね。ところで、僕たちはただ旧交を温めていただけだよ。どう見てもいきなり突っかかった君が悪い」
 カヲルは毅然とした態度でアスカを真っ直ぐに見返した。アスカも怯まない。
「何よ。アタシだって知ってんだからね。アンタのこと。アンタがホモだって噂があることも」
 野次馬がおおっと声を上げた。中には一歩退く者もいる。アスカとしてはこの元使徒に言いたい事が沢山あったが、機密に属する事柄のため、それ以上詳しく突っ込むことはしなかった。
「そうなのかい。まぁ、今のところシンジ君にしか興味がないのは事実だけどね」
 野次馬が先程よりも大きな声を立てた。露骨にいやそうな顔をする者が多い。中にはなぜか顔を赤らめる者もいた。
「どっちもひどいわ」
 その声はレイコの声だった。アスカがそちらを振り向くと驚きの声を上げた。
「あーっ、アンタ、いつの間にい!」
 シンジの頭はレイコの膝の上にあった。シンジの額を濡れたハンカチで冷やし、優しく髪を撫でている。
「アスカ、あなたまた碇君を殴ったわね。懲りない女…」
「違うってば!これは…、そう、事故よ!不幸な事故なの!」
「殴ったことに変わりはないわ」
 レイコは目に涙を浮かべてアスカを睨んだ。「ううー」アスカは下唇を噛んでしまい、何も言えない。レイコは次にカヲルに視線を移した。
「カヲル。あなた、今さら何しに来たの?私たちの邪魔をしたいわけ?」
「別に。僕はまたシンジ君に会いたいと思った、それだけさ」
「それが迷惑だと言うのよ」
 その時、シンジがううんと唸った。薄目を開けてレイコを見上げた。
「あ、綾波だ…」
「碇君、大丈夫!?」レイコは息せき切ってたずねた。
「ちょっと頭が痛いな。……アスカ。カヲル君もそこにいたんだね」
 アスカとカヲルはシンジの間近からシンジを見下ろしていた。ヒカリもそのすぐ後ろから覗き込んでいる。トオルことレイナもその隣にいた。
 アスカが涙ぐみながらシンジに謝る。「シンジごめん。ごめんね」
「シンジ君。大変だったね。僕の心もとても痛かったよ」カヲルが優しく慰めた。
 シンジはよっこらしょと体を起こした。地面に足をついてなんとか立ち上がったが、ぐらっとふらついてしまう。「危ない!」レイコが体を支えた。アスカも同じようにシンジを支える。
「シンジ、保健室へ行きましょう」
「それが良さそうだね」
 アスカとレイコに支えられて、シンジは保健室へ歩きだした。
「カヲル君、ごめん。また後で…」
 カヲルは微笑みを浮かべて手を振った。ヒカリもついて行こうとしたが、アスカは断った。「ヒカリはいいわ。この後も授業があるでしょ」
 2時限目はとっくの昔に始まっている。講師の方針で出欠は既に取られているはずで、今から行ってももう遅い。後で誰かからノートを借りればいいやと思うヒカリだった。
 レイコとアスカは共にシンジに肩を貸して歩き出したが、早速言い合いが始まる。
「アタシ一人で大丈夫よ。アンタは授業に出なさいって」
「何を言うのよ。あなた一人じゃ危ないわ」
「何が危ないってのよ」
 などとやかましく言い争いながら、二人とシンジは遠ざかって行った。後にはカヲルの他、数人の野次馬とヒカリだけが取り残された。トオルはいつの間にかいなくなっている。
 アスカを気にしつつ立ち去ろうとしたヒカリに後ろから声がかかった。「ねぇ、そこの君」ヒカリが振り向くといたのはカヲルだ。
「もし良かったら、この大学の中を案内してくれませんか?僕は今日、初めてここへ来たもので。都合が悪くなければ」
「は、はあ」ヒカリは初めてこの若者の顔をまじまじと見た。やだ。すごいハンサムな人……。綾波さんと同じ目だ。
「申し遅れました。僕はベルリン大学から留学して来た渚カヲルです。どうぞよろしく」
「ほ、洞木ヒカリです」
 カヲルがごく自然に右手を差し出した。ヒカリは思わずそれを握った。カヲルの口元には笑みが広がっていた。歯磨き粉のコマーシャルにも使えそうな白い歯がきらりと光った。
 きゅん。ヒカリの心臓が一度強く打った。頬がぽっと赤くなった。

 それから、ヒカリはカヲルを学生会館へ連れて行くため歩きだした。なぜかまともに目を合わせられなかった。
 カヲルは周囲を見回しながら歩く。そのうち、遠くの木陰からこちらを盗み見る男に気づいた。男とカヲルの視線が合った途端、男はそそくさと背を向けて去って行く。カヲルはその後姿をじっと目で追った。その瞳は珍しいものを見つけたかのようにきらきらと輝いていた。

5.
 ヒカリはカヲルを連れて学生会館の中を一通り案内して回った。学生たちが行き来しているロビーに、二人は今立っている。
「ここはこんなものね。結構いいところでしょ」
「そうですね。広くて、いろいろなものがある」
「次は管理棟に行きましょう」
 ヒカリはカヲルを促して外へ出ようとする。その時、カヲルは立ち止まってヒカリを止めた。 「ちょっと待って。洞木さん」
 カヲルはロビーの奥を、一人の男が歩いていくのを横目で追っていた。その男はまっすぐトイレに向かっているように見える。おかしなことに、その行き先にあるトイレにはスカートを穿いた女性を描いた看板がついている。その男はそこに入りかけて、びくっとして立ち止まり、あわてて隣の男子トイレに向かった。
 ヒカリもそれを見てカヲルに言った。「あ、彼、さっき会った人だわ。確か名取君て名前」
「僕もトイレに行ってきます。ここで待っててくれますか?」
 ええ、とヒカリの返事が終わらない内にカヲルはトイレに走りだした。
 カヲルがトイレに入った時、男は丁度個室に入り、ドアを閉めるところだった。トイレには他に誰もいない。カヲルは洗面台の前に立ち、その個室を観察した。ドアが閉まっていくらもしないうちに水を流す音が響き亘った。
 危ない、危ない。危うく女子トイレを使うところだったわ。まったく。だから男装なんていやなのよ。掃除のおばさんじゃあるまいし、私が男子トイレに入るなんて。それにしてもこの胸に巻いたさらしってきついわねぇ。胸、ちっちゃくならないかなぁ。名取トオルことレイナは用を足し、立ち上がってドアを開け外へ出ようとする。
 一瞬固まった。カヲルが微笑みを浮かべてこっちを見ている。うっ。何でカヲルがいるのよ。レイナは無視して洗面台に近づき、手を洗おうとした。
「君、どうしてこんなところにいるんだい?」
 蛇口のコックに掛かった手が止まった。レイナはカヲルの顔をまじまじと見た。
「それ、どういう意味ですか?」
「声を変換する装置を使ってまで別人になろうとする。僕には解らないよ、綾波レイ。しかも君はさっきシンジ君に付き添っていったレイじゃない」
 ばれてる…。レイナとカヲルはトイレの中でじっと睨み合った。やがてレイナは低く言い放った。
「言ってることの意味が解らないんですが」
「とぼけないでよ。君が本当に男だというなら、学生証を見せてくれないかい?」
「くっ…」レイナは悔しそうに唇を噛んだ。「どうして分かったの?」
「そう…。なんて言うか、同族の匂いって感じかな。見ただけでピンときたのさ」
「このこと、他所で喋ったらただじゃおかないわよ」
 レイナは氷点下の冷たさを含んだ脅し文句をカヲルに投げつけた。だが、男の声で女言葉を使うものだから、もろにオカマという感じになってしまった。カヲルは平然としてそれを受け流す。
「僕には関係のないことだからね。それに君はこの世界での唯一、いや違うな、数少ない仲間さ。悪いようにしないよ」
「あなたとはじっくり話し合う必要がありそうね」
「そうだね。でもそれはまたいずれ。レディを待たせているんでね」
「そのうち声をかけるわ」
「その時を楽しみにしているよ」
 レイナは素早く手を洗い、トイレを出て行こうとする。仮に第三者がこの場にいたとしたら、ホモ同士の痴話喧嘩に見えたことだろう。カヲルが声をかけた。
「その姿もなかなかいい。好意に値するよ」
 レイナはじろっとカヲルを睨み、トイレを出て行った。
 カヲルは何気なく先程レイナが入っていた個室を見た。
 トイレットペーパーの端が三角に折ってあった。

6.
「やあ、お待たせして申し訳ない。洞木さん」
 カヲルが手を振って近づいて来た。ヒカリは口を尖らせてカヲルを待っていた。
「もう。すっぽかしてどこかへ行っちゃおうかと思ってたところよ」
「ごめん、ごめん。お詫びに後で何かご馳走しますよ」
「そんなのいいです」
「遠慮しないで。さ、次を案内してくれますか?」
 カヲルがまた百万ドルの笑顔をして見せると、ヒカリの不満はどこかに飛んで行ってしまった。

 二人は管理棟、カヲルの通う学部棟や運動場などを見て回り、再び学生会館に戻り、喫茶コーナーに座っている。ヒカリはカヲルの驕りでアイスクリームを食べ、カヲルはホットコーヒーを飲んでいる。
「今日はあなたのような親切な方にお会いできて良かった。僕が日本に来たのは久しぶりのことなんで、読めない字が沢山あるものだから」
「そうなんですか。渚さんて」
 カヲルは手を上げてヒカリを制した。
「カヲルと呼んでくれませんか?」
 ヒカリはまた頬を紅く染めた。「え、ええ」
「…あ、あの、じゃ、私のこともヒカリって呼んでくれますか?」
ヒカリの顔は耳まで真っ赤になってしまった。
「勿論ですよ。ヒカリさん」
「で、ええと、何話そうとしてたんだっけ。…そうそう。カヲルさん、アスカやシンジ君の知り合いなんでしょ?」
「そうですよ」
「てことはネルフの関係者?」
「その通りです。ここだけの話ですが…」そう言ってカヲルはぐっと顔をヒカリに近づけ、声を低くした。
「僕は元、フィフスチルドレンなんです」
「そうだったの…」ヒカリはその前から、なんとなくそうなんじゃないかと感じていた。
「尤も一度も出撃することもなく、あんなことになってしまいました。他のチルドレンは大変な目に遭いましたが、僕は運が良かった」
「そうですねぇ…」
 ヒカリの脳裏にふと元フォースチルドレンの恋人のことが浮かび上がり、消えた。
「ところで…」ヒカリは口ごもってしまった。顔がまた赤くなった。やがて思い切って、声を低くしてカヲルに訊いた。「カヲルさん、ホモって話、本当なんですか」
 カヲルは少しの間ぽかんとしていたが、やがてぷっと吹き出し、そして大笑いした。
「はははははっ。確かにそういう噂がありますよね。さっきもあんなこと言ったし。でもね、安心して下さい。僕は同性愛者じゃありません」
「じゃ、さっきの話は…」
「あれはあくまで友情のレベルの話ですよ。ちゃんと女の人も愛せます」
「も、ですか…」やっぱり変わってる、この人。
「強いて言えば僕は博愛主義者なんですよ。性に拘りなく素敵な人なら愛せます」
「はあ…」どっちもオーケーってこと?
 カヲルはちらりと腕時計を見た。「もうこんな時間だ。アパートに帰って荷物を整理しなくちゃ。昨日、荷物が着いたばかりで殆ど何も開けていないんです」カヲルは立ち上がった。ヒカリもそれに合わせて立ち上がる。
「今日はどうもありがとう。フラウヒカリ。あなたのようないい方と知り合いになれて、僕はとても幸運だと思います」
「そんな。私、別に大した者じゃないです」
 ヒカリは懸命に手を振って否定した。またまた顔が赤くなった。
「いいえ、僕には分かる。あなたはとてもきれいな心根をした人だ。いいことですよ」
「はい……」
「シンジ君たちによろしく言っておいて下さい。じゃ、また会いましょう。」
「はい……」
 カヲルはまた心を蕩かすような微笑をヒカリに見せ、背を向けてすたすたと歩いて遠ざかって行った。ヒカリは突っ立ったままずっとそれを見守っていた。カヲルの言った言葉が頭の中でいつまでも渦巻いていた。

 その夜。夕食の後片付けを終えたヒカリは、パジャマに着替え、自室のベッドに横になって天井を見上げていた。
『あなたはとてもきれいな心根をした人だ』
 カヲルの言葉が甦る。何かしら、いつまでも浸っていたくなるような甘い響きを伴った言葉。私、あんなこと言われたの初めてじゃないかしら。鈴原は絶対言わない。
『あなたのようないい方と知り合いになれて、僕はとても幸運だと思います』
 私のことをあんなふうに言ってくれるなんて。
『素敵な人なら愛せます』
 私も素敵な人ってことにならないかな?
『あなたはとてもきれいな人だ』
 私、きれい?キャー、いやだわ。
『あなたのようないい方と恋人同士になれて、僕はとても幸運だと思います』
 わーどうしよう。もしそんなことになったら。
『あなたのような素敵な人ならいくらでも愛せます』
 ああ、何を言うの、カヲルさん。私にはもう決まった人が……。
 …そうよ。私には鈴原がいるじゃないのよ。
 ヒカリは立ち上がって勉強机の上にある携帯電話を手に取った。画面を開いて着信を見てみる。5日前に来たのが最後のメールだ。それを改めて開いてみる。
『ようヒカリ。わいは今日も元気や。バリバリ仕事しとるで。ほんま、忙しゅうてかなわんわ。土日も働いとる按配や。
んな訳で、当分そっちに行かれへんけど、暇取れたら速攻で行くさかい、待っとってや。トウジ』
 ヒカリはむしょうにトウジの声が聞きたくなり、トウジの番号に繋いだ。呼び出し音が聞こえる。だが、それはいつまでも続き、ヒカリは一分余りもそのまま待っていた。そしてあきらめる時が来る。
 ヒカリは携帯を切り、またベッドに倒れこんだ。目の端に涙の粒が一つついていた。
 鈴原。かまってくれないと私、浮気しちゃうかもよ。
 ヒカリの脳裏にカヲルの笑顔がアップで映し出された。
『フラウヒカリ。僕はあなたを愛している』
 ヒカリの胸が大きく波打った。どうしよう。私、彼に恋しちゃった。

7.
 その日を境にシンジの生活は一変した。カヲルと毎日のように遊び歩くようになったのである。朝夕の登下校にしてもカヲルと一緒のことが圧倒的に多くなった。互いに家が近かったせいもある。アスカとレイが朝、シンジを迎えに行っても、先にカヲルがいたりする。それで、四人連れで登校するのだが、シンジはしきりにカヲルと話をしたがり、アスカとレイは話に入り込めず、傍観することになる。カヲルとシンジは趣味も合った。カヲルはヴァイオリンを玄人はだしの腕で弾くのだ。
 この日の朝もこんな具合だった。
「僕はね、カヲル君、18世紀の音楽を弾くときは、その時代に行われていた奏法を採用すべきだと思うんだ。それでこそ作曲家の意図を忠実に再現できるんじゃないかと思う」
「いわゆるピリオド奏法によるアプローチだね。君の言うことも一理あるよ。ただ、19世紀的な解釈が悪いとは一概に言えないと思うな。それは既に歴史とか、伝統の一部と言うべきものだからさ。その考え方を敷衍していくと例えば『ゴールドベルク変奏曲』をピアノで弾くのは邪道だ、ということにもなりかねない。あれはもともとチェンバロのために書かれたものだからね」
 二人のそんな会話を、やや後ろを歩くレイとアスカはつまらなそうに聞いている。
「アンタさぁ、アイツの言ってること分かる?」
「全然」
 カヲルは早速シンジと同じ管弦楽部に入り、一月後に迫った定期演奏会に向けて共に練習している。カヲルの演奏技術は卓越したもので、すぐにコンサートマスターのすぐ後ろで弾くことになった。ちなみにチェロのトップはシンジだ。
 こうして音楽仲間となった二人だから、一緒に室内楽もやろうよ、という話になり、この日の午後は二人っきりで学内の練習場に籠もったのだ。気が気でないレイとアスカは練習場のドアからこっそり中を盗み聞きした。ガラスのコップをドアに押し当て、底の部分に耳を当てた。たまに美しい楽の音が途切れてこんな会話が聞こえてくる。
『シンジ君、ここの所だけど、この音符で弓を返しただろ。ここはフレーズの終わりまでずっと上げ弓でやった方がいいと思うよ』
『そうだね、カヲル君。難しいけどやってみるよ。けど、カヲル君さすがだね』
『いや、シンジ君のチェロこそ深い音楽性を感じるね』
 などといかにも親密そうな二人の会話に、レイとアスカは歯噛みしながら聞き入った。そのうちにこんな声まで聞こえてきた。
『うん、いいよ。カヲル君、気持ちいい』
『そうだろ、僕はこれが得意なのさ』
『ああ、力加減が絶妙だよ。あっ、そこいい』
「あ、あれ、一体何やってるんだろ?」
「分からないわ」
「ちょっとだけ開けて覗いてみよ!」
『ああ…カヲル君、もっと下』
『この辺かい?』
「見える?」
「駄目。角度がありすぎ」
「もっと開けなさいよ」
「ちょっと、押さないで。…きゃあっ!」
 レイとアスカがどたばたと部屋に倒れこんできた。カヲルとシンジはあっけに取られてそれを見た。カヲルはシンジの後ろに回って両肩に掴まっている。どうやら肩を揉んでいただけのようだ。
「アスカ、それに綾波。何やってんの。そんなとこで?」
「あ、碇君。これは、その、別に何でもないの」
「そうなの。音楽がとってもきれいだったから、そこで二人で聴いてただけなの。ねー、レイ」
「そうよね、アスカァ」
「もし良かったらもっと聴かせてほしいなー、なんちゃって」
 二人はあいそ笑いを浮かべながら、必死に言い訳をする。シンジはため息を吐いて肩をすくめた。
「残念ながら、まだ他人に聴かせられるレベルじゃないよ。それにもう時間がないんだ。僕らはもうすぐ帰るんだ」
「あ、あらそう。それじゃ、そのうち聴かせて。アタシたちはもう退散するから」
「また明日ね、碇君」
 二人はばたばたと練習室から出て行った。カヲルは口を押さえて後ろ向きになり、肩を震わせながら懸命に吹き出すのを抑えていた。
 少し経って、シンジとカヲルは楽譜や譜面台を片付け、それぞれの楽器をケースにしまい込んでいる。カヲルはケースの蓋を閉じながら言った。「シンジ君。君は昔ほど一次的接触を嫌がらなくなったね。態度にも自信が見えるようになった。嬉しいよ、僕は」
「え、あー、まぁ、そうかな。えへへ。ま、あれから随分時間が経ったし、僕も少しは大人になったかなー、なんて」シンジは俯き加減に頬を赤らめて答えた。
「それより、僕は嬉しいんだ。僕には今、部の活動があるし、綾波にアスカもいるから全然寂しくはない。けど、トウジにケンスケとか、高校時代のクラスメートはちりぢりばらばらになっちゃったから、男の友達がいなかったんだ。だからカヲル君が来てくれて本当に嬉しい。なんて言うか、その…」シンジは言葉を切って、少し考えた。
「男同士っていいな、って思うんだ」
 カヲルはすっとシンジの横に立ち、シンジの肩に手を置いた。
「やっぱり、僕は君と会うために生まれて来たのかも知れない」
 二人は互いを見詰め合った。シンジの視線はカヲルの瞳の深い赤に吸い込まれた。

 ――そんな訳でシンジはカヲルといる時間が圧倒的に多くなっているのだ。そうして不満が溜まったアスカはその日の夕方、ヒカリと共にミサトのマンションに来て愚痴をこぼしている。
「でさ、シンジったら、アタシたちのことなんか眼中にないみたい。大体あんな口のでかい男のどこがいいのかしら。あの口、絶対握り拳が入るわよ」
 ヒカリはうんうんと頷きながらも思う。あの人、それでもハンサムよ。
 ミサトは例によってラフな格好で缶ビール片手にアスカを慰める。
「うーん。ま、シンジ君にしてみたら6年分の思いをぶつけてるって感じじゃないのお。あの時はあんなことになっちゃったからねぇ。罪滅ぼしがしたいんじゃないかしら。大丈夫。今さらホモに走ったりしないわよ」
「そうよね!大丈夫よね!」
 ヒカリが言った。「そうよ、アスカ。彼、純粋なホモじゃないから。女も好きだって言ってたもの」
「どちらも可ねぇ。どっちかはっきりしてくれりゃいいのに」ミサトは考えながら言った。「それならこっちも対策の立てようがあるわ」
 アスカはため息をついた。「まったく。レイだけでも大変なのに、モエコの次はカヲルってんだから。呪われてるみたいだわよ」
 ミサトは急にいたずらっぽく目を輝かせてヒカリに言った。「そうだ!ヒカリちゃん、彼とは親しい方でしょ。カヲルに乗り換えてみない?あなたが彼を誘惑して、女好きにしてくれたら助かるんだけどな」
 アスカもその尻馬に乗った。「あ、それ、いい!ほら、アイツ、鈴原なんかよりずっとイケメンだしぃ、かっこいいじゃない。この際取り替えたらあ?そうすりゃシンジの体も空いて、アタシの思い通りになるってもんよ」
「それはちょっと…」ヒカリは苦笑いを浮かべた。
「冗談よ。ヒカリちゃんはずっと鈴原君一筋だもんね。今さら他の男なんて相手にしないわよね」と、ミサトが笑顔で言った。
「そうですよ!勿論そうですとも!」ヒカリは声を大にして言ったが、すぐに小さく付け加えた。「でも振りだけなら」
「「へ?」」
「あの…。振りだけなら、やってみてもいいかなーなんて」
 ヒカリは赤くなりながら、俯いてしまう。ヒカリの意外な発言に、アスカとミサトは目が点になってしまった。
「あ、あの、言っときますけど、あくまでも振りですからね。私、鈴原と別れるつもりはないですから」
「そりゃそうよ。あんたたちの仲は長いもんねえ」アスカはやや動揺していた。
「でもヒカリちゃんがそうしてくれると助かるわ」
 ミサトがヒカリの顔をまじまじと見つめてそう言うと、ヒカリは笑顔で背筋を伸ばして答えた。
「他ならぬアスカのためですもの。頑張ります。それになんとなく面白そうだし」
 ああ、私、悪い女だわ。でも自分に嘘は吐きたくないの。

8.
 夜、夕食を終えた三人のレイたちは、紅茶を飲みながら作戦会議を開いていた。
「とにかく今の最大の障害はカヲルだわ」
「あいつのおかげで男に化けてアスカに近づく作戦も進んでない」
「あいつの目の前でやったら、何を言われるか分からないものね」
「もっと問題なのはカヲルと碇君の仲よ。ここまで来て鳶に油揚をさらわれるような事態は御免だわ」
「彼の本心はなんなのかしら?」
「一度呼び出して本音を聞いてみましょうよ」
「「賛成」」
「それで、いつ、誰がやる?」
「今から」
「今?」
「そうよ。携帯の番号は訊いてあるわ。明日は土曜だから、夜更かししても平気。駄目で元々よ。すぐに掛けてみましょう」
 レイコの提案にレイカとレイナは共に唾を飲み込んでうなずいた。
「じゃ、掛けるわよ」
 レイコは携帯電話を取り出し、カヲルの番号に繋いだ。しばらくしてカヲルが出た。
「カヲル?私は綾波レイよ」

 それから30分後、レイのマンションにやって来たカヲルはリビングのソファに深々と腰掛け、余裕の表情で三人のレイを眺めていた。レイたちは二人がカヲルの目の前に座り、短髪・黒髪のレイナはやや離れた所に椅子を持ってきて座っている。
「改めて自己紹介するわね。私はレイコ」
「レイカ」
「レイナよ」
「三人共、元は一人の綾波レイよ。不運にも三つに分かれてしまったの」
「あの時、私はばらばらになって、世界中に分散したわ。でも不幸なことに帰る体が三つもあった。それでこういう事態になったと言うわけ」
「でも綾波レイが三人になったと公表するわけにはいかない。それで、表向きのレイはこの中の一人だけということにしてるの」
「でも、それぞれ名前が違うんだね」と、カヲルはおもむろに紅茶をすすりながら言った。
「そういうことよ。まずあなたに言いたいのはこの秘密を絶対守ること。それはあなたのためにもなることよ」
「それは分かる。僕の出自もあれこれ詮索されかねないからね。僕らは運命共同体なのさ」
「まずそれはいいわね」
 三人のレイは等しく緊張の面持ちでカヲルを見つめている。それに対してカヲルは涼しい顔で、紅茶を口に含んだ。
「あなたのことを話して。今までどうしていたのか」
「いいとも」カヲルは紅茶のカップをテーブルに戻して、話を始めた。
「あのことの後、僕も君と同様、帰るべき所に帰った。ドイツ支部の深々度地下施設だよ。本部のセントラルドグマのようなものだね。僕が生まれ育った所だ。尤も、僕は6歳までしかそこにいなかった。その頃のことから話そう」
「僕がどのようにこの世に生まれたか、それは君らと似たようなもので、説明するまでもないね。その施設で6年間、ごく少数の人々によって育てられた。主に養育してくたのは、ヘルタ・ブラウン博士と言う人でね、優しい女性だった。僕はそこで何の不満もなく楽しく暮らしていたんだ。ところがある時、キール議長自ら僕を引き取りに来た。有無を言わさずだったね。ヘルタと別れるのはちょっと寂しかったな。彼女、部屋の隅っこで泣いてたのを覚えてる。それから僕はゼーレによって教育された。僕が何者であるかということをたっぷりとね。ゼーレ神学校の優秀な生徒というわけだ。でも僕には個性というものが備わっていた。彼らの言うことに表面上は頷いていたよ。でも最後に決めるのは僕自身だと思っていた。僕は彼らが制御しきれる器じゃなかった」
「僕がこの前日本に来てからは君も知っての通りだ。シンジ君は他人のいる世界を選び、今僕らがいるこの世界がある」
「気がついたら例の水槽の中さ。僕がまわりにうようよしてた。上の蓋を開けて顔を出したら、昔なじみのシュタイン博士が卒倒しそうな顔をして僕を見てたよ。『ただいま』って言ったら、本当に腰を抜かした」
「それからしばらくは支部で大人しくしていた。なんと言っても僕は悪名高き使徒だからね。安全を確認するまでは動けなかった。3年間じっとしてたよ。その頃どうやらネルフの情報操作は成功して、世情は落ち着いた。僕も退屈な日々に終止符を打ちたくなってね。支部長に掛け合ったんだ。僕を社会復帰させろ、さもなくばATフィールドを全開にするぞってね」
「君たちは知らなかったんだろ?まったくネルフというのは妙な組織さ。それぞれが秘密に好き勝手をやっている。困ったものだね」
「で、ようやく僕はドイツ市民として自由を得たわけだ。でも僕には気がかりなことがあった。もちろん、シンジ君のことさ。彼の繊細な心はどうなっているのか、心配でならなかった。とにかく彼に会いたい。そこで支部のお偉方と交渉したわけだけど、反対は強かったよ。僕を知ってる人間が騒ぎたてて、事件のことを蒸し返されかねないってね。でもいつもの通りATフィールドをちょっとだけ張って見せたら、仕方なく同意してくれた」
「そうして僕は今、ここにいる。シンジ君があんなにいい若者になっていたのは嬉しかったな。多分、君らやアスカのおかげなんだろう。お礼を言うよ。ありがとう。大体こんなところだね」
 長話を終えてカヲルは紅茶に手を伸ばした。いいかげん冷めていた。レイナが口を開いた。ボーイッシュな短い黒髪は中性的な魅力を漂わせている。
「では、あなたはまだスペアを持っているのね?」
「いや、破壊してもらった」
 カヲルは無表情にそう言った。レイたちは驚いて目を瞠った。
「僕はヒトとして生きるつもりだ。君らもそうだろ?ヒトは寿命がくれば死ぬ。それが自然さ。自然に逆らってもいいことはない。スペアなどあれば、いつかその決意が鈍る時が来るかも知れない。だからもういらないと思った」
「その意見には賛成するわ」レイコが頷きながら言った。
「次に肝心なことを訊くわ。あなたは碇君のことをどう思ってるの?」と、レイカが訊いた。
「今の質問はテレパシーで相談してしたのかい?」
 カヲルの反問に、三人のレイは驚いて顔を見合わせた。
「何を言ってるの?」
「ごまかしても駄目だよ。僕には分かる。実は君らのことは密かに観察させてもらったんだ。それで君たちの行動パターンの特異さに気づいた。僕の仲間なら起こりうることさ。そうなんだろ?」
 重苦しい沈黙が部屋を支配した。三人はカヲルをじっと睨んだ。カヲルはにっこりと微笑んだ。
「まあまあ。僕らは親戚みたいなものさ。隠さなくても平気だよ。悪いようにはしないって」
 レイナが言った。「分かったわ。あなたの言う通りよ。でも直接あなたには関係のないことなの。あなたの考えを読めるわけではないし、あなたに思念を送れるわけでもないの。それにいつもテレパシーを使ってもいない。疲れるからね」
「口を通して話せないときだけテレパシーを使うのよ」と、レイコが続けた。
「便利なものだね。でも別にうらやましくもない。君たちの生活を想像するとね。何とかしたいとは思わないのかい?」
「それは思わないでもないけど…」レイナが横を向いてぼそっと囁いた。
 レイカが真っ直ぐにカヲルを見つめて言った。「今はどうにもならないわ。綾波レイは一人。碇君も世間もそう思っている以上、この生活を続けるしかないの。碇君にはいずれ話すつもりではいるけど」
「その時、彼はどう思うかな?これまで嘘を吐き通してきたことを」
「「「……………」」」
 三人は何も言えなかった。嘘の上に成り立ってきたレイとシンジの関係。すべてが明らかになった時、シンジはどう応えるのか?これまでにも真実を打ち明ける機会は度々あったのである。しかし、ここまでこの状態を引っ張ってきたのはひとえにシンジの反応が怖かったからではないのか。
「よくよく考えてみなけりゃいけないよ。レイコ、レイカ、レイナ。君たちがシンジ君と付き合っていく上では避けて通れない問題だからね」
「分かってるわ。いずれ何とかする。それよりこちらの質問に答えてちょうだい」レイナが言った。「あなたは碇君とどうしたいの?」
「どうって、僕とシンジ君は友達同士だ。いつまでも一緒にいれたらいいと思っているよ」
「友達同士?本当かしら?あなたは同性愛の対象として碇君を見ているのではないの?」
 カヲルはふっと微笑みを見せた。「僕は彼を愛している。いろんな意味でね」
「「「何ですって!」」」
 三人は同時に叫んだ。皆敵意に満ちた目でカヲルを睨んだ。
「やはりあなたは敵だったのね」
「彼を盗るつもり?」
「今頃のこのこ現れるなんて!」
「まあまあ」カヲルは両手を挙げて逸り立つ三人を制した。
「僕は別に君たちを不幸にしたくてここに来たわけじゃない。一つ約束してあげるよ」
 カヲルは言葉を切って、人差し指を上げ、三人のレイの顔を見回した。
「僕の方からシンジ君を誘うことはしない。ただし、彼が僕とそうなることを望んだら」
「望んだら?」
「僕はたぶん拒むことはできないだろうね」
 三人は互いに視線を合わせた。言葉は発せられなかったが、カヲルの目からはレイたちの間を思念が飛び交っているのが容易に察せられた。やがてレイコが口を開いた。
「分かったわ。碇君が今さら同性愛に目覚めるとは思えないわ。ひとまずあなたを敵とみなすことは止しましょう。ただし約束を破ったらただではすまないと思いなさい。私たち三人がかかれば、あなたなんかひとたまりもないんだから」
 その言葉に対しカヲルはさしたる動揺の色もなく微笑って答えた。「僕らが本気でやったら大惨事になりかねないよ。君らはそこまで馬鹿じゃないだろう。でも安心したまえ。約束は守るから」
「それともう一つお願いがあるの。今後私たちがアスカに対して仕掛ける作戦には、協力しないまでも、黙って見ていてほしいの。それはいいでしょ?」
「いいとも。どんどんやったらいい。僕から見たらとても面白い見物になりそうだからね」
「いいでしょう。協定成立ね」
 レイコが握手しようと右手を差し伸べた。だが、カヲルはちらとそれに一瞥をくれただけだった。
「ちょっと待った。これじゃ僕だけが一方的に奉仕するだけじゃないか。僕に見返りを要求する権利はあるはずだ」
「何を?」
 カヲルはすっと右手を上げてまずレイコを指差した。その腕をゆっくりと回してレイカを、さらにレイナを指したところで動きを止めた。
「レイナ、君だ」
「えっ、何!?私?」
 レイナは驚き、目を丸くして自分を指した。
「そうさ、君だよ、レイナ。僕が付き合いたいのは」
「えぇえええっ!!」
 レイナは仰天して声を張り上げる。他の二人も激しく動揺した。
「何を言い出すの!」
「馬鹿なことを言わないで!」
「大げさに騒ぐほどのことじゃないよ。ちょっとデートしてみようって言ってるだけさ」
「いや!碇君以外の男となんて!」と、レイナは顔を真っ赤にして叫んだ。
 レイカも身内の大事とばかりにカヲルに突っかかる。「あなた、何考えてるの?この大事なときに他の男とデートなんかできっこないでしょ」
「だから綾波レイとしてでなくていい。名取トオル君で一向にかまわないよ」
「なおさらいやよう!」レイナは口をへの字にして泣き出さんばかりだ。
「だったらしょうがないな。寂しい僕としてはやっぱりシンジ君に慰めてもらおう。彼の様子じゃ一線を超えるのは容易だと、僕は見てるね」
「「「………!!」」」
 三人のレイに衝撃が走った。カヲルは本気で言っているのか。カヲルでなければ一笑に付すところだが、この男の場合には、ありえない事ではない。抜き差しならない事態に追い込まれていると誰もが思った。
 睨み合いが始まった。カヲルは三人分の視線を平然と受け止めている。この一見重苦しい沈黙の間にも、レイたちの間では忙しく思念が飛び交っている。
(どうする?こいつは簡単には動かないわよ)
(いやよ。こいつとデートなんて)
(でも事態をどう打開すれば?)
(他に交換条件はないかしら?)
(こいつの気に入りそうな条件なんて、中々思いつかないわよ)
(取りあえず返事は保留しましょう。その間に妙案が出るかもしれないわ)
(今夜は時間も遅いし、それが妥当かもね)
(私、いやだから)
 レイカはカヲルをじっと見つめて言った。「今日のところは返事はできないわ。回答は1週間後でどうかしら」
「僕はそれでかまわないよ。三人でゆっくり話し合ったらいい。吉報を待つことにするさ」
 それから少し話しをしてカヲルは帰ることになった。去り際、カヲルはレイナににっこりと微笑んで見せたが、レイナはぷいっとそっぽを向いて、それっきりカヲルの顔を見なかった。

9.
「あっ、シンジくーん」
 夕方、大学から帰ったシンジがアパートの自分の部屋に入ろうとした時である。後ろから聞きなれた声が掛かった。マヤである。
「あ、マヤさん。今日は」
「へえ、シンジ君の家ってここなんだ。わりといいじゃない」
「いや、大したことないです」
「ううん、いい家よお。で、その若さで一人暮らししてるんだからえらいわあ」
「僕、慣れてますから」
「あ、そうそ。実はね、シンジ君に頼みたいことがあるんだけど、話聞いてくれない?」
「え…?いいですよ。そうだ、入りませんか?汚いとこですけど」
 シンジはマヤを部屋に招き入れた。きれいに掃除されたリビングで二人は向かい合って座った。
「それで、話って何ですか?」
「シンジ君、実は私ね、今まで誰にも言ったことのない秘密を持ってるの」
「秘密?」シンジは興味ありげにマヤの顔を見た。
「そうよ。私ね、マンガを描いてるの」
「マンガですかあ!」
 途方もなく意外な話である。シンジからすればマヤと言えばばりばりの理系人間で、およそ創作をする人物には見えなかった。
「へへ。びっくりしたでしょ。私ってそういう一面もあるのよー。学生時代にはまってたんだけどお、ネルフ辞めて暇になったからね、また同人に参加してみたの。それでこれが私の再デビュー作!」
 マヤはバッグから1冊の単行本を取り出し、テーブルの上に置いた。表紙には薔薇を口にくわえた、いかにも少女マンガ家が描いたらしい美青年と、気の弱そうな美少年が大きく描かれ、背景は花々で埋め尽くされている。題は『薔薇のしたたり』
「うわあ!これ、マヤさんが描いたんですかあ!うまいじゃないですかあ!」
「あ、表紙は別の人。私のはこの中の『黒の悦楽』ってやつね。ペンネームは『吹雪アキラ』」
「へえ、どれどれ」シンジはぱらぱらと本をめくってみた。中の『黒の悦楽』を開いて、絶句した。いきなり裸の男たちが絡み合っていたのである。
「うわぁ……」
「えへへー。どう、すごいでしょ。ちょっぴり自信あるんだー」
『さあ、もうあきらめて言うことを聞くんだ。フランソワ』
『あ、ああっ。駄目だよ、マルセル…』
『大丈夫、僕に任せてくれ。痛くしないから』
『ぼ、僕はどうしたらいいんだ……』
 ――そんな描写がえんえんと続いている。シンジは見てはいけないものを見てしまったような気がして、本を閉じてしまった。
「マヤさん、『やをい』だったんですね…」
「世間一般にはそう呼ばれてるわねー」
 にこにこしながら得意そうにしているマヤを、シンジは呆れたように見つめた。
「それで、僕に頼みって?」
「それなのよ。ほら、あたしさあ、やっぱり女でしょ。どうしても男の心理とか生態とかって解んないじゃない。でね、シンジ君には男の目で、おかしいところはないかとかあ、こうした方がリアルじゃないかってことをね、見てほしいわけ」
「はぁ……」
「私、こういうマンガにもリアリズムが必要なんじゃないかと思うの。『やをい』も日々進歩していかなければならないわ。そしていずれはプロデビュー!というのが今の私の目標」
「そうなんですか……」
「ね、シンジ君、協力して。これだけが今の私の生きがいなの」
「分かりました……」
「わぁい、良かったぁー。シンジ君って、やっぱり優しいわねー」
 シンジはもともと頼まれたらいやとは言いづらい性格である。まして相手は不幸にもネルフを辞めざるを得なくなった旧知の元上司だ。シンジとしては、彼女のためになることならと、迷惑に思いつつも首を縦に振ることになる。
 それからしばらく話をしてシンジの部屋を出たマヤは、帰る道々思った。私がマンガ家?んなわけないでしょー。私なんかへのへのもへじしか描けないわよ。この前あった即売会で買って来ただけ。『やをい』?あんなキモい連中と一緒にすんなってーの。さーて、これでシンジ君、男の道に目覚めてカヲルの方に傾かないかな。…難しいかしら。…ま、何もしないよりはましよね!それよりもいろいろ噂を立ててやる方が見込みがありそう。シンジ君がホモってことになればさすがのアスカも引くわよ。くっくっく。彼も迷惑だろうけど、あたしがかいた恥に比べりゃ全然ましよねー。
 その頃、シンジは件の本を開いて先程のページを再び見ていた。妖しく絡まる二人の男の絵が目に飛び込んで来る。シンジはいやいやながらも約束だからと、ページをめくっていく。いつしかシンジの頬にほんのりと赤みが差し、目はその絵に釘付けになっていった。

10.
 カヲルとレイたちが会って数日が経った。午後の昼食時、レイナは学生食堂で一人席についてお茶を飲んでいる。その姿は名取トオルのもので、この前不成功に終わった作戦を、再度仕掛けようというのである。今日のシンジとレイ(レイカ)は午後の授業から出席する。そこで前もってアスカと接触しておき、レイカがシンジをうまく誘導して、話しているところを目撃させようという訳だ。トオルの件は前もってアスカの耳に入れてある。
「ねえ聞いて、碇君。私、この前意外なものを見てしまったの」
「へえ、どうしたの」
「アスカがね、知らない男の人と話してるところを見たの」
「それが何か?」
「やけに親しそうにしてたの。随分接近してて、楽しそうだった。あんまり言いたくないけど、あの人本当に碇君のこと好きなのかしら?」
「あー駄目駄目、綾波。そんな事言っても信用しないよ。アスカは僕に嘘なんか言うもんか」
「そうかしら」
「そうだよ。もうその話はやめやめ」
 そのアスカがなかなかやって来ない。慣れない男装など早めに切り上げたいレイナは、じりじりしながらお茶を口に含んだ。その時、見慣れた銀髪の男が食堂に入って来た。カヲルだ。カヲルは食券を買って行列に並び、やがて定食が乗った盆を持って、レイナがいる奥のテーブルの方へ近づいて来る。ある程度近寄ったところで、カヲルはいきなりレイナに片目をつぶって見せた。レイナはつんとそっぽを向く。カヲルは方向を変えて少し離れたテーブルに着いた。
 その後を追いかけるように、ヒカリがやって来た。ヒカリは真っ直ぐにカヲルのいるテーブルを目指した。レイナの方には目もくれない。
「今日は、カヲルさん。あの、そこに座ってもいいですか?」ヒカリはカヲルのいる席の向かいを指した。
「やあヒカリ。どうぞ遠慮なく」
 ヒカリは席に着くと、大きめのバッグから包みを取り出し、テーブルに置いた。包みを開くと二段重ねにした弁当箱が現れる。
「私、いつもお弁当なんですよ。その方が経済的だし、作るの好きだから」
「そうなんですか。へえ、中々おいしそうだ」
 ヒカリの弁当箱は一つに肉そぼろと錦糸卵の乗ったご飯が詰められ、もう一つにはハンバーグやアスパラのベーコン巻きなどのおかずが詰まっている。それにはレタスやさくらんぼに苺も入っていて、栄養のバランスも配慮されている。
「このハンバーグ、冷凍じゃないんですよ。ちゃんとひき肉をこねて作った自信作なんです」
「素晴らしい。あなたをお嫁さんにする男性は幸せですね」
「まあ、カヲルさんたら」
 ヒカリは顔を赤らめて微笑み、弁当に箸を付けた。レイナは横からその様子を観察しながら不審に思う。何あれ?洞木さん、まるでカヲルに気があるみたい。
 カヲルとヒカリは楽しそうにお喋りしながら食事を進める。そのうちに話題はまた弁当の事に戻っていた。
「私、昔は家族四人全員のお弁当を作ってたんですよ。今はコダマ姉さんが就職して出ていきましたから、私と父と、妹のノゾミの三人分ですね」
「それはすごい。あなたほど家庭的な学生も珍しい」
「いいえ、駄目なんです、私。どうしても作りすぎちゃうんですよ。今日も一杯余ってて捨てなきゃならないんです」
「それは勿体ない」
 ここでヒカリは今思いついたかのような顔を見せた。
「そうだ!カヲルさんが片付けてくれたら助かるわね!」
「僕が?」
「ええ。別に、残り物なんだから遠慮することないんですよ。ね、明日から持って来ますから食べてくれませんか?カヲルさんも昼食代浮くから助かるでしょ」
「そりゃ、願ってもないことですが…、いいんですか?僕なんかに」
「いいんです。私もそれで大助かりなんですから!」
 この会話を聞き耳立てて聞いていたレイナは、あまりのことにあっけにとられていた。洞木さん、あなた鈴原君のときも同じ手を使って……。まさか、彼を捨てるの?そいつに乗り換えるの?
「僕で良ければいくらでもお手伝いしますよ」
「わぁ。良かったぁ!」
 ヒカリはいかにも嬉しそうに笑った。それを眺めるレイナには、ヒカリが心の底から喜んでいるように見える。脳裏に好漢鈴原トウジの顔が浮かび、心が痛んだ。鈴原君、かわいそう。洞木さん、ほんとにいいの?そいつがいいの?

 その日の作戦は首尾よく成功した。ようやくシンジにトオルの存在を認識させたのである。しかしレイナの気は晴れなかった。ヒカリとトウジのことが気になって仕方がなかった。

 次の日からヒカリとカヲルは早速一緒に弁当を食べ始めたのである。「お願い。私の前で食べて感想を聞かせて」と、ヒカリは朝、早目にカヲルに声を掛けておき、昼休みになると二人は芝生に座り、ピクニック気分で弁当を広げた。
「これはおいしい。君の料理の腕は本物だね」
「そんなぁ、カヲルさんて上手ぅー」
 ――などと殆ど恋人同士のように会話するのを、シンジ、アスカ、レイナ(鬘つき)は遠くから眺めた。シンジは親友トウジが失恋するかもしれないとなると、いても立ってもいられない気分になった。
「あれはまずいよ。トウジ、どうなっちゃうんだよ」
 それに対してアスカの反応はクールだ。
「あら、仕方がないんじゃない。結局、遠距離恋愛って難しいのよ」
「トウジに教えてやらなくちゃ」
「それは止めた方がいいんじゃない。逆にヒカリに怨まれるわよ。男女の仲のことなんだからさ、立ち入らない方がいいわよ」
「そうかなぁ」
「そうよ。あれだって、別になんでもないかもしれないじゃない。へんな事トウジに吹き込んだら、反ってあの二人の間に波風立てかねないわよ。黙って見ていればいいの。あ、もしかして、カヲルが取られそうなんで嫉妬してるのかな?」
「ば、馬鹿なこと言うなよ」
 シンジは顔を真っ赤にして否定した。アスカにはそんなシンジの様子が面白くてたまらない。
 ヒカリって、大した役者だわ。こんなに早くいい雰囲気になるなんて思ってもみなかった。カヲルの奴もこれで女の良さが分かるかもね。そのうちにヒカリに愛の告白なんかしちゃったりして。でも結局は振られちゃうの。『私には鈴原というれっきとした彼がいるんです』なんてね。
 シンジの横で同じように見守っていたレイナの感想はアスカとは違った。アスカはあんなこと言ってるけど、私は違うと思う。洞木さん、本気よ。なんだか訳の分からないことになってきたわね。カヲル、あなたの意図は一体なんなの?

11.
 次の日の朝。三人のレイは朝食を済ませ、レイコとレイナは食器の後片付けをしている。今日の綾波レイであるレイカは大学へ出かけるところだ。ベージュのワンピースに身を包んだその姿は細身でしなやかだ。
「じゃ、行ってくるから」
「「行ってらっしゃい」」
 レイカはいつものようにマンションを出て、角を曲がり、まずシンジの住むアパートへ向かう。ずっと前からやっている朝の習慣だ。夜来の雨が上がり、雲間から薄日が差し込んで来ている。あちこちに水たまりが出来、レイカはそれらをまたぎながらシンジのアパートへ急いだ。

 すたすたと歩き去るレイカの後姿を双眼鏡が捉えていた。徐々に小さくなるその姿を見て、ミサトは満足げに双眼鏡を下ろした。ミサトは朝早いうちにマンションを見渡せる位置に隠れ、その玄関を見張っていたのである。レイカが十分遠くなったところで、ミサトはきりっと顔を引き締め、移動を開始した。

 レイコとレイナはリビングの椅子に座って、テレビのモーニングショーを見ようとしていた。そこへ突然玄関ドアのチャイムが鳴った。二人に緊張が走る。
「誰かしら、今ごろ?」
「そんな予定ないわよ」
 レイナはテレビを切った。レイコは立ち上がり、忍び足で玄関に向かった。またピンポンとチャイムが鳴る。ドアには当然鍵が掛かっている。レイコはそっとドアの覗き穴から外を見た。
 げっ、ミサトさん!
 魚眼レンズを通して見えるのは確かに葛城ミサトだ。手に紙袋を持っている。レイコは即座にテレパシーでレイナに警報を出した。レイナは音を立てぬようにそっと奥の部屋に移動する。何の用かしら?突然来るなんて。警戒が必要だわ。
 三たびチャイムが鳴った。レイコは身じろぎもせずに外の様子を伺った。緊迫した時が経過した。やがてミサトの声が聞こえてきた。
「どうやら、いないみたいね。せっかく高田屋のケーキ買って来たのにな。うーん、このケーキどうしよ。…手紙でも書いて、ここに置いておこうか。んっ、そうしよ」
 高田屋というのは、近所の有名なケーキ屋で、そこのショートケーキはレイたちの大好物だった。レイコの口内に唾が湧き出た。外ではミサトがかすかに動く気配がしている。ドアにごそっと何かが当たる音がした。紙袋を置いたのにちがいない。
「じゃ、行くとするか」
 ミサトが立ち去る足音が聞こえてくる。それはだんだん遠くなり、遂に何も聞こえなくなった。レイコは逸る気持ちを押さえてたっぷり十秒待った。わーい、ケーキだケーキだ。
 そーっと鍵を外してドアを開けた。ずるずると紙袋が床にこすれる音がする。そして、レイコの全身が廊下に出た時、突然声が掛かった。
「あーら、レイちゃん、いたんじゃないのお!」
 レイコははっとして声のした方を振り向いた。廊下の奥にある階段から、葛城ミサトがにんまりと笑ってこちらを見ていた。


(続く)


(第9回へ続く)



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