トリプルレイ2nd

第9回「まごころを君に」

間部瀬博士



1.
「あーら、レイちゃん、いたんじゃないのお!」
 レイコははっとして声のした方を振り向いた。廊下の奥にある階段から、葛城ミサトがにんまりと笑ってこちらを見ていた。
 後頭部をいきなり殴られたような衝撃だった。ミサトの罠にまんまとはまったのだ。自分たちはかつてない危機に直面している、そう感じたレイコだが、動揺を表に出すことだけはかろうじて押さえ、普段通りの態度を取った。
「ミサトさん。…びっくりしました。もう行ってしまったと思って」
 ミサトが苦笑いを浮かべながら近づいて来た。
「随分水くさいじゃないの。そっか。あたしと顔合わせるのがいやって訳ね」
「い、いえ、そんなこと。あの、着替えてたもので出るのが遅くなったんです」
「あら、そう」
 ミサトがレイコの目の前に立った。その表情はいつにない真剣なものだった。レイコもそれに負けまいと精神を引き締めた。既にレイナとの間では数回のテレパシーが交わされ、この場を乗り切るための対策が話し合われていた。
(レイカを呼び戻して!このまま碇君と会ってしまったらまずいことになる!)
(今やってる!!)

 ミサトは今日までのレイの行動を詳細に分析し、ある結論に到達していた。
 綾波レイは二人乃至三人いる。
 まずファンタスティックランドにおける一連のレイの行動。ヒカリを騙ってアスカに掛かってきた電話の発信場所はファンタスティックランド内の公衆電話と判明した。(この事実はアスカには伏せてある。何が出て来ても対処できるようにとの大人の判断だった)そんなことをして得をするのはだれか?第三者と考えるのが普通だろう。しかしその後ヒカリとアスカを会わせないように動いたのはレイ自身だ。さらにレイはアスカと会った後、即座にヒカリの居場所に向かっている。あまりにも不自然な行動ではないか。これらの謎が長い間解けなかった。だが、ある日コペルニクス的な発想が浮かんだのである。第三者、すなわち綾波レイ。それももう一人の綾波レイだ。
 ミサトもあの水槽の目撃者である。水槽を埋め尽くした多くのレイたち。あの場にあったのがレイの肉体の全てではないとしたら?以前、レイの魂はその中のたった一つに宿っていた。だが、それが絶対と言い切れるのか?そうでないケースも起こりうるとしたら…。
 そう考えるとあの場におけるレイの行動は推測出来る。まず、レイたちの間で争いが起きた。原因は当然シンジの取り合いだ。シンジと一緒に行列に並んだレイ。これを第一のレイとする。電話を掛けたのが第二のレイだ。次にアスカと話したのは第一のレイか?これも不自然に見える。第一のレイはどうやってアスカの接近を知り、列を離れたのか。ここに第一のレイの補佐役が浮かび上がってくる。三人目のレイだ。もう一人にアスカの対応を任せ、第一のレイはシンジと一緒にいたと見る方がはるかに自然ではないか。
 まだ解けない謎はある。結局シンジと乗り物に乗ったのはヒカリと共にいた第二のレイだ。その間第一のレイはどこにいたのか。第二のレイはシンジの傍に第一のレイがいないことをどうやって知った?第三のレイが裏切ったとすれば…。
 次に楓荘の事件。あの時、部屋番号のプレートがアスカの言うとおり入れ替わったとした場合、レイには絶対のアリバイがあった。しかし第二、第三のレイがいたと仮定すると、アリバイは崩れ去る。つまり表向きのレイとそうでないレイがいたとしたなら…。
 そしてレイたちの特異な行動様式が浮かび上がる。彼女らは絶えず変装し、表面上綾波レイは一人だけに見せかけている。

 ――これがミサトの推理だった。この日ミサトはそれを確かめるべくレイのマンションに奇襲を掛けたのだ。そして本日二人目のレイが目の前にいる。
 ミサトは態度をがらっと変えて、普段にも増してにこやかに言った。「良かったわ。ケーキ一緒に食べない?ここのケーキ美味しいわよん」
「あ、すいません。そうしたいところなんですけど、私、これから大学に行くところなんで」
 レイコはいかにもすまなそうに答えた。が、ミサトは引き下がらない。「別にいいじゃないのよ。少しぐらいサボったって単位は取れるわよ」
「いえ、ほんとに困ります」
 ここでミサトはまた態度を改めて、冷たくレイコを見下ろした。「どうしても中に入るのがいやだと言うなら、今あたしが知ってる事実を大声で喚き散らすわよ」
 来た。レイコはごくりと唾を飲み下した。
「何の話ですか?」
「あなたについてよ。とても大事な話。聞かないとあなたのためにならないわよ」
 レイコは下を向いて少し考える振りをした。頭の中ではレイナとせわしなく交信している。やがて仕方なさそうに言った。
「分かりました。何か良く分かりませんけどどうぞ」
 レイコはドアを開けてミサトを招き入れた。部屋の中は静かだ。リビング以外の部屋の扉はどれも閉ざされている。レイナは奥の部屋に籠もって聞き耳を立てているはずだ。ミサトとレイコはリビングに立った。ミサトは部屋の中を見回し、感心したように言った。「ふうん、きれいにしてるわねぇ。あたしの所とは大違いだわ」
 レイコはダイニングテーブルを見て心臓が止まりそうになった。湯呑みが二つ載ったままになっている。
 レイコはさりげなく動いてミサトの視線からそれを隠した。密かにそれをつまみ上げ、奥のキッチンへ動いた。
「今、お茶を淹れますから。紅茶でいいですか?」
「うん。ケーキには紅茶が合うわね」
 湯呑みを電子レンジの陰にそっと隠した。これで一安心だ。だが、流しを見て再び心臓が凍りつく。
 朝食に使った三人分の食器類が洗い桶の水に浸かっている。
神様、いるならこれをミサトさんに見せないで!レイコは密かに祈り、薬缶に水を入れ始めた。
「少し待ってくださいね。直にお湯が沸きますから」
 レイコはケーキを載せるための皿を手にリビングに戻った。ミサトはソファに深々と腰掛け、レイコを見守っていた。
「ま、いいからそこに座って」ミサトは横柄な態度で向かいの椅子を指した。レイコは緊張の面持ちでそこに座った。
「それでお話って何ですか?」
「率直に言いましょう。あなた、一人じゃないわね?」
「どういう意味ですか?」
「今朝、もう一人のあなたを見たわ。玄関を出て遠くへ去っていくあなたをね。それを確認してからここに来たの。どういうことか説明して」
「なんのことかさっぱり…」
「惚けないで!!」
 いきなりミサトは大声を出して、レイコはびくっとなった。
「ネタはあがってるのよ。綾波レイは一人じゃない。あたしは三人いると見てる。あなたの場合、どんなことがあっても不思議じゃないからね。正直に白状しなさい!」
 レイコは俯いて考え込んだ。やがて思い切ったように顔を上げて真っ直ぐにミサトを見た。
「ミサトさんが見たレイは私です」
 ミサトは目を瞠り、そしてぷっと吹き出した。
「あはははっ。もう少しうまい嘘を吐きなさい。あたしはずっとここの階段と廊下にいたのよ。あたしに気づかれずに部屋に戻れるわけがないわ。第一、どうして戻って来る必要があるの?それに決定的なのはね、あんたが今着てる服が違うってことよ!」
 このマンションは4階建ての低層マンションで、ここへ来るためには廊下の両端にある階段を上がるしかない。廊下は長く、一方の端に立てば、向こう端まで全て見渡せ、容易に監視できる。さらに、レイコが今着ている服は紫色のツーピースだ。これは致命的な証拠ではないのか。しかしレイコは落ち着き払った態度を崩さなかった。
「碇君の家に行く途中、ここからすぐの所です。そこで車に泥水をひっかけられました。それで着替えるためにここへ戻ったんです」
 確かにこの朝は昨夜の大雨のために、あちこちに水溜りができている。
「へぇー。それでどうやって入ったって言うの。空でも飛んだってぇの?」
「そうです」
「はあ?」
「ミサトさん。これから見ることは決して口外しないで下さい。作戦部長のあなたに今さら言うことでもないですが」
「何よ。どういうこと?」
 レイコは立ち上がり、リビングの中央に立った。ミサトは訳が分からないという感じでそれを見ている。そして眼前に驚異の光景が現出した。
レイコの体があたかも見えない糸で吊り上げられたかのように、すっと宙に浮いたのだ。そのまま床から50センチ程の高さのところに止まっている。ミサトは口をあんぐりと開けてそれに見入った。やがてレイコはそのままの姿勢で部屋を横に移動しだした。あっちへ行き、こっちへ行き、くるくる回ったりしてしばらくの間それを見せたところでようやく床に降り立った。
「ATフィールドね…」
 薬缶の湯が沸騰している。レイコは歩み寄ってガスを止めた。
「ええ。私が普通じゃないことはご存知ですよね。前から出来たんです。怖いですか?」
「え、い、いや、ちょっとびっくりしただけ。ははははは。今さらレイちゃんを怖がったりしないわよ」
 レイコは紅茶の缶とティーポットを戸棚から取り出し、缶の蓋を開けた。
「良かった。滅多にやらないんですけど、今日は急いでて。誰も見てないようだったので、裏から窓に。ここは二階だから、飛んだ距離は大したことないんです。このマンション、エレベーターがないから、つい」
「馬鹿ね、あんたって!!もし誰かが見てたらどうするのよ!!二度とやっちゃ駄目!!」
 ミサトは顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。レイコはしゅんとして縮こまる。
「ごめんなさい…」
 ミサトのお説教はそれから5分余りも続いた。レイコはうなだれてそれを拝聴した。散々叱りつけてようやく落ち着きを取り戻したミサトは本来の目的に戻った。
「で、着替えた服はどこ?」
「こっちです。洗濯機の中です」
 ミサトとレイコは洗面所へ行った。レイコは洗濯機の蓋を開けて、中から濡れたベージュのワンピースを取り出した。それは洗剤の泡にまみれている。中にはその他の洗濯物も多数入っている。どうやら洗濯の準備中だったようだ。
「どうです。ミサトさんが見たのはこれですよね」
ミサトにはその服が確かに先程見たレイのものに見えた。レイコの話は辻褄があっている。
 その服はたまたまそのとき洗濯しようとしていた同じものである。レイたちは大抵同じ服を二着作る。瞬時の入れ替わりを可能にするためだ。
 ミサトはううんと唸って考え込んでしまう。どうなってんの。あたしの推理が間違ってた?いや、まだそうと決まったわけじゃない。もっと探ってみなくちゃ。
 ミサトはレイコに向かって舌を出し、頭を掻いて見せた。「ごみーん。こりゃ、あたしの勘違いだったわ。ホント悪かった。許して。このとーり」手を合わせてぺこぺこ謝る。
 レイコはふっと緊張を緩めた。笑みがこぼれそうになったが、ここは厳しい顔をしなければならない。
「どうしてくれるんですか。おかげで予定が狂ったじゃないですか」
「ほんっとごめん。この埋め合わせはするわ。そうだ。ケーキ食べよっ。ねっ。甘いもの食べて機嫌直してっ」
 ミサトはレイコの肘を引っ張ってリビングに戻ろうとする。そのにこやかな顔つきに、レイコはすっかり警戒心を失った。
「そうですね」ミサトをソファに座らせ、自身はキッチンに立った。先程中断していた紅茶を淹れるのを再開しようとする。美味しいケーキへの期待で微笑みさえ浮かべていた。薬缶の湯が冷めていたのでまたガスレンジにかけた。その時すぐ後ろから声がかかった。
「あら、変ね」
 レイコの体が硬直した。その声はレイコの背後、すぐ傍から出た。いつの間にかミサトが忍び寄っていたのだ。
「あなた、一人暮らしよね?なのになんでこんなに食器があるのかしら?」
 レイコはおそるおそる振り返った。ミサトがいる。その視線は流しの洗い桶に注がれている。それには三人分の食器がびっしりと詰まっている。
「おや、こっちにもいっぱいあるわ」
 ミサトは食器戸棚に歩み寄って中を見た。その扉はガラス製で、内部が透けて見える。中にある食器は三枚一組の皿、三個のご飯茶碗、どんぶり、三組の箸などいずれも三個以上の組になっている。
「どれも沢山揃えるのねぇ。どう見ても三人家族の食器棚じゃない」
「あ、それはその…」
 レイコの顔面は蒼白になり、返す言葉もしどろもどろだ。ミサトは勝利を確信し、余裕の笑みを浮かべた。
「他の部屋も見せてもらうわよ」
 いきなりミサトは動いた。大股で反対側の部屋に向かう。
「待って!駄目です!」
 レイコは大声で制止したが、ミサトはまったく無視して部屋の引き戸に手を掛けた。レイコは思わず目をつぶった。
「ほっほーお」
 ミサトの眼前に二台のベッドがある。そこはレイたちの寝室なのだ。小ぎれいな女の子の部屋らしい寝室。ミサトはじっくりそこを見回した。これで二人以上は確定ね。残りの部屋はどうかな。
「他も見せてもらうわよ」
 ミサトは踵を返し、奥の部屋へ向かった。「止めてください!」レイコは大慌てで叫んだが、ミサトには通じない。レイコの動悸はさらに激しくなる。そこにはレイナがいるのだ。
(隠れて!レイナ!)
 奥の部屋は四畳ほどの洋室になっている。主な家具は小型のチェストとベッドだけだ。レイナは慌てふためいてその下に飛び込んだ。
 がちゃりとドアが押し開けられた。レイナは息を殺して床に這いつくばっている。早く、早くあっちへ行って!
「びんごお」ミサトは三個目のベッドを見つけて満足げに微笑んだ。あたしの推理は正しかった。レイは三人ということだわ。やっぱり最初に見たレイと今いるレイは別物よ。とすると、もう一人はどこ?今朝マンションから出て行った女はレイ一人。あとは男ばかりだった。早くから見張ってたから間違いないわ。だとしたら、考えられるのはどこかに隠れているということね。
レイコは呆然としてミサトの行動を見守るだけだった。遂に自分たちの秘密が暴かれるときが来たのだ。ミサトはどう出る?リツコは、シンジは何と言うだろう?どう転んでも碌なことにならないに違いない。
その時、レイカのテレパシーが届いた。
(レイコ、今、マンションの前に着いたわ。そっちはどう?)
(ああ、レイカ、戻って来れたのね)
(かろうじてレイナのテレパシーが届いたの。どうなったの?ばれちゃった?)
(うん)
(ええっ!どうしよう!)
 ミサトはちらっとレイコを見た。リビングで焦点の合わない目をして突っ立っている。動くなら今のうちね。さっさと捜そうっと。まず、怪しいのは…。
 いきなり、床に這いつくばってベッドの下を覗いた。レイコは小さく悲鳴を上げた。そこに黒髪の頭とTシャツにズボンが見えた。あっけなく目標の人物を見つけたので、ミサトはいささか拍子抜けした。
「見いつけた。そんなとこに隠れてないで出てきなさい。三人目のレイちゃん。自分のうちでしょう」
 レイナはやむなくのろのろと横に這い出た。すっかりベッドからはずれたところで体を起こした。
 ミサトは自分の目が信じられなかった。そこにいるのはどう見てもレイに見えなかった。
「あの、初めまして。僕、名取トオルです」
短い黒髪に眼鏡をした華奢な男がミサトの目の前に座っている。

2.
(良くやったわ、レイナ。変装しておいたのね!)
(うん。でもこれしか無かったのよ。これはこれでまずいわよ)
(それは言える…)
 ここは普段レイナが使っている部屋だ。それで名取トオルに化けるための道具一式がこの部屋にあったのである。
 ミサトはあまりの意外な展開にあっけに取られていた。まさかここで男に会うとは思ってもいなかったのだ。レイナの擬態もその声が完璧に男のものであったために、疑いを持つ余地がなかった。
 ようやくミサトは衝撃から立ち直り、口を開いた。「…初めまして。あたしは葛城って者で、レイの上司ですけど、あなたはレイとどういう関係なんですか?」
「あの、立ち話もなんですから、向こうで」
 レイナは立ち上がり、リビングへ向かった。少しでも時間を稼いでストーリーを組み立てたかった。
 三人は応接セットに座り向き合った。
「あの、私、お茶淹れます」
 レイコは立ってキッチンへ行こうとするが、ミサトはそれを制止した。
「いいから、そこに座んなさい。話をちゃっちゃと終わらせましょう」
「はあ…」
「で、あなた、レイとはどんな関係なの?」
 ミサトのレイナを見つめる目は厳しい。レイナは縮こまりながら小声で答えた。
「僕はその…、何て言いますか…、知り合いですね」
「そりゃそうでしょうよ。どういう知り合いか訊いてるの」
「そうだなあ…、親しい方でしょうね」
「だからそうじゃなくて。どうしてここにいるのか訊いてるの」
「どうしてって…、綾波さんが入れてくれたからいるわけで」
「ほー、そうですか。どうしてもはっきりしたくないようね。だったらあたしの推理を言ってあげましょう。あんた、レイのオトコね」
「ミサトさん!何を言うんですか!!」レイコが大声を出した。シンジの他に男がいるなどということになったら一大事だ。「私には碇君以外に彼氏はいません!」
「そうですとも。僕は綾波さんとはただの友達なんです。隠れたのもそういう誤解を受けないためだったんです」
「そうかしら。後ろめたいところがあるから隠れたとも思えるわよ。大体、この家、ベッドに食器が多すぎるわ。正直に言いなさい。あなたたち同棲してるんでしょ」
「「そんな!違います!!」」
「だったらなぜベッドが三つもあるのか、説明してもらおうじゃないの」
 レイコとレイナはぐっと答えに詰まった。ミサトはまるで獲物を追い詰めた猫のような顔つきで二人を見つめた。

 レイカはマンションの前をうろうろと歩き回っていた。部屋の中の様子は逐一テレパシーで掴んでいる。絶体絶命の危地に自分たちは立たされている。しかし、レイカ自身はその危機を乗り越えるための術を何も持っていなかった。ただあせりを感じながら無意味な交信を交わすだけだった。
「こんなところで何をしているの?」
 突然、背後から声がかかった。レイカはびくっとして立ち止まり、振り返った。
 カヲルが不思議そうな目を向けて立っていた。
「さっきから、うろうろうろうろ。ここは自分の家だろう?どうして入らないんだい?」
「あなたには関係ないわ」
 レイカはいらだった返事を返して立ち去ろうとした。カヲルはきょとんとした顔でその場に立ち竦んだ。その時、ふいに霊感がレイカに訪れた。

「そのう。ベッドって最初に寝た時のひんやりとした感じって、いいじゃないですか」レイコがようやく説明を始めた。
「それはあるわね。それで」
「でもしばらく立つとだんだん温まって来ますよね。あのすてきなひんやり感がどこかに行ってしまう」
「そりゃそうよ」
「そうなったら、もう一つのベッドに移動するんです。そしたらまたひんやりと気持ちがいい」
「そうでしょうね」
「そうやってどんどんベッドを移動するんです。二つ目のベッドが温まったら、最初のに戻ります。そのころには最初のベッドはもう冷えています」
「ほおー、なるほど!それでベッドが三つもあるわけね!いやあ、レイちゃんあったまいいー」と、ミサトは感心して見せた。
「そうでしょう。これとっても気持ちいいんです」
「んなことあるわけないでしょう!なーに馬鹿なこと言ってんの!!」
 一転してミサトは怒鳴り声を張り上げた。レイコはびくっとして縮こまった。
「どこの世界にそんな事のためにベッドを三つも買う人がいますか。人を馬鹿にするもんじゃないわよ。いいかげん正直に白状しなさいったら!」
 レイコは俯いて何も言わなくなった。レイナも視線をそらして口を閉ざしている。その顔は青ざめ、額から汗が流れ落ちた。
(どうしてもやるの?)
((やりなさいっ!))
(他に何かない?)
((ないっ!!))
 ――分かったわよ。レイナはぐっと唇を噛み締めてミサトに向き直った。
「すいません。僕から説明します。僕は確かに綾波さんと同居しています」
 ミサトはやっと事態が動き始めたのでほくそ笑んだ。「ほお、それで?」
「別に同棲とかって関係じゃないんです。単なるルームメイトです」
「ルームメイト?」
 レイコが口を挟んだ。「ええ、このマンション、一人暮らしには広すぎるぐらいだから、同居人がいたら家賃が少なくて済むでしょ。それで名取君と一緒に住むことにしたんです」
「なんだか信じられないわねぇ。そういうのって普通同性でするものでしょう。独身の男女がやるもんじゃないわよ」
 ミサトは疑わしそうなまなざしで二人を見つめた。
「普通はそうですね。でも名取君の場合はちょっと特殊なんです」
「どこが?」
 レイナが顔を真っ赤にして、つっかえながら言った。「あの、ぼ、僕、その…、相手がいるんです。それが…、えーとその…、もうすぐ帰って来ます!実際にご覧になってください!」
 丁度その時、ピンポンと玄関のチャイムが鳴った。レイコは立ち上がった。「ミサトさん、その目で確かめてください」レイコが玄関に向かえに出た。ミサトはそちらに注目した。そのままなかなか戻ってこない。耳を澄ますと何か小声で話しているようだ。しばらくして誰かが上がってくる気配がする。そしてリビングの戸口に現れたのはまったく思いもかけない人物だった。
「やあ、葛城さん。お久しぶりです」
 渚カヲルがそこに立っている。

3.
「カヲル…?」
 ミサトは意外な人物の登場に、しばしぽかんとした表情でカヲルを見つめる。
「驚かせてすみません。早めにご挨拶に伺えば良かったんですが、何かと忙しくて」
 カヲルはレイカの口を通してレイたちの危難を知り、こうして助っ人に現れたのである。
 ミサトは憎らしげにカヲルを睨み付けた。今はのうのうとヒトをやっているが、元はと言えば彼女の不倶戴天の敵・使徒である。今すぐぶん殴ってやりたい、とミサトは思った。しかし、ここには部外者もいる。下手なことを喋って機密を洩らすわけにはいかないし、カヲルにも沈黙を保っていてもらわねばならない。そもそも相手にはATフィールドがあるのだ。やむなくぐっと堪えるミサトだった。
「おかえりなさい。カヲル」
 と、レイナは意外な行動を取った。椅子から立ち上がってカヲルの傍に行ったのだ。
「大変だったみたいだね、トオル。もう心配ないよ」
 そう言ってカヲルはトオルことレイナの肩を叩いた。レイナはにこりと微笑んだ。
 レイコがミサトに向かい、言った。「あの、大体察しがついたと思いますけど、さっき特殊って言ったのはこういうことなんです」
 ミサトの全身に悪寒が走った。「じゃ、この二人はいわゆる、あの…」
「ええ、ゲイなんです。二人共」
 改めて言われるとそれはそれでショックだった。ミサトはUMAを見る目で寄り添う二人を見た。
「僕からお話ししましょう。葛城さん」
 カヲルはミサトの向かいに腰を下ろし、説明を始めた。レイナもカヲルの隣に座った。
「トオルと会ったのは、僕がこっちに来てまもなくです。大学のキャンパスが出会いの場でした。初対面の時から通じるものがありましたね。こうなるのにさほど時間は掛からなかった。ね、トオル」
 トオルは顔を真っ赤にしてうんうんと頷いた。レイナにしてみれば単に恥ずかしかったからだが、ミサトの目にはそれが、初々しい恋する者の含羞の仕草に見えた。
「すぐに二人とも片時も離れられないと思うようになりました。でも両方そんなにお金がある方じゃない。どちらも狭い下宿暮らしでね、二人で住むのは無理があるし、プライバシーも保ちづらい。そこで助けを差し伸べてくれたのが」カヲルはレイコの方を振り返って見た。「レイというわけです。なんと言っても僕らは似たもの同士、親戚みたいなもんだから、協力し合おうということになったんです」
 レイコが口を挟んだ。「そうなんです。私のうち、広すぎるぐらいだから、丁度良かったんです。家賃も三人で払えば安上がりだし」
「それで、荷物を運びこんだのが三日前。三人の共同生活が始まったわけです。あ、でも全部の生活用品を運び込んだわけじゃない。取りあえず寝起きに必要なものと勉強道具だけ。他のものはぼちぼち運びこもうって考えです。引越し代も高いですからね」
「食器類は私が買ってあげたんです。二人ともお金があんまりないようだから、お祝いの意味で」
何よこれ。話がうますぎるわよ。絶対どこかに嘘がある。
「レイちゃん。あなた、こんなのが一緒で平気なの?」
「どうしてですか?そりゃ、目の前で『あれ』をされたら困りますけど」
 ううん。やっぱり一般人とは感性が違うのかなぁ。
「カヲル君。あなた今までどこに行ってたの?」と、ミサトはある意図を含んだ質問をした。
「ああ、僕は朝の6時からジョギングです。体を鍛えているんですよ。散歩がてらゆっくり回ってきました」
「そう、感心ね。でもこんなに道が悪いのに良くやるわ」
「そうだったですね。でもまぁ、この程度なら」
 カヲルがジョギングをしていたというのは真実だった。服装は、その答えに相応しくスウェットの上下だ。パンツにはあちこちに泥水が跳ねた跡がある。ミサトがマンションの見張りについたのは午前7時頃、カヲルを目撃しなかったことと矛盾しない。
 ミサトに向かい合った三人はにこにこと愛想笑いを浮かべている。一方ミサトの疑念はまだ晴れたわけではない。
「そんな事情があるなら、なぜ最初から言わないの?ずっと隠そうとしてたわ」
 レイコが答えた。「それは、カヲルが本当のゲイだってことが分かったら、ミサトさんのことだから、あちこちで吹聴するんじゃないかと思ったんです。そうなると、カヲルの将来にも響くかもしれないし…」
「同性愛者に世間の目は厳しいからね」とカヲルは言い、レイナと寂しげな顔をして見つめ合った。ミサトは、自分がよほどのお喋りだと思われていることにやや腹が立ったが、普段の行状からして止むを得ないかとも思った。
「カヲル、あなた、シンジ君と親しくしてるわね。あなたの本命はシンジ君だと思ってたわ。そこのところどうなの?」
「ああ、シンジ君。そりゃあ、彼とは気が合うし、大親友ですよ。でも、このトオルに比べたら」
 カヲルはレイナの肩を抱き、自分に引き寄せた。レイナの頭がカヲルの肩にもたれかかった。
「トオルの方がずっと可愛い。僕の好みにぴったりなんです」
「うれしいよ、カヲル」
 レイナはカヲルに合わせて、甘い言葉を吐く。だが内心泣きたい気持ちなのだ。
 ミサトは思った。待てよ。レイがこの部屋に飛んで帰ってきたときこの子がいたってことよね。と、するとこの子…。
「トオル君、あなた、この二人のことどこまで知ってるの?この二人は、ええと、なんと言うか只者ではないのよ」
「はい…」レイナは本能的に危険を察知した。この質問には何か意図が隠されている。レイナの頭脳がフルに回転した。知らない、と答えるべきか、それとも…。緊迫した数秒間が過ぎた。レイナの思考にある事実が浮かんだ。…レイはトオルがいるにも関わらず飛んで戻って来た。だとしたら、答えは一つ。
「二人のことはおおよそ分かっています。二人とも人の手によって生み出されました。それから人にはない力を持っています。使徒戦ではエヴァのパイロットだったことも」
 ミサトはトオルの答えが理に適っていることに失望した。うーむ。矛盾はないか。
「あなたはそれでも平気なのね?」
「ええ、どっちもヒトと全然変わりませんよ。欠点は誰にでもありますから」
 あれを欠点で済ませるとは、この男も相当なものね。でも、一般人がこんな機密を知ってもらっては困るな。ミサトは目の前にいる優男の処置について思いをめぐらす。その様子を見ていたカヲルは厳しい顔で言った。
「トオルのことはこの僕が保証します。トオルに手を出したら、僕は許さない。レイもそうだ。僕が本気になったら、今のネルフでは対抗できませんよ」
 カヲルの毅然とした態度に、レイコとレイナは一瞬かっこいいと思った。ミサトはまずいと思い、一転して宥めにかかった。
「まあまあ。別にトオル君をどうこうしようなんて、ちっとも思ってないわよう。ただ、秘密は絶対守ってね。寝た子を起こすようなもんだからさ。そこんとこよろしく」
 レイナは真面目な顔をして誓った。「勿論です。カヲルや綾波さんの迷惑になるようなことは絶対しません!」
「そう願ってるわ」
 ミサトは自分の旗色が悪いのにあせりを感じていた。とにかくここは質問攻めにする以外にない。切り口を変えて追求することにした。
「まだ信じられないわ。アスカによると、あなた、しょっちゅうシンジ君と一緒なんでしょ。その男の子と付き合う時間なんてあるの?」
「そうですねぇ。まあ、昼間はシンジ君、夜はトオルって感じかな」
「まっ」
 何ていやらしい。ミサトは苦々しげに若い二人を眺めた。そのうちに、違和感を感じる。どうもトオルの方に今一カヲルへの親しみが感じられないのだ。それどころか仔細に観察すれば、額に汗が滲み、視線も落ち着きなく彷徨っている。
「トオル君」
「は、はいっ」ミサトの呼びかけにレイナはびくっとして答えた。
「私、どうしてもあなたがカヲルの彼氏に見えないのよね。ほんとは嫌がってる。違う?」
「そんなことないですよお!」
「いいえ、嫌がってる。そうじゃないと言うんなら証拠を見せなさい」
「証拠って、どんな?」
「キスでもして見せてくれたら信用するわ」
「………!!」
 室内に緊張が走った。ミサトを除く三人は互いに顔を見合わせた。ミサトもここが正念場とばかりに、厳しい視線を送る。
(いやよ。なんで私がカヲルなんかと)
(…仕方ないわね)
(やるしかないんじゃない?)
(碇君以外とキスなんて…)
 最初に沈黙を破ったのはカヲルだった。「やれやれ仕方がない。人に見せるもんじゃないけど、信用してもらうにはやるしかないよ。さ、トオル」両腕を広げて待ち構える姿勢を取った。
 レイナにとっては試練の時だった。硬直したままカヲルと見詰め合った。カヲルの唇が小さく動いた。(おいで)
レイナの視線はカヲルの紅い瞳に注がれた。限りない優しさを湛えた目をしていた。口元にはかすかな微笑が浮かんでいる。その顔をレイナは美しいと思った。
(やるのよ、レイナ!)
(頑張って!レイナ!)
 レイカとレイコのテレパシーがレイナの肩を押した。分かったわ。レイナは何もかも投げ捨てるような気持ちで思い切った。体を捻ってカヲルの胸に飛び込んで行った。
 唇と唇が合わさり、二人は軽く目を瞑った。互いの体に廻した腕が密着度を高めた。
 ミサトにとっては恐るべき光景だった。こともあろうに目の前で男同士がキスをしている。全身に鳥肌が立った。一刻も早く止めてもらいたかった。
「わ、分かったわ。ふ、二人とも正真正銘のゲイね。う、疑って悪かったわ。その辺で止めていいから」
 レイナとカヲルがようやく唇を離した。口と口の間に唾液の橋が掛かった。どうやら舌まで入れたらしい。レイナはとろんとした目をしていた。
ミサトはいたたまれない気分になり、立ち上がった。もうこんな不気味な場所にはいられない。玄関の方へ後退りしながら、慌しく謝った。
「いやぁー、今回はあたしの勇み足だったわ。ごめんね、みんな。迷惑かけて。レイちゃん、ほんっと悪かった。許してね。この埋め合わせはするから。あーまいった、まいった」
 どん、とミサトの尻が何かに当たり、退路を阻まれた。ミサトはびくっとして振り返った。赤い八角形の壁が見え、すっと消えた。げっ、ATフィールド…。
「そう急がないで。葛城さん」カヲルが冷たい声色で言った。「今日見たことは誰にも言わないで下さい。僕らにもいろいろ都合があるんでね。その方がお互いのためだと思いませんか?葛城さん。僕としてもなるべく『力』は使いたくないんだ」
「きょ、脅迫しようってえの?」
 カヲルは鼻で笑い、凄みのある視線を送った。
「脅迫?とんでもない。お願いしてるだけですよ。まあ、葛城さんなら滅多なことはしないでしょうが」
「わ、分かったわよ」ミサトは手を伸ばして、後ろに何もないことを確認しながら後退した。
 玄関に着いたミサトは靴を履くのももどかしげに喧しく喋り散らし、せわしなく出て行く。「このことは誰にも言わないから。内緒にしとくんで安心して。それから、カヲルにトオル君。お幸せに。じゃーねえ」
ばたんとドアがしまった。その途端、レイコ、レイナ、カヲルの三人にほっとした空気が流れた。
「やった…」
「助かった…」
「やれやれだね」
 レイコとレイナの喜びが爆発した。「私たち、勝ったのね!」「あのミサトを撃退したのよ!」二人は笑いあい、手を繋いで踊りださんばかり。カヲルも満足げだ。そこへ玄関にレイカが帰って来た。
「レイコ、レイナ、良かったぁー」
 レイカが駆け込んで来た。レイコとレイナに合流し、三人抱き合って喜びを分かち合った。
「良かったね、みんな。僕もお役に立てて良かった」
 カヲルが言うと、レイたちはカヲルに向き合った。
「ありがとう」「あなたのおかげね」「このことは忘れない」
「いいのさ。交換条件があったんだから」
「交換条件?」レイナが訝った。
レイカがすまなそうにレイナに言った。「そうなの。表で決めたの。あなたには教えてなかったけど」
「え、それってまさか…」
「デートしなさい。カヲルと」
 レイナは呆然として絶句した。レイカとレイコは気の毒そうに視線をそらす。カヲルはにっこりと微笑んでレイナに言った。「すまない。そういうわけなんだ。悪いけど付き合ってもらうよ。なあに、少し一緒の時間を過ごすだけさ。どうってことないよ」
 レイナはうちしおれて下を向いた。レイカとレイコからなぐさめのテレパシーが来た。
(かわいそう。でも今回だけは我慢して)
(適当に付き合ってやればいいのよ。大したことない、ない)
やがてレイナは相変わらず下を向きながら小声で答えた。「分かった」

4.
 次の日。ミサトはネルフ内の休憩所で椅子に腰掛け、ぼんやりとジオフロントの景色を眺めている。テーブルには自動販売機で買った缶コーヒーが載っているが、それにはあまり口をつけず、物思いに耽っている。考え事のテーマは前日のレイ宅で起こったことどもについてだ。自信をもって臨んだ昨日の行動だったが、期待は見事に裏切られた。そこで自分の推理と事の経緯を再度検証している。そこへ聞きなれた声が掛かった。
「そこ空いてる?」
「あら、リツコ。いいわよ。どうぞ」
 リツコはミサトに向かい合って座り、缶コーヒーの栓を開けた。
「浮かない顔してるじゃない。悩み事でもあるの?」
「ちょっちねー。あたしの推理力も大したことないのかと思ってさー」
「昨日の事ね。レイから聞いたわ。あなたが突然押しかけて来て大変だったって」
「へいへい。保護者のあなたに無断で勝手なことしてすみませんでした」
「もういいわ。こちらも作戦部には随分秘密にしてたし」
「そうよお。レイにあんな力があるなんて想定してなかったんだから」
「その事は謝るわ。私からも二度と力を使うなってきつく言っといたから」
「そうでなくちゃね。あんなの危なっかしくて仕方がないわ。それからカヲルのことよ」
「カヲル?」
「カヲルが生きてるって何時知ったの?こっちに来てから知ったなんてことないでしょ?」
「そうじゃないけど、結構最近のことよ。ドイツ支部から打診があってね。黙ってたのは悪かったけど、重要機密扱いだから、その辺理解して」
 ミサトはぐっと身を乗り出し、リツコに迫った。
「もう隠し事はないの?レイのこと。あたしの推理じゃ、レイが一人だけとは到底思えないのよ」
「そんな事はないわ」リツコは涼しい顔でコーヒーをすすった。
「本当に信じていいのね?もし嘘だったら…」
「嘘だったら?」
「レイはシンジ君に大変な欺瞞行為をしていることになるわ。恋人でいる資格なんかないわね」
「あら、もし仮にそうだったとしても決めるのはシンジ君自身だと思うわ」
「そうだけど、シンジ君なら多分耐えられないでしょうよ。それはともかく」
 ミサトは腰を浮かし、リツコに顔をさらに近づけた。
「あたしはアスカの味方をするわ。こうなったら損得抜きでね。きっとあの二人をカップルにして見せるから」
 リツコは微笑を浮かべ余裕の態度で答えた。
「そう。では私はレイの味方。これまでずっとそうだったし、これからもね」
 ミサトは立ち上がり、真っ直ぐにリツコを見つめた。「ま、お互い頑張りましょ。決着はそう遠くないわ」
「そうね。全力で頑張りましょう」
 ミサトは踵を返しすたすたと去って行く。リツコはコーヒーを味わいながらその後姿を眺めていた。そしてミサトの姿が完全に見えなくなった時、近くの柱の陰から、ふいに加持が姿を現した。リツコは驚いて目を瞠る。
「両雄一歩も引かずって感じだったね」加持は頭を掻きながらリツコに近づいて来る。リツコはあきれて加持を見た。
「立ち聞きとはあなたらしいわ」
「俺の習慣みたいなものだな。ま、気にしない、気にしない」
「ところでどう?頼んでおいた事?」
「うまくいきそうだよ。直に仕上げられると思うな」
「頼んだわよ。こういうことはあなたにしか出来ないんだから」

5.
 次の日曜日。昼下がりのとある喫茶店にカヲルはいた。一人席に着いてコーヒーを飲んでいる。服装は特に気を使った清潔感に富んだものにしている。ちらりと腕時計を見た。約束の時刻を10分も過ぎている。だが、カヲルはいらだちを感じることもなく、待ち人の来るのを待った。
「お待たせ」
 カヲルの背後から声が掛かった。それは、彼の予想に反して女の声だった。振り向くと長い髪に眼鏡を掛けた娘がこちらへ歩いて来る。清楚な白いワンピースに身を包み、簡素な白いハンドバッグを手にしたその姿は、たおやかな美しさを湛えている。そしてカヲルの向かい側に座った。勿論彼女はレイナだ。
「何よ、その顔。意外だった?」
 カヲルは目を大きく見開いて娘を見ていたのだ。カヲルは苦笑いを浮かべた。
「いや、変われば変わるものだと思っただけだよ」
「今日、あなたとデートすることは約束したけど、男として付き合うとは言わなかったわ。不満?」
「そんなことあるもんか」
「同じデートするなら女としてするわ。そのぐらい我慢して」
「君は何か誤解しているようだね」
 それから二人は暮らしのことや、昔のことを話して30分程時を過ごした。それからどこかへ行こうよということになった。
「デパートへ行ってショッピングでもしよう。服でも買おうと思うんだ。一緒に見てくれたらうれしい」
「いいわ」
「その後は適当に時間をつぶして早めに夕食を取ろう。すしは好き?」
「好きだけど、高いお金出さないで」
「大丈夫。回転するのにしよう。楽しみなんだ。早く本場のすしが食べたいよ。ドイツでも食べたことあるけど、本家本元のすしは素晴らしいに違いないと思ってね」
「美味しい所知ってるわ。連れてってあげる」
「そりゃいい。それからが今日のお楽しみなんだ。市民ホールでコンサートがある。一緒に行かないかい?」
「何の?」
「千秋シンイチ指揮ルー・マルレ管弦楽団。中堅だけど、良い指揮者だよ。クラシック音楽は好き?」
「そうね。碇君がチェロを弾くから、少し。コンサートにも連れて行ってもらったことある」
「へえ。どんなの?」
「なんとかいう弦楽四重奏団だったわ。曲はオール・ベートーヴェンだったかな」
「ふうん。どう思った?」
「あまり良く覚えてないの。10分もしたら寝てしまったから」
 カヲルはふふっと含み笑いをした。「そう。でも、そんなものだよ。僕だって、たまにはそうなることもあるよ」
「碇君、それ以来連れてってくれないの」
「それは彼なりに気を使っているのさ。がっかりすることないよ。どうだろ。今日のプログラムは初心者も楽しめるものだよ。もう一度挑戦してみないかい?」
「また寝るかもしれない。昨夜はあんまり良く寝てないから」
 レイナは今日のことが心の重荷になり、安眠できなかったのだ。
「そうかい。でも、それもいい。最高にゴージャスな眠りを堪能したらいいよ」
「それでもいいなら」
「じゃあ決まりだね。今日のコンサートは野田メグミってピアニストも出てる。ラフマニノフを弾くんだけどね、この人は天才だと思うよ」

6.
 夜9時近く。コンサートは終わり、二人はホールの外に出た。レイナは胸になんとも言えない高揚感が残っているのを感じた。予想に反してレイナは最後まで眠ることなく聴き通したのだ。先程までホールに鳴り響いていた音響が、耳の奥にまだ残っている。メインプロはストラビンスキー・舞踊音楽「火の鳥」全曲。ある物語の情景を描いたものだということはプログラムを見なくともレイナには解かった。王子と王女の愛。善と悪の闘争。そして最後はめでたしめでたしとなり、果てしなく高揚を続けるフィナーレ。それらを彩る管弦楽法の見事さ。これが陶酔というものかしらとレイナは思った。頬にまだ赤みが残っていた。
 カヲルも上等な音楽を聴いた喜びに興奮した面持ちで、レイナのすぐ横を歩いている。夜風が心地よかった。ホール前の広場から二人は出ると、カヲルがレイナに言った。
「河川敷を歩かないかい?夜景がきれいだよ。今夜は月も出てるし」
 レイナが空を見上げると、天高く満月が昇り、星々が輝いている。それらを見上げているうちにふと、このままカヲルともう少し時を過ごしたいと思った。
「うん。行こ」
 そこから5分も歩くと市内を流れる川がある。レイナとカヲルはその堤防上にある遊歩道を歩き出した。川面には向こう岸に林立するビル群のネオンや、橋の欄干に立つ水銀灯の灯りが映り、二人の前に幻想的な風景が展開している。
 しばらく二人は沈黙を守りながら歩いた。レイナの胸の裡には数々の想いが渦巻き、そのうちに耐え切れなくなったように口を開いた。
「あの、今日はありがとう」
「どういたしまして。楽しかった?」
 カヲルはにっこりと笑った。レイナもつられるように小さく微笑った。
「え、ええ。何て言うのか、いい一日だった」
「そうかい、良かった。僕も楽しかった」
「おすし、美味しかったね」
「そうだね。ドイツのとは一味違った」
「コンサート、素敵だったね」
「うん。君、寝なかったね。退屈しなかったんだろ?」
「そうね。前半のコンチェルトも、後半もすごくいい所が多くて。私、ますますクラシック音楽が好きになったみたい」
「それはいい。これで君も同好の士だね」
「カヲル、言い回しがオジンくさい」
 カヲルはぷっと吹き出し、高らかに笑った。レイナもからからと笑った。それが落ち着いた頃、レイナは真面目な顔をして言った。
「なぜ私を誘ったの?」
 カヲルは答えなかった。代わりに傍にあるベンチを指した。
「少し、座って話さないかい?」
 レイナは頷いてカヲルと共にベンチに座った。既に夜も更け、道を通る者は他にいなかった。街灯の光に照らされながら、二人は話を始めた。
「レイナ、君は誰?」
「何を言い出すの?」
「君のことだよ。君はレイナなの?それとも綾波レイ?」
「私は綾波レイよ」
 レイナはきっぱりと言い切った。それに対してカヲルはふっと嗤った。
「綾波レイは他に二人いる。君は括弧付きの『綾波レイ』じゃないか」
「なっ……」
 レイナの胸に怒りがこみ上げた。自分たちの不遇をカヲルはあざ笑うつもりなのか。
「何よ。文句があるとでも言うの?」
「いつまでこんなことを続ける?三人が入れ替わり立ち代り『綾波レイ』になる。他の二人は日陰の存在だ。これまでうまくいってたのは奇跡だよ。いつか暴かれる日は来る。手遅れになる前になんとかするべきだ」
「そんなこと言っても、レイカもレイコも私も、みんな同じ『綾波レイ』だったのよ。今さら他の者になるなんて出来ない」
「どうしてだい?なぜ『綾波レイ』にそんなに拘るんだ」
「だって、だって、碇君が好きなのは『綾波レイ』だもの!彼を失いたくない!『綾波レイ』の望みは彼と一緒になること!その日が来るまではどんなことにも耐えてみせる!だから、余計な口を挟まないで!」
 レイナの目尻に涙が溜まった。カヲルは口を噤んでレイナを凝視した。二人は数秒間睨み合い、やがてカヲルが口を開いた。
「君はそうやってシンジ君をだまし続けるのか」
 レイナは答えに詰まった。涙が一つ頬を伝い、カヲルから視線をそらした。
「ごめんよ、レイナ。君を追い詰めるつもりはなかった。でも、僕の考えも聞いてほしい。僕は、君たちがこのままではいけないと思う。どうして自由になりたいと思わないんだい?いつでも、どこでも素顔のまま歩きたいと思わない?そこが僕には不思議でならない。そもそも君はどう生きたい?僕はヒトとして生きることを選んだ。レイ、いやレイナ、君はなんなの?」
 レイナはハンカチで涙を拭い、前を見ながら答えた。
「私は他のなんでもない。『綾波レイ』だわ」
「では、君はヒトではない」
「そうよ。あなたもそうでしょ」
「違うな。僕は自分をヒトとして定義した。過去を捨て去り、人間渚カヲルとしてここにいる」
「詭弁よ」
「なんとでも言えよ。とにかく君は、君たちは中途半端な存在なんだよ。いいかい、レイナ。自然の生き物は一つ一つが全て違う。同じように見えてもどこかが違う。三つが全て同じというのは工業製品だよ。今の君たちはまるで風呂場のタイルのようなものだ」
「ひどい……」
 レイナの顔がくしゃくしゃになった。ぐっと歯を食いしばったかと思うと、涙がどっと迸った。
「うう、うううううぅぅううぅぅぅ……」
 レイナは顔を両手の中に埋めて泣きじゃくった。これまで心の奥に溜まっていた悲しみが、カヲルの言葉がきっかけとなって爆発したのだ。声を上げて泣いたのは生まれて初めてのことだった。
「ごめん、ごめんよ、レイナ。すまない。言い過ぎた」
 カヲルはレイナの反応の激しさに戸惑った。取りあえず、右腕を廻してレイナの右肩に手を置いてみた。レイナは相変わらず肩を震わせて嗚咽している。もう一方の腕をどうすべきか?ぐっと抱き寄せたら、レイナはどうするだろう?怒って逃げ出すのでは?判断に迷って左腕が宙を漂った。が、その迷いはレイナが消してくれた。レイナの方からカヲルの胸に飛び込んできたのだ。
「うわああああぁぁぁああぁぁ……」
 レイナはカヲルの胸に顔を埋めて泣き続ける。カヲルはレイナを抱きしめて優しく背中を叩いた。
「ごめんね、レイナ…、ごめん。もういじわるは言わない。…泣いていいんだよ。ヒトはうんと泣くとすっきりするそうだ。だから、君も沢山泣いたらいいよ…」

7.
 カヲルの腕の中で、レイナの嗚咽はだんだんと小さくなっていき、やがて啜り上げるだけになった。カヲルは目の前の夜景を眺めながらレイナが落ち着くのを辛抱強く待った。
「私、どうすればいいの?」
 ひそやかにレイナは言った。相変わらずカヲルの胸に顔を押し付けていた。
「ヒトになろうよ。レイナ」
 カヲルはそっと腕をレイナの肩口に掛け、レイナを離し、その顔を真っ直ぐに見つめた。
「もうあんな生活はお止め。全然別人として人生をやり直すんだ。他の二人も同じだ。いつでも自由に大手を振って街を歩けるようにするのさ」
「でも、私は『綾波レイ』、レイナは仮の名」
「違う。君はレイナだ。『綾波レイ』なんかただの記号だ」
「『綾波レイ』はいなくなる…」
「そうとも。そんな呪われた名前なんか捨ててしまえ」
「でも、碇君!彼をどうするの?」
「彼は君の人生にどうしても必要かい?」
「だって、私は彼を想うことで心の空白を埋めてきたんだもの」
「その代わりを僕がやる」
 レイナは息を呑んだ。これはつまり…、プロポーズ?目を丸くしてカヲルを見つめた。
「僕は君を愛する。一生の間」
 レイナに衝撃がやって来た。心臓が早鐘のように鳴った。
「ちょ、ちょっと待って。あなたは人生をやり直すって言ったけど、簡単にはいかないのよ。赤木博士がそうはさせないわ。ネルフも何をするか分からない。どうやって暮らしていくの?夢みたいなこと言わないで」
「僕をごらん。僕はうまくやってる」
「あなたは一人だからいいわ。私たち、三人なのよ!」
「大丈夫。全てはうまくいく。赤木博士が協力してくれるよ」
「………!」
 カヲルの言葉はレイナにとってさらなる衝撃だった。事の背後にはリツコがいる。すべてリツコの計画だった。ひょっとして男装させたのもカヲルの気を引くため?レイナの心中で怒りが爆発した。
「あなた、博士の指示でこんなことしたのね!博士、なんてひどいことを!私を誘惑させて碇君から離そうとして!あなたなんか嫌い!大嫌い!」
 レイナは立ち上がり、歩道を駆け出した。カヲルも慌てて走り出した。
「待てよ、レイナ。話を聞いて!」
 足の速さでは、レイナはカヲルに敵わない。たちまち追いつかれて、腕を掴まれた。
「いやっ、放して」
「頼むから話を聞いて!」
 レイナの抵抗は激しく、二人はもつれ合って傍の芝生に倒れこんだ。カヲルはレイナの上になった。レイナの手首を押さえて抵抗を封じた。二人はぜいぜいと荒く息を吐きながら見つめ合った。
「聞けよレイナ。確かに計画を立てたのは博士だ。だけど選択権は僕にあった。僕はいつでも止めることができたんだ。僕がああ言ったのは、本気でそう思ったからだ。心の底から君がほしいんだ」
「なぜ私なの?レイカやレイコじゃなくて。男装してたからでしょ?どうして私だけがこんな思いをするの?」
「君はこの前、僕がみんなに何とかしたくないか訊いたとき、最初に答えた。だからだよ。容姿は関係ない。君に一番脈がありそうに思えたんだ」
「そんなの、ただの偶然かもしれないじゃない!」
「偶然かもしれないし、そうじゃないかもしれない」
 カヲルはレイナの腕を放して立ち上り、どかっとレイナの横に腰を下ろした。レイナの方に動く気配はなかった。
「ねえ、レイナ。君たちは記憶を交換して同一性を保っているそうだけど、完全に同一になることはあり得ないと、僕は思う。なぜなら、記憶には欠落もあれば抑圧もあるからだ。完全に同じ人格なんて考えられないよ。君たちは僅かずつだが違いがあるんだ。肉体ならなおさらそうだ。同じものを同じ量食べてるわけじゃないだろう?運動量も違うだろう?だからね、君たちは他の生き物と同じさ。ちゃんと個性があるんだよ」
 二人の視線が絡み合った。レイナは徐々に落ち着きを取り戻した。
「さっき言ったことと違うわ」
「あれは生き方のことを言ったのさ。今度は生物学的な話だ。これを見て」
 カヲルは傍らに生えたクローバーを四五本むしり、その中の二本をレイナに見せた。レイナは体を捻ってその葉に見入った。そこは街灯の真下だったので、ぼんやりと葉の模様を見ることができた。
「ほらね。同じクローバーでもよーく見たら全然違うだろ」
 その二本の間には、白い線のつき方や葉の大きさで明らかに違いがある。
「すべての生き物には個性というものがある。多様性こそが種の繁栄をもたらす鍵なんだよ。違いがあるのが生命の本質なのさ。工業製品はそうじゃない。一種類のものはどれも同じだ。だから番号しかない」
「そうね…」
「人間一人一人には一つの名前が必ずある。それはなぜか?差があるからだよ。名前を持つということは、その瞬間他とは違うと宣言することなんだ。レイナ、君も自分の名前を持つべきだ。狭い世界だけで通用する名前じゃなくて、全世界に対して通用する名前だよ。そうして君もこの社会の一員になるんだ」
カヲルは自分の掌に残ったクローバーを見て、うれしそうに叫んだ。「ほら、中にはこんなのもある!」
 カヲルの差し出したクローバーを、レイナはしげしげと見つめた。それには葉が四枚付いている。
「珍しい…。初めて見た…」
「四つ葉のクローバーだね。幸運のしるしだよ。あげるよ。今日の記念に」
 レイナはそれを受取って、じっと見つめた。儚いが、奇跡のような生命がそこにある。レイナは声もなくそれに見入っていたが、やがて小さく微笑んでカヲルを見た。
「他人からもらったのは効果がないそうよ」
「そうなのかい。ま、いいから取っておいてよ」
「ありがとう」
 レイナは体を起こし、立ち上がった。もう一度その葉を眺めた。穏やかに澄み切った心持になっていた。バッグの片隅から手帳を取り出し、慎重にそのクローバーを挟み、大事そうにしまい込んだ。
「もう遅くなったわ。早く帰りましょう」
「そうだね」
 カヲルも立ち上がる。二人は肩を並べて再び夜の遊歩道を歩き出した。
「私、帰ったらみんなになんて言おう」レイナが心配そうな顔をしてつぶやいた。
「今日の所は何も言わないほうがいいんじゃないかな」
「でも駄目。記憶交換するもの。全部伝わってしまう。何日か置けば内緒にできるかも知れないけど」
「君はもうしない。レイナ」
 カヲルは立ち止まり、レイナの肩を掴んで自分の方に向かせた。
「自分だけの体験をするんだ。もう『綾波レイ』に溶け込んでしまうのは止せ。レイナとして独り立ちするんだよ。自然な生き物としての生き方をしよう。その方がずっと素敵な未来になるよ」
「考えさせて」
 レイナはじっとカヲルの目を見た。「あなたの考えは良く分かったわ。多分あなたの言う通りにすべきなんだと思う。でも、私には碇君を想う気持ちがある。そのこととどう折り合いをつけたらいいのか分からないの。少し待ってて。良く考えてみたいの」
「待ってるよ、レイナ」
 二人はまた肩を並べて歩き出した。川向こうのビルのネオンが一つ、また一つと消え、闇が徐々に濃くなっていった。月は相変わらず西の空から二人を照らし、二つの淡い影が遊歩道の上を滑っていった。

「ただいま」
レイナの声がようやくレイたちの待つマンションに響いた。
「「おかえりなさい」」
 レイカとレイコは立ち上がってレイナを迎えた。
「どうだった?」「随分遅かったのね」
 レイナは曖昧に笑って奥の寝室に引っ込んだ。鬘や眼鏡などの変装道具をはずし、パジャマに着替えてリビングに戻ると、レイカとレイコがそのまま彼女を待っていた。
「さあ、どんなことがあったの?」
「あなたの記憶を見せて」
 二人は手を繋いで開いている方の手をレイナに差し伸べた。レイナはいつもの習慣に従って腕を広げようとしたが、途中で止めてしまった。
「「どうしたの?」」
 二人のレイが異口同音に訊いた。レイナはためらって腕をひっこめてしまった。
「今日はよさない?」
「「なぜ?」」
「それは…、とてもひどかったから」
「そんなに!」
「あいつ、何かしたの?」
「そうじゃないけど…。とにかくいやーなことがあったの。こんなの共有することない。私一人が持ってればいい」
 二人のレイは顔を見合わせた。こんなことはめったに起きたためしはない。
「そりゃあ、あいつとのデートだからね」
「気持ちは分かるわ。だったら口で説明してくれない?」
「うん、それはいいけど…、話すと長くなるわ。今夜はもう遅いから寝ない?」
「そうね」「明日またゆっくり」
 こうして、レイカとレイコはそれぞれのベッドに入っていった。レイナも自分に割り当てられたベッドのある部屋に入った。ふうと深いため息をついて、ベッドの上に放り出してあったバッグの中から手帳を取り出した。その中には先程もらった四葉のクローバーが瑞々しい色のままに挟まっていた。レイナはちらりとそれを眺め、手帳を持ったままベッドに横たわった。手帳を両手で握り締め、胸に押し付けた。今日の思い出が奔流のように甦ってくる。今夜は眠れないにちがいない。そう思いながら手帳を枕元に置いて明りを消し、毛布を掴んで頭まで掛けた。

8.
「ごちそうさま。今日のお弁当も最高だったよ」
 カヲルはにっこり笑って、空になった弁当箱をヒカリに返した。
「おそまつさま。どう?今日の海苔巻きは自信があったの」
 いつものキャンパスの芝生、カヲルとヒカリは昼食を終えたところだ。
「いい味付けだった。酸味と甘みのバランスが絶妙だね。フラウヒカリ。君の味覚は本物だ」
「まあ、カヲルさんったら。誉めても何も出ないわよ」
 ヒカリは頬をほんのり紅く染めてカヲルに流し目を送る。カヲルは相変わらずにこにこ顔だ。
 ヒカリは視線をそらし、そわそわしながらカヲルに訊いた。「カヲルさん、夜はどんなもの食べてるの?」
「そうだなあ。コンビニの弁当とか、スーパーで売ってるお惣菜なんかだね。ご飯の炊き方は知ってるんだよ」
「まあ、それは良くないわ。きっと自分の好きなものだけ食べてるんでしょう。ちゃんと栄養のバランスを考えてる?」
「適当だね。貧乏学生だから大したものは食べてないんだ」
「かわいそう…」ヒカリは気の毒そうにカヲルを見、そして急に勢い込んで言った。「そうだ、今度、晩御飯食べに来て。ご馳走してあげる。たまにはちゃんとした夕食を食べたいでしょ。ね、ね。そうしなさい」
「いや、そこまでしてもらうのは…」
「いいの。全然遠慮することないの。妹は最近ダイエットとか言って、ろくに食べないし、お父さんは最近残業が多くて外で食べて来ることが多いから、余って困ってるの。だからほんとに気にしないで」
 ヒカリは一気に言い切って、カヲルを真剣なまなざしで見つめた。カヲルはさすがに困ったような表情を見せた。
「でもそれは…」
「あ、そうか。独身女性の家に夜行くのはまずいとか思ってるのね?あはは。そんなの、平気、平気。だって妹や父も一緒なんだから」
「そうですね…」
「私は単なる親切心で言ってるだけよ。これも日独文化交流の一環だと思ってるの」
「それなら是非…」
「決まりね。日にちが決まったら前もって言うから。楽しみにしてて」
「楽しみにしてますよ」
 カヲルは手を振って校舎に入って行った。ヒカリもいつもと変わらない表情でカヲルに手を振った。だが内心では小躍りしたいような気分だった。やったわ。そりゃあノゾミも最初は一緒よ。でも途中で急用が出来て、どっかに行っちゃうの。お小遣い渡さなきゃね。お父さんは最初から出張でいない、と。一軒家に私たち二人きり。いいムードになるといいな。いや、ここが勝負所よ。必ずいいムードにしてみせる。朝ごはんも余って困ってるって言おうかな。『一緒に朝ごはん食べて』やだ、これ生々しすぎー。いっそコクっちゃおうか。キャー、どうしよう。

「――というようなことを言われたんだけど」
 学校帰りのカヲルとレイナ(鬘つき)が肩を並べて歩いている。レイナはそれを聞いて眉をひそめた。レイナは記憶交換の際、この前の出来事を封印するのに成功し、通常通りの生活を送っている。
洞木さん、食べ物から離れられないのね。これはいよいよ本気だわ。可哀想な鈴原君。何とかしてあげたい。
 この前ミサトが知った、カヲルがゲイで、トオルと同棲しているという架空の事実は、アスカやヒカリに伝わっていないらしい。内緒にするという約束を守っているようだ。(カヲルの報復が恐かったのである)
「どうするの?洞木さん、本気であなたに惚れてるわよ」
「え、そうなのかい?」カヲルはきょとんとしている。
「そうなのかいって、あなた、気づいてないの?」
「実に優しい、いい人だと思っていたよ」
「…あなたも相当なものね」レイナは呆れ返ってカヲルを見た。「どうする?このままではいられないわよ。あの人には前から鈴原という彼氏がいるの。今、大阪にいるんだけどね。あなたはその仲を裂こうとしているのよ」
カヲルは悩んだ。「うーん。他に彼氏か彼女がいるって言おうか?」
彼氏、とさらっと言えるカヲルは凄い、とレイナは思った。
「そうしなさい」
「でも、それじゃヒカリを傷つけてしまうな。僕もなるべく悪者になりたくない」
「そんなの仕方ないじゃない」
「そうだ!向こうから嫌われるように仕向ければいいのさ」
「どうやって?」
「ほら、君らの特技があるじゃないか!」

9.
「洞木さん、こっちよ」
 レイカが後ろを歩くヒカリの声をかけた。ヒカリはふうふう言いながら森の坂道を上がって来る。二人は大学の裏手にある丘の展望台を目指しているのだ。
「待ってよ綾波さん。この坂きついんだから」
 この日、レイカは授業が終わったヒカリを、大切な用事があると密かに呼び出し、こうして森の中に入り込んだのだ。その展望台は特に名のあるものではなく、丘の頂上を切り開き、石畳を敷きベンチを置いただけのもので、普段は人気がなく、第三東大生の間では隠れたデートスポットとして一部に人気があった。その場所に二人は密かに近づこうとしている。
「もうすぐ頂上よ。綾波さん。見せたいものってなに?」
「しっ、黙って」
 先に広場を見渡す位置に着いたレイカは木の陰に隠れてヒカリを手招きした。ヒカリがようやく追いつき、レイカの指差す方向を見た。ヒカリははっと息を呑んだ。
 銀髪の男と黒髪の男がぴったりくっついてベンチに座っている。
 その二人は親しげに会話を楽しんでいるようだ。ヒカリはその後姿を穴の開くほど見つめた。銀髪の男と言えば、カヲルに決まっている。もう一人は誰だろう。
 レイカが囁いた。「あれはカヲルよ。もう一人は名取トオル」
「何をしてるのかしら?」ヒカリの声も小さい。
「今に分かるわ」
 ベンチのカヲルが動いた。そっと右手を上げてトオルの肩を抱いた。それからしばらくそのままの姿勢でいたが、やがて大胆な行動を取った。体をずらしてトオルの顔に自分の顔を重ねたのだ。トオルの腕がカヲルの体に巻きついた。
「………!!」
 ヒカリは声もなくその有様を見守った。愕然として大きく目を開け、腕がぶるぶると痙攣した。そのまま二三歩後退りして、くるっと方向転換し坂を駆け下りた。レイカもすぐさま後を追った。

(もういいわよ。レイナ)
 レイカからのテレパシーが来た。カヲルの顔と僅かな間隔を開けて顔を近づけていたレイナがカヲルに言った。「洞木さん、行ったわ。もう放して」
 カヲルは名残惜しそうに腕を放し、二人は元の姿勢に戻った。レイナは腰に手を回し、声紋変換装置のスイッチを切った。二人はしばらくそのまま眼下に広がる大学の校舎群を眺めていた。
「せっかくの男装もこんなことにしか役立たなかったね」
「仕方がないわ。ミサトさんにトオルのことを知られた時点で、計画はおじゃんよ。危なっかしくてアスカには使えないもの」
「これで良かったんだよ。君も女の子に戻れる」
「そうね」
 レイナは立ち上がり、カヲルも遅れて立ち上がった。レイナはカヲルの顔を真っ直ぐに見つめた。
「5時になったら、もう一度ここに来れない?大事な話があるの」
 カヲルの目が大きく広がった。

 森の不自由な傾斜をレイカとヒカリは駆け下り、地面が平になったところでやっとヒカリは止まった。レイカも追いつき、二人ははあはあと荒く息をした。
「どう?分かったでしょ。カヲルの正体が。やっぱりホモだったの」
「私、そんなふうに見えなかった…」
「あいつ、誰にでも愛想がいいからね。私も今日偶然目撃しなければ分からなかった。ねえ、洞木さん。あなた、あいつが好きみたいだけど、関わっちゃだめ。報われない愛よ。あなたには鈴原君がいるじゃない。よそ見しちゃだめよ」
「う、うん。綾波さん、ありがとう。私、目が覚めたわ」
 ああ、気持ち悪かった。何よあれ。私としたことが、ちょっといい顔にだまされて。そうよ、鈴原。あああ、ごめんね鈴原。私、とんでもない間違いをしでかす所だった。
 ヒカリの両目に大粒の涙が溢れた。心は鈴原に対するすまなさで一杯だった。嗚咽がこみ上げてきた。レイカは両手に顔を埋めるヒカリの肩に手をかけて慰めた。
「寂しかったんでしょ。無理もないわよ。間違いは誰にでもあるわ。早く忘れてしまいなさい」
 ヒカリは手の甲で涙を拭いながら、何度もうなずいた。

 その日の夕方、ヒカリが家に帰ると、玄関に妹のノゾミの靴があった。ヒカリは靴を脱ぎ家に入り、真っ直ぐノゾミの部屋に向かった。
「ノゾミ、いる?」部屋の中からはあいと返事があり、ヒカリはドアを開ける。
「お帰り」高校2年になったノゾミが勉強机からヒカリを見た。読書をしていたようだ。ヒカリに良く似たしっかり者の乙女だ。
「ノゾミ、私、明後日大阪に行くから」
 ヒカリはいつにない真剣な表情をしている。ノゾミは戸惑いを覚えた。
「え、急にどうしたの?」
「私が大阪に行くんなら目的は一つしかないでしょ」
「鈴原さんに会うの?」
「そうよ。いいでしょ。お父さんは出張なんだから。急で悪いけど、たまには姉のわがままを聞いて」
「鈴原さんと連絡取れたの?」
「いいえ、まだ。でもいいわ。いきなり行ってびっくりさせてやるの」
「泊まってくるの?」
「……うん」ヒカリは顔を真っ赤にして視線をはずした。
 ノゾミはへえ、という顔でもじもじする姉を見た。
「分かった、お姉ちゃん。お父さんには内緒にするのね?」
 ヒカリは無言で頷いた。ノゾミは姉の態度から、その決意が並々ならぬことを感じた。最近の姉はうきうきとして楽しそうだった。弁当も余計に作っていたのを知っている。それが今日のこの申し出だ。ノゾミは何があったかうすうす感づいた。立ち上がって姉に近づき、その右手を両手でしっかり握った。
「頑張って、お姉ちゃん。私も応援してるよ」

 カヲルは急ぎ足で展望台に通じる坂道を上って行った。もう5時を3分ほど廻っている。片付けなければならない用事が長引いたために約束の時刻を過ぎてしまった。レイナはじりじりしながら待っているだろう。
 坂を上り切り、展望台の平地に出た。きょろきょろと周囲を見回すと、すぐ森の傍に佇む人の姿を見つけた。だが、その姿はカヲルの予想していたものとは違った。
 白いワンピースに身を包んだ清楚な娘の姿。何より特徴のあるのはその髪の色。秋の空のような淡いブルーだった。
「レイナ?」
 カヲルが声を掛けると、そのレイはすぐに振り返り、小さく笑みを洩らした。ルビーのような紅い瞳がカヲルの眼に飛び込んできた。
「どうしてそう思うの?」
 二人は近づき、お互いを見詰め合った。
「レイカかレイコかもしれないわ」
「そんなことはない」
 カヲルには確信があった。この場にレイナ以外の者がいていいはずがない。
「僕と約束したのはレイナだ。だから君はレイナ。当然じゃないか」
 レイナはにこりと笑い、髪の毛を掴んで引っ張り上げた。黒い髪がちらりと見えた。
「鬘なの」
「でもどうして?今日の『綾波レイ』はレイカだろ?まずいんじゃないかい?」
「今、この瞬間だけ。他の鬘とかは持って来てる」レイナはベンチに置いた大きめのバッグに視線を走らせた。
「あなたとキスをしたときは男の姿だった。告白されたときは、別の女の姿だった。素の姿の私には何もしてくれてなかったわ」
レイナは縋るような目でカヲルを見つめた。カヲルの心臓の鼓動が高まった。
「この姿の私でも同じことが出来る?あなたは容姿は関係ないって言った。それを証明して見せて」
「喜んで」
 カヲルはいきなりレイナを抱き寄せ、唇を奪った。レイナもそれに応えた。二人はそのまま時間が止まったかのように同じ姿勢を保った。辺りは静寂に包まれ、夕暮れが迫る午後の太陽が一つになった影を長く引き伸ばしていた。

 リツコは自宅で一人パソコンのモニターを見ながら、近所のコンビニで買ったサンドイッチをぱくついた。もう夜の7時を過ぎた。広い自宅には他に誰もいない。何千回と繰り返されたたった一人の夕食。一人の時間。心に孤独が忍び寄ることもないわけではない。そんなときは足元に擦り寄る猫の喉を撫でてやったりもする。だが今はモニター上のグラフを見つめながら思考に沈んでいるリツコである。
 来客を告げる玄関の鐘が鳴り渡った。今頃誰だろう。リツコは眼鏡をはずし立ち上がった。
「どなた?」インターホンの受話器を取り、誰何する。次の瞬間、ぱっと笑みがはじけた。「今行くわ!」
 リツコは玄関のドアに駆け寄り、いくつもの鍵を開け、期待に胸膨らませながらドアを押し開ける。
「今晩は」
 立っているのは渚カヲル。その背中に隠れているのは綾波レイ。だがそれはレイナだということは、既にリツコには分かっている。
 リツコは春の日差しのような笑みを浮かべ、そこに立つ二人を招く。
「いらっしゃい。長いことあなたたちが来るのを待っていたのよ」

10.
「――今からですか?でもレイナがまだ帰って来てないんです。えっ、そっちにいる?カヲルも!?」
 レイコは愕然として声を失った。電話の相手はリツコだ。傍にいたレイカも驚いた顔をしている。レイコはちらりと時計を見た。もう8時半を過ぎている。
「…分かりました。タクシーで行きます。はい、レイカも一緒に。それでは」
 レイコは受話器を置いた。レイカが間髪入れず訊ねた。「何、いったい何があったの?」
「レイナ、博士のところにいるわ。なんとカヲルもいるんだって」
「なぜカヲルが…」
「分からない。凄く大事な話があるそうよ。私たちの将来に関することだって」
「この頃、レイナったら様子が変だった。ぼんやりしながらため息ついたりして。何か関係があるのよ」
「カヲルとのデートであったことも結局封印してしまったわね。ひょっとしたらレイナ、カヲルに…」
「兎も角、急いで行きましょう」

 リツコの話はレイカとレイコにとって寝耳に水の提案だった。二人は戸惑い、反発し、時に怒り、時に泣いた。レイナとカヲルも説得に加わり、二人のレイがようやく折れかかったのは日付が変わってからのことだった。だが、まだ肝心なことが残っている。その結論はじっくり考えてからということになり、夜も更けたので、三人のレイとカヲルはリツコの家に泊まることになった。

 レイカとレイコはリツコのお古のネグリジェに身を包み、顔を見合わせた。ここは客用の寝室。二台の高級ベッドが置かれている。二人はそれぞれのベッドの端に腰掛け、向かい合った。
「どうする?」
「まだ分からない。頭が混乱してしまっている」
「私も」
「博士の言う通りにすると、必ずどちらかが碇君を諦めなければならない」
「でも博士の提案も魅力があることは確か…」
「レイナが離脱した以上、私たちも変えなければ」
「『綾波レイ』でなくなってしまう…」
「名前が変われば私は私。あなたはあなた」
「私はレイカ。もうあなたじゃない」
「私はレイコ。もうあなたじゃない」
「でも『綾波レイ』じゃない私は彼に愛してもらえるかしら?」
「分からない。全ては彼の感じ方次第…」
 二人は俯いて沈黙に入った。そのまま時は過ぎていった。夜更けにも関わらず眠気が訪れる気配もなく、二人の心中には幾多の思いが浮かんでは消えていった。
 レイコが突然顔を上げてレイカを見た。その紅い瞳には迷いを振り切った者の輝きがあった。
「レイカ、いい考えが浮かんだわ」

11.
 シンジとカヲルは肩を並べて、それぞれの楽器を手に、練習場へ向かう廊下を歩いている。授業が終わり、二人は再来週に迫った定期演奏会に向けての合同練習に出ようというのだ。厚いドアの向こうから様々な楽器の音がてんでんばらばらに聞こえてくる。
「今日辺り完璧にしときたいな」
「そうだね。前回はひどかった。みんな練習して来てくれてればいいね」
「何より全員揃ってくれることが肝心だよ」
 などと話し合いながら、二人は練習場に入った。普段は集会場に使われている場所だ。既にパイプ椅子や譜面台が並べられ、大勢の部員が席に着いている。シンジはやあ、とかどうもなどと挨拶を交わし、チェロパートの最前列、最も指揮者に近い場所に座り、早速愛器の音を出し始めた。しばしその音に耳を傾け、チューニングをする。鳴り具合は悪くない。カヲルも指揮台を挟んでシンジの向かい側に座り、目をつぶって自分のヴァイオリンの音に聴き入っている。
 そこへ、部長を務める山本が入って来た。クラリネット担当の4年生だ。シンジは目を剥いた。部長に続いて入って来たのがシンジも良く知るあの娘だったからだ。他の部員も突然現れた娘に注目する。
山本が部屋の真ん中に立ち、全員を見回した。
「やあ、皆さん。ご苦労様。指揮の小沢先生は少し遅れていらっしゃいます。演奏会も近いですから、頑張りましょう。で、突然なんですが、入部希望者を紹介します」
 部員の間からほう、という声が上がる。皆の目は一斉に山本の後ろに立つ美女に注がれた。
「では、自己紹介を」
 山本が振り返り、美女を促す。その赤毛の娘は2歩前に出て、はきはきと挨拶した。
「皆さん、今日は。アタシは2年の惣流・アスカ・ラングレーです。よろしくお願いしまーす」


(続く)


(第10回へ続く)



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