金曜の夜は0時をもって終るわけではない。
実際には土曜の朝までは金曜の夜であることは言うまでもない。
そもそも普通に夜の11時かそこらに床に着けば、朝に目が覚めるまでは夜が続く。
それが自然というものだ。

だが今はそうではない。深夜にも都市は活動を止めるわけでは無いからだ。
次の日の朝に活動を始めるためには膨大な量の物資が必要だ。それは深夜に運ばれるしかない。
かくして、土曜の夜は日没から0時までと0時から夜明けまでの二つの夜が同居する事になる。
新聞のテレビ欄にも25時とか26時などという言葉が便宜上作り出されている。
金曜の深夜放送、といわれてどちらの夜を指すのか。一瞬迷う。
正確には金曜の深夜とは木曜を越えた0時から3時くらいまでを指す。だが今では
土曜の0時を越えた時間帯を指す。おかしな話だが便宜上その方が良い。

さて、この奇妙な時間帯に一人の中学生がとぼとぼと道を歩いている。
「とぼとぼ」という修飾語句は本人に言わせれば心外であろう。
彼は鋭い眼差しで夜の闇の濃さをはかり、闇の中の色彩を読み取り、一瞬の閃光の中に、
あるいは闇に沈んだままの、夜の形象を手中にする言わば狩人であるからだ。

とぼとぼという修飾は、そんな彼の昂ぶった精神と、いついかなる時でも柔軟にシャッターを
切る事の出来る瞬発力に満ちたしなやかな筋肉に相応しくない。我が身を自然体の構えに
保ちつつ、闇の中を移動し続ける黒豹こそが自分の本態なのだと語るだろう。



金曜の放課後。一旦家に帰り服を着替える。昨夜のうちに用意していた荷物を担ぎ上げる。
カメラ3台分の器材とレンズは結構な重さになるが、彼、相田ケンスケはそれを感じない。
高揚した気分がその重さを支えてくれているのが自分でわかっている。

母親が死んだ後、父親は一層家に寄り付かなくなり、その分自由になる金が一桁増えた。
そのことで父親に文句を言うつもりは全く無い。
ケンスケは生憎自分がそこらの中学生とは違う事を十分理解してる。
――親父と俺は既に独立した別々の人間。お互いを支えあう必要などない、と。

そうは言ってもまだ子供だ。子供には親の愛情と保護が必要だと、面談の度教師に言われて
親父は苦笑していた。全く世の中には自分を基準としてしかモノを見れない人間がいかに多い事か!

――親父と俺は仲が悪いわけではない。ネグレクトされているわけじゃない。
互いを必要としていた時期がとうに過ぎてしまったということなのだ。
大人でありながらこの事を理解し、尊重してくれるという点において俺は親父を尊敬している。


母親の葬儀が全て終った時、ケンスケと父親は骨壷を納めた箱の前に座り話し込んだ。
今後は一切を自分自身で仕切って行こうと。二人は社会的に外面のいい不良親子だった。
世間一般並みの家庭として認知されてきたのは、妻あるいは母親の希望と努力に報いてやらなければ
という気兼ねに過ぎなかった。その軛が外れた以上この父子を留めるものはなかった。

その場で父親は相続財産表を取り出した。

再建バブルのため前の家は高額で売却でき、文字通り泡く銭として手付かずで残っていた。
これがすべてケンスケのものとなり、2億からの金が残された。
母親の家事、節約、蓄財能力を賞賛すべきだろうか。
ネルフの中堅幹部である父親が相続税は全て払ってくれた。
――別に祖父から引き継いだ財産もあるから自分の事は心配するな。
父親はそう言って太い象牙の印鑑と書類の束を渡した。
――これは数箇所の貸し金庫に分けてしまっておく。無くすなよ。
そう言われ、さらに鍵を数本渡された。

毎月の生活費等は差し当たり20才までは口座に振り込まれることになった。
父親とは月に一度面会し、他には学校行事の進路相談などでたまに出会って二言三言、言葉を交わした。


「うまくやってるか?」

「ああ、平凡なもんだよ。世は全て事もなしってね。」」

「ならいい。必要があったら連絡しろ。」


ケンスケは十分満足して暮らしていた。子供らしからぬ野心を胸にしながらうまくやっていたのだ。
周囲にはちょっと変人でミニタリーとカメラオタクの気がある少年として場を占めることに成功していた。
派手に目立つアスカやそのおもちゃであるシンジ。別の意味で目立つトウジとヒカリの近くにいることで
ケンスケは逆に自由を謳歌できた。
単独で別のクラスにいれば嫌でも十分目立つだけの変人振りを、ケンスケも示していたからだ。










この夜の散策もケンスケの奇行の一つ。
日没から深夜を経て明け方に到るまでの異世界を捉える事。写真の中の光の変異。
今のケンスケはそのことに興味を傾注させていた。
夜の光は日中の光とその様相を一変させる。

カメラの中に納められたフィルムによってもその色彩特性の違いによって、見えてくるものが違う。
露出を切り詰めるほど影が青みを帯びて来る。
マゼンタを強くしたフィルムではピンクのくすみが無くなり透明感のある色調になったりする。
同じものを見つめながら違う物が認識されると言う光の妙味。
それが人間そのものの違いのように感じられる事が、どちらかと言えば世間を斜めに見ているだけの
余裕のある少年の興味を引き寄せたのかもしれない。日中に対する夜の顔。光による人間の変質。
人によって時間によって違う他者への目。
そんなものを重ねていたのかもしれない。

この日は日没まで、海とその周囲の砂浜にレンズを向けていた。
青みのある発色に定評のあるフィルムを使い、クールな色調で砂浜を撮った。
遠景の島の上にだけ輝く曇天から降り注ぐ天光と、雲の幾重もの重なりの陰影、コントラストが鮮やかになる。
さらに露出を抑えるとどろどろとしたドラマチックな効果が生まれていく。
ありのままに映るはずの写真と言う切り取った瞬間が、これほどにまで違う。
多分人と人の世界の受け止め方にはこれ以上の相違があるのだと思う。
自分が理解されない以上に自分もまた人を理解など出来ない。
父親とわかりあえているように思うのは同類だからに過ぎない。
多分、親子であると言う事にはそれ以上の意味は無い。部品が半分同じというだけでその解釈はまた別。
親子だから分かり合え、血のつながりが過剰な期待を持たせることになるなら、
それは愚かしい事だとケンスケは思う。


「俺が撮りたいものは何だろうな。」


愛し合って結婚したはずの妻、掛け替えの無い母親。
そんな人を失いながらも父も自分も感情が動かなかった。
俺と父は同じような欠落した精神を持っている。畸形といってもいい。
そんな俺が、何を追い求めているというのだろう。

追って意味のあると思うものだけを撮ってきたと思う。
だが今だこれを撮らなければならなかったというものには出会っていない。
撮影したから初めて見えたと思うものもある。撮らなければ気づかなかったものもある。
広角でストーリー性のあるものを撮る。もしくは接写。
逆に望遠はバシャバシャ取り捲るために使う癖がある。
現像して初めて何が映っていたかを知る物もある。
狙いに狙って撮った対象も、頭の中のイメージ通りのものもそうでないものがある。

ケンスケが初めてカメラに触れたのは趣味人の父親にもらった50mmチタンボディーのカメラだった。
デジタルではない。
父親はフィルムに焼く事こそが楽しいと言ってカメラの使い方、焼き付け方を熱心に一月ほど教えた。
その後はきっぱりと飽きたらしく何も言わなくなった。
だがそのことでカメラについてはなまじ技法を覚えたため学校で褒められる事になり、のめりこんだ。
賞賛されればうれしい。単純な理由だった。中学に入ってからも幾つか小さな賞を貰った。
そういう意味では父親はケンスケの人生を弄んだことになるのかもしれない。
思えばあの一月ほどが父親との唯一の共同作業の記憶だ。
あそこを経て、自分は一人前になったと感じるようになった。
何もかも満足できる。全てがある。

――その時の彼には万能感があった。




 街路を抜け、山に穿たれたトンネル道を歩き続けると濃い靄が立ち込めてくる。
いつもの事で、湿気の高い海の大気と高原の乾いた風がここでぶつかって乳白色の霧を生じるのだ。
車道のすぐ横に張り出すように作られた専用歩道を歩き続ける。この中を歩き続けると、いつも決まって
方向も時間も曖昧になったような気がする。授業中に寝込んだ時の夢が妙に現実感が高いように、この
靄の中もまたどこまでが自分のリアルでどこからかが非日常なのかが曖昧になる。
トンネルを抜けて坂を下っていくに従いその白い靄は晴れて冷たい風が吹きぬけるようになる。
急峻な渓谷の麓に小さな港がある。

船着場の船員たちが集まる倉庫街。崩れかけた壁を修復し何とか使い続けている。
半分がコンクリートと漆喰。
新たに運ばれてきた梁、耐熱煉瓦がキマイラのように混じり合ってその身体を維持している。
壊れた学校や体育館、床が抜けた廃ビル。差し当たり雨に荷が濡れない。
そんなものを倉庫と称しているに過ぎない。

ここは被写体の多い街だ。
最新鋭の大型貨物船が並ぶ1号から5号6号埠頭とはまるで違う。
ここにやっと辿り着いたような古い木造漁船を改修しただけの船が多い。
積荷も、こんなものをどうやって食うのかと言うような得体の知れない漬物や干物がメイン。
幾らかでも価値があるのはスープなどに使う食用漢方薬などか。
それとても気の弱い女性などが見れば気を失いかねないしろものだった。非合法の物もあるだろう。
普通の人間には雑多なガラクタを積んでいるとしか見えない。

その漁船の艫で揺れているランプ。その奥の室内で脂汗をかきながら横たわっているいる男女。
ゆっくりと上下する船べり。
その上に揺れる赤味の強い小さな白熱灯。その白熱灯の灯りが、香る異臭をさらに際立たせる。
小型のデジタルカメラを構えながら。愛機のAWBの癖は知り尽くしている。
あえて赤味を補正せずこの運河にたまった澱んだ空気を写し込む。
さらにマニュアルに切り替えてWBを変えながら3枚。
この場面では明確には判断できないから、その為の予備だ。これが蛍光灯だったら緑色を帯びたりする。
あの船の小さな灯りにさらに蛍光灯の灯りが横から被って写真を台無しにする事もある。
そんな事を繰り返しながら埠頭を先に進んでいった。

高台から見れば、沖合いに漁火が見える。新しい海岸線。新しい岬に回転する光の直線。
外海で砕けた波が大気中を飛び交う塩の粒子となり、灯台の強力な光に反射して彼方まで伸びる。
波上に漂う浮遊灯台の点滅灯は複雑になった航路を電波灯台とともに守る。
極の移動を伴う程のセカンドインパクトの余波は、未だに始終近海でも噴火や地震、津波となって海岸線を洗う。
その為に構築された高い堤防が海岸を閉鎖し、潮留の巨大なゲートを使っての海抜数十mの本港を形成している。
船が山を登り、取り残された低い地域にしがみ付いている古く卑小な街と時代遅れの港。そこに集まる小型船。
自然の波に洗われているのは、この古い港と小さな街路灯の列だけだ。
ケンスケは繁くこの辺りに通い、被写体を探している。

この先は埠頭が海の中に消えている。
崩壊した埠頭の基礎、その部分が緩やかな傾斜を描いて海の中に沈んで行く。
埠頭中央に等距離で立っている街灯。
一段高い基礎の石組みの上。思い出したようにポツリポツリと点いている。
そのまま、海の上に立ったままのものにも、ふと灯りが点いたかと思うとまた消える。海の上の明滅。
たまたま点いたまま、油が揺れているような海面を微かな光の帯が澪のように流れる。
暗闇の中にぽつんと、揺らぐ。
前世紀に比べて格段にきれいな埃の無い大気のせいで、低い灯りは周囲の闇からくっきりと立ち上がって見える。
光が滲んでいない。周囲の空間と切り離されて。
「孤高」と言う言葉をケンスケは思った。
これがここにある事をケンスケは勿論知っていたのだが、その日によって見えるものは変わる。

圧倒的な闇の中に、錆び付き、いつ折れてもおかしくない、何の助けも無い街路灯。
その微かな灯りの、豊かさと飴色の美しさ。

カメラを構えたファインダーの中に灯り以外のものが写った。何か、人影のような。
ファインダーの中を明るくしても人の形としか見えず、戻すと同時に顔を上げた。
埠頭の街灯が先ほどより幾らか暗いのは、電力供給の優先度が高い山上の埠頭に入港があったせいだろう。
ほとんど闇に包まれてしまった海面に立つ街灯の光が、マッチの火にように微かに消えていく。
それもまた、不思議な景色だった。

その灯りが消える瞬間に、爆ぜた。その白熱灯が切れる、最後の瞬間のスパーク。
その微かな赤い残照に反応して、ケンスケはシャッターを切っていた。

「んっ?」

その残照が再度捕らえた何かの影。今度こそケンスケはその影を見失わなかった。
そのまま、水面を伝うように歩いている。
ファインダーの中でケンスケにしか感じられない程の蛍のような光源で闇の輪郭を包んでいる。

その輪郭が、急に現実味を帯びたものに変わった。
冷静に見てみれば、海中に立つ街路灯は途中までの埠頭が捩れ、水面下すぐの場所に石畳のように
埠頭の脇腹の石組みを曝しているのだ。水位によってはそのあぎとを空中に見せる。
この時間の水位では、水面下すれすれの2cmほどだろうか。
その醸し出す偶然が、映し出した幻影のようなワンカット。
ケンスケの良く見知った制服を着たショートの無口なクラスメート。その髪が揺れた。
海の上の立って水のボトルを傾けている。
闇の中に白く朧に浮かぶ喉。ケンスケのファインダーの中の瞬き。
その瞬間、300mm望遠を装着たカメラが赤い瞳の輝きを捕らえていた。
赤目の補正は要らない。
こいつは元々そういう目をしているんだ。

波一つの音もない波止場の奥隅でのシーン。
最後に押したシャッターの音が響き渡ったようにケンスケの耳に残った。
そして訪れる静謐。


「こんな時間に何してんだ、綾波。」


ケンスケの問いかけにレイはペットボトルを振って見せる。

――せめて500mlボトルならさまになるのに1Lだよ。
いや、それ飲んでたってのは見ればわかるって。

――そういえば、こいつの声なんか聞いた事ないな。
その割には存在感のある奴だけど。日よけのカーテンを引いたところでいつも本を読んでいる。
何か教師が病気だとか言っていたような覚えがある。その割にはこんな時間に夜歩きか?

――近づくと、案の定、靴と靴下が濡れている。何だってまたあんなところまで行く?


「月がきれいだったから。」

唐突にレイの声がケンスケに届いた。

「後は…」


と言ってポリ袋を持ち上げた。中にチョコレートらしきものが入っている。

――要するに夕涼みがてら買い物に来たということか。そのまま…

腕時計を見るともう12時をとっくに回っていた。こんな遠くまで歩いてきたと言うのだろうか。
それだけでも信じられないことだ。

――第一女の子が一人で歩き回っていい時間じゃないだろうよ。ここだって柄のいい場所とはいえない。
といって、予定を変更してまで送っていくのも面倒で嫌だ。


「道に迷ってないよな。」

ちょくちょく来ているならそのままにしておけばいい。だが、埠頭の先まで行ったのはもしかしたら。


「この道、向こう側に繋がってない。」


――悪い予感は当たるものと言うもんな。

この暗がりの中を本道まで戻るのか。大体こいつのうちはどこにあるんだ。


「あまえんち、どこにあるんだ?ここいらに親戚の家があるとかってことは。」


レイは一瞬、予期していなかった事を聞かれた目をした。
近道になるかと途中で折れた小道は、レイをコンクリート壁の外側の長い階段に誘い込んだ。
途中の神社から外に出て、再開発地区のさらに向こう側に出てしまったようだった。
電子の巣のような第3新東京市のバグのような場所。濃い霧がレイの視野を奪った。そのまま随分歩いた。
いくら霧の中とは言え長い曝しだされたままの階段を護衛が付いて行けようはずがない。
神社の森にレイが入った時点でロストしてしまった。
その後レイは周りを見回しながら、霧の中を、全く知らない古い街並みを抜けながらここまでやってきた。
30分以上歩き続けただろうか。それとも1時間以上? 夜だし、方向もわからないままだった。


「大丈夫。帰れる。」  


だが、ケンスケの問いに対し、無謀にもそう応えていた。


「ここがどこだかわかってるのか?」

「よく分からないけど、多分大丈夫。」


レイはどこからか、自分を見つめている視線を感じていた。それはいつものような無機的な監視の視線ではなく。
――だから、大丈夫。そう思って応えたのだ。

そう言った目がまた赤く光った。いつもの明るい赤ではなく、ねっとりと深い赤。
瞳の中に街路灯の明かりが凝集されていて、それが開いた瞳孔を背景に沈んだ血のような色に見せる。
この表情を撮りたいな。そう思っている自分に驚いた。じっとりと汗ばんだ額や胸元や二の腕の肌。
この皮膚の息遣いを切り取りたい。
この湿気の多い、古びた漁船と廃墟に近い波止場に佇む同級生の幼い身体。幼い?
この瞳は決して幼くは無いんじゃないか、とケンスケは感じた。
少なくとも、こんな目をしたクラスメートは他にいない。

――こいつを被写体にしたら、爽やかな同級生の写真にはならない。
もっと根本的に違う何かがそこに写りそうだと思う。
自分にはまだ到底撮りきれないなにか。

重ねて、さらに送って行こうかとは言えなかった。


「じゃあ、気をつけて行けよ。」

「・・・」


無言のまま、頷いた。


そのまま闇の中に融けていく後姿をまた一枚。さらに闇に消えた後を一枚。
撮った。蛍火のような微かな輪郭が闇の中に残っているように思えた。
深淵の黒の中に。沈んで行ったように見えて。

ケンスケの身体全体が一瞬、寒さに震えた。


いつの間にか海に立ち込めた靄が埠頭を包むように押し寄せていた。暗闇と靄は渾然となって視野を遮った。







「First、 確認できました。再開発地区に隣接する石灰洞の埋立地区に突然反応が現れました。」

――何だ一体。Lostしたのはそこからタップリ6kmは離れた地区だぞ。当直仕官は事態が把握できなかったが
その事実を当直日誌に記載。明朝にはLost点の調査を行わなければならないだろう。

海岸とは直線距離にして約17km離れている。そのことには誰も気づかなかった。月がそれを見ていただけだった。









つづく

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