目覚めた時、口の中にはイヤな味が広がった。
なんといっていいのか、彼女――綾波レイにはそれに相当する語彙がなかった。
しいて言うのなら苦い、ような気がする。
ただ、どういう味なのかはわからなくとも、それがどういうときに感じるものなのかはわかっている。
「……金曜日」
ベットのそばに置かれた目覚まし時計は、デジタル式で時間だけではなくて日にちと曜日まで表示してくれている。
呟いた言葉がやや呆然としていたのは、仕方がない。
彼女の記憶が確かなら、彼女が最後にこのベットに崩れるように眠ったのは木曜日の午後四時だったからだ。表示されている時間は十八時。金曜日の。それはつまり、彼女は二十六時間眠り続けていたということだ。
「……………」
無言のままに立ち上がった彼女は、まだ上手く働かない脳みそを無理に回転させて洗面所に向かう。まず最初に顔を洗って、そして時間に余裕があればシャワーを浴びる。食事はその後。それから着替える。些細なことだが、彼女はこの生活習慣を頑なといえるほどに守っていた。
と。
鏡に向かってから、自分が昨日、着替えもしないままに眠ってしまったことに気づいた。実験で疲労した体を休めるために横たわり、心地よさのあまりに眠るということはままある。それでも二時間としないで目を覚ましてシャワーを浴びてから着替えて、食事を摂って――というのは、記憶にある限りにやめたことがない。つまり、初めてのことだった。
これもやはり仕方がない。
実験はいつになくハードだった。すでに基礎的なデータは採取され、幾度となく積み重ねられたものであり、スタッフはレイも含めてすでに慣れきって工程のほぼ全てを諳んじてさえいた。それでもなおハードだった。理由は簡単だ。度重なる使徒の襲来で、スケジュールがずれ込んだのである。余裕のあるうちに不慣れな作業を済ませて、一番なれたそれを最終にもってきた時には、まったくもって無駄口の一つも喋れない状態になっていた。彼女はもとより、必要以外のことは人前で口にしないのだけれど。
とにかく全てが終った彼女は、保安部員の運転したリムジンに載せられて、司令と共にこのマンションにまで帰ったのだった。
そういえば思い起こせば司令はいつになく彼女の体に気を使いながら、この入り口にまできてくれていた。
なかに誘おうとは思わなかったし、しなかった。
あの人――碇ゲンドウ司令は、決して彼女の部屋の中には立ち入らない。
それは彼女がこの生活を始めたときからの不文律だった。そこに何かの理由があるのか、そうでないのかは、彼女は知らない。知りたいとも思わないといえば嘘になるだろうが、決して教えてくれないということはそれこそ理由もなく解っていた。だから聞いたこともなかった。
それでも――
彼は、ここの入り口にまできてくれていたのだ。
彼女は息を吐いてから、鏡の中で自分を睨む自分に向かって。
「皺になってる……」
と口にした。
不思議だった。
今まで、気にしたこともなかったのに、彼女はその日、生まれて初めて、制服に皺が入っていることが気になった。
☆
一番近くのコンビニには五分かかる。
必要なのは水分と糖分。
喉の渇きを癒すのにミネラルウォーターの1リットルのボトルを二本籠に入れ、脳の働きを回復させるために百円の板チョコを二枚籠に放り込む。
あと、必要なものはない。
たんぱく質だのビタミンだのは支給された錠剤やサプリメントでどうにでもなる。糖分にしたところで、そうだ。効率を重んずるのならばそれを飲むべきだろう。そうしないのは、彼女の健康管理をしている赤木博士が「なるべく固形物から摂りなさい」と指示したからだった。サプリメントなどだけでは消化器官が弱ってしまうのだという。できるならたんぱく質も肉などから摂るべきなのだろうが、あいにくと彼女は肉類が嫌いで、牛乳も体質には合わない。だからせめて、糖分くらいはチョコレートなどで摂ることにしていた。
炭水化物は、何で摂ろうか――
そんなことを考えながらレジにむかい、ふと足を止める。
戦車や怪獣の絵が書かれた箱が置いてあった。
食玩、というのだと知識はあった。
ただ、今までそれを気にしたこともなければ、興味を抱いたこともない。
なんとなく手を伸ばしてみる。
「どうして……」
抑揚のない呟きを漏らして、その箱の絵を見た。
『EVANGERLION SERIES』
――NERVのマークが入っていた。
表情を変えずに首だけをかしげ、一つ、箱に放り込む。
どうしてそんなことをしてしまったのか、自分でもよく解らなかった。
レジに持っていってカードを差し出すと、店員は慣れた様子で処理を始めた。
いつもより遅い時間にきてはいるのだが、そこにいる店員は彼女も見覚えがあった。ローテーションが長いのか、少ない人員でやりくりしているのか。もしかしたら保安部の要員かも知れない。そんなことを考えること自体、初めてのことだった。その店員が微かに眉を動かしたのを見て、これも初めてだと思った。自分がチョコレートとミネラルウォーター以外のものを買うというのも初めてならば、それをレジで受け取る側も初めてなのに違いない。それは直ちに保安部を通して司令部に報告させられて、あの人の知るところになって……だからといって、どうということもない。きっとあの人は「そうか」の一言で済ませてしまうに違いない。初めて、そんな風に想像してみて、脳裏に浮かんだあの人の姿はいつもどおりだった。今夜は初めてのことばかりなのに、あの人はそうではないと思うと、何処かおかしかった。
「ありがとうございました――」
背中にその声を受けながら外に出た彼女は、他のことを想像してみる。
赤木博士はどう思うのか――
冬月副司令はどう思うのか――
そして、碇くんは
その時。
『こんばんわー』
明らかなスピーカー越しとわかる声に、レイは足を止めて振り向いた。
『――エミのENDRESS SUMMER NIGHTは、片恋、そして憧れの恋特集。あなたは今、恋をしてますか?』
駐車場で、ウインドを開けて若い女が運転席に座って文庫本を開けている。文庫のタイトルはカバーをしているので解らない。なんでこんなところでラジオを聴きながら本を読んでいるのかはそれこそ解らない。読みたいからそうしているのか、そうでないのか。
レイはそれだけを一瞥して確認してから、再び歩きだす。
『それで今日のリクエスト第壱号は、第3新東京市在住の十四歳、ラジオネーム・ドーム☆レイさんから』
また、足を止めた。
後ろでコンビニから慌てて出てきた女性がいたのだが、そちらには見向きもしなかった。
ただ、空を見上げた。
月がある。
当たり前のことなのに、それはどうしてか、不思議だった。
こうして月を見上げるのは、初めてではない。
月は人が生まれるずっと以前から空にあり、そして多分、これからもあり続ける。
きっと、サードインパクトがあったとしても。
それなのに――
『えーと、
「エミさん聞いてください。
私は少し前から同じクラスのT.Sくんが好きになってしまいました。」』
ラジオが聞こえる。
綾波レイは、しかし空を見上げたままだ。
『「もしかしたら、この恋はこのままで終ってしまうかもしれない…そんな気もします。
まだ始まってもいない恋ですが、終ってしまうことを考えてしまうのは、最近、三つ上の姉が恋人と別れてしまったらしいからです」
「古いロックの好きな恋人と姉は妹の目から見ても、とてもお似合いでした。それなのにいつ頃からかウチに彼氏はこなくなって、姉も彼氏のことを口にしなくなってしまいました。
彼氏のことを聞いてみようかとは何度となく思いましたが、とても怖くて聞けません。
そうしたら、昨日、部屋で姉は彼氏と聞いていたロックを口にしてました。
寂しそうでも悲しそうでもなくて、ただなんとなくクチにしているみたいな。
その瞬間、ああ、姉は今でもあの彼氏のことが好きなんだと思いました。
恨むでもなく、悔やむでもなく、ただ思い出に浸ることができる……そんな恋ができたら、と私は思いました」』
やがて、彼女は視線を落とす。
満月の蒼い光に照らされた地上は、夜の中でも遠くまで見通せた。
ここは、別の世界なのかも知れない。
「姉とは具体的な言葉は交わしていませんが、その歌を口にすると、自分も勇気をだせるような気がしてきます。
今度の連休、T.S君と会うことができたら、自分もそんな恋のために、一歩踏み出したいと思いました」』
「ごめーん、ちょっと時間かかっちゃった」
助手席のドアを開けて、レイの後からでてきた女性が入り込む。ジーパンにシャツ。袋からは菓子パンとペットボトルが幾つか。
ウインドがしまって、エンジンがかかった。
レイはそのままコンビニからでていく車を見送っていたが、やがて自分のきた道へと向き直った。
そのまま足を止めていた理由は、彼女自身にもよくわからない。
やがて。
もう一度、綾波レイは車の去った方へ。
初めて、夜の街へと踏み出した。
車の中。
『では、今日のリクエト第一曲、ドーム☆Reiさんのお姐さんの口にしていた、思い出の歌
The Rolling Stones“夜をふっとばせ”』
つづく。