生活とは習慣である。日々がいかにドラマティックに過ぎ去ろうと、起床すれば顔を洗って目脂を取り無精髭を剃り食パンをトースターに放り込み卵の一つも焼くだろう。無用な感傷などそこに存在を許される筈もない、故に碇ゲンドウは無用な言葉を使わない。

現在彼の目の前には、年代ものの大きな薬缶をちんちんに炙っているカセットコンロが鎮座ましましている。傍らにはどこにでも売っているカップ麺。3分待って蓋を剥がせば油混じりの湯気が天井のセフィロトまで立ち込める。行儀悪く割り箸を口で割き、ゲンドウは本日三度目の食事に取り掛かった。目の前の出来たての即席麺を、しかしゲンドウはすぐに摂取しない。ままごとにも似た具の小片を一々摘み上げ、その都度首をかしげる。何度となく食ってきた同じ銘柄のラーメンなのに、必ずそうする。暫くしげしげと見詰めた後、無言でそれを口に入れ、麺を啜る。しなびたメンマやチャーシューまがいの合成蛋白が、いささか下品な音とともに胃へ落ちていく。

食事は5分ほどで終った。カップの底に残ったスープを飲み干した後、ゲンドウは一つげっぷをして薬缶を手に取った。馴れた手つきで番茶を湯飲みに注ぎ、ちびちびと飲む。鼻の頭に浮いた脂はラーメンのせいだけでもないらしい。机の上には手付かずの書類がまだ半分ほど残っている。初号機、弐号機、零号機、それにMAGI。ある種の妄想にも似た最新鋭の設備は、前時代的な紙とペンによってその動向を決定付けられる。

サインを入れ、判を押し、時折屑箱に丸めて投げつける。泣く子も黙るネルフ総司令官の普段の仕事とは、まあ概ねこんなものだ。単調な作業を続け体内時計がいい加減狂いだした頃、ゲンドウは決まって窓の側に立ってブラインドを指で少しだけ開く。弱々しい天上光、どうやら地上の星々はもうすぐ姿を消すらしい。ゲンドウはこめかみを押さえ、机の引き出しを開いた。中華料理屋の銘の入ったタオルが、拳銃の横に畳んである。手に取り、その下の引き出しからランニングシャツと縦縞のトランクスを更に取り出す。

顔の一部と言って差し支えない眼鏡を外す、そこに残るのは疲れた中年の干からびて黒ずんだ皮膚。目尻に刻まれた皺は最早隠しようがない。一二度首を回し、風呂へ向かう。備え付けのへちまに石鹸を塗りたくり、まず入念に首筋を擦る。肩の付け根、胸。金玉は最後に手もみで洗う。シャワーは使わず、カランで水を溜め頭から被る。その際言葉にならないうめきが歯の隙間から漏れる。一通り身体を洗い終えた後、右掌を鼻面へ向ける。ほ、と一つ溜息をつき、立ち上がりがに股で濡れタオルを股間にぴしゃり叩きつける。数秒間の静寂、その後丁寧にタオルを折り畳み頭に乗せる。

巨大な湯船は、常に熱い湯が一杯に湛えられている。無造作に肩まで浸かる、巨大な赤い葉を背中にしょって。湯面に浮かぶ胸毛がもずくのようにゆらゆら揺れる。この時間帯、風呂には誰もいない。小一時間もすれば夜勤明け組がぞろぞろとやって来るのだが。ここ数日、他人と会話らしい会話を交わしていない。型通りの挨拶などを除くなら、数ヶ月単位になるかもしれない。碇ゲンドウは何も言わない、黙って温度計を眺める。44℃と45℃の合間で赤い液体がぷるぷる上下するのを、ただじっと見詰め続ける。

髭の手入れは一旦湯船を出た後に行う。防水鋏で形を整え、細かい部分は安全剃刀で修正する。15分ほどかけてそれを行い、もう一度湯船に入り直す。二度目の入浴、足を伸ばす事はない、腕を組む事もない。一人じっと広い湯船の端でうずくまる。その様は、猿のそれに近いかもしれない。所要時間、32分。身体を拭き、自販機でパックの牛乳を買い、飲み干して35分。僅かなずれはあるが、大幅に割る事も伸びる事もない。最後に洗面台の冷水でもう一度顔を洗い、踵を返す。規則正しい足音。

司令室へ戻り、残した書類を顧みず床に手をつく。プッシュアップ100回、それが終ると腹筋同じく100回。腿上げ、背筋、倒立。風呂場で汗を流し終えた後に、またぞろ額に汗を浮かべる。入浴後の運動はダイレクトに筋肉に効くという説があり、一方で30歳を過ぎると新しい筋肉細胞は生成されないという説もある。そうした情報を碇ゲンドウは恐らく知らないのだろう…でなければこのような時間帯にジャンクフードの極みを摂取などしない…が、仮に無駄と知っても彼が一連の習慣を止める事はない。ともかく単調な運動を淡々とこなしている間に、心なしか顔の血色が艶を増したように見える。パンプアップされた背中、腕。

その腕で引き出しを開け、拳銃を取り出す。官給品だが、試射以外に使ったことはない。オートマチック、3分で解体し2分で手入れを行い5分で組み立て直す。手についた油を丹念に拭き取り、傍らの端末を開く。メディアプレイヤーのフォルダには2,3のログ。電源ONとともに始まるランダムリピート、椅子へ深々と身体を沈める。インパクト後の記録映画、フルスクリーンに映し出されるサイレントの地獄絵図。津波に飲み込まれた後の街だったモノ、虚空を掴む千切れた幼子の腕。数千の烏が海を覆い、廃墟と化した産業廃棄物処理場から垂れ流されたヘドロに残らず突っ込んでいく。

碇ゲンドウはただ見詰める。凪のように静かな横顔は、カップ麺摂取時と寸分違わない。



かはたれどき、というらしい。綺麗な古文だが、この街では死語に等しい。

なにしろ、目抜き通りですら誰も通らない。昼間ですら人影のまばらな街である。第三新東京市という仰々しい名前は、使徒防衛の機能にのみ拠る。疎開による市民の流出も歯止めは効いていない。人口増減の曲線グラフをそのまま適用するなら、ここら一帯は十年と待たずにゴーストタウンと化すとのことだ。

それでも街角の牛丼屋やコンビニエンスストアの灯は明々と点っている。客のいない店内では、店員がエプロン姿で欠伸を噛み殺している。終末の日に至っても、その様子はきっと変わらないのだろう。それを愚行と見るか、希望と受け取るか。

綾波レイはただ歩く。夜明けを歩く少女とは幾分通俗的な感があるが、無論当人にはどうでもいいことだ。アスファルトに浮いた埃の幾分湿気た匂い、蛾の影またたく電柱の灯り、そして暗く青く深い空の色。深紅の瞳も、今は青に染められていた。

遠くで原動機の音が聞こえる。じきに街は目覚め、土曜日に早起きせざるを得ない人々が幾分恨めしげな目つきであんパンと牛乳を買ったり納豆定食を掻きこんだりするのだろう。そうした群れの中に溶け込めないのは、少しだけ切ない。しかしそれはきっと、群れの一人一人が抱えた孤独と別ベクトルであるにせよ、分量は大差ないのに違いない。

なんとなく口寂しくなった。板チョコを割り、口の中へ放り込む。安いチョコレート特有の強引なミルクテイストが口一杯に広がる。これで糖分は足りた、口寂しさもぬめりとともに消えた。次いでペットボトルの水を飲む。水分補給完了、喉も潤った。

それでも、渇きは消えない。飢えを凌ぐ為に食べても、いずれ腹は減る。何かを知ったと思っても、別の疑問がすぐに湧く。渇きの原因が何か、彼女は答えを知っている。癒す為にはどうすればいいか、それも見当がついている。しかし、現実として綾波レイは一人きりだし、よしんば状況が変わったところで決して根治には至らないだろう。

それでも朝は来る。そして、夜もまた。



「由々しき事態だ」

「耳の早いことで」

「どうするつもりだね」

「…」

「わかっていると思うが」

「この件は、私の裁量で処理します」

「私を失望させてくれるなよ」

「失望ですか」

「何か」

「いえ。では」



「…ふん」



不意に内線電話のコール音。3度ダイオードを点滅させた後、ゲンドウは受話器を取った。ほぼ無言、最後に続けろと一言。端末を閉じ立ち上がる。エレベーター、地下の更に地下へ。両の手袋を外す。火傷の痕、血管が浮き出た醜い掌。アダムは瞳を閉じ、時折ままならぬ身体をひくつかせる。過去、現在。ゲンドウはただ見詰める。

薄まる空気、熱を帯びる肌。空調は正常に機能している、故に錯覚に過ぎない。それでも肌は汗ばみ、下着を纏わりつかせる。扉が開く、塗り篭められたかのような闇の中に群れ。蛍光のような、不知火のような。浮かんだ笑みに意思はなく、倍する瞳に生気はない。資材置き場、或いはフランケンシュタインの工房。

部屋の主はここにいない。彼女の今宵の動向は合わせて逐一連絡が入っているが、仮に彼女が本部施設内にいたとしてもここに足を踏み入れる事はまずない。無論、技術主任なくしてこの場に何の変化も起きはしない。故にゲンドウのこの行動は客観的に見て全くの無意味である。逸脱と言い換えてもいいかもしれない。

アダムを喰った指が動く。ど・れ・に・し・よ・う・か・な・て・ん・の・か・み・さ・ま・の・い・う・と・お・り。ある意味で、途轍もない冒涜。指と鉢合わせた視線が熱もなく絡み、すぐに多数の笑みに紛れて消える。水槽に背をつけ、その場に崩れるように座り込む。餌を撒かれた金魚の如く、その背に群れる形骸。うふふ、うふふ。羽根を持たずに生まれざるを得なかった天使どもの嘲弄が背骨に響く。

第二次大戦後に描かれたある小説に曰く、人肉を喰らうと人の身体は淡い光を発するそうな。その伝を碇ゲンドウが知っているかどうかは定かでない。しかし、水槽一杯に満たされたLCLは今も尚淡く光り続けている。それは果たして、あるかなしかほどの天井の照明のみのせいなのだろうか。

天使と言い、使徒と言う。無数の人間の血肉を媒介として、天の御遣いの名を関した異形どもを排除するのが彼の生業である。簡潔かつ無機質な書類の山に埋もれ、日々の雑務に気を取られ、精神の平衡が保たれそうになる時、彼はこうして時が過ぎ去るのを待つ。狂人にしか成し得ない仕事もまた、この世には存在する。厳密に言えば彼は狂人ではない。それでも、そうのたまって開き直るには、業を背負いすぎてしまっていたのも事実だ。喰らわずにはいられなかった日々、奪わずにはいられなかった日々。そして、繰り返さざるを得ない捨て去るだけの日々。

ゆっくりと、詠唱。
これはこのよのことならず。しでのやまぢのすそのなる。

羽根を欠いたモノどもの笑みが止む。ゲンドウ、足を組みなおも続ける。逡巡にも似た一瞬、しかし元来故なき身。てんでに散り、舞い、笑い声と熱はまた続く。

このよにうまれしかいもなく。おやにさきだつありさまは。

ふと思い出す。今日はまだ、妻の顔を見ていない。否。今日は仕方ない。そもそも、会わせる顔がない。和讃は続く。

ひとつつんではせんぞうくよう。
ふたつつんではまんぞうくよう。



「はいはい」

「俺だ」

「わかってますよ。えー、マルタイは順調に帰宅する模様。異常は見られません」

「馬鹿野郎。お前の目玉はガラス製か?」

「いきなりなんすかもう」

「動いたんだよ、4課がな」

「はぁ?なんでまた今頃」

「知るか。ついでに新たな通達だ」

「…なんすか」

「任務続行。意味はわかるな?」

「手出し無用、口外不出…おいおい」

「やっと判ったか海綿脳」

「…」

「糞が。下衆が。ストーカーの次は俎ショーてか」

「それも文字通りの、すね。一晩駆り出されて…ねえ、班長。俺ら何なんスか?」

「しらねえよ。満足したけりゃテメエで言い訳の一つもこしらえとけ」



かすかな血の匂いでそれに気付いた。ポリバケツの陰で震えていた。

目を凝らす。そこに散乱した灰色の羽根、全身を突かれた無惨な姿。濃い闇のせいでそれが鳩の死骸だと気付くのに暫くの時間を要し、その影に埋もれたモノに気付くのに更なる時間を費やした。

都会の烏は獰猛で雑食、その上常に飢えている。鳩など群れごと襲われる、はぐれものなら尚更だ。だが、そんな凶暴な烏も身内には優しい。言い換えれば、家族意識が強い。幼鳥なら尚更だ、余程の事がない限り親鳥は見捨ない。

その例外が、アスファルトの上で荒い息をしていた。掌ほどのサイズの小烏。嘴の端が白く変色し、目脂で満足に瞳も開けられない。可愛げなど欠片も見当たらない。あるのは病、全身から漂う死の匂い。

綾波レイは目を逸らせなかった。見つけなければ良かったとは思わない。そもそもそこが家までの通路でない以上、余計な事をしたのはこちらの方だ。だが、見なかった事に出来ないのは?

ただの死骸なら何度も見かけた。幹線道路に時折転がっている猫や犬。脳漿や臓物をはみ出させ、舌や目玉を飛び散らかした轢死体。幼い頃はいざ知らず、ただの肉と変わったモノに気を取られることはなかった。では、今は何故?

これは欺瞞かもしれない。そんな風には思う。進化を外れた忌むべき存在と定義されるにせよ、自分の任務はとどのつまりほんの少しだけ特殊な屠殺業に相違ない。それがありふれた死に引っ掛かる。欺瞞という言い方が仮に不適当なら、偽善と言い換えてもいい。

(心を揺らすな)

ある男がそう語ったのを思い出す。それきり言葉は続かなかった。背を向け立ち去る、掌の火傷の痕。割れた眼鏡。あの時、何を見たのだろう?沸騰したLCL、霞む視界の中で。手を伸ばす。逃げる気力もなく、されるがままに小烏は綾波レイの腕に包まれる。一つ震え、そのままあっさりと動かなくなった。

綾波レイはゆっくりと溜息をついた。目を閉じても温もりは消えていない。これもまた、きっと私なのだ。掌の上で朽ち行く身体も、散乱した羽根も、それを見詰める自身も。



「ええ、捕捉しました」

「…」

「僭越ですが、これは」

「…」

「いえ。了解しました。遂行次第報告します」

「…」

「では」



肝を嘗めて生きてきた。無論、好き好んでそうしてきた訳ではない。他に選択肢がなかったから、そうしてきたまでだ。

過去は曖昧模糊として今ではろくに思い出せないが、故あって殴られる事よりも故なく殴られる事のほうが多かった気がする。その度に肝を嘗めた。息を殺し、心を殺し、唇だけを無理矢理歪めた。そのせいで欠けたものなど知らないし興味もない。補足するなら、今となっては恨みもない。

いつ頃からか。自覚を持った。自分はどうやら他人と根本的に違うらしい。異質な個体は例外なく集団から排斥されるものだ。そうした人間は、他人とは違ったものをエネルギーに換えて生きねばならない。己の場合、それは往々にして負の感情だった。

誤解。曲解。恥。劣等感。我欲。妬み、嫉み、憤り、そして無念。そうしたものを延々と嘗め続けた結果が今の自分だ。誇りなど持てよう筈もないが、そうした自己を否定する気もない。そう生きる事でしか成し得ないものもまた確かに存在するのだ。

かつて、一度だけ他人を愛した。その存在だけで救いだと思った、できるなら彼女そのものになりたいとすら願った。結果は無惨に終った。どうしようもない己だけが当然のように残された。

この街、いやこの世界が、今や己の肝なのだ。第三新東京市、NERV、綾波レイ。全ては己の苦悩と失望の副産物であり、それ以上でも以下でもない。予定された終焉に至るまで、それらは存在し続けなければならない。己を苛む肝として、彼女を失った己に対する強固で病んだ檻として。

それが今、崩れかけている。イブがたった一つの果実によって肉の身へと堕する。物語としては上々なのだろうが、造物主としては全くの屈辱に他ならない。ましてや、そのせいで地に人満ちるとなれば。

歪み捩れきっていても、ここは自分の世界だ。たかだか一晩で覆されてたまるものか。

(どちらかが虚構なのだ)

ならば手を打つしかない。それも、全てが目覚める朝が来る前に。あちらの虚構が地を埋め、人々が夢を引き摺ったまま暮らし始める前に。幸い、闇はこちらの領分だ。己の手足どもは正確かつ迅速に、為すべき事を為すだろう。そうしてやっと、己は僅かばかりのまどろみに身を任せられる。この地に昨日と同じ太陽が昇るなら、他に何を望むものか。

それでも碇ゲンドウは拳を床に叩きつけた。何度も、何度も、叩きつけ続けた。俯いて、拳頭の皮が剥けて血に塗れても。

俺のものだと思っていたのに。お前だけは、俺のものだと思っていたのに。



兵装ビルが青紫色に染まる。やがてなにもかもが紅に染まるのだろう。小烏の骸は結局あの場に置き去りにした。小さな手に掴み続けられるものはそう多くない。それでも掌に残った温もりはまだ消えていない。

死は消えてなくなる事。誰にでも待ち受けているし、どこでも見かけられる。自分の身に擬したとしても恐くはない、ああそういうものかと思うだけだ。そうした考えを抱き続けられたのは、それはそれである意味僥倖なのだろう。今は?相変わらず恐怖は感じない。ただ、寂しさは否定しようもない。その後を思うのはヒトである故。喜びと哀しみのように、全ては表裏なのだろう。

この夜もまた、いつかは風化する。しかし完全に消え失せはしない。概念のみとはいえ、きっとそれは幸せなことだ。そう思えば無駄なことなどなにもない。そう思うからこそ、こうして家路も歩める。ベッドにもぐりこみ、起床したらまず食事を取ろう。やるべき事は多く、やりたい事はそれに較べれば少ない。それでも私は生きている。そう。

綾波レイは失念していた。そもそも何故ポリバケツの横に鳩の死骸が存在したか。雑食の烏は、その分労を惜しむ。ゴミがあれば、まずそちらからつつく。特殊な店舗を除けば、土曜日のこの時間にゴミ収集車が街路を回ることはない。

それは、風景から突然浮上した。避けられる範疇ぎりぎりの速度で、彼女の背後に迫った。振り向いた時は既に遅かった。収集車の質量は、彼女を絶命させるに充分だった。

(ああ)

なるほど、と思った。清掃業者の多くは公営で、肝煎りならどうとでも言い訳をつけられる。カモフラージュとしても目立ち辛く、そうした『作業』には持ってこいなのだろう。

走馬灯とやらは、ついぞ巡らなかった。代わりに今宵とうとう会えずじまいだった男の顔が脳裏に浮かぶ。温かみは伴わなかったが、代わりに憐憫にも似た感情が湧いた。最後まで自分の手を汚せない人。言葉を交わしたかった気もするし、それはそれでらしくない気もする。心残りにならなかったのが、とりあえずの救いにも思えた。

最後に微笑を湛え、そのまま綾波レイは拡散した。



「任務は滞りなく遂行しました。しかし」

「…」

「遺体を、確認できませんでした。…いえ。それはないです」

「…」

「正直『消え失せた』としか…失言でした。捜索は…」

「…」

「え?はい。そう言えば」

「…」

「では、そちらへ向かいます」



掌に、一片の純白の羽根。ヒトとなりしホムンクルスの遺産。碇ゲンドウは瞑目し、握り締めた。綿雪のように、常夏の地獄に棲む男を憐れみ嘲うように。それは跡形もなく消え去った。













epilogue

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