フィギュア -- Envelopes of Yesterday
時に、西暦2015年。
透き通った秋空に、月光が冴える。僕は缶コーヒーのプルトップを片手でくい、と起こした。ミサトさんみたいに上手にできず、あやうく中身を歩きながらこぼしそうになる。
ミサトさん、か。
この時期には、何番目の使徒が来ていたのだろう−−エヴァ世界では。
僕はすでにミサトさんの年齢を少し超えていた。この世界では、使徒は来襲してこない。セカンド・インパクトもなかった。その代わり、人類が幸福になったという話しもきかない。誰もがさまよい、流される日々。
世界なんて、終わってしまえばいいのに。
そう思う時がないでもない。だが、独り暮らしのマンションに戻り、味気ない現実を前にすると、夢もしぼむ。リビングのボードに貼りつけたメモには、日々の雑用が記されている。書いた主は、もちろん僕だ。
メモの一行目には、「エリカ 荷物引き渡し」。
名前をカタカナで表記する習慣は2015年になっても定着していなかったが、それが出ていったばかりの、元同居人の名前だった。荷造りは彼女がしていった。明日、業者と来る。
僕はダイニングテーブルの上に目をやる。
綾波...
昔はこうして、毎日話しをしたよね。その頃はこんな立派なテーブルじゃなかったけど。今は、エリカが僕のいない間に君を「廃棄」しなかった奇跡に素直に感謝する。
エヴァ世界ではあんな目にあった綾波だもの、大切にしてあげないとね。
そっと、指先で−−本当にそっと−−蒼い銀の髪をなでる。でも、キスはできないな。だって、綾波は小さいし、おまけにあわてた顔でトーストくわえたまんまだから。
あは。僕は苦笑する。レアものなんていって、もっと正統派の綾波を買っておくんだった。制服も、紺のベストだし。「あんなの綾波ぢゃない」って、仲間と言ってた。でもそんな君を、こんなに長い間、大事にしてたんだ。
ふと窓の外を見る。
満月。
そういえば、星を見ながら−−
「罵倒星雲」
とか−−
「罵倒観音」
とか−−
エリカにいって、30分間かけて説明して、3時間かけて弁明したっけ。56億7千万年かけても、わかってもらえないだろうけど。
綾波は、わかってくれる?
わけないよね。でも、きっと紅い瞳で、「...そう...」って言ってくれるんだろうな。
僕は綾波を台座ごと床の上に下ろす。そして自分もフローリングの上に座り込み、小さくなってうずくまる。
笑えばいいのかな。
綾波...
...何?
ささやくように、綾波が語り出す。
いいの?トーストをスズメがもっていってしまうよ。
...話しが、したかったから。
ありがとう。それに、壱中の制服に着替えてくれて。
「わたしには、他に何もないから」
「綾波も、冗談を言うようになったんだね」
「何を言うのよ」(ぽっ)
僕は笑いこけた。涙が出た。ずっと、笑いころげた。こんなに笑ったのは、何年ぶりだろう。
綾波は、フローリングの上に座りこんでうつむいている。月が降りしきる。氷結する、かげろうの如き面影に、僕は引き込まれる。
「現実って、何だろう」
少しだけためらうと、綾波は一瞬、寂しげな目をして言葉を紡いだ。
「わたしの...いない世界」
それは、僕の望む世界ではない。僕はたまらなくなって、綾波の、壊れそうなほどに細い肩におずおずと手を伸ばした。どこからか、ひどく懐かしい音が聞こえてくる。ああ、そうだ。あの場面の音楽だ。
tumbling down, tumbling down, tumbling down,
そう。全てはこれでよい。僕の手は、綾波に届かないのだけれど。
「綾波...」
「もう、いいのね?」
僕はもの言わず、微笑んだ。
翌日。元同居人のマンションをおとずれたエリカは奇妙な光景を見ることになる。見慣れたはずのリビングには、うら寒い気配が漂っていた。だが、それ以上に奇妙だったのは、部屋の隅に置かれた、主のないまま残された、フィギュアの台座だった。確かそこには、蒼い髪の少女がいたような記憶がある。
そして部屋の中央には、琥珀色の液体がフローリングの上に広がっていた。それは人の形に見えなくもない。
エリカは薄いため息をついた。
「そう、よかったわね」
■By Hoffnung