荒涼とした世界。瓦礫と破片しかない、文明の痕跡がことごとく否定され様な世界。

生命の痕跡はない。

ヒトを除いて。

そこに居る人間はたった二人。

少年と少女。

LCLと呼ばれる液体の湖の湖畔に二人は居た。


それから 中編
シンジは少女の一言で我に帰る。そして自分が何をしていたのかを悟る。

「どきなさいよ。」

慌てて飛びのこうとするシンジに追い討ちを掛けるように少女の声が力無く、だがはっきりと響く。

「ア、アスカ!ゴメン!」

反射的に謝るシンジであった。アスカはそんなシンジを冷ややかに見つめる。

「ホントにゴメン!そんなつもりじゃ・・・違う、心の底ではまだ殺してでもアスカを僕の『もの』にしておきたいと思ってるのかもしれない。そんな考えはもうしないって決めたのに。でも!助けてくれるからじゃない、優しくしてくれるからじゃない!それでもアスカとは一緒に居たい、そう思ったのは信じて!」

シンジの言葉に何の影響も受けなかった様に冷ややかな表情を続けるアスカ。二人の間には10秒近い間が出来た。が、とうとうアスカも口を開く

「シンジ、私はあんたをこれからも見てるわよ。」

その言葉に、緊張した空気が一瞬にして取り払われ、シンジの表情は一気に明るくなる。しかし、それはまさに一瞬でしかなかった。

「だって私、あんた憎んでるから。」

 

5日が経った。

周囲の様子は変わらない。唯一、遠く山の向こうではレイの形をしたものが崩れ落ち、稜線の影に消えていた。

発見もあった。LCLの湖の中に魚を発見した。廃虚をうろつく犬も発見した。どうやら自分達が最後の生命ではない事にシンジは安心する。

彼は孤独だった。アスカが居なくなった訳ではない。生活に必要な最低限は協力もしてくれる。表面的には孤独ではないのだが、さすがのシンジにも、それが人間が生き残るためだけのものであるのは想像できた。

単なる役割分担。このような状況下での経験も知識もないが体の動くシンジと、サバイバル術を学んではいるが、思う様に体の動かないアスカ。実行担当と作戦担当。それだけであった。少なくとも客観的には。

生きては行ける。何とか水も食料も調達できるし、思っていた以上に廃材が多く、まだ雨が降っていないので何とも言えないが、一応の小屋も出来る。プラグスーツの耐久性には未だ余裕があるようであった。

必要は発明の母というのか、真剣になるとこういう物なのか、基本的な部分でのシンジのサバイバル術の上達は目を見張るようなものがあった。敵がいる訳でないし、天候が穏やかなら何とか生活できる程度まで彼は成長していた。

アスカの方も見た目ほどには重態ではなく、どちらかといえば、極度の疲労が体調不良の主原因であったので回復は順調であるようだった。毎日確実に体が動くようになって行く。アスカにはそれが喜びであるようだった。

逆にシンジにはそれが不安であった。これが単なる共生関係である以上、どちらかにその必要が無くなればその関係は終わる。自分がアスカに提供できるのは労働力のみであり、その価値はアスカの回復と共に失われるのだ。

現実にアスカはシンジに対して干渉をさせなかった。彼女が「出来ない」と判断すればシンジにやらせた。「シンジが出来ないと自分に不利益」と判断すれば教えもした。だが、それ以外の事は徹底的に自分でする事にこだわった。気を利かせてシンジが手伝おうとすると本気で怒る。その結果失敗した場合は改めてシンジにやらせるが、そんな事はめったに無かった・・・

だからといって、シンジはもう一度アスカをどうにかしようとも思わない。寝る前にこれからの事考えていたシンジが、その案を思い付いた時、言下にそれを否定している自分がいる事に気が付いた。以前の自分なら採っていたかもしれない案を何故こんな簡単に否定できるのか、彼自身が理解できなかった。

そんな訳で、この5日間で唯一彼に希望を持たせたのは「独りで生きるなんてもう言わない。一人でも・・・」というアスカの呟きだけだった。

 

夜。満月だった。湖の底から何かが浮かび上がってくる。それは水面に浮かぶと、波に揺られ、少しずつ岸に近づいていった。

 

シンジの朝は早い。電気など無いので、出来る事の無い夜は必然的に早く寝る事になる。そして、朝日がそのまま目覚し時計代わりになる。

LCLで顔を洗い、寝ぼけた頭を一気に覚ます。少々べたつくような気もするがこの際贅沢は言っていられない。

「水がもっとあれば・・・」

言っても仕方の無い事とは分かっているのだが、考えずにはいられないシンジであった。

「そうだ・・・今度水場を探しにいくのに誘ってみよう。生活に関しては協力してくれるし・・・」

我ながら名案とばかりに指を鳴らし、小屋に戻ろうとするシンジの目に、昨日はなかったものが入ってきた。

『何・・・?流木?ひと・・・?まさか人!?』

無我夢中でシンジはそちらへ駆けていく。

「間違いない!人だ!」

近づくにつれはっきりとわかる。

息を切らして走りよると、仰向けになって倒れている40代くらいの男性だった。

『他に・・・人がいたんだ・・・』

嬉しさでシンジの目に涙が浮かぶ。この世界は自分達二人だけだと思っていた。限定された世界だけを願った懲罰がこの世界だと思っていた。でも違った。

『他人の存在がこんなに嬉しい事だったなんて・・・』

思わずシンジは男の肩を掴んで、それ自身が目的であるかのように激しく揺らす。

「ん・・・ここは・・・空?・・・天国か?・・・」

意識がはっきりしていないのと体力がついていかないせいでボーッとした言葉になる。

意識が戻った事でシンジは更に嬉しくなって、興奮して言葉を続ける。

「違います!地上です!生きてるんです!あなたは生きてるんです!よかった・・・。生きてる人がいてくれてよかった・・・。」

「生きてる・・・?撃たれたのに・・・?・・・こども・・・サードチルドレンじゃないか。そうか・・・世界を守ったようだな・・・」

サードチルドレン

シンジはその一言でぴたりと今までの興奮が止まる。

『ネルフの人!』

良く見ると、袖が無かったり穴が空いていたりはするが、それはシンジがよくケイジで見ていた制服、ネルフの整備班のものであった。

突然黙ってしまったシンジを不審に思ったのか今度は彼から声を掛けてきた。

が、シンジには聞こえてはいなかった。この時シンジの注意は過去へ、ネルフへ向けられていたから。

『本部が騒がしくなって、黒服の人に知らない部屋に連れこまれて、ミサトさんが来て・・・人を殺した。車に乗せられて、ケイジに連れられて、エヴァに乗れって・・・、でも乗れなくて、なのにエヴァが動いて、外に出れたのに、弐号機が・・・』

今までも何もしなかった事でチャンスを逃した事は何度もあった。自業自得だと分かっていた。慣れていた。

だが、その光景を思い出すと今でも恐ろしくなる。忘れたいのに忘れられない凄惨な光景。しかし本当に怖かったのは光景そのものではなかった。そこから簡単に想像できる結果。それだった。

『カヲル君がいて、綾波もいた。アスカもいた気がする。いや、みんないた気がした。最後に覚えてるのは母さんだった・・のかな?』

「ここは・・・どこなんだ・・・?それに何故俺は生きているんだ・・・?教えてくれ・・・サードチルドレン。」

「えっ?ああ、すいません。何でしょうか」

再びサードチルドレンという言葉に反応したシンジは自分が呼ばれていた事にやっと気がつく。

「だから・・・ここは・・・どこなんだ・・・?それに何故俺は生きているんだ・・・?教えてくれ・・・」

「・・・どこだかは知りません。僕も気がついたらここにいましたし。」

よろよろと上半身を上げようとする男に手を貸しながら、シンジは申し訳なさそうに答える。

「でも、生きてるのが分からないって、知らないんですか?」

「ああ、ケイジの中で銃撃戦やって、胸が熱くなった・・・多分撃たれたんだな。そこまでは覚えてるんだが。ああ、もう大丈夫だ。」

砂の上に並んで座る二人。沈黙の時が続く。

「サード・・・えー、碇・・・きみの名前の方は何だったかな?」

「碇シンジです。」

『やっぱり周りには、僕はまず「司令の息子」なんだな。』

シンジはそう思う。知人でも何でもない人が「僕」を知っている方がおかしいとは思う。それでも一抹の寂しさは隠し切れない。

「シンジ君か。俺は野中ヒロキ。見つけてくれて助かったよ。」

「いえ・・・偶然ですから・・・。」

「シンジ君、君も何があったのか知らないみたいだけど、誰か知ってそうな人を知らないかい?」

シンジは言いにくそうに俯き、決して野中の顔を見ようとはしない。

「野中さん・・・僕が知っている人はあなたで二人目なんです。」

「?どういう事だ?」

「つまり、僕の知っている範囲では、僕を含めて3人しか人がいないという事です。」

ようやく言っている意味を理解したのか野中の表情も硬くなる。

「つまりなにか?世界は滅びたと。サードインパクトを防ぐ事は出来なかったと。」

「すみません。分からないんです。単に僕たちが変な場所に飛ばされたのか、本部周辺がこうなったのか、日本がこうなったのか・・・世界がこうなったのか。」

シンジはそれだけ言うと膝を抱きかかえ、顔を埋めるように俯いてしまう。

それを見た野中が自分の発言に気がつくと、シンジの肩に手を回して謝罪する。

「すまなかった。俺の注意が足りなかった。必死に戦っていた君たちに言う台詞じゃないな。許してくれるとありがたい。君たちが頑張ってこうなら、他の誰がやったってこれ以上にはならんさ。第一まだ世界が滅びたとは決まっていないしな。」

自分に触れられる手に、一瞬ビクッとするシンジだが、それが自分を責めるものではないと分かると、いくらか落ち着き、顔を上げ、野中の方を見る。何とか失点は取り返したと判断した野中は軽口を叩く。

「で、もう一人いるんだろ?そいつは美人か?」

「ええ、とっても!」

 

「いったいどういう事だよ!説明してよアスカ!」

シンジは戸惑っていた。野中が来た翌日。アスカが「出て行く」と言い出したのだ。

「あんたに言う必要はないわ。」

余りのシンジのしつこさに辟易したかのように久しぶりにシンジに口を開く。

「じゃあ俺にならいいのかな?」いつの間にか入り口の所に立っていた野中が軽く声を掛ける。

「野中さん!アスカにいってください!出ていくなって!」

「言えるか。そういう台詞は普通夫婦や恋人しか使わんもんだぞ。それは君たちの問題だろう。」

「「違います」」

見事にはもる二人に苦笑しながらも、止めるつもりで来た彼である、アスカに話し掛ける。

「もしかして俺が来たのが原因かい?」

「違います。」

「どうだ?シンジ君には言えなくとも、俺には言えるだろう。一応理由を言ってみな。理由いかんでは離れた方がいい事もある。」

シンジは「なんて事を言うんだ」といいたげな顔をしている。アスカも逡巡していた。野中にも言う必要はないのだが、昨日一日話してみて、いい人だと思ったのは確かである。分かってくれればそれに超した事はない。そう自分に言い聞かせて話し始める。

「分かったわ。つまり、あたしの貞操と命の危機なの。」

一息に言い切るとシンジをにらむ。

「穏やかじゃないな。それにしてもどういう事だい?確かに男二人に女一人だから身の危険を感じるのは分かる。でも、アスカちゃんはさっき俺とは関係ないと言いきった。シンジ君にしても、もしアスカちゃんを襲う気なら俺がいない間に十分機会があっただろう。命の方だって少なくとも俺には君をどうこうしようという考えはないし、シンジ君に関してはさっきと同じだろ。どういうことだい?」

「同じかしら?シンジ?」

見下した相手を挑発するような声で語り掛ける。

「なんだよ!一日目の事?だから言ったじゃないか、どうかしてたって。その後だって、アスカの機嫌を取るためじゃなくて、心配だからいろいろ手伝ったじゃないか。それをほとんど断ったのはアスカの方だよ!」

「は!言うようになったじゃない。でもね、やった方は忘れても、やられた方は覚えてるのよ。あんたが今まであたしに何をして、何をしなかったか、胸に手を当てて考えてみなさいよ!」

シンジの脳裏にさまざまな場所が蘇る。葛城家、病室、弐号機の残骸、湖畔・・・

「どう?思い出した?どうせあんたの事だから「僕は変わったんだ。今の僕を見てよ」とか考えてるんでしょうけど、そんな虫のいい事誰がするもんか!・・・はっきり言って、あんた信用できないの。それでも世界がアタシ達二人だけなら、我慢して、あんたが信用築くの待つつもりだったけど、野中さんが来たわ。世界は終わってないかもしれないの。残りのあたしの人生、その可能性に賭けるわ。危険を冒してもね。」

もはやシンジの顔は青ざめていた。過去を否定されるのは分かる。だが彼は変わったつもりだった。実際変わっていた。しかし、彼の過去がブラックホールとなって現在まで引きずり込んだ今、再び全てが否定されたような気がした。第三新東京市に来る前のように。

『シンジ君が過去に何をやったのかは分からんが、あの顔からすると致命的な事やったみたいだな。ま、結局若い二人の別れ話って事か。』

そう判断した野中は口を挟まなかった。アスカが考えたように、他にも自分のような人がいると考えたせいもある。少なくとも、人との関わりを捨てるために出て行くのではないと感じる。

シンジが何も言い返してこないのを確認すると、アスカは荷物を左腕に抱える。

「あー、言いたい事言ったらすっきりしちゃった。」

アスカはそう言い残して小屋を出ていく。

それが最後にシンジの見たアスカの姿だった。

 

崩壊した世界は思ったより狭く、戦自の調査隊に救助されたのはそれから約半年後であった。

 

木漏れ日の光の中、満面の笑みを浮かべて、シンジとレイが腕を組んで教会から出てくる。

この教会は緩やかな7段の階段を上って入る形になっているが、階段近くの地面は既に参加者が完全占領していた。

ライスシャワーやクラッカー、野次や歓声に口笛。

中学・高校・大学・バイト先・会社。いろいろな場所で見知った顔がいろんな形で祝ってくれる。

『みんな、ありがとう』言えば先ほどの攻撃が再現されるのが目に見えているので、シンジは心の中で感謝する。

「ちょ、ちょっと、ちょっと!勘弁して、お願い!」

シンジの隣りでは、昔に比べて格段に明るくなったレイがライスシャワーを顔にかけられてはしゃいでいる。

『今日はレイも楽しいのかな。いつもより明るいな。』

そうシンジは思う。

格段に明るくなったとは言え、それは中学の時と相対的にという話であって、普段のレイがこんなにはしゃぐ事はあまりない。

レイ本人はといえば楽しくないはずもない。心からこの時を楽しんでいた。

隣りを見ればシンジがいる。そして大体目が合う。それだけでも笑顔の輝きを増すのに十分な事であった。

『碇君となら幸福になれる。いえ、幸福でいられる。生きる事を希望にしてくれた碇君となら・・・』

「お二人さーん!そろそろお約束いってもらいましょうかー!」

「そうだ、そうだ!」

「さっきみたいのお願いしますよー!」

「「「それキッス!キッス!キッス!キッス!キッス!」」」

高校の同級生3人が測ったように声を掛ける。

それにつられるように周りの人間もキッスコールに加わっていく。

「あ、あいつら・・・」

シンジとて、教会式の結婚式にこういうのが付き物である事くらい知っていた、覚悟もしていた、行為自体が嫌であろうはずも無い。それでもいざ実際にそのような立場に立たされると、自分がとんでもない道化者になっているような気がする。

ちらりと隣りを見ると、レイは既に期待に目を潤ませるて、こちらを向いている。

『逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ』

シンジも状況がこうなっては逃げられるはずもないし、少しばかり自慢したい気もしたのは事実なので目をつぶっって羞恥心を振り払う。そのまま勢いで横を向いた瞬間「おおー!」という歓声が響いた。

シンジは凍り付いていた。自分としてはレイの方を向き、瞳を見つめ、優しく肩を抱き寄せ、ゆっくりと二人の顔を近づけてするものだと思っていた。ところが横を向いた瞬間、レイが跳びつく様にシンジの首に腕を回して、いきなりキスをしてきたのだ。予定と大きく違う事態ではあったが、シンジは目の前で閉じられる瞼の横に、光の球があるのを見逃さなかった。

『レイ・・・』

シンジもレイの腰と背中に手を回すと、自分もゆっくり瞼を閉じた。

 

「はあ・・・いいなあ・・・」

「お姉ちゃん。うらやましいのは分かるけどさ。そんなにもの欲しそうに言わないでよ。」

「だってさ、碇君ってあんないい男なのよ。不公平じゃない?」

「何が?美男に美女、お似合いのカップルじゃない。」

「ノゾミはまだ若いからそんな事が言えるのよ。その論理でいくと残っていくのは・・・」

『なるほど、そういう見方も出来るわね』

「何いってんの。お姉ちゃんは十分奇麗よ。ただ男運が悪いだけなんだから。」

思った言葉を飲み込んで、出てきた言葉がそれだった。

「・・・それで慰めてるつもり?」

「・・・うん!」

「あんたねえ!」

「ほらほら、ブーケなげるみたいだよ!幸運を掴まなきゃ!ん?え、え、きゃああ!」

 

初めに気がついたのはミサトだった。

スキール音が聞こえたのだ。続いて電気自動車中心のご時世では珍しい大排気音。

「リツコ、あんた自動車規制したわよね。」

チルドレンの三人と生存している元ネルフのトップ3が一堂に会するのだ。参加者には気づかれない様に警備はされている。

「あなたと同じにしないで。当然じゃない。車が来てるの?」

「歓声で気づくのが遅れたわ。左っ!」

その瞬間、森の小道から飛び出してきたのは黒い、比較的小型の車。

「エボZ?」

ラリー選手権がガソリン車で行われていた時代。最強クラスの車と言われつづけた四菱のEVOKEシリーズ。

セカンド・サードインパクトによる政情不安、石油資源の枯渇などにもかかわらず行われてきたラリー選手権の最後のガソリン車の優勝車がその7代目「EVOKEZ」通称「エボZ」まさしくそれであった。

その同型車が、今会場に向かって突っ込んでくる。

「みんな伏せて!!」

ミサトは叫びながらシンジ達を保護すべく駆け出す。

その声に、参列者のうち、進路上のものは逃げる。それ以外のものは伏せるか、動転して何も出来ずにただ立ち尽くす。

そして、やはり気づくのが遅すぎたのか、ミサトは間にあいそうも無かった。

『ゴメン!シンジ君、レイ!』

窓が開く、乱射される機関銃、倒れる新郎新婦。そんな光景がミサトの頭に浮かぶ。

が、そうはならなかった。

車は激しいブレーキングをかけると、驚くほど短い距離で停止する。

エンジンがかかったままロックが外れ扉が開く。

出てきたのは女性。

Tシャツにジーンズとテニスシューズという、披露宴には少々不釣り合いないでたち。

忘れ様にも忘れられない、その明るいニンジン色の髪、快晴の青空を切り取ってはめ込んだようなその瞳。

アスカだった。

 

「みんな伏せて」というミサトの声とほぼ同時にパニックになる会場。

突っ込んでくる車。

この時シンジもレイも反射的に互いをかばおうとして、一瞬おしくらまんじゅうのようになったのは、後になってからの笑い話。

この時のシンジは明らかに動揺していた。二度と会う事はないと思っていたアスカが来た。それも尋常ではない方法で。

『多分・・・復讐・・・』

シンジは直感的にそう思った。アスカの言う事には一方的な所もあるが事実である事には変わりはない。アスカにしてみれば自分を傷つけた男がのうのうと幸せになろうとしている。許さない。そんなとこだろうなと考える。

レイも驚いていた。シンジから別れたいきさつは聞いた事がある。その時は全くの偶然で会うかもしれない程度の感想しか持った。それ以外の考えも浮かんだが、会う可能性の低さに意識には上らなかった

『碇君は心の整理はつけたと言っていた。でも、次に会った時、彼女が許していたらどうなるの?』

レイのその感情は表に出ていたのだろう。明らかに曇った表情に、シンジはすまなく思う。だからレイに出来るだけ優しい声で囁く。

「レイ。安心して。自分の中の決着はついているよ。けど、彼女との決着はつけなきゃならない。あの時追いかける事も、割り切る事も出来なかった僕がやり残した事だから。」

「・・・分かったわ。しっかりね。」

「ああ、・・・帰ってきたらお帰りって言ってくれるかな?」

「まかせて。」

その言葉に安心したかのようにシンジは階段を降り出す。

その歩みにあわせるかのように、車から出たっきり動かなかったアスカも歩き出す。そしてそれはまるで測ったように、シンジが階段を降り終えた瞬間、終了した。

十年間でアスカも変わっていた。更に美しくなっていた。多少濃くなったものの、濃いという訳ではない化粧が、昔よりすっきりとした顔を引き立たせている。奇麗な夕焼け色の髪も、サファイアをはめ込んだような目もそのままだった。身長は伸び、ラフな服の下に隠れたプロポーションも成熟した大人の女性のものとなっていた。

「久しぶりだね、アスカ。」

出来るだけ普段通りでいようとするが、緊張のせいか、妙に含みのある言い方になってしまう。

「十年ぶりかしら。」

アスカの方はそんな事は承知の上なので、いちいち詮索はしない。余裕を持って答える。

「どうしてここが?」

「あんた、相田の会社に式を頼んだでしょう。その金の流れをたどれば一発だったわ。」

「そんなことまで・・・。」

「なによ?文句あんの?」

十年前と変わらないオーバーアクションで、腰に手を当てて睨み付ける。

「いや・・・細かいな、と思って。」

「当然よ。憎いあんたに、機会あらば復讐するためもの。」

「・・・やっぱり・・・復讐のために来たのか。アスカ、昔の事は本当にわ」

「ストップ!!」

いきなり話を中断させられたシンジは怪訝な顔をする。アスカはそんな表情の移り変わりに気がついたのか、やってらんないわとばかりにため息を吐く。

「馬鹿は十年立っても馬鹿ね。いきなり謝るなんてあんた進歩ってもんを知らないの?」

シンジの鼻先にその細い指を突きつけ、下から睨み付ける。

「でも・・・」

まだ何か言おうとするシンジを無視し、いらついたかのように腕を組んでアスカは話を続ける。

「まあいいわ。あたしがここに来たのは謝罪を聞くためじゃないわ。」

「じゃ、じゃあなんなんだよ。」

シンジは益々混乱する、言葉でないとしたら暴力?物質?そんな考えも浮かぶ。

そんなシンジをアスカは打って変わって面白そうな表情で見つめる。

「感謝なさい。私はここに未来の話をしに来たの。過去の事じゃないわ。つまりあんた達を祝福しに来たの。」

「えっ!」

「いらないの?」

「いや、でも、どうして・・・?」

「あたしがシンジを憎んだのは事実。でもねあんたの奥さんが、夫が過去を振り切れていないのを見るのは辛いでしょうと、あたしが広い心できてあげた訳。まったく私も寛大な女になったものよねー。あのファーストなんかのために。」

「アスカ!そう言う事ならすごく嬉しい。けどレイの事を僕の前で悪く言わないでくれるかな。あ、大声出してゴメン。」

今までおどおど喋っていたシンジが大声を上げる。アスカの瞳に始めて動揺が浮かぶが、シンジの言っている事を理解するとにやにや笑いながら言う。

「前言撤回するわ。馬鹿は馬鹿なりに成長したみたいじゃない。ま、十年も経てば誰でも変わるって事ね。」

「アスカ・・・」

「という訳でレイを借りるから。文句無いわね。」

どう贔屓目に見ても、頼みというより確認でしかない口調でシンジに言いきると、シンジの横をすり抜け、律動的な歩調で階段を上る。

 

「何?」

昔の冷ややかな口調で、レイは目の前に立つアスカに尋ねる。その目には怒りがみなぎっていた。レイにしてみれば先ほどまでの楽しい雰囲気をぶち壊されたのだ。アスカの用件がなんであれ、好意的に迎える理由は何も無い。

見れば参加者はみな、ミサト達ですら何が起っているのか、何が起るのかという不安・疑念などに固められている。ましてアスカを知らない人にとってはさっぱり訳が分からない事態となっている。『シンジの浮気相手か』などと邪推し、女の戦いを期待するものもないではなかったがが、それを口に出来るような空気ではなかった。

その空気と、目の前の女性の怒りをアスカはとっくに感じていたが、気にも留めずに口を開く。

「あんたも相変わらずねー、少しは明るくなったかと思いきや、ぜんぜん変わらないじゃない。」

「あなたのせいよ」という言葉がレイの頭に浮かぶが、今のレイにはその言葉を言ってやる義理すら存在していなかった。が、次の言葉を聞いて驚く。

「まあ、びっくりさせた事については謝るわ。」

アスカがレイに対してこのような態度で来ようとは思わなかった。レイの知っているアスカは、プライドも固まりで、特にレイに対しては敵意をむき出しにしていたのに。レイもアスカがどの程度補完を受けたのかはっきりとは覚えていないため、その態度の豹変の原因がどこにあるのか掴みかねていた。

「しっかし、あんたがシンジと結婚するとはね。ま、昔っから気になってたみたいだから意外ではないけどね。」

『この人はいったい何を言いたいの』

式を邪魔しに来たかと思ったが違うようだ。だが、祝福してくれるつもりなら、車で乱入するという手段はとらないはず。レイはそう思う。

「ファースト、一つ聞いていい?」

やはりアスカも変わったようだ。昔なら「聞くわよ」と反対を許さない言い方をしてたのに。レイはそう判断した。

「いいわ。何?」

「子供欲しい?」

「な、何を言うのよ・・・突然に・・・」

レイは真っ赤になっていた。余りにも予想とは違う質問であった。聞いてきた相手がシンジなら雑踏の中であろうと、満員電車の中であろうと気にならないが、他人に聞かれるのはやはり恥ずかしい。「どうなの?」というアスカの追い討ちに何も答えられず、レイはただこくりと肯く事しか出来なかった。

その返答にアスカは満足したように目を閉じて、落ち着いた声でレイに語りかける。

「子供にとってはね、親が仲良くしてる事ってすごく大切なのよ。自分のいていい場所が安定してる事、こんなに安心できる事はないわ。だから、もし将来子供が出来た時、親には心から笑っていて欲しいのよ。」

その時アスカの目はレイを見ていなかった。現在すら見ていなかった。

彼女が見ていたのは過去。精神を歪め、人形に愛情を注ぐ母親と、それを見捨てたようにあっさりと離婚し、再婚した父親。

自分が望み、しかし僅かしか与えられなかった幸福な家族生活。ほとんど記憶に残っていないはずのその光景だが、アスカを捕らえて離さない。

「でも、何故?私達の事怨んでたって。」

シンジに聞いた話では、アスカはシンジを素直に祝福できる関係ではなかったはず。自分とも関係修復したとは言い難い。レイの疑問は当然であった。

「・・・正直言うとね、こだわりがあるのは変わらないわ。今だってシンジを目の前にしたら、何を言うか分からないわよ。でも10年経ってみるとね、いつまでもこだわってるのが馬鹿らしくなるのよ。陳腐な言い方をすれば、時の流れが癒してくれたって所かしら。自分にケジメつけたかったのかもね。それに、あの時は二人とも子供だったのよ・・・聞いた話しじゃシンジも少しは成長したみたいだしね。」

「聞いた?」

レイの疑問にアスカはやばいという表情になったが、今更隠してもしょうがないと考えたのか正直に話す。

「この8年間、ヒカリだけには連絡とってたのよ。今日の式も、ヒカリから連絡受けたんだけどね。あ、隠してって頼んだのは私なんだから、ヒカリは責めないでよ。」

「わかってるわ。そうでもなければ彼女が黙ってるはずないもの。」

「そ。ならいいわ。話しを元に戻すけど、よく考えたら、あんたとも喧嘩してた訳じゃないのよね。後で気がついたんだけど、私が一方的にあんたを憎んで、勝手に騒いでた。あんたの澄ました顔が気に食わなかったのは確かだけど直接の原因ではなかったのよ。そう気がついたら、あんたの事素直に戦友だと思えるようになってた。だから言えるの。」

いったんそこで言葉を切ると、目を開けて、レイに微笑みかけて言葉をつなぐ。

「おめでとう。」

『涙・・・私泣いてる・・・嬉しいから・・・』

レイは泣いていた。過ぎ去った時を水に流す事など出来ない。いつまでも本人達が背負わなくてはならない。しかし、それを承知した上でアスカはレイ達と、その将来を祝福してくれたのだ。

「ありがとう、アスカ・・・でも・・・」

笑顔の中に複雑な物が混じるのをアスカの明敏な洞察力は見逃さなかった。

そして、それが何であるかも瞬間的に理解できた。

「安心なさい。あの馬鹿はあんたに任せるわよ。」

「ええ・・・」

口に出した言葉は少ないが、自分の表情に不安が出てしまった事を恥じつつも、それに気づいて安心させてくれたアスカにレイは感謝していた。

「でもいい?シンジはすぐ調子に乗るからね。あんたと結婚した事で安心して、浮気でもしたら徹底的に叩きのめすのよ。それがあいつのためよ。わかった?」

手で涙を拭き、笑いながら肯くレイ。その表情に満足したのかアスカはきびすを返し、階段を降りていった。

 

階段の上でアスカが何かレイに語り掛けると、レイが泣き出した。焦るシンジだったが、レイが笑っているのが見えるとそれが嬉し涙だと分かる。

『よかった・・・』

シンジはそう思う。アスカが来た時のレイの表情からすれば、やはりレイはかなり心配だったのだろう。これから妻になる女性一人安心させられない自分に、情けなさを感じるが、あの様子だと上手く行ったのは分かる。

その後、何事か話しかけた後、アスカは階段を降りてくる。

アスカが自分の前まで戻ってきた時

「アスカ、ありがとう」

シンジはそう言いながら、自然と右手を差し出していた。

「勘違いしないで。あんたのためじゃない。ファーストと、その未来のためよ。あんたの過去、消えた訳じゃないわ。」

アスカは差し出された右手に一瞥を加えると、ポケットからサングラスを取り出し、それを掛けてシンジに言い放つ。

呆然とするシンジを置き去りにして、アスカは扉を開けてアイドリング状態のままの車に乗り込む。シフトをニュートラルからローに叩き込み、回転数をあわせてクラッチを繋ぐ。

来た時と同じく、あわただしく去っていくアスカ。

それを見来るシンジの横には、いつのまに降りてきたのかレイの姿があった。

「おめでとうって言ってくれたわ。私に、ではなくて、私達に・・・」

『アスカ・・・』

 

来た時に通ってきたワインディングロード。

その道をアスカのエボZは駆け抜ける。

狭く、コーナーの多い道だったが、焦る様子は微塵も無い。

『あたしの人生みたいね』

浮かんできたそんな考えを頭を振って追い出す。

「さーて、ケジメもつけたし、次んとこ行ってみるか!」

アクセルを踏む右足に力が入った。

 

後編へ

 

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