ことによると、我々は本当に、自分のなかに一頭の龍を飼っているのかもしれません。底知れない力を秘めた、不可思議な姿の龍をね。それは眠っていたり、起きていたり、暴れていたり、病んでいたりす る。……ひとたびその龍が動きだしたなら、あとは振り落とされない ようにしがみついているのが精一杯で、乗りこなすことなど所詮不可 能なのかもしれない。 宮部みゆき 「龍は眠る」 |
扉が開く。
少年は、冷房の効いた列車の中から、まとわりつくような熱気の中に最初の一歩を踏みだした。そしてあたりを見回すように軽く首をふると、駅のホームのまばらな人影に小さくため息をつき、歩き始めた。
少年が降り立った第三新東京駅の外は、構内にくらべてさらに暑く、熱い。車の少ない路上に陽炎がたち、季節からすると少し早い蝉時雨が耳に心地よい。少年は、バスターミナルの街路樹の木陰に立つと、半袖の白いワイシャツの胸ポケットから、おりたたまれた紙切れを取り出した。いや、それはもともとは便せんであったのであろう。いまではくしゃくしゃに握りつぶされ、破られたあとをテープで補修してある紙切れとなってしまっているが。
そこにはただ一言こう書かれていた。
来い。
碇ゲンドウ。
少年は、その父からの手紙ともいえないような手紙に目をおとすと、少しだけ哀しげに眉を傾けた。そんな表情を見せるときの少年は、まるでガラス細工の人形のような繊細さをかもしだす。愁いを帯びた黒い瞳が切なげにしばたかれる。
憂悶を振りはらうように顔をあげた少年は、陽炎の中に一人の少女を見た。
美しい少女だった。
しかし、その美しさはどこか人形めいていた。
少年が飛び立った鳩の群れの羽音に我に返ったとき、そこには無人の道路がどこまでものびているだけであった。
なんだったんだろう? 何を「見た」んだろう? なんで紅い瞳をしていたんだろう?
少年は、そうやって見つめ続けていれば、もう一度その少女に会えるかのように道路を見続けていた。
「よぉう。君が、碇シンジ君かぁい?」
妙に明るくかんだかい声が少年を呼んだ。
少年が顔をむけるとそこには、なかなかにくたびれたかつては白かったのであろう古い軽トラックと、そこから身を乗り出している銀縁メガネをかけたやせた男がいた。そして、その軽トラックからおりてくる黒いプラスチックフレームの眼鏡をかけた青年。青年は、碇シンジと呼ばれた少年の前に立つと、穏やかに微笑んだ。彼のわずかに足を引きずるような歩き方が、なぜかシンジの印象に残った。
「こんにちは。碇シンジ君だね? 遅くなってすまなかったね。君を迎えに来たよ」
「はい。あの……、あなたは?」
「あぁ、ごめん。自分は、日向マコト。君に来てもらう研究所の研究員なんだけどね」
研究員というには、しっかりした身体の人だな。
シンジは、ふとそう思った。
この日向と名乗った青年は、中肉中背ではあるが、クリーム色のポロシャツからのびている腕や、えりからのぞいている胸元は、よく陽に焼け相当に使い込まれた筋肉におおわれている。黒く癖のない髪の毛を後ろにながし、頭髪の両脇と後ろは刈り上げている。眼鏡の奥の瞳は柔和な光をたたえており、閉じられた口は微笑みを浮かべているが、その口元は決して緩んではいない。
シンジは、彼を「見て」みたい誘惑にかられたが、結局はいつものようにその衝動を押し殺した。必要以上に他人と接触しない。それが彼が決めたルールだった。
「その、あぁ、ありがとうございます。その……」
「いやぁ、こいつが横着しやがってな。おかげで買い出しに手間がかかるかかる。で、君をこんだけ待たしちまったわけだ。すまなかったな。おれは千葉シゲル。シゲでいいよ」
もう一人の男も、軽トラックからおりてくると、シンジのそばに立つ。シンジは、彼が第一印象ほど老けてはいないことにあらためて気がついた。少なくとも、その日に焼けた肌や、贅肉のまったく見られないからだつきは、青年と呼ぶにふさわしいものがある。
「シゲさん、それはないですよ。シゲさんがあれだけ色々みんなから買い物を引き受けたりしなければ、もう少し買い出しも早く終わったんですから。ずいぶん待たせたかな? シンジ君」
「いえ、そんなことないです」
困ったもんだ、といった仕草で日向は軽口をたたき返す。そして、シンジを軽トラックの方にうながした。
「特別職国家公務員ともあろう者が責任転嫁かぁ。そういうのを税金泥棒っていうんだぜ」
「そういうシゲさんの給料だって、自分の払った税金のなかから支払われているじゃないですか。自家撞着って単語、知ってます?」
「あいにくと、おれの辞書にはその単語はないなぁ。ちなみにシンジ君、君はなんか買い物はあるかい? うちの研究所にも購買部はあるけどな、とにかく品ぞろえが悪いのなんの。買えるものはいまのうちに買っておいた方がいいぜ」
「そうなんですか?」
シンジは、唯一の手荷物の小ぶりなボストンバックを抱え込むようにすると、日向の方を見た。
「実は、そうなんだ。なにしろ山奥にあるものだから」
困ったように笑う日向の台詞をシゲが後を継ぐ。
「なにしろ、一番近くのバス停まで歩いて20分あるからなぁ。ちなみに、この第三新東京駅からは、バスで20分かかる」
「いまでこそ第三新東京市といってはいるけれども、もとはといえば千葉県木更津市だからね。まだ田舎も同然ということさ」
何てところに来ちゃったんだろう。でも……
「いえ、とくにないです」
「そんじゃ、いこうか。で、だ……」
二人を座席に一人を荷台に乗せた軽トラックは、黒い排煙をはきだすと走り出す。ハンドルを握っているシゲの楽しそうな口笛を耳にしながら、シンジは、窓からもう一度街の風景を見た。そこには先ほどの状景がうそのように多くの人と車が行き交い動いている、どこにでもある都市の風景が広がっていた。
「来たか」
目の前に、シンジに手紙を送ってきた男がいる。
逆光の中、左手を無造作にポケットにひかっけて立っている、ダークスーツを一分の隙もなく着こなしサングラスでその表情を隠している、中年の男。影に隠れた痩せた神経質そうなその顔には、なんの表情も浮かんではいないように見える。
「父さん……」
シンジは、それでも気圧されないように精一杯の気力をふるって、父の目を見つめ返した。だが、父の言葉は、唐突で冷たかった。
「ここの研究におまえの「力」を貸せ」
「!?」
「どうした、嫌なのか? ならば、帰れ」
驚きのあまりまばたきすら出来ないでいるシンジに、父の冷酷な声が叩きつけられる。
自分の「力」、超能力と呼ばれるもののことを父は他人に教えてしまったのか。
逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ。
この場から逃げ出したい、父親の思考を「見た」い、そんな衝動と戦いながら、シンジは、なんとか言葉をひねり出す。ここで逃げ出せば、その思考をのぞいてしまえば、本当に全てを失うことになる。
「そんな、急にそんなこといわれたって、出来るわけないよ。それに、僕はいらない子じゃなかったの?」
「必要だから呼んだまでだ」
「そんな、そんな、わかんないよ」
「なら説明を受けろ。……どうした、早く決めんか」
「碇」
数年ぶりの親子の対話にわりこむ声。シンジは、救いを求めるように声のした方向に視線を向けた。
そこには、相当に大きな執務用の机と、布張りのソファー、そして壁一杯に広がった本で埋めつくされた本棚があった。それに、痩身の老人と、金髪のあでやかな美女。二人とも白衣を着ている。ここの研究所の人間なのであろう。二人とも、あきれたような表情をうかべてこちらを見ている。
父、碇ゲンドウにむかって声をかけた老人が、困ったものだというように頭を左右にふりながら立ち上がる。老人は、ゆっくりとシンジに近づいてきた。
「おまえのその言い方では、納得するものもしなくなる。……少し話をさせてもらってもいいかな、碇シンジ君」
老人は、シンジにソファーに座ることすすめると、自分もそのむかいに腰を下ろす。彼は、少し考えるように枯れ木のような指でそのとがって長いあごをなでると、ゆっくりと話し始めた。
「碇シンジ君。最初に聞かせて欲しいのだが、君はこの研究所についてどのくらいのことを知っておるかね?」
「あの……、まったく、なにも……」
「………」
頭が痛い。そんな表情をすると老人は、非難がましい視線をゲンドウに向けると、数拍の間をあけてあらためて口を開いた。少し離れたところに立っている女性は、いっさいの表情を消したまま三人を見ている。目もとのほくろと、胸を抱くように組んだ腕と口の端がわずかに震えているのが、シンジにはなぜか目についた。
「では、最初から説明しなくてはいけないかな。
私は、冬月コウゾウ。この、国立基礎理論研究所の所長をしておる。研究所の活動内容は、まあ、この世のよろずすべてを科学的に説明すること、諸科学の統合、そんなところか。とりあえず研究可能なものはなんでも研究する、それがここのモットーなのだよ。口さがない者は、ここの研究所の英語の頭文字をもじって、特務機関NERVなどと呼ぶがね。
ああ、すまない。話がそれたな。
さて、そういった組織である以上、当然のことながら科学的に説明のつかない現象すべてに興味がある。つまりは、君の能力にも関心があるのだよ」
シンジのひざの上にある手が、力いっぱい握りしめられる。
「超能力などという単語は陳腐であるし、だいいち私は好かん。何人もの人間が持っていることが確認されている以上、希少な能力ではあっても、それ以上の能力ではないと思っておる。
ただし、その能力について我々はあまりにも無知だ。先天的なものか、後天的なものなのか。固定化したものなのか、それとも汎用が効くものなのか。運動能力のように男女の性差が存在するのか、頭脳能力のように純粋な個体差しかないのか。だいいちその原理はいかなるものなのか。まったく、なにもわかっていない。
これが何を意味するかわかるかね?」
「……いえ、わかりません」
シンジにも解ってはいるのだ。それによって多くのものを失ってきたのだから。だから今の彼には、それを口にする勇気はなかった。
顔を伏せたままわずかに肩の震わせているシンジに、いくばくかの居心地の悪さを感じながら、冬月は言葉を続けた。
「人は理解できないものを恐れる。そのために対象を、敬うか、憎むか、無視するかする。まあ、この世の差別的感情の多くは、相手を理解できないことが原因となっている場合がほとんどである、というわけだ。
そして、それは、人として絶対に許してはならない恥ずべき行動であることは、解ってくれると思う。そうした、能力や人間性以外の要素で他者を蔑む意識というものは、あらゆる努力をはらって弱められねばならない。そうでなければ我々は、やっと身につけつつある礼節を、つまりは尊敬に値する人間的態度を失うことになろう。
我々は、現にそこにある存在をただあるがままに受け入れるべきだと、私は考えておる。たとえそれが、どれほど我々のこれまでの常識とかけ離れたものであっても、だ。そのためには、理解しようとする努力を続けねばならん。
私が言いたいことが、わかるかな?」
「……はい」
「まあ、理想を語るとそうなるわけだが、我々の活動は、まさにその理想によって立っているのでな。現実的な利益にももちろん興味はあるが、それ以上に科学者としての好奇心と、人としての、そうだな、良識のために、研究を行っている。
だが、我々にはあまりにも研究を行うためのチャンスが少ない。実験に協力してくれる被験者が、いないからだ。だから、君の協力を得たいのだよ。わかってもらえたかな?
もし、なにか聞きたいことがあれば聞いて欲しい。答えられる限りのことは答えよう」
室内に満たされた沈黙は、澄んだ水のように冷たかった。
沈黙に最初に耐えられなくなったのは、冬月の予想通りやはりシンジであった。
「……そう、ですよね。用もないのに、父さんが、ぼくなんかを呼び出したりは、しませんよね」
シンジは顔をあげると、冬月の目を正面から見た。
だがそのいまにも泣き出しそうなそうな表情に、冬月は、さらに罪悪感をかき立てられた。そんな表情をしているということは、目の前にいるこの少年は、父親の碇ゲンドウの言葉通りならば冬月の頭の中を「見る」ことが出来るにもかかわらず、それをしなかったのであろう。彼が冬月の意識を読んだならば、少なくともそんな表情だけはしてはいないはずだから。
冬月は、これ以上なにかを話すより、少年が自分で考えた上で結論を出すべきであると考えた。
たとえその結論がここから去るというものであっても、今はそれはそれでしかたがない。時間はかかるかもしれないが、下手に相手を利用しようとするよりは、誠実に協力を求める方がよりうまくいく場合が多いことを、彼はその長い人生経験で理解していた。
「あの……」
「ん?」
「具体的には、僕は何をすればいいのでしょうか?」
「うむ。当座は、君の能力は何が出来るのかを調べることになるな。しかるのちに、その能力がいかなる原理にもとづいているのか、訓練いかんによって習得可能なものなのか、それが科学的に再現可能なものなのか、研究することになると思う」
「モルモット、なんですか?」
「違うわ!」
突然激しい声を横から浴びせかけられて、心身ともに限界まで緊張していたシンジは、はたで見ていて哀れをもよおすほどにびくっとした。
彼がおそるおそる声をした方に顔をむけると、先ほどから一言も声を発していなかった女性が、これまでと同様に無表情なままで立っている。しかし、その深い漆黒の瞳は、彼女の持っている知性と理性を主張するかのように燦然と輝いている。
「失礼」
彼女は、わずかに片方の眉毛をゆがめてみせただけで、もう一度口を開いた。
「そうやって自分をおとしめるのはおやめなさい。私たちはあなたに対して対等な立場で協力を求めているわ。そのつもりで考え、判断を下して」
「……赤木君」
冬月は、困ったように彼女をたしなめた。これ以上シンジを委縮させてパニックでもおこされたならは、目も当てられないことになる。だが彼女は、冬月にむかって軽く会釈しただけで、更に言葉を続けた。
「これはあなたの考え方の問題。自分の力を隠して一般人として生きていくのか、その力を自分の信じるなにかのために役立てるか。それだけのことよ」
「……でも、「力」なんて持っていないかもしれないんですよ」
「法の許す範囲内での調査可能な事柄は、すべて調べたわ。人の過去は隠すことも、改ざんすることもできはしません。その上であなたにこうして来てもらったのよ。もしも我々の間違いであったならば、その時はその時ね。我々のミスだもの、あなたに迷惑をかけるようなことはしません」
「……なぜ、僕なんです」
「縁があったから。世の中なんてそういうもの、としか答えようがないわね」
二人のやり取りを聞きながら、冬月は、内心冷や汗をかきっぱなしであった。
彼女の言葉は、確信に満ちているようで、実はかなり危うい論理でなりたっている。それにシンジが気がついたとき、彼がどのような反応を示すか、冬月には見当もつかなかった。
だが、そんな冬月の内心とは裏腹に、彼女は表情ひとつ変えず言葉を続けている。
「それに、私の言葉が信じられないと言うならば、私の思考を見てもかまいません。私たちが、どれほどあなたのことを必要としているか、理解してもらうには、それが一番確実でしょう」
「いいんですか?」
「かまいません」
それはいかん。
危うく冬月は、我を忘れて叫ぶところであった。部外に漏れては困る秘密を、彼女はそれこそ両手一杯抱えているのだ。
だがシンジは、むしろ今の赤木と呼ばれた女性の一言で、なにかを納得したような表情になっていた。これまでの緊張がうそのように、落ち着いている。
シンジは、彼女の顔を見、ゲンドウの顔を見、あらためて冬月に向き直ると、うってかわったような穏やかな声で話し始めた。
「わかりました。僕でよければ、僕が何か誰かのために役に立てるのなら、出来る限りの協力をさせてください。よろしくお願いします」
「うむ。では赤木君、碇君を部屋に案内して、事務手続きを済ませてもらえるかね。彼も今日は疲れているだろう。具体的な打ち合わせは明日でよかろう」
「わかりました。では、碇君こっちへ」
「はい」
二人が部屋を出て行くのを視線だけで追いかけながら、冬月は大きくため息をついた。
これまでのやり取りをみじろぎもせず見守っていたゲンドウが、口を開く。
「問題ない。予定通りだ」
「さすがにひやひやさせられたぞ。テレパスを相手に交渉なぞやるものではないな。いくらなんでも神経がもたん」
「どんな能力を持っていても、使う意志がなければ存在しないのと同じことだ。要は、現実を本人が見たいような形に変えて見せてやるだけのことだ」
「……だが、本当にこれでいいんだな」
冬月は、ソファーに座り込んだまま、おっくうそうに言葉を続けた。最後に、なにかを求めるようにゲンドウの顔を見たシンジの表情が、意識に残っていた。このまま言葉をやり取りすることすら、うっとうしくなりつつある。
「こぼれた水は元には戻らない。そのためのNERVだ」
「その呼び方はやめろ」
「ああ。……では、冬月先生、後を頼みます」
「うむ、「委員会」の方は任せたぞ」
「ああ」
「……碇」
さっさと部屋から出ていこうとするゲンドウに、あらためて冬月は声をかける。
「「Evangelion」か。あえてそんなものに頼らなければならんとはな。
……我々は、間違ってはいないな」
答はなかった。
シンジが最初に連れていかれたのは、所長室のある建物の一階のラウンジであった。
赤木と呼ばれた女性は、ラウンジのテーブルに座るまで、文字通り一言も口をきかなかった。途中シンジは、何度も彼女の思考を「見て」みたい衝動がうまれたが、あえてそれを押さえ込み続けた。
そんな彼の心中を知ってか知らずか、彼女は、注文を取りに来たウェイトレスにアイスコーヒーを二つ注文し、それから後にやっとシンジにむかって口を開いた。
「そういえば、自己紹介がまだったわね。
私は赤木リツコ。ここの研究所で第五世代型生体コンピューターの研究をしています。といっても、現在では開店休業状態にあるわ。それで、あなた達「能力者」の研究を担当することになったわ。長いつきあいになるとは思うけれど、よろしく。碇シンジ君」
「あ、はい。あの、赤木さん……」
「リツコでかまわないわ」
初めての彼女の柔らかな表情に、シンジはやっと肩の緊張が取れたような気がした。
「あ、それじゃ、その、僕もシンジでいいです。
それで、いま、あなた達って言いましたよね? さっき、所長さんが何人も確認されたって。僕のほかにも、誰か「力」を使える人がいるんですか?」
次にリツコの顔にうかんだ笑みのような表情は、シンジをもう一度緊張させるのに十分ななにかがあった。
「ええ。いま我々が確認している「力」の所有者は、シンジ君、あなたで三人目よ。一人は、いまドイツにいるけれど、もう一人はこの研究所にいるわ。あとで紹介するけれど、かまわないわね?」
「はい」
シンジの声がわずかに震えているのは、緊張のためばかりではなかった。だがリツコは、そんなシンジにあえて気がつかないふりをして、言葉を続けた。
「あなたには、この研究所内に個室を用意してあります。必要なものは、ここの購買部で購入できるはずよ。食事は、ここの職員用食堂で食べられるわ。もし料理をしたいならば、個室にキッチンがあるから簡単なものなら作ることが出来ます。あと、ここのそばの市立中学校に転入手続きを取ります。ほかに、何か質問は?」
「いえ、特にありません」
「そう、では、もしよければ私からあなたに質問があるわ。かまわないかしら?」
「はい」
リツコの面に浮かんだいたずらっ子のような表情は、彼女をまるで学生のような子供っぽい雰囲気にさせる。シンジは、彼女の瞳が深い緑色に輝いて見えることに気がついた。
「シンジ君は、これまで女の子とつきあったことがある?」
答えは、シンジの髪の毛の先まで真っ赤になってうつむいている姿が、雄弁に物語っていた。
「それじゃ、当然女の子に告白したことも、告白されたことも、一緒に遊んだり、恋人同士でするような色々なこともしたことはないのね」
「い、いいじゃないですか!」
思わず真っ赤になって叫ぶシンジ。自分がラウンジのすべての人間の注目を集めてしまったことに気がつくと、さらに湯気が立ちそうな程に真っ赤になって、縮こまってしまった。
「別にあなたをからかっているわけではないわ。恋愛感情が「力」にどんな影響を与えるかも、研究課題の中にあるの。それも、かなり上位に」
嘘は言っていない。しかし、それだけではないことは、彼女の瞳の輝いている色で明らかであった。
リツコは、机の上の伝票を取ると、立ち上がった。
「それじゃ、もう一人を紹介するわ」
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