「知らない、天井だ」
シンジは、部屋の明かりもつけないまま、ベットに横になって天井をながめていた。
SDATは、イヤホンへテープ上の磁気データを空気の振動へと変換する作業をくり返し続けている。だがそれがシンジの意識まで届くことはなかった。
清潔でなにもない部屋は、そうであるがゆえに冷たく、彼の上にのしかかってくるような威圧感があった。その威圧感から逃れるように、シンジは寝返りをうち目をそらした。シーツの上の月光で出来た淡い影が目に入る。
視界一杯に拡がる影の中に、紅い瞳の少女の姿が浮かんでくる。
綾波レイ。
シンジと同じ「力」の持ち主であり、最初にこの研究所に確認された超能力者。そして、この街に来たシンジが最初に「見た」少女。
「綾波、レイ」
もう一度、今度は口に出して発音してみる。
シンジは、昼間リツコにレイを紹介されたときのことを思い出していた。
シンジがレイを紹介されたのは、むき出しのコンクリートと蛍光灯の冷たい光が印象的な研究室であった。レイはそこで、全身に包帯を巻いた制服姿でよこたわっていた。
だがリツコは、そんなレイの様子にわずかも気をとめた様子もなく彼女をシンジに紹介した。
「シンジ君、彼女があのセカンドインパクト以降最初に確認された能力者、綾波レイよ。レイ、彼がもう一人の能力者碇シンジ君」
だがレイは、眼帯で覆われていない片方の瞳でシンジを見ただけであった。シンジは、初めて彼女の瞳が紅いことに気がついた。それは、駅から降り立ったときに最初に「見た」瞳であった。
「はじめまして、碇シンジ、です」
答えはなかった。
「あの、綾波さんは……」
「あなたを知ってる」
「え?」
「そう、あなただったの」
「……もしかして、昼間、僕を「見た」?」
「ええ」
「僕も、君のことが「見え」たんだ。じゃあ、綾波さんは、幽体離脱とかが出来るの?」
「出来ないわ。私はただあなたを「見た」だけ」
「え?」
それだけ話すと、レイはおっくうそうに体を起こし、立ち上がろうとした。そして、わずかによろめき、倒れそうになる。
シンジは、おもわずレイを支えようと手をのばした。だがレイは、何を思ったかそのままシンジに倒れかかり、二人はそのまま床にもつれ合って倒れ込んだ。シンジは、自分の腕の中にいる温かく柔らかい少女の感触に、意識がフレームアウトを起こしている。リツコは、あぜんとしたまま成り行きを見ているしかなかった。
「あいたたた、……あ、あ、その、あ、大丈夫?」
「別に」
レイは何ごともなかったかのように無造作に立ち上がり、リツコにむかって一言二言話しかけると部屋を出て行った。その動きは、まるで全身に巻かれた包帯が嘘のようにしっかりとしている。そんなレイに、リツコはあきれたようなため息をつく。
「シンジ君、大丈夫?」
「あ、あの、僕、なんか彼女を怒らせるようなこと、言ったんでしょうか?」
床の上でシンジは、呆然としたままリツコを見上げた。
「怒らせるようなこと? ああ、気にしないで。レイはいつもああなの。誰に対しても最小限の口しかきかないし、何か行動を起こしても、いっさいそれについて説明しようとしないわ」
「でも、彼女は僕を「見た」ことを話しましたよ?」
リツコはこれまでレイが寝ていたべットにこしかけると、シンジにむかって話し始めた。
「多分それは、あなたがレイを見たことを話したから。彼女は、だれかに話しかけられる限りにおいては、きちんとそれに受け答えをするわ。でも、自分から他人に接触しようとはしない。それが何故なのかは、私にはわからない。それが、彼女の持っている力のせいなのか、それとも過去の経験によるものなのか……」
リツコは、無表情なままそこで言葉を切った。
シンジは、久しぶりに、それこそ何年かぶりに「力」を使った。部屋を出て行ったレイを「見た」のだ。そしてレイの姿をとらえると、そっと「話し」かけようとした。
レイは、自分の精神にそっと触れてきたシンジの意識に気がつき、自分の意識を閉ざした。そのきっぱりとした拒絶にシンジは、まるで目前で部屋の扉をぴしゃりと閉じられたかのようにあわてて意識を引っ込めざるをえなかった。
「……だめでした」
「え?」
「綾波さんは、僕と話したくないみたいです」
「テレパシー!?」
「え、ああ、はい。でも、きっぱりと拒まれちゃって、やっぱり、僕は彼女を怒らせちゃったみたいです」
あぜんとしているリツコ。
「いつのまに? 全然気がつかなかったわ」
「いえ、あの、ただ「見る」だけですから」
「その見るという作業を、そうも無造作にやってのけたということに驚いているのよ。そう。あしたからの実験が楽しみだわ」
そのあとシンジは、男子独身寮内の自分の部屋を教えられ、研究所内をリツコに案内され、何人かの研究員に紹介されてその日一日を終わらせた。
研究所の購買部は、確かに千葉の言った通り、品ぞろえも悪く値段も高く、あまり利用する気にはなれないしろものであった。
さらに食堂も、狭くいつも混雑していて、味も最低であった。シンジは明日、なんとしてでも街に出かけ、最低限の調理道具をそろえることを決意した。少なくとも食堂で食べるよりは、安くておいしいものを確保できる自信があった。あのセカンドインパクトの直後、この国の食事は今からでは想像もできないほど劣悪なものであったが、ここの食堂の料理は、まさしくその当時の雰囲気そのままを味わうことができた。
セカンドインパクト。
一九九二年六月六日午前三時十七分、旧木更津市直下を震源地として発生した、このマグニチュード九.二の超巨大地震は、その空前絶後の規模と発生時間帯のために、東京湾岸全域をほぼ完全に壊滅させるにいたった。
震災の結果、政府の無能と無策による相乗効果もあって、日本はほぼ一〇万人以上といわれる死者と一〇〇〇万人以上といわれる罹災者を出し、バブル経済の崩壊による不況との相互作用によって昭和金融恐慌以来という不況に襲われることとなった。そして、全世界から日本の金融資産が引き上げられる事態となって、東京株式市場を起点として始まった金融恐慌は全世界をおおい、世界経済は一九二六年以来の世界恐慌に突入することになった。
人々は、ウォール街から始まった世界恐慌をファーストインパクト呼び、この兜町から始まった二度目の世界恐慌をセカンドインパクト呼んだ。
シンジは、その時まだ七歳でしかなく、その時の重苦しく気の狂ったような時代をきちんとは覚えてはいなかった。それは幼い子供にとっては、あまりにも悲惨な体験であったのだ。
シンジは、思考を過去から引きはがすようにして現在へ移した。
彼女は、今どうしてるんだろう?
シンジはもう一度、レイのことを思い浮かべた。
華奢で、いまにも折れそうな細い身体。透けるように白い肌と、光の加減では冴え々々と蒼く輝いてみせるプラチナブロンドの髪。そして、いっさいの感情を表そうとしない紅の瞳。
シンジは、ふと窓の外に目をむけた。初夏の夜空には珍しいほどの澄んだ光を放つ月が、そこには浮かんでいた。
月。蒼い月。まるで綾波みたいだ。
シンジは、その満月には三分の一ほども欠ける月にむかって呼びかけた。
綾波。綾波。
なにかを期待して呼びかけたわけではなかった。だからシンジは、自分の意識に誰かが触れるのを感じたとき、おもわず自分の意識をはじけさせてしまった。彼は相手が自分の意識圧によって跳ね飛ばされてしまったのに気がつくと、あわてて自分の意識を相手の意識によりそわせた。
たとえるならば、ぼんやりしているところに突然肩に手をおかれ、驚いて相手を突き飛ばしてしまいあわてて相手に駆け寄った、というところか。
ごめん、ぼんやりしていたものだから。大丈夫? 綾波さんだよね?
答はない。
シンジは、自分の意識のそばにまだ相手の意識がよりそっているのを確認すると、もう一度呼びかけてみる。そして、相手がこちらの呼びかけに反応してはいることを確認すると、今度は、相手の意識の中に自分の意識をすべりこませてみた。
やはりその意識は、レイのものであった。
だがその意識は、あくまでか細く弱々しいものであった。
シンジは、あくまで優しくレイの意識を探ってみる。レイは、おとなしくなすがままにされていた。やがてシンジは、レイの意識のある一点にレイの言葉を探り当てた。
お願い、もう少し間をとって。
シンジは、レイの言葉を知覚したと同時に彼女が「見え」た。レイは、わずかにほほを染めて、なにかに耐えるように震えていた。
ごめん! いたかった?
……違うの……。
ごめんね……。あのさ、僕……
まって、直接会って話をしたいの。いまからそっちへ行くから。
レイは、シンジの言葉もまたずそのまま会話をうちきった。シンジは、部屋の中で呆然と窓の外を見つめ続けていた。
レイがシンジの部屋に現れたのは、それから十分ほど後のことであった。
レイは、シンジの部屋のある独身寮の壁面を、物音も立てずに雨どいとベランダをつたって登ってきた。シンジは、レイが突然ベランダから窓ガラスをたたいたとき、驚きのあまりベットから転げ落ちてしまった。まさか五階の自分の部屋に、外から現れるとは思っていなかったのだ。
「あ……」
「出て」
レイは、無理やりシンジをベランダに引きずり出す。
「あ、綾波さん、なんで……?」
「大きな声を出さないで」
無造作にシンジをベランダのすみに座らせると、レイはそっとシンジの耳もとにささやいた。シンジは、体温を感じられるほどの近くにいるレイの昼間とはまったく違う真っ黒の服装に、訳もなく心臓の鼓動が早くなるのを覚えた。いまのレイは、さながら夜行性の肉食獣のような凶暴で危険な匂いがする。
「え、なんで?」
初夏とはいえ、まだ風は冷たい。
「誰かに気づかれるかもしれないから」
多分ないだろう盗聴器の心配をしているとは、言えない。
「なら……」
もう一度意識をレイの意識によりそわせようとする。
「テレパシーはやめて。辛いから」
シンジのの圧倒的な意識圧と、そのくせ切ないほどの優しいふれかたを思い出して、少しだけ鼓動が早くなった。
「うん」
心なしか、レイのほほが上気して見える。
わずかに沈黙が二人の間にただよう。最初に耐えられなくなったのは、シンジの方であった。
「あのさ、けが、大丈夫なの?」
あの痛々しい姿が、いまだに目に焼きついてはなれない。
「もう、大体治っているから」
少なくとも、自分で自分の肉体をコントロール出来るほどには。
レイは、シンジの瞳を正面からのぞき込んだ。月影のせいか、彼女の瞳はまるで血の色のように見える。
「あなたは、どうしてここに?」
シンジの黒い瞳が、月の光を反射して黒曜石のように光って見える。
「え、僕? どうしてって、父さんがここに来いって言ったんだ。ここの研究所の人たちに協力しろって。だから……」
自分がいらない存在ではないことを確かめるため。
「父さん? 碇ゲンドウ?」
何か、ノイズのようなものが心の中を走る。
「うん。父さんのこと、知ってるの?」
父は、一体何をしようとしているのだろう?
「……」
答えようがない。
レイがわずかに緊張するのが、シンジにも感じとれる。シンジは、質問の内容を変えてみた。
「あ、綾波さんは、どうして?」
彼女も父に呼ばれたのだろうか。
「……命令されたから」
答えるつもりのないはず言葉が口からこぼれる。
「命令? 誰に?」
やはり。
「……ごめんなさい、言えないの」
何故だろうか、いつもの通りの沈黙をたもつことが出来ない。
「……うん」
二人の間に気まずい沈黙が流れる。だがレイはそれを無視して言葉を続けた。
「碇君は、研究所の人たちの心を「読ん」だ?」
「!! そ、そんなことしないよ、するわけないじゃないか!」
「声をたてないで」
「あ、ごめん。でも、なんで?」
「……なぜ、皆が超能力を必要としているかわからないから」
「うん、でも、特に悪いことに使われなければ、いいんじゃないかな」
「そう」
会話の終わりはとうとつであった。レイは、すっと立ち上がると、シンジを見下ろして一言、
「さよなら」
そう言い残して、ベランダから夜の闇の中に消えた。あわててシンジが手すりに近寄ろうとしたその瞬間、いつのまに結びつけてあったのであろう、細いザイルがほどけ宙に舞った。そのザイルにしたたかに顔面を張り飛ばされたシンジは、それでも手すりから身を乗り出して下をのぞく。
地上では、レイが何ごともなかったかのようにザイルを手繰り寄せ、去ろうとしていた。
シンジはただその姿を見ていることしか出来なかった。
シンジはずっとレイの姿を見続けていた。
あいかわらずレイは、全身を包帯でぐるぐる巻きにしていた。
朝、自室へのリツコからのモーニングコールでその日のスケジュールを伝えられたシンジは、レイとともに転校先の中学校に行くことになった。レイは、相変わらず自分から一言も口をきこうとはせず、さすがにシンジも、朝から色々話しかけるわけにもいかず、ただ彼女を眺め続けているしかなかったのである。
「よろこべぇ、女子ぃ! とうとつだが転校生を紹介する!」
担任の女教師のはしゃいだ声が教室中にひびきわたる。
教室中の生徒の視線を一心にあびて、シンジはどうしようもなく落ち着かなかった。もともとの性格のせいか、それとも持っている「力」のせいか、シンジは他人の注目が大変に苦手であった。出来ることならば、今すぐにでもこの場から逃げ出したいくらいに。
そんな居心地の悪さから逃れたいばかりに、シンジはずっとレイのことを見続けていた。
「それじゃ、シンジ君、自己紹介をして」
担任に突き飛ばされるようにして、シンジは教壇に立たされた。
「あ、あの、碇シンジです。よろしくお願いします……」
「……なんか、こう、もうちょっち華のある自己紹介は出来ないかねぇ」
後でシンジの消え入りそうな声を聞いていた彼女は、不満そうに鼻を鳴らす。そして、さもいま思いついたかのような顔をして、生徒らに呼びかける。
「そんじゃみんな、シンちゃんに聞きたいことがあったら、どんどん質問なさいっ」
げっ、という表情をして、おもわずシンジは担任のほうを振り返る。だが、そんな彼の反応は、むしろ彼女のしてやったりという満足そうな表情を引き出したにすぎなかった。
「転校する前はどこにいたの?」
「なんかクラブには入ってた?」
「趣味はなに?」
「つきあってる彼女はいるの?」
「下着の色はなに?」
「彼氏はいた?」
担任のお墨付きを得た生徒らは、それこそ容赦のない質問を怒濤のごとくシンジに浴びせかける。
結局シンジが自分の席に着くことが出来たのは、次の授業の教師が教室に到着してからであった。
「やあ、お疲れさん」
昼休み、心身ともに限界まで疲労したシンジが机に突っ伏していると、目の前に缶コーヒーがぶるさげられた。
シンジがその手のむこうに視線をうつすと、そこには銀縁のメガネをかけたそばかす顔の少年がいた。逆光のせいでその表情は見えないが、すくなくとも害意がないのはわかった。
少年は、シンジが彼の差し出した缶コーヒーを飲むのを見ながら、しゃべりだした。
「おれは相田ケンスケ。よろしくな」
そして、シンジのとなりの席にこしかける。
「それにしても、さっきは驚いたろ。あれってミサト先生のいつもの手なんだ」
「葛城先生の?」
シンジには、あの漆黒の長髪をなびかせて大股で校内をかっ歩し、美人とよんでしかるべき容貌とスーパーモデル並みの肢体をあられもない服装でおしげもなくさらして平然としている彼女、葛城ミサトが、なにかを考えてあの言動をしているとはとうてい思えなかった。
「ああやって、最初にみんなにおもちゃにされちゃえば、あとはクラスに入り込むのはそんなにむつかしくはないだろ。このクラスって、けっこうあっちこっちからの転校生が多いからさ。おかげで、これでも学年の中じゃ一番の団結力をほこってはいるんだぜ」
「そうなんだ」
缶コーヒーを飲み終えたシンジは、体を起こすとケンスケに向き直った。
「コーヒー、ありがとう。おかげで楽になった」
自然と微笑みが浮かんでくる。
「そっか、じゃ、ひとつだけ頼みがあるんだけどさ。いいかな」
「うん?」
一瞬、妖しくケンスケの眼鏡がきらめく。シンジは、おもわず笑みがこわばった。
「写真を撮りたいんだ」
「?」
何を言われているのか一瞬理解できずに、きょとんとするシンジ。そして一呼吸おいて、まわりの女子の言葉にわれにかえる。少なくとも、ホモだの変態だの、健全な青少年としては聞きたくもない単語ばかりが聞こえたのだ。おもわず腰が引けてしまい、そのまま椅子から滑り落ちる。まわりから一呼吸おいていっせいに忍び笑いが起きる。
「大丈夫か、碇?」
「だ、大丈夫だけど……」
「女子の言うことなんか気にするなよ。おれだって男の写真を撮ってよろこぶ趣味はないさ」
「でも、なんで? それに誰の?」
「そりゃ、綾波の写真をとるためさ。それで碇の協力が必要なんだ」
「?」
ケンスケは、訳がわからないでいるシンジをあらためて見る。
なで肩のほっそりとした少しぼんやりとした表情と容貌の、とくにどこが秀でているというわけでもないように見えるこの少年は、ケンスケの独自の情報網によれば、あの綾波レイとともにあの国立基礎理論研究所に住んでいるらしい。
この学校でも一二を争うと評判の美少女綾波レイを何度もケンスケはカメラに収めようとしたが、そのたびごとに彼女はタイミングをずらし、間を外し、彼の野望をくじいてきたのだ。今では、このアルビノの少女を写すことは、彼の悲願にすらなっていた。
そこへこの碇シンジの転校である。
ケンスケは、シンジに手引きをさせて研究所に潜入し、レイが油断しているであろうプライベートの時間に彼女をねらうことに決めたのだ。
このもくろみがうまくいけば、ケンスケの見立てによるならば、少なくともニコンのF5とレンズを二本は彼にもたらしてくれるはずであった。あるいはDELLのハイエンドノートパソコンか、オリンパスの一四〇万画素のデジタルカメラか。
薔薇色の未来にうち震えているケンスケを現実に引き戻したのは、学級委員の少女の怒声であった。
「あ、い、だ、君! あなたなにまたバカやってるの!」
「! い、委員長! いやなにたいしたことじゃないよ。それじゃ、また後でな、碇」
「ちょっと、まちなさいよ、相田君!」
だが、すでにケンスケは教室にはいなかった。
「まったくもう。だめよ、あいつにつきあったら、なにされるかわからないんだから」
少し茶色みがかった髪の毛をうしろで二つにまとめている少女は、あらためてシンジに向き直る。少し細めで少しだけそばかすが散っている彼女は、しごくまっとうに可愛らしい。シンジは立ち上がり席に座り直すと、微笑んで礼を述べた。
「ありがとう。あの……」
「あ、そう、まだ自己紹介をしてなかったわ。あたしは洞木ヒカリ、よろしくね」
「うん。それで……」
「相田のやつったら、なにかといったらすぐ人の写真を撮りたがるんだから。だめよあいつの口車に乗っちゃ」
憤まんやるかたない、といった表情で話すヒカリ。シンジは、そういうものなのか、といった表情でヒカリのことを見続けている。
「あとで校内を案内するわ。なにかあったら言ってね。それじゃ」
「うん。ありがとう」
いい人たちばかりでよかったな。シンジは心が和むのが自分でもわかった。
「おまえが今度来た転校生か」
痛むほほを押さえながら、シンジは自分を囲んでいる三人を見上げた。逆光でよくは見えないが、その口元がいやらしく跳ね上がっているのがわかる。シンジは、自分の心が一気に冷えていくのが実感できた。
放課後、ヒカリに学校を案内してもらっている途中のことである。シンジが用を足しに体育館のトイレに入ったとき、運の悪いことにそこではちょうど三人の少年がタバコをふかしていた。おどおどとしているようにしか見えないシンジに、三人はちょうど機嫌が悪いところでもあったのだろう、そのまま彼を体育館の裏手まで引きずっていったのである。
「へっ、女みたいなつらぁしやがってよ。なんとかいったらどうだよ。おら」
シンジのわき腹にけりが入る。
おもわず身体をくの字に曲げてうめくシンジ。目尻に涙が浮かぶ。
「うんとも、すんともいわねえな、こいつ」
一人がシンジのえりもとをつかんで引きずり起こす。
シンジは、ひたすら自分に言い聞かせ続けていた。
だめだ、「力」を使っちゃだめだ。今度こそ、本当に彼らに大ケガをさせてしまう。だからだめだ。あの罪悪感にくらべれば、いまここで少しくらい痛い思いをするくらいなんともないじゃないか。だから、だめだ。
「ちっ、なんとかいいやがれ、このやろう」
シンジのえりもとをつかんでいる少年が、拳をふりあげる。シンジは、おもわず目をつぶってしまった。
「あほ。おのれら、なにしとんのや」
シンジの覚悟していた拳は、いつまでたってもふってこなかった。
シンジがおそるおそる目をあけてみると、ふりあげられている拳をつかんで止めている精悍な印象の少年がいる。その黒いジャージを着ている少年に、シンジは見覚えがあった。
「一人を三人がかりかい。胸くそ悪いやっちゃ」
「す、鈴原トウジ!」
少年らの一人が叫ぶ。
鈴原と呼ばれた少年は、シンジのえりもとをつかんでいた少年を突き飛ばすと、軽く腰を落とし低く通る声で言い放った。
「なんなら、わいがまとめておのれら三人相手してやってもええんやで。ほな、覚悟きめろや!」
「ちっ、おぼえてやがれ!」
三人は、黒いジャージの少年が気合いを入れたその瞬間、獅子吼をあびたハイエナのごとく走り去った。そんな三人を、トウジはあきれたように見送った。
「今どき、あんな捨てぜりふを言うかい。あほはやっぱりあほや」
「碇君! 鈴原!」
そばで隠れて見ていたのであろう、ヒカリが二人のもとに走りよってくる。
「おう、大丈夫や。かすり傷やろ。たいしたことあらへん」
「鈴原じゃないんだから、どこかケガしてるかもしれないでしょ!」
「あ、うん、大丈夫だよ。どこもけがなんてしてないから」
シンジは、服のほこりを払って顔をあげた。
「ありがとう」
「転校生、おのれはそれでも男か」
「?」
シンジは、なぜトウジがむつかしい顔をして腕を組んでるのかが、わからなかった。
「あんな連中は見てくれだけや。男なら一発ぱちきかましたらんかい!」
「鈴原!」
見かねてヒカリが仲裁に入る。だがシンジは、表情だけで彼女に礼を言うと、トウジに向き直った。
「うん、でもあれくらいならいつものことだし」
「だから殴られっぱなしっちゅうんか! おんどれ、それでもまたんきついとるんかい!」
「うん。だから、僕は、けんかは出来ないんだ」
シンジの言葉の微妙な口調と表情に、トウジは何かわけがあることに気がついたのだろう。それ以上の追求はしなかった。シンジは、そんな彼の気遣いに心から感謝した。
「そうかい。転校生、わいは鈴原トウジや。トウジでええで。ほな、いこか」
「いくって、鈴原、どこに?」
さっさと歩き出したトウジに、ヒカリが質問する。彼の答は、はなはだ色気に欠けるものではあった。
「でかい声出したら、はらぁへった。そういうわけや転校生」
「うん」
トウジの、なんか喰わせろそれで貸し借りなしだ、という申し出に、シンジはうれしそうにうなずいた。ヒカリは、そんな二人のやり取りがなんだかさっぱりわからず、きょとんとしている。シンジは、ヒカリに説明をしようとして、結局はあきらめた。説明してもわかってもらえるとは思えなかったのだ。そのかわり彼が口にしたのは、まったく別の言葉であった。
「洞木さん、どこか食べ物屋、教えてもらえない?」
「そうかい。そいつぁえらい難儀やなぁ」
トウジがもぐもぐと口を動かしながら答える。
「鈴原、口にものをいれたまましゃべるのは汚いわよ」
となりに座ってるヒカリが、そんなトウジに注意をするが、手は鉄板の上のお好み焼きをひっくり返すのに一生懸命である。
三人は学校のそばのお好み焼き屋に来ていた。どうやらヒカリは、トウジの好物がなんであるのかをわきまえた上でこの店を選択したらしい。事実トウジは、さきほどの不機嫌そうな顔が嘘のように、幸せそうにお好み焼きをほおばっている。
「うん、でもこっちに来てよかったと思ってる。みんないい人たちばかりだし」
シンジも、手もとの五目お好み焼きをつつきながら話し続けた。こんなふうに友人と話をするのは何年ぶりだろう。そんな感慨がうかぶ。
「それにしても、三年も息子をほっておくとはなあ。えらい親父さんやな」
「でも、これからは一緒に暮らせるんでしょ。よかったじゃない」
「うん」
そうではないとは、さすがにこの場の雰囲気では言えなかった。曖昧にうなずいたまま、シンジは焼き上がったばかりのチーズお好み焼きに手をのばす。が、それは、シンジのはしのつく直前にかっさらわれた。
得てしたりとした表情で、トウジが言い放つ。
「悪いな、転校生ぇ。これはわいのもんや」
「鈴原!」
さすがにヒカリが、トウジの耳をつかんで引っ張りあげる。
そんな二人の様子にシンジは、腹を抱えて笑い出した。さすがに恥ずかしくなったのか、二人も照れくさそうな表情をして離れる。
「相変わらず尻に引かれてるな、トウジ」
そんな三人に声をかける少年がいる。三人は、いっせいに声のしたほうに顔をむけた。
「よう、おれもいいかい」
相田ケンスケであった。手には、キャノンのEOS5に85ミリのレンズをつけたものを持っている。フィルムを巻き戻しているところを見ると、必要なだけの写真は撮ってしまったらしい。彼はそのまま返事も聞かずにシンジの右側に座る。
「なんや、ケンスケ。こんなところでなにしとんのや」
「うん、ちょっとな。あ、おばちゃん、おれ、チーズジャガとシーフードとキムチね。
で、さ、碇。さっきの話の答を聞かせて欲しいんだけどさ。決めた?」
「綾波さんの写真を撮るのに協力するって話?」
「そう」
カメラに革製のカバーをかけてバックにしまい込むと、ケンスケはあいかわらず眼鏡を妖しくきらめかせながら、シンジに顔を近づけた。おもわずシンジは、のけ反るようにして奥へと逃げる。しかしケンスケは、シンジの逃げを許そうとはしなかった。眼鏡のツルに右手をあて、さらにのしかかるように近づく。
すぱこーん
景気のいい音を立ててケンスケが顔面から床に突っ込む。ケンスケのうしろには、トウジが握りこぶしをつくって立っていた。
「あほか、おのれは。何が哀しゅうて、他人の手引きで出歯亀なんぞせなならんのや」
「ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」
額に巨大なたんこぶを作ったケンスケが、それでも右手をツルからはなさずに身を起こす。あいかわらず眼鏡は妖しくきらめいているままだ。そして、トウジの耳もとに何かささやくと、今度はトウジの表情が妖しく変わる。
「そうか、そうか、そういうこっちゃなら、わいもてぇ貸すでぇ」
「いやぁ、トウジならそう言ってくれると信じてたよ。やはり、持つべきものは友達だねぇ」
二人の視線がシンジの上に集まる。おもわずシンジは左右に逃げ場がないか視線を走らせる。しかしその行為は、自分のいるのがボックス席であり、しかも奥に追い詰められてしまっていることを再確認しただけに終わった。この場ではもっとも頼りになる味方のはずのヒカリも、何がなんだかわからないまま、三人を見ているだけである。
「というわけだ。碇、男らしく答えを出してもらおうかぁ」
「そや、ここは一言、男らしくうんと言ってまえ、な、せんせぇ」
シンジ危うし。
彼のこの絶体絶命の危機に、シンジを助けたのは意外と言えばもっとも意外な人物であった。
「時間よ。赤木博士が呼んでいるわ」
「あ、綾波さん!」
「綾波ぃ!?」
「綾波!?」
「綾波さん!?」
そこにはいつのまに現れたものか、あいかわらず包帯を全身に巻きつけた綾波レイが、その紅い瞳にいっさいの表情を浮かべずに立っていた。喧噪の絶えない店内に、これほどそぐわない存在もめずらしかろう。それだけに、四人の驚きもひとしおであった。
「あ、綾波、おのれは碇と知り合いなんか?」
「ええ」
レイは、あくまでレイであった。その答はあくまで簡潔で、無駄がない。
「そ、それじゃ、用ができちゃったから。じゃ、またあした」
シンジは、いそいそと伝票を取ると店を出て行った。その後をレイも追う。
残された三人は、ただ呆然とそれを見送るだけであった。
「あいつら、一体なにもんなんや?」
「さあ、でも、調べてみる価値はあるかもな」
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