「たいしたものですね、シンジ君」
「ええ、本当に。最初にマルドゥックからの報告書を読んだときは、とても信じられなかったけれど、現実に目の前で見せられるとなにも言えないわね」
「でも、本当にテレポーテーションまでできるなんて……」
「人間の可能性に限界はない、といったところね」
「それにしても、よく協力してくれる気になりましたね、シンジ君」
「人の言うことは素直に聞く、それがあの子の処世術なんでしょう。それに、彼自身が疲れていたのかもしれないわね」
「疲れる? 何にです?」
「力を隠して生きていくことに。
お疲れさま。シンジ君、もうあがっていいわよ」
赤色灯しか灯されていないくらい部屋から、ガラス越しにリツコがマイクでシンジに呼びかける。シンジは全身に貼りつけられた電極やコードを日向にはずしてもらうと、リツコらのほうにむけて軽く一礼して、着がえるために部屋を出て行った。
シンジが部屋を出ると同時にリツコらのいる部屋は明るくなり、その部屋の様子があきらかになる。
そこは各種の計測機械のモニターで埋めつくされ、その中では素人が見たのでは何を意味しているのかさえまったくわからないオシログラフが乱舞している。リツコは、それらのデータを手もとのディスプレイに次々と映していきながら、手もとのクリップボードになにかをかきこんでいく。
「で、どうですか、先輩?」
「見て、マヤ。やはりデータはひとつでも多くのサンプルから採るべきね。先月の詳報にのってたオックスフォードの大統一場理論の概念研究がうまく進んでくれれば、もしかしたら、とてつもない発見の可能性があるわよ。理論研究部のチームの興奮するところが目に浮かぶわ」
「量子結合、ですか?」
マヤとよばれた女性が、疑わしげな目でリツコを見る。
量子結合。
量子力学によれば、すべての物体は波動関数の状態にあり、確率論的に存在しているにすぎない。あえて例えるならば、量子はぼんやりとした雲のような状態にある。ところが、人間はそうした状態の物質を認識することは出来ない。なぜならば、確率論的に存在しているということは、観測されることによってその存在が確定されるということであり、人間の認識は存在を確定することによって成立する概念だからである。ちなみに、この人間の観測によって生じる事態を、「波動関数の崩壊」という。この時、距離の一定しない複数の観測者からの観測による波動関数の崩壊に時間差の存在は認められず、観測者と対象の間で光よりも速く情報が交換されていることになる。
量子結合とは、この波動関数の崩壊によって存在が確定される現象であり、ちなみに一九八〇年代にはその存在が実験で確認されている。だがその現象のほとんどについては、いまだわからないことが多く、ほとんど研究も進んでいないのが現状であった。
「この波動関数曲線を見て。シンジ君のD_115aからD_127cにかけての思考波形と、見事に一致しているわ」
「!! 本当ですね!」
良家のお嬢さんのような、少しぽやっとしたマヤの顔に、ひとかたならぬ驚きがうかぶ。だが、あくまでリツコは冷静であった。いや、むしろこういう結論を予測していた、というべきか。
「データをMAGIに上げておいて。そうしたらあなたもあがっていいわよ」
「はい!」
マヤはモニターに向かうと、猛烈な勢いでキーボードをたたき始めた。
その面には、難解なパズルを解くアイデアがうかんだかのような興奮が見て取れる。そんな今の彼女は、とても筑波大学の大学院を優秀な成績で卒業した理工学博士には見えない。もともとが童顔なうえ、美しいというよりは可愛らしいというほうがぴったりくる容貌だけに、まるでどこかの女子大の女学生のようである。
リツコは椅子に深くこしかけると、手もとのマグカップを手にとり中身を飲もうと口をつける。が、すでにそのすべてを自分の胃に収めてしまっていることに気づかされ、あきれたようにため息をつくとマグカップにプリントされている猫のイラストに目をやった。
碇シンジ。
この少年は、今日半日の実験でその能力の一端を見せたにすぎなかったが、その可能性はファーストチルドレンの綾波レイや、ドイツにいるセカンドチルドレンをはるかにうわまわっている。クレオボワイヤンス、テレパシー、サイコキネシス、サイコメトリー、テレポーテーション、等々。実際の能力についてはこれから詳しく調べることになるが、それにしても、これからが楽しみではあった。
リツコは立ち上がると、所長の冬月に報告するべく部屋を出て行った。
着がえ終わったシンジは、建物のエントランスホールのソファーに座り、SDATをぼーっと聞いていた。
今日一日は、本当に忙しかったな。
シンジの脳裏に、学校のこと、研究所のこと、そして綾波レイのことが浮かぶ。
学校では何人もの友人が出来た。トウジ、ケンスケ、ヒカリ、クラスのみんな。皆いい人ばかりのようで、これからはそれなりにやっていけそうであった。
また、おそるおそる使ってみた「力」に、研究所の人たちはそれこそ欣喜雀躍している。ただリツコだけが冷静で、シンジのことをそれこそ容赦なく働かせたが、彼にとってはむしろ彼女のそんな態度こそが、優秀な科学者らしくて信頼に値するものがあった。
あいかわらずレイは何を考えているのかわからなかったけれども、少なくともシンジが「力」を使うのに不快感を感じてはいないようだ。今日は研究所に戻ってきてから顔を合わせる機会はなかったものの、心の片隅にレイのことを感じつつけていたような気がしていた。
「何?」
あいかわらずレイの登場はとうとつで、シンジを驚かせるのに十分なものがあった。
シンジは一瞬思考が停止してしまい、しばらく凍ったまま動きが止まってしまった。ようやく思考に再起動がかかり、自分の正面にレイが見おろすように立っていることに気がつく。声をかけられるまで気がつかなかった自分のうかつさを責めるべきなのか、レイの気配を感じさせない行動を賞賛すべきなのか、彼にはにわかに判断がつかなかった。
「あ、あ、あ、あ、綾波さん!? どうして?」
「あなたが私を呼んだから」
「呼んだ? 僕が? いつ?」
どうやってレイと会えばいいのかわからないから、シンジはここでレイが通るのを待っていたのだ。そんな簡単に連絡がつくものなら苦労はしない。
「いま、私の意識に触れたわ」
「!」
無意識のうちに「力」を発動させていたのか! シンジは、いままでの昂揚感のようなものが嘘のように消えてなくなるのを感じた。耳のSDATのイヤフォンをむしり取ると、あらためてレイにむきなおる。だが、先に言葉を発したのはレイの方であった。
「用は何?」
「あ、うん、一緒に帰ろうかと思って、って、そうじゃなくて! だから……」
だがレイは最後までシンジの言葉をまたず、さっさと一人で歩き出す。シンジはあわててソファーから立ち上がるとレイを追いかけた。
シンジがレイに追いついたのは、建物の外に出たすっかり夜のとばりがおりて常夜灯が灯っている道路でであった。
「綾波さん!」
レイがふりむく。
シンジは大きくため息をつくと、レイのとなりに立って歩き始めた。
「ね、さっきの話なんだけどさ……」
「あなたの意識は、今日一日私の意識のそばに居続けたわ」
「!」
「なぜ、「力」におびえるの?」
あまりにもとうとつで、本質をついた質問。
「それは……」
「あなたは研究所の人たちの意識を絶対に読もうとはしない。今日三人に殴られたときも、力を使えば切り抜けられたのに使おうとはしなかった。いまも私に接触しておきながら、動転している。なぜ? そんなに自分の力を信じることが出来ない?」
普段と変わりないように冷静でいるように見えるレイ。だがその言葉数の多さに、さすがのシンジにも彼女がかなりいらだっていることがわかる。レイの強い意志のこめられた瞳に、おもわず視線をそらすシンジ。それでもぽつぽつと言葉をつむぎ始める。
「僕は、自分の「力」で、他人が傷つくところを見たくない。僕は、まだ子供で、何が正しくて、何が悪いのか、わからないし、それに、自分が、カッとなって、なにするかわかんないし。それに……」
夜空に渇いた音が響き渡る。
シンジは、焼けるように熱いほほを押さえて呆然と立ちつくしている。
彼には、自分にいま何が起きたのかがわかっていなかった。ただ、レイが一瞬怒気もあらわに右手をふりあげたのが目に入っただけであった。彼女は、一瞬のちにはいつも通りの無表情に戻ると、なにも言い残さず走り去った。
一人夜道に残されたシンジは、ただそのうしろ姿を呆然と見送ることしか出来なかった。
それから一週間が過ぎた。
シンジは、あのレイに手をあげられた晩から、結局一度も言葉を交わす機会をもてずにいた。
朝起きて学校に行き、授業を受けてしばらく友人らとおしゃべりをし、研究所に戻って実験に参加する。夕飯を食堂で食べ、部屋に帰って期末試験の勉強をする。そして就眠。
あいだに土日もきたが、結局リツコの実験につきあわされたのと、部屋の片付けだけで終わってしまった。いまだに、料理道具すらそろえられずにいる。
シンジは、のりのようなベタ飯と、なぜここまで酸味が強くなるかわからない味噌汁と、どこをどういじくればこれほど味がゆがむのかわからない料理からの脱出を、日々心に誓いなおしては職員食堂に足を運んでいた。せめてレイが食事をしに来ていれば、まだそれなりの楽しみがあるというものだが、彼女はほとんどこの食堂に足を踏み入れたことがないようであった。
何度か意識を寄せて話しかけようとしたが、そのたびごとにレイは自分の意識を遮断してしまう。
シンジは、結局遠くからレイを見つめ続けることしか出来ないでいた。
「すきありぃーっ!」
はでな音を立ててほうきの柄が、シンジの頭をひっぱたく。片付けている途中の机が手から離れてしまい、それが足の甲の上に落下する。遠くでケンスケが十字を切っている。
「せんせぇ、なに掃除もせんと綾波のこと見とんのやぁ?」
トウジがおもいっきり顔を近づけて問いつめる。
「え、あ、その」
「あ、や、し、い、のぉお」
ごん
「鈴原! あなたなにまた掃除サボってるの!」
今度はトウジの頭で鈍い音がする。
「委員長ぉー、サボっとんのは碇のやつやぁ」
「あなたもでしょうが!」
「そんなせっしょうなぁー。碇ぃ、なんとか言ってくれや」
「あ、うん。……綾波さんって、どうしていつも一人でいるのかな」
突然のシンジの言葉に、じゃれあうのをやめる二人。シンジはレイのことを見続けたまま言葉を続ける。
「綾波さんって、ずっと一人きりで、誰とも話しているところを見たことないし、だれかに話しかけているところを見たこともないし」
「いや、わいは見たことあるで」
右手の人指し指を立てて、トウジが身を乗り出す。
「え、誰?」
おもわずトウジの顔を見つめてしまう。
「おのれや」
びしっ、とトウジの指がシンジにつきつけられる。
「?」
「せんせぇ、おまえさんのこっちゃ」
ずずい、とトウジがシンジに顔を近づける。
「その綾波レイが、よりにもよって碇のことを探し出して話しかけたんや。誰がなんというても、おまえが綾波に一番近いところにいるっちゅうことや」
「そうそう。だれが見たってそうだよな」
いつのまにかケンスケまでそばに来ている。
「な、せんせぇ、白状してまえや。おまえさんと綾波、どないな関係なんや?」
「やはり、同じクラスメートとして、これは重大な関心を持って追求しなければならない問題ではあると考えるが?」
やぶをつついて蛇を出しちゃった。しかも二匹も。
シンジは、話をする相手を間違えたことを、心の底から後悔した。しかも、教室内にいる全員が耳をそばだてて三人を見守っている。
校内でも指折り数えられるほどの美少女綾波レイ。そこに突然現れて、はたから見ればかなり近い仲であるらしい転校生碇シンジ。
実はこの一週間、試験勉強にいいかげんうんざりしていた生徒たちは、このふってわいたようなスキャンダルに、ああでもない、こうでもないと想像をたくましくしていたのである。そして、全クラスメイトの目の前で、どうやら真実が明らかにされようとしているのだ。これでは注目を集めない方がおかしいというものだろう。さらには、火のないところにガソリンをまいて火のついたマッチを放りこんだ存在がいるのだが、当然そんなことはいまのシンジには直接の関係はなかった。
シンジは誰か助けてはくれないかとあたりを見回すが、当然そんなおひとよしがいるわけもない。
まさしく、絶体絶命の危機におちいったシンジ。
「あ、あの」
「あの?」
「あ、綾波さんとは、研究所で一緒なんだ、それで、ほら、あそこってうちの学校の生徒っていないから……」
シンジは、最後まで言葉を続けずにすんだ。
正確には、彼の言葉をすでに誰も聞いていなかった、というだけのことではあるのだが。
「いやああああ、不潔、不潔よおおっ」
「そんな、おまえ、なんちゅううらやましいことを」
「ううっ、まさに、いやぁーんな感じ」
「ふっ、この短い間によくもまあ」
「シンジ、おまえには失望した」
騒然とする教室内で、シンジは一人呆然としていた。
まさしく彼は、シャベルカー並みの勢いで墓穴を掘ってしまったのだ。
ただレイが一人、黙々と雑巾がけをしているのが、シンジの記憶にいつまでも残っていた。
「レイ? なぜ?」
リツコは、クリップボードに目をおとしたまま、顔をむけることすらせずに答える。
「いや、あの、リツコさんなら、綾波さんのこと色々知っているんじゃないかと思って……」
「力」ではなれたところにある粘土をこねあげながら、シンジはさらに言葉を続ける。あいもかわらず、無数の電極とコードが身体中に貼りつけられている。
粘土が隣においてある人形の形に練り上げられたところで、リツコは新しい模型を机の上に置いた。
「次はこれ。……そうね、レイがここに来たのは、半年ほども前のことかしら。でも、私もそれ以前のことはほとんど知らないわ。やはり、シンジ君もレイのことが気になる?」
粘土が一瞬で隣の模型と同じ形に練り上げられる。
「あ、あの、そんなんじゃないんです、ただ……」
「もっとゆっくり形をととのえて。機械の観測が追いつかないわ。……ただ?」
「ただ、話しかけても何も答えてくれないし、なんか、避けられているみたいで……」
プレス機にかけられるように押しつぶされる粘土。
「だから、レイのことを聞いてまわっているのね」
「!! あ、あ、いや、だから、僕はただ彼女のことが、その、一人きりでさみしくないかとか……」
「動転してもかまわないけれども、作業もすすめて。……だからあなたがレイのそばにいてあげたい、と。でもね、シンジ君、あなたはレイのことをどれくらい知っているというの?」
「……ほとんど何も知りません。でも、彼女から何度もぼくに話しかけてくれたんです。きっと綾波さんだって……」
粘土を見つめるシンジの視線がきびしくなる。
「ただの好奇心でしかないかもよ。あなたは、彼女の知っている二人目の能力者だもの」
「違うと、思います。最初にあった夜も、わざわざ彼女のほうから僕に「話し」かけてくれたんです。このまえだって、僕が彼女のことを考えていたら、ぼくの意識がそばにいるのを感じたからって、話しかけてくれたんです」
「なら、あなたから彼女の意識に話しかけないの? あなたならできるでしょう?」
「意識を遮断してしまうんです。だから、それ以上彼女の心の中に入っちゃいけないし……」
リツコの面は、まるでぬぐい去られたようにいっさいの表情がない。ただ、クリップボードの上を走るシャープペンだけが、わずかに震えている。
「そう。じゃあ、ひとつだけ聞かせて。なぜあなたはこれまで私の記憶を見ようとはしなかったの? あなたのテレパシー能力ならば、特に難しいことではなかったはずよ」
初日、シンジの能力の概要を調べるためのテストで彼は、隣室の被験者の表層思考のすべてをテレパシーで「読ん」でみせたのである。しかも、わざと深層心理に触れないように手加減して。
リツコはシンジに視線をむけた。その濃緑色に底光りする瞳には、これまでシンジが見たことのない強いなにかがあった。シンジは、まともにそれを受け止めることができずにうつむいた。
「それは……、卑怯なことだと思うんです。僕が「力」を持っているのはただの偶然でしかなくて、それも、ちゃんとコントロールできなくて、それを「力」を持っていない人に使うのは、やっぱり僕には卑怯なことにしか思えないんです」
その言葉はか細く、聞き取ることができたのは、たぶんそばにいたリツコだけであったろう。彼女は、その意味を理解できないほどに愚かでも無神経でもなかった。
だからリツコの言葉も、シンジにしか聞こえないほど静かであった。
「あなたも、レイと同じように不器用なのね。
そう、レイはいい子よ。ただ、少し、他人より生きていくことに不器用なだけ。
……シンジ君、私は、あなたのような考え方を評価するし、尊敬するわ」
それは、シンジが始めて触れたリツコの優しさであったのだろう。彼女がほんのわずかのあいだだけ浮かべたその表情は、彼の心の中に、笑い出したいような、泣き出したいような、何故かそんな切ない思いを抱かせた。
シンジは、あとはただ黙って粘土をこねあげ続けた。
リツコは、ひとり暗い部屋でモニターにむかっていた。そこには二分割されたウインドウが表示され、冬月とゲンドウの二人が映し出されている。彼女は、モニターの上に設置されているカメラにむかって話し続けていた。その口調にはいっさいの感情が抜け落ちている。
「……ファーストチルドレンとサードチルドレンの行動については、以上のレポートの通りです」
「了解した。では、報告書に記載されていない君の所感を聞きたい」
ひざの上に真白い猫を乗せたまま、ゲンドウは抑揚のない声で言った。リツコは、すでに午後十一時をまわっているにもかかわらず、ウインドウに顔から下とひざから上からしか映っていない彼が、疲れた様子を着ているダークスーツに見せていないことに、軽いいらだちを感じていた。彼女は、いまの自分があまり他人には見せたくないような疲れた顔でいることの自覚があっただけに、なおさら内心からすべてのの感情を消して話し始めた。
「私個人としては、ファーストチルドレンとサードチルドレンの接触は、時期早々であったと考えます。ファーストチルドレンの思考と行動の方向性に、サードチルドレンがどのように影響されるか、予想がわかれています。むしろ最初は、思想的に我々が管理しやすいセカンドチルドレンを両者に接触させるべきであったのではないでしょうか」
「その予想は、MAGIのシミュレーションに基づく判断かね?」
リツコの言葉の途中で冬月が口をはさむ。彼女は軽くうなずいてみせると、その言葉を肯定してみせた。
「MAGIのシミュレーションの結果によれば、ほぼ九四.七パーセントの確率でどちらかが心理的に相手を支配下に置くという結果が出ました。どちらが支配的な立場にたつかは割合としてはほぼ五〇対五〇ですが、場合によってはどちらにせよ我々にとって不利益となるような極端な行動に出る、という可能性も示唆されています。
ここで問題なのは、我々は彼らの自発的協力を必要としているにもかかわらず、それを確実にする手段がきわめて少ないということです。対象がテレパシー能力を持っていない能力者であるならば、年齢相応の心理的対応で、ほぼ目的を達成することが可能ですが、ファースト、サードともに相当に優秀なテレパシー能力を持っていることが確認されています。
特にサードチルドレンの場合、本人の倫理的傾向から我々の目的は知られてはいませんが、彼がそれを知るのも時間の問題であると考えるべきでしょう。そうなった場合、我々の目的と彼の倫理的方向性が一致させることが出来るかどうかが、計画の成否を分かれることになると思います」
そして、小さなため息が漏れる。
「言うなれば、こちらだけが手札をさらしてポーカーをすることを、強いられているようなものです」
三人の間に沈黙がたちこめる。
「やはり、彼を計画に参加させるのはまだ早かったということか」
「すべてはシナリオ通りだ、なんの問題もない」
冬月の嘆息を、ゲンドウは一刀のもとに斬って捨てる。
「それに、すでに事態はここまで進展している。計画は、未定であって決定ではない。最終的にスケジュールが達成されるよう事態は修正可能であると、考えられる。どうかな、赤木博士」
「はい、それについても、すでにいくつかのモデルケースでシミュレーションを行っています。結果だけ申し上げるならば、事態を我々にとって有利に運ぶのは、きわめて高い確率で可能です」
リツコは、自分の口から流れ出る言葉が、まるで遠い別の誰かが話しているように思えた。だがその言葉は、あくまで彼女が細心の注意を払って自分の本心を隠すために選び出した言葉なのだ。
「現在MAGIの提示したモデルでもっとも成功の確率が高いと思われるケースは、チルドレンたちに共通の克服目標を提示することで共通しています。その理由については、MAGIのシミュレーションの結果とともにレポートを提出したいと考えておりますが」
「それは、可能なのかね?」
「十分可能です。さらに、現在我々にとって都合のいいことに、チルドレンを対象とした諜報活動も確認されています」
「連中が敵になってくれるとでもいうのかね。外敵を利用して団結を高める手法は、古来内政に失敗した為政者の好む手段ではあるな。ずいぶんとありきたりではないかね」
冬月の抑揚のない声が、リツコの耳に痛い。彼がこのような口調でしゃべるときは、相当に強固な反対の意志を持っているときであることを、彼女はこれまでの経験で理解していた。だが、彼女はここで自らの意志を曲げるつもりはなかった。それは彼女の中にある彼女自身が依って立つ何かが、許さなかった。
「チルドレンの安全を全力で確保することは前提の上です。むしろ事態は、我々の思惑とは別に進展しつつあるといえるのではないでしょうか。事実、「委員会」及び調査部から上がってきたレポートには、そのような事態についての注意を喚起する内容がたびたび指摘されております。むしろセカンドチルドレンの周辺状況から考えるならば、遅きに失した感がありますが」
「それについては、君に言われるまでもなく了解している」
ゲンドウが二人の間に割ってはいる。
「では、次のレポートを早急に提出するように。以上だ。遅くまでご苦労であった」
そして、モニターのなかからゲンドウが消える。
「赤木君、少しいいかね」
冬月は、ゲンドウがいなくなったのを確認してから、リツコに話しかけた。その顔には疲労の色が濃い。
「それは、かまいませんが。冬月教授」
「はは、そのよびかたでよばれるのは、ずいぶんと久しぶりのような気がするよ」
「計画のことですか? 子供たちのことですか?」
「うむ。「人類補完計画」「E計画」、君はどう考えているか知らないが、さて、な。最近よく考えるのだよ、我々はどのように子供らに報いればいいのかと、ね。この計画は本当に実現するのか、とも」
「確かに、答えようのないことではありますわね」
「……………………………」
「……………………………」
「私自身には、特に意見はありませんわ。少なくとも希望というものは、存在しないよりはどんなささいなものであってもあった方がましなことを知っているつもりですから。それに……」
「それに?」
「それに、実は現実感がないのです。あまりにも突拍子すぎて」
「確かにそういったところはあるな。……いやすまなかったな、遅くまでつきあわせてしまって。それでは、おやすみ」
「おやすみなさい」
今度こそ、モニターには誰もいなくなる。
暗い部屋の中でしばらく放心するリツコ。
彼女は、しばらくしてからゆっくりと体を起こすと、煙草を吸おうと手をのばした。だがうかつなことに、パッケージのなかは空になっていた。
リツコはかるく眉をしかめると、かたわらの愛用のマグカップを手にとり、そこにプリントされている猫のイラストを見つめた。そのマンガチックなイラストは、その図柄が妙に気に入って衝動買いしてしまった高校生のころから、ずっと彼女の心に安らぎをもたらしてくれていた。
シンジ君、レイ、それに……。三人とも、私があなた達に出来るのは、そうは思えないかもしれないけれど、艱難辛苦で一杯の道を少しでも歩いていきやすくすることだけ。それが免罪符になるとは思わないけれども、でも、頑張って欲しい。だって、未来はあなた達のものなのだから。
だからお願い、信じて。自分たちの可能性を。私たち大人の誠意と愛情を。
マグカップを見つめ続けるリツコに浮かんだ表情は、昼間、シンジが見たそれと同じものであった。
シンジは月を見上げていた。
ブナの樹林の梢のあいだから地面にふりそそぐ月の光の輝きは、銀色の雨のようにシンジの上にふりそそいでいる。
その光はシンジの心の中を、せつなさとやるせなさで一杯に満たしていった。心の中からあふれでる思いをシンジは、夜空にむかってぶちまけた。もし人の意思の力を見ることができる者がいたならば、その時まるで天の橋立と呼べそうな光の柱が月にむかって一直線に伸びていくのを見たことであろう。
綾波、綾波、綾波、綾波、綾波、綾波、綾波、綾波、綾波、綾波!!
なんで僕のことを避けるんだ、なんで僕を無視するんだ! 僕は君に聞きたいことが、話したいことがいっぱいあるんだ。
お願いだから、僕を棄てないで。僕は、一人は嫌なんだ、やっと本当にわかりあえるかもしれない相手と巡り会えたんだ。だから、だから、だから……
シンジは、自分の心がもう自分ではどうしようもないほどに揺れてしまっていることに、そら恐ろしささえ覚えていた。これまで、こんなにも自分の心がコントロールできなかったことはなかったのだ。
シンジはただ、訳もなくおびえていた。
自分の心のもろさに、自分がこれまでどれほど孤独であったか気づかされたことに、そして、自分がこれほどまでに人のぬくもりを求めていたことに。
月は、あくまで無慈悲な光を投げかけているばかりであった。
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