レイの裂帛の気合いが、さして広くもない部屋を震わせる。
「げふぅっ!!」
隣室の男は、衝撃に肺から空気を吐きながら、緩衝材が一面にはりつけてある壁に叩きつけられた。防音、防震処理のされたガラス越しに、綾波レイはいつも通りの無表情なままで男がそのままくずれおちるのを見ている。あわてて医師たちが男のそばにかけより、担架に乗せて彼を運び出していく。
「いいわ、レイ。もうあがって」
あきれたようなリツコの声が、レイのいる部屋のスピーカーから響く。
「はい」
レイは、部屋中に設置してあるカメラのひとつにむかって返事をすると、何ごともなかったかのように部屋を出て行った。
「今日のレイ、荒れていますね」
「そうね、普段の彼女からは信じられないくらいに。で、彼はどう? 大丈夫かしら」
「当然大丈夫ですね。あれくらいでどうにかなるような柔な鍛え方はしていませんよ。それが納税者に対する義務というものです」
「あいかわらず、冗談が笑えないわよ」
「はあ」
リツコは、マグカップの中のコーヒーをいっきにあおると、かたわらでなんとも間の抜けた表情で立っている日向にむかって視線をむけた。
今日の日向は、普段の白衣姿ではなく、濃緑色の制服を着ていた。肩の階級章は、金色の桜が二つと横棒が一本。左胸にパラシュートとダイアモンドをかたどったバッチが二つつけられている。普段のちょっとぼけた感じの彼を知る者にとっては、いまの彼はまったくの別人にしか見えないであろう。軽く両足を開いてまっすぐに立っている彼は、まさしく国家によって人がなし得る全ての暴力の行使を許された存在にふさわしい姿と雰囲気をもっていた。ほんの一瞬前までは。
「で、今日のそのりりしいいでたちは、いったいなんのためかしら? あなたの御同輩は、閲兵と分列行進をできるほど多くはここに来ていないでしょう?」
赤木博士も、決してジョークのセンスは豊かではないな。
日向が感想を心の中でそう言っているのが、リツコにはその表情から手にとるようにわかった。
「実はこれから市内で親睦会がありまして。例の東南アジアPKOの参加者の会なんですが」
「あら、都内ではなくて?」
「予定ではそのつもりだったんですが、なんでも会場側から断られたそうです。左翼系の市民団体からの抗議が来たとか」
「あらあら、セカンドインパクトからこのかた、最近はずいぶんおとなしくなったと思っていたのに。お盛んなことね。わかりました。あなたも切りのいいところであがっていいわよ」
「すいません、それでは後をお願いします」
「もう行くの?」
「実は、幹事役を押しつけられているんです」
「去年もそんなことを言っていたように記憶しているけれど。それじゃお疲れさま」
「失礼いたします。それでは、また来週」
「また来週」
リツコは、敬礼ひとつ残してすこしだけ足を引きずりつつ部屋を出ていった日向を見送ると、マグカップにコーヒーをつぎたし、この部屋に残っているもう一人のほうにむきなおった。
「感想はどう、シンジ君。あれがレイの能力よ」
そこには、一言も口をきくことなくただレイを見つめ続けているシンジの姿があった。その視線はいつになく厳しい。
「今の綾波さんの「力」は?」
「瞬間催眠術とよばれるものよ。俗な言いかたをするなら「不動金縛りの術」「心の一方」というところかしら。ただ普通の催眠術が、声や視線、動作、そういった手段で相手の五感を経由してかけるものであるのに、彼女のそれは、たぶんテレパシーで相手の脳に直接かけているわ。
あともうひとつ。彼女が対象の脳に直接はたらきかけることができることでつかえる能力があるわ。
彼女は対象の身体を自由にあやつることができるのよ。人間の肉体は、各部分にあたえられた刺激を神経をつうじて脳につたえ、脳がその刺激にたいし適切な反応をすることで、ひとつの完結したシステムとして活動しているわ。彼女は、その神経をつうじてやりとりされる刺激を、自在に書きかえることができる」
「……つまり?」
「たとえば……、筋肉を本来の動きとはまったくちがう、ばらばらの動きをさせることで、対象の肉体を破壊してみたりできるわね」
リツコは、凄惨な内容をさらりといってのける。
シンジの眉間に、深いしわがうまれた。
対照的に、リツコの表情は平静そのものであった。むしろシンジがそういった反応をすることを予測してすらいたようである。
「……「力」って、そんなに特殊化するものなんですか?」
「違うわね、むしろ得意としているというべきかしら。
レイのテレパシーは、実はそれほど強力ではないわ。相手の意識を正確に読もうと思ったならば、接触が必要なくらい。けれども、相手を自分の意思で拘束しようとすると、その効果範囲はかなり広くなるのが確認されているわ。
どうやら能力者というものは、テレパシーとかテレポーテーションとかいった基本的な能力の強弱だけではその実力は計れないようね。彼らにとっては、それらの能力を自分の得意とする分野に集中させることによって、より高い能力を発揮させることのほうが効果的なのかもしれない」
正確には、レイのこれまでの実験のデータからそうではないかと類推されているだけなのだが、それはいま口にする必要のないことではあった。
シンジは、二三度なにか言いたそうに口を開きかけたが、結局、質問を口にすることはなかった。そのまま視線をさきほどレイの出ていった扉にむけたまま、身じろぎすらしないでいる。
「先輩、レイのデータがあがってきましたけれど……」
マヤが、クリップボードを胸に抱え込むようにして部屋に入ってきた。だがリツコは、軽く左手をあげてそれ以上彼女がなにか言うのを押しとどめた。
「?」
けげんそうにしているマヤをしり目に、リツコはまばたきひとつせずシンジを見続けている。
リツコは、いままたシンジがレイにむかってテレパシーで「話し」かけていることを確信していた。この一週間ほどの実験で彼女は、シンジが「力」を使うときは、いまのようにその視線を対象にむけるくせがあることに気がついていた。はたから見ればただぼんやりと妄想にひたっているようにしか見えないが、その表情の微妙な動きから、それは決して彼がただぼんやりしているためではなく、そうとう慎重に「力」をコントロールしているためであることもわかっていた。
リツコとシンジがそうしていたのは、時間にしてほんの十数秒のことであったろう。
だがその緊張した空間の雰囲気は、マヤにとっては数十分がたったかのように感じられるほど張りつめたものであった。
「……! あ、あの、リツコさん?」
シンジは、自分を見つめ続けているリツコの視線に気がつくと、おもわずほほを赤らめて視線を床にむけてしまった。リツコのシンジを見つめる表情は、何かをおもしろがっているようなそんな感じが見える。
「またレイにテレパシーで話しかけていたのね。で、どうだった?」
「あ、あ、あ、あの、そんな、いえ、結局、答えてはもらえませんでしたし……」
「それはそれでかまわないわ。……そうね、ひとつシンジ君に聞きたいことがあるの」
一口コーヒーをすすると、リツコは口の端をゆがめてみせた。
「あなたは自分の能力を使うときに、「見る」とか、「読む」とか、そういった言いかたをするわね。どうして? テレパシーでも、クレオボワイヤンスでも、読心でも、来歴感知でもかまわないのに」
シンジは、はっとしたように顔をあげた。
リツコの口調はむしろひょうげていて楽しげとすら言えたが、彼女は、内心ではになにかとても重いものを感じていた。さらには、彼女は自分の瞳が、漆黒に昏く沈んで見えているであろうことにも気がついていた。失敗した、そう彼女は内心ほぞをかんでいた。
「それは……」
「それは?」
「それは、僕には、そうとしか言いようがないんです。……僕にとっては、それは、目で見たり耳で聞いたりするのとそんなに変わらなくて、ただ、それを、ほかの人から見たなら、違うわけで…… すいません、うまく言えないです」
シンジは、またうつむいてしまう。
だがリツコは、まったく変わらない口調で言った。
「いいえ、それで十分よ。あなたもあがっていいわ。お疲れさま」
シンジは二人にむかって一礼すると、何も言わずに部屋を出ていった。
シンジが扉を閉めたところで、マヤが大きなため息をつく。
「若い娘がそんな大きなため息をつくものではないわ、マヤ」
むしろ優しげといってもよい口調で、リツコはマヤをたしなめた。だがその瞳の色は、あくまで昏い。
「あの、先輩……」
「なに?」
「なんでシンジ君にあんな質問をしたんです?」
「答えようがないわね。……あの子らの能力について理解するために、なんでもいいからとっかかりが必要なの。そうとしか言いようがないわ」
だがマヤは、そのよどみのないリツコの口調に、彼女が決して言葉通りの意味に考えているわけではないことに気がついていた。
「言葉というものは、たとえそれがどんなものであっても、必ずつかった人間にとってなんらかの論理的整合性をもっているものよ。シンジ君やレイの能力についての説明を、一つ一つたんねんに考察してみたわ。そしてちょっと思いついたことがあるの」
「彼らにとっての能力とは、後天的に習得された技術ではなく、生来所持している感覚に近いものだということですか」
その言葉にリツコは、返答のかわりに満面の笑みをうかべた。
「彼らがその能力に目覚めたのは、早くても、セカンドインパクト以降だと観測されていますが」
「あんがい思い出したのかもしれないわ」
「じゃあ……」
「そういえば、二人の遺伝子解析は予定ではいつになっていたかしら?」
「え? あ、分析部の報告では、早くても人ゲノムの解析が終わるこの冬以降になるのではないかと……」
「つまりは、そういうことね」
あっさりとリツコはマヤをいなす。
すべては、科学的に調査、分析してから結論を出すべきであると。
しかし、うすうすマヤ自身も感じてはいることではあるのだ。
実は「能力者」と呼ばれている彼らは、自分たちとは根本的に異なる生物種ではないかということに。
彼らのもっている能力の感覚というものは、それをもっていない人間にとっては想像すらできないものであろう。目の見えない人間に、風景という概念を説明することが不可能なように、彼らも自分たちの感覚を他人に説明するのは不可能なのではないだろうか。いまのところ、皆が同じ文明のもとで同じ社会を共有しているからこそ、こうしてコミニケーションが成立している。だが、彼らの数が十分に増えていき、独自の社会を建設し、さらには独自の文明をうちたてるにいたったとき、はたしてお互いの間にコミニケーションは成立するものであろうか。
マヤは、シンジを中心とした一連の実験に参加しているあいだに、そういった疑問を心のどこかで感じ続けていた。そして、いまのリツコの質問とそのときの表情は、その疑念をマヤの意識の奥底から表層意識へ引きずり出したのだ。
「そんな表情をするものではないわ、マヤ」
表情はそのままに、身にまとっている雰囲気を一変させてリツコは言う。
「お互いにその意志があるならば、互いに理解しあうことは不可能ではないわ。それに、あなた、大事なことを忘れているわよ」
「なんでしょう?」
「能力について、私たちが理解していない以上にあの子らもわかっていないのよ。だから、あの子らの前でそんな表情はしないで。おびえさせ、不安にさせるだけだから」
「はい」
だがリツコの瞳の色は、あいかわらず昏いままであった。
シンジの瞳も、黒く昏くしずんでいた。
シンジは、思考の底に意識を沈めながら、夕日のさす道路を寮にむかって歩いていた。
リツコとマヤのあの瞳の表情は、シンジが結局は普通の人間ではないと、異常な存在であると語っていた。この一週間、学校でも、研究所でも、これまでとは違ってそれなりにうまく気を張らずにやってこれたことで、自分が普通の人間とは違うことをそれほど気にせずにすんできたのだ。
だがそれは、結局はただ自分が浮ついていただけのようであった。
「よぉう、シンちゃん。いまあがりかい?」
「!」
物思いにしずんでいたシンジは、突然うしろから声をかけられて、驚きのあまりふりかえりざま足をもつれさせ、すっ転びそうになった。
「あぁあ、大丈夫かい。そんなに驚くこたぁないだろうに」
そこには、白いつなぎを着て工具箱を左手でさげているシゲが立っていた。彼は、あいかわらずひょうひょうとして、かつひょうきんな雰囲気をただよわしている。
シンジは、この研究所に来た最初の日以来彼がなにくれとなく気にかけていてくれていることに、ふかく感謝していた。すくなくとも、朝食堂であいさつをすることのできる相手がいるということは、彼の孤独感をずいぶんとやわらげてくれていた。
「あ、すいません」
「いや、いいってことよ。そういや、今日はずいぶんと早いな。赤木博士はもう解放してくれたのかい?」
「あ、はい。今日はもういいって……」
「おう、実はおれもさ。あの研究と結婚しちまったような人がめずらしいこった。どうだい、一緒に寮まで帰るかい?」
「あ、はい」
シゲは、シンジの返事を聞くとひょいひょいと歩き出した。工具箱をがっちゃがっちゃいわせ、かるく口笛なぞ吹いている。シンジは、そんな彼の右隣をあとをついていくように歩き始めた。
研究棟のある敷地を出てしばらくしてから、シンジはシゲにむかってそっと口を開いた。
「その、そういえば、シゲさんは、どんな仕事をしているんです?」
「あ、おれ? ここのコンピューター全般のシステムエンジニア兼プログラマー。あと、エレクトロニクス関係の整備や調整もやってるけど」
「そうなんです、か」
「おうよ。おかげで赤木博士にさんざこき使われるのなんのって。シンちゃんも気をつけろよ、あの女史、人使いがむっちゃ荒いからよ」
そう言いつつも、シゲの表情はたいそう楽しげではあった。
「シゲさん、その……、リツコさんのところでどんな研究をしているのか知っています?」
「あぁ? 知らんけど。それがどうかしたのかい?」
「あ、いえ、その、シゲさん、僕がなんでこの研究所にいるのか、聞こうとしないですし……」
すこし考え込むような感じで、シゲは頭をのけぞらせた。
「そりゃあ、まあ、なんか理由があるからだろ。シンちゃんが話したくなったら、聞くさ。ま、なにしろここは、じつはけっこう危ない研究も多いからなぁ。相手が話そうとしないことには首を突っ込まないのがここでの仁義さ」
「そういうものなんですか?」
「おうさ」
シゲのこたえは簡潔明瞭、間違えようがなかった。だがシンジは、シゲのその口調のなかに彼なりのシンジに対する気遣いがあることを感じとれないほど、子供ではなかった。
「あ、あの、ありがとうございます」
シンジのそんな不器用な答にシゲは、なんとも男くさい笑みを浮かべてみせた。
シンジは、おもわずそれにつられて自分も笑みが浮かんできたのに、内心おどろいていた。いつもの自分の本心をかくすための笑い、相手にあわせるための笑い。いまの自分の笑いがそれとは別のものであるのがうれしかった。
だが、シンジの幸せな気持ちも、寮に一歩足をふみいれるまでのことであった。
寮のロビーのテレビの前は、早番の若い研究所員らで、文字通り黒山の人だかりであった。
「シゲさん、シゲさん、爆弾テロだよ、おい」
「あぁ、どこで?」
「市内の市民会館でだよ。ほら、児玉さんと日向さんが今日PKO参加隊員の懇談会に出るっていってたろ、あれだよ、あれ」
「おい、おい、ちょっとまてよ、おい!」
あわててシゲもテレビにとびつく。
「どこだぁ、犯行声明だしてんのはぁ……、っと、「マーハヤーナ」だぁ? インコ珍理教の下部団体じゃねえか、連中まだ生き残っていやがったのかよ」
シンジには、その声がどこか遠くから聞こえてくるように思えた。彼はただ、ぼうぜんと立ちすくんでいることしかできなかった。
事件の具体的な様相があきらかになったのは、夜も十一時をまわってからのことであった。シンジはろくろく食事もとらずに、ずっとロビーのテレビの前に座り込み続けていた。そんなシンジをほかの職員たちはなすがままにさせていた。ここの研究所は、おもいのほか自衛隊からの出向職員が多く、そのなかにはPKOに参加したヴェテランも多くいたのである。皆内心では、シンジと同じように同僚の安否を気づかっていたのだ。
結局シンジがシゲに言われて自分の部屋にもどったのは、事件による死傷者が発表されてのちのことであった。
日向は無事であった。
彼は、わずかに破片が左腕上腕部にくいこんだだけのけがで、この騒動を切り抜けていた。彼が深夜平然とした顔で、いつも通りかるく足を引きずりながら帰ってきたときなぞ、寮につめかけていた職員全員のそれはそれは心のこもった歓迎をうけたのであった。深夜下の騒動に気がついたシンジがロビーにおりてきたとき、日向はぼろぼろになってロビーの床に転がっていた。
だが、死傷者がまったく出なかったというわけではなかった。
爆弾テロをおこなった組織「マーハヤーナ」は、九〇年代初頭日本全国にその勢力をのばした新興宗教団体「インコ珍理教団」の下部組織のひとつとしてうまれた。
その役割は、教団に対し反抗的な信者に、実力をもって「仏罰」をあたえることであったという。事実彼らが「仏罰」をあたえた信者の数は四〇人以上にものぼっており、そのうちのかなりの数が彼らがいうところの「ポア」、つまりはその魂を彼岸のかなたへ送りとどけられたらしい。後年教団が政府によって武力鎮圧されたときにも、最後まで尊師とよんでいた教団指導者を守って戦いぬいている。
教団壊滅後は地下にもぐって逮捕された尊師を奪回するべく武力闘争を続け、わずか半年程前に、脱落した一部の構成員をのぞいて、内紛によって壊滅したとされていた。ただ、ちまたでは、内務省の国家警察と自衛隊の警務隊の合同特殊部隊によって、秘密裏に殲滅されたといううわさが流れていた。
「ま、おれは実際に「首都警」が動いたと思うけどね。そうでもなければ、こうも簡単にけりがつくわけないだろ。でさ、碇の知り合いにだれかけがした人は出た?」
「ううん、研究所の人で死んだ人はひとりもでなかったみたい」
「それはよかったな」
月曜日学校でシンジは、ケンスケから土曜日の爆弾テロの情報を聞いていた。彼が登校したとき、ケンスケはどこから仕入れたのか事件についてのかなり詳しい情報を手に入れており、「ここだけの話」と言いつつ級友にしゃべってまわっていたのである。
事件そのものは、ずいぶんと単純なものであったらしい。
本来都内でおこなわれるはずであったその懇談会が、会場側の都合でここ第三新東京市内に移ったため、彼らは急きょ爆弾を持った特攻隊員を会場に送り込み自爆させた。それと同時刻、各新聞の編集部に期日指定郵便が同時に到着し、「マーハヤーナ」の犯行であることがわかったという。
声明文には、獄中からの尊師の解放と、教団への「組織犯罪対策法」の適用の解除を求める内容が書かれていたそうである。
このテロでの死者は三名、負傷者は一四名であった。死者のうち一人は市民会館の従業員であり、もう一人は当のテロリストであった。今朝の新聞では、あいかわらずヒステリックな論調でテロリストと政府の責任を叫び続けていた。
シンジは、ふとレイの机を見た。
きわめてめずらしいことにレイは、ケンスケの話に耳をかたむけていた。それも、聞いていることを気づかれないようにこっそりと聞き耳を立てて。シンジは、そんなレイの様子に目をうたがった。すくなくともシンジの知っているレイは、学校でなにかに興味を示すことはなかったはずであった。
さらに、ふだん、シンジの視線に過敏なまでに反応するレイが、このときばかりはケンスケの話に気を取られたままでいた。シンジは、レイの包帯をまかれている左腕が、なにかに耐えるようにふるえていることに気がついた。それは、まるで心の中を荒れ狂う激情を、必死になって押さえているようにも見えた。
おもわずシンジも、レイに気づかれないように、ノートをひろげてそれに見入っているふりをしながらレイのほうを盗み見始めてしまった。ここ数日、レイに完全に無視されてしまっていることが、彼をへんに臆病にさせていた。
昨日、綾波はどこに行っていたんだろう。
日曜日、朝からずっとレイの存在を「感じる」ことができずにいたシンジは、今朝になって急に学校にふらりと現れたレイのただらぬ雰囲気に、なにか予感めいたものを感じていた。それは、まるで嵐の前兆のような、黒い雲がわきあがってくるような感じであった。
シンジは、ずっとレイのことを見ているしかなかった。
さすがのトウジもケンスケも、今日はシンジにからんでくることはなかった。
シンジがそれに気がついたのは、昼休みの最中だった。
彼が、教室内でいつも通り学校に来る途中に買ってきたパンを食べていると、困ったような表情をしたヒカリが近づいてきた。胸にぶあつい日誌を抱いている。
「あの、碇君、綾波さんを見なかった?」
「ううん。綾波さんがどうかしたの?」
「今日から綾波さんが週番なんだけれど、どこにもいないの。碇君なら知っているんじゃないかと思ったんだけど……」
「……綾波は、そのこと、知っているの?」
「知っているはずよ。この前、話しておいたし、何をどうするか、説明もしたもの」
「……………」
シンジは、ふっと、なにかを感じたような気がした。それはたとえていうならば、虫の予感とでもいうものであったかもしれない。だが彼は、自分のそれが決して単なる錯覚ではないことを熟知していた。すくなくとも、過去にそれだけの十分な実績があった。
「? どうしたの、碇君」
厳しい表情をして考え込んでいるシンジをけげんに思ったのか、ヒカリがその顔をのぞきこむようにして話しかけてくる。
シンジは突然席から立ちあがった。急なことにヒカリは、おもわず小さく悲鳴をあげてのけぞり、転びそうになる。突然の物音に教室内にのこっていた全員の視線が、シンジに集まった。だがシンジは、そんなまわりの様子にはいっさい関心をはらわず、ひとこと言い残すと、教室から走り出ていった。
「いいんちょ、碇のやつ、どうしたんや?」
棒立ちになっているヒカリに、トウジが近づいてきて質問する。
「……気分が悪くなったから、早退するって……」
「はあ? 碇がかぁ」
トウジは、訳が分からないといった様子でシンジが出ていった扉を見続けている。教室の全員が、同じようにあぜんとしたまま視線を向けていた。
いや、一人をのぞいて。
彼は自分のかばんのなかからキャノンのEOS5を取り出すと、そっと教室から足音すらしのばせて出ていった。
シンジが最初に走っていったのは、学校の屋上であった。この高台にある中学校の校舎の屋上からだと、市内の中心までもがよく見渡すことができた。それだけに昼休みには多くの生徒がここに昼食をとりにやってきていた。
シンジが屋上に来たときも、そこは多くの生徒でにぎわっていた。
シンジは、まっすぐ鉄柵に近づくと、そこから視線を市の中心部にむけた。彼はなにか遠くを見るように目を細める。
綾波は?
まず最初にシンジが「見た」のは、校舎のなかであった。教室、図書室、職員室、体育館、保健室、グラウンド、等々……。だがレイは、そのどこにもいなかった。
次に、学校の周辺にその意識をひろげる。わずか一呼吸ののちには、シンジの「視線」は学校周辺数キロ四方にまでひろがっていた。その「視線」は、全体を「見る」と同時に、そこにいる一人一人の人間全員を「認識」し、「識別」していた。
いた。
レイは、ふだん全身に巻いている包帯をほどき、荷物を何ももたず市の中心部にむかって歩いていた。あいかわらず無表情で、その紅の瞳にはなんの感情もうかんでは見えない。だがその全身にまとっている雰囲気は、シンジがはじめてみるもの、冷たく凍るような憎悪であった。
シンジは、あわてて意識をレイからそらした。いつもレイはシンジの意識が近づくとそれに敏感に反応したし、いまレイに気がつかれて、その憎悪を自分にむけられるのが怖かったのだ。だが、シンジがおびえすくんでいたのも、一瞬のことであった。
逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ。
シンジは自分で自分を必死になってはげますと、もう一度意識をレイのそばにはりつけ、今度は自分自身の足で彼女に近づくために、屋上から走り去った。
このわずかのあいだに、シンジに注意をむけていたものは、屋上には誰一人いはしなかった。
シンジがレイに追いついたのは、第三新東京駅のプラットホームであった。
レイはシンジが校舎から出たその瞬間、ちょうど来たバスに乗り込んだ。彼はけっきょくなけなしの現金をはたいてタクシーに乗り、バスのあとをつけるしかなかった。なにか思い詰めたような表情をしてバスの後をつけさせる少年に、タクシーの運転手はかなりの興味をひかれたようであったが、だからといって不必要な詮索をすることはなかった。
レイの目的地は第三新東京駅であった。
途中彼女は、一度としてふりかえることもなく駅に入っていった。シンジは、駅の構内に消える彼女の姿を何度も見失いそうになりながらも、なんとか切符を買い、いきかう人々をすりぬけて、プラットホームまでたどりついた。
そこはシンジが最初に降り立ったときと同様に人影もまばらであり、屋内型のステーションのせいもあって、スピーカーからながれるアナウンスがいんいんとひびいていた。いや、人影もまばらというのは正確ではないのだろう。利用者にくらべて構内の面積がかなり広いのだ。そのせいもあってか、彼がレイを探すのにそれほどの時間はかからなかった。
レイがたっているのは、東京湾岸環状線のプラットホームだった。
このセカンドインパクト後に完成した鉄道は、世界初の実用リニアモーターカー線であり、東京湾岸の東京、川崎、第三新東京、第二新東京を約一時間で一周することができた。この新時代にふさわしい輸送システムは、以後全国の在来線の老朽化にともなって、順次交代する形で普及していくことが期待されていた。
シンジは、レイからすこし離れたホームの柱に身をひそめて、彼女の行動を見守っていた。
さきほど感じたあの冷たい憎悪は、いまはぬぐいさられたように消えてしまっている。むしろいまの彼女は、いっさいの気配を消してひとごみの中のただの一人となっていた。
ここでレイに話しかけてもよかったのだが、シンジには、どうしてもそのふんぎりがつかなかった。彼女が、なぜああもただごとならない様子で学校を抜け出したのかわからなかったし、何よりもここまできてすげなく無視されることが怖かったのだ。
レイは、そんなシンジの内心とはまったく関係なく、あいかわらず無表情のまま列車がホームに入ってくるのを待っていた。
レイが行動をおこしたのは、列車に乗ってふたつめの駅、五井についてからであった。
彼女は駅につくとさっさと列車を降り、ゆっくりと改札口にむけて歩いていった。シンジも、そのあとを追ってホームに降り立った。彼にはなぜ彼女がこんなへんぴな駅に降り立ったのかさっぱり見当がつかなかったが、それはあとで本人の口から聞けばいいと自分を納得させるしかなかった。
レイが改札口へ通じる階段に近づいたとき、ホームに列車の発車を知らせるメロディが鳴り響いた。意識を彼女に集中していたシンジは、まったくそれを無視していた。
目のまえで彼女のスカートがひるがえる。その白く細い足がしなやかに動き、回転する。
列車の扉が閉まったときには、もうレイの姿はそのなかに消えてしまっていた。
列車が完全にホームから出ていってしまったあとでシンジは、自分がまんまとレイにはめられて、この駅のホームに一人取り残されてしまっていることに気がついた。彼はぼうぜんと去っていく列車をながめているしかなかった。
どれくらいそうしていたであろう。ホームに誰も居なくなってしまってから、シンジははっとわれに返った。
どうしよう? どうしよう? どうしよう? どうしよう? どうしよう? どうしよう? どうしよう?
どうやって綾波の後を追おう?
シンジは考えた。次の列車がくるのを待っていては、いつ彼女が姿を消してしまうかわからない。かといって、これからタクシーをひろって後を追いかけようにも、リニアモーターカーのスピードはなみの乗用車でどうにかなるものではない。それこそ空を飛んで追いかけることができないかぎり、いくら彼女を「見」続けていようとすぐに接触を断ち切られてしまう。
空を飛ぶ? そうだ、僕は「跳ぶ」ことができるんだった!
シンジはあわててホームの階段をかけのぼった。そのまま改札口をぬけることなく、トイレの中にかけこむ。運よくあいている個室にあわててとびこみ、扉をしめる。独特のすえた臭気が彼にまとわりつくが、そんなものは無視して、意識をレイの乗った列車にあわせる。
まずは、まだ列車のなかに彼女がいるかどうか「確認」する。
いた。
つぎに、列車にトイレの個室があるかどうか「確認」する。
ある。
そして、あいているトイレがあるかどうかを「見」る。
あった。
シンジは呼吸をととのえ息をつめると、そこにむかって「跳」んだ。
まずはじめにシンジが感じたのは、世界がゆがんでぐるぐると回転している感触であった。全身がまるで鉛でできたように重く、気だるく、身体のあちこちが痛んだ。続いて感じたのは、顔がなにか冷たいものにつかっている感触であった。口のなかに、鉄の味と、なにか苦くて嫌なものがひろがっていった。
はっとして、シンジは意識をとりもどした。そして、いまの自分がどのような状態にいるかを確認した。
シンジは、トイレの床に身体をまるめて転がり、用をたす金具のなかに顔を半分ひたしていた。
「うわぁっ!!」
おもわずはねあがって立ち上がり、とびのく。そして、後頭部をしたたかにトイレのドアにぶつけ、そのままずるずると床にすわりこんでしまった。
しばらく息をととのえることに専念し、思考をめぐらす。
綾波は? まだこの列車のなかにいる?
シンジは意識をひろげ、レイを探した。さいわいにも列車はまだ次の駅についてはおらず、彼女は一人窓ぎわの席に座って外を見ていた。彼が意識を彼女のそばによせたそのとき、二人の「視線」がぶつかった。
結局、ここまで追ってきたのね。
……うん、ごめん。でも、綾波さんのようすがただごとじゃなかったから……
……そう。なぜ?
なぜって、それは……
いいわ。次の駅で降りましょう。
……うん。
あと、ひとつ。
え?
降りるまえに、汚水を落としてきて。
!!
シンジは、自分の身体の半分がすえた臭いのする水で汚れてしまっていることに、いまになって気がついた。だが、彼の心のなかにあったのは、まったく別のことだった。
なんで綾波は、わざわざ学校を途中でぬけだしたりしたんだろう。一昨日の爆弾テロがあったときから、なんかいつもの綾波らしくなかったし。
それに、あの憎悪。まるで親の敵を見るみたいだった。
シンジは、思考をそこでうちきった。次の駅への到着を知らせるアナウンスが聞こえ、自分がやらなければならないことを思い出したのだ。
「……汚れちゃった。……きれいにしなくちゃ」
夜のとばりがすべてをつつもうとしている。
潮の香りがあたりにただよい、そのそこはかとないざわめきが周囲に満ちている。はるかむこうの第二新東京市の明かりと喧噪が、ここまでとどいていた。
二人は、誰もいない海岸の岸壁に来ていた。
二人の間の沈黙は、しかしこれまでのそれとはちがって何かが始まろうとする直前の緊張にみちたものであった。二人はただ、この場で始まろうとしている何かへの覚悟を、自分のなかに作りあげ、固めようとしていた。
最初に口をひらいたのは、レイであった。
「なぜ、私を追うの?」
その視線は、うちよせる波のかなたにむけられている。シンジは、その繊細で美しく、そして厳しい横顔に目をやった。しばらくそのままでいる。そして彼も、闇につつまれようとしているかなたにその視線を戻した。
「最初見たときから、ずっと思っていたんだ。人形みたいだって。……ごめん。でも、そう思えたんだ。……それに、なぜなんだろうって」
思ってもみなかったほど、その声は静かで優しかった。シンジは、どこか遠くで自分ではないだれかが話しているような、そんなふうに感じていた。
「いろんなことを話してみたかったんだ。それに、いろんなことを聞いてもみたかったし。……自分がしつこくしていることもわかっていたし、それを迷惑に思われていることも。
……でも、近づきたいという気持ちをおさえることはできなかった。
ずっと思っていたんだ。なんで一人きりでさみしくないんだろうって。いつもどこか遠くを見ていて、そして、そこに行きたそうで、それで……」
ふっと、自分がなにを話しているのか気がつき、言葉がとぎれる。わずかにぎこちない沈黙が、二人の間をうめた。
「私は人形じゃない」
レイの口からもれたのは一言だけであった。
シンジは、小首をかしげるようにして面をレイにむけた。
「うん」
はっとして、レイはシンジに視線をむけた。その一言は、それほど優しいい響きをもっていた。たがいの視線がからみあう。シンジは黙って、けれども優しくうなずいてみせた。
レイは、もう一度視線を闇のかなたにむけると、口を開いた。
「……私は、誓いをはたさなかればならない。だから私はいまも生きていられる」
一度そこで言葉が終わる。
シンジは、そのままつぎの言葉がつむがれるのをまった。レイがやっと自分にその心の一端を開いてみせてくれたことが、何よりもうれしかった。
「一昨日の「マーハヤーナ」について、どれくらい知っているの?」
「……新聞で報道されてることと、ケンスケが話していたことぐらい」
シンジは、心がざわめきそうになるのを必死になって押さえた。いま彼は、レイのもっとも心の深いところに触れようとしている。その事実が、彼をこれまでにないほど緊張させていた。
汗ばむ手のひらをなんども握ったり、開いたりする。
だがレイのつぎの言葉は、彼のそんな覚悟をかるく打ち砕くような衝撃をたたきつけた。
「彼らは、私の大切な人を殺した敵。彼らを殲滅したのは国家ではないわ。それをしたのは、私」
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