「まったくもう、信じられないわ」

 シンジは、リツコの本気で怒っているらしい声に、はっとして目がさめた。

 まず最初に視界にはいってきたのは、見知らぬ天井であった。視線をうごかした先に、リツコがこちらに背中をむけて別のベットのわきにすわっている姿が見える。そして、彼女の怒りが自分ではなく、誰か別の人間にむけられているようなのを確認して、あらためて自分がどうなっているのか思いだそうとした。

 えっと、D−Martの前でミサト先生に声をかけられて、送ってくれるっていったから、それで先生の車に綾波といっしょに乗ったんだ。それから突然、すごい勢いで車が走りだして、裏道に入っていって、それから……

「うわあああっっっ!!」

 そのあとの恐怖を思いだしてしまったシンジは、おもわず悲鳴をあげると、寝かされていたベットから床にころげ落ちてしまった。

 そのままリノリウム張りの床に頭から落ち、後頭部をしたたかにうちつける。目の前にお星さまがとびちり、もう一回意識を失いそうになる。

 シンジは、もう一度意識をはっきりさせようと、かるく頭を左右にふった。

 と、彼の身体のうえに薄暗い影がさす。はっとして視線をそのさきにむけると、まず最初に目に入ってきたのは、真白いエナメル塗りの革靴であった。なんとはなしにそのまま視線を上にあげていく。

 真白いぴしっと折り目のはいったズボン。

 緋色の裏地の白いマント。

 染み一つない白いチョッキとタキシード。

 真珠色に輝いている白い蝶ネクタイ。

 そして、骸骨にそのまま皮膚が張りついたような痩せた生気のない老人の顔。ただその瞳だけが煌々と輝いている。二人の目と目があったその瞬間、老人の薄い唇がゆっくりと弧をえがいてつり上がっていった。笑みというにはあまりに酷薄なその形相に、シンジの意識は真っ白になる。

「!!」

 シンジは、恐怖でもう一度意識を失いそうになった。

 が、その瞬間、彼に救いの手はさしのべられた。

「シンジ君、起きたの」

 リツコが声をかけるのがあと半呼吸おそかったとしたら、彼はそのまま気を失ってしまっていただろう。それほど頑丈なわけではない彼の精神にとって、今日一日の体験はあまりに衝撃的にすぎた。

 なかばあちらの世界に行きかけているシンジを見たリツコは、彼を見おろしている老人にむかってあきれたように声をかけた。

「毒島先生、なにシンジ君を脅かしていらっしゃるんです」

「なに、せっかくの実験をほうり出して、今日一日なにをやっていたのかと思っての。そういうことは本人に聞くのが一番確実だろうと思うて、な」

「だからといって、目が覚めたばかりに突然、そんなふうに驚かすこともないでしょう。ただでさえ、土日返上でここのところ実験に協力していたのですから、この何日間かの休暇は当然ですわ。

 シンジ君、お帰りなさい。……ちょっとこっちへ来てもらえるかしら」

「はい!」

 跳ね起きるように立ちあがると、シンジはリツコのそばに移動した。そして、おそるおそるうしろをふりむく。そこに立っている毒島とよばれた老人をもう一度見たとき、彼はこの老人のことを自分が知っていることを思いだした。

 毒島医師は、この研究所のかなり偉い研究者の一人で、シンジらを被験者としておこなわれている研究の医学部門の責任者であった。

 実験が開始されたその日に毒島は、シンジからそれこそ採取できるかぎりのすべてのサンプルを採取していったのであった。血液、細胞片、髪の毛はいうにおよばず、尿、便、粘膜、その他ありとあらゆる身体のパーツをふんだくっていったのである。ちなみにこの老医師は、精液まで欲しがったのではあるが、さすがにシンジが抵抗したのと緊張でどうにもならなかったので、その件はいまのところさたやみになっていた。

 ここのところシンジは、リツコの実験のほうに参加する機会が多かったこともあり、毒島とはほとんど顔をあわせてはいなかった。

 盗み見るようにふりむいているシンジの前で、毒島は、定規でもはいっているかのようにしゃんとした姿勢のままで、ゆっくりとふりかえろうとしていた。シンジは、あわてて前をむき、意識をリツコのほうに集中させた。だが、彼の「見る」ことのできるなにかが、うしろで老医師のゆっくりと変わっていく不気味な表情をとらえ、脳の視覚域にその情報を送りこんでくる。ひたいに脂汗が浮かび、ゆっくりと顔をつたって落ちていく。

 「見ちゃ」だめだ、「見ちゃ」だめだ、「見ちゃ」だめだ、「見ちゃ」だめだ、「見ちゃ」だめだ、「見ちゃ」だめだ、「見ちゃ」だめだったら!

「毒島教授」

 リツコがふりかえりもせずに老医師の名を呼ぶ。その声は、氷点下に達するか達しないかといったほどに冷たい。

 シンジは、うしろで老人が声をたてずにけくけくと笑ったのを「聞い」た。

 

 リツコのすわっているそばのベットに寝かされている人の姿をみて、シンジは、やっと精神の平衡をとりもどした。

 ミサト先生!

 シンジのクラスの担任の葛城ミサトが、ベットに寝かされている。よほど苦しいみたいで、熱で顔がほてり、なにかうわごとのようなものをつぶやいている。そんな彼女のひたいに、リツコがぬれた手ぬぐいをあてていた。

 そして、自分がどこにいるのかにも気がつく。

 そこは、研究所の寮のそばにある職員用の診療所の一室であった。シンジは、綾波とともに傷ついたあのとき以来、なんどもここに足をはこんだことがあった。

「あの、ミサ……いえ、この方、どうしたんですか?」

「ミサトのこと? 大丈夫よ。ただの風邪よ」

「リツコさん、ミサト先生のこと、知ってるんですか!?」

 さすがのシンジも、二人が知りあいであるとは、思いもよらなかった。あくまで冷静で、神経質なリツコと、感情の起伏がはげしく、ものにこだわらないミサトの二人が、どこでどうやって知りあったのか、検討もつかなかった。そんなシンジの疑問に、リツコはあっさりと答えてみせる。

「大学の同期よ、彼女は。それ以来ずっと、の仲ね」

「……知りませんでした」

「そうでしょうね。言う必要のないことだもの」

「そう、なんですか」

「そう」

 もう一度、うしろで毒島がけくけくと声をたてずに笑っているのが、シンジには「聞こえ」た。

 背中のうぶ毛が一本残らず逆立っていくのを感じるシンジ。さすがにこんどはリツコはなにも言わず、老医師のことを完全に無視すると、言葉を続けた。

「それにしても彼女、あいかわらず無茶な運転をするわね。さっき入り口から連絡があったわ。青い外車が止めるまもなく研究所内に侵入したって。で、彼女、どうしたの?」

 シンジは、リツコに、D−Martの前でミサトにあってから研究所まで送ってもらうことになったいきさつについて説明した。彼の説明に黙って耳をかたむけていた彼女は、あきれたようにため息をつくと、ぽつりとつぶやいた。

「あいかわらずね、彼女」

「?」

「今日は、飲酒運転はしてはいなかったみたいね。まったくこの飲み助、人に心配ばかりかけさせて。

 まあいいわ。シンジ君、荷物はレイが部屋に運んでおいてくれたわ。ここは私と毒島先生にまかせて、あなたは部屋へお帰りなさい」

 おもわず心配そうにうしろをふりむいてしまうシンジ。と、そこには、いつのまに移動していたのか、毒島医師がすぐうしろに移動していた。おもわず息を飲むような悲鳴をもらし、シンジは、ミサトの寝ているベットに倒れこんでしまった。

 さすがに周囲がうるさくて、ミサトの意識がもどる。と、彼女は、自分のうえになにか重たいものが乗っかっているのに気がついた。

 そこには、彼女のクラスの生徒の碇シンジがひきつったような表情をうかべ、ころがっている。ついでに、彼の手が自分の自慢のバストのうえにのせられているのにも。

「いやーん、碇君のえっちぃ〜」

 ミサトの声が耳にはいって、シンジは、はじめて自分がどのような状態にいるのか気がついた。

「うわわああぁっ!」

 のけぞるようにして跳ねあがり、そのままベットのむこう側にころがり落ちる。そのまましたたかに頭を打ちつけてしまった。そんなシンジをみて、リツコは無表情なまま冷たくつぶやいた。

「不様ね」

 シンジは思っていた。このまま意識を失うことができたなら、どんなに楽であろうか、と。

 だが、そううまくいくはずもない。ミサトがシンジを救けおこそうと、身体をおこす。が、そのまま目がぐるぐると回転し、ばったりとベットに倒れこんでしまう。シンジは、あわてて意識をはっきりさせると、立ちあがり、ミサトの枕元に立った。そして、彼女のひたいに手をやり、熱をはかってみる。彼女の熱は、彼が思っていたよりもはるかにひどかった。

「まあ、ただの風邪だがの。不精をしたのでこじらせてしまったようじゃな」

 一変して、毒島医師が医者の声で説明した。

「今現在で、熱は三八度七分ある。しばらくは温かくして絶対安静にしていなければならんな。下手にふらふらしては、肺炎を併発するだろうからの。ま、そういうわけだ。君がここにいては、患者が興奮する。後は儂らにまかせて部屋へ帰りたまえ」

「はあ」

 なんとはなしに立ち去りがたい様子のシンジを、毒島医師は、部屋の外へ連れだした。

 

 診療所の薄暗い廊下に、レイが一人ソファーにすわっていた。

 シンジは、彼女が自分が部屋からでてきたのに気づいて立ちあがり、近づいてくるのをみて、ふわっと心が温かくなった。

 そんなシンジの心のなかを知ってか知らずか、毒島医師は、穏やかにレイに声をかけた。

「綾波君、具合はどうかね」

「問題ありません」

「そうかね。身体の各粘膜の感触はどうかの?」

「問題ありません」

「額や、側頭部に、感覚のない部分はあるかな?」

「ありません」

 毒島医師の質問に、そっけないほど簡潔に答えていくレイ。

 こんな調子でたがいのやりとりがかわされる。シンジはその二人の会話から、毒島医師がレイの担当医でもあることを知った。老人の言葉を聞いていると、レイの「離人症」という病気は、神経細胞が本来脳につたえるべき情報をつたえることができないために発生するものであるらしい。いつのまにか老医師は、そんな彼にむかってレイの病気についての説明をしていてくれた。

「つまり、綾波はあの地震の時の事故で、脊髄の神経細胞の一部が傷ついてしまったわけですね」

「左様。しかしそれは、感覚系の神経根に発生する神経炎や、ビタミンB6の過剰摂取によるものとはちがって、脳脊髄の全体にわたっているわけではないので、比較的リハビリにも時間はかからなかったし綾波君の適応も早かったわけだ。

 うむ。しかも最近の検査では、彼女の神経根の損傷部分に、若干の変化が見られる。

 どうやら、本来ならあり得ないことではあるが、神経繊維の損傷が解剖学的な意味でも回復しつつあるようじゃ」

「?」

 そこでいったん毒島は言葉をとめる。シンジは、彼がなにを言わんとしているのかわからず、きょとんとして次の言葉をまった。

「先日、君が半径四〇〇メートルの穴を掘ったときのことじゃよ。あのとき君は、「力」で綾波君を治療しようと試みたのう。たぶんその試みは、彼女の外傷のみならず、彼女の身体的な損傷すべてを修復することになったのだろうて」

 そういって老医師は、また声をたてずにけくけくと笑った。

 そのときのことを思いだして、シンジはまた情けない気持ちにさせられてしまった。あれだけ大きな失敗をしたのは、自分が「力」を使えるようになってから、初めてのことだったのだ。そのことに無神経にふれられて、彼はすこしだけ不愉快になった。

 と、その瞬間、となりのレイの雰囲気が、わずかに変わったのを感じる。

 シンジは、はっとしてレイのことを見た。彼女は、いつも通り無表情なままで、そこに立っていた。

 だが、シンジには、彼女がそんな毒島の言葉をかなり不愉快に感じているらしいことが、なんとはなしにわかった。この老人の言葉は、なぜか二人の神経を逆なでするようなところがあった。

「さて、今日はもう遅い。儂は患者のところへ戻るとする。君らも部屋へ帰りたまえ」

 そういって、彼は緋色の裏地のマントをひるがえすと、部屋の中に戻っていった。

 シンジとレイは、黙ってそれを見送った。部屋の扉が音もたてずに閉じられたとき、レイは一言つぶやいた。

「私、あの人嫌い」

 

 診療所からでた二人は、夜空いっぱいにひろがる星々を見あげた。そこには、都会では見られないほど多くの星達が、あるものは強く、あるものはひそやかにまたたいている。それを見上げながら、シンジは、そっとレイにたずねた。

「なんで綾波は、毒島先生のことが嫌いなの?」

「……………」

「……ごめん。聞いちゃいけなかったね」

 そのときレイは、そっとシンジの服のそでに手を触れた。そのレイの手から、レイの感じている怒りが、少しずつシンジのなかに伝わってきた。

 レイは、毒島医師の徹底した冷徹さと、無神経なまでにすべてを観測し、分析し、評価するその態度が、二人のあの一瞬をまるで実験用小動物を解剖するかのようにあつかうのが、嫌だった。あの二人だけの時間は、彼女の心のなかの奥にあるきれいな箱にしまわれている大切な宝物のひとつであって、彼女が許した者以外の人間がそれに触れるのは、彼女に対する侮蔑以外の何物でもなかった。

 シンジは、レイの心が傷ついていて、本当なら涙ぐんでいてもおかしくはないほどに怒っていることに気づかされ、びっくりしてしまった。いつも無表情で心のなかをのぞかせない彼女が、やっと人間らしい感情をとりもどしつつあることを、だからこそその心がとても繊細で傷つきやすいことを思いだす。そして、自分があまりに彼女にたいして無神経であったことに、ひどくすまない気持ちにさせられた。

「ごめん。僕が悪かった。綾波のこと、もっと考えなきゃいけないのに、ただ自分の好奇心ばっかり……」

「碇君は、悪くないわ」

 レイの言葉には、反論をゆるさないなにかがあった。

 そしてレイは、それ以上シンジの言葉をつづけさせず、そこで会話をうちきった。

「うん」

 シンジは、それでもレイが自分のことを気づかってくれたことがうれしくて、申しわけなくて、どうしたらいいのかわからなくなってしまった。そっと、彼女の横顔をのぞいてみる。レイは、ただ黙って、前を見ていた。やっぱりその面には、なんの表情もうかんでは見えない。

 やっぱり、綺麗だ。

 シンジは、普段の彼ならば、思いつきもしない行動にでた。

 彼は、ずっと自分の服のそでを握っていたレイの手をとると、しっかりその手のひらを握りしめた。

 レイは、びっくりしたように一瞬足を止め、そして、シンジの手を握って返した。それから、まずは横目で、そして顔をむけてシンジを見る。手のひらから、彼の体温と心のぬくもりが、少しづつ彼女のなかに伝わってきた。

 シンジは、黙って、ほほをすこしだけ赤らめながらうつむいていた。

 それにつられるように、レイのほほにもすこしだけ朱がさした。なんとはなしにシンジの顔を見ていることが出来なくなり、そのままうつむいてしまう。

 そのまま二人は、星空の下、ずっと立ち続けていた。

 つながれている手のひらから、たがいの心のなかが染み入ってくるように感じることができた。今だけは、この世界に二人だけしかいなくて、そしてそれだけで十分だった。

 シンジは、レイが、自分を草原の中にまっすぐにたっている木にイメージして見ていることを知った。

 レイは、シンジが、自分を水のなかから見上げる蒼い満月にイメージして見ていることを知った。

 どれくらいそうしていたか。うつむいたまま、シンジがぽつりと言った。

「帰ろうか」

 二人は、そのまま寮につくまでずっと手をつないでいた。

 

 

 シンジは、ずっと自分の部屋のベットの上から、星空を見あげていた。

 左手には、まだレイの手のひらの感触がのこっている。

 冷たい手だったな。でも、手の冷たい人って、心が温かいっていうんだよな。

 そのとき、シンジの左手に、もうひとつの感触がよみがえってくる。それは、指がのみこまれていくように柔らかく、けれどもそれ以上甘えるのをゆるさないような弾力があって、温かった。そのミサトの胸の感触が突然手のひらに戻ってきて、彼の全身を火がついたように熱くする。

 突然、自分の中になにか凶暴なものが生まれ、シンジは、どうしたらいいのかわからずに枕をぎゅっとだきしめた。

 そのままベットの上を右に左にごろごろところがる。

 ……………!

 いったいどれだけそうしていたか。

 やっと、全身を焼いていたなにかが去っていき、シンジはのろのろと身体をおこした。なぜかはわからないまま、診療所に意識がいき、その中を「見て」しまう。もう真夜中をまわっていて、そこにはだれもいなかった。ミサトはさきほどのベットの上で、独りなにかにうなされるように、苦しそうによこたわっていた。

 シンジには、そのミサトのうわごとは、ただ熱のためだけのようには思えなかった。それは、あまりにも辛く、苦しげであった。

 シンジは、自分の意識が、そのままミサトの心のなかに入っていこうとするのを、なんとかおさえようと苦しんでいた。自分のなかに、まるで別の人間がいるようにおさえがきかなくて、そして、凶暴なものが外に出る機会をうかがっていた。

 これ以上は、自分をおさえることができない。

 そう思ったときシンジは、ベットからころがり落ちるようにとびだすと、バスルームに駆けこんだ。

 そのままシャワーのコックを全開にし、冷たい水で自分を叱りつける。

「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」

 バスルームの壁に両手をついたまま、しばらくシンジは、そうやって息をととのえていた。

 ぬれた髪の毛から水滴がしたたり落ち、Tシャツとショートパンツが、ぬれそぼったまま肌に張りついている。わずかにあけられた口から漏れる息が、荒く、そして熱い。

 やっと自分がまともになったことを確認して、シンジは、バスルームのそとに出た。ぬれた服を脱いで洗濯機の中にほうりこみ、バスタオルで身体をふく。

 ミサト先生。

 声にだすことはせずに、口のなかだけでその名をつぶやいてみる。

 また、身体の奥で、凶暴ななにかがその首をもたげたような気がした。

 だがそのとき、シンジの脳裏に色鮮やかに映しだされたのは、ミサトのすこしきつめの美しい顔でも、女の臭いをふりまいている肢体でもなかった。

 それは、綾波レイのすこしだけほほを染めた、笑顔であった。

 ……………!

 鏡の中に写る自分の顔が、興奮で上気し、醜くゆがんでいるのが写る。

 シンジは、なにかいいようのない怒りがこみあげてきて、拳を洗面所の壁にたたきつけた。手が痛みをうったえているのだが、体中をかけめぐるアドレナリンがそれを感じさせない。

 シンジは、そのままの格好で吐き捨てるようにつぶやいた。

「……僕って、最低だ……」

 

 同じころ、レイも自分の部屋のベランダから、星空を見あげていた。昼間、シンジらといっしょに買ったパジャマのままであったが、不思議と寒くはなかった。

 右手には、まだシンジの手のひらの温もりがのこっている。

 温かい手。私のこと気づかってくれる手。私のことを守ってくれる手。

 そのときレイは、彼女が診療所の廊下でシンジを待っているときのことが、なぜか思い出された。彼女がひとり暗い廊下で彼を待っているあいだ、彼は、リツコや、毒島や、ミサトと楽しそうにじゃれあっていた。それを「見ていた」時の気持ちが、急に思いだされる。

 突然、自分のなかになにか苦しいものが生まれ、レイは、どうしたらいいのかわからずに自分をぎゅっと抱きしめた。

 そのままベランダにしゃがみこみ、しばらくそうしてうずくまっている。

 ……………

 いったいどれだけそうしていたか。

 やっと心のなかのなにか苦しいものが去っていき、レイはのろのろと身体をおこした。なぜかはわからないまま、意識がシンジの部屋にいき、その中を見てしまう。もう真夜中をまわっているというのに、シンジはまだ起きていた。彼はベットの上で、独りなにかに苦しんでいるかのように、左右に寝返りをうっていた。

 レイには、シンジのその様子が、ただならぬように思えた。それはあまりにも辛く、苦しげであった。

 レイは、意識をシンジの意識にそっと触れさせてみた。その瞬間、彼女の意識のなかに、まるで熔けた鉄のようななにか熱く恐ろしいものがなだれこんでくる。これまで見たことのない、なにか別のものがシンジのなかにいて、それが自分に襲いかかってくるような気がした。

 恐い。

 そう思ったときレイは、あわてて意識をシンジから引きはがし、そっとうかがうようにもう一度彼を「見つめ」なおした。

 シンジはしばらくそうしてころがっていたかと思うと、突然ベットから跳ね起き、バスルームへ駆けこんだ。

 レイは、シンジが冷たいシャワーで自分のなかにいる熱くて恐いなにかを必死に押さえこもうとしているのを「見つめ」続けた。

 シンジは、バスルームの壁に手をついて、大きく肩で息をしている。そして、ぬれた服をむしり取るようにして脱ぎ、バスタオルで身体をふいていく。その白く、細く、肉付きの薄い身体が、なぜか上気し、興奮している。

 碇君。

 声にだすことはせずに、そっと心のなかでその名を呼んでみる。

 その瞬間シンジは、はっとしてその声が聞こえたかのように顔をあげ、鏡のなかの自分に見入った。そして、突然拳をふりあげると、壁にそれを叩きつける。

 しばらくそうして固まっていたかと思うと、シンジは、服を身に着け部屋の外に出ていった。

 レイは呆然としたまま、そんな彼を「見続け」ているしかなかった。

 そして、ベランダを一陣の風が吹き抜け、雲が月を隠す。

 レイは、その面からいっさいの表情を消したまま部屋へもどり、服を着替えると、部屋の外へ出ていった。

 

 シンジは、診療所の前に立っていた。

 その古い洋館風の建物は、昼間見るのとはちがって、威圧しのしかかってくるかのようにそびえたっている。シンジは、その威圧を押し返すかのように建物をにらみつけると、入り口の扉のノブに手をかけた。

 当然、鍵がかかっている。

 だがシンジは、かまわず鍵を「開ける」と、診療所の中に入っていった。

 

 レイは、診療所からすこしはなれた林の中に立っていた。

 しばらくそうやって診療所周辺の監視機械の位置を確認し、侵入するための経路について考える。だが、さすがのレイにも、そのような隙を発見することはできなかった。彼女はすこしだけ考えをめぐらせると、無雑作に建物にむかって歩き始めた。

 歩きながら、薄手の革の手袋を両手にはめる。

 レイは、そのまま扉を開けると、診療所の中に入っていった。

 

 黒く、巨大な木々が重なり合い、鬱蒼としたジャングルがどこまでも続いている。

 どこか遠くから、ドラムを叩いているような砲声が腹にひびいてくる。じめじめしていて汗で服が身体に張りつき、下生えをふみしめる足元がおぼつかない。背負っている子供が、服越しにも弱っていてもういくらも持たないことがわかった。

「基地まで、あとどれくらいなの?」

 そばを歩いている兵士に、すがるように聞く。彼は、黒いプラスチックフレームの眼鏡のむこうから、なんの表情もうかんではいない瞳で彼女を見返し、つぶやいた。

「このまま、敵対勢力と接触しなければ、半日でしょう」

「敵対勢力? はっきりと敵といったらいいじゃない! いまさら言葉遊びなんて……」

 そのまま、足もとをはっているツタにつまずきそうになる。そのまま倒れそうになる彼女を、兵士は無雑作にささえ、助けおこした。周囲をいっしょに歩いている兵士達や、子供らや、大人らが、一瞬だけ彼女のほうを見る。が、すぐに興味をうしない、また黙々と歩いていく。

「ごめんなさい、どなったりして。……助けてくれてありがとう」

 一瞬前のいらだちが、嘘のように消えてしまっていた。自分がどうしようもなくいらだっていて、そのことが恥ずかしくて、相手の顔を見ることができない。

 だが眼鏡の兵士は、たいして気にした様子もなく、うなずいて返しただけであった。

 と、前のほうから、また別の兵士が、下生えをかきわけながら駆け寄ってくる。そのまま眼鏡の兵士のとなりに立ちいっしょに歩きながら、なにか小声で話し始める。彼女は、興味のないふりをして歩きながら、そっとその話を盗み聞きする。

「前方に、小隊規模のゲリラがこちらにむかって移動中だ。重火器は装備していないようだ。まだ気づかれてはいないようだが、それも時間の問題だろう」

「敵の目標は?」

「やはり我々だろう。今の時期にこれだけの兵力が、これだけ国連軍の勢力圏に近い地域をパトロールしているはずがない」

「同感だ。……おれが五人連れて連中を足止めする。その間、本隊の指揮を取ってくれ。増援、援護はいっさいいらない。子供らと国連職員の保護が最優先だ。符丁は、平和、博愛。いいな?」

「了解した。青葉三尉は、本隊の指揮をとり、民間人をベースキャンプまで非難させる。符丁は、平和、博愛」

「よし」

「……おい、日向」

「? なんだ」

「この前貸した金な、ちゃんと返せよ。国に帰ったら、あれでギターを買うんだからな」

「了解した」

 最後の一瞬だけ、眼鏡の兵士の声に笑いの粒子がまぶされた。そのまま彼は、何人かの兵士に声をかけると、前方の暗いジャングルのなかに消えていく。

 これまで眼鏡の兵士が歩いていた場所を、こんどは戻ってきた兵士が歩き始める。彼は、彼女に、なんということはないような口調で、話しかけた。

「敵対勢力が確認されました。進路を変えます。うまく連中をやりすごしたら、すこし休憩をしましょう。そうすれば、キャンプまであとすこしです」

「わかったわ」

 そんな生易しい状況ではないことはよく分かっていた。だが、彼らがそのことを自分らに知らせないほうが、すこしでも生き延びる確率が高くなると判断したのなら、それに従うしかなかった。彼女は、今の通達を、ほかのもの達に伝えようと足を止めた。

 その瞬間だった。

 すぐそばでカタカタカタというあの嫌な機関銃の発射音が鳴り、何人もの子供や大人や兵士たちが、絶叫をあげてころがった。彼女のそばを、ひゅん、ひゅん、となにかがものすごい早さでがかすめていく音も聞こえる。

 何カ所かで、ぼん、ぼん、となにかが破裂する音が響いて、また何人かが倒れる。

 隣を歩いていた兵士が、足を止め、どっちからその音が聞こえてくるのか確認してから、ありったけの声を振り絞って絶叫した。

「一〇時方向、応戦!」

 彼も、下げていた小銃をかまえ、タンタンタン、と狙いもつけずに撃ち始める。

 彼女は、これまでもそうしてきたように、背中の子供をだきしめるように抱えると、地面に伏せた。下生えが湿っていて、また服がぬれて気持ち悪かったが、こうしてうずくまっているのが一番安全であることを、彼女はこれまでの短い経験で十二分に理解していた。

 あたりで、銃声と、爆発音と、絶叫が飛び交い、火薬の鼻の奥を刺激するにおいと、血のむせ返りそうな甘いにおいがたちこめている。

 と、その瞬間、彼女の体は、なにかばかでかいハンマーのようなものでぶんなぐられた。そのまま地面を転がり、木の幹にぶつかってとまる。

 身体中が痛み、腹のあたりがぬれて気持ち悪かったが、まだ意識ははっきりしていた。

 一瞬あとにこれまでだきしめていた子供がいないことに気がつき、あわててあたりを見回す。周囲は、死体と、けが人と、血と、内臓と、ちぎれた人間の身体の一部分と、火薬の煙でろくでもないありさまだった。そして彼女の抱えていた子供の身体。腹から中身がとびだし、なんの表情もないガラスのような目で彼女を見つめている。

 目と目がかさなりあい、そして、

 

 彼女は、いつもの通り絶叫する。

 

 シンジは、廊下にまで響いてきたその絶叫に、廊下を駆け抜けた。

 非常灯しかついていない暗い廊下を走り、階段を駆けのぼり、ミサトの寝かされている部屋の前に立つ。わずかなためらいもなく、その扉を開ける。

 その暗い部屋の中でミサトは、ベットの上でうずくまって震えていた。

 彼女は、シンジが部屋に入ってきたことにも気がつかず、なにかうわごとのようなものをつぶやいている。

「ミサト先生!」

 シンジは、彼女のことを呼んだ。だが彼女は、自分の世界に入ってしまったまま、彼の言葉にまったく反応しようとしない。

「ミサト先生!」

 もう一度彼女のことを呼び、シンジは、彼女に近づきその手を握る。その瞬間、彼女の手から、暗いジャングルの情景がシンジの脳裏に流れこんできた。暗く、じめじめしていて、硝煙と血のにおいにみちた、悪夢の場所。彼は、そのままミサトの悪夢の恐怖のなかに捕らわれそうになった。

「ミサト、先生」

 それでも、必死に意識を引きはがし、なんとか彼女とともにこちら側へ帰ってこようとする。

 だが、そのジャングルは、あまりにも暗く、深く、迷路のようにシンジをとらえ、離そうとはしない。自分独りだけで戻るのは、どうということもないが、しかしミサト一人をおいていくわけにはいかなかった。悪夢のなかでミサトは、なんども傷を負い、人が無残に死んでいくのを見なければならないのだ。それをわかっていて、放っておくわけにはいかなかった。

 シンジは、本当なら、絶対にやりたくなかった最後の手段を使うことに決めた。

 握っている手から、ミサトの意識に直接その名を呼びかける。そして、彼女の悪夢の世界を、圧倒的な意識圧で吹き飛ばした。

「ミサト先生っ!!」

 ようやく、その呼びかけにミサトは反応した。

 のろのろと身体を起こし、ガラスのような生気のない目でシンジをみつめる。ふだんの陽気でおちゃらけている彼女しか知らないシンジには、はじめて見る虚無的で疲れた表情であった。

「ミサト先生、大丈夫ですか?」

「……シンジ、君?」

 ようやく彼女の瞳に光がもどってくる。

「……あの、ものすごい叫び声が聞こえたんです。それで、どうしたんだろうと思って、それに、すごくうなされていて、苦しそうで……」

「ありがとう。もう、大丈夫よ」

 そのミサトの声は、とても穏やかで、優しかった。

 シンジは、はっとして、ミサトの顔を見直した。彼女は、化粧も落ちていて、疲れていたけれども、やはり美しかった。暗闇が、その美しさをいっそう引き立てていた。

「ごめんなさいね、心配させたみたいで。でも、どうしたの、こんな時間に?」

「……あの、ミサト先生が心配で、それに……」

 シンジのちょっと困ってしまったような答えに、ミサトは優しく微笑んだ。

「私は大丈夫よ。だからもう、お帰りなさい」

「はい……」

 だが、やはりシンジは立ち去りがたいようであった。困ってしまったようにもじもじしながら、それでもミサトの寝ているベットのそばから離れようとしない。

 そんな彼をミサトは、シーツにくるまったまま黙って見つめていた。

 

 しばらくのあいだ、沈黙が続いた。

「学校はどう?」

 言葉を発したのは、ミサトの方であった。

 わずかに身じろぎしたあと、シーツにくるまれたまま身体をおこし、シンジに顔をむける。

「え?」

「学校は楽しい? シンジ君のようなおとなしい子は、いじめられやすいけれど、そんなことはない?」

「あ、はい、大丈夫です。みんないい人たちばかりですし」

「そう、よかったわ」

 もう一度、二人の間に沈黙がおりた。しばらくそうして二人は見つめ合っている。窓からさしこむ月明かりが、二人の顔に陰影をつけ、その表情を隠す。

 こんどは、その沈黙に耐えられなくなったシンジが、口を開いた。

「あの、ミサト先生に、すごく感謝しているんです。僕は、前の学校で、やっぱりいじめられていて、それで、担任に嫌われていて、問題ばかり起こす奴だって、だれも僕を必要としていなくて。でも、こちらに来てから、友達もできて、毎日が嘘のように楽しくて、それに……」

 なぜか、そんな言葉が口をついて流れ出した。

 優しい表情でその言葉に耳をかたむけているミサト。だが、彼女の言葉は、ふだんの彼女からは想像もできないものであった。

「……私は、あなたの思っているような立派な教師ではないわ」

 突然のミサトの言葉に、シンジは、絶句してしまった。

 そんな彼に、ひとりごとでも言うかのように、ミサトはしんみりと言葉を続ける。

「うわさに聞いているでしょう? 私は、アル中一歩手前の、ただのバカよ。本当は、今もアルコールが欲しくて手が震えそうなくらい」

「でも、先生は、ミサト先生は、僕たちのために色々してくださっているって、聞きました。うちの生徒が、他の学校の生徒とけんかしたときだって、むこうが悪いのをこっちが悪いようにされそうになったのを、必死でかばってくださったって……」

「あれは、ただ、むこうの生徒が明らかに悪いのを、親が色々へ理屈こねるから、頭にきてしまっただけ。知り合いが警察にいて、そこで聞いた話を相手につきつけただけよ。私はたいしたことをしてはいないわ」

「でも、ほかの先生はみんななにもしなくて、ミサト先生だけが……」

「そんなことはないわ。ただ、誰も大きな声で話さないだけよ」

「そんな……」

 むきになって言葉を続けるシンジに、ミサトは言い聞かせるように語り続ける。

「たとえば、シンジ君、あなたが転校してきたときにも色々とあったわ。あなたが前の学校で、色々と問題があって、しかも、理由は分からないけれども、こんなわけのわからない研究所に独りで住んでいて、どうみても問題児になることはわかっていたわ。

 でも、何人もの先生が、それでも自分のクラスに引き取るっていったわ。私があなたのクラスの担任になったのは、私のクラスなら大丈夫だろうって、ほかの先生が信用してくれたからよ。職員室の外から見ているだけではわからないでしょうけれども、私より立派な先生は、いっぱいいるわ」

「でも……」

 ミサトをみつめるシンジの表情は、泣き出しそうに切なく、悲しげであった。たとえていうならば、母親に置き去りにされそうな子供のように。

「むかし、私は国連に勤めていたことがあったわ」

 突然話が変わり、シンジは、ミサトがなにを言おうとしているのかがわからず、きょとんとしてしまった。

「あのころ私は、東南アジアのある国で、難民キャンプの子供に色々なことを教える教師みたいなことをしていたわ。あのころは、セカンドインパクトのすぐあとで、どこでも内戦がおきていて、私のいた難民キャンプもそれにまきこまれた。

 そのとき私は、なにもできなかった。なにもできなくて、ただヒステリーをおこすばかりで、結局子供らを死なせてしまった」

 最後のほうは、ほとんど消え入りそうで、よほど注意して聞いていないと聞きもらしてしまいそうなほどであった。

「私は、なにもできなかった。生き残った子供らを助け出したのは、青葉君。やつらを撃退したのは、日向君。私はなにもしなかったのよ」

 あとは声にならず、ミサトは、両手で顔をおおい、嗚咽をもらし続けた。

 呆然としてシンジは、そんなミサトの告白に圧倒されてしまっていた。ふだんあれだけ楽しそうに日々をすごしている彼女に、そんな辛い過去があったとは、想像すらできなかった。

 ミサトが両手で顔をおおったときに、巻きつけてあったシーツがほどけた。彼女は、ブラとショーツだけの下着姿でベットに寝ていた。そしてシンジの目に、彼女の抜群のプロポーションを誇る裸身と同時に、腹部から胸に走る醜いひきつった傷跡が入ってきた。

 シンジになにか言うことが、できるはずもなかった。


 あとがき

 

 どうもおひさしぶりです、H金物です。

 すいません、と、最初っから謝ってしまいます。結局第弐話も大幅に予定をオーバーし、C Partを書かなければならなくなってしまいました(笑)。どうしたのかなあ? 予定では、二話で十分終わる程度の話だったのに。どこでどう間違ってしまったんだろう?

 しかし、ミサトの過去になにがあったか書いていて、なんだかレイの時と変わらないなあ、と、同じパターンでいいのかという疑念がふつふつとわいてきましたね。結局、自分の実力不足なだけですから、言い訳のしようもないわけですが。

 それに、今回も結局は、シンジとレイがいちゃついて終わってしまいました。手ぇ握ったぐらいで何よろこんどるんじゃい、というのは、おかげで話が増えまくっている作者の八つ当たりでしかないんですが(笑)。

 さて、次こそ第弐話を終わらせて、アスカの来日する話に取りかかります。

 たぶん次の話は、かなり近いうちに更新できるんではないでしょうか。それに、かなり短く終わらせられると思いますので、今回みたいに四苦八苦しながら書かずにすみそうではあるし(笑)。

 そういうわけなんで、今しばらくお待ちくださいませ。

 ちなみに、最後になりましたが、このストーリーのテーマは、あくまで「ラブラブシンちゃん」です(笑)。

 それではまた、機会がありましたら、次の作品でお会いしましょう。 

H金物拝  


 C Partへ続く

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