第参話 アスカ、来日

 

 

 夜のとばりが下りた周囲を見回した少女には、遠くに見える首都移転にわくベルリンの街や、そこの世界への玄関口であるテンペルホーフ空港の施設の灯し火が、おりからたちこめる霧のなかにかすんで見えた。その幻想的な風景は、少女にいま彼女がひとつの物語から退場しようとしているような思いを感じさせていた。

 少女は、これから遠くむこうに見える真白い巨大な飛行機に乗ってこの生まれ故郷であるドイツを離れ、わずかに彼女の母の口から語られ聞かされていただけの国、日本へと向かおうとしている。そしてそのことが、今この瞬間になっても彼女には信じられなかったのであった。これまで自分が経験してきた多くの事件が、常識にてらしあわせてみるならばそれこそ嘘のような騒動であっただけに、自分自身をふくめた全てに現実感がとぼしいのもしかたがないことではあった。

「アスカ」

 少女は、自分を呼んだ声のほうにむきなおった。

 そこには、この二年間常に自分のそばにいてくれた父親が、娘を見つめて立っていた。

 ふと少女は、まだそれほどの歳ではないはずの父の頭に、わずかではあるが白い物が混じっていることに気がついた。

「これでお別れだね。次に会えるのがいつになるかわからないが、すこやかでいて欲しい。君が日本でも元気でいることを願っているよ」

 だが、少女には、彼の言葉が自分の心に届かないでいることが、おどろくほど自分が冷静で落ち着いていることが、当たり前のことのように感じられていた。

 四年前、自分と母をおいて他の女のもとへと走ったこの男を、彼女はいまだに許すことができないでいた。

 二年前の母の死について、いま目の前にいる男にもその責任の一端があると、少女の心はそう叫び続けていたのだ。

 父と娘の間に、ゆっくりと霧が流れてくる。

「時間だ。いこうか」

 もしかしたら最後になるかもしれない親子の対話の邪魔をしないようにと、少し離れたところに立っていた男が、それとは気がつかせないほどあっさりと出発の時が来たことを知らせる。

「加持さん」

「それじゃ、娘さんは自分が責任を持って日本までおつれします。ま、むこうに着いたら電話くらいは入れさせますよ。そのうち日本へ遊びに来てください」

「娘をお願いします」

「ええ」

 加持と呼ばれた男は、少女の父親の言葉に、その一見やさ男ふうに見える顔に莞爾とした笑みを浮かべた。そんな表情をしているときの彼は、普段のくだけた雰囲気とはちがってかなり硬派で男臭い容貌をしていることを他人に気がつかせる。もともとはそんな雰囲気をしている男なのであろう。そしていま、自信に満ちた表情をしている彼は、その本当の姿でこの場に立っている。

「いきましょ」

 アスカは自分の荷物の入ったボストンバックを両手で持つと、振り返りもせずに歩き始めた。

 飛行場の明かりが、少女の栗色の直ぐの長髪と赤い髪飾りを色とりどりに染めていく。アイルランド人と、ゲルマン民族と、日本の民の血が混じった、彼女の細身の、だがしっかりとした骨格を持った身体は、背負わされた多くのしがらみをものともせずにすっくとまっすぐに伸びている。そしてその青い瞳は、まっすぐに前をゆらぐことなく見つめているのであろう。そうであることが、この両親に似て、誇り高く、頑固で、強い意志を持った勝ち気な少女にはふさわしかった。

「最後まで、娘は私を許してはくれなかったようだ」

 霧のなかへと消えていく、まだ一四歳でしかない娘の後ろ姿を見つめながら、父親は、わずかのため息とともにそうつぶやいた。

「心配することはないでしょう。人を好きになるということを知れば、それはそれでまた考え方も変わりますよ」

「何もかもご存じのようですな」

 となりに立つ日本人の青年の言葉は、彼のもっともふれられたくはない負い目を正確につらぬいた。だが、不思議と怒りはわいてはこなかった。それは、たぶん彼の持っているかわいた雰囲気のためなのであろう。日本人にありがちなべたつくような距離感のなさが、不思議とこの男にはなかった。

「必要なことだけです。他人に深く関わるのは苦手なのでね」

 加持は不精ひげの生えているあごを軽くかくと、ひじまでまくり上げられたジャケットの袖から伸びる左手を、ポケットに突っこんで歩き始めた。右手は軽くひじのあたりでたわめられたまま、腰のあたりを無雑作にいったりきたりしている。

 少女の父親は、かつて見たFBIの捜査官が、今の彼と同じように右手を下げていたことを思い出した。そして、彼の上着のボタンが、彼らと同じようにいつも糸がゆるんでとれかかっていることにも。

「じゃあ」

 だが、何も言葉にするべきことはなかった。

 軽く右手をあげて霧のなかへと消えていく加持の背中を見ながら、彼はただ娘のことを思い続けることしかできなかった。

 

 二人の乗った旅客機がタキシングに入ったその時、霧のなかを数条の光があたりを照らし出した。そのまま低いエンジン音とともに、数台のセダンが飛行場の滑走路まで走りこんでくる。

 それらの車は、そのまま空港の施設へとむかおうとはせずに、アスカの父親から少し離れたところで停まった。そして、彼が見ている前で乗用車のなかから数人の男たちが降り立ち、娘が飛び立とうとしているのを見送っている父のほうへと近づいてくる。一分の隙もなく背広を着こなし、まっすぐに背を伸ばして先頭を歩いてくる男に、彼の視線は向けられた。

 その先頭に立っている長身の男の、冷たく、何の感情も映しだしてはいない灰色の瞳に、彼はわずかに手のひらが汗ばむのを覚える。

「Drアーネスト・ラングレーですね」

 それは質問ではなく確認であった。だから彼は、黙って近づいてきた男の顔を見あげたまま、続く言葉を待った。

「御息女の、惣流・アスカ・ランングレー嬢はどこにいらっしゃいます?」

 男の質問にラングレーは、黙って霧のなかを滑走路へと進もうとしている飛行機にその視線を移した。

 彼のその行為の意味を一瞬遅れて理解した男は、ふりかえって後方で待機している男たちに指示を下そうとした。だが、その動きは最後まで続けられることはなかった。

「娘が飛び立つまでは、動かないでいて欲しい」

 彼の右手にいつのまに握られていたのか、小型の自動拳銃が男にむかってかまえられていた。すでに撃鉄はあげられ、引き金に指がかけられている。

 男に遅れること数秒でそれに気がついた後方の部下たちが、一瞬で大型の自動拳銃を抜き放ち、ラングレーにむかって銃口をむける。だが男は、軽く左手をあげてその動きを抑えると、黙ってジャンボジェット機が夜空へと飛び立ち消えていくのを見つめていた。

 

 しばらくの間、かん高いジェットエンジンの音と、とぎれとぎれに空港施設から聞こえてくる喧噪を聞いていた男は、あらためてラングレーにむきなおり、これまでとまったく変わらない口調で話し始めた。

「初めまして。合州国国防情報局のノーマン・グレイ中佐です。御息女を保護するよう、政府の命令を受けてまいりました」

「合衆国国防情報局? 「店」に協力しているのはCIAだけではないのですな」

「御息女に協力を要請している機関に協力をしているのは、ラングレーの紳士諸君だけではないというだけのことです」

 そこでいったん言葉をとめる。

「御息女は日本へ?」

「答える必要が、ありますか?」

「でき得れば」

「答えるつもりはありません」

 だがラングレーの表情は、本人の意思とは逆にグレイ中佐のその質問にはっきりと答えを教えてしまっていた。そんな少女の父親について、中佐はなにがしかの感想をもったようではあったが、それを口に出すようなことはなかった。かわって彼の口をついて出たのは、この場の緊張した雰囲気にはそぐわない穏やかな言葉であった。

「ずいぶんと大胆なことをされましたね」

 あいかわらず何の感情も浮かんではいない瞳で、自分にむけられているワルサーPPKの銃口を見つめる。その視線にラングレーは、いま初めて気がついたように銃口を宙に向け、撃鉄を降ろして安全装置をかけた。

「これくらいしか、娘にしてやれることはありませんから」

 そのまま背広の内ポケットに拳銃をしまう。

「最後に父親らしいことをしてやりたかっただけです」

「わかりますよ」

 グレイ中佐は、軽く左手をふって部下たちに手にしているSIG・P226をしまわせると、静かにに言葉を続けた。

「あなたは御息女に対する義務を果たされた。それに肝心の相手が機上の人なのでは、我々がここにいる理由もない。それではこれで失礼いたします。奥方とお子さんらによろしくお伝えください。それでは」

 そのまま背筋を梁でも入っているかのように伸ばしたまま、中佐はラングレーに背をむけて車のほうへと歩き出した。これまで一言も口をきくことのなかった彼の部下たちも、上官の動きにあわせて黙ってセダンに乗り込む。

 彼らが現れたときと同様に霧のなかへと去っていくのを見ながら、ラングレーは、自分が新しい妻子のもとへと帰れることが信じられないでいた。すくなくとも、彼の知っているCIAの工作員たちは、そんな甘いことをするはずがなかった。

 テンペルホーフ空港の明かりは霧のなかにかすみ、淡い光彩へとその輝きを変えていった。

 

「なぜ彼を拘束しなかったのです?」

 ベルリンのアメリカ大使館へとむかう明かりを消した車のなかで、これまで車内で待機していた一人の男が、グレイ中佐にそう問いかけた。

「大使館内で必要な情報は聞き出せたでしょうに。どうやって目標を確保し、処分するのです?」

 彼の言葉は抑制されており、内容ほどに苛だっているようには聞こえなかった。だがそれだけに、彼が感じているであろう焦躁 が、言葉のはしばしににじみ出ていた。

 だが中佐はその彼の質問には答えようとはせず、車内電話で口早に各所へと指示を下している。その一つ一つの言葉は明晰であり、誤解の余地はなかった。彼は一通りの指示を出し終わると、そこであらためてとなりに座っている男に視線を移した。男は、中佐の、強く、揺るぎなく、心の内にある感情をいっさい映していない瞳に見つめられて、わずかに息苦しさを覚えた。じょじょに動悸が早くなり、にぎっているこぶしの手のひらに汗がにじんでくる。

 そんな彼の様子を気にとめたそぶりもみせず、グレイ中佐は静かに口を開いた。

「目標の乗った旅客機はすでに特定が終わっている。BAL(ブリティッシュ・エア・ライン)の、二〇三〇発カルカッタ経由東京行だそうだ」

「ではカルカッタで目標を処分するのですか? それとも途中で旅客機ごと?」

「ロックウェル君」

 グレイ中佐は、わずかに眉をゆがめてみせることで、このロックウェルと呼んだ男にいまの不用意な発言についての叱責を与えた。彼は軍人であり、この諜報工作活動は、彼にとってあくまで作戦行動として処理されるべき活動であった。そして軍人の戦争では、とくに有能な軍人にとっては、過剰で不必要な戦力の投入は犯罪であるといってもよかった。

「CIAの諸君の活動について詳しくは知らないが、私はそのような手段を選択するつもりはない。それに、いまから準備を始めても、確実に目標を処分可能であるとは考えられない」

 中佐の言わんとすることは、だいたい次のようなことであった。

 カルカッタの空港内でアスカを処分しようとしても、空港内は厳重な治安部隊の警備下にあり、容易にそのようなテロ行為ができるわけもない。また旅客機そのものを処分しようにも、機体自体が極めて強固な構造物である以上かなりおおがかりな準備が必要であるが、それを用意できる時間はいまの彼らにはない。準備不足の諜報工作活動がどのような末路をたどるかは、一九六一年のキューバや一九八〇年のイランでの失敗が全てを物語っていた。

 そして、もうひとつ重要な問題があった。

「また、ドイツにしろ、イギリスにしろ、インドにしろ、我が国が尊重するべき主権国家であると考える」

 さらに中佐が彼に注意をうながしたのは、次のような意味がある。

 たとえばアスカの父親をあの場で拘束し、大使館へと拉致した場合、その行為がドイツの治安当局と政府に対してどのような影響を与えるか。同じようにアスカをカルカッタの空港内で処分した場合、そのことがインドの治安当局と政府にどのような影響を与えるか。そして、旅客機を途中で処分した場合、そのことがイギリスの治安当局と政府にどのような影響を与えるか。

 そして非合法な諜報工作活動は、必ず相手国の諜報機関の知るところとなるのである。すなわち相手国政府の首脳部も。

 アスカをなにゆえに処分しなければならないか明確な説明をすることができない以上、無用な軋轢をおこすようなまねは厳に慎まなければならないのだ。

 このセカンドインパクト後の混乱した世界でパックスアメリカーナを自ら揺るがすようなまねは、それを維持するべき人間が絶対になすべきことではないのであった。とくにアメリカのこの世界に対する覇権が大きく揺るぎつつあるような今現在の状況下では。

「必要な手段は、いまその準備を指示した。目標が日本に着く直前に、全ては終わる事になるであろう」

「どういうことです?」

 車内にクーラーがきいているにもかかわらず額に汗をうかべている男が、ささやくようにグレイ中佐にたずねた。中佐の言葉はあまりにも自信に満ちあふれ、これまでのCIAの失態を知っている当のCIAの上級工作員である彼には、とてもその言葉を信じることができなかったのだ。

「あの父親は、引き金を引くべきであったのだ」

 だがグレイ中佐は、その質問に答えようとはしなかった。かわって彼が口にしたのは、まったく別の内容であった。

「善きサマリア人は、いつも最後で間違いを犯す」

 そう、善人はいつも詰めが甘い。

 言葉をそこでとめると、彼はわずかに口の端をゆがめてみせた。そのような表情をしてみせると、彼の唇の横に一本たてに刻まれているしわに濃い陰影が浮かんで見える。その暗い車内ですらはっきりとわかる表情は、となりに座っているCIAの工作員にすら、彼が何をいわんとしているかを理解させた。

 男は、わずかな緊張とともに心のなかでつぶやいた。

 今、この瞬間から、彼の戦争が始まったのだ。

 

 

 夏の強い陽射しがあらゆるものを熱く照りつけているにもかかわらず、その建物の一室だけは、カーテンがかかったまま外の世界の恩恵をかたくなに拒否しているように見えた。

 その部屋には調度と呼べるものはいっさいなく、ただ部屋の中央に情報通信端末と一体になった会議用の大テーブルがおいてあるだけであった。室内灯も明度を最低限におとしたままであり、そこに詰めかけている人々の表情は容易に読み取ることはできない。しかも、情報通信機能に関しては第一級の設備が備えつけてあるにもかかわらず、そのいっさいが機能をとめられ、使用されてはいなかった。ただ、端末に備えつけられている間接照明に照らし出される各人の顔だけが薄暗い室内に浮かびあがり、この会合が決して公開できるような内容を扱ってはいないことを物語っていた。

 テーブルのもっとも奥に座っている痩せた長身の老人が、出席者が全員そろったことを確認してから静かに口を開いた。

「ただいまから、「委員会」の定例会議を開会します」

 全員の意識が同時に老人にむけられ、室内の緊張が張りつめられる。

 各人の様子をざっと確認してから、議長役の老人は、さらに言葉を続けた。

「ただしこの会議の性格上、いっさいの公式な記録は残ることはないことを最初に確認しておきます。また、この会議の記録やメモを外部へ持ち出すことは、厳重に慎んでいただくことを約束ねがいたい」

 議長の言葉に、全員がうなずくことすらなくその続きを待った。

 彼が手続きとしてそう言っていることは全員が理解していることであり、あらためて異議なり意見なりを言う必要を認めなかったのである。そして、そのことを理解している議長は、切れ長の目をわずかに細めるといったん口を閉じ、会議の俎上にのせられる議題について語り始めた。

「まずはチルドレンについてですが、前回提示された、「人類補完計画」の進捗と、それにともなう彼らと既成のシステムとの連関と齟齬についての概念研究とシミュレーションの修正についてと、「EVANGELION」の外的刺激に対する反応行動の解析について、碇君に説明をお願いしたい」

「わかりました。ですが、最初にひとつだけ報告をしたいことがあります。発言の許可を」

 議長に指名されて立ちあがったゲンドウは、かるく右手で眼鏡をなおすと、出席者全員に視線をまわした。この場にいる全員が、無表情なままゲンドウに視線を集める。

「どうぞ」

「ありがとうございます。

 先程、ドイツのベルリンより、マルドゥック機関からの報告が入りました。

 現地時間で二〇三〇時、セカンドチルドレンが無事日本へむけて飛び立ったそうです。到着予定は明日一九二〇時、第二新東京国際空港に到着、となっています」

「それが、緊急に報告しなければならない内容なのかね?」

 出席している委員の一人が、みょうに感情を感じさせない声で疑問を提示する。

「いえ、これからが本題です。

 アメリカ合州国国防情報局が、セカンドチルドレンの抹殺のために行動を開始しました。現在中央情報局に替わって各地で活動を活発化させています。どうやら「店」の上層部が、上院の国防委員会の秘密部会とともに大統領に強く働きかけたようです」

 その言葉の意味を一瞬で理解した委員らは、これまでの無表情が嘘のように動揺をその面に表す。

 ただ、議長と、いく人かの委員だけが、これまでと変わらず無表情なまま、報告の続きを待っていた。ゲンドウはいったん言葉を切ると、自分の言葉の意味を全員が理解したことを確認してから報告を続けた。

「現在可能な限り情報を収集中です。しかしながら、彼らがいかなる形で行動を起こすかが明らかになっておりません。セカンドチルドレンには、内務省から捜査官を一人護衛につけていますが、最悪の場合も考慮しなければならない可能性が高いと思われます。政府に協力を要請する必要について、一考願いたい。

 以上です」

「わかりました。それについては、首相に私から協力を要請するとしましょう。マルドゥック機関については、全力でアメリカ側についての情報の収集をお願いしたい」

「わかりました。それでは、前回提示された問題についてのレポートから報告します」

 内心はどうあれ、彼らはまたもとの無表情で実務的な雰囲気へともどり、ゲンドウの報告に耳をかたむけた。ここにいる者達は、動揺してもしかたがないことに関しては、きっぱりと意識の外へ押し出すことができる人間ばかりであったのだ。議長の素早い決断が下った以上、彼らに何かできるはずがないことを十分理解してもいた。

 防弾カーテンと、盗聴防止用の二重窓で守られた部屋の中で、ただゲンドウの報告だけがいんいんとひびいていた。

 

「沖縄、ですか?」

「そう、沖縄」

 冷房の効いたリツコの研究室の中で、シンジとレイは、リツコの突然の言葉に目を白黒させていた。

 いや、正確には、びっくりしているのはシンジだけであり、レイはただいつも通りの無表情なままで黙って話を聞いているだけであったのだが。

「予定では一〇日ほど。半分は仕事だけれども、半分はあなたたちの慰労でもあるの。この研究所に来てから、ほとんど土日返上で研究に協力してくれたことへの、感謝の気持ちというところかしら」

 夏の陽射しが窓から三人にふりそそぎ、ひんやりとした室内にいるにもかかわらずシンジの肌を汗ばませる。目の前のアイスコーヒーの氷が溶けて、小さく澄んだ音をたてた。

「それで、出発はいつなんです?」

「明日の午前一〇時」

「あの、なんか、すごく急ですね」

 あまりに突然の話に、シンジはなにか納得できないものを感じていた。

 リツコが何か自分に隠しているのではないかという疑問と、彼女の内心を「見て」みたいという欲求が、彼の心にむくむくとわきあがってくる。だが彼は、いつも通りにそれを押し殺した。自分に好意を持っていてくれて、自分も好意を抱いている相手に、そのような不埒なまねをはたらきたくはなかった。

 そして、シンジがなにか納得いかない様子であることに気がついたリツコは、少しだけ考えこむようなそぶりをみせたあと、二人にむかって説明を始めた。彼らにはできるかぎり隠し事はしない。それが彼女が自分に課したルールであった。とても研究所の他の人間に話せることではなかったが。

「沖縄では、宇宙開発事業団でおこなわれる実験に協力してもらいます。予定では、無重力状態下でのあなたたちの能力の使用と、認識器官や三半規管と能力の関係の調査が中心となるわ。これに四日ほどかかる予定です。そのあと残りの時間は、あなたたちの自由につかってかまわないわ」

 リツコは、そこで二人が話の内容を理解するまで口を閉ざす。

「そして、それ以上のことは、実は私にも知らされていないわ。いま二人目の能力者が日本にむかっている途中だけれども、なにかそれと関係があるのかもしれない」

「あの、どういうことです?」

「干渉しようとする組織がある?」

 二人の質問は同時で、それだけに二人の差異がリツコにはきわだって見えた。

 リツコの言葉の意味がまったく理解できないでいるシンジと、どうやらなにかに気がついているらしいレイと。

 だからといって、リツコにとくに感想はなかった。むしろレイの反応のほうが異常ではあったし、一四歳の少年に今の話を理解しろというほうが無茶なのだ。

 多少舌足らずな説明ではあったとも自分でも思うのだが、もともと確信があってのことではなく、これ以上詳しく説明するのもどうかとも思われたのである。無用に子供らを不安がらせたり、緊張させたりする必要もなかった。

「はっきりと言うわ。私にもなにが起きているのかわからない。なにか理由があるのかもしれないけれども、それが現実となるまでは実験のことだけ考えていて。これは、私が気をまわしすぎているだけなのかもしれないのだから」

 その時リツコは、レイの紅の瞳がなにかを問いたげに自分を見つめていることに気がついた。少女は、いつも通りの無表情なままで、ただ瞳を内心のなにかで光らせながら彼女のことをみじろぎもせずに見つめていた。

 だがリツコは、ここで彼女の疑問に答えるつもりはなかった。

 実はリツコには、最近なんとなくレイの気配のようなものが、自分にまとわりついたり離れたりしている感覚があった。

 たぶんレイは、自分の意識を「読む」ことで必要な情報を手に入れているのであろう。そのことにはここ最近になって気がついたのだが、それに関して必要以上にうるさく言うつもりもなかった。言っても無駄であることがわかっていたし、最近になってレイが自分にわずかづつでもなつき始めていることの自覚があったのだ。そして、自分の役割を自ら明確に規定している彼女は、積極的にリツコの役に立とうとしているようにも見える。

 たぶんシンジの存在が、彼女に他者の存在を知覚させるきっかけとなったのであろう。とりあえずいまは、シンジと同様に、レイとの間にも信頼関係を構築しておきたい。これまでそれになんども失敗してきた以上、こんどもうまくいく可能性は低いものではあったが。

「たぶん、とくになにもなく実験は終わると思うわ。そうしたら、いろいろと面白いところを案内してあげられるわ。昔ミサトに連れられて、いろいろと面白い穴場を見てまわったことがあるの」

 

「失礼します。赤木博士、よろしいでしょうか」

 リツコの予想通り、数時間ほどもたってから彼女の自室にレイが現れた。

 あれだけもってまわった言いかたをしてしまえば、そしてきな臭いにおいをにおわせてしまえば、レイが動かないはずがなかった。この少女は、自分の存在価値を凶器としてしか証明できないと独り決めしているところがあるのだ。

「どうぞ、今晩はなにかしら?」

 レイは、夏休みに入ってからここしばらく、リツコに部屋にちょくちょく本を借りにきていたのであった。今日も、読み終わったと思われるラムの「シェイクスピア物語」を胸に抱いている。

「本を返しにきました。それと、よろしければ、お聞きしたいことがあります」

「沖縄行きのこと?」

「はい」

 まどろっこしいことは言わず、リツコははっきりと本題に切りこんだ。

 この少女に対しては、そういった物事をはっきりとさせるやり方をしたほうが彼女を納得させやすいことを、リツコも十分理解していた。話せることなら話す。話せないことならはっきりとそう言う。それが彼女と信頼関係を作るもっとも確実な手段であることを、そう短くもないつきあいでリツコも学んでいたのであった。

 リツコは、まずは立ちあがって二人分のコーヒーを入れる。彼女の最大の道楽のひとつであるそれは、わざわざ豆を選んで買ってきて挽くことから始まる、けっこう本格的なものであった。レイがやってくることを見越して用意しておいたそれを、コーヒーメーカーに入れて上からお湯をあてる。

「基本的には、昼間言った通りのこと以上は、私にもわからないわ。ただ、来日する二人目の子をあなたたちとすれ違いでここに連れてくることになる、というところになにかあると考えただけ」

「はい」

「あと、研究所の警備の強化が今日になって決定したわ。ここ一両日中に「首都警」の「特機隊」から治安部隊員が出向してくるはずよ。たぶんあなたが考えているような事態が、私たちの知らないところで起きているのかもしれない。レイ、あなたの判断は?」

 コーヒーメーカーから二つのマグカップに注がれるコーヒーを見つめながら、レイは少しだけ考えながら言葉をつむぎはじめた。

「二人目の能力者に対して、国家か、それに匹敵する組織が、なんらかの工作を行なおうとしているのではないでしょうか。私と碇君の存在が、彼らに対する抑止力になると、判断されたのだと思います」

「妥当な判断ね」

 内心、リツコは舌を巻いていた。

 とてもではないが、たかだか一四歳の女の子ができる判断ではない。並のテロリストが相手ならば、これほど迅速にこの国の行政機構が動くはずがないことを、この少女は理解している。事の善悪はさておき、彼女の養父であった影佐三佐は、よほどの訓練をこの少女にほどこしたようであった。

「さて、きな臭い話はこれでおしまい。あとは、現実の話となってから考えるとしましょう。いいわね」

 先日レイがシンジといっしょに買ってきたマグカップを彼女の前におくと、リツコは彼女の紅の瞳を正面から見つめてそう話を打ち切った。

 これ以上は情報が不足していたし、興味本位でどうこうしてよい話ではないのである。そのことを理解したのか、レイはこくりとうなずいて、両手でおしいただくようにマグカップを手にとった。そのまま、しばらくコーヒーが冷めるのを待っている。

「それでは、その本の話を聞かせて」

「はい」

「あと、コーヒーをブラックで飲むには、あなたはまだ早すぎるわ」

「そうでしょうか」

 なにも、そんなことをまねする必要もないのに。

 リツコは、なぜかレイが頑として言うことをきかずに彼女のまねをしてコーヒーをブラックで飲むのを、なんとかやめさせようとしていた。そして、他のことでならばまずたいてい素直に言うことをきくレイが、絶対に改めようとはしないことにけっこう驚かされてもいたのであった。

 最初は養父のまねをしているのかとも思っていたのではあるが、彼女がコーヒーを飲み始めたのはリツコの部屋を訪れるようになってからであることをあとで知り、少なからずびっくりしたのである。

「胃に悪いわよ」

「はい」

 だがレイは、絶対に砂糖も、ミルクも、コーヒーに入れようとはしなかった。

 

「へえ、明日から碇も沖縄へ行くのか」

「うん、突然の話なんだけれど、そういうわけだから、ここ一〇日ぐらいは連絡はとれないと思うんだ」

「そっか、でも今日電話をもらってよかったよ。俺も明日から沖縄へ行くんだぜ」

「え? ケンスケもそうなの?」

「ああ。海自の那覇地方隊に、こんど新型の護衛艦が配備されたんだ。それがあさってから那覇港に入港するのさ。その写真を撮りに行くんだ」

「わざわざ沖縄まで? すごいね」

「なに、当然のことさ。だからいつもの携帯の番号に電話を入れてくれれば、たぶん会えると思うよ」

「うん、時間ができたら、電話すると思う。でもよかった。トウジは大阪の実家に遊びにいったそうだし」

「ま、そんなものさ。それに碇には綾波がいるじゃないか」

「! そ、それは、関係ないじゃないか!」

「照れるなって。それで、沖縄には綾波もいっしょにいくんだろ?」

「……うん」

「それじゃあ、やっぱり海にはいっしょにいくんだろ?」

「?」

「彼女、どんな水着を着るのかな? 碇は知ってるか?」

「……知るわけ、ないだろ……」

「怒るなよ。写真を撮ったら、碇にはただでわけてやるからさ」

「……………」

 


 あとがき

 

 どうもお久しぶりです、金物屋亡八です。

 さて、今回、またまた一度上梓した作品を改訂するはめとなりました。理由は、またも長すぎるためと、各種のミスがちらほら現れているためです。というわけで、これは前のA Partを二分割した前半にあたります。どうにもこうにも、不様といったらありゃしないですな(笑)。まあ、そういうわけなので、一言謝らさせていただきます。

 ごめんなさい。

 さて、話は変わりますが、来ました。とうとう来ました。やっと「アスカ、来日」です!

 って、私一人が盛り上がってもしかたがないんですけどね(笑)。まあ、なにしろ、これでやっとこの物語の主人公が全員そろうわけですから、私が盛り上がるのもわかってください、というところです(笑)。

 というわけで、今回もまたえらく長くなってしまいました。どうもすいませんです。なんか最近謝ってばかりいるな、私って(笑)。

 さて、今回から、どんどんオリジナルのキャラクターが出まくります。

 理由は簡単でして、原作のエヴァには、私が惚れ込めそうな大人の男のキャラが一人もいないというただそれだけのことなのですが(笑)。まあ不遜な言いようですが、実際本当のことなのだからしかたがない。というわけで、今回の作者の一押しは、これからアスカと加持を徹底的に追い詰めてくださるであろう、ノーマン・グレイ中佐殿です(笑)。

 彼のもとのキャラのイメージは、「レッドオクトーバーを追え」や「羊達の沈黙」で、なかなかの好演をみせてくれた、愛しのスコット・グレンさまだったりします。って、なんか女の子のような書き方をしているな、俺(笑)。まあ、ものすごく彼のことを気に入っているんで、いいんだけどね(笑)。いやもう、あの、クールで、知的で、強固な意志と義務感を持つ合衆国の選良のもっとも優秀なところを演じきることのできる彼は、なんと言っても私は大好きだったりするわけです。るん、るん(笑)。

 さて、今回、アスカについて、ちょっとだけ設定を変更しました。

 もともとの彼女は、確か4分の1ドイツ人で、残りは日本人だったはずです。

 ですが、彼女の名前とかを考えてみますと、私にはどうにもそうは思えなくなってきたのでした。

 つまりはですね、彼女の本名、惣流・アスカ・ラングレー、では、決して4分の1ドイツ人にはならないと思うわけです。彼女の母親は、惣流・キョウコ・ツェペリン、なわけで、そうするとアスカのファミリーネームから考えるならば、アスカの父親のファミリーネームは、ラングレーとなるはずなのですから。

 で、私が考えたのは、アスカは4分の1日本人であるという設定でした(笑)。

 つまり、アスカの母親のキョウコさんが、日本人とドイツ人のハーフで、父親のラングレーさんが、アイルランド人であるという(笑)。

 ここで、なぜラングレーさんがアイルランド人かというと、アスカのあの勝ち気な性格が、私にはなんとなくアイルランドの女性をおもいおこさせたからです。理由になっていないな、これ(笑)。

 実は、昔見た映画に「静かなる男」というのがありました。主演はジョン・ウェインで、彼が昔、子供時代をすごしたアイルランドの故郷へ戻ってくるという話でした。そこでヒロインのアイルランド人の女性と恋に落ち、それがいろいろと騒動のたねになるという、ヒューマンコメディであった記憶があります。

 で、そのアイルランド人の赤毛のヒロインが、勝ち気で、誇り高く、なかなかにいい感じであったのでした。

 そして私は、そういった女性にヨワかったりするのです(笑)。で、アスカに関しても、あっというまにそのイメージが私を捕らえてしまったのでした(笑)。

 まあ、そういうわけです。

 すいませんね、いつもいつも勝手な設定ばっかり作って(笑)。まあこれからも、そのつもりでおつきあいくださいませ。

 というわけで、今回はこれで失礼させていただきます。

 ちなみに、最後になりましたが、このストーリーのテーマは、あくまで「ラブラブシンちゃん」です。

 それではまた、機会がありましたら、次の作品でお会いしましょう。

金物屋亡八 拝 


 B Partへ続く

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