南シナ海の上空、高度一万メートルを飛行中のボーイングB−747のエコノミークラスの座席で、アスカは不機嫌そうに窓の外をながめていた。

 上空は厚い雲に覆われてはいるが、ところどころから南シナ海の青い水面がのぞいて見える。重なり合うようにただよっている雲が刻々とその姿を変えていき、陽の光に海面がきらきらと輝いて見える。だがそんな風景も、彼女のしかめられている眉を緩めるには、なんの効果も発揮してはいないようであった。

 となりでは、ラジオのようなものにイヤホンで聞き入りながら、加持がなにかの書類に目を通しており、そんな彼女の様子に気をとめたそぶりもみせないでいる。

「加持さん」

「ああ」

 彼の生返事にアスカの眉がわずかにはねあがる。が、彼女はすぐにありったけの精神力を動員して顔面の筋肉をコントロールし、輝くような笑顔を作ってみせた。

「これから行くNERVって、どんなところなの?」

 その言葉に、初めて加持は顔をあげて彼女のほうを見た。

「NERVか。そうだな、……才能とやる気はあるが、人格に問題があって並の組織じゃあやっていけない連中の最後の砦、みたいなものかな」

「? なにそれ?」

 きょとんとしているアスカから視線をはずすと、加持は軽く機内に視線をおよがせ、適当な言葉をさがした。が、昔の級友や同僚がいるその組織に対して、あまりまともな形容詞が思い浮かばず、困惑する。二三度軽く不精ひげの生えたあごをかくと、なんとかあたりさわりのない説明をし始めた。

「あの研究所は、最初から超能力や、そういったあまり普通の学者がかかわりたくない内容を研究するために作られたものなのさ。ところが、そのためにあちこちの大学や研究所から追い出された連中の吹きだまりのようなところになってしまったんだな。

 それが変わったのは、いまの所長の冬月教授が、京都大学からいまの首相の野上隆昭に呼ばれて所長になってかららしい。とにかく徹底した業績主義と、冒険的な研究を優先させるやり方で、有能な連中だけが残れるようになったそうだ。

 アスカも、大学の専門課程は終わっているんだろう? なにかやりたい研究があれば申請するといい。たぶん研究所への協力と引き換えに、自由にやらせてくれるさ」

 加持は、最後のほうはわざと話をずらして答えた。

 彼女が聞きたいことが本当はなにかわかってはいたが、あえてそれには答えることはしなかった。このような他人が多くいる場所でそれを口にすることの危険性を、十分にわきまえていたのだ。彼女がそれと口に出しはしないまでも、自分以外の能力者の子供たちにかなりの関心があることを、彼はよくわかっていた。

 この天才と褒めそやされてきた少女が、表面上は惚れ惚れするような笑みを浮かべつつもほほがわずかにひきつっていることに、内心で笑い転げながら、彼は耳にさしたイヤホンから流れてくるノイズまじりの英語に意識の大半をかたむけていた。

「それで、加持さん、私の他にも……」

 しびれを切らしたアスカがとうとうねをあげたその時、聞き入っていた英語のやりとりが変化したことに気がつき、加持は左手をかるくあげて、それ以上彼女が話し続けることをさえぎった。即座に手もとの書類に目をおとし、いくつかの文字列を確認しながらその英語の内容を把握する。

 突然加持がその雰囲気を一変させ、緊張した面持ちでラジオに聞き入ったことに、アスカは黙って彼がなにが起こったのかを説明するのを待った。そっとのぞき込んだ彼の手もとのFAX用紙には、何桁かの数字とそれに対応するように記されている単語が、びっしりとタイプされていた。

 しばらく二人の間に緊張した空気がただよう。

 やっと加持が顔をあげたその時、アスカは、彼の顔にあの硬派な男臭い笑みが浮かんでいることに気がついた。

「どうやら、アメちゃんは、俺たちが思っているよりよっぽど頭がまわるらしい」

 

 BALのベルリン発東京行第一五三便の機内は、言いようのない緊張と不安が重くたちこめていた。

 最初の兆候は、機内をスチュワーデスがその表情をみょうにこわばらせて機内をいったり来たりし始めたところから現れた。

 乗客のうち勘のいい者は、その搭乗員のただならない様子になにかを感じていたのであるが、それが機内に伝わるまでにはいましばらくの時間があった。ただ、そこここでひそかに不安げな言葉が交わされるようになり、それが機内の全ての乗客にひろがり、最後にその緊張と不安に耐えきれなくなった一人の乗客のかん高い詰問の声が機内に響きわたるにいたって、全ては破局を迎えたのであった。

 あちこちでスチュワーデスや乗務員に説明を求める声が上がり始め、これ以上はパニックの発生を抑えられないという段階になって、やっと機長からの説明が乗客に伝えられたのである。

 機長の説明は、乗客にとって恐るべき内容であった。

 カルカッタ空港での給油中に、シーク教徒過激派によって機内に爆弾がしかけられたというのである。

 その時乗客の脳裏には、一九八〇年代初頭に起きた連続旅客機爆破テロの惨劇がくっきりと思い出された。この時機内にパニックが発生しなかったのは、ひとえにこのような事態を想定した訓練を受けたBAL乗務員の献身的な努力のたまものであった。

 旅客機は、至急もっとも近い国際空港であるところのフィリピンのマニラ空港にむかって進路を変えた。

 

 機内の重く暗い雰囲気の中で、アスカはできるだけ声を潜めて、そっと加持に話しかけた。

「それにしても、加持さんって、悪党よねぇ」

「これも、全部アスカのためなんだけどな」

 わずかに声に笑いの粒子をまぶしながら、表情だけは重く不安げに加持も小声で答えた。

「わざわざ、あちこちで不安をあおるようなデマを飛ばして、機内の雰囲気をこんなにしちゃうなんて。ねえ、加持さんって、ほんとは、忍者?」

「そりゃ、ひどい」

 機内の緊張と不安をここまで高めた張本人は、実は加持であった。

 実は彼は、この旅客機と外との通信を盗聴することで爆弾テロの情報をキャッチしたのであった。そして、気配を消して機内を徘徊し、それらしい情報をそこはかとなくあちこちにばらまいて乗客の不安を高め、BAL側ができるかぎり隠しておきたかった爆弾テロの情報を公表せざるを得ない状況にしたのであった。

 最初に彼がこの情報を手に入れたとき真っ先に考えたのは、これが事実か欺瞞情報かということであった。

 そして彼は、現在のシーク教徒過激派の勢力と活動に関する情報を分析し、このタイミングでそのことが明らかになったという事実から、これが「店」がアスカを日本へたどりつかせないために流した欺瞞情報であると判断したのである。

 本当にテロを行なうのであるならば、いままでこの飛行機が無事であるはずがない。政治的デモンストレーションである以上、対象にもっとも近いところで花火を打ち上げるべきであるからだ。それに一九八〇年代の連続爆破テロの結果、当局の徹底的弾圧を受けた彼らに、それだけの組織力がある可能性も低い。もしそれだけの組織力を回復しているならば、内務省国家警察中央本部外事局に在籍している彼に、その情報が伝えられていないわけがない。そのための個人的な情報網は普段からおこたりなく構築してある。

 そして、この欺瞞情報によってこの旅客機は必ず安全のためにどこかに着陸して爆弾の存在を確認しなければならず、次の飛行機の手当てがつかないかぎりアスカはそこで足止めをくらうことになるのだ。

 そしていま飛行機がむかっているのは、よりにもよっていま東南アジアでもっとも困った国であり、いまだにアメリカの影響力の強いフィリピンである。

 あまりにもできすぎていると、言ってもよい。

 そしてこれが、加持がこの騒動を演出するにいたった思考の過程であった。

「それで、これからどうするの?」

 いささかも不安を感じている様子もみせずに、アスカが聞いてくる。

 いくつかの案を考えていた加持は、ここで彼女がいかなる超能力を持っているかを思い出した。

「ちょっとした、悪戯さ」

 

 マニラ空港は夕闇につつまれようとしていた。

 地平線に陽が沈もうとしているなか、あたりは赤い夕焼けに照らされて色とりどりにその様相を変えていっている。上空の雲は橙や紫に染めあげられ、南国特有の鮮やかな色彩で去っていこうとする太陽を見送っている。

 フィリピン国家警察軍のロドリゲス大尉は、そんなあたりの情景をぼんやりと見まわしながら、となりで神経質そうに紙巻きタバコをふかしている自分の上司のカルロス少佐がなにを考えているのか、あれこれと憶測をめぐらしていた。

 彼が今日の昼突然どこかへ消え、帰ってくると同時に指揮下の警官隊に出動の準備を命じたときから感じている疑問が、いままた自分の頭の中によみがえってきたのだ。帰ってくるなり、手空きの者全員に防弾チョッキと軍用小銃と実弾を配布させ、まるでもう一度日本人が攻めてでもくるような勢いで皆を出動させたのである。

 空港に着いてからも、周辺をアリのはい出るすきまもないほどに厳重に封鎖させ、突然各分隊の指揮官に日本人の男の写真のコピーをくばり、彼を問答無用で逮捕せよという命令を下したり、皆が首をかしげざるをえないような行動が多かったのだ。

 加持リョウジ。

 写真には、なんというかにやけた感じの、不精ひげと長髪を首のあたりで無雑作にたばねているのが印象にのこる男が写っていた。上司の言うには、彼は国際的な凶悪なテロリストであり、恐るべき手練の破壊工作員なのだそうである。ロドリゲスには、この不鮮明な写真のコピーからそんな危ない雰囲気を感じることはできなかった。むしろ、マニラでダンサーを買っているほうが似合いそうな、そんなへろへろした感じがするような気がしたのだ。

 横目で上司の神経質そうな横顔を見ながら、ロドリゲス大尉は、ぼんやりと目的の飛行機が夕空のむこうに現れるのを待ち続けていた。

 

 機内の緊張は、限界まで張りつめられていた。それも、飛行機が着陸のためのアプローチに入ったときから、ぎりぎりと音をたてて引き絞られていくような感じで張りつめていったのである。

 それも仕方のないことではあったろう。

 BAL第一五三便の乗客の大半は、ヨーロッパから日本へと帰る途中の日本人ビジネスマンであり、彼らはこのようなむき出しの暴力にさらされるようなことは、生まれてこのかた初めてに近かったのだ。彼らは、ほんのわずかなきっかけがあればすぐにも爆発しそうな緊張した面持ちで、飛行機が無事着陸することを祈り続けていた。

 そんな日本人たちのなかで、唯一加持だけが心底楽しそうな雰囲気で着陸の瞬間を待ちうけていた。

 彼は座席をアスカと交代して窓際に座り、空港の滑走路の様子をたんねんに観察し続けていた。幸運にも空港上空はほとんど雲はなく、飛行機が太陽を背に着陸しようとしていることもあって、滑走路の様子を彼は、必要な分だけ把握することができたのである。

「いいな、アスカ」

「ヤーボール、マイヨール」

 自分が緊張していても、固くはなっていないことを教えるために、アスカはわぞとそう言っておどけてみせた。彼が横目で見た彼女は、まっすぐ前を見つめながら、不敵な微笑みを唇の端に浮かべている。そんな彼女に、まるで自分が彼女の父親であるかのような誇らしさといとおしさを心の片隅で感じながら、加持は慎重にそのタイミングを計り続けていた。

 

「少佐、来ました」

 部下の一人がウォーキートーキーに耳をつけながら、空港の管制室からの連絡を報告してくる。

「全員、弾倉を装填、各分隊長は各員の銃の安全装置を確認。第一分隊は私とともに機内に突入する。第二、第三分隊はロドリゲス大尉とともにこの場で待機、飛行機から脱出しようとするテロリストを逮捕せよ。質問は? ないな、では準備を始めろ」

 それこそ、ちょっとでもつついたならばはじけてしまいそうなほどに緊張した様子で、命令が下されていく。

 ロドリゲス大尉は、内心不安のようなものがじわじわとひろがっていくのを感じて、落ち着かない気持ちになっていった。

 上司の、それこそ発狂でもしたのではないかと思われるような緊張ぶりが、彼にも伝染したのかもしれなかった。そんな上司の様子を見ていると、彼にも、実は写真の男がとてつもない凶悪なテロリストであるような気がしてきたのだ。ハリウッドのアクション映画に出てくる間抜けな警官の役を自分たちが押しつけられようとしているのではないかというような気にすらなってくる。

 彼も、地方の大地主の私兵や、反政府ゲリラの新人民軍との戦闘に参加したこともあるし、とびかう銃弾の下をくぐり抜けたこともあった。だが、今この瞬間に感じている緊張は、それのどれとも違うなにか不安をかき立てるものがあったのだ。

 彼は腰のコルトの四五口径に弾倉を装填し、薬室に初弾を装填すると、安全装置をかけてホルスターに拳銃を戻した。

「目標の旅客機です。いま着陸態勢に入りました」

 刻々と部下の報告が入ってくる。

 ロドリゲス大尉の目の前で、それこそ何十階建てのビルほどもありそうな巨大なジャンボジェット機が、夕日に照らされながら着陸しようとしている。

 大尉は、自分とともにこの場に残る部下たちに視線を走らせ、彼らが緊張はしていても暴発しそうにはない様子に満足した。これまでの少なくない戦闘経験で彼は、ちょっとしたことで緊張した兵士たちがその緊張に耐えられなくなって銃の引き金を引くことが多いことを、いやというほど思い知らされていた。

 横目で見たカルロス少佐は、あいかわらず神経質そうな容貌に緊張した表情を張りつかせて、その飛行機に見入っている。

「旅客機、いま着陸します」

 かん高いエンジン音をあたりに響きわたらせながら、目標の飛行機が着陸する。

 そのまま管制塔の誘導するままに、飛行場のターミナルセンターにはむかわず、彼らが待機している場所へと一直線に進んでくる。

 ゆっくりとのしかかるように近づいてくると、ジャンボジェット機はぴったり彼らの目の前で停止した。

「よし、突入!」

 タラップが飛行機の先頭の扉につけられるや否や、カルロス少佐はそう叫んで先頭に立って飛行機に飛び込んでいった。

 ようやく不安をかき立てる緊張から解放されたロドリゲス大尉は、部下に気づかれないように小さくため息をつくと、何ごとも起きないうちに事態が解決することを神に祈った。

 

 旅客機の扉が開くか開かないかのうちに機内に突入したカルロス少佐は、手にしたコルトM16A2カービンの銃口を上にむけながら、CIAの工作員から渡されたメモに記されてあった座席の位置へと急いだ。

 彼としても、この突然の要請に度肝を抜かれるような驚きを感じていたのではあったが、これまでなんども持ちつ持たれつでやってきた相手からのたっての要請とあっては、動かないわけにはいかなかったのであった。目標のことをCIAマンは、極めて危険なテロリストであると説明していたが、その言葉をそのまま信じてしまうほど彼もうぶではなかった。だが、わざわざ一〇万ドルもの報酬をキャッシュの前金で用意してみせた彼らの様子から、相手がよほど彼らにとって危険な相手であることもわかっていた。

 カルロス自身は、自分がそれほどひどい警察官であるつもりはなかった。

 だからこの場も、自分が先頭に立って目標を拘束することで、いくらかなりとも感じているうしろめたさをなだめるつもりでいたのであった。

 だが、彼がこれほどに緊張しているのは、それだけが理由ではなかった。

 CIAが最優先で確保することを要請してきたのは、写真に写っている男ではなく、若干一四歳の少女であったことが、彼をここまで緊張させていたのであった。

 彼は自分が腐敗していることでは有名なフィリピン国家警察のなかでも、かなり良心的な警察官である自信があったが、だからこそこのような汚い仕事の片棒を担がされることに我慢がならなかったのであった。CIAマンがみせた写真の少女は、美しいが厳しい表情をした勝ち気そうな青い瞳が印象的な娘であった。二人の娘がいる彼にとって、これはどうしようにもなく辛い事実ではあった。

 つまり彼は、迷っていたのだ。

 これまで自分が培ってきた矜持が、いま音をたてて崩れていくような気がしていたのである。そして、その自覚があるだけに彼は、自分がこの仕事をこれまで通り確実に果たすことができるか、自信がなかったのであった。そしてその迷いが、もしかしたならば自分や部下を殺すかもしれないことも、意識の片隅わかっていたのである。

 そして、その迷いが、次の瞬間彼に大きなミスを犯させる事になった。

 

 旅客機が着陸し停止したとたん機体の前方の扉が開き、素早い動きで濃紺の服を着た警察官らしい男が突撃銃をもって突入してくるのを、加持はわずかに口の端をゆがめて確認した。

 彼はその警官が後方のバックアップもなしに突入してきたことで、自分らがいまからやろうとしていることの成功を確信したのだ。

 油断ならない様子でこちらへむかって一直線に進んでくる彼の動きに、自分の判断が完全に正しかったことを知り、彼は用意しておいた「悪戯」を発動させる決心をした。そのまま、警官が仕掛けた「いたずら」に近づくのを、タイミングをはかりながら待つ。そして、相手がもっとも「悪戯」の効果的な範囲内に足をふみいれたその瞬間、加持は小声でアスカの名を呼んだ。

「アスカ」

 合図と同時に、彼女は視線を座席を見透かすようにして警官のほうにむけ、意思のこもった声で一言つぶやく。

「いけ!!」

 

 機体の中ほどを駆け抜けたカルロス少佐の目の前で、突然閃光が走った。それと同時に、真っ黒い煙と鼻が曲がりそうになる臭いがあたりに吹き出てくる。

 その光と煙で一瞬視界が閉ざされ、彼はおもわず叫び声を上げてしまう。

 続いて遅れて突入してきた部下たちは、彼のその叫び声を聞き、自分らの上司がテロリストに撃たれたと勘違いし、銃の安全装置をはずして引き金を引いてしまった。

 狭い機内でかわいた銃声が連続して響きわたり、火線があたりをいきかう。

 機内は当然のごとくパニックが発生した。

 

 機内の乗客が大半が日本人であったのは、この場合大変な不幸であった。

 彼らは最初の閃光で、とうとう爆弾が炸裂したと勘違いし、シートベルトをはずして我がちに逃げ出そうとしたのだ。

 そして、続いて突入してきた警察軍の隊員たちの威嚇射撃に、完全にパニックを起こし、団子になって警官たちが突入してきた出入り口にむかって突進したのである。

 その混乱のなか、最後尾の出入り口にむかって突進する影が二つあった。

 加持とアスカである。

 座席の間の通路をパニックを起こした人々がいきかうなかをかきわけ、急いで目的の扉へとたどりつくと、加持はなれた手つきで非常用脱出レバーをひきずりだし、それを力任せに引いた。

 ガスの漏れる音が響き、扉が開くと同時に脱出用のエアマットの滑り台が下にむかって伸びる。

「こっちから逃げられるぞ!」

 機内にむかって絶叫した加持は、手近でおろおろしている乗客を、突き飛ばすようにして機外へと脱出させた。そして、あたふたしているヨーロッパ系の老婆を抱きかかえるようにして、自分も外へと飛び出す。

「アスカ!」

「大丈夫!」

 アスカも、加持に遅れることなく機外へと脱出する。

 外は、沈み行く夕日で燃えるように赤く彩られていた。

 

 ロドリゲス大尉は、上司が機内に突入してしばらくしてから、突然出入り口から黒い煙が吹き出し、後部の出入り口が開いて乗客が逃げ出してくるのを見て、あわてて部下を乗客の保護に走らせた。

 第二分隊に、他の出入り口を見張らせ、自分は第三分隊とともに脱出してきた乗客を待機させておいたトラックや救急車へと誘導する。

 即座に命令を下し、部下を調律の取れた機械のように働かせつついる彼のところに、老婆を抱えた日本人らしい中年のビジネスマンふうの男が駆け寄ってくる。その服はよれよれになり、髪もほつれていたが、その瞳には強い意志と威厳の光が宿っていた。

「君が指揮官かね!?」

 大尉がびっくりするほど流ちょうな英語で、男は問いかけてくる。

「そうだ」

「この女性が、いまの騒動でショックを起こしかけている。急いで救急車に乗せたい。どこだ」

「あなたは?」

「財前。医師だ」

「日本人か?」

「ああ。急いでくれ、取り返しのつかないことにもなりかねん」

 男がロドリゲス大尉を圧倒するような迫力を持っていることに、なんとはなしに引っかかるようなものを感じながらも、彼は急いで部下に用意しておいた救急車をまわさせた。即座に車が現れ、老婆をストレッチャーに乗せる。

「一応、病院までついていきたい。かまわないね」

 男は、厳しい表情で老婆のほうを見つめながら、大尉に聞いてきた。

 いや、それは許可を求めたというよりは、確認を取ったというほうがいいような口調であった。そのあまりにも命令を下しなれた人間が持つ迫力のある言葉に、ついロドリゲス大尉はうなずいてしまったのである。

 彼には、この男があの写真のへろへろした男と同一人物には思えなかったし、老婆を扱う手つきにもおかしなところはいっさい見られなかったのだ。それに、あたりの混乱はいっそうひどくなりつつあり、指揮官がこれ以上命令系統からはずれているわけにもいかなかったのである。

 財前と名乗った医師はわずかにうなずいて礼を述べると、たぶん老婆の孫娘なのであろう、栗色の髪をした少女とともに救急車へと乗り込んだ。

 そして、ロドリゲス大尉は、しばらくすると忙しさのあまり彼のことを完全に忘れてしまった。

 

「乗客の人たちには、悪いことをしてしまったわね」

 すっかり暗くなってしまったマニラの市内を歩きながら、アスカは小声で加持にそう話しかけた。

「ああ。フィリピン警察の連中が、ああだとは思わなかったからな」

 憮然とした表情で、すっかりさっぱりしてしまったあごをかきながら、加持はそう答えた。

「それにしても、加持さん、まるで別人みたい」

 笑い出したいのをこらえた口調で、アスカがそうからかう。

「だからあの場からうまく逃げ出すことができたのさ」

 加持は、かるく肩をすくめてそう受け流すと、ジャケットの襟からトレードマークにもなっている束ねた長髪をひっぱり出して、無雑作に後ろに垂らした。そして、口のなかから脱脂綿をはきだし、何度か顔の筋肉をほぐし、ようやくもとの顔に戻る。

 実は先程財前と名乗った日本人の医師こそ、変装した加持本人であったのであった。

 彼は、パニックを起こすことで自分たちを逮捕しに来るであろう警察を混乱させ、夕方という時間を利用して、空港の外へと脱出する計画を立てたのである。

 空港は、もっともテロの目標になりやすい標的であるだけに、治安部隊を敵に回すとなれば脱出することが不可能に近い空間となる。さえぎるものがいっさいなく、市街からはなれたところにあり、十分な監視施設があるそこは、密入国にはもっともむつかしい場所となるのだ。これまでハイジャック犯が、空港から脱出をはたしたことが一度としてないという事実が、彼にこのような無謀とも言える騒動を引き起こさせる決心をさせたのである。

 そして、「店」の工作員が、爆弾テロを利用して彼らをフィリピンに足止めしようとした事実を逆手にとり、あの騒ぎを演出したのであった。

 あの「悪戯」のたねは、実は、感熱紙であるFAX用紙と、ライターに仕込んであったマグネシウムリボンであった。

 よくストロボに使用されるマグネシウムリボンは、簡単に着火し、さらにかなり輝度の高い閃光を発する。そして、感熱紙は、低温で燃やすと、ものすごい煙と異臭を発するのだ。加持は、最初それをライターを使った時限着火装置で発火させようと考えていたのであった。

 ここで彼にとって幸運であったのは、彼が護衛しているアスカが、実は優秀な超能力者であるということであった。

 そして、彼女の持つ超能力は、もっとも強力なものは、サイコキネシス−念動−と、その発展応用型であるところのパイロキネシス−念力放火−であったのだ。他にもいくつかの力を持ってはいたが、彼女がもっとも得意としているのはこの二つなのである。

 治安部隊が機内に突入してくるその瞬間をねらって、感熱紙とマグネシウムリボンに火をつけるというデリケートな作業を、機内に持ち込めるだけの簡単な道具で作った装置でできるわけもない。だが、アスカのもつ能力は、その作業を簡単にこなすことができるのである。彼女の力をもってするならば、実はあの場にいた治安部隊員全員をローストにしてしまうことも難しくはなかったが、さすがにそれは選択の外にあった。

 加持の任務は彼女を無事に日本へ連れてくることにあって、その守るべき対象には、彼女の肉体だけではなく精神も含まれているのである。

「それで、これからどうするの?」

 初めて不安そうな色を声ににじませて、アスカが加持に問いかけてくる。

 それも仕方のないことではあった。夜の闇の中にあるマニラ市街は、どぎついネオンと熱狂的な人々の喧噪の中にあり、夜の八時にはほとんど全ての店が閉まってしまうドイツの閑静な街からやってきた彼女には、刺激が強すぎたのだ。街をいきかう人々の目には、なにかぎらついた剣呑な色と、深い虚無とが同時に浮かんでおり、そのことがいっそう彼女の不安をかき立てるのである。

 そう、ここは、上品で洗練されたヨーロッパの人間であるアスカの知らない街であった。

「いったん、「うち」のセーフティハウスにしけこむとしよう。そこでこれからの計画をたてるさ」

 そして、わめきたてるクラックションで耳がばかになってしまいそうな大通りに近づくと、加持はタクシーを拾おうとした。

 

 男は、その放棄されて久しいビルの屋上から、ツァイスの双眼鏡で目標が足を止めるのを確認した。

 そして、かたわらにおいてあるキャリングケースから、愛用のルガーブラックホーク44マグナムを取りだすと、銃身上に固定されている二〜四倍の可変サイトが先程調整したとおりに固定されていることを確認して、銃身を三脚の安定架台に固定する。

 そのまま右手で拳銃を保持し、手すりにはりつけてある写真と、スコープの中に写る標的を見比べ、それが全く同じ目標であることを確認する。

 写真に写っているのは、厳しい表情をした、アスカであった。

 


 あとがき

 

 どうもお久しぶりです、金物屋亡八です。

 というわけでこれは、前に上梓した第参話A Partの後半部分にあたります。またもこのような形で修正をしなければならないとは、なんとも不様な話です(笑)。まあ、そういうわけですので、これからもどうぞよろしく。

 というわけで、今回はこれで失礼させていただきます。ああ、なんて短い後書きなんだろう(笑)。まあ、書くことがないわけですから、仕方がないんですけどもね。

 ちなみに最後になりましたが、しつこいようですけど、このストーリーのテーマはあくまで「ラブラブシンちゃん」です(笑)。

 それではまた、機会がありましたら、次の作品でお会いしましょう。

金物屋亡八 拝 


 C Partへ続く

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