日は沈み、ぎらつくネオンや照明灯の人工の輝きだけが、あたりをこうこうと照らし出している。大通りを行き交う人々の喧噪や車の騒音が、はるかなビルの屋上の高みにまで聞こえてくる。
そんな不夜城のようなマニラ市の大通りを見下ろす廃ビルの屋上で、男は、三脚に固定したルガー・ブラックホーク44マグナムの銃把をしっかりと握りしめ直した。そして、わずかに銃を動かし、二〜四倍可変のスコープに浮かぶ栗色の髪の青い瞳を持つ少女のひたいを、その十字線のなかにとらえた。わずかに指先に力を強めて、引き金を遊びのぎりぎりいっぱいまで引き絞る。そして彼は、そのまま少女が動きを止めるまで、息を殺して待ち続けた。
男は、少女が歩みを止め、一見やさ男ふうに見える男に話しかけたその瞬間、そっと引き金を最後まで引ききった。
タクシーを拾おうとした加持が自分のそばから離れてしまい、アスカは、ふとこのまま自分がこの見知らぬ街で彼とはぐれてしまいそうな気がして、あわてて彼の後を追った。この雑踏の流れが自分をどこかへ連れ去ってしまうようで、まるで突然の夕立のように不安が彼女の全身に満ちてきたのだ。彼女は、必死になって行き交う人々をかきわけ、むこうに見える彼の背中にむかって近づこうとする。
彼女にとって永遠にもひとしい時間がすぎ、ようやくアスカは加持の背中にたどり着いた。
そのまま加持の背中に手をのばし、ジャケットのすそをしっかりと握りしめる。ようやく内心の不安が潮が引くように消えていくのを感じながら、アスカは文句の一言も言ってやろうと、口を開こうとした。
と、突然道のまん中で足を止めたアスカに、急ぎ足で歩いていた通行人がよけきれずにぶつかってしまった。彼女は、思わずよろけてしまい、そのまま加持の背中にしがみついてしまう。
その瞬間であった。アスカは、自分の耳の横をものすごい早さを持った何かが飛び去り、続いてひっぱたくような衝撃が自分の鼓膜を張りとばすのを感じた。そして、彼女が振り向き何が起きたのか確認しようとしたその時、加持は、彼女を抱えるようにして雑踏のなかに走りこんだ。
そのままアスカは、彼の腕の中で何が起きたのかわからないまま、ずっと上着のすそにしがみ続けていた。
タクシーを拾おうと、車道の近くまで移動した加持は、後ろのアスカがあわてて自分にむかって近寄ってこようとしていることに気がついた。ほんの一、二メートルの距離ではあるが、彼女にとってそれは、あまりにも遠くに感じる距離であるようだった。彼女が自分のジャケットのすそをつかみ、はっきりとわかるほどに安堵した様子でいるのが、彼にはなんともほほえましく感じられた。
そして、何か一言声をかけてやろうかとしたその瞬間、彼女がだれかに突き飛ばされて自分の背中にしがみつき、同時に大口径の銃弾がすぐそばを飛び去ったのを感じて、加持は全身の神経を目覚めさせた。
彼は、そのままアスカを銃弾が飛んできた方向からかばうようにして抱き抱え、雑踏のなかにまぎれてその場から離れようとした。誰かが銃撃があったことに気がつき、恐怖の叫び声をあげる。突然の事態にまわりの人間は、皆われがちにその場から離れようとおしあいへしあいしながら逃げ出す。ほとんど人影も見えなくなりつつあるその場には、あわれな犠牲者だけが一人取り残されている。
加持は、なれた彼の耳だからこそあの騒音のなかでも拾うことのできた銃弾の飛翔音と、わずかに聞こえてきた銃声から、だいたいの狙撃位置を推測した。そして、肩口から血を流しながら泣き叫んでいる通行人の位置と、道路上に残っている銃弾の弾着位置を確認して、その計算がそれほど間違っていないことを確認する。アスカのかわりに銃弾を身に受けるはめになり、絶叫をあげて転がっている通行人の銃創にざっと視線を走らせる。銃弾が大口径のライフルではなく拳銃弾であることに、彼は、内心わずかな驚きを感じた。
とりあえずその場を急いで離れると、彼は、ジャケットの内ポケットを探り、これからどうするかを考え始めた。
二人が逃げ去った後では、打たれた通行人の絶叫とその他おおぜいの人間のパニックが、あたりに混乱を広げようとしていた。
加持があたりをつけた狙撃手がいると思われるビルから死角になっている路地裏で、二人はまずお互いがけがをしていないことを確かめあった。
弾丸が飛んできたのはあの一度だけであり、続けてアスカを狙って銃弾が飛来することはなかった。彼女は、加持が自分を飛んでくるかもしれない弾丸から文字通り身体を張って守ろうとしてくれたことに、のどの奥に熱いなにかがこみあげてくるほどのうれしさを感じていた。だから、加持があっさりと自分を腕の中から離し、ふところに手を入れたままなにか考えていることに、ふるえそうな恐怖を感じてもいたのであった。
そんな彼女の気持ちを知ってか知らずにか、加持は、まるでたいしたことでもないようにアスカにむかって口を開いた。
「殺し屋をかたづけてくる。十五分、ここで待っていてくれ」
「いや」
彼女の答は、キッパリしていて誤解の余地もなかった。
「足手まといにはならないわ。それに、あたしの「力」は、きっと加持さんの役に立つもの」
せいいっぱいの言葉とは裏腹に、アスカの手は加持のジャケットのすそをにぎって離そうとはしない。
「アスカの手を汚させるほどの相手じゃないさ。すぐに戻ってくる。さっさとかたづけて飯でも食いにいこう」
「だって、加持さん、なんの武器も持っていないじゃない」
飛行機に乗り込むときに、彼は、それこそポケットナイフすら持ち込まなかったのだ。ましてや、殺し屋の銃に立ち向かえそうな武器がなにかあるはずもない。
「大丈夫さ。凶器ならこれがある」
そこで加持が自信たっぷりに言いきって上着の内ポケットから取り出したのは、なんと黒い革の手袋と、フィルムケースに巻きつけたガムテープの束であった。アスカには、それのどこが凶器なのか、さっぱりわからなかった。思わず声が悲鳴のように高くなる。
「そんなもので、スナイパー相手に戦えるわけがないわ! やっぱり、あたしも行く!」
「俺も一応このての暴力の専門家なんだけどな。大丈夫、相手は素人だからな。おれを信じてくれ。すぐにかたをつけてくる」
すがりつくアスカを言い聞かせるようにして引きはがすと、加持は、両手に黒革の手袋をはめて背中を向けた。
「十五分よ」
「約束する」
せいいっぱい声が震えないようにして答えたアスカに、加持は、わずかに笑いの粒子をふくませた声で返事をする。そして、心配ない、とでも言うように軽く右手をあげると、彼は、足音を忍ばせてその場を立ち去った。
アスカは、ただ黙って、彼が街の明かりで薄暗い路地へと消えていくのを見送った。
そのままゆっくりと建物の陰に座り込み、ひざを抱えてうずくまる。そして、左手の腕時計を目の前に持ってくると、小さな声でそっとつぶやいた。
「……七時、三七分、一七秒……」
文字通りの必殺の銃弾が、ほんのささいなアクシデントではずれてしまったことに、男はパニックに近い驚きを感じていた。
続けて目標を狙撃しようと撃鉄を起こし、再びスコープを向けなおしたときには、少女は例のやさ男のかげに隠れてしまっていて二度ととらえることは出来なくなってしまっていた。邪魔なやさ男を狙撃しようかという考えが、一瞬だけ男の脳裏をよぎる。だが、最初の銃弾が起こした混乱が、男の姿をその他大勢の人混みで隠してしまっており、とてもその余裕はないようであった。
男は、これ以上ここでねばっていても狙撃のチャンスは二度とないと判断し、急いで撤収の準備を始めた。
まずルガー・ブラックホーク44マグナムを三脚から外してキャリングケースに急いでしまい、双眼鏡や三脚をショルダーバックに放りこむ。それから、ふところから小型リボルバーを取り出し、右手に持つ。まだ警察が現場に到着しないでいることを確認して、あわてて廃ビルの屋上から外部階段を駆け降り始めた。左手に下げたルガー・ブラックホーク44マグナムを入れたキャリングケースが、時たま階段の手すりにぶつかって鈍い音をたてた。
夜の街の裏路地に、男のかん高い靴音が響き渡る。護身用に用意しておいたコルト・ローマンMk3リボルバーを右手に持ち、あたりを油断なく見まわしながら、男は裏路地に用意しておいたヤマハ製の小型バイクに飛び乗ろうとした。
男が拳銃を左手に持ち替え、バイクのキーを取り出そうとズボンのポケットに右手を入れたその瞬間であった。突然後ろからあごが持ち上げられ、のどぶえになにか冷たいものが押しあてられる。それはそのまま素早く右へと動き、押しあてられた後から流れ出した温かいものが、男の服やバイクを濡らし始めた。
右手で自分のあごをとらえている手を放そうとあがき、左手の拳銃を握り直して後ろへむかって発砲しようとする。だが、その時にはもう、相手は男のそばにはいなかった。あとからあとから勢いよく流れ出てくる血が、彼の両手をぬらし、にぎっている拳銃を滑り落とさせてしまう。
男が呼吸をしようとするたびに、のどからひゅうひゅうとすきま風が吹き込むような音がし、ごぼごぼとお湯の沸き立つような音がこぼれる。彼は、自分が今まさに死のうとしていることを信じることが出来ないまま、そのを聞きながら、ゆっくりと意識が遠ざかっていくのを感じていた。
結局彼は、最後まで自分を殺した相手の姿を見ることはなかった。
加持はアスカと離れると、靴音を忍ばせながらも、目標のビルにむかって早足で歩き出した。そして、何分とかからずにその廃ビルのそばに到着する。彼はいったん物陰に隠れると、周囲の状況を観察した。彼の「常識」からするならば、必ずバックアップの人間が撤退路を確保しているはずであったからだ。
だが、いくら彼が目をこらしても、それらしい人影も、人の気配も、とらえることは出来なかった。
一瞬だけ考えを巡らせると、加持は急いでその廃ビルに近づいた。そして、屋外階段のそばに日本製の50ccバイクが隠すように停めてあることに気がつく。
と、その瞬間、屋外階段を誰かがけたたましい音を立てておりてくる音が、あたりに響きわたった。
即座に加持は、手近のガラス窓にとりつき、急いでふところから取り出したガムテープを立て続けに手際よく三枚張りつける。そして、両手の革手袋を締めなおすと、握り拳でそのガムテープをおもいっきり殴りつける。二度三度それをくり返し、鈍い音がしてとうとうガラスにひびが入ったことを確認すると、ガムテープを勢いをつけて引きはがした。
引きはがしたガムテープには、割れたガラスの破片がいくつも貼りついていた。加持はそのうちもっとも割れた断面が鋭いものを選びだし、新しいガムテープを二重三重に巻きつけた。そして、その即席のナイフを二度三度振って手になじませると、屋外階段から死角になるところに身を潜ませ、駆けおりてくる相手を待つ。
目標が地面にたどりつくまで、それから一分とかかることはなかった。
加持は、男が右手に銀色に輝くスナブノーズを持ってあたりを見まわしているのを見て、内心でそっとため息をつく。そして、彼が自分の他に誰もいないことを確認してバイクに近づこうとするまで、完全に気配を殺して物陰に隠れ続けた。男はそんな加持にはまったく気がつかず、急いでバイクにまたがりイグニッションキーをポケットから取り出そうとしている。
結局男は、加持が男のあごをつかんではね上げ、ガラス片をのどに当てるまで、彼の存在にまったく気がつかないままであった。
「手間をかけさせる」
加持は男が完全にこと切れたのを確認すると、小さくそうつぶやいて、その場をさっさと立ち去った。去り際に男の左手から滑り落ちた小型の拳銃が目に入ったが、ほんの半秒ほど考えた後に、それを持って帰るのをあきらめた。
護身用の武器は必要だったが、男の血で汚れた銃がちゃんと作動するか自信がなかったためであった。それよりは一刻も早くセーフティハウスへと逃げ込み、そこで必要なものを調達する方が確実であると考えられたのである。
そして、いったん男が降りてきた廃ビルの脇の路地に入ると、そこの地面からガムテープに張りついたいくつものガラス片をつまみあげ、われた窓から廃ビルの中に放りこむ。そして、右手に持っていたガムテープを巻きつけた血で汚れたガラス片も、一緒に廃ビルのなかに放りこんだ。
加持はそこでいったん気配を消し、ゆっくりとあたりの状況を観察した。周辺の静けさは先ほど彼がここに来たときと変わることはなく、表通りの喧噪が裏路地のここまで伝わってくる。そのまま周囲に誰もいないことを確かめ、彼は、警察のパトカーのサイレンが響いてきたことに気がつき、そっと足音を忍ばせてその場を離れた。
「まったく、素人はこれだから困る」
アスカの待つ裏路地へと急ぎながら、加持はもう一度そっとつぶやいた。
出来ることならば今この場で煙草の一本も口にしたいところではあったが、当然そんなことをするつもりはなかった。まだ戦場を脱出したわけではなかったし、アスカになにかある可能性もないわけではなかったのである。
たった今加持が処分した殺し屋は、文字通りの素人であったが、その殺し屋を送り出した相手も素人であるとは、彼はさすがに考えてはいなかったのであった。
「しかし、何故だ?」
加持にとって疑問であったのは、何故敵がアスカの暗殺にあのような素人同然の殺し屋を送ってきたか、であった。
こうして相手がこちらをとらえることができたということは、自分達にそれなりの監視がついているということである。今は多分その監視の網からはずれてしまっているであろうが、しかしまたその網にとらえられるであろうことは、疑うべくもない。
ところが、それだけの情報収集能力を持っているにも関わらず、敵が送り出した暗殺者は、あらゆる意味でプロフェッショナルとは縁遠い文字通りの素人であった。
すくなくとも、こんな夕闇のもっとも狙撃しにくい時間帯を選んで、スナイピングする必然性などあるわけがないのである。しかもあの男が使っていたのは、よりによって大口径の拳銃であった。多分アスカの容姿について詳細な情報を得てはいるのであろうが、あの雑踏で確実にしとめることができるはずがない。目標の確認が大変であるし、移動している以上どのようなアクシデントが起こるかしれたものではないのだ。さらには、スナイパーには絶対に必要なバックアップが、一人もいはしなかったのである。
内務省国家警察の警備部のエリートである加持は、将来を嘱望されてアメリカ連邦捜査局の訓練学校に留学していたことがあった。そこで彼が教わった各種の戦闘技術とまったく逆の行動ばかり、先ほどの殺し屋はとっているのである。
なにからなにまで、相手の行動にまったく整合性を見つけることができず、加持は混乱したままアスカのもとへと歩を進めたのであった。
建物ひとつへだてた大通りから聞こえてくる喧噪が、うずくまっているアスカの心細さをいやがおうでもかきたてる。
アスカは、一生懸命自分の心が不安で押しつぶされそうになるのをはげましながら、加持が戻ってくるのを腕時計を見ながら待ち続けていた。
「……七時、四二分、一七秒」
あと一〇分。
ただ黙って加持のことを考えていると、それだけで目の前がかすんできそうになる。自分がそんなふうに女々しいのがいやで、アスカは、必死になって自分に気合いを入れようとしていた。
敵、自分の母を死なせた敵。自分と、母を、ただ研究のためだけにすり減るまで使おうとした連中。
彼女は、そんな敵の親玉である一人の老人の顔を思いだそうとした。その老人は、水ぶくれしているような肥満体で、しかも歳のせいでたるんでみにくくふくれあがっていた。この世の美しいなにものにも興味はなく、ただ自分の研究だけしか頭になく、そのためにはどんな非人間的なことでも平気な畜生同然の男。
アスカは、辛いこと、苦しいことがあって心がくじけそうになると、その老人の顔を思い出すことで自分の心を奮い立たせてきたのであった。その老人や、彼に手を貸した連中、彼の下でなんの疑問もいだかず多くの悲劇を無自覚に作り出してきた連中。彼らに母の死についての貸しをきっちり取り立てるまでは、彼女は決して負けはしないと心に誓ったのだ。たかだかこんなところで一人でいるだけのことで、不安がってなんていられはしないのだ。
「……七時、四七分、一七秒」
あと、五分。
Drジョセフ・ウォレンス。
アスカは老人の顔を思い浮かべて、内心で吐き捨てるように彼の名を呼んだ。
いつか、絶対、あんたのこと「燃やして」やるから。ムッターをあんなふうに死なせた責任は、絶対にとってもらうわ。だから、あたしが大人になって、自由に動けるようになるまで生きていなさいよ。
あんたを殺すのは、この私なんだから。
彼女は、もう不安におびえてはいなかった。怒りと憎悪が全身に力をみなぎらせ、いつでも戦うことができるよう用意を終わらせている。これまでアスカは一人だったし、これからも一人で戦い続けなければならないだろう。ならば、強くならなければならない。いつまでもだれかの庇護を当てにしているわけにはいかないのだ。
加持さん。大丈夫、なにかあっても、あたしも戦うから。だから、あたしをそばにいさせてね。加持さんのかたわらで戦うのにふさわしいのは、このあたしなんだから。
アスカは、わずかに眉をよせた厳しい表情で左腕の時計を見続けている。
彼女は約束の十五分がすぎるまでは、ここで言われたとおりおとなしくしているつもりであった。だが、その時間がすぎたならば、自分も戦うために立ちあがるつもりであった。自分が加持のかたわらに居続けるのにふさわしい存在であることを、実際に証明しなければならないのだ。
「七時、五一分、五七秒」
あと二〇秒。
「七時、五二分、七秒」
あと一〇秒。
「九秒」
あと八秒。
「十一秒」
あと六秒。
「十二」
あと五秒。
「十三」
あと四秒。
「十四」
あと三秒。
「十五」
あと二秒。
「十六」
あと一秒。
「アスカ、いくわよ」
そっと自分に言い聞かせるようにつぶやくと、アスカは立ちあがり、全身に「力」をみなぎらせた。目をつぶってゆっくりと深呼吸し、意識をはっきりさせる。そして、目をひらき、走り出そうとした。
「よう。どこ行くんだい?」
まぶたを閉じていた一瞬の間に、いつのまにか加持が彼女の目の前に立っている。
アスカは、全身の力が彼に吸い取られるようにして抜けていき、もう一度座りこんでしまいそうになるのを必死になってこらえた。そして、安堵で声がこぼれそうになるのをなんとか押し殺し、一生懸命努力して厳しい口調で加持に言い放った。
「七秒の遅刻よ」
「悪い、悪い。相手が素人だったんでね。お詫びといっちゃあなんだが、夜食は奮発しよう」
アスカの内心に気づいて気がつかないでか、加持はいつも通りのほほんと答えてみせた。そんな彼からは、この十五分の間になにがあったのか、見て取ることはできなかった。
アスカの腕時計は、七時五十三分十七秒をさしていた。
一面の森の緑が目にまぶしいアラスカのアンカレッジ空港から飛びたった軍用輸送機のC−17の機内で、ノーマン・グレイ中佐は、ゆっくりと書類を手繰っていた。
そんな彼の余裕にあふれた態度に、となりに座っているCIAから出向してきた男は、内心穏やかではないなにかを感じていた。
確かに中佐のもくろみ通り、惣流・アスカ・ラングレーを乗せた旅客機は、フィリピンのマニラに緊急着陸した。だが、現地の官憲のミスから、肝心の目標は飛行場から逃げ出してしまい、今にいたるも足どりはつかめてはいなかった。そのうえ現地では、目標を追跡し処分するために必要な工作員のチームの数が、致命的なまでに不足しているのだ。彼女の暗殺自体はそれほど人手は必要ないが、それも目標を発見し、追跡し、確保することができてのことである。そして、そのためのバックアップチームが、決定的に不足しているのである。
「中佐、マニラに連れていくバックアップチームは、どこで拾うのですか?」
だがグレイ中佐は、男のその質問に軽く視線を向けただけで、また書類に目を落とした。しばらくそのまま沈黙が周囲を支配する。C−17のエンジンの轟音と機体が大気中を高速で突き進む騒音が、男の耳に痛かった。
「このまま那覇まで行く。そこで待機中のヘリに搭乗し、東シナ海上で待機している駆逐艦に移乗する」
「? バックアップチームは?」
「必要ない。そのための手配はすでにした」
「?」
怪訝そうにグレイ中佐の横顔に見入っている彼の表情に、中佐はそのまったく表情の見て取ることのできない瞳で彼をまっすぐ見つめた。そして、ゆっくりと周囲の騒音に負けないように説明を始める。
「今我々にとってもっとも必要なものである時間を、今夜一晩手に入れることができたのだ。ここで新たに増援を現地に投入しても、多分我々の持つ唯一の利点であるイニシアティブを失うだけで、特に得るところはない。必要なのは、目標がいつどこにいるかを正確に把握し続けることだ。そして、そのために現地の警察機構と、犯罪組織の協力を得るように手配をした。
目標がいかに抵抗しようとも、いや、抵抗すればするほど自分の所在を明らかにして、我々を彼らのもとへと導いてくれる。
それに、現地の組織を使った包囲網にくわえて、洋上の合衆国艦隊の協力のもとにもうひとつの包囲網をひいてある。彼らがなんらかの形で洋上に脱出することができても、それを捕捉することは容易であろう。目標の身柄を確保してしまえば、処分はそれほど大規模な組織的活動は必要ないのであるから」
「……何故です? 何故そのようなおおがかりな包囲網を?」
「わからないのかね?」
わずかにさざ波のようなものが、男の内心にわきたった。中佐の抑揚のない声は、彼の内心にそのような不安をかき立てるような凄みが感じられたのだ。
「君たちCIAが彼女の処分に失敗してきたのは、彼女の超能力を過小評価し、確実に退路を絶ってこちらの優位な点である数と火力で制圧をしようとはしなかったからではないかね」
中佐の言葉は、男の内心に驚愕以上のものを与えた。それは、明確な批判の言葉であった。少なくとも、こうまでおとしめられなければならないほど、彼らが失敗ばかりくり返してきたわけではないはずであった。
「しかし、これは戦争ではなく……」
「戦争だよ」
中佐の視線は、また前方に向けられた。
「すでに五〇人以上が死亡し、数百人が負傷している。合衆国が被った被害は、少なくとも一〇億ドルに近いであろう。テロもまた、戦争の一形態であることに違いはないのだ」
そして、彼は書類をひざの上のアタッシュケースにしまうと、中からアイマスクを取り出し目を覆った。そのままシートに身を沈め、就眠の態勢を整える。
「君も寝ておきたまえ。那覇についてからは、多分仮眠以上の睡眠を取ることはできないであろう」
マニラの中心部に近いところにあるアメリカ合衆国の大使館は、まるで植民地時代の高等弁務官府を思い起こさせるような巨大で、威圧的な偉容を周囲にしらしめている。
九〇年代前半、セカンドインパクト後の全世界的な大恐慌のあおりで、ここ世界でもっとも豊かな島と呼ばれたフィリピンでも、何度も大規模な反体制暴動や、反米、反日暴動が発生していた。まるで要塞のようなアメリカ大使館の様子は、その時の名残りのようなものであった。すでに夜も遅いにもかかわらず周囲はサーチライトで照らし出され、鉄柵の内側にはコンクリートの陣地のようなものがところどころに構築してある。一応付近を通りすぎる一般市民に威圧感を与えないように草木でもってカモフラージュをしてはあったが、だからといって、そのまがまがしいまでに威圧的な印象がやわらぐわけではなかった。
そんな建物の一室で、十数人の男たちが、まるで苦虫でもかみつぶしたような表情でブリーフィングを受けていた。
暗い室内の正面には、プロジェクターで映し出された二人の人間の顔写真とプロフィールが映し出されている。
「我々が確保し、処分するのは、この少女だ。名前は惣流・アスカ・ラングレー。国籍はドイツ。年齢は一四歳。身長は五フィート三インチ、体重は九八ポンド。頭髪はブラウン、瞳はブルー。見てのとおりの将来が楽しみだった美少女だ」
スクリーンに映し出されているアスカを指示棒で指し示しながら、CIAマンとおぼしき中年の男が説明を続けている。
「先ほども言ったとおり、これはあくまでAAAクラスの最高機密として聞くように。
彼女は、現在合衆国が確認した数少ない超能力者の一人で、しかも念力であらゆるものを燃やしてしまうことができる危険きまわりない力を持っている。この少女は、一昨年、ヴァージニア州にある政府施設を全焼させ、四十七人の政府職員を焼き殺して現在にいたるまで逃走中だ。これまで何度も政府機関が彼女を確保しようとしてきたが、その試みは全て失敗している。その途中で焼き殺された職員も、片手の指では足りないほどだ。
諸君の任務は、法律の手を及ぼしようのないこの少女を、このフィリピン国内にいる間に、その身柄を確保し処分することにある」
暗やみのなかで椅子に座っている男たちの雰囲気が、いっせいに不満のこもったどす黒いものに変わっていく。だが、中年のCIAマンは、それにわざと気がつかないふりをして話を先に押し進めた。
「次の目標が、この男だ。男の名は加持リョウジ。国籍は日本。年齢は三一歳。身長は五フィート九インチ、体重は一三四ポンド。頭髪、瞳、ともにブラックだ。見た目はただのやさ男にしか見えないが、中身は違う。現在日本の内務省の中央警察の治安部隊の警視で、海外での諜報を担当しているすご腕のエージェントだ
これまでの経歴だが、FBIの訓練学校を優秀な成績で卒業し、その後三年ほどDEA(連邦麻薬捜査局)に出向して、中南米で対麻薬・カルテル作戦に参加している。そこでは狙撃手として七回の作戦に参加し、合計で一四人のカルテルの幹部を狙撃し、その全てに成功している。他にもヘリのパイロットライセンスを持ち、SOFとしての訓練も受けてきている」
今度は、男たちの雰囲気が一変する。戦うに足る敵を目の前に見せられて、彼らのプロフェッショナルとしての意識に火がついたのだ。
「かなり厄介な相手ではあるが、目標の護衛は今のところ彼一人だけらしい。
ただしこの男は、できるだけ殺さないように努力して欲しい。彼の親族に政権党の有力な親米派の政治家がおり、彼が合衆国政府機関の人間にとって殺されたことが知られたならば、我が国と日本との間の同盟にどのような影響があるか検討もつかないからだ」
今度こそ男たちの不満が頂点に達する。露骨な殺気を浴びせかけられて、中年のCIAマンは、したたり落ちる冷や汗を隠すことすらできなくなる。それこそ、プロジェクターから照り返す光がおのおのの瞳に反射して、まるで彼を餓狼の群れが包囲しているような雰囲気になる。
ここであわれなCIAマンを助けたのは、男たちの先頭に座っていた三〇かそこらの精悍な印象のアイルランド系の男であった。
「よろしい! 野郎ども、沖縄以来始めてのジャップとの戦争だ。気合いを入れて任務を果たせ。たとえ相手が小娘であってもだ! ヴェトナムやベイルートで、ゲリラを小娘とあなどって死体袋に放りこまれた戦友が数えきれんほどいることを忘れるな、いいな!」
「了解であります、大尉殿!」
男たちがいっせいに返答する。
「よし! 俺達海兵隊の合い言葉は!」
「ガン・ホー!、ガン・ホー!、ガン・ホー!、ガン・ホー!、ガン・ホー!!」
「俺達の任務は!」
「キル!、キル!、キル!、キル!、キル!、キル!!」
「よろしい! 曹長!」
今度は、黒人の雲をつかむような筋骨隆々の中年の大男が立ちあがり、男たちを怒鳴りつける。そのスキンヘッドと分厚い唇が、さらに迫力を増し、かたわらで凍りついてしまっているCIAマンを震わせる。
「分遣隊、解散!!」
第一新東京市の夜は、ここが日本という国の行政機構を集中させた街であるために、深夜をすぎるとゴーストタウンのように静まり返ってしまう。ただ路地に街灯がぽつんぽつんと光をおとしているだけで、猫の子一匹、影をおとすことすらない。
冬月は、碇ゲンドウの表の顔にに与えられている執務室の窓から、その死んだように静まりかえっている街の姿をじっと眺めていた。
「街か。人が自らの弱さを補い、より多くのものを得ようとして、その身をよせあって作った楽園だな」
「楽園か、幻想にすぎん」
部屋の主の性格を現して、調度といえるようなものは、執務机と応接セット以外のなにものもおかれてはいない。その簡素な応接セットのソファーに足を組んで腰をおろしているゲンドウが、冬月の感慨を一言のもとに切り捨ててみせた。
「街は、人を自由にする、だよ」
振り返りもせずに、冬月が穏やかに切り返してみせる。
「だが、現実は、今目の前にあるとおりだ」
わずかの間、二人の間に沈黙がわだかまり、軽くはない時間がすぎていく。
次に口を開いたのは、冬月であった。
「しかし、合衆国がここまで過剰に反応するとは、予想もつかなかったな」
「これまでいかに「店」の連中が無能であったか、だ」
あくまでゲンドウの言葉はそっけない。
「それで米海軍の駆逐艦が周囲を警戒し始めては、もともこもあるまい」
「しょせんはこけおどしだ。あの程度の対応では、たいしたことはできんよ。CIAが駄目ならばDIA、か。しょせんはその程度の連中だ」
「しかし、圧倒的な火力で押さえ込まれては、いくら彼女でもどうしようもあるまい」
「そのためにシンジとレイを沖縄に送り出したのだ。正規軍を投入して制圧しようとしない限り、特に問題はあるまい」
それはどうかな。
冬月自身には、また別の感想があったようであったが、だがそれをここで口にするようなことはなかった。かわりに、さらに実務的なことを口にすることで、内心に感じたものを心の底にしまいこんだ。
「それで、フィリピンからどうやってセカンドチルドレンを回収するのかな」
「政府への働きかけは、今のところ順調に進捗中だ。この数日以内に自衛隊の護衛艦が、バシー海峡にむけて出港することになるだろう」
「それで、どうやって合衆国をなだめる? セカンドチルドレンの安全の確保のためには、連中の面子も立ててやらねばならないのだろう?」
たとえアスカを日本へ連れてくることができても、彼らが彼女の処分をあきらめない限り事態が根本的に解決することはない。
「連中は、いっさいの研究資料を失って茫然自失の状態にある」
「共同研究でももちかけるのか? それは、あまりにも危険だぞ」
「もともとセカンドチルドレンを挑発して暴走させたのは、連中の方だ。たかだか十四歳の少女を、躍起になって追いかけまわしている事実に気がつけば、自分の手が白いと信じ込みたい連中が止めに入るだろう。数十億ドルの金をつぎこんで得た結末が、ただの瓦礫と死体の山であっては、連中も申し開きができはすまい」
「そういった者達に、どうやってこの騒動について知らせる? こんな馬鹿々々しい事件が現実であると、信じはせんだろう」
「現実に起きた事態を突きつけられれば、考え方も変わるさ」
「それまでセカンドチルドレンが生きのびられれば、な」
「…………………………」
そのまま黙りこんでしまったゲンドウの沈黙を、冬月は会話の終了のサインであるととらえた。かたわらにおいてあった背広の上着にそでを通すと、そのまま部屋を出ようとする。
「冬月」
彼が扉のノブに手をかけた瞬間、ゲンドウがぼそっと呼びかけた。
「我々に、他の選択肢があったと思うか?」
「ない、な」
扉は、静かに閉められた。
うだるような暑さのはずが、この街の中ではかえって薄ら寒さしか感じることがない。
冬月は、今出てきたばかりの建物を見あげながら、ぽつりとつぶやいた。
「我々は死者の街にいる。生きた人間の街にいる少女になにをできる?」
静まり返った街に、彼の靴音だけが静かに響いていった。
加持がアスカを連れていったのは、マニラ市のはずれにある住宅街の中にあるコテージであった。
途中、何カ所も検問があったが、加持は無造作に裏通りを使ってそれをことごとくやりすごしてしまった。あまりにも簡単に隠れ家に着くことができて、アスカは、加持が有能なのか、フィリピン警察が無能なだけなのか、さっぱりわからなくなっていた。コテージの入り口をくぐったときに彼女は、自分の中にある警察という組織にいだいている信頼感のようなものが、がらがらと音をたてて崩れていくのを感じていた。
二人を出迎えたのは、切れ長の細い目をした、いかにもスパイといった雰囲気を漂わせた男であった。有能で、切れ者であることが一目でわかる、でもそれだけでしかない典型的な日本の官僚だと、アスカは内心で考えた。
「尾行や目撃者は?」
開口一番男が口にしたのは、その一言であった。
「大丈夫。おかげでこれだけ遅くなった」
切りこむような男の言葉とは対照的に、のほほんと加持は答えてみせた。そのまま無造作に中へと入っていき、応接間のソファーに腰をおろす。そして、だらしがなく背伸びをすると、緊張感のかけらもない口調で男に呼びかけた。
「腹へったんだが、なにか取ることはできるのかい? それとも買い出しが必要かな?」
彼のその一言に、アスカは自分がどれほどお腹がすいているのかを思い出した。そして、意識が空腹に向かうと同時に、身体が栄養の補給を具体的に要求してみせる。
大人、それも男二人にその音を聞かれてしまい、耳まで真っ赤になったアスカは、あわてて叫ぶようにそばの男に話しかけた。
「シャワーはどこ? 汗を流したいの」
男は、なにも聞かなかったし、なにも見なかった、というふうに廊下の奥の扉を指し示してみせた。
「ありがとう!」
まるでその場から逃げ出すように、彼女は、小走りにその扉の中へとびこんだ。そのまま後ろ手に音をたててドアを閉め、背をもたれかけさせてずるずると座りこんでしまう。恥ずかしさのあまり両手で顔を覆い、しばらく立ちあがることもできない。
「……聞かれちゃった。加持さんに、聞かれちゃった……」
穴があったら入りたい。
今のアスカの心境は、まさしくその言葉のままであった。
アスカがバスルームの扉のむこうに消えるのを見送った男は、扉が閉まると同時に軽くため息をついてみせた。
そのまま加持の方に向きなおり、なんともやりきれないといったふうに口を開く。
「信じられんな。本当にあの少女が、あの「店」の本部施設を全焼させたのか?」
だらしがなくソファーにへたりこんだまま、口調だけは真面目に加持が答える。
「信じられんだろう。だが、事実だ」
「それほどのものか、彼女は」
「法によって裁くことができず、いつ合衆国の心臓を焼き払うか心配しなければならないんだ。アメちゃんが躍起になって彼女を追いかけまわすわけだ」
うんざりしたような彼の口調に、男は同意したように軽くうなずいて、キッチンへと消えた。そのままなにかごそごそとあさっていたかと思うと、いくつかの缶詰めと、カップラーメンを持って戻ってくる。
「すまんが、今はこんなものしかない」
「ひどいな。誰か料理するやつはいないのか?」
「こんな国に女子職員がまわしてもらえると思うか?」
「俺は男だが、一応肉をさばいて、魚を三枚におろして、出汁をとった料理を作れるぞ」
「なら、あんたがなにか作ってくれ」
「やっとのことでたどり着いた同胞に、着いたしょっぱなからそれか」
「わかったよ、ピザでぐらいしか取とれんぞ」
「その、日本でへどがでるほどさんざん見せられた代物でなけりゃ、なんでもいい」
男は立ちあがり、やれやれといったように頭を左右に振ると、廊下にある電話機へと歩いていった。彼が流暢なタガログ語でなにか話しているのが、ソファーの上でへたばっている加持にも聞こえてくる。
「適当に頼んでおいたぞ、いいな」
「ありがとう、恩に着るよ」
戻ってきた男が加持の正面に座り、これまでとは雰囲気を一変させて口を開く。
「それで、そうやってこの国を脱出するつもりだ」
「そっちの手配は?」
のへへんとした格好のまま、加持も口調だけは真面目になって答える。
「空路と海路の両方を手配している」
「空路は駄目だな。飛行場で狙撃される。アキノのおっさんみたいにはなりたくないな」
「なにかあったのか?」
言下に却下した加持の言葉に、男は、なにか自分の知らない事態が発生したのではないかと感じたようである。
「来る途中で狙撃された。素人だから助かったが、あれが海兵隊の狙撃手だったら、今ごろ彼女は天国行きだったよ。もっとも、そうだとすれば、空港で仕掛けてきたろうからな。それを見越してのあの騒動だったが、夕方の町中で仕掛けてくるとは思わなかった」
「その暗殺者のバックは?」
「わからん。とてもじゃないが尋問している時間はなかった」
「わかった。それはこちらであたってみる」
男は、しばらく考えていたかと思うと、ぽつりとつぶやいた。
「どこかの漁港から、漁船をチャーターして、海へ出るしかないな」
「手配は任せる。だが、一応空港のルートも確保しておいてはくれ。陽動になるかもしれん」
うまくいくとは信じていないのが、ありありとわかる口調だった。だが、二人ともプロフェッショナルであり、うてる手は全てうつのが当然の行為であったのだ。事前の準備をどれだけ完璧にしておけるかが作戦の正否を分けることを、二人とも骨身にしみるまで理解していた。
「アパリ、サンフェルナンド、オロンガポに、船を手配している。どれも日本人の船だ」
男は、北から順に港の名前をあげていく。
「使うとすれば、アパリだろうな」
即座に加持は、もっとも北の港を選択した。そして、怪訝そうな男の表情に気づき、簡単に説明を加える。
「オロンガポは、スービック湾に面した街だ。前に米軍の基地があったろう? 今でも現地のエージェントが残っている可能性が高い。足跡をくらますのは、かなり難しいだろうな。すぐに洋上で捕捉されたら、逃げようがない。
サンフェルナンドは、完全に南シナ海に面している。今、南沙諸島で中国とアメちゃんがにらみ合ってるからな。自衛隊が展開していてくれれば途中でひろってもらえたが、今、護衛艦は一隻も出ていないはずだ。あそこからバシー海峡を越えて太平洋に出るのは、かなり手間だろう。
とすれば、日本領に一番近いアパリしかあるまい。あそこから沖縄まで目と鼻の先だからな。途中で沖縄の米軍とはちあわせしかねないが、日本の庭先でそうそう手荒なこともできないだろう」
「フィリピン国内をどうやって突っ切るつもりだ?」
「運び屋の手配はしてくれているんだろう?」
まったく心配していないといった口調で、加持があっさりと答える。
「してはあるが……」
「なら、任せるさ。そのための金は、うちらが出すわけじゃないんだから。あとは陽動だけしっかりとやっといてくれればいいさ」
どうにも緊張感にかける加持に、男は処置なし、といったふうに天井を見あげた。そんな男の内心を知ってか知らずにか、彼はさらに注文を重ねた。
「あと、武器の手配を頼む。さすがに今日は綱渡りだった。素手で殺し屋とやり合うのは、二度としたくはないんでね」
「なにが必要だ?」
「コルトの45口径。できればコンバット・コマンダーがいい。あとC4、というか、プラスチック爆薬を一キロほど。雷管は着火式のやつだ。それから、狙撃銃。できれば米軍のM40A1がいいが、民間用のスポーツライフルじゃなければなんでもいい。ただ、口径はNATO標準だとありがたい」
「戦争でも始める気か?」
男の言葉に、加持は身を起こして彼と正面から向きなおる。そのやさ男然とした顔に、獰猛な笑みが浮かび、瞳に殺気がいろどりを加える。男は、明らかに突然の彼の変身にとまどったようであった。
「戦争? 始まってるよ、とっくに」
温かなお湯が全身の汚れを洗い流していく心地よさに、アスカは、前にシャワーを浴びたのがはるか昔のことであったように感じていた。少なくとも一昨日のベルリンで風呂に入ったはずであったが、それから起こった一連の騒動に、彼女にはもう何日もたってしまったように思えたのであった。
柔らかな石鹸の泡が流れ落ちていくと、そのあとから瑞々しい少女のやわ肌が現れる。一四歳の少女にしては均整のとれためりはりのはっきりした体つきであることが、生まれたままの姿になると、いっそう引き立って見える。
やっと人心地つき、アスカは全身の緊張がとれていくのを感じた。
それと同時に、自分がもう独りぼっちで、誰にも頼ることができない事実に、押しつぶされそうな不安を感じる。思わず口をついて、母親に呼びかける声がもれる。
「ムッター」
アスカは、最後に母が、自分を「店」の研究施設から脱出させてくれた時のことを思い出してしまった。
そこは、清潔で、機能的で、まさしく人間の理性と英知の結晶のような場所であった。だがそこは、ナチスドイツの絶滅収容所がそうであったように、人間の理性の負の部分がもっとも端的に現れる場所でもあったのだ。
そしてそこで彼女と母の二人は、半ば強制的に彼らの研究のモルモットとして彼らに協力させられていたのであった。
「……ムッター……」
バスルームの壁に額をあてて、アスカは歯を食いしばるようにして、もう一度つぶやいた。
彼女が「力」に目覚めたのは、物心つく前であったという。
そしてその「力」ゆえに、両親がどれほど苦労したかも、二人が口にすることはなかったが彼女にはよくわかっていたつもりだった。彼女が聞こえるところにはいないと思ってかわされた二人のいさかいは、あまりにも陰湿で、暗いものであったのだ。何度も父が、母やアスカのことを「魔女」と呼んでいたことも、記憶に残っている。そのたびに母が、声を上げて父にくってかかっていったことも。
一人子供部屋で、そんな争いを聞かないように、枕を頭からかぶって震えていたことも一度や二度ではなかった。
両親が自分のことで争うのをやめてもらおうと、必死になって良い子でいようとしたことも、せいいっぱい勉強して一〇歳で高校卒業の資格を取ったことも、全ては無駄であったのだ。何故なら、いくら彼女が努力しても、両親の不和の原因はまったく別のところにあったのだから。
自分の「力」が、コントロールできないままに暴走することが、何度もあったらしい。そのことが両親をどれほど追い詰めていったのか気がついたのは、すでになにもかも手遅れになった後のことだった。結局、自分が持つ「力」が悪いということに気がつかされたのは、全てが終わったときのことであった。
父が、母を捨てて愛人のもとへ走った時、母はアスカを抱き締めてずっと泣いていた。その時、少女は誓ったのだ。自分が母を守らなければならない、と。卑怯な父が否定した「力」で、母を守り、自分が優れた存在であることを証明しなければならない、と。
だが、請われるままにアメリカに渡った二人は、そんな彼女らの悲しみにつけこむように「店」に利用されるだけで、少女の誓いは果たされることはなかった。彼らはアスカを利用するだけで、彼女のことを決して認めようとはしなかったのだ。
「ちっくしょお……」
そして、最後に破局がおとずれた。
母がアスカを「店」から解放させようとして、逆に彼らに洗脳されかかり、二人で施設を脱出しなければならなくなったのだ。
今でもその時のことを悪夢に見る。
白い清潔な建物全体に警報が鳴り響き、多くの警備兵が、二人を取り押さえようと駆けてくる。アスカの手を取って必死に走っている母の背中が、細く、小さく見えたことが、今でもはっきりと思い出される。
そして、最後の、悪夢の瞬間。
母がアスカをサーチライトの光から隠すように抱き抱え、出口にむかって走る。
突然、耳に響いてくる銃声。
のけ反るようにして倒れ、それでもアスカを放そうとはしなかった母。
彼女の目に、大型の拳銃を構えた、若い警備兵の姿が見える。
そして彼女は、生まれて初めて人を殺したいという衝動のままに「力」を振るったのだ。
それから後のことを、アスカはほとんど覚えてはいない。ただ、何人もの「店」の人間が彼女の「力」でたいまつのように燃え上がり、真白い建物が炎上している情景だけが、ぼんやりと思いだされるだけであった。そして、燃え上がる施設と一緒に母の遺骸も消えてしまったことも。
「……あたしは死なない。絶対に生きのびて、あたしが、優れたエリートであることを、世界に認めさせてやるんだ」
だから、戦って、生きのびて、そして、証明しなければならない。
惣流・アスカ・ラングレーが、選ばれた存在であることを。
自分が、「力」を持つにふさわしい存在であることを。
「ムッター」
なぜか、目の前がぼやけてなにも見えなくなる。アスカはシャワーのお湯でで目をすすぐと、食いしばった歯から押し出すようにつぶやいた。
「やだ、お湯が目に入った……」
泣いているわけではないのだ。そう、彼女は、母が死んだあの日から、泣かないと心に誓ったのだ。泣く暇があったならば、考えて、戦って、そして生きのびなければならないのだ。
だが、アスカの視界は、なかなかはっきりとはしなかった。
どうもお久しぶりです、金物屋亡八です。ほとんど一月ぶり以上になりますか。……実際には四〇日ぶりか。
いやもう、どうもすいませんでした。次はもう少し早く上梓するようがんばりますから、どうにかお見捨てなきようお願いします。
というわけでどうにか第参話C Partを上梓できました。今回は、なんとか容量で三〇k以内に押さえようとしたんですが、結局またも増えてしまいました。結局四三k(笑)。もう、どうしようもありませんね、なんとも不様な話です(笑)。まあ、そういうわけですので、これからもどうぞよろしく。
さて、やっとフィリピン篇の本当の敵の姿を、ちょこっとだけ見せることができました。
そう、海兵隊の連中です(笑)。
最近マスコミで、少女強姦魔といった扱いを受けていますが、実際のところは違います。彼らは、きわめて厳格な訓練を受けた合衆国軍の精鋭で、真っ先に戦場に突入し活躍をすることが期待されているエリートです。
といっても、まあ、この話の中では敵役でしかないんですけれどもね(笑)。
まあ、その姿はおいおい描写されていくでしょうから、ここで多くは書きませんが。
あと、アスカについて、ちょっと深く書き込んでみました。
本当は、もっと作品中でゆっくりと描写していってもよかったんですが、それをやるといつまでたっても話が終わらないので、話の展開をスピーディにするためにああいう形で描写することにしました。細かいところはこれからおいおい書いていくつもりですが、彼女のだいたいのスタンスは、まあ、あんなところです。
それにしても、いつになったら終わるのか、実はまったく見当もつかなくなりました(笑)。それこそ文章の量が、最初の予定より爆発的に増えていく(笑)。
というわけで、これからも広い度量と、気長な目でおつきあいくださればと願っています。
ちなみに最後になりましたが、しつこいようですけど、このストーリーのテーマはあくまで「ラブラブシンちゃん」です(笑)。
あのアスカを相手に、へっぽこシンジがどうラブラブできるのか、作者にもわからないんですけれども(笑)。でも、そうであることは、決定事項ですので(笑)。
それではまた、機会がありましたら、次の作品でお会いしましょう。
金物屋亡八 拝
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