夏の朝、それも南の島の朝は早い。
倉庫の明り窓から外を見ていたアスカは、あくびをかみ殺しながら、朝もやがマニラ港を覆っているのをぼんやりとながめていた。遠くから、入港してくる船のかん高くまのびした汽笛が、彼女のところまで聞こえてくる。
ふと、アスカは視線を倉庫の中に向けた。
その倉庫は、使われなくなって久しいのであろう、今はなにも荷物は置かれてはいなかった。三人が乗ってきたトヨタのセダンが、だだっ広い空間のまんなかにぽつんと停まっているだけで、建物の中は、まるで廃墟のようにがらんとしていた。床のむき出しのコンクリートが、妙に中の雰囲気をひんやりとさせている。まだ外の気温はそれほど暑くはなっていなかったが、そうであるにしてもここは肌寒かった。
アスカは、軽く両手をまわして自分を抱きしめると、小さく身ぶるいをした。
そんな彼女の仕草を見ながら、加持は、ゆっくりとタバコをくゆらせている。
「ああしているところを見ていると、どうして、なかなか可愛いじゃないか」
加持のかたわらに立った日本大使館のエージェントが、その切れ長で細い目をわずかにやわらげて、そうつぶやいた。
その言葉に、加持は、ぽつりと放り出すように答えた。
「で、彼女のあの服装は、おまえさんの見立てかい」
「手に入ったのが、あれだったんだ」
男も、わずかに声を落として、答えを返した。だが、その言い訳がましい口調が、彼がアスカの着替えにかけた労力の量をしっかりと明らかにしてしまっている。
「まあ、否定はしないさ。彼女は、将来ものすごい美人になるだろうしな」
加持はそう独り言ちると、すっと目を細め、口にくわえているラッキーストライクの吸いさしを捨て、靴のかかとで踏み消した。
彼の見ている前で、アスカはおもいっきり伸びをした。その拍子に、頭に乗せていた真っ赤なアポロキャップが、コンクリートの床に落ちる。帽子の中にたくしこまれていたまっすぐの赤毛が、さらさらとこぼれ落ち、彼女の肩から背中にかけてひろがった。あわてて腰を落として帽子を拾おうとして髪の毛が顔にかかり、うっとうしげにそれを払いのける。オリーブドラブの地に派手な絵柄がプリントされた大きめのTシャツと、洗いざらした男物の黒いジーンズが、こぼれた彼女の長髪によく映えた。
もう一度、赤毛を帽子の中にたくしこもうと悪戦苦闘しているアスカを見ていて、加持は、知らず知らずのうちにおもはゆそうな表情が浮かんできた。その時その時にころころと換わる彼女の表情を見ているだけで、自然と気持ちがやわらいでくる。
だが彼は、これから自分が何をしなければならないのかを思いだし、軽く目を閉じて気持ちを切り替えた。
半秒後、まぶたをあけた彼は、完全に兵士の表情を取り戻していた。疲れて無感動になったような、眠たそうな眼。しかし、見るものが見れば、彼が全身を使って周囲の気配を感じとろうとしている状態にあるのがわかる。造作は変わってはいない。しかし、そこにいるのは、これまでそこにいたのとはまったく別の男だった。
「で、必要な物は、準備できたのか?」
加持の問いかけに、男は、三人が乗ってきた車のトランクから、いくつかのケースや、ボール紙の箱を取り出してみせた。どのダンボールにも、「Made In USA」の文字が印刷してあった。
「拳銃に関しては、要求通りのものが手に入った。弾薬は三〇〇発、すべて被甲弾だ。予備マガジンは四本用意できた」
「それだけあれば、まあ十分だろう」
加持は、キャリングケースからコルト・コンバットコマンダーを取り出し、安全装置がかかっているのを確かめ、銃杷から弾倉を抜いて、遊底を引いた。金属が打ち合う鈍い音が倉庫中にこだまし、はっとしたアスカが、彼のほうに視線を向けた。
「すまんが、狙撃用ライフルは、やはりM40は無理だった。一応M21を用意したが、かまわないな?」
狙撃銃の名前を聞いた瞬間、加持の眉が、ぴくっとはねあがった。
「M21? 年代物じゃないか。サイトの調整は?」
「二〜六倍の可変スコープで、一応調整は終わっている。心配なら、マニラを出た後、どこかで自分で再調整してくれ。弾は同じく三〇〇発と、予備マガジンを四本用意した。ファクトリー・ロードだが、被甲弾と曳光弾を二対一で用意した。弾の飛翔特性は、それで大体はつかめるだろう?」
言外ににじみ出ている彼の不満に、男は平然とそう答えてみせる。銃弾の飛翔特性は、弾頭重量や、薬莢内の発射火薬の燃焼特性、銃身の状態によって大きく変化する。男が言っているのは、そのことであった。ファクトリー・ロードとは、工場で機械的に燃焼薬を薬莢に詰めた銃弾のことである。機械任せにするから、どうしても銃弾ごとに発射薬の燃焼にばらつきが出てしまう。だが、そうであることをわきまえておけば、その影響を最低限に押さえることは、加持のようなプロには不可能ではないのだ。
「昨日今日で、そうそう使える銃が手に入るものか。一応、三〇〇ヤードで四インチのグルーピングをたたき出している。セミオートマチック・ライフルでこれなら、文句は言えんだろう」
加持は、黙ってライフルケースの中からM21セミオートマチック・ライフルを取り出した。まずセイフティがかかっていることをチェックし、遊底を引いて薬室に弾丸が装填されていないことを確かめる。そして、倉庫の出入り口に銃口を向けて、銃のバランスやスコープの調子を確認した。それから、あちこちのボルトやつまみの状態をチェックし、納得したような表情で、そっとライフルをキャリングケースに戻した。
この、一九六〇年代に米軍の正式ライフルであったM14A1オートマチック・ライフルをベースに、フルオートマチック射撃機構を取り除き、二〜六倍の可変スコープを取りつけたこの狙撃用ライフルは、ベトナム戦争でより高精度のM40ボルトアクションライフルが正式採用されるまで、米軍の正式狙撃銃であったのだ。だが、程度の良いM14をそのまま狙撃銃に転用しただけのこの銃は、前線の兵士の評判がかんばしくなかったせいもあって、使用されていた期間はそれほど長くはなかったのであった。
「まあ、M14ベースのライフルだが、使い方しだいだしな。で、予備の撃針は?」
M14系ライフルの構造的な欠陥のひとつに、撃針の強度が不足していて、射撃中によく折れてしまうという事故が起ることがあげられた。以来、この銃を与えられたベテランの兵士は、必ず予備の撃針を何本か用意するのを忘れなかったという。
「一応、二本用意してある」
「ありがたい。もしかして、こいつの調整は、おまえさんがか?」
「ああ」
ニヤリと男臭い笑みを浮かべた加持は、だが、それ以上は何も言わなかった。
男も、特になんでもないといった様子で、次の箱を開いてみせる。
「これが、メディック・セットだ。一応米軍のと同じ物を用意した。あんたにはこれが一番使いやすいだろう。三人分用意してある」
「了解した」
「無線機とウォーキートーキー。周波数は調整が終わっている。半径五〇〇メートルまでなら確実だ」
「子機が三つか。バッテリーは?」
「各々、六時間はもつ」
「それに、手鏡と双眼鏡か。マグライトにスイス・アーミーナイフ。防弾チョッキもある。ナイトヴィジョンもか」
「光量増幅式のやつだ。一つしか手に入らなかったが、あんたが使ってくれ。それから……」
次々と並べられていく装備を見て、加持は、ゆっくりと新しいラッキーストライクをくわえ、ジッポで火をつけた。文字通り必要な物は全て用意されており、彼が何か口をさしはさむところはなにひとつなかったのだ。降参、といった様子で両手を上げて、加持は、大きく紫煙を吐き出した。
「よくこの短い時間で、これだけそろえることが出来たな」
加持とアスカが転がり込んできてから、まだほんの数時間しかたっていない。とてもではないが、これだけの装備を調達するなど、並みの役人の手腕でできることではない。
だが男は、特になんでもない、といったふうに肩をすくめてみせただけであった。
「マニラは長いんでね。あちこちに友人がいる」
「うらやましいな。ま、今回の件は、個人的な借りにさせておいてもらうよ」
「ああ」
二人の間に、一瞬だけ沈黙が満たされた。
だがその間は、決して重たいものではなかった。
「さて、俺たちを北へ運んでくれる酔狂な運び屋さんとは、いつになったら対面できるのかな?」
吸いさしをもう一度足元に投げ捨てて靴のかかとで踏み消し、加持は、ジャケットを脱いでショルダーホルスターを身につけた。そして、コルト・コンバットコマンダーに弾倉を装着し、薬室に初弾を装填する。チェンバーの作動する鈍い音が、もう一度倉庫内に響き渡る。あらためてマガジンを抜いて45ACP弾を一発装填し、弾丸が目いっぱい込められたのを確認してから、弾倉を拳銃に戻した。そして、起こされたままの撃鉄をそっと戻し、安全装置をかけて、ショルダーホルスターに銃を収めた。
そんな彼の姿を見つめながら、アスカは、だんだんと自分の心臓の鼓動が高まっていくのを感じていた。
上着を脱ぎ、まっ黒のショルダーホルスターと大口径の自動拳銃を身につけている加持の姿は、これまで彼女の見知ってきたいかなる男たちよりも精悍で、凛々しかった。彼は、決して筋骨隆々にも、獰猛そうにも見えはしない。だが彼女には、彼が絶対に最後まで自分を守りきってくれるであろう、という信頼感を、彼の背中に感じることができたのだ。
今、自分の顔が上気してしまっていることに気がついて、アスカは、もう一度窓の外に顔をむけた。外のひんやりとした空気が、ほてったほほに心地よい。そろそろ日射しが朝もやを払い、街が本格的に動き出す時間になろうとしていた。
その時だった。ぼんやりとあたりに拡げられているアスカの意識に、この倉庫に近づいてくる乗用車の存在が「触れた」のは。あたりはまだ人影もまばらで、本格的に人や車が行き来するまでには今少し早かった。
あわてて意識を加持から引きはがし、近づいてくる車に向けなおす。近づいてくるセダンとこの倉庫までの距離は、まだかなりあった。だがアスカには、その乗用車がこの倉庫を目指して一直線に走って来るのが、はっきりと確認できた。そして、どう見てもまともじゃない悪路を走るようにチューンされたその車は、とてもではないが朝早いこのマニラ港にはふさわしくなかった。
「加持さん、車が近づいてくる。距離は三〇〇メートルくらい。荒れ地を走ってきたみたいに、汚れて、傷ついてる」
加持の反応は素早かった。即座にショルダーホルスターのコルト・コンバットコマンダーを引き抜くと、アスカののぞいていた窓に走る。そして、アスカを自分の背中に隠すと、まず左手に持った手鏡で、窓から顔を出さずに周囲の状況を確認しようとした。男も懐の拳銃を抜くと、反対側の窓に移動し、油断なく周囲の状況を確認している。
二人のそんな動きにアスカは、あっけに取られてしまった。二人の動きが彼女には、なんとも過剰反応に思えたのだ。とりあえず周囲へ意識を広げて、この倉庫に近づいて来るのが、その車だけであるのを確かめようとする。
だが、加持の目の方が、アスカの「見る」のよりも早くて正確であった。
「ブルーバードのSSS。Rか? ……ラリー仕様のようだな。近づいてくるのは、それ一台だけか」
加持の言葉に男は、目に見えてあっさりと緊張を解いた。さっさと拳銃に安全装置をかけ、懐に戻す。そして、トヨタのセダンに戻ると、広げられた装具を片づけ始めた。
「その車が、あんたらを運んでくれる運び屋さ。腕も確かだし、信用していい男だ」
「大使館の車じゃないな」
まだ緊張を解こうとはせず、加持はそのブルーバードを見つめている。アスカには、加持が何を懸念しているのか、わかるような気がした。
「外交官ナンバーの車なんか、目立って使えるものか。それこそマニラを出た瞬間に、大口径のライフルかRPGで狙撃されるか、地雷で吹っとばされかねん」
「この国は、まだそんななのか?」
さすがの加持も、眉をひそめる。アスカにいたっては、あんぐりと口を開いたまま、男が何を言っているのかを理解するので精一杯の様子である。男は、片付けている手を休めもせずに、言葉を続けた。
「地方はまだ大地主らの治外法権地帯だし、ちょっと山へ入れば、そこはNPAの支配下だ。ルソン島だけじゃない。中央政府の意向なんか、この国じゃ誰も気にしちゃいない。ふん、この国にPKOが来ていないことが、不思議なくらいだ。ま、彼ならうまくやってくれるだろう」
男は、吐き捨てるようにそう呟くと、二人に向きなおった。
「一つだけ肝に銘じておいてくれ。この国では、アメちゃんと日本人は、殺されても文句を言えないほど嫌われている」
その運び屋は、フィリピン人らしい優雅な身のこなしと、よほどの修羅場をくぐり抜けた者だけが得る、強い光を放つ瞳を持っていた。彼は、決して長身でもマッシブでもなかった。だが、中南米のジャングルで、麻薬カルテル相手に散々命のやり取りをしてきた加持には、彼がどれほどの男かわかるような気がした。
「ヘロム・フェルナンデス。ダンテと呼んでくれてかまわん。お前さんらのことは、なんと呼べばいい?」
ダンテと名乗った男の英語は、ついこの間までアメリカにいた加持やアスカと同じくらいに流暢であった。
「加持でいい」
「アスカと呼んで」
「よし、わかった。カジ、アスカ、俺の仕事は、お前さんら二人を、アパリの港にいる「孤北丸」という船まで、四日以内に連れていくことだ。その間は、基本的にいっさいの行動は、俺の指示に従ってもらう。いいな?」
ダンテは、それがさも当然の事のように、淡々としゃべった。
特になにも言わず、二人は、その言葉にうなずいてみせた。当然、二人に異存があるわけもなかった。加持は、基本的に専門家の言うことには従う主義であったし、アスカも、自分がここでは単なる一四歳の少女でしかない事を、はっきりと理解していた。
二人があっさり自分の言葉に従うのを見て、ダンテは、満足げに笑うと、ひょいと右手を差し出した。
「おたくらが、物分かりがよくて助かる」
加持は、けろっとした表情で差し出された手を握ると、それがさも当然といった感じで答えた。
「いきがってる素人じゃないんでね。いちいち仕切ろうとは思わんさ。特に問題がなければ、あんたの仕事がしやすいように、できる限りの協力をする」
「了解した。よほどのことがない限り、不自由をさせることはないと思う」
「そこらへんはあんたに任せる。で、だ」
加持は、ダンテの手を放し、ルソン島全域の地図をブルーバードのボンネットの上に広げた。その一万分の一の縮尺の地図には、主要な幹線道路と、色分けされた等高線によって、ルソン島全域の地形がはっきりと記されていた。
「問題は、どのルートを使ってアパリまで抜けるか、だ。もしよければ、今、説明を受けてしまいたい」
そんな加持の言葉に、ダンテはにやりと笑って右手をひらひらさせた。そのふざけているようにしか見えないその態度に、アスカは、むっとした様子で彼をにらみつける。彼女の視線を平然と受け流しながら、ダンテは、あっさりと言ってのけた。
「明確な計画は立てない方がいいな。まずはマニラを脱出して、それから追っ手の状況に合わせて考えるとしよう」
そのダンテの言いぐさに、アスカは、はた目にも分かるほどに腹立たしそうな厳しい視線を送りつける。彼の態度が、よほどいい加減で無責任に思えたのだろう。そんな彼女に加持は、あわててフォローを入れた。
「いや、この場合は彼の方が正しいんだ。今から細かい計画を立ててしまうと、その計画に意識が捕らわれてしまって、なにか突発的な事態が起きたときに臨機応変に対処できなくなる。とりあえず大体の方針を決めて、あとはその場その場の状況に合わせて手を打っていくのが、実はベターな方法なんだ」
「そういうものなの?」
「俺は、戦場では、大体そうやってきたな」
加持があわててアスカに説明するのを、ダンテと、これまで三人のやり取りを黙って見ていた男が、にやにやしながら眺めている。アスカは、自分がこの場ではやはりただの素人でしかない事を思い知らされて、真っ赤になってうつむいてしまった。そんな彼女の様子に、ダンテは、それこそ笑み崩れんばかりになって言葉を続けた。
「そして、俺たちには、実は方針を決める自由はありはしない。とにかく北へまっしぐらに進むしかない。まあ、途中で補給のためにどこかの街によるかもしれないが、多分ほとんどの行程は、車内ですごすことになるだろうな。そうそう、まともにシャワーを浴びたり、ベットの上で眠ることは、まずできないと思っておいてくれ」
「そうなの?」
さすがに困ったような表情で、アスカは、加持の顔を見つめた。加持としても言いにくいことではあったろう。その表情が、はっきりと困惑してしまっている。しかし、ここでうそをついても仕方がないのも、また事実である。
「たったの四日間だ。我慢してくれるな?」
「……加持さんがそう言うのなら……」
しばらく考えこんだあと、アスカは、うつむいて、消え入りそうな声でそう答えた。さすがに年頃の女の子にとって、四日間もまともに身づくろいができないのは、たまらないものがあるのであろう。だが今の状況が、自分にそれだけの贅沢を許さないことも、聡明な彼女には判ってしまうのである。そして、この場で無茶なわがままを口にすることは、彼女のプライドが、絶対に許さなかった。
「さて、出発まではまだ時間がある。やるべきことがあるなら、今のうちに片付けておいてくれ」
そんな彼女の内心を知ってか知らずにか、ダンテは、マニラ市内の地図を広げ、そこに意識を集中させている。
アスカは、そんな彼をそれこそ絞め殺したそうな目つきでにらみつけると、大またでその場を退席した。今のうちに、できるだけの身づくろいをしてしまうつもりなのだろう。黙って三人のやり取りを見ていた男は、彼女に、倉庫の管理人が使っていた宿直室の場所を教えた。彼女は、それこそとびっきりの笑顔でもって、彼の好意に応えてみせる。
「で、いつここを出発するつもりなんだ?」
やれやれといった様子で頭を軽くひとふりして、加持は、ダンテに尋ねた。
「市内の道路は、朝の市でろくろく身動きもとれんほどに混雑している。ついでに付け加えるならば、主要な幹線道路は、おまわりの検問でいっぱいだった。とにかく、それが一段落したところで市内に出る。うまいとこいけば、午睡の間に市外へ出れるだろう」
「なるほどな。こっちの強みは、少人数ゆえの身軽さだけだからな。うまくすれば、敵に気がつかれずに市外へ脱出できる可能性が、ないわけじゃないわけだ」
「それは無理だろうな」
加持の希望的な観測を、ダンテは、あっさりと否定した。もっとも、加持自身が自分で自分の甘い予測を信じてはいなかった様でもあり、すぐに軽く肩をすくめて納得してみせた。そうそううまくいくならば、加持としてもわざわざダンテを雇う必要などありはしないのだ。
三人は、マニラ市内の地図をのぞき込みながら、どのルートがもっとも楽に市外へ出れるかをあれこれ相談し始めた。
署長室から出てきたカルロス少佐は、ロドリゲス大尉の目から見ても、相当に憔悴しているように見えた。
昨日の国際空港での大捕物の大失敗について、徹夜で後始末をして署へ戻ってきたと同時に、署長のサンチェス大佐に朝から散々絞られた様である。加持というテロリストが、手配写真の印象とはまったく逆に相当の凄腕であることは、今では警察関係者の全員が一致して認めるところであった。そしてそれだけに、彼をもっとも確実に逮捕できるはずの空港から逃がしてしまったカルロス少佐への風当たりは、かなり厳しいものがあったのだ。
「それで、我々の配置は、結局どうなるのです?」
すごすごと戻ってきた隊員達は、まだ昨日と同様の完全装備で待機している。いつでも出動し、テロリストを逮捕、ないし射殺できるように、である。
どん底まで士気が堕ちてしまっている隊員達の中で、ロドリゲス大尉だけは、やる気十分であった。
昨日彼が見逃した財前という医師が、実は加持の変装であったことが、今朝になってから判明したのである。自分の判断ミスがテロリストを入国させてしまったことに、大尉は、歯噛みせんばかりに怒り狂っていたのだ。そしてその怒りは、カルロス少佐が、自身の判断ミスのためであるとして彼の責任を追及しなかったために、いっそう激しくかき立てられていたのであった。
だが、カルロス少佐の答えは、大尉の意表をついていた。
「我々は、市内の警備には投入されないことになった。国道沿いに展開して、万が一奴が市外へ脱出したときのための検問と追尾の担当をする」
「は? ですが、市内でもっとも重装備の中隊は、自分の中隊ですし、狙撃班にしろ、突撃班にしろ、優秀な……」
いらだたしそうに右手を振って、カルロス少佐は、ロドリゲス大尉の言葉をさえぎった。
「そういう問題ではない。要は、あのテロリストにCIAがかけた賞金が問題なのだ」
「じゃあ、なんです? サンチェス大佐は……」
さしもの大尉も、開いた口がふさがらない様子であった。つまりサンチェス大佐は、CIAが持ってきたもうけ話を自分一人で独占しようとしたカルロス少佐を現場から外すことで、自分がせしめようとしているのだろう。
「放っておきたまえ。敵は必ず市外へ脱出を果たす。その時こそ我々の出番だ。同じ失敗は、繰り返さなければいい」
加持は、空港から脱出を果たしたように、マニラからも脱出するであろう。空港で彼を逮捕できなかったのは、旅客機のみに兵力を集中しすぎて、空港全体を犯人を閉じ込める檻とすることを怠ったためであった。功を焦ったばかりに、空港警察との連携を取ろうとはしなかったカルロス少佐のミスであった。問題は、いかに敵を包囲し、その有利な点である機動力を削ぐことができるか、にかかっている。今のマニラ市内に展開している警察軍の兵士らは、欲に目がくらんで必要な手段を講じることを忘れていたといえた。少佐が言いたいのは、そういうことであった。
現状で配置から外されてはいたが、カルロス少佐は、とくになんとも思っていない様子であった。むしろ、相手がどれほどの者かを知ったことで、かえって冷静になったようである。昨日の緊張がうそのように消え、大尉のよく知っている冷徹で容赦のない有能な上司に戻っていた。
ロドリゲス大尉は、今度こそテロリスト命運が尽きたのを確信した。
そのビルは、夜には、ネオンのどぎつい光と女たちの嬌声で、生臭いといってもいい欲望の塊となる。だが、朝の陽の光の中では、厚化粧のはげた夜の女のように疲れた素顔をさらしてしまっていた。
そのビルの一室で何人かの男が、不機嫌そうな顔で二枚の写真を見ていた。
「しかし、この娘は一体何者なのだ。あいつは、確かにヒットマンとしては癖のある男だったが、こうも簡単に殺されるほど無能ではなかったはずだ。なぜ、こんな小娘にそれほどの有能な護衛がついている?」
まるで、骸骨にそのまま皮膚を張りつかせたような顔の痩せた中年の男が、きしむような暗い声で呟いた。男は、まっ白い麻のスーツを着て、全身で黄金色の装身具が光っている。だが、その陰惨な印象が弱められることはなく、むしろ男の冷え冷えとした雰囲気を強めてしまっていると言えた。
「確かにヤンキーの言うとおり、この男はよほどの凄腕なのだな。しかし、そうすると、どうやってCIAからの依頼を果たすのだ?」
白いスーツの男とは対照的に全身に脂肪をだぶつかせた壮年の男が、分厚い肉を震わせながら、かん高い声でわめいた。ぼってりとしたまぶたの下で、爬虫類を思わせる冷たい瞳が所在なさげに動いている。ひっきりなしにかく汗で、男のダブルのスーツは、ぐっしょりと濡れている。
「この少女の居場所は、突き止められたのか?」
男たちの中でもっとも地味な格好をし、そしてもっとも高級な椅子に座っている壮年の男が、男たちを見まわした。
「申し訳ありません。若い者を総出で市内を探させていますが、まだ……」
過剰な脂肪をうち震わせながら、ダブルのスーツの男が、消え入りそうな声で答えた。
「警察は」
「連中もまだ」
室内は、よどんだ沈黙に沈んだ。壮年の男は、そこにいる男たちの頭上に視線をさまよわせ、この八方ふさがりの状況を打開しようとする者が出ないか、黙って待っている。彼らは、このマニラの夜を実質的に支配しているといってもいい男たちであった。しかし、だからといってアメリカ人の、それもCIAの依頼をおざなりにすることはできなかった。
セカンドインパクトの混乱以来、極東でのCIAは、文字通り富と恐怖の代名詞といってもいい存在に返り咲いていたのだ。この男たちは、そうしたアメリカ人の後ろ暗い活動の手助けをすることで、今の地位を築き上げたといってもよかったのだ。
よくよく金のかかった調度が、かえってその沈黙を白々しく耐えがたいものにする。
男たちは、誰かがこの沈黙をやぶらないかと、息をのんで互いの顔色をうかがっている。だが、あえて自ら冒険をしようという軽率な者は、この場には誰もいなかった。ここにいる男たちは、必要とあればいくらでも凶暴かつ残虐になることができた。しかしそれは、あくまで臆病といってもいいほどの細心の注意を払ってのことであり、単なる蛮勇とは違うのである。そうであるからこそ彼らは、多くのライバルを蹴落として、この場に居合わせることができるようになったのである。
そんな男たちを見ていた壮年の男は、一人の男の上に、さまよわせていた視線を止めた。
「ホナサン」
ホナサンと呼ばれた、白いスーツの痩せた中年の男は、黙って壮年の男の視線を受け止めた。
「失敗した男は、お前の手下だったな」
「は」
「お前が、行け」
「は」
「警察の中に何人か飼っているな。やつらから情報を流させろ。この娘は後回しだ。まずこの男からいけ」
「は」
轟音と共にその車がアメリカ合衆国大使館の正門にハーフスピンを決めて停車したとき、建物の窓という窓から多くの職員が、なにが起きたのか確かめようと鈴なりになって身を乗り出した。
そのシルバーグレイに輝く乗用車は、いくらここがフィリピンであるとはいえ、もうすぐ二一世紀になろうとしている今この瞬間には、あまりにも古くさいデザインであった。確かに丁寧に手入れされていることが、その低くリズミカルな「ボッボッボ」というエンジン音で判りはした。が、しかし、多少なりとも車というものに興味がある人間ならば、いまだにこの車がこうして現役で走っていることに唖然としてしまうに違いなかった。
にやにやと笑っている警備兵が大使館の正門を開き、その乗用車を中に入れると同時に、あたりを声にならないどよめきが走った。
自分が、正確には自分が調達してきたこの車が、大使館中の注目を集めていることに、男は、いたずらっ子が自分のいたずらに皆がどよめいているような快感を感じていた。アクセルを入れたまましばらくクラッチはつなげず、正門が車の横幅ぎりぎりまで開くのを待つ。そして、タイミングを見計らってクラッチをつなげ、車を発進させる。轟音と共に車が飛び出す。男は、その太いタイヤが地面に触る直前に、ステアリングを大きく左に切った。ほんの一瞬だけアクセルを離し、その足でブレーキペダルを蹴りつけるように踏みつけ、一瞬後にはまたアクセルペダルに足を戻す。同時に、ほぼいっぱいに左に切っていたステアリングを右に切り返して、カウンターを当てる。
車は、正門に並べてある爆弾自動車を大使館内に入れないための障害物の間を、あたかもそんなものがないかのように右に左にするすると駆け抜け、一瞬後には大使館の正面玄関に停車していた。
男は、車から降り、出迎えに出た黒人の海兵隊の曹長に、にやっと笑って車を指し示した。
「アーニー、こいつが、フォードGT350 69年式、通称「マスタング」だ。三〇年落ちだが、役に立つぞ」
男が格好をつけてレイバンのシューティンググラスを取ってみせたとき、アーニーと呼ばれた黒人は、あきれたように大きく鼻から息を吐いた。
「大尉殿、御自身のドライビングテクニックは判りますから、ああして大使館の警備がまるで役に立たないかのように振る舞われるのはおやめください」
「ああ、判ってるさ。で、俺のレザーネックどもは、準備はできているのか?」
その時であった。
「オライリー大尉!!」
大使館の中から、いかにもウエストポイントを優秀な成績で卒業しました、といった感じの、きっちりと制服を着こなした駐在武官が、額に青筋を立てて飛び出してきた。アーニーは、わずかにその巨体を右にすべらせて、駐在武官とオライリー大尉の間から退いた。そして、長年軍のかまで飯を食ってきた者だけができる、一分のすきもない敬礼で上官を迎える。
「なんなんだ、今の騒ぎは!」
「サー! 例の任務の器材の搬入であります、サー!」
曹長とは正反対に、くだけきった敬礼で上官を迎えたオライリー大尉は、それでも表情だけはしゃちほこばって質問に答えた。
「? これがか?」
「サー、イエス、サー!。目標が自動車等で移動する場合に備え、準備しているのであります、サー!」
慇懃無礼以外の何物でもない大尉の返答に、額に浮き上がった血管が、それこそはちきれんばかりに膨らむ。それでも、オライリー大尉がなにをすることになっているのかよく理解している彼は、精一杯の自制心を働かせて重々しくうなずいてみせた。そして、そばでみじろぎもせずに直立不動の姿勢で立っている曹長に、声をかける。
「ホースト曹長。出動の準備はできているのか?」
曹長は、そのままの姿勢で、視線だけ大尉にむけた。大尉は、軽く唇をなめただけで、視線をあさっての方角にさまよわせている。
「サー、たった今、準備は整いました。サー」
腹の底に響くようなバスが、大使館の玄関いっぱいに響き渡る。
さすがに、場所が場所であることに気がついた駐在武官は、もう一度うなずくと、あわててきびすを返して建物の中に戻っていった。彼の後ろ姿を敬礼で見送った二人は、その姿が見えなくなると、さっさと動き始める。
「で、状況は何か変わったのか?」
「いえ、まったく変わっておりません。しいて言えば、警察軍のパトカーが総出で走り回っているくらいでしょうか」
「新聞やラジオは? 昨日の空港での騒ぎについて何か言っていないのか?」
「それが、まったく」
「ふん、裏で手を回したな。ご苦労なこった。まあ、そうでもなければ、俺たちがこんなくそ仕事に駆り出されることもないわけだが。そうなると、ポリ公どもがあっさりけりをつけてしまう可能性もないわけじゃないな」
オライリーは、いかにもせいせいした、といったふうに伸びをし、腕を振り回した。
「が、多分、加持って男は、こんども逃げおおせるぜ。気を抜かずにいろ、と、部下には言っておいてくれ」
「了解致しました」
「アーニー」
「は?」
そこでもう一度オライリー大尉はニヤリと笑い、言葉を続けた。
「たぶん、最後にものをいうのは、「マスタング」のパワーと、俺のドライビングテクと、貴様のスナイピングテクになる。そのつもりでいてくれ」
「了解しております。大尉殿」
どおおっても、お久しぶりです(笑)。金物屋亡八です。
いやもう、マジでお久しぶりでした。ほぼ三カ月半(爆)ぶりになりますか。まあ言い訳は、これまで散々HPでしてきましたので、改めてここではしませんが。ですが、本当にまあ、今回は色々とありました。
一応HP上で五月一五日に上梓すると大見えを切って、あげくに今日まで引っ張ったという(爆)。まあ、なにしろ予定を大幅に超過して文章が増え続けていきましたのでねえ(笑)。本来DPartとなるはずであった分は、合計で八二kにも及ぶというから大笑い(爆)。
ま、とにかくこうして新しい分を上梓できたのですから、よしとしてください。
というわけで、これはEPartに続きます(笑)。
金物屋亡八 拝
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