一〇

 

 わずかに海面にただよっている雲が刻一刻とその姿を変えていくのを、シンジはあきもせずにずっと眺めていた。

 第一新東京国際空港こと羽田空港から、南西航空のボーイングB777旅客機で沖縄の那覇国際空港へと飛びたってより、シンジは、ずっと持ち込んだ本を読み続けていた。最初は、初めて乗る飛行機へのもの珍しさからそれなりにはしゃぎもしたが、高空を巡行し初めててからは、窓から見える風景の単調さにリツコに勧められて読み始めたSF小説にずっと没入していたのであった。

 だが、没入していればこそ、旅の合間に読む本が終わるのは早いものである。それも、もう一度読み返すには時間が足りず、何もしないですごすには長いくらいの時に最後の一ページをめくってしまうものであった。

 シンジは、未来がまだ希望と可能性に満ちていると信じて未曾有の危機に立ち向かうことができた人々の物語に、まるで自分自身がその登場人物の一人のような心地よい読後感に浸りながら、後ろへと流れていく雲を眺めていた。

 今自分が坐っているこの座席は、地球から月へと向かうシャトルの耐Gシートであり、自分が向かっているのは、沖縄の嘉手納にある宇宙開発事業団の施設ではなく、木星を太陽化することで外惑星系の開拓を押し進めようとしている外惑星開発機構の本部であった。そして自分は、「力」を持ったただの中学二年の少年ではなく、迫りくる太陽系の危機を回避するためのプロジェクトに参加する選ばれた科学者の一人なのだ。

 そんな幸せな空想も、長くは続かなかった。というよりは、幸せな向こうの世界での体験を持ってこちらの世界へと帰ってきた、とでも言うべきか。同じように本を読み終わってこちらの世界へと戻り、暇を持て余していたレイが、意識をシンジによりそわせてきたのだ。

 彼の意識に触れてきた彼女は、それとはっきりと判るほど興奮していて、そしてその感動を誰かと分かち合いたくて仕方がないようであった。

 視線をレイに向けたシンジは、彼女が分厚いハードカバーを胸に抱いて、ぼうっと視線を宙にただよわせている。はたから見ていると彼女は、単にぼんやりとしている様にしか見えなかった。だが彼には、彼女の意識が、それこそかのスコットランドの戯曲家の書くところの妖精が月光の下で踊るがごとく、彼の周囲を舞っていることを「見る」ことができた。自分と同じように向こうの世界で満ち足りた経験をして戻ってきた彼女は、だが彼のように自分の中でそれを追体験するつもりはなかったらしい。

「そんなに、面白かったの?」

 シンジの言葉に、レイはこくりと肯いた。

 そして、相変わらずはた目には無表情にしか見えないその表をシンジの方に向けると、伏し目がちにそっとささやいた。

「こういう物語を読むのは、初めてだったから」

「どんなお話?」

 シンジの問いかけにわずかにためらうようなそぶりを見せたが、レイは、意を決したように一気に話し始めた。

「「囚人同盟」という、ネズミ達のギルドがあるの。その集会は、囚人らを慰めることを目的としていて、世界中に支部があるわ。そして、彼らは、無実の罪で刑務所に捕らわれているノルウェーの詩人を助け出すことを決議する。その任務を受けるのが、同盟でもっとも地味で目立たない事務員のネズミ、その刑務所のある国に赴任した英国大使の息子の真白く気高い飼いネズミ、そして、ノルウェーの商船に乗り込んでいる船員ネズミ。彼らは、知恵と勇気と友情をふりしぼって多くの障害を乗り越えてその詩人を助け出し、名誉と共に祖国へ帰るの」

 そこでわずかに息をついで、レイはつぶやいた。

「SOFの原点が、ここにあるわ」

 SOF。スペシャル・オブ・フォース。少人数で難易度の高い任務を果たすことを目的として作られた、特殊部隊全般を意味する。彼らはその任務の特性上、あらゆる艱難辛苦を実力で乗り越えて任務を成功させることを期待され、それゆえに限界まで己の肉体と精神を鍛え上げるエリートというべき存在である。有名な部隊としては、次のような部隊があげられるであろう。ヴェトナム戦争で活躍したアメリカ合衆国のグリーンベレー。アイルランド紛争での英国のSAS。ドイツのGSG9。イスラエルのハヘブレ。ロシアのスペッツナツ。そして、近年東南アジアでのPKO活動でその名をとどろかしたニンジャ・フォースこと日本の第二混成旅団。

「違うでしょ、レイ」

 即座に容赦のないツッコミが隣から入る。

 これまで二人の会話を聞いていたそぶりも見せずに手元の書類に見入っていたリツコが、視線すら向けずに言葉を続ける。

「一応、それは冒険小説であって、なにもかも軍事に結びつけたがる癖は、よくはないわよ」

 シンジは、ちょっとだけ内心で汗をかきながら、レイの腕の中にあるその本をのぞき込んだ。

 その進歩派として朝日新聞と双璧をなす岩波書店の児童書は、しかし、確かにレイの言うのとはちょっと違ったおもむきがあるお話のようであった。

「……………」

 どうやら、相当にむっとした様子で、レイは黙り込んでしまっている。

「あのさ、綾波、その本どこで見つけたの?」

 あわててとりなすように、シンジが言葉を続けた。確かに、特に何か趣味があるとも思えないレイが、そうした本について鼻がきくとも思えはしない。

「……赤木博士が」

「え?」

「赤木博士が、貸してくださったの」

「……………」

 何か口にすることもできないでいるシンジは、おそるおそるその本の持ち主に視線を向けた。だが当の本人は、涼しい顔で手元の書類を手繰っているばかりである。

 シンジは、実は赤木リツコという女性が、彼が思っているのよりもはるかにふところの深い女性なのではないかと、あらためて彼女についての考えを改めたのであった。

 

 緯度が高く、冬には零下を記録するこのボストンという街も、北上するメキシコ湾流のせいか、夏場は軽く摂氏三〇度を越す暑さとなる。

 だが、その一室の空気は、それなりに効いているエアコンのせいばかりではなく冷え々々としていた。

 コの字に並べられた机に囲まれるように、一人の老人が座っている。

 かなり肥満し、そして、老いによって張りを失っている彼は、だがその年齢にはふさわしくないほどの輝きを持つ眼をしていた。いや、それは、輝いているというよりは、熱を帯びている、とでもいうべきなのかもしれない。

「それで、君の言い分がまとめると、これまでの一連の騒動は、あくまで中央情報局が性急に結果を求めすぎたが故のせいであって、「店」の対応の失敗によるものではない、とこう主張するのだね」

 机の向こう側にいる男の一人が、感情を交えない静かな声で話を続けている。

「その通り。超能力者という存在は、非常にデリケートな精神構造を持っておる。彼らはその能力ゆえに社会に対し適応しきることができない存在であり、疎外感を感じていることがまま多い。本来彼らが持っている能力は、現在の社会的規範では拘束することができないものなのだからな。そして……」

「君は教壇に立っているのではない、Drジョセフ・ウォレンス。我々の質問に対してきちんと答えればそれでいい」

 ウォレンスと呼ばれた老人を囲むように坐っている男たちの一人が、ぴしりと彼の長舌を打ち切った。

「あくまで「店」と惣流母子の関係は良好であったと、そう言いきるのだね?」

「当然だ!」

 もはや老人の瞳には、かくしきれないほどの激情があふれんばかりに燃えている。

 彼は、激情に身を任せるように立ちあがると、大仰に身振り手振りを交えて彼を囲んでいる者達に演説を初めた。だが、そんな彼を見ている男たちの眼は、対照的にどこまでも暗く冷たかった。老人は、その冷たい瞳を何とかしようと、これまで以上に熱のこもった言葉を吐き出していた。

「いいかね、最初に我々に接触してきたのは、彼女らのほうなのだよ。我々は彼女らにチャンスを与えてやったにすぎない。彼女らは自らのレゾンデトールの確立を必要としていたし、我々はこれまでの研究の遅れを取り戻すいい機会だったのだ。ロシアや日本の超能力研究がどれほど進んでいるかは、君たちも知っていることだろう? 確かに多少の行きすぎはあったかもしれないが、しかしそれはわずかな誤解にすぎないし、あくまで修復可能なものだったのだ。

 多くの基礎研究が必要とされる現状で、性急に成果を求めたのはCIAであって、我々ではない。確かに惣流親子の見せた能力は、これまで我々が発見してきたいかなる超能力者よりも強大であった。が、だ。それを即座に現実に応用させようとするなぞ、狂気のさたと言っていい。そのために、彼女らと我々の間に相互不信が生まれ、ラングレーの連中の荒っぽいやり口のせいで、貴重な超能力者の一人が失われ、もう一人は、よりにもよって日本人の元に駆け込んでしまったのだ。

 もしやつらのいらん干渉が無ければ、近い将来我々は、極めてよく訓練された超能力者の集団を合衆国の世界戦略に役立てることができたものを……」

「そして、そのために多くの男性被験者にロット6、いや、君が名付けたところの「エフェメロル」を投与し、人口的に超能力者を生産して惣流母子とつがわせようとしたのかね」

「!? そ、そんなことがあるわけがない!」

 中肉中背であり特に目立った造作をしているわけではない男である。だが、ウォレンスの正面に坐っている男は、人を従わせる事を常としてきた人間特有の重さを持った声で、老人に容赦のない言葉を叩きつけた。

「つがわせる、というのは適切な表現ではないな。惣流母子の卵子に「エフェメロル」によって超能力を発現させた男子の精子を受精させ、代理母によって妊娠出産させる。そうやって生まれてきた子供らを、ナチスばりの洗脳と教育で君に忠実な機械に育て上げ、連邦政府内での発言力強化に使うつもりであったらしいな。

 そして、優秀な医師でもあった惣流・キョウコ・ツェペリン博士が君のたくらみに気がつき、抵抗すると、今度は彼女に「エフェメロル」を投与し、薬物中毒にすることで君のコントロール下におこうとした」

「待ってくれ!? 一体何の話だ? わしにはさっぱりわからん!!」

 ウォレンスの声は、恐怖のあまりかん高く裏返り、きしむように部屋中に響きわたった。

 老人の言葉にはまったく頓着せずに、男は淡々と言葉を続けている。男とともにウォレンスを囲むように座っている者たちも、あくまで冷たい瞳のまま、驚愕と恐怖に身を震わせている老人を見つめていた。

「「店」は、本来合州国の安全保障を科学技術の面から防護するための機関のはずだった。それが、今日のような海の物とも山の物ともつかない疑似科学の研究団体となってしまい、その上、たかだか十四歳の少女にその研究施設と研究者の大半を焼き払われる事になったのも、一部管理職の暴走によるものが大きいといえるだろう」

 ウォレンスは、まるで酸素欠乏症になったかのように口をぱくぱくと声も出さずに開け閉めしている。彼は、自分がもはやなにを言おうとも、その運命が変わることはないということが、いやというほどわからされてしまったのだ。彼の目の前にいる男たちは、全ての罪悪をこの老人一人に背負わせることで、なにもかもなかったことにしてしまうつもりなのであろう。

「いうなれば彼女は、自らの身を守るために正当な力の行使をおこなったのにすぎないのだからな。そして、我々合州国政府は、このような極めて遺憾な行為を許容することはできるはずもない。

 以上だ。Drウォレンスには、退場していただこう。委員会の結論は、おって知らせる事になると思う」

 男が言葉を終わらせるのと同時に、待機していた衛兵が、まるで痴呆になってしまったかのような表情を浮かべているウォレンスを外へ連れ出した。

 残った男たちは、すぐにこの哀れな老人のことを意識の外へと追い出し、もっと重要な事項の検討へとうつった。

「しかし、全てをあの老人に背負わせて処分を行うにしろ行わないにしろ、もはや「店」自体は、解体するほかはないのでは?」

 男らの一人が、ため息をつくような口調で誰にともなく話し始めた。

 だが男は、まったく動じたふうもなく、淡々としゃべり始めた。

「幸い、と言っていいのか、マスメディアに知られて困るようないっさいは、惣流アスカが全て焼き払ってしまっている。もっとも詳しい情報を持っているDrウォレンスは、どこかの連邦病院で余生を送ってもらおう。関係者は皆、それぞれ処分が決定している。あとは、最後の生き証人である彼女が無力化されればいい。「店」自体を解体するまでには、いたらないだろう」

 男は、周囲をゆっくりと見まわすと、そう低い声で説明した。

 だが、男たちの一人が、困ったように首を左右にふってその言葉に反駁する。

「いや、やはり「店」は解体することになると思いますよ。今朝、大統領から質問がありました。何故に合州国連邦軍が、フィリピンからオキナワにかけて実戦を前提として行動しているのか、とね。誰かが大統領に、今なにが起こっているのかを知らせたようですな」

 それこそ、部屋にいる人間全てが肺腑の底まで凍りつくような思いを感じていた。

「それに、日本政府、いや、野上隆昭から大統領に直接電話が入ったらしいのです。そこでなにが話し合われたのかはわかりませんが、日本人は惣流アスカのことを絶対にあきらめるつもりはないようですよ。主席補佐官には、アジアにおける最大の同盟国と事を構える覚悟があるのですかな? とにかく、我々は、選択を迫られているといってもいいのです。「店」の存続か、少女の死、か」

 だが、主席補佐官と呼ばれた男は、相変わらず無表情なまま、はっきりと皆に向かって言い切った。

「少女は、絶対に処分しなければならない。それこそ、「店」を破棄することになっても、だ。なにしろ彼女は、合州国政府機関がありとあらゆる非人道的で非合法な人体実験を行っていたという、最後の生き証人なのだからな」

 

 第二新東京国際空港、すなわち成田空港から飛び立った政府専用機DASH−400は、わずか一人の乗客を乗せて、一路アメリカ合州国の首都ワシントンへと向けて飛行していた。

 そしてその乗客は、いつも通りくすんだ色合いのサングラスの前で両手の指を絡ませ、秘匿装置付きの衛星通信テレビ電話に向かって、相変わらずの陰鬱そうな声で受け答えをしていた。もっとも、彼を知るほとんどの人間が驚愕するであろうことに、彼は会話に相手に対して相当に敬意を払った調子で応対していた。

「明日の昼1300過ぎには、J・F・ケネディ空港に着くでしょう。それからすぐに、主席補佐官との会談となります。大統領と、上院の軍事委員会の秘密部会のメンバーとは、その後に話し合いを持つ予定です」

『そうか。フィリピン政府の方は、信濃君が動いている。そう、護衛艦の出撃は中止になった。海上保安庁の瀬名尾君は、巡視船を二隻、那覇に完全武装で待機させるそうだ。彼らに少女と警察官の救出を担当してもらう』

 低く、淡々とした、だが、聞く者皆が背筋を正さずにはいられないような重さのある声の持ち主であった。

「米軍との交戦の可能性もある、と?」

『斉藤君は、そう言っていた』

「斉藤統合幕僚総監は、良くも悪くもバランスのとれた「軍人」ですからな。が、その判断は正しいと考えます」

 わずかに口の端をゆがめて、碇ゲンドウは、辛辣な批評を口にした。

 と、液晶モニターの向こうの相手の眉が、わずかにはねあがった。その男との付き合いがかなりの期間にわたる彼は、自分が叱責された事に気がつき、素直に頭を下げた。

「申し訳ありません」

『こちらからの譲歩は、研究情報の全面交換だけでなく、次の国会に上程される金融法案の前倒しを含めても構わない』

 ゲンドウの謝罪を受け入れた相手は、横道にそれることもなく話を進めていく。

「よろしいのですか?」

『やらねばならない改革の一つだ。また、合州国がよほど望んでいるのも事実だ』

「わかりました。では、せいぜい高く売りつけるといたします」

 ふっ、と、互いの間に会話の空白が生まれる。

 しばらくそうして相手の顔を見つめつつ、ゲンドウは、ふとこれまで抱き続けてきた疑問を口に出してみたくなった。今この瞬間、相手の時間は自分だけのものであり、そして相手が、何故かはわからないが、その疑問に答えを返してくれるという確信があったのだ。

「何故なのです?」

 わずかにいぶかしげな色を声ににじませて、ゲンドウは相手に尋ねた。相手は、わずかにうなずいて彼にその質問の先をうながしただけであった。

「「委員会」のメンバーでもなく、「委員会」から援助を受けているわけでもない。むしろ、「委員会」の方があなたに返しきれないほどの負債を負っている。なのに、何故にここまで動いてくださるのです? しかも、たかが日本人でもない一人の少女のために」

「今、答が必要かね?」

「聞かせていただけるならば」

「私は、君の言葉を信じた。そして、私が建設する未来に必要であると判断した。だからだ」

「私の言葉を、ですか?」

「そうだ。言葉は、行為の説明ではない。それ自体が行動の一つの形態であり、その人間の存在そのものなのだ。そして君は、私に対して自分の言葉を完結してみせた。ならば、私も自分の言葉と行為が同時に一つの行動として直結することを証明しなければならない。それだけのことだ」

 そして、もう一度二人の間に沈黙が訪れる。ゲンドウは、両手を膝の上に置くと、背筋を正した。

 今話している相手は、あくまで捧げられる忠誠に応えることを知っている男であるのだ。ならば、それにふさわしい尊敬を払うのが、義務というべきものであろう。

「ありがとうございます。野上首相」

 

十一

 

 目の前ではぜている焚火の炎を見ながら、アスカは、自分がどこから来てどこへ行こうとしているのか、ぼうっと考えていた。こうして見ている火は、不思議と彼女のささくれだった心を落ち着けてくれる。

 ヴァージニア州ロングモントから始まり、アメリカ合州国を縦断し、カナダに抜けてから大西洋を越え、ヨーロッパのあちこちをまわって、そして、こうしてフィリピンの荒野で二人の男と野宿をしている。母とともに「店」を訪れるまでは、まさかこんなことになるとは夢にも思いはしなかった。

 だが、自分がもう独りぼっちで、一人で生きていかなければならない、自分がしっかりしないとやっていくことはできない、という事実が、どうしても心に重くのしかかってくるのだ。未だ一四歳でしかない少女にとって、そんなに気を張ってみてもその事実は重く辛いものであることに変わりはない。

 ふとアスカは、自分がこれまでにどれだけ多くの人間をその手にかけてきたか、それを思って身震いした。

 アスカは、北アイルランドの出身としては珍しくプロテスタントであった父親と同じく、新教徒であった。ドイツで生まれ育った彼女にとっては、その厳格な戒律はむしろ心地いいものであったのだ。だが、それだけに、彼女を内心から律する戒律が、彼女の行為を責めたてるのである。

 怒りのおもむくままに「力」をふるい、多分、多くの警官達が死んだのであろう。彼らに死すべき咎があったとは思えない。ただ、アスカの道行きの前に立ちはだかり、邪魔をしたというだけなのだ。

 自分にそれだけの価値があるのか、自分が多くの人間を犠牲にして生き続けていてもいいのか、それがどうしてもわからなかった。

 ひざを抱えて焚火をぼんやりと見ているそんな彼女を、加持とダンテは、黙ってしばらく放っておいていた。

 加持は銃の手入れが忙しかったからでもあるし、ダンテは車の整備で手を放せなかったからでもある。だが彼らは、それ以上に彼女が、自分で考え自分で結論を出そうとしているのを尊重したかったのだ。自分自身の足で立って歩いていこうという人間を、おんぶにだっこで抱えていくつもりは、二人にはなかった。

 だが、一人でなにもかも抱え込んで考えにふけっていると、人は往々にして思考の迷路にはまり込んでしまうものでもある。そして、そうした迷いの森は、あまりにも深く、闇く、絶望に満ちた場所なのでもあった。

 アスカは、わずか一四歳の少女にしては驚くほど早熟であり、その思考は緻密で合理的であった。得てしてそういう人間ほど、状況の急激な変化を理屈で把握しようとして、その思考が混乱してしまうものなのだ。そして、彼女の様子は二人からすると、そうした思考の無限ループの中に落ち込んでしまう一歩手前にあるように見えたのである。

 ダンテは、ブルーバードSSSのボンネットをそっと閉じると、同じ様にM21狙撃銃をキャリングケースにしまった加持のそばに近づいた。

「で、いいのかい?」

「何が?」

 あえてとぼけてみせた加持に、ダンテは視線をアスカに向けてつぶやいた。

「何を考えようと構いやしないが、後々辛くなるぜ」

 しばらく黙って煙草を吹かしながら考え込んでいる加持を、ダンテは、黙って見つめていた。加持も、そんな彼の視線を感じているのか感じていないのか、悠然とラッキーストライクをくわえている。

「なあ」

「ああ?」

 たっぷり三本は紙巻を根元まで吸ってから、加持は、ぽつりぽつりと話し出した。

「人殺しは、なんでいけないか考えたことはあるか?」

 ダンテは、その問いにしばらく間を置いてから答えた。

「人間同士の信頼関係を壊しちまうからだろ」

 人間の社会は、互いが互いに無用な害を与える事はない、という、その約束事を元にして構築されている。法律にしろ、習慣にしろ、そういった諸々の取り決めは、人間が互いに協力し会って色々な役割を分担するために作られたものなのだ。互いのエゴがぶつかり合って、必要な役割の分担がなされなければ、この社会は簡単にがたがたになってしまう。つまりは、それを防ぐための潤滑剤の役割を果たしているのだ。

 人を殺してはいけない、という約束事は、同時に自分が他人から殺されることはない、という事を保証するものなのでもある。互いが互いを殺すことはない、という信頼関係。つまりそれを破壊してしまう事が問題なのだ。

 ダンテが言いたいのは、大体においてそういう意味であった。

「ああ、つまりはそういうことだ」

 新しい煙草に火を点けると、加持は言葉を続ける。

「今、自分が、この世の中の枠組みからはみ出てしまおうとしている、そういう自覚があるんだろう。いくら向こうから仕掛けてきた喧嘩とはいっても、それに無関係な人間を巻き込んで平然としていられるわけがない。まして、誇り高くて頭がいいとなれば、どう言い訳しようと自分がやった事について、自分自身が許すことができんだろうさ」

 彼はいったんそこで言葉を切ると、ふうっと紫煙を吐き出した。

「なあ、そんなあいつに、なんて言ってやればいいんだ? お前さんは悪くないってか? それとも、やっちまった事は仕方がないから気にするな、とでも?」

 だらけた感じで煙草を吸っている彼の言葉は、だがダンテには、加持自身の事を語っている様にしか聞こえなかった。

「その通りだろうさ。だがな、まだ一人で背負うには早すぎだ。せめて一人前になってから、自分一人で背負えばいいんだ」

 黙って肯いた加持の瞳は、ダンテが初めて見る、真面目で昏く鈍い色をたたえていた。

 

「そろそろ寝た方がいいんじゃないか?」

 アスカが、ループする思考の中で閉塞感に浸ってしまっているその時、ダンテが彼女のとなりに腰を下ろした。彼の手にしているマグカップ二つから、湯気がたちのぼっている。

「眠れないの」

 ダンテの方を向きもせずに、彼女は両膝を抱えたままつぶやいた。

 アスカが、どれほど大人びた口をきいて、とてつもない力をふるったとしても、結局一四歳の女の子でしかないのが、ダンテには痛いほどよく分かった。そして彼は、落ち込んでいる子供をどう扱っていいか、皆目見当がつかなかったのだ。

 大人ならば、それこそ酒を飲んで夜の街に繰り出せば結構なんとでもなる。だが、まだ人生をそんなものと割り切ってはいない子供に、現実から逃げることを教えてしまうわけにもいかない。彼は彼なりの倫理観を持ち、そしてそれに忠実であったのだ。

「昼間の事か?」

 我ながらひどい切り出し方だと思いつつ、ダンテは自分から話し始める。

「話を聞くくらいなら俺にもできるからな。楽になるぜ」

「ありがとう。でも、何を話したらいいんだか、わからないの」

「なんでもいいのさ。とにかくしゃべっているうちに楽になるもんだ」

 しばらく黙って考え込んでから、アスカは、ゆっくりと顔をダンテの方に向けた。焚火の照り返しが、彼女の弱々しく疲れてしまっている表情を、さらにはかなげに見せる。

「火を見ていると、落ち着くの」

 わずかに小首をかしげて、次の言葉を探す。

「いつでも、そう。どんなに自分が押さえきれなくなっても、向こう側に火が見えると、それだけで気持ちが落ち着く。でも、その火は幻ではなくて、本物なの」

 すっとアスカの眼が細められる。

「本物の火が、あたし自身も一緒になにもかも焼き尽くす。それが、なんでかわからないけど、一番しっくりくる最後のイメージ」

 そして、もう一度、彼女はしっかりと両膝を抱きかかえた。

「昼間もそう。あの装甲車を燃やしたとき、あたしは、ものすごく気分が良かったの。まるで、自分が本当に自由になったみたいに。自分の中にあったどうしようもない何かが、やっと解放された。そんな感じだった」

 アスカの声が、徐々に小さくなっていく。

「多くの警官を傷つけて、殺したわ。でも、辛いのはその事じゃない。あたしが、あれだけの事をやって、全然自分が悪いと感じることがないのが、苦しいの。自分が、人を殺しても全然悪いと感じていない事が、我慢できない。

 あたしは、もう、完全に人殺しになってしまったのかもしれない」

 ダンテは、それ以上彼女が口を開こうとはしないのを、わずかに唸りながら見つめていた。

 確かに、加持の言う通り、何かかける言葉があるわけもなかった。どんな言葉も、結局、彼女にとってはその心の重荷を軽くすることはできはしない。一人の人間の行為は、結局はその人間自身に返ってくるものなのだ。

 だが、加持に向かってあれだけの大口を叩いた以上、なにかしないわけにはいかなかった。

 しばらく首筋を掻いて言葉を探すと、ダンテは、アスカに向かってゆっくりと語りかけ始めた。

「人間、どんな環境にも馴れてしまうもんだ。虫も殺さない臆病者が、戦場では何人もの敵を殺して英雄になったりする。人を殺すのだって、そのうち馴れてなんとも思わなくなっちまう」

 ダンテの言葉は、アスカに届いているのかいないのか、彼女はまったく反応しない。

「だがな、それを、仕方がない、と言って済ませちゃあいけないんだ。あの時は仕方がなかったとか、殺さなければ殺されていたとか、そういうのは一見もっともらしく聞こえるが、実はただの言い訳でしかない」

 アスカの背中に、さざ波のような震えが走る。炎が照らし出す彼女の赤い髪が、背中からこぼれ落ちてその肩を覆った。

「どんな言い訳をしようと、罪は罪だ。そして、それを一番よく分かっているのは、そういう事をしでかしちまった本人なんだな。だから、必死になって自分に向かって言い訳して、やっちまった事から目を背けようとする」

「じゃあ、あたしが辛いのも、耐えなければならない償いなのね」

 あまりにも小さな声ではあったが、ダンテには、アスカの言葉ははっきりと聞き取ることができた。自分の罪の重さをあらためてその細く小さな肩に感じて、震え、泣き出しそうになっているのがひしひしと伝わってくる。

 だが、ダンテはそんな彼女に向かって、ゆっくりと首を左右に振って、その言葉を否定してみせた。

「償いとか、そんな大層なもんじゃない。自分がしでかしたことから目を背ける奴は信用できない、っていうだけのことさ」

「え?」

 ダンテは、まず手にした片方のマグカップの中身で唇を湿らすと、立ち上る湯気を見つめながらゆっくりと言葉を選んで話し始めた。

「例えば、戦場では、人は死ぬ。どんな偉い奴でも、どうしようも無い奴でも、死ぬときは死ぬ。死んだ奴は死んだ奴でしかなくて、そこに何か意味があるわけじゃない。死体に意味を持たせるのは、生きている奴がこれから生きていくのに必要だからなんだ。

 自分が殺した人間の命。自分のために死んだ人間の命。そいつにどんな価値を与えるかは、生き延びた奴が決めることだ。そして、死というものから言い訳こいて目をそらす奴は、命というものはその程度の代物でしかない、と言っているに等しい。

 アスカ、お前さんにとって、自分が殺した人間の命、自分のために死んだ人間の命、そういった命は、どんな価値があるんだい?」

 アスカは、その問いにすぐに答えることはできないでいた。

 当然であろう。決して馬鹿でも愚かでもない彼女は、死というものが、その人間の可能性の中断であるからこそ問題なのだ、ということを理解していた。そして、ダンテの言葉は、そうした人間の可能性にふさわしい価値を自分で示さなければならない、と言っているのだ。

「でも、罪は罪よ。罪は償わなければならないわ」

 わずかに怯えたように身震いすると、アスカはそう言ってダンテの顔を見つめた。膝を抱えているその両手が、少しだけ震えているのが、彼の目にも見てとれた。

「……うーん、そうだな、こういう考え方もある」

 彼女のすがるような瞳に、ダンテは、少しばかりの間視線をさまよわせながら、考え込んだ。

「俺たちフィリピン人はな、スペイン人や、アメリカ人や、日本人にろくでもない目にあわされてきた。今この国で起きている問題は、まあ、スペイン人に組織を作る能力が無く、アメリカ人に他人の事情への想像力が無く、日本人に理想や正義が無いせい、だと言ってもいいわけなんだな」

 アスカは、突然ダンテが何を言い出すのか、きょとんとしてその話に聞き入っている。

「けどな、スペイン人はこの国に文明をもたらした。アメリカ人はデモクラシーを。で、この国の子供の結構な数は、日本人が作った学校で学んで社会に出ていっている。

 結局、恨みつらみをいつまでも抱えていくわけにはいかないわけさ。連中は、自分らがやらかした不始末を、まあ、それなりに償ったわけだし、時効って概念もある。

 最後に、どういう形で帳尻を合わせることができるか、そういう考え方をした方がいいと思うな」

「詭弁っぽいわ」

「詭弁さ。だが、あんたは無抵抗な人間を虐殺したわけじゃない。ならば、人を殺したという事実だけを背負って生きていけばいい。後は、いかに良く生きるか、さ」

「良く生きる?」

「そう。アスカ、お前さんが良く生きるならば、少なくとも死んだ連中は犬死にはしなかった事になる。罪を償うなんてだいそれた事、普通、人間にできることじゃない。だったら、やれることだけやるしかないと思うぞ」

 ダンテは、話し終わると、右手のカップの中身を一息で飲み干した。そのまま黙ってアスカのことを見つめている。

 全身に緊張をみなぎらせて、アスカは、しばらく燃え盛る薪の炎を見つめていた。そして、その青い瞳は、先程までの力なく沈んだ弱々しいものとは違っていた。

「……あたしは、あたしには、生き延びるだけの価値がある。だから、生き延びて、その価値を証明する。あたしは、あたしのために死んだ人の事を忘れない。あたしは罪人で、もう天国の門はくぐれないだろうけど、でも、あたしにできることを果たす。決して、自分の命を投げたりしない。

 それだけが、死んでいった人達にあたしができる事だと思う」

 ダンテは、黙って左手のマグカップをアスカに握らせた。彼女の細くて小さな手は、しっかりとそれを受け取る。ダンテは、互いの手が触れ合ったその瞬間、彼女のその白い手が、もう弱々しく震えてはいないことに気がついた。

「ダンテ」

「ああ?」

「ありがとう。話をしてくれて」

 

 朝露に濡れる雑草を踏みしめながら、オライリー大尉は、目の前に整列している部下たち一人一人の様子を確かめていた。すでに各分隊の分隊長が確認しているはずであったが、こうして指揮官自ら一人一人の事を気にかけてやっていることを示してやる事で、兵たちを安心させてやれるのだ。

 マニラ市郊外のこの飛行場は、本来ならばフィリピン軍が使用しているはずの軍事基地であったが、セカンドインパクトの結果、予算不足のフィリピン軍が維持することができなくなった為に、米軍が事実上独占的に使用している施設なのである。アメリカと日本の経済援助無くしては国家そのものを維持できなくなってしまったこの国の、そんな現実を象徴しているようなものであった。

「大尉殿、ご命令を」

 オライリー大尉が全ての兵士をチェックし終わると同時に、兵士たちを代表するように、ホースト曹長が一歩前に出る。

「ありがとう、アーニー。

 よろしい。今回の我々の任務は、CIAの"背広"どもが見せた女の子を処分する事である。たかだか一四歳の女の子ではあるが、しかし、正面からぶつかったならば、我々栄光ある海兵隊であってもまるごとローストにされてしまうことを絶対に忘れるな。いっさいの手加減は無用。子供と思って情けをかけると、自分が焼き殺されてしまうことを肝に銘じておけ。昨日、ここの警察が、装甲車一輛まるごと燃やされた挙げ句に、死者八人、負傷者一七人を出したことを覚えておけ

 第一、第三小隊は、ヘリでバギオに移動、現地の警察と協力して警戒線を張れ。そして、目標が引っかかったならば、ヘリで連中の先回りをして行き足を止めろ。第二小隊は、地上からハマーで連中を追跡する。そして、第一、第三小隊が目標を拘束しているその後方から叩け。俺と本部班は、第二小隊に先行して連中にプレッシャーをかけ、第一、第三小隊の張る網の中に連中を追い込む。

 ベルナルド中尉!」

「は!」

 オライリー大尉の声と同時に、筋骨隆々たる海兵隊員たちの中でもさらに一回り巨大な肉体を誇る男が前に出た。みっしりと全身を筋肉で覆い、てらてらと輝くスキンヘッドとひしゃげた怪異と言ってもよい容貌の持ち主ではあるが、しかし、その瞳は将校として十分以上の知性を示す輝きを持っている。

 オライリー大尉は、それこそ最も信用する猟犬をめでる猟師のような眼差しで、巨漢を見つめた。

「マイク、貴様が第一、第三小隊の指揮を取れ。現地の警察とはすでに話がついている。合わせて指揮を取り、目標を発見、拘束しろ。以上、何か質問はあるか?

 よろしい。野郎共、戦争の始まりだ!」

「ガン・ホー! ガン・ホー! ガン・ホー!ガン・ホー! ガン・ホー!」

 男達は、上官の命令が終わるのと同時に、いっせいに雄叫びをあげる。

「総員、出撃!!」

 そして、男達の声をさらに上回る大声で、ホースト曹長が命令を下す。海兵隊員達は、いっせいに駆け足でヘリに、無骨な軍用車輛に向かう。そのまま、流れるように馴れた手つきで装具を載せ、搭乗し、出発する。

 オライリー大尉は、満足気ににそうした部下たちの動きを確認すると、ホースト曹長とともにマスタングに向かって歩き始めた。

「大尉殿、よろしくありますか」

「なんだ、アーニー」

 黒人の巨漢に向かって、大尉は軽く振り返った。

「やはり、目標の処分は自分が引き金を引くべきかと」

「わかっている。マイクも、サムも、自分で手を汚すつもりだろう。それを言うならば、俺もそうだ。だが、向こうにはデルタも一目置いていたというプロがいて、目標はMBT並の火力の持ち主ときたもんだ。ならば、こっちもそのつもりで相手をするさ。

 だから、貴様を信じているぞ。確実にあの少女をヒットできるのは、多分貴様だけだろうからな」

「ありがたくあります」

 だが、大尉は、軽く首を左右に振った。

「ありがたくはないぞ。下手な距離に近づけば、こっちが丸焦げにされる。とにかくはまず、奴等から車という足を奪って、山中に追い込むことだ。マイクのことだから上手くやるだろう。勝負はそこから始まる。目標を疲労と緊張で使い物にならなくしてからでないと、こっちが逆に手荒い目にあうからな」

 そして、二人はマスタングに乗り込み、ひときわ大きいエンジン音を轟かせると、先行する汎用軍用輸送車輛であるハマーを追い抜いて先頭に立った。

 残された飛行場のわだちの後で、踏みつけられた草々が、ひしゃげ、土にまみれていた。

 


 あとがき

 

 まことにお久しぶりです。どうにか、G Partをアップすることができました。こんばんわ、金物屋忘八です。

 いや、丸々半年ぶりですからね。まさかこんなに長くかかるとは、書いている本人が思ってもみませんでした(笑)。まあ、理由はいくらでもあるんですが、それは横においておきましょう。なんたって、アップできなかったのは、事実なんですから。

 というわけで今回は、次の話へのつなぎの話です。

 次からは、また前回のようなアクションが続くでしょう(笑)。いやあ、次から次へと出てくる強力な敵。アスカ、本当に無事に日本までたどり着けるんでしょうかね?(笑)

 というわけで最後になりましたが、今回ほんのちょびっとしか登場しませんでしたが、そしてここしばらくさらにちょびっとしか登場しないでしょうが、このストーリーのテーマはあくまで「ラブラブシンちゃん」だと言い張るのです(核爆)。

 それではまた、機会がありましたら、次の作品でお会いしましょう。

金物屋亡八 拝 


 H Partへ続く

 第壱号船渠へ戻る

 衛兵詰所へ戻る


 ご意見、感想はこちらまで

 rakugaki@alles.or.jp

 

  inserted by FC2 system