十六

 

 かっと照りつける太陽の熱とじっとりと肌にまとわりつく湿度の高い空気のせいで、そこは、普通の人間ならば疲れきってしまいそうな有り様であった。だが、愛用のニコンのEOS5のファインダーをのぞいているケンスケにとって、そんな周囲の環境はまったく意識の外にあった。いや、正確には、中天にある太陽の位置、湿度と気温が生み出す大気の状態の変化、そうしたカメラワークに影響を与える諸々については、どこか脳髄の一部の醒めた部分が情報を刻一刻と収集し、分析し、評価している。

 これまで写していた対象を十分な数フィルムに焼きつけたと判断したケンスケは、ファインダーから目を離して周囲に視線を向けた。このそこそこの奥行きを持つ港の中に、視線を一回りさせただけでも十数隻の戦闘艦が錨を下ろしているのが見える。そのうちの一隻、海上自衛隊が今年になって配備し始めた近海警備用の小型ミサイル護衛艦「かしわ」級の「あずさ」に狙いを定め、レンズを向けた。

「おい、「オスカー・オースチン」が出港するぞ!」

 ケンスケと同じ様にカメラのファインダーをのぞいている青年の一人が、そのままの姿勢で声をあげる。

 その場で一団となってカメラを構えている皆が、一斉にレンズの向きを変えた。

 ケンスケは、最近再開発が急ピッチで進められているここ沖縄の那覇港に、夏休みを利用して艦艇ウォッチングに来ているのであった。今の内閣の経済政策の結果、那覇港に物流の拠点となるハブ港の建設が決まり、港には沖縄島だけではなく本土からも多くの企業や人間が工事のためにやってきている。二一世紀に入っると沖縄は、かつての香港の様な自由貿易地域に指定され、北東アジア最大の交易都市となることが約束されていた。

 つまり、東支那海と西太平洋の接点にあり、大陸と台湾島と日本本土の中間に存在するこの沖縄島では、かつての尚王朝以来という繁栄が始まろうとしていたのであった。

 彼らがレンズを向けた先には、艦尾に星条旗をはためかせ、傾斜した平面のみで構成されたフォルムを持つ戦闘艦が、まさに錨を上げようとしているところであった。上端を黒く塗った煙突の上部が、吐き出される透明だが高温の排気ガスで陽炎のように揺らいでいる。

「「アレイ・バーク」クラスのフライト2Aの最初の艦だろ。真っ先に沖縄に配備か。すごいよなあ」

「南沙諸島で中国軍とASEANの艦隊がにらみ合っているからだろ。自衛隊が出ると即座に戦闘になるから、その代わりだってさ」

「え、そうじゃないだろ。尖閣諸島の近くでまた中国軍が大規模な演習をするんからだって聞いたぜ。それで海保と海自の新鋭艦がここに来ているんじゃないのか」

 好き勝手に言いたい放題しゃべくっている周りの皆には同調せずに、ケンスケはひたすらシャッターを押し続けていた。

 「オスカー・オースチン」

 アメリカ合州国が近年になって大馬力で配備を進めている新鋭艦隊駆逐艦「アーレイ・バーク」級の二九番艦であり、これまで配備されてきた二八隻の同型艦と比べて各所の改装が進められて戦闘能力が向上した艦であった。満載排水量九二一七トンと、第二次世界大戦中ならば確実に巡洋艦に類別されたであろう大型艦でありながら、素人目に見える武装は、艦首の一二七ミリ単装自動砲一基だけしかなかった。

 だがケンスケは、この駆逐艦が素人が落胆してしまうような、そんな生易しい存在ではないことを十分以上に理解していた。

 「オスカー・オースチン」の最大の武器は、その艦橋の四方に張りつけられている八角形の巨大なタイルのようなレーダーと、そのレーダーから得られる情報を処理する戦術情報処理コンピューターなのである。同時に二五六もの目標を、二五〇キロ以上の遠方で発見し識別し追尾することができるのだ。さらに、艦の前後に垂直に埋め込まれている各種のミサイル九〇発が、そうして得ることのできた情報に従って発射される事になる。例えば、飛来する対艦ミサイルを迎撃するならば、それらの目標に向かって同時に一四発もの対空ミサイルを発射し管制できるし、同じ様に搭載している対艦ミサイルを、全弾一斉に敵艦に向けて発射することもできる。

 また艦の最後尾には、哨戒ヘリを二機艦内に格納しており、必要に応じて対潜任務や偵察任務に使用することもできた。艦自体が持っているソナーや対潜ミサイルや対潜魚雷といった、総合的な対潜作戦能力と合わせるならば、まず大抵の潜水艦と互角以上に戦闘が可能ですらあった。

 そして、敵のミサイルや航空機の発するレーダー波に発見されにくくするために開発されたステルス技術が、艦全体に全面的に使用されてもいる。

 艦体は可能な限り同じ角度で傾斜した平面で構成され、レーダー波を乱反射させないように注意深く設計されていた。さらに、艦の随所にレーダー波吸収塗料が塗布されており、反射せざるを得ない電波の量を可能な限り減少させるようになっているのだ。その上、エンジンやその他各種の機械が発する熱も、できる限り外気温と変わらない温度で放射するための冷却装置も搭載されてもいる。

 現代の海戦は、ほとんどが機械の「目」で敵を捜索し発見し追尾する。そして、そうした索敵機械は、レーダー波や赤外線や音を使うことで敵についての情報を収集するのである。「アーレイ・バーク」級の駆逐艦は、そうした敵に与える情報を可能な限り少なくする様、出来得る限りの努力が払われていた。

 まさしくアメリカ合州国が、二一世紀を睨んだその戦略の中枢に存在する戦力である空母機動部隊の随伴用の艦隊護衛艦として、配備を押し進めるに足る性能の万能戦闘艦であるのだ。そして「オスカー・オースチン」は、この「アーレイ・バーク」級の駆逐艦の中でもっとも新しく、これまでの使用実績を元に各種の改造を施されたクラス最強の戦闘艦であった。

「うおう!? すごい加速だ!!」

 ジェット機のエンジンを改造して搭載している「オスカー・オースチン」は、それこそレース用のオートバイもかくやという加速力を見せつけて、那覇港を出港していこうとしている。

 ケンスケは、一通り「オスカー・オースチン」の写真を取り終えると、周りのざわめきを完全に無視して、次の目標を探しに入った。

「今度は、海保の巡視船が入港してくるぞ!」

 一応周りに声だけかけて、自分はファインダーの中から見つけた船に意識を集中させた。

 ケンスケが見つけたのは、驚くほど奇抜なデザインをした真っ白い海上保安庁の巡視船であった。

「うわわわ!? おい、あれ「あきつしま」だぞ!?」

 海上保安庁ファンを自他ともに認める青年が、すっ頓狂な声をあげた。

「え? あれは、第三管区海上保安本部所属の巡視船じゃ?」

「いや、船番号を見ろよ。あれは「あきつしま」だぜ」

「ええと……、うわ、本当だ! わざわざ横浜から来たのか?」

 艦船専門の雑誌を発行している出版社が出している、海上保安庁の保有する全ての船舶を記載しているハンドブックを持っている青年が、あわてて頁をめくって確かめた。

「す、すごいぞ。海自、海保、米軍、みんな最新鋭艦をここに集めているんだ」

「もしかして、また戦争かな?」

「まさか。だったら那覇や嘉手納の飛行場に、もっと飛行機が本土から来ているはずだよ」

 一九九七年の日米安全保障条約の改定の結果、沖縄の米軍基地は大半が本土と周辺諸島に移っていったのだ。今では那覇空港は、自衛隊と民間航空会社が共有する国際飛行場となっていたし、嘉手納飛行場は、宇宙開発事業団と海上保安庁や自衛隊米軍の共用飛行場となっていた。

 ひたすら盛り上がっている何人かに向かって、ケンスケはファインダーから目を離さずに声をかけた。

「あのう、僕は海保には詳しくないんですよ。「あきつしま」のこと、教えてもらえません?」

「あ、そうなんだ。そっか、君は海軍専門だっけ」

「ええ、そうなんですよ」

 海上保安庁ファンの青年が、自分もカメラを「あきつしま」に向けながら言葉を続けた。

「「あきつしま」はさ、九三年の「尖閣諸島紛争」の最初に中国海軍に撃沈された、「しきしま」や「やしま」や「みずほ」の代艦として建造された大型巡視船の一番艦なんだよ」

 一瞬だけ、シャッターを切るケンスケの指が止まった。

「あの紛争の後の行革で、海上保安庁が運輸省から内務省に移管されて事実上の国境警備隊に改変された時、この沖縄も含まれる南西諸島の離島の警備基地としても使用でき、かつ周辺諸国の海軍の小型艦の攻撃に耐えることができる船を、という要求で建造が始まった巡視船なんだ」

「そういえば、そんな話を、「世界の艦船」で読んだ記憶があります」

「じゃあ、「あきつしま」が、実は海上自衛隊のDD−Xの船体のテストベットだって話は、知っているかい?」

「そうなんですか?」

 ケンスケは、あわてたようにEOS5のシャッターを切った。

「そうなんだよ。「あきつしま」がなんであそこまでステルス性を意識したデザインになっているかというと、二一世紀を睨んだ海上自衛隊の護衛艦建造計画の一環だからなのさ」

 レンズに写っている「あきつしま」は、確かにたった今出港していった「オスカー・オースチン」をすら上回るステルス対策を施された船であることが、見ただけでも判るデザインであった。

 「あきつしま」は、普通の船の船体が弾丸を縦に半分に断ち切った様な形状をしているのに対し、前後に引き伸ばしたと八角錐でもいうべきデザインをしていた。それどころか、船体は左右二つに分かれており、前から見るなら引っ繰り返した凹の字型とでもいうべき格好をしているのだ。

 ケンスケは、「あきつしま」のその船型を、可変吃水型SWATHと雑誌が書いていたことを思い出した。

 そして、二つの没水体にまたがるように載っている船体が、傾斜した平面のみで構成され、さらにこうした艦艇が色々と載せている装備品一切が見えないことにも気がついた。それどころか、本来ならば船体の上にあるはずの艦橋すら、艦首上部の視界を確保するために張り出している部分に設置されているのだ。甲板には、巨大な船体に不釣り合いなほど小さな砲塔が三基と、船体と同じ傾斜角を持つ八角錐のマストが存在するだけであった。

 それは、まるで陸上自衛隊の装甲車を思い起こさせるデザインをしていた。

「「あきつしま」は、全長一四八メートル、全幅四〇メートル、最大速度は多分三六ノット以上で、基準排水量六七〇〇トンの大型駆逐艦とでも言うべき船だよ。OTOメララの七六ミリ自動砲を一門、エリコンの三五ミリ連装機関砲を二基、二〇ミリバルカン砲を二基、短魚雷三連装発射管を二基搭載している。他に、帝国重機が開発した新鋭ヘリUH−3を二機積んでいる」

「大したものじゃないですか」

「それだけじゃないぞ。「あきつしま」のレーダーやソナーは、DD−Xが搭載する予定の物を先行試験のために搭載している。ほらあの塔みたいなマスト、あれに大きなタイルみたいなものが上下二段に張り付いているだろ。あれはFCS3とFCS4さ。これでミサイルさえ載せれば、文字通りの最新鋭護衛艦が一隻誕生、となるんだ」

「よくまあ、海自がそんなことを許しましたね」

 さすがのケンスケも、あまりのことに呆れたような声を漏らした。

「そりゃまあね。けれど、あの海自にしてみれば、きちんと運用試験の終わった船を護衛艦として採用できる訳だし、決して悪い取引じゃない無いって事だろ」

「なるほど。そういや、煙突が見えませんね。どこについているんです?」

「ああ、「あきつしま」はね、ガスタービン用の吸気は甲板にスリットを開けてそこから空気を入れている。で、排気は、あの没水体の間から海水で冷却して海面に吐き出しているのさ。しかも中間冷却再生サイクルガスタービンを搭載しているから、排気ガスの赤外線放射はほとんど無いに等しいという話だ」

「すごいですね。下手すれば、「アーレイ・バーク」のフライト2Aやフランスの「ラファイエット」級よりもステルス能力は上、と言うことになりませんか?」

「だろうね。もしかしたら、搭載される武装はきっともっと強化された物になるだろうから、最強の艦隊駆逐艦となるかもしれない」

 那覇港一杯に浮かんでいる米軍や、海自や、海保の艦船の写真を撮りながら、ふとケンスケは思った。

 碇の奴、今どうしているんだろう。もしかして、この騒ぎもあいつが絡んでいるんじゃないんだろうな。

  

 その頃シンジは、めりめりと音を立てながら自分の身体がシートにめり込んでいく感触に気を失いそうになるのを、必死になって耐えていた。

 胃が力に抗いきれずに変形していくのが、いやがおうにも感じられる。いや、胃だけではなかった。脳が、肺が、腸が、万力にかけられてでもいるかのように、ぎりぎりと押しつぶされていくのだ。

 すべての神経を下腹部に集中し、なんとか腹筋をつかって呼吸を続けようとする。

 だが、肋骨が背筋に食い込み、肺がつぶれ、息ができない。

 すさまじい頭痛に意識が朦朧としながらも、シンジは必死になって「意識」を目標に向かって集中させようとする。五感が用を果たさず心臓が一拍ごとに悲鳴を上げる。それでも「意識」はなんとか目標に「触れ」ることができた。

 けれども、シンジの努力もそこまでであった。

 目標に到達できた安心感で思わず気が緩み、意識が混濁し、そのまま気を失ってしまう。最期に自分の「意識」にレイの「意識」が「触れた」ような気がしたのだが、それが事実かどうか確かめることもできずに、シンジの意識は奈落の底へと落ちていってしまった。

 

「うーん、素晴らしい。ここまで頑張ってくれるとは思っても見なかったわぁ」

 身をよじらせて全身で歓喜を表現させつつ、名残惜しそうにコンソールで作業終了をインプットしているその女性に、レイはそれこそヘリウムや窒素も凍りつかんばかりの冷たい視線を突き立てている。リツコは、さりげなく彼女とレイの間に身を滑り込ませると、コンソール上のモニターに視線を投げた。

「初回からこの数値ですか? 旭川博士」

「うふふ。ごめんなさいねぇ。でも、あの子、まだ頑張れるまだ頑張れるって表情で、一生懸命ついてきてくれるんですもの。もう嬉しくって」

 膝上三〇センチまでしかない原色の真っ赤なミニスカートに同じ赤色のピンヒールを履いている、どう見ても博士号の修得者には見え難い自分より若い彼女を、リツコはかなりの遊び人と心の中で決めつけた。それこそ語尾に「はあとマーク」でもつけているかの様なそのしゃべり方が、どうにも彼女の気に触って仕方がない。

「初めての高重力環境下での作業実験で、九Gはいくら何でも危険すぎるのではないですか?」

「いやあ、初回で七G超すまで意識が混濁もせず、パニックを起こしもしないんですもの。あの子、素質ありますよ」

 リツコは、自分の視線もレイのそれと変わらぬ冷たいものになっていくのが判った。

「実験の趣旨について、何か誤解なさっているのでは?」

 今シンジが気絶した実験は、本来ならば、高重力環境下でのチルドレンの「能力」発揮について身体の活動変移を測定するためのものであったのだ。それを、この派手なそれこそ白衣を着ているのでなければ膝乗り秘書とでも誤解してしまいそうな彼女は、なかば自分の趣味に走って遠心加速器を作動させたのである。

「そんなことありませんよぉ、赤木博士。わたしも一応医者ですから、そこまでの無理は強いませんって」

「訓練を受けたアストロノーツですら、耐Gスーツを着ていても七G加速の持続は身体に大きな負担をかけるんです。まして何の訓練も受けたことのない子供に」

「大丈夫ですよ。それに彼なら、将来立派にNASDAの明日を背負って立ってくれます」

「……………」

 この女は、絶対学生時代ディスコで扇子振り振り踊っていたに違いない。そしてそのノリのまんま今の今までやってきたのだ。

 染め上げた金髪や皮のタイトミニといった今の格好とは裏腹に、実は学生時代は勉強実験研究一筋の極めて真面目な生活を送っていたリツコは、内心での彼女に対する評価をほとんど最低レベルにまで落とした。

「それで赤木博士、シンジ君のメディカルデータはアップしておきましたから、後で確認しておいてくださいね。それと、遠心加速器の周りの重力場検知器のデータもアップしておきましたから」

 そこで一呼吸おいて、彼女は声を潜めて付け加えた。ワンレングスの長髪の下のその目の色だけは、冷徹な科学者のそれに変わっている。

「一応データはランクAの秘匿処置は施しておきましたけど、第三新東京のサーバーにデータを移したら、こっちのデータは処分しておきますよ。彼の周囲でのみ重力場変移が発生しているなんて、事情を知らない人間が見たら二騒動になりますものね」

「……それはそちらにお任せします。「E計画」の関係者のみに使用されているパスワードなどは?」

 いったんは下げた評価をもう一度元に戻しながら、リツコも何喰わぬ顔で声だけ潜めて話を続ける。

「そんなものありはしませんって。そんな秘匿処置をしたら、ここではむしろ目立ってクラッキングの対象になりますもの。総裁の個人データベースですら、NSAや中共の公安部のハッキングでデータが漏れているんじゃないかって疑いがあるんです」

「保安処置は? ここの保安は国家警察が直々に行っていると聞いていますが?」

「ぜーんぜん駄目駄目」

 眉をそれこそはっきりと八の字に傾けて、彼女は左手のひらを顔の前でひらひら左右に振った。

「あいつら、江戸時代から意識が変わっていないんですから。近頃のサイバーな犯罪になんて全然ついてこれませんって。火付け盗賊改方の方がまだしも役に立ちます。だから、ここのは、首都警とは違うんですって」

 ふっと一呼吸吐いて、リツコはガラスの向こうに視線を向けた。そこでは、気を失ったシンジを何人かのメディックが回転式遠心器のシートから降ろしてストレッチャーに載せているところであった。

「判りました。次はレイの番ですが、今の様な無茶は絶対に止めてください」

「大丈夫ですよぉ。わかってますって」

 どうだか。

 リツコとレイの彼女を見る目付きは、はっきりとそう語っていた。

 

「知らない、天井だ」

 はっとして目覚めたシンジが最初に見たのは、わずかにクリーム色がかった真新しい天井であった。レースのカーテンを通して茜色に染まっている積乱雲が高いところに浮かんでいるのが見える。空調の効いた部屋の中は、わずか六畳ほどの広さでしかなかったが、最低限の生活のための調度はそろえられているのが見てとれた。

 自分がどうしてこんなところにいるのかすぐには思い出せなくて、しばらくぼうっと意識を宙に漂わせる。そうしているうちにだんだん何が起きたのか思い出してきて、全身をどっと疲れが襲ってきた。そのままもう一度ベットに深々と身をあずける。鼻をくすぐる消毒液の匂いが、ここが病院の中であることを彼に教えていた。

 房総半島のまん中にある第三新東京市から、自分がはるばるこの南西諸島のまん中にある沖縄島の、さらにまん中にある嘉手納飛行場に隣接する宇宙開発事業団の実験施設に来ていることが、今になっても信じれないでいた。しかも、事前にきちんとした説明もなく飛行機に乗せられて無重力下での「能力」の使用試験を行ったり、先程の様な高重力下での同じ様な試験を行ったりと、第三新東京市でこれまでやってきた実験とは比べ物にならないハードな内容ばかりであったのだ。

 ああ、でも、こっちの人にとっては、これぐらいなんともないのかもしれない。

 ふと、そんなことをシンジは思った。

 この嘉手納飛行場に自衛隊のヘリで降り立った時、出迎えてくれた壮年の男性の挨拶が、全てを説明していたのかもしれない。

 彼、後でリツコが教えてくれたところによれば、ここの宇宙開発事業団の総裁であり日本の宇宙開発の法王とでもいうべき人の、最初の一言。

「諸君、嘉手納宇宙港へようこそ!」

 仕立ての良いダークブルーのスリーピースを着ているのに、ジャケットと後ろで束ねた長髪を海風にはためかせながら夕陽を背に腕を組んで自信たっぷりにそう言い切ったその人は、思わずシンジが一歩足を引いてのけ反ってしまうほどの迫力を発散させていた。もうずいぶんな歳の人のはずなのに、逆三角形に鍛え上げられた肉体や陽に焼けた浅黒い肌、黒々と太い眉、そして、燃え上がっているかのように熱く輝いている瞳。どれもシンジにとっては縁のないものばかりである。

 あんな人が一番偉いんだから、それこそここの人達はみんなすごい元気なんだろうな。

 どちらかと言えば血圧の低いシンジには、とてもついていけないノリの人達なのであろう。

 自分でめぐらせた考えのせいでさらに疲れてしまったシンジは、大きく息をつくと寝返りを打って顔を枕にうずめた。

 しばらくそのままうとうとしたところに、そっと自分の意識に触れてくる「意識」がある。その蒼然と輝く月色の輝きに、シンジは相手が誰だかすぐにわかって声をあげた。

「開いてるよ」

 静かにドアを開けて入ってきたのは、やはりレイであった。

 相変わらずの制服姿で無表情なままであったが、シンジにはレイがかなり疲れてげっそりしているのが手に取るように判った。彼女も、あのちょっと普通じゃない女医に、かなりいいようにおもちゃにされたらしい。

「大丈夫、綾波?」

「ええ」

 そのままシンジの横になっている寝台の側の丸椅子に腰かけると、わずかに首をかしげてシンジの顔を見やる。

「疲れたね」

「そう」

「うん」

 レイの面にわずかに困惑の様な色が浮かんだのを見て、シンジは横になったままくすっと微笑んだ。

「僕は、運動は、得意じゃないから」

「そう」

「それに、綾波も、疲れているみたいに見えたから」

「……ええ」

 シンジはそっと「意識」を伸ばしてレイに触れようとした。レイは、わずかにみじろぎしただけで、黙って彼のなすがままにさせていた。ふっと彼女の目が閉じられる。

 シンジは、触れている「意識」から伝わってくるレイのそれが、ささくれだったものから穏やかで温かなものに変わっていく感覚に、わずかに目を細めて息を吐いた。もうずいぶん親しくなったとはいえ、年頃の女の子に「触れる」ということは、彼にとってなけなしの勇気をふりしぼらないといけない冒険であったのだ。

 目を閉じたまま、気持ちよさそうにしているレイの表情に、シンジは「触れて」いる「意識」にわずかに「力」を込めた。徐々に彼女の身体に「力」がゆきわたっていき、細胞の一つ一つが活性化されていく。

 少しづつレイの呼吸が早くなっていき、その真白い頬がわずかに桜色に染まっていく。

 気持ちよさそうにしているレイの様子に、シンジはなんだか直接彼女に触れてみたくなってしまった。だが、いくらなんでもそれは、ちょっとできなかった。確かに「意識」を「触れ」させてくれてはいるが、直接身体に接触する事まで同じ様に許してくれるかどうかはわからない。

 だが、うっとりとした表情ですぐ手の届くところに座っているレイの姿に、だんだん我慢ができなくなってくる。

 ちょっとだけ。ちょっとだけ触れるくらいなら、いいよね。

 そう心の中でつぶやいたシンジは、おずおずとかぶっているシーツの下から右手を出した。そのまま、そおっとレイに向かって伸ばそうとする。

「碇君、大丈夫ぅ?」

 ばーん、とけたたましい音を立てて扉を開け、腰までありそうなワンレングスの黒髪と白衣をひるがえし、真っ赤なピンヒールの靴音も高らかに、二人をげっそりさせた張本人が入ってくる。

「じゃ、悪いけど身体チェックするから。綾波さんは外で待っててね」

 あわてて右手をシーツの下に戻したシンジは、心の中で大きくため息をついてしまった。残念とも安堵ともつかない感情で、全身から力が抜けてもう一度ベットに深く沈んでしまう。

 一瞬で無表情になったレイが、ちらりとこっちを見たのに気がついたが、二人とも口に出しては何も言いはしなかった。ただ、互いの「意識」を触れ合わせ、わずかに名残を惜しんだだけであった。

 また後で。

 ええ。

 二人の声にはならない会話に気がついたのか気がつかないのか、女医は喜々としてシンジのかぶっているシーツを引っぺがし、パジャマを脱がせにかかっていた。

 レイは、音を立てて扉を閉めて部屋を出て行った。

 

 リツコは、自分の目の前に立ち敬礼している男性に向かって軽く頭を下げると、勧められるままに向かいのソファーに腰を下ろした。

 窓から入ってくる西陽が、彫りが深く真っ黒に日焼けした彼に、複雑な陰影を投げかけている。素人には何を意味するのか判らない肩の記章や胸のリボンや徽章が、夕陽を反射してきらきらと輝いていた。

「海上保安庁巡視船「あきつしま」船長の、二階堂二等海上保安監です。お忙しいところご足労をおかけします」

「国立基礎理論研究所の赤木リツコと申します。よろしくお願いいたします」

 二階堂船長の自信に満ち溢れている態度に、リツコは表情だけはにこやかに対応しながら、どこまで彼を信用できるのか覚めた目で彼を観察していた。

「瀬名尾警備救難監よりお話はそちらに伝えられておりますでしょうか。可能な限り赤木博士に助力と助言を求め、事態の打開に務めよ、との命令を受けております」

「はい。お話は承っております。私に出来る事でしたら、可能な限りお手伝いさせていただきますわ」

「それは大変心強い」

 晴れ々々と笑った二階堂船長の口元に、深々と笑い皺がうがたれる。唇の間からこぼれた真白い歯が、夕陽にきらりと輝いたのがリツコにも見えた。

 だがリツコは、彼の目が決して笑ってはいないことに最初から気がついていた。自分もにこやかな微笑みを浮かべつつ、相手の事を冷静に観察し分析しているのだ。今は互いに相手を値踏みする段階の様である。どうやら向こうは、自分自身をあくまで爽やかで健康的な頼りがいのあるシーマンとして印象づけたいらしい。

「「あきつしま」は、今夜半出港する様に命令を先程受領しました。出来得るならば、赤木博士にも御同乗いただきたいとお願いにあがった次第です」

 わずかに眉をしかめることで、リツコは内心感じていたなにかを隠した。ここはなにも知らない様に怪訝そうな表情を作っておいた方が良いのではないか、そう彼女には思えたのだ。少なくとも現時点では、「委員会」からの具体的な指示は下ってきていない。

「突然ですね。私はここに別の業務で来ております。許可無くここを離れるわけには参りませんが」

「そうなのですか? そちらにはどの様に話が伝わっておりますのでしょうか?」

「海上保安庁の方がお見えになったならば、出来る限りの協力をするように、と。よろしければ、私が何故巡視船に同乗する必要があるか、ご説明願えませんでしょうか」

 腰を上げようとする二階堂船長の機先を制するように、リツコは言葉を畳みかけた。もしかしたら相手から、彼女の知らないところで現在進行しつつある状況について何か情報が得られるかもしれない。

「そちらがドイツから招聘した人物が、明日夜半フィリピンを船で出港すると聞いております。その方を洋上で迎えて、第三新東京市までお連れする事が自分が受けた任務です。その方についてのお話は一切承っておりませんので、おわかりなる赤木博士に御同行いただく事になっていると聞いておりました」

 あっさりとこちらにボールを投げ返してきた事に、リツコはわずかにとまどいを受けた。それに、どうも今回の一件に関してそれほど詳しく聞いている様子もないみたいである。

「それは大変失礼いたしました。すぐに上に連絡して確認をとって参ります。しばらくお待ちいただいてよろしいでしょうか」

「ああ、それはいっこうに構いません」

 自分が感じたとまどいが表情に表れたのを、二階堂船長は気がついたか。リツコはあわてたそぶりを見せない様に気をつけて立ち上がった。

「ああ、「あきつしま」は巡視船ですが、部屋数は十分余裕があります。博士と同行なさる方があと二人三人いても、十分お迎え出来ますから」

「失礼」

 リツコは、軽く一礼して足早に部屋を出た。この男は、「委員会」に関係はないがチルドレンについては何か情報を得ているらしい。今ここで下手に情報を読まれるのは避けたかった。惣流・アスカ・ラングレーについて細かいところまで突っ込まれたら、とぼけきる事は自分には難しいかもしれない。

 少なくとも、洋上で警察権を行使することが任務の海上保安官のうちのエリートと腹の探り合いをやって、必要以上の情報を与えずに済むと考えるほど、リツコは自信過剰でもなければ相手を過小評価してはいなかった。

 部屋を出てほっと一息ついたところで、廊下の向こうに見慣れた顔があるの事に気がつく。

「日向君」

「赤木博士! 探しましたよ」

 大きなリュックを背負って黒いプラスチックフレームの眼鏡をかけた青年が、少々右足を引きずりつつリツコに向かって近づいてくる。

「新しい命令です。シンジ君と綾波君と一緒に、巡視船「あきつしま」に同乗してください。詳しい話は後で説明します。二人に出発の準備をさせてください」

「そう、メッセンジャーご苦労さま。今丁度その「あきつしま」の船長と話をしていたところよ。気をつけてね、切れる人みたいだから」

「そりゃ、あの「あきつしま」の船長でしょうから。多分、瀬名尾警備救難監の懐刀かなにかなんでしょう。海保は、と言うより内務省は、「委員会」とは疎遠ですからねえ。少しでも情報が欲しいんでしょう」

「最低ね。自衛隊が出てくれればいいのに」

「そういうわけにはいかないんでしょう。米軍との交戦の可能性すらあるんですから。自衛隊と米軍がやりあったら、それこそどういう混乱が起こるかわかりませんから」

 リツコは二度三度首を左右に振ると、そっとため息をついた。

 アスカだけならばまだしも、自分の背中にまで気をつけなければならないなんて。味方が誰だかはっきりしないなんて、それこそ鏡の国での戦争でしかないわ。そんなの北の熊が赤い毛皮を脱ぎ捨てた時に終わったのではなかったのかしら。

 

 昼間、陽炎がゆらゆらと立ちのぼっていた滑走路の彼方から、ゆっくりと蒼い月が昇ってくるのを、レイは宇宙開発事業団の事務所棟の外の公衆電話ボックス中から眺めていた。もうあたりは橙色から藍色へとその色調を移しつつあり、満月にわずかに欠ける月の輝きが、なにもかもを昼間とはまったく違う何かへと変えていってしまっていた。

 レイは、リツコに張りつけておいた「意識」を引きはがすと、意識を手にしている手帳に集中させた。そこには、いくつかの電話番号とアルファベットが鉛筆で薄く書き込まれている。

 まだテレホンカードが十分残っていることを確認すると、レイは手早く灰色の電話機のボタンを押した。

「はい」

「もしもし、綾波レイと申します。宗像孝治二佐の御宅でしょうか」

「ああ君か。私だ。久しぶりだな」

 受話器から、わずかに鼻にかかったところのある声が流れる。だが、その声が気取って作っている様には聞こえない。むしろ、経験とそこからくる自信に裏づけされた何かがこもっている、そういう声であった。

「はい。六月の一件ではお世話になりました」

「ああ、気にしなくていい。今日はずいぶんとしゃべるな。それに、声が近い」

「はい。今、嘉手納のNASDA事務所棟の前です」

「そうか。時間が取れるようなら基地に来るといい」

「ありがとうございます」

「用件は?」

 レイは、そこでいったん周囲に「意識」を広げ、自分に注目している何物もないことを再確認した。それから、受話器を手の平で覆うように持ち、声を潜める。

「植民地の件です」

「そうか」

 わずかに間が空き、受話器から流れる音がアップテンポのオーケストラ曲に変わる。相当ボリュームを大きくしているらしい。その音調がレイの耳にもはっきりと判る。どうやら彼女は、米軍に関する情報の調査を彼に依頼していた様でった。

「バナナの島で「皮首」が動いている。目標は二つ。一つは桜田門の忍者さんだ。もうひとつは判らない。連中は「FS」と呼んでいる」

「判りました。自分は「FS」のレスを援護する事になる様です」

 二人の会話は、実は次のような意味であった。

 フィリピンで合州国海兵隊が作戦行動中であり、その作戦目標が国家警察の外事局の捜査官と「FS」と呼ばれる人物の二人である、ということ。そしてレイが、その「FS」と呼ばれる人物の救助を援護する事になったこと。

「そうか、では気をつけろ。馬の毛からウシガエルが二匹出発した。雄雌皮の色までは判らない」

「ありがとうございます。自分は「ナメクジ」に搭乗して南に下ることになります」

 種子島の西にある米陸軍の基地である馬毛島から、グリーンベレーが二個分隊出撃した。そしてその人員編成装備までは判らなかった、と言うのだ。そしてレイは、海上保安庁の巡視船「あきつしま」に乗って、「FS」の救助に向かうというのである。

 馬毛島。

 一九九七年の日米安全保障条約の改訂の結果、米軍が沖縄に駐留させていた部隊のうち、第三海兵師団と第三軍役務支援群は旧東京の臨海地区へ、空軍部隊は岩国や八戸へ、そして、海兵隊の第一海兵航空団の主力と司令部、陸軍の第五特殊戦任務部隊ことグリーンベレーは、鹿児島の南の種子島のすぐ西にある馬毛島に移動したのであった。

 馬毛島は島ごと日本政府に買い上げられてまるまる米軍に提供され、今では完全に米軍の秘密基地となってしまっているのであった。なにしろ、極東から中近東にいたる緊急事態に即座に対応できる様、常に馬毛島に作られた人口港で第三一、第三三、第三五、第三七の海兵遠征隊のうち一個が、揚陸艦の上で待機しているのである。さすがに自衛隊であっても、離島にいる実戦部隊が相手ともなると、その動きについてはほとんど正確な情報が収集できないのであった。

 レイは、一瞬だけ目を閉じると、声の調子を上げた。

「こちらにはあと一週間いる予定です。後半は時間を作れると思います」

「そうか、では再会を楽しみにしている。石動さんや柘植さんの話も聞かせてくれ」

「了解しました。では、これで失礼します」

「ああ。幸運を」

「はい」

 受話器を戻したレイは、顔をあげて中天に昇ろうとしている月を見上げた。電話ボックスの中のレイの耳にまで、周囲の虫の音が聞こえてくる。

 自衛隊や米軍と共用の飛行場とは言え、自衛隊の主力は那覇空港にあり、米軍の主力は馬毛島にいる。そして宇宙開発事業団は、それほど多くの飛行作業が出来るほどには、組織が巨大化もしていないし忙しくもなっていない。この嘉手納空港は、あちこちに常夜灯や水銀灯が灯るばかりで、動くものはほとんど何もいないと言ってよかった。

 月の光を浴びることで、自分の心の中の何かが力強く動き始めようとしている。

 レイは、わずかに口の端を上げて、輝く月を見つめる目を細めた。

 大丈夫。碇君は、私が護るから。

 

 レイの口の中で転がされた言葉を知るものは、蒼い月しかいない。

 


 あとがき

 

 今度は一か月ぶりになります。皆様如何お過ごしでしょうか、金物屋忘八です。

 さて、第三話「アスカ、来日」、今回はインターミッション兼後半のネタ振りという話となりました。でも、実は単なる読者サービスという話もないわけではありませんが(笑)

 じつは、この話は六月の終わりにはアップする予定ではいたんですよ。ところが、書いている途中で一〇KBほど何故かエディタがハングして吹っ飛んでしまいまして、まるまる何日かパアに」なってしまいました(泣)。まあ、それでも前回よりは早くアップできたと言うことで、それはそれでよかったと考えております。

 今回は、それこそこの世界に関して、かなり多くの設定を公開する話となりました。

 特に大きいのは米軍が沖縄から移動しているということですね。この件に関しては、そのうち詳しく「妄想自衛隊」で書きたいと思っております。今言えるのは、僕は沖縄はこのままでいくとキューバのグアンタナモとするわけにはいかない、というくらいでしょうか。

 ちなみに馬毛島の海兵隊基地に関しては、作家池澤夏樹氏の「むくどり最終便」で、氏が普天間基地の代替地として、リアルな数値と島の状況や環境をあげて提案している場所でもあります。

 この件に関して情報を提供してくださった舞村そうじ氏に、この場を借りて感謝の意を現したいと思います。

 ありがとうございました。

 というわけで最後になりましたが、このストーリーのテーマはあくまで「ラブラブシンちゃん」だと今回ばかりは胸を張ってみたりするのです(謎爆)。

 それではまた、機会がありましたら、次の作品でお会いしましょう。

金物屋亡八 拝 


 K Partへ続く

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