綾波の名は綾波 4

Written by Kie


 

 IV どうしよう

 

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<1>家にて

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 月光に濡れ凍てつく身体、そこには時の流れに置き去りにされた空間がある。ぽっか
りあいた闇の影に色を失った廃墟が昔の形のまま凍っている。掘り返そうとあがくもの
たちのうめき声。剥げ落ちた爪の根元から迸る鮮血。息を吹き返す街。
しかし、人はそこで止めねばならぬ。血塗れの手で触れてはならぬ。触れた刹那、それ
はセピア色に染まる。純粋な形は脆くも崩れ去り、氷の欠片が乾いた音を立てる。忘れ
たはずの破片が静かに深く溶けていく。そして、人は真実を一つを失う。

「あっ、綾波! ・・・今まで何処に・・・」
 僕はその瞳を見つめながら、思わず声を上げる。暗闇に光る見慣れた瞳。全てのもの
を見通す瞳。その瞳は僕を捉えて離さない。ドアを隔てた直ぐそこに探していた彼女が
いる。僕は握り締めた拳を開くと、ドアの先に手を伸ばそうとした。
 その刹那、風が吹いた。腰に巻いたタオルが戦いだ。自分が裸であることに気付いた。
今の肉体的状況にも・・・

「ちょっ、ちょっと待ってて。あっ、中に入っててよ」
 慌てた僕は、下半身を押さえながら、自分の部屋へ駆け出す。僕の後を追うように、
廊下から足音が聞こえる。

…パンツはどこだ…これは…違う!
…痛っ、ジッパーが上がらない…
…畜生っ、早く、早く…
 逸る気持ちが僕の一挙手一投足の表面を滑り回る。下着の在り処を机の中に求めたり、
どうでもいい靴下をまず履いたり、秘匿していたアスカのパンツをふっと眺めたり…
僕に悉く抵抗した制御できない肉体に対しては憎悪の気持ちが芽生えたりもした。

 やっとの思いで着替え終わった時はかなりの時間が過ぎたように思う。僕は、綾波が
既にいないのではないかという根拠のない妄想を胸に抱きながら、乳白色の霧が一面に
立ちこめる部屋のスイッチを切って、廊下に出た。

 そこは闇が支配する世界だった。夜目になれない虹彩は物の影さえ闇に溶かし、僕は
ただリビングへ手探りで進む以外なかった。研ぎ澄まされた緊張感が外的からの侵入を
警戒するシグナルであるかのような気持ちにさせた。無音の音が皮膚の表面から染み込
み、体内の鼓動を小刻みに刺激する。足元を確かめ、震える指先に神経を集中しながら、
僕は闇の中を前に進む。折れ曲がった角に手をかけた僕の目の前には銀色の月明かりが
刃を立て突き刺さっていた。僕はその刃の輝きに自らの身体を晒し、リビングへと入る。

 限界まで広がった瞳孔に光の雫が零れ、僕の視界は白く染まった。幾重もの光の矢を
僅かに遮る黒い影。ぼんやりと浮かび上がる輪郭。それは綾波の形に見えた。



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<2>光の中にて

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 僕はエヴァのコックピットで待機していた。動かない弐号機が回収されたことは知っ
ていた。リフトアップされるエヴァのGに耐えながら僕は、窮地に立った綾波を救うこ
としか頭になかった。零号機のコックピットを映すディスプレイには苦痛に歪む綾波の
表情があった。

 マイクからミサトさんの緊迫した声がする。
 「ATフィールド展開、レイの救出急いで!」
 僕は抑え付けていた苛立ちを爆発するように返事する。肩の拘束具が外され、一歩を
踏み出す。目の前で展開される使徒と零号機の融合を早く阻止しなければ、綾波が危な
い。僕はATフィールドを一気に展開した。オレンジ色した使徒が蛇の鎌首のように僕に
向かってくる。

 「碇君!」
 綾波の声が一瞬の間に瓦礫化した装甲ビルの中から聞こえた。使徒の攻撃を間一髪、
回避したものの、展開したATフィールドが突き破られ物理的な接触を許してしまう。
 初号機を通して腹部からおぞましい感覚が湧き上ってくる。

「ウフフフ…」
 綾波の笑い声が僕の体内から聞こえる。

 「シンジ君!プログナイフで応戦して! 」
 反射的にミサトさんの命令に従う僕。肩ケースから取り出したプログナイフを使徒に
思わず突き立てる。
 血しぶきが上がる。
 綾波の痛みが僕の全身に伝わる。次の刹那、手の表面がうぞうぞ泡立ち、それは次々
小さな綾波の形に変わった。

 …痛いわ…碇君…
 …痛いわ…碇君…
 …痛いわ…碇君…
 僕に訴えかける綾波。僕はただ恐怖した。それが綾波か否かというより、ここにいる
綾波自体が僕にとって根源的な恐れの対象だった。僕の目はその姿に釘付けとなり、震
える腕を抑えながら、何も考えられなくなった。

 「ウフフフ…」
 僕と僕を取り巻く全ての空間から綾波の歓喜に満ちた笑い声が湧き出してくる。


「・・・どうしたの?」

 街のイルミネーションがサッシ窓を通して赤く青く煌く。月明かりが翳差すリビング
の中央にじっと佇む影が一つ。立ち尽くす僕を見つめていた。


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<3>また家にて

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 僕は肩をピクリと震わせると、ゆっくり顔を向ける。乾いた瞳は綾波を映しているが、
焦点を結んでいない。薄い唇は不自然に顔にへばりつき、白い頬は異様に盛り上がった
翳を生み出しているだろう。

「綾波・・・今まで何処に・・・」
そこまで口にすると、僕は少し逡巡した後、言葉を続ける。

「…君は本当に綾波なの?」

「どうして?」

「今日、自分が綾波レイだという女(コ)と会ったんだ。クラスの皆は君だと言ってい
る。僕は別人だということを知っているけど…」

「そう…」

「そうって、君は本当に綾波レイだよね。雰囲気が綾波だもの…ごめん、変な質問だっ
たね…ねえ、本当に今まで何処にいたの?」

「私が誰か聞かなくていいの?」

「えっ、綾波だろ。じゅあ、いいじゃないか。変な質問してごめん」

「そう、私は綾波レイ…」

「そうだよね。あっ、部屋が暗いね。気付かなくって」

 僕は部屋の灯りを付けようとする。

「・・・いい・・・」
 綾波の声が細く震えた。僕は指先の感触を確かめることなく腕を下ろすと綾波の方に
向き直った。

 
 どこかで物の軋む音が聞こえる。

 時の流れを寸断する音が聞こえる。

 キッチンから雫の跳ねる音が聞こえる。


「・・・待つわ・・・碇君の答えを教えて・・・」

「答えって…何のこと? 綾波、君が何を言っているのか分からないよ」

「これから毎日、私は碇君に会う。碇君が答えを見つけるまで…」

「綾波…」
 僕はルビーのように光る瞳をみつめながら、綾波の前にそっと腰を下ろした。

「・・・今日会った人」

「えっ、綾波さん?」

「・・・どんな人?」

「どんな人って…髪が黒くて長くて、瞳も黒くて背丈も僕より高くて・・・」

「なぜ碇君は気付いたの? なぜ?」

「なぜって・・・綾波はここにいるし…僕の知ってる綾波じゃなかったし…」

「なぜ?」

「なぜって・・・」

*

 「きゃぁっ!」
 突然の悲鳴、そして沈黙。僕は何が起こったのか暫く分からず、目の前の零号機と使
徒がもがく様子を眺めていた。痛みは無くなり、恐れは消え失せ、後には、虚脱した自
分がただ、佇んでいた。

 使徒が零号機に吸い寄せられる

 零号機の真っ赤なコアが膨張する

 零号機のコアが風船のように膨れ上がる

 次の瞬間、コアは折り畳まれるように縮んでいく

「コアが潰れます、臨界突破!」
 マヤさんが叫ぶ。

 全てを飲み込んだ零号機が光に包まれる

 あやなみ・・・だ…

 綾波は天に導かれるように起きあがり

 そして、

 爆発した。

 そうだ、あの時、僕はATフィールドで守られた初号機のコックピットから光の粒子が無
限の彼方に拡散する様子を見ていた。色を失った白い煌きは僕を映し、初号機を映してい
るのだろう。でも、僕には見えなかった。綾波の姿も見えなかった。光の中で僕は無力だ
った。

 全てが終わった後、僕は零号機の破片を見つめていた。使徒は殲滅したと思った。零号
機は消滅したと思った。そして、綾波は死んだと思った。でも、使徒は綾波だった。使徒
は敵だった。恐怖を感じたのは綾波だったのか、使徒だったか。消滅した事実だけが、真
実だったのだ。僕は何も出来なかった。いや、しなかった。綾波が使徒だったから。

「ミサトさん…出ないんだ、涙。悲しいと思ってるのに、出ないんだよ。涙が 」
 だから、これは夢なのだ。夢と思って悲しむほど、僕は馬鹿じゃなかっただけだ。

*

 ・・・シンジ・・・お前さ、本当は綾波が死んだと思いたいんじゃないのか・・・

 ・・・この写真は合成じゃない。だから、真実を写している。真実は俺の言った通りだ・・・

「僕って・・・」

「碇君、疲れているのね」

「そうかも知れない」

「頭が混乱しているのね」

「そうかも知れない」

「ゆっくり休めばきっと直るわ」

「そうかも知れない」
 
 頭を抱えて蹲る少年。ふと背中を包むような柔らかさを感じる。体温の暖かさ、心地
よい心臓の鼓動。顔を上げ、振り向いた目の前に少女の満面の笑顔が広がる。紅い瞳に
自分が吸い込まれるような感覚。身体が穏やかな優しさに溶けていく。少年が手にした
破片とともに…。

 天と地をつかさどる神神の声を受け取ることがないという天使の嘆きを感じるのはな
ぜだろう。泡のように生まれ、泡のように消えることは森羅万象の習いであり、過ぎ行
くものの真理であることは自明のことのはずなのに、なぜ嘆くのだろう。果肉の詰まっ
た果実を噛み締めた後の迸りも、既に知っていることなのに・・・。やがて、薄明の世界
が訪れ、嘆きが喜びに満ち溢れることを望んでも、非難される道理はあるまい。たとえ、
薄暮の次に待つものが再び闇であったとしても。



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<4>ネルフにて

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 僕は今、ネルフの司令室にいる。全面に広がった窓の外には茂った木々の青さが地上
から採光された朝の日差しに揺れている。差し込む光を浴びた僕とミサトさん。光を背
に受けた父さんと副司令。表情も知れない輪郭だけの存在。お互いを隔てる距離は無限
に感じられる程遠い。ただ、足元まで伸びる二つの影だけが同じ空間を共有しているの
だという気にさせてくれる。

「ふっ、シンジ…お前はレイと結婚しろ」

「なっ、なっ、何いってるんです、碇司令! シンジ君はまだ中学生ですよ!」

 いきなり呼び出され、突然の命令。僕は父さんの言っている意味がわからなかった。
ただ、朝日が喉元を通り過ぎるくらい大きな口を開けたまま突っ立っていた。そんな僕
に代わってミサトさんが目から火が飛び出すような顔をして反論してくれた。もしかし
たら頭からは湯気が上っていたかもしれない。

「問題ない。社会的な契約は年齢が全てだが、生物的な契約は成熟が全てだ」

「承服できません。人類存亡を賭けた戦いをしている最中に非常識です。副司令も何か
言ってやってください」

「そうだな、シンジ君は身を固めるべきだな」

「とっ、父さん。父さんが何を言っているのか分からないよ。それに綾波の気持ちだっ
てあるだろ。命令で結婚するなんて見たことも聞いたことも無いよ!」

「それは問題ない。これはレイの望みでもある」

「え”」

「レイ、入って来い」

 奥の部屋に通じる扉から長い髪を戦がせてあの少女が現れた。窓から差し込む光の加
減でその姿ははっきりしなかったが、頭に巻かれていた白い包帯は既に取り払われ、学
校の制服を着ているらしい。光のなか優雅な舞いを踊るようにスカートの裾を揺らしな
がら、僕とちょうど向かい合わせ、父さんたちがいる執務机の前に立ち止まる。

「レイ、本当にいいの!?」
 ミサトさんの真剣な問いかけに綾波さんはこくりと頷いた。長い髪がさらさら光り、
肩口から滑り落ちる。
 顔を上げた彼女の瞳はまっすぐ僕をみつめていた。僕は恥ずかしさが先立ち、目をそ
らしてしまった。彼女には僕の狼狽する気持が伝わったかもしれない。

「いいか、シンジ。これは決定事項だ。子供の駄々に付き合っている暇はないのだ。
 葛城三佐、本日付をもって、サードチルドレン保護者の任を解く。以後の保護者は赤
木博士とする。いいな」
「そんな、突然」
「これが命令書だ。二人とも下がってよし!」

 この時僕は、ミサトさんを頼る以外ないというあきらめとともに、不謹慎かもしれな
いが、結婚の意味について深く深く妄想していたのは確かだ。僕は俯いたまま、ミサト
さんのヒールの音につられて部屋を後にした。

*

「シンジ君。とんでもない事になったわね。レイもレイだわ。どうせ、命令に従っただ
けでしょうけど…とりあえず、命令に従うけど、いつでも戻ってらっしゃい。部屋はそ
のままにしておくから」
 僕は微笑んだつもりだが、ミサトさんには埴輪のような無機質な笑いにみえたかもし
れない。

「ミサト、命令違反よ!」
 そこには、リツコさんがいた。金色の短い髪を掻き揚げながらこちらに歩み寄ってく
る。

「リツコ、あんた今まで何処に行ってたのよ!」
「シンジ君、聞いたでしょ。これからは、ミサトに代わって、私が貴方の保護者よ。住
居も用意したわ。当然、レイと二人っきりのね…ウフフ」
 リツコさんは、意味深な笑顔を僕に向ける。

「リツコ、ねえ、聞いてるのリツコ。あんた、あの司令の悪ふざけに乗るつもり! 冗
談じゃないわよ!」
「あなた、本当に悪ふざけだと思っているの?」
 ミサトさんの怒鳴り声に向かってリツコさんは睨みつけるような真剣な顔で答える。

「じゃあ、何なの!?」
 リツコさんは全てを悟っている賢人が愚者に哀れみをかけるような表情を見せると、
横にいた僕に事務的な口調で声をかけた。

「いい、シンジ君。今日はこれで帰りなさい。すぐ迎えに行くから」
僕は二人の間に飛び散る見えない殺気を感じながら、頷くしかなかった。

「一寸あんた、シカトするんじゃないわよ!」
「明日、学校もあるんだから、勉強道具は自分で持っていくようにね」
「一寸!」
「煩いわね。ミサトはもう関係ないのよ。早く発令所に行きなさいよ。待機するのも、
貴方の役目でしょ。それとも、職務を放棄してまでシンジ君の親権を主張するつもり?」
「ウッ…」
「そうでしょ。後は私がやるから、ミサトは黙って見守ればいいのよ。悪いようにしな
いから。それじゃ、シンジ君、行きましょ。レイも待ってるわ」

 リツコさんの声に命じられるまま、僕はミサトさんと別れて出口へ向った。

*

 リツコさんが用意してくれた住居はこれまでいたマンションと同じフロアの正反対の
一角だった。歩いて1分もかからない。部屋のつくりも変わらない。違うところは、人
の匂いを感じさせない真新しさと目の前の状況だった。

 今、僕の視線はリビングの中央で正座している少女に向けられている。しなやかな両
手をほっそりとした両膝に重ねた日本人形のしとやかさ。長く伸びた黒髪はベージュの
カーペットの上で扇形に広がる。木目細やかな白い肌が昼下がりの太陽にきらきら輝い
ている。

「あっ、あのさ・・・とんでもない事になったね」
「どうして?」
「僕たち中学生だし」
「私は問題ないわ」
「えっと、つまり、中学生の男女が二人っきりで暮らすというのは、まずいんじゃない
か・・・と」
「誰がまずいの? 碇君?」
「えっ、いや僕じゃなくて、世間というか、なんというか・・・」
「世間って誰?」
「いや、誰ってわけじゃ・・・」
「じゃあ、誰がまずいの? 碇君? それとも他の人?」

にこっ

僕は顔を真っ赤にして俯いてしまった。

これからどうなるんだろう。僕の頭は混乱していた…
 

 

 to be continued

 


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Received Date: 00.2.11
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