世界が紅の大気に覆われた後も、夜空はいまだ漆黒の支配する領域だ。
 闇はかつてと変わらず静かで、優しく、この星を柔らかに包み込む。
 漆黒のキャンバスにぽかりと穿たれた穴のような、真円の月――それだけが、わずかな紅色に染まった姿で地上を見下ろしている。

 ――そういえば、今夜は満月だった。

 レイは屋上の鉄条網に両手を添えて、何となく満足した気分で、薄紅の真円を見上げる。
 人がどうあろうと、月は太古からこの星を見下ろしていた。
 無慈悲に、無感動に、あるいは無欲に。

 自分のことを月に例えた者がいる、という話を、彼女は赤毛の親友から聞いたことがあった。
 白銀の髪や真っ白な肌が、銀色の月をイメージするから。
 手を伸ばしても届かない、ある種の隔たりを感じさせるから。
 ――無慈悲に、無感動に、あるいは無欲に、周囲を見つめているから。
 たしか、理由はそんなところだったように思う。

 ――だとしたら。
 今の自分は、どんな意味からも、月に例えられることはないだろう。


 多少の重量を感じさせる金属の擦れる音。
 背後の扉が開けられる音がして、レイは振り返った。

「やあ、綾波」

 淡い紅の月光に照らされる中、白銀の十字架が揺れている。
 ――彼女のもっとも愛しい少年が、彼女の親友を負ぶさりながら立っていた。

「……碇君、それにセカンドも……酔い覚まし?」
「今夜はちょっと呑みすぎたからね」

 扉を閉め、アスカを背中から降ろしながら、シンジは苦笑まじりにうなずく。
 先刻まで続いていた宴会で、参加者は彼らを含む数名を除いて、総員撃沈という結果になっていた。
 こういう場合、理性を残しているのは損以外の何物でもなく、戦死者と戦場の後始末を引き受けざるを得ない。
 生き残ったわずかな人間のうち、冬月とマユミには、早いうちに撤退を願った。
 老齢の冬月はもちろんのこと、親戚の家に居候しているマユミを遅くまで引きとめるわけには行かない。
 残ったシンジとレイ、そして加持の三人で、空き瓶やつまみの皿、スナックの空き袋を片付け、戦死者は男女に分けてそれぞれ二つある客間に寝かせた。
 その際、レイの仕事は専ら部屋の片付けで、力のいる戦死者の運搬はシンジと加持が受け持ってくれていた。
 故に、一足先に自分の仕事を終わらせたレイだけが、こうして屋上に涼みに出ていたわけである。

「う〜、気持ち悪い〜〜〜」

 レイのすぐ横にへたり込み、フェンスを背もたれにしたアスカがうめき声を上げる。
 その隣に腰を下ろしながら、シンジは呆れた表情で忠告した。

「山岸さんに付き合ってどんどん呑むからだよ。少しは学習するといい」

 ちなみにマユミは、どれだけ呑んでも結局顔色一つ変えることはなかった。
 もっとも、後半からはいつにも増して口数が多くなり、えらく遠慮のない毒舌も披露していたことから察するに、まったく酔っていなかったわけでもないようだ。
 割を食ったのは(当然の如く)アスカで、よせばいいのにマユミと張り合ってアルコールを消費しただけでなく、舌戦で完璧にやり込まれてはさらに自棄酒をあおるという悪循環を繰り返していた。
 アスカ自身がかなり酒に強い体質でなければ、急性アル中で倒れても不思議はないところであったろう。
 二人の消費したダース単位の酒瓶から鑑みるに、「気持ち悪い」というていどですんでいるのはむしろ驚嘆すべき事実である。
 もっとも、だとすればマユミの方は、酒豪を通り越してバケモノとでも称する以外にないが。

「今日は、満月だったんだね」

 うーうーと唸るアスカを無視して夜空を見上げたシンジが呟く。
 何とはなしに満足そうだった。
 彼が自分と同じような感覚を共有しているのを知って、レイはちょっとだけ嬉しくなる。
 月を仰ぐのならば、満月がいい。
 冴え渡るような三日月もいいが、暗闇を彩る最大の光が真円を描くときこそ、夜空のアートは完成する。
 特に深遠な哲学や信条があるわけではないが、彼女はずっとそう思っていた。

「――そういえば」

 ぽつりと、彼がいった。

「何年か前にもこんなことがあったっけ。三人並んで夜の空を見上げたことが」

 それはもう三年前、使徒戦争の真っ只中だった。
 使徒殲滅、作戦終了の告げられた後、申し合わせたわけでもないのに小高い丘の上に集まって、漆黒の空と街を見つめた。
 凄惨、過酷の色合いが徐々に具体さを増した戦争終盤に比べ、まだまだ余裕があった時期だ。
 終わってしまえばすべてが懐かしさとともに語られるあの頃の記憶――語りえるていどには年月を経た記憶。
 その中でも、三人が揃って緩やかな時間を共有できた、淡い光景。

「…………」

 レイは自然、柔らかな表情になる。
 あの頃、感情というものがまだまだ未知のものであった当時の自分が、いつの間にか手にしていたもの。
 それは偶然ではなく、レイの生れ落ちたそもそもの理由、彼や彼女が経たそもそもの境遇を考えれば、必然というべき成り行きの産物であったが、彼女はその必然に心から感謝していた。

「うー……」

 先刻から唸り続けていたアスカの声は、次第に穏やかなものになり、今はほとんど寝息に近いものになっていた。
 ゆらゆらと頭も揺れている。
 その様子に、シンジとレイは思わず顔を見合わせ、それぞれに微笑した。
 かつては高圧的な物言いしか出来なかった不器用な少女――今でもあまりそれは変わっていないが――も、これほど無防備な素顔を見せるていどには、距離が近くなっている。

「過ぎし日の熾烈さにほんの少しの感謝を――ってね。今の平和を心地よく思えるのは、あの日々があればこそ」

 やや芝居がかった調子で、シンジはいう。
 冗談めいた言葉に、彼らしいちょっとした皮肉がある。
 熾烈な経験がなければ、ほんのちょっとした幸せにも気付けないとは、人間とは何と不器用なものか――と。

「くー……」

 もはや完全な寝息を立てて、アスカはこてんと彼に寄りかかってきた。
 シンジは苦笑し、そしてその表情のまま、静かな手つきで彼女の上半身を支え、胡座をかいた膝の上にその頭を乗せる。

「……んにゃ」

 少年の膝枕という安息の地を得て、寝ぼけた様子ながらアスカは満足げな息を吐く。
 シンジは苦笑を微笑に変えて、彼女の赤髪を優しく指で梳いた。さらさらと流れるような感覚が心地よい。

「…………」

 レイは思わず、複雑な表情になってしまう。

 ――セカンドは、やはり彼と仲好しだ。

 常日頃からの思いを、期せずして確かめた気分になる。

 笑顔の独裁者、暴力ファシスト、一を言われて百を返す自動報復システム。
 赤毛の親友からさんざんな調子で非難されている――そしてその度に、それが中傷ではないことを実証してのける――シンジだが、率直な好意の表現には驚くほど素直で不器用なままだ。
 偽悪者ぶるのが好きな人間は、たいていの場合、飾り気のない善意や好意に対して無力となる。
 何かと贔屓だ贔屓だとアスカが指摘するレイへの対応にしても、その点で差異があるわけではなかった。
 レイにもアスカにも、彼はずっと同じ距離、同じスタンスにいる。

 そのことが、彼女には嬉しくて、そして少しだけ悔しかった。

「――少しは元に戻ってきたみたいだね」

 唐突に発されたその言葉に、レイはとっさに反応しかねてきょとんとする。
 シンジの方では、その唐突さを自覚していたらしい。
 彼女の顔を見上げるその表情は、くすりと微笑んでいた。

「空だよ。月の色が、少しだけ薄くなってる」

 いわれて、レイは月を見上げた。
 けれど、彼女には彼が言うほど、月の色が――この世界全土を覆う紅の大気が薄くなったようには思えなかった。

「……そうなの?」
「ぱっと見じゃわからないけどね」

 膝の上の紅い髪に視線を落としながら、シンジは穏やかに言う。
 レイは心持ち目を細めて、頭上の月を見つめてみた。
 けれど、やっぱり彼女には、細かな色の違いなど見分けがつかなかった。
 レイは諦めて、彼の横顔を見つめる。
 彼は優しい顔で、すやすやと眠るアスカの寝顔を見守っていた。

 ――静かだった。

 加持夫妻が新居として選んだこのマンションは、もともと閑静な郊外にある。
 都市の治安自体が好ましい水準にあるため、無粋な雑音からは程遠い。

 紅い月の光に照らされて、彼の姿は宗教画の住人のようにすら見えた。
 それはあまりに穏やかで、優しく、清廉で、そしてあまりにも遠い。

 けれど何故だろう。
 レイはそれを見て、発作的な不安に駆られる。

「――碇君」

 わき起こるそのの衝動に耐えかねたように、彼女は口を開いていた。

「もしも、この世界が――あの、紅い大気によって」

 いけない。それ以上を口にしてはいけない。
 だってそれは、かつての自分が自分自身をこの世界に留めておくのに必要なとっておきの秘密として、心の奥に封じ込めたもののはずだったから。

「この世界が、あの紅い大気によって、操られているとしたら――そこにこめられたたった一人の馬鹿げた願いのために――身勝手な都合で、操られているとしたら」

 けれど、彼女の口は驚くほどすらすらと言葉を紡いでいた。

「――今を生きるすべての人々が――誰も彼も例外なく――あの紅い大気を作り出した一人の怪物に、弄ばれているとしたら」

 もう止まれなかった。
 彼女は震える声で、最後の問いを口にした。

「――碇君は、そのことを、許せる……?」

 彼の表情を観察する勇気はなかった。
 レイは空を見上げ、紅色に染まった月を見上げていた。
 視界に映る真円の輪郭が滲んでいた。背筋の震えを、必死の努力で抑制する。

 あの紅の大気は、砕けて散った彼女の半身。
 かつてリリスと呼ばれた存在の名残。

 あらゆるヒトの魂を紅の海に束ねようとする試み、その偉大にして愚かな試みが、その終盤で挫折したとき。
 リリスであり綾波レイであった少女が、ただの綾波レイとなったとき、彼女は狂おしく願った。

 どうか、世界が自分を受け入れてくれますように。
 自分が、自分の愛する人たちと笑って暮らせる世界になりますように。
 ……彼が、自分を受け入れてくれますように。

 そして、願いはかなった。
 否、望まずして持っていた力が、その願いをかなえた。

 砕け散った彼女の半身は、欠片となって大気を漂い、その下で生きる人々の心を侵食する。
 彼女の望む方向へと、その心を誘導する。
 悪魔のように狡猾に、機械よりも純粋に、誰にも悟られることなく、彼女に都合よく世界を造り返る。
 うやむやのうちに進む世界再建。憎悪を忘れた人々。何の疑問もなく、彼女を友人として迎えた同級生。……彼女を親友と呼んでくれた赤毛の少女と、優しく笑ってくれる少年。
 ぬるま湯のように心地よい、彼女が彼女の大切な人たちと笑って暮らせる箱庭。

 どう言葉を取り繕おうが、それは侵略であり陵辱だった。
 彼女は彼女の勝手で、この星に生きるすべての人間を欺き、弄んでいる。

 ――レイはこのとき、自分が恐怖と同時に奇妙な安堵を覚えていることに気付いた。
 唐突に彼女を支配した訳のわからない衝動、ずっと心に秘めておかねばならせなかった秘密を漏らしてしまった理由に気付いた。
 ずっと怯えていたのだ。
 罪は、例え誰に裁かれることがなかったとしても、当の本人がそれを罪として認識している限り、生それ自体を贖罪として要求する。
 そう、ずっと怯えていた。
 誰かに知られることを――とりわけ彼に知られることに怯えながら、一面でそれを望んでいた。
 だって、彼に知られてしまえば、もう怯える必要はないのだから。
 他の誰に嫌われても、まだ耐えることは出来る。
 けれど、彼に嫌われたら、彼女はすべてを失う。
 何の未練もなく、この世から消え去ることができる。
 安らぎと隣り合わせの恐怖を、終わらせることができる。

「…………」
「…………」

 沈黙。
 時計の秒針が、両手の指で数えられるていどに進む、たったそれだけの沈黙が、やけに重い。

 けれど――彼女は思った。
 一年前、彼に告白したときのことを思えば、今の沈黙はそれほどではない。
 だから、彼女は思いもかけず静かな気分で、彼の言葉を待った。


 やがて、シンジはいった。



「いいんじゃない?」

 

 彼女は驚いて、彼の横顔に視線を落とす。
 碇シンジは相変わらず、優しい顔で、眠り落ちたアスカの髪を梳いていた。

「どんな経緯によったとしても、世界は平和で、僕らは楽しく暮らしてる。それでいいんじゃないかな」
「……でも!」
「それに、君は勘違いしてるよ」

 シンジは空を見上げた。

「綾波がどう思っているのかは知らないけど、どんな使徒も――そう、万物の母と呼ばれたあの女神ですら例外でなく、億単位の魂、心を操作するなんてできやしない。
『彼女』の力はそういう類のものではなかったし、今となっては尚更だ」
「……碇君……!? もしかして、記憶……!!」

 心臓が止まるような気分で反問したレイに、シンジは朝食の献立を告げるような口調で、

「どうでもいいようなことをいちいち覚えている人間も、世の中には稀にいるものでね」

 彼らしい、自分自身に対してすら皮肉と揶揄を含んだ物言いだった。

「――そしてそういう人間は、どうでもいいようなことにもいちいち気付いてしまう。
 その見解によれば、あの紅い大気にできることはただ一つ」

 月を彩る紅に目を留め、軽く微笑する。

「ほんのちょっとした、近くにいる人たちの心の動き……雰囲気みたいなものを、感じ取らせるくらいさ。
 それだって、超能力めいたテレパスなんて代物には程遠い。
 落ち込んだ人間の暗い雰囲気、喜んでいる人間の明るい雰囲気を、多少は敏感に感じ取れるようになる、そのていどのものだ。
 言い方を変えれば……『他者の心をより身近に感じ得る』こと。ただそれだけ」

 レイは呆然とその言葉を聞く。
 その表情を横目で観察しながら、シンジは悪戯小僧のように笑った。

「ヒトは結局、自分たち自身の心によって、今の世界を作ったんだよ。
 誰だって、恨まれるよりは優しくされた方がいい。優しくされたから優しくなる。
 ただそれだけのことに気付いただけだけど、ただそれだけで世界は穏やかに回り始めた」
「…………」
「それに、もう一つ」

 何故かしら、遠くを見る目つきで彼はいう。

「あの紅の大気は、とうの昔に――それこそ発生したその瞬間から、何者の意思からも関わりをなくしているよ。
 あれはあくまで、かつて女神であったものの残骸であって、それ以上のものではなく……その分身は、すでに一人立ちしている」
「…………!?」
「気付いてなかったかい? 綾波、君は自覚していないようだけど、実際のところは君自身もあの紅い大気の影響下にあるんだ。
 例えば、そう、自分一人の殻に閉じこもることを放棄して、どこぞの甲斐性なしに告白しようなんて考えつく程度には」

 そういったシンジの顔は、照れ隠しのつもりか頑として空に向けられていた。
 彼の横顔にから視線を逸らすことが出来ないレイとは対照的に――あくまで平静に、それはいつも通りの彼で。

 ――どんな器用な人間でも、自分で自分の襟首を掴んで持ち上げることは出来ない。
 彼女の視線を感じながら、シンジはつらつらと考える。
 レイ自身がそれに気付いていなかったというのは、彼にとっては新鮮な驚きであると同時に、いささかならず呆れた事実でもあった。
 というより、事実を誤解した上で、さらに延々悩んでいたということについては、もはや呆れを通り越してため息しか出ないほどだった。
 かつての彼自身を考えればあまり大きな事は言えないかも知れないが、内罰的なのにもほどがある。
 また一方で、なめられたものだ、という気もする。
 仮にあの紅い大気があろうとなかろうと、綾波レイ、彼女の人格を知った自分やアスカ、クラスメイトたちが今と態度が違っていたなどとは、シンジはまったく考えていない。
 もっと素直に人を、自分を信じればいいものを。
 そのきっかけを、あの紅い大気は与えてくれたはずだ。
 そう、彼自身がそうであったように。

「もっとも――」

 シンジはぽつりと、どうでもいいことのように付け加えた。

「あの紅い女神の亡骸にしても、万能じゃないんだけどね。
 ごく一部のことに関する限り、どうあっても影響を受けつけない人間もいる。
 例えば――」

 シンジはレイをちらりと見上げてから、もう一度、手元の赤い髪を梳いた。わずかに動く気配があった。
 わずかに口元を動かしてから、彼は続ける。

「――例えば、人の顔を見ると文句ばっかりつけてくる意地っ張りとか」
「たまたま同日に二人の女の子から手紙を受け取って、うち一人からは間違いようのない告白をされたのに、一年も返答を保留している甲斐性なしとかね」

 眠っていたはずの少女の声が、何気なくそれに続いた。
 シンジは驚いた様子もなく、

「……タイミングが悪かったとしか言いようはないね。だからといって、たまたま先に時間を指定した方に乱入することもなかったと思うけど」
「――手紙に書いた時刻を三十分早めて置けばよかったって、後になって思ったわよ」

 目を閉じたまま、赤毛の少女は囁くようにいった。

「眠ってたんじゃなかったのかい?」
「……眠っているわよ、今も。だから、これは寝言」
「……寝言、ね」
「そうよ、ただの寝言」

 シンジは困ったような顔でレイを見上げた。ほらね、とばかりに肩をすくめて見せる。
 それに対し、レイは戸惑いという状態を全身で表現した。口の中で何かを呟きつつ、忙しく視線を上下させたのだ。
 自分がどう反応し、何を言うべきか、このときの彼女にはまったく見当がつかないでいた。
 彼女はやがて、少年の膝の上の赤い頭に向けて途方に暮れた声をかけた。

「セカンド……」
「ぐーぐー」

 わざとらしいいびきでアスカは応える。

「その……」
「ぐーぐーぐー!」

 かなり力の篭もったいびきという妙なものを、しつこくアスカは発した。
 寝ている人間に声をかけるな、といいたいらしい。
 あまつさえ、睡眠中だというパフォーマンスのつもりか――あるいは、かつてついにできなかった告白の、ささやかな穴埋めのつもりか――彼女は寝返りを打って、少年の膝を抱え込むように手を回す。

「人の睡眠を邪魔しちゃいけないよ、綾波?」

 吹き出す寸前の表情で、シンジがいった。

「ぐーぐーぐーぐー」

 まさにその通り、というように、アスカがいびきを立てる。

「…………うん」

 うなずいたレイは、このとき、何故だか大声をあげて笑い出したくなっている自分に気付いた。
 訳のわからない唐突な衝動、という点では先刻と共通している。
 けれど、今の衝動は奇妙なほどに陽性で、愉快で、嬉しくて、そして暖かかった。

 堪えようとして、でも、堪える必要がないことに、レイは気付いた。
 だって、他の二人も同じ気分であることがわかってしまったから。

「…………ぷっ」

 最初に限界を迎えたのが誰であったかなど、三人ともわからなかった。

 レイはフェンスにもたれながら。

 アスカは文字通り腹を抱えて。

 そしてシンジは、空を見上げながら。

 涙が出るほどの幸せを噛み締めて、三人の子供たちは笑い転げた。




 やがてこの紅の大気も晴れる日が来る。
 空が元の青さを取り戻す日が来る。
 女神は一人の少女を産み落とし、その本懐を遂げてしまったから。
 最後に女神が残したこの大気も、その余命は残り少ないだろう。

 紅い箱舟に揺られて進むこの世界は、再び青い虚空に放り出される。

 けれど、優しくしたときの愛しさと、優しくされたときの喜びは、いつまでも人々の記憶に残り続ける。

 それがより多くの幸せを生み出すことを祈って。
 今はただ、この優しい空気に身を委ねよう。


 東の空から陽が昇る。
 明け方の光が照らし出す。
 安らかな寝息を立てる子供たちを照らし出す。


 ――第参新東京は常夏の街。
 今日も暑く、騒がしい一日になりそうだった。

 


 

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