私の下に従いなさい
もしも貴方が世界を得たいのなら

私の友になりなさい
もしも貴方が天を望むのなら

私の敵に回りなさい
もしも貴方が彼を欲するのなら

          Frederica Bernkastel

 

 

 

 

 

 

 

 つまるところはきっかけなのだ、と彼女は思った。
 突破口、とっかかり、第一段階、足がかり、橋頭堡、基礎工事――まぁなんでもいいが、とにもかくにも行動を起こさなければ何にもならないことだけははっきりしている。
 彼の方にいささか鈍感・晩熟な傾向があるとなれば尚更だ。
 ――客観的に考えて、同級生としてはいささか親しい関係になれたとは思っている。
 だが、それだけで満足してはならない。
 一時はそれでもいいかと思えたが、今ではそれこそが弱気の証拠なのだと自覚できている。
 そう、明日のために、さらなる一歩。
 その一歩は、人類的には取るに足らないささやかな一歩であるかも知れないが、自分的には大いなる一歩になるはずなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

ひぐらしはなかなかった

其の壱 園崎魅音の悩み

七瀬由秋

 

 

 

 

 

 

 

 暦は七月も半ばを過ぎていた。
 かの凄惨なる雛見沢大暴動の記憶も徐々に薄らぎ――というより、好んで話題にしたがる者が皆無であったという方が正しい――、雛見沢唯一の学校の唯一のクラスでも、その日の終業を告げる鈴の音は軽やかに響き渡った。

「あー、終わった終わった」

 前原圭一は大きく伸びをしながらため息をつく。
 勉強よりも遊びの方が本職といわんばかりの、年頃の少年らしい仕草ではあったが、その手足にいまだベタベタと貼られている絆創膏やガーゼの類が実に痛々しい。

「お疲れ様、でございますわね」

 と、圭一の様子を見ながら沙都子がいった。かの大暴動以来、彼女は圭一を素直に気遣うことが多くなっている。

「今日は、病院に行かなくても……?」
「二日前に行ったばかりだからな。俺としてはもう自力で完治させられるんじゃないかと思ってるんだけど」
「無理をしてはダメなのですよ。お医者さまが来いと行ってるからには、素直に従うのです」

 梨花が圭一の頭を撫でながら口を挟む。
 実際、当初全治三ヵ月と言い渡された圭一の負傷は、本来はいましばらく病院での療養を必要とするものだったのだ。半月前に患った胃炎と胃潰瘍も、快方に向かっているとはいえ油断はできない。
 ならば何故、現実に今こうして退院どころか登校までしているのかといえば、それは入院中に連日彼の病室で行われた熱烈極まる看護法に理由が求められる。

『はい、圭ちゃん。林檎剥いたよ。あーん』
『魅音さん! 圭一さんは、さっき昼ご飯を食べたばかりなのですわよ!?』
『圭一、ボクが添い寝して上げるのです。子守唄もいりますですか?』
『はぅぅ、レ、レナも添い寝していいかな? かな?』
『こらぁぁっ! 梨花ちゃんもレナも、何やってるの!?』
『……ちっ』
『り、梨花?』
『? 何ですか、沙都子』
『い、今、「ちっ」って……』
『何のことですか、沙都子?』
『い、いえ、ですから……』
『何のことですか、沙都子?』
『な、何でもございませんですわ!!』

 静粛であるべき病院の一角が、まるで戦場の如き熾烈で凄愴な空気に満たされていた――と、ナースの一人は後に語っている。
 一事が万事この調子であったため、圭一の病室も当初は六人用の大部屋であったのが、その日の午後には個室に移され、最終的にはワンフロアを丸ごと一人で貸しきる状況になっていた(周囲の病室の患者が次々と退院・転院して行った)ほどであった。ちなみにこのことは、その後様々な脚色を経て「興宮市立病院第6病棟には魔物が棲む」という都市伝説として語り継がれることとなる。
 かくして一週間前。圭一が退院を申し出たとき、担当医はそれでもいささかの躊躇を見せたものだが、「このままだと俺は素で死ねます」と真顔で訴えると、涙ながらにうなずいてくれたものだった。

「……まあ、俺のことはともかくとして」

 苦い思い出を振り払い、圭一はいつもの部活メンバーを振り返った。

「今日はどうするんだ、魅音? やっぱり……」
「あ、うん。ごめんね。おじさん、今日もバイトがあるから部活はお休み」

 すまなさそうに魅音はいった。

「明後日くらいからぼちぼち時間ができるから、それまで英気を養っててよ、皆」
「おーけーなのです。楽しみにしてるのですよ」
「無理はしないでね、魅ぃちゃんも」

 頭を下げる魅音に、梨花がにぱーと笑い、レナがフォローを入れる。
 まさに大暴動以前の日々の再来に、圭一と沙都子は密かに視線を交わし、うんうんとうなずき合った。麗しき義兄妹の絆は今なお継続している。
 ちなみに、これはまったくの余談であるが、一ヵ月前に校内を戦慄と恐慌の渦に叩き込んだフリフリワンピース(深窓の令嬢仕様)は、現在では園崎本家邸宅の奥深くに封印されている。
 一連の惨劇を見届けた知恵先生が、人が獣と決定的な外見的相違を成す衣服という文化にはその国固有の歴史風土によって培われたTPOというものがありつまりは状況に応じた服装という概念があるわけで例えばフリフリワンピースなるものはまことに遺憾ながら学校及び日常生活に対応していないのではないか――という高踏かつ深遠な文化論を生徒一同の前で五時間ほどぶっ続けで説いた、まさにその結果であった。
 一日分の授業時間を潰してまでそのような偉業を成し遂げた知恵留美子先生こそは真の教育者、荒廃した日本教育界を救うジャンヌ・ダルクである、とは以来雛見沢の少年少女たちが絶対の敬意を込めて語る評である。もちろんその急先鋒が前原圭一であることはいうまでもない。これまたまったくの余談であるが、後日知恵先生には生徒有志により世界のカレースパイス詰め合わせセットが進呈されている。

「んじゃ、俺、先に帰るわ。また明日な」

 断りを入れてから、圭一は鞄を担ぎ直す。
 学校に来ているのに部活がないというのは何か物足りない気分ではあるが、負傷が治りきっていない体にはむしろありがたいのも事実ではあった。静養するに越したことはなく、急な運動などは持っての他、と医師からきつく申し渡されてもいる。本来ならば、いまだ入院しているべき負傷であることに変わりはないのだから(もっとも、当初全治三ヵ月と診断されながら、一ヵ月ほどでそこまで快復しているというあたり、圭一も着実に雛見沢に順応しているといえよう。本人はこのような面で順応したくはなかったろうが)。

「圭一、さよならなのです」
「また明日ですわ」

 名残惜しげに挨拶する梨花と沙都子へ後ろ手を振りながら教室を出かけた圭一を、

「あ、圭ちゃん……」

 と、魅音が呼び止めかけた。

「ん?」

 振り返る圭一と、

「どうしたの、魅ぃちゃん?」

 それに追従するレナ。前原屋敷の近所に家がある彼女は、当然の如く圭一と一緒に帰る準備を整えていた。なお、これは前々から続いていたことで、特になにがしかの意味合いを含む行動ではない。
 魅音はしかし、レナの台詞に何か怯んだように顔を強張らせ、ややあってから続けた。

「……ううん。じゃ、また明日ね」
「お、おう」

 微妙に調子が狂った様子で圭一は答え、レナを促して踵を返した。
 ――園崎魅音、彼女がそのポケットの中で映画のチケットを握り締めていることに気付かないまま。

 

 

 同日、夕刻――
 実質的な根城にしている興宮のマンションの一室で、園崎詩音は何かに耐え忍んでいるような声と表情でいった。

「――お姉。お姉が悩んでいるのはよーっくわかります。ていうか知ってます。ええ、私にも経験があることですからね? 年頃の女の子であるところの私たちにとっては、何より重要で困難な悩みであることもよーっく理解できます」

 一つ息を吸い込んで、詩音は続けた。

「……だからって毎日私の所へ来て泣き明かすのはそろそろやめにしませんか。これで七日連続ですよ?」
「ううう……詩音んん……」

 床に直にあぐらをかいた詩音の目の前、ハンカチを目許に当ててさめざめと泣いていた魅音は途方に暮れたように顔を上げた。

「だって、だってさ。断わられたらどうしようかって……」
「だったら次の機会を待てばいいでしょう」
「圭ちゃん、まだ怪我が治り切っていないし……」
「映画鑑賞でどんな体力を使うんです」
「皆の前だと恥ずかしくて……」
「帰ってから電話すればいいだけのことじゃないですか」
「お、お金の都合とかも……」
「何のために小父さんの所でバイトしてるんです。デート資金のためでしょう? 割り勘にすれば経済的負担は最小限ですし、そもそも喫茶店に入るにしても園崎の親戚筋が経営してる所なら割り引きもしてくれるでしょうが」

 いちいちもっともな問答だが、実はこれが七日連続(つまり圭一が退院して以来毎日)で繰り返されていたりする。いい加減答えるのが面倒になっている詩音を責められる人間は、この世に存在しないだろう。

「いいですか。もう少しで夏休みではありますけど、そうなれば他の皆も圭ちゃんを誘って連日遊びまくるのは目に見えてるんです。その前に先手を打ってデートしたいっていうのは正解です」
「で、デートだなんてそんな……た、ただ、たまたま映画のチケットが二人分あるから、何かと迷惑かけてるお詫びに圭ちゃんを誘うってだけで……」
「あー、はいはい。そうでしたね」

 相変わらず煮え切らない姉に、詩音はため息をつく。
 正直な話、圭一を巡る微妙な関係にはあまり関わるつもりはないのだ。人の色恋沙汰に首を突っ込むものではないと常識的に判断しているし――それに、何故かそのことについて考えていると、原因不明の頭痛に襲われることがある。
 月光を背にした人影とか斧とか「かな? かな?」という声とかいろんなイメージが脳裏を駆け巡るのだが、それが何を意味しているのかは自分でも不明だ。もしかして、かの大暴動の翌日、自分が半死半生で発見された一件と何らかの関わりがあるのかも知れないが、本能とか第六感とかが「関わるな」と喚き散らすので深く考えないようにしている――園崎詩音、彼女は間違いなく人として賢明であった。
 まあ、ともあれ。
 そうした諸々の事情があっても、頼られればとりあえずアドバイスをしてしまうあたり、我ながら人がいい。

「デートだろうがお詫びだろうが、とにかく誘わないことにはどうにもならないんですよ? 圭ちゃんが何らかの突発的気まぐれで『なー何故か無性に映画が見たいんだけどチケット持ってないか?』なんて言い出す可能性ははっきりとゼロなんです。理解できますね?」
「う、うん……」
「よろしい。でしたら、さっさと電話でも何でもして圭ちゃんを誘うといいです。何なら今ここの電話を使っても構いませんよ? つか、使え」

 壁際の電話台から、この時代では最新式ともいえるプッシュホンを取り上げ、ずずいと突きつける。
 唐突に抜き差しならない状況へ陥った魅音は「ええっ」とか「そ、そんな」などとうめいているが、取り合うつもりはまったくない。また明日も同じ悩みで泣きつかれるかもと思えば、このていどの強引さは許容されて然るべきだ。

「う、うう……」
「覚悟を決めるんです、お姉! 当たって砕けても本望じゃないですか!」

 叱咤し激励する詩音。つくづくよく出来た妹である。

「万が一、そう万が一にも断わられることがあったとしても、デートに誘いたいっていう気持ちだけは伝えられるんですよ!? それだけでも立派な前進じゃないですか!」
「そ、そうかな……」
「このままずっと『男みたいなお友達』で終わりたいんですか! 女として見られたい、やり直したいって泣いた、あの日の涙を思い出すんです!!」
「!!」

 その言葉は雷のように魅音の体を打ち据えたようだった。
 それまで狼狽をあらわにしていた表情が、鞭で殴られたかのように明晰になる。

「勇気を出して進んだ者にこそ、勝利の女神は微笑む――そのことはお姉が一番よくわかっているでしょう!」
「そう……そう、だよね!」
「わかってくれましたか!」
「うん、ありがとう、詩音……! 私、もう迷わない!」
「お姉……!! 来るべき勝利の栄光は貴方のものです!」

 いつの間にやらデートの誘いというより戦地に赴く兵士への激励になっている気もするが、内実にもそれほど差はなかったりする。
 たかが映画の誘いといってはいけない。
 園崎魅音――雛見沢という無菌の箱庭で育った少女。
 本家の次期頭首として教育も受ければ経験を積んでもいても、彼女は本質的に「箱入り娘」なのだった。年頃の娘らしいあれこれについては恐ろしく疎い。ありていにいって、世間知らずといってよいほどに。

「さあ!」

 差し出された電話の受話器を、魅音は震える手で取り上げた。
 耳に当て、震えの止まらないままの指で、それでも迷いなくプッシュホンを押していく(前原家の電話番号は、何を見なくとも暗唱できるほどに記憶しているらしい)。
 無言のままに見守る詩音の目の前で、いくばくかの時が流れる。
 受話器の向こうで呼び出し音が微かに鳴るのが、詩音の耳にも聞き取れた。
 そして――ぷつ、という、通話の始まる無機質な機械音。

『――はい、前原です』

 緊張の余りか、魅音が受話器と耳元にいくらか隙間を空けているため、相手の声が明瞭に聞き取れる。
 圭一の声だ、と詩音は断じた。
 魅音はしかし、その判断すらもつきかねているようで、

「わ、わたくし、そ、園崎魅音、園崎魅音、園崎魅音と申しますが――」

 あんたは選挙の立候補者ですか、というツッコミを、詩音は慎み深く呑み込んだ。

『おう、魅音か。どうした?』

 予想通り、電話の相手は圭一その人であったらしい。
 さて、これからが勝負――と双子の姉の姿を見直し、詩音は新たな不安に駆られる。
 魅音は呼吸困難でも起こしたかのように真っ青になり、ぜーはーと息を整えていた。
 ややあってから、彼女はいった。

「け、圭ちゃん……」

 裏返る寸前の声音であった。

『な、何だ? 声が変だぞ、魅音』
「そ、その……」
『ん?』
「え、えい……」
『えい?』
「え、エイブラムズ戦車よりもやっぱりレオパルトだよね。それかやっぱりメルカバ」
『……すまん。戦車には詳しくない』

 ――詩音は無言のままに、スリッパで姉の頭をぶん殴った。
 とてつもなく甲高い、それでいて妙に爽快な音が室内に響き渡り、魅音は涙目でうずくまる。

 ……あほですか、お姉は!

 姉妹だけで通じるブロックサインを駆使して、詩音はそう罵る。

 で、でも……

 受話器を抱えながらやっぱりブロックサインで弁解しかける姉に、

 ……これ以上引っ張るようなら、私がお姉を装って電話に出ますよ。放送禁止用語の限りを尽くした罵詈雑言を叩きつけてやりますが、それでもいいですか?

 据わった眼でそう伝達する詩音。ちなみに、これだけ複雑な文章をブロックサインで伝えるというのは傍目にはかなり間抜けで不気味な動作になってしまっているのだが、本人は気付いていない。
 ともあれ、双子の妹から強烈な脅迫を受けた魅音はびくりと背筋を震わせ、

「け、圭ちゃんっ」

 半ばは自暴自棄、半ばは決意に満ちた声を発した。

『お、おう』
「明後日の日曜日、映画見に行かないかなっ!? バイト先の小父さんがたまたま無料券くれたんだけどっ」
『へー、そりゃいいね。ご相伴に預かるよ』

 こちらの状況を理解していない(できる人間などいたら変人だろうが)呑気な声音で、あっさりと、ひどくあっさりと圭一は誘いを受諾した。

 ……よくやりました、お姉。上出来です。

 うんうんとうなずきながら、(やっぱりブロックサインで)姉の勇姿をたたえる詩音。
 ちなみにその姉は、やり遂げたという充実感とそれがかなえられた歓喜から、天を仰いで感動に震えている。
 お姉にしては上出来――もうそろそろいいですね、と詩音は口の中で呟いてから、おもむろに受話器を奪い取った。

「『それじゃ、朝の九時頃に迎えに行くから自転車用意して待ってて。映画終わったらお昼ご飯でも食べに行くから、そのつもりでね』」

 姉の口調を真似て、詳細を補足する。まさによくできた妹であった。

『OKOK、楽しみにしてるよ』
「『ああ、それと、一つだけ。いうまでもないことだと思うけど』」
『何だ?』
「『デートだからね。おめかしして来てよ』」

 最後の台詞は、さんざん苦労させられた憂さを晴らす、詩音らしい茶目っ気だった。
 受話器の向こうで何か慌てまくった気配があったが、詩音は構わず電話を切った。
 同じく慌てまくっている目の前の姉に対して、澄ました顔で口を開く。

「というわけで、よかったですね、お姉。お姉もちゃんとおめかしして――ああ、当日の服も私が見繕って上げますから、ご心配なく」
「ししししし詩音」
「何か問題が?」

 あるわけないでしょうそうでしょう、という言外の含みを持たせて詩音は腕組みする。
 魅音はそれこそ何かのブロックサインのようにあたふたと両手を動かしてから、小さくうなずいた。

「……ありがと、詩音」
「いえいえ」

 満足げにうなずいてから、詩音はふと気付いたように訊ねて見た。

「そういえば、肝心のところを聞いてませんでしたね。何の映画を見に行くんです?」
「う、うん。今、結構話題になってる映画らしいんだけど……」

 魅音は照れながら、ポケットからチケットを取り出した。
 よほど大事に扱っていたのだろう、折り目一つついてないまっさらなチケットに、「無料招待券」という印刷と、

 悪魔の臓腑 〜亡者は地獄で笑う〜

 というタイトルが貼りついていた。

「…………」
「お、面白いって評判なんだよ。見た人が失神したって噂もあるくらいで」

 ――繰り返し、いおう。
 園崎魅音――雛見沢という無菌の箱庭で育った少女。
 彼女は、年頃の娘らしいあれこれが致命的に疎かった。

 

続く


後書き

「ひぐらしはないているか」の続編ですー。いつの間にシリーズになったのかは不明ですが。
 一応、この「ひぐらしはなかなかった」は中編として予定していますので、三話ていどで完結することになるかと。
 にしても、我ながら最近は結構ギャグばかり書いてるような気もします。いかん、ダーク分をそろそろ補充せねば。

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