昔々のその昔、鬼と人とが恋をした。
 例え仏が怒ろうと、恋の炎は止められぬ。

 昔々のその昔、鬼と人とが子を成して。
 例え冥府に落ちようと、親子揃えばまた楽し。

 今は昔の物語り、伝える者とて絶えて無し。
 鬼が裔に当たる子は、今日も何処かで笑ってる。

                 Frederica Bernkastel

 

 

  

 

ひぐらしのないた後

七瀬由秋

 

 

 

 

 

 

 じりりりり、と目覚し時計が鳴っていた。
 前原圭一は寝床から手を伸ばし、しばらく何もない空間をうろうろと探ってから、ようやくのことでスイッチを切る。

「……んーっ」

 大きく伸びをして、眠気を振り払う。
 季節は六月初頭。
 夏の足音が聞こえつつも、気温はまだまだウォーム・アップ段階。
 朝の空気は素肌に心地よく、清々しい目覚めをもたらしてくれていた。
 最後に一つ欠伸をして、睡魔の残滓を追い払う。
 次いで、布団の側に折り畳まれていたトランクスとズボンを履きつつ、彼は傍らに眠る女を揺り起こした。

「おい、魅音ー、起きろー」
「……うー」

 女――魅音は、素肌にシーツを纏わりつかせながら丸くなる。
 彼女は何気に寝起きが悪い。

「講義に遅れるぞー。すでに出席率がやばくなってる講義もあるんだろうが」
「……代返しといてー」
「できるかっ!」

 シーツの隙間から覗く頭に、圭一はびしりとツッコミを入れる。

「馬鹿なことをいってないで、さっさと目を覚ませー!」
「…………私が寝てても……地球は回る…………」
「自転が止まってもお前は起きろ!」
「圭ちゃんも……一緒に寝ようよー……二人、布団で一緒にぬくぬく……」
「レナたちもそろそろ来るんだぞ?」
「…………」

 丸まったシーツの中で、何か黙考している気配があった。
 やがて、魅音はぼんやりとした声でいった。

「……羞恥ぷれー?」
「……寝ぼけた頭で言ってるようだが、我に返った後で絶対に後悔するぞ、その発言……」

 こめかみを押さえて呻いてから、圭一はふと気付いたように呟いた。

「……一考の価値あるかもな。そろそろマンネリ気味かとも思えてきたし」

 結構マジな声だった。
 シーツの塊の中で、今度はさらに何事か吟味する気配があり、次いでようやく現実を認識した様子で彼女は跳ね起きた。

「けけけけけけ圭ちゃんっ!?」
「おはよう、魅音」
「おおおおおおおおおおおおはようっ! きょ、今日も良い朝だねっ!」
「うむ。ところで魅音。さっきの素晴らしい提案についてだが」
「なななななななななななななななななななななんのこと!?」

 想いっきり不自然に、魅音はしらばっくれた。
 圭一は先刻までとは打って変わった、いっそ朗らかですらある笑みを浮かべつつ、

「大丈夫大丈夫。最初は嫌でもそれがいずれ快感に」
「そんなえろえろ小説みたいな展開、ありえないってっ!」
「可能性は実地で試行錯誤を重ねなければ何事も確定しない」
「確定したくないよ!」
「チャレンジ精神はいつだって必要だ」
「別の方向にチャレンジしてーっっ!!」

 かなり悲痛に魅音は叫んだ。さり気なく圭一がにじり寄ってきているとあれば尚更であろう。シーツを体に巻き付けながら、彼女はじりじりと後退った。
 ズボン一丁の男が、全裸にシーツだけを纏った女をゆっくり追い詰めていくというのは、見る人が見れば確実に110番を回すであろう光景であったが、あいにくこのマンションの一室にはきっぱりと彼ら二人しかいない。

「恐れるな魅音。迷いを捨て、心を開くが良い」
「け、圭ちゃん、それは怪しい宗教の教祖の台詞だよぅ……」

 戦慄と混乱の余り幼児退行したような表情で、魅音は弱々しく呻く。乙女の貞操はかなりの勢いで風前の灯だった。
 しかし、神は彼女を見捨てなかった。
 リビングから、玄関チャイムの鳴る音が響いてくる。
 次いで、どんどんとドアを叩く音も。

『圭一くーん、起きてるー?』

 とどめに、ここ五年ですっかり耳に馴染んだ声。
 圭一が一瞬、それに気を取られた隙を、魅音は見逃さなかった。

「さ、さー、支度しなくっちゃ! 忙しいなあ!」

 わざとらしく呟きつつ、しかし動作は音速の域に達していたかも知れない。
 シーツをガウンか何かのように体に巻き付けながら、魅音は訓練された兵士の如き無駄のない動作でベッドルームから逃げて行く。
 さすが、伊達にDカップのブラジャーはしていない(←?)。
 圭一は「ちっ」と呟いて指を鳴らすと、やむなくシャツを羽織った。

 

 

 鹿骨大学法学部二回生・前原圭一。
 鹿骨大学政治学部二回生・園崎魅音。
 鹿骨大学心理学部二回生・竜宮礼奈。
 ――元号が切り替わったばかりのこの年における、それが彼らの肩書きだった。

「圭一君、おはよー!」

 ドアを開いた彼を、レナは出会った頃から変わらぬ溌剌とした笑顔で迎えた。二十歳になって髪を若干伸ばし、色気らしきものも漂わせているのだが、明るい世話好きという印象はいまだに変わっていない。

「おう、おはよう。まあ入れよ」
「うん、お邪魔しまーす」

 勝手知ったる他人の家、とばかりにレナは遠慮なく靴を脱いで上がりかけ、

「……魅ぃちゃんも、もう来てたんだ?」

 玄関口に並ぶ靴の一つを、目敏く見咎めた。

「お、おう。まあね」

 圭一はさり気なく視線を逸らしながら答える。いうまでもなく魅音は昨夜この部屋に泊まり込んでいるのだが、一応は世間体を慮って「朝早くに遊びに来ていた」という風に説明してある。圭一本人はともかくとして、園崎本家の次期頭首たる魅音には何かと厄介なしがらみがあるのだった。レナがそれをどこまで信じているかは別問題だが。

「ふぅん……」

 レナはにっこりと笑い、

「圭一君と魅ぃちゃんって、相変わらず仲好しだよね」
「ま、まあ、いい加減付き合いも長いしな」

 あさっての方向に視線で唐草模様を描きながら、圭一はのたもうた。口はうまいくせにこういうときの演技は大根そのものである。
 ちょうどそのとき、ようやく着替え終わったらしい魅音が、洗面所から顔を出した。

「おはよ、レナ。今朝も早いね」
「魅ぃちゃんほどじゃないよ? 先を越されたの、今月に入って七回目だよね」

 いちいち数えている辺りが恐ろしい。しかも、満面の笑顔である。

「あ、あはは。部屋が近いからね。それに、何だか最近目が冴えちゃって」
「へー、魅ぃちゃん、早起きできるようになったんだ?」
「ま、まあね」
「ご飯の支度、できてる?」
「あ、いや。これからだけど」
「じゃ、一緒にしよ? 圭一君、お味噌汁にご飯でいいかな? かな?」
「おー、もちろん異存はないぜ」

 キッチンへ向かうレナに答えながら、そっと冷や汗を拭う圭一であった。
 この興宮のマンションは、魅音の両親が所有する不動産の一つだ。鹿骨大学にほど近く、間取りは広く、駅のすぐ側という超優良物件だが、おかげでかなり格安で借りることが出来ている。
 とはいえ、学生に贅沢は許されない。
 基本は自炊、これは当然のこととして、さらにできる限り生活費を浮かすにはどうすべきか――答えは割と簡単に見つかった。原則として料理というものは、一人より二人、二人より三人分を前提に作った方が、一人頭のコストは安くなる。野菜などの生鮮食品はあるていど量を買った方がはるかに割安になるし、鍋に煮込むシチューの量が一人分だろうが五人分だろうが使うコンロは一つで済む。
 この点をレナが指摘し、朝夕の食事をできる限り共同で作って一緒に食べるよう提案したのだ。
 場所が常に圭一の部屋になるのにも、れっきとした理由がある。他の顔ぶれはいずれも年頃の女性、その部屋に押しかけるのを、そもそも圭一当人が遠慮したのだった。
 かかる食費は当然ながら頭割り、圭一の口座から引き落とされるガス・電気代についても、大雑把なところを計算して皆が支払うようになっている。
 そして、実際の調理に当たる当番については、これは圭一以外の面子の持ち回り――否、早い者勝ちである。どういうわけか、皆が揃って調理を引き受けようとするため、いつの間にかそうなってしまったのだ(圭一に当番が当てられないのは、単に料理が出来ないためと、食事の場を提供しているためである)。
 レナなどは特に料理好きなので、魅音が先に彼の部屋に「来ていた」事実にいささか割り切れないものを覚えたとしても不思議はない。不思議はないのだ、と圭一は己に言い聞かせた。

「ちなみに圭一君、お味噌汁の具は――」

 と、訊ねながらキッチンのドアを開けたレナが、その次の瞬間に固まった。

「ん? どしたの?」
「何だ?」

 後に続いていた魅音と圭一が訝しげに首を傾げつつ、レナの肩越しにキッチンを見やる。
 ――そして、やっぱり固まった。

「梨花ー、目玉焼きは六つでよろしかったですわね?」
「お願いなのです。ボクはサラダを作るのです」
「えーと、胡椒、胡椒……」
「沙都子、トーストにはバターでよかったですか?」
「今日はイチゴジャムの気分ですわー」
「わかったのです」

 揃いのセーラー服にエプロン姿も初々しく、忙しげに立ち回る二人の少女の姿がそこにあった。
 興宮高校一年、北条沙都子。
 同じく興宮高校一年、古手梨花。
 やはり、このマンションの住人である。でもって、当然ながら前原家会食メンバーの一員でもあった。

「あら、皆さん」

 ドアのところで立ち尽くす年長組三人に気付いたか、沙都子が振り返って口を開いた。

「おはようございますですわー」
「おはようなのです」

 当たり前のように挨拶してくる姿に、レナに感じたのと同種の恐怖を感じつつ、圭一は物理の限界というものについて考えていた。記憶が確かなら、レナを出迎える際にこのキッチンを通りかかったときは、きっぱり無人だったはずなのだが。

「さ、沙都子に梨花ちゃん! いつ、どっから入ったの!?」

 逸早く立ち直った魅音が詰問する。

「まあ、ご挨拶な。朝はおはようですわよ」
「そんなことはいいから! 大体、レナが来るまで玄関には鍵が……」
「魅音さん。人が住む部屋である以上、密室などというものは存在しないのですわよ」

 この世の真理を説くが如き沙都子の言葉を聞きながら、圭一は何となくベランダへと視線をやった。大窓の向こうに、この場にはまったくそぐわないロープが一本、頼りなく風になびいている。沙都子と梨花の部屋は、この部屋の真上にあった(ちなみに六階)。

「ちょっとドキドキしたのですよ」
「……何が君たちをそこまで駆り立てるというのだ、梨花ちゃん、沙都子……」
「圭一の驚いた顔が見たいお年頃なのです」

 今年十六歳、さらりとしたロングヘアに清楚な美貌でもって、高校ではかなりの人気を誇っているらしい古手梨花嬢は、にこやかに笑って答えた。

「暑くなってきたからといって窓に鍵をかけないのは無用心ですわよ、圭一さん」

 何故か偉そうに胸を張って沙都子が続ける。ちなみに彼女は、身長は同年代に比しても小柄ながら、プロポーションに関しては魅音に比肩するものを備えつつあるため、そうしていると胸元が異様に目立つ(こちらは学校ではややマニアックな人気があるそうな)。

「まあ、この家の厨房は私たちにお任せあって――レナさんと魅音さんは、どうかテレビでもご覧になってて下さいまし」

 手際よくフライパンの目玉焼きをひっくり返しながら、沙都子はいう。

「ついでに、夕食の仕込みも済ませておくのですよ。メニューはちゃんと決めてあるのです」

 これまた手際よく野菜を切りながら梨花が口を挟む。
 二人とも、自炊の経験が長いだけあって、いろんな意味で流れるようなコンビネーションであった。

「うぬぅ……」
「はぅぅ……」

 年少組二名に仕切られてしまった形の魅音とレナが、悔しげに唇を噛む。どういうわけか、非常に胃腸によろしくない光景であった。

「あ、ははははは、はは。それじゃ、頼むよ。沙都子、梨花ちゃん」

 引きつった顔で圭一がそういった途端、ぎろりと魅音が彼を睨みつけた。夢に見そうなほど凄絶な眼光だった。
 ひぃ、と危うくのことで悲鳴を堪えた彼に、彼女は目つきとは裏腹な静かな声音で、

「ねえ、圭ちゃん?」
「ははははははい、何でございましょうか」
「一緒にテレビ見ていよう」
「イエス・マム」

 軍隊よろしく敬礼で答える圭一であった。
 そのまま魅音に腕を引かれてリビングへ向かう彼に、

「ところで、圭一」

 調理の手を休めぬままに、梨花が首だけ振り返って声をかけた。

「な、なに?」
「一つだけ、いっておきたいことがあるのです」
「ん?」
「ボクなら、『しゅうちぷれー』でも何でもOKなのですよ?」

 ――その瞬間、時間が止まった。
 いや、止まっていたのは果たして時間であったか、それとも圭一の心臓の鼓動であったか。
 ともあれ、空白の一瞬、前原圭一が最後に確認した光景は――

「…………」

 明らかに確信犯な笑みを浮かべている梨花と、

「なななななななななな」

 ぼん、と音を立てないのが不思議なほど頬を紅潮させた魅音、

「…………??」

 一人首を傾げている沙都子に、

「圭一君、それは犯罪じゃないかなっ!?」

 ――かつて雛見沢で伝説を築いた黄金の拳、通称RFI(レナ・フラッシュ・インパクト)を放たんとするレナの勇姿であった。

 

 

「……朝っぱらから、何で臨死体験せねばならんのだろう……」

 かなり深刻な疑問を覚えながら、圭一は空を見上げた。

「あ、あははははは」

 魅音が赤くなった顔で苦笑し、レナはすまなさそうに俯いている。
 事の元凶ともいうべき梨花は「ボクには何のことだかわからないのです」とばかりににぱーと笑い、沙都子は相変わらず事情が理解できかねる表情で首を捻っていた。
 興宮の中央市街へと続く道のりを、彼らは歩いていた。
 朝方のこの時間、登校と通勤がピークに達するため、人通りはそれなりに多い。

「…………」

 その、通りすがる男どもの視線が、微妙に痛い。女子大生二人に女子高生二人、それも各々美女美少女と呼んで差し支えない群れの中に一人だけ男が交じっていれば、当たり前のようにそうなる。
 優越感を感じるべきシチュエーションなのかも知れないが、あいにく圭一はそういう神経とは無縁である。彼の感覚は、雛見沢の分校で馬鹿騒ぎを繰り返していた頃と、基本的には大差ない。
 魅音との関係だけは一概にそうとはいえないが――他のメンバーについても怪しいところは多々あるにせよ――、彼にとっての彼女たちはまずもって「仲間」なのだ。
 ともに笑い、騒ぎ、競い合った日々に培われた信頼は、今もって薄れていない。
 まあ――と、圭一は思い起こした。分校を卒業してもその縁が親密なまま継続するとは、さすがに意外でもあったが。
 この当時、大学への進学率は後代ほどに高くはない。それほど豊かとはいえない地方都市である鹿骨市においては尚更であった。
 圭一はそんな中、雛見沢分校に通っていた当時から早々と進学の意思を固めていた。勉強だけに血道を上げる生活とはとうの昔に縁を切っていたが、身につけた学術知識や受験のノウハウを生かすのは別に悪いことでもなんでもない。将来的にどこで暮らすにせよ、学歴というのはあって困るものでもないからだ。この点には、母親も熱心に賛成し、画家の父も反対しなかった。彼らは、都会にいた当時は受験ノイローゼ絡みで事件を起こしたこともある息子が、その過去を乗り越えて健全に未来を見据えている事実を素直に喜んでいた。
 意外だったのは、魅音とレナも同じく進学を志望したことだったろう。魅音はもともと高校卒業後は本格的に次期園崎家頭首としての修行を始める予定であったし、レナはレナで就職するつもりがあったからだ。
 それが、魅音は高校三年の夏という時期に、突然に進学の意思を表明した。これには、当時から既に恋人付き合いを始めていた圭一と同じ大学に通いたいという実に乙女らしい願望があったようだが、本人はそれを頑として否定している。曰く「園崎を継ぐには大学で学んでおいた方がいいこともあるだろうし」ということだったが、それを信じたのは圭一だけであったという(それはそれでひどく哀れな話ではあった)。
 心配されていた園崎家の反対は、特になかった。将来的に雛見沢を外に向けて発展させて行こうと考えていた園崎お魎は、次期頭首たる孫娘が大学で専門知識を学ぶのをむしろ奨励したらしい。そしてお魎の反対がない以上、他の親族にそれがあるはずもない。
 もっとも、知性は秀でていても根本的に学力が欠けていた魅音である。さすがに半年足らずで大学合格に必要な知識を詰め込むには至らず(というより、高校三年夏の時点で唐突に進学を志すということ自体、まともな教師なら「ふざけんな」と叫ぶだろう)、一年浪人をする羽目になったのだが、結果として圭一と同学年になれたのだからプラスマイナスゼロというものであろう。
 レナについては、本人よりも父親の方が進学に熱心だった。家計に負担をかけたくないから就職する、というレナに、彼女の父は苦笑しながら答えたのだった――お前にはずっと負担を強いてきた、少しは親らしいこともさせておくれ。
 そういわれてしまっては、レナとしても就職にこだわる理由はない。もともと竜宮家の家計は、以前からの貯蓄に加えて父がデザイン会社で熱心に働いていることもあり、心配の必要もないほど潤っていた。
 志望が文学部でも家政学科でもなく、心理学部であったことに圭一などは驚いたものだが、それについてレナは気恥ずかしそうにこう答えたものだった――将来、カウンセラーになれたらいいな、って思ってるの。
 結局、三人揃って鹿骨大学に入学した圭一たちは、興宮に居を移しての新生活を始めた。雛見沢から大学に通うのはさすがに不便であったし、親たちもいちいち反対はしなかった。
 さらに一年後には、興宮高校に進学した梨花と沙都子も同じマンションに引っ越してきた。
 もともと気楽な二人暮らし、その方が現実として便利だったとはいえ、それなりに思い切った決断だったといえよう。
 沙都子はともかくとして、梨花は御三家の一角・古手家の現頭首、伝統ある古手神社の主である。当然、公由喜一郎(彼は梨花の法的保護者でもある)などは猛烈に反対したし、村の老人たちも思い留まるよう懇願してきた。
 数ヶ月にわたる論争の末、最終的に反対者たちが渋々矛を納めたのは、何だかんだいって梨花には絶対的に甘い園崎お魎の鶴の一声――「見聞を広めたいっちゅう志を、何で邪魔してやるんね」――があったからだ。月に何度か神社に戻って祭具殿の掃除やいくつかの事務処理を行うこと、綿流しの祭事は例年通り執り行うことが進学に伴う条件として盛り込まれたが、その代わりに住居の手配や雑多な行政手続きも済ませてくれた上、「入学祝」と称して梨花と沙都子の三年分の学費をポンと支払ってくれたのだから、園崎お魎もつくづく気前がいい。
 かくして、かつて雛見沢分校で勇名悪名を欲しいままにした部活メンバーが、興宮のマンションにおいて再び集結するという事態が生じたわけである。
 それぞれの思惑が一致したためとはいっても、腐れ縁には違いなかった。

 

 

 商店街の手前で年少組と別れてから、圭一たちは鹿骨大学のキャンパスに到着した。
 鹿骨市ははっきりいって田舎の地方都市だが、だからこそキャンパスは広大な敷地を持っており、施設にも費用はかけられている。
 キャンパスについてからさらにレナと別れ、大教室棟へと向かう。
 学部は違えど、政治学部と法学部とでは、講義が重なることも少なくない。というか、魅音は不自然なまでに圭一と同じ講義を選択しようとするのだが、それについてのツッコミは野暮というものであろう。
 数百人が聴講できる大教室の、講師から遠すぎず近すぎない席に居座るや、魅音は早々と欠伸を噛み殺した。

「うー、眠いなぁ」
「しっかり起きてノートを取れ、魅音。お前、去年もそれでいくつか単位落としているだろう」

 昔取った杵柄というべきか、勉強に関して圭一は優等生である。
 魅音は口を尖らせながら、

「そんなこといったって、眠いものは仕方ないじゃない」
「言い訳になるか。高校までと違って、大学は自己責任なんだぞ」
「うるさいなぁ。……だ、だいたい、おじさんの睡眠不足には、圭ちゃんにも責任あるんだからね」
「……ま、まあ、そうかも知れないけどさ」

 お互い照れてそっぽを向き合うあたりが実に初々しい。

「……うーん、なら、責任取ってやろうか?」
「え、え? せ、責任って……」

 途端に顔を赤らめる魅音。何を想像したのか実にわかりやすい。
 わかりやすいはずなのだが、それに気付かないのが前原圭一という男であった。

「試験前には勉強見てやるよ。二十四時間態勢で」
「……は? て……、え……?」

 一瞬、惚けたように圭一を見直した魅音の顔が、ややあってから蒼く染まって行く。
 その脳裏に甦るのは、成績優秀で優しい彼氏との、じゃれ合いじみた勉強会――などではなく、浪人していた一年間に圭一から受けた、熾烈なる教育であった。

『この馬鹿女がぁぁぁ!! 中学レベルの問題だろうが! それすら間違えるとはどういう了見だ、てめぇ!?』
『そ、そんなこといったって……』
『口答えするな! お前が口を開いていいのは勉強の質問か飯を食うときだけだ! わかったらうなずけ! 木偶のようにうなずいてりゃいいんだよ、わかってるのか、ええ!?』
『…………!(こくこくこく)』
『うなずくのは一回だけだ! くそが、余分な体力使う暇があったら英単語の一つも覚えて見せろ!!』

『眠るなぁ! 睡眠などという贅沢を味わえる余裕があると思ってるのか、ああ!?』
『で、でも、おじさん、もう二日も寝てない……』
『まだ二日だろうが。明日になったら一時間仮眠させてやる』
『も、もう頭の中がぐるぐるしてて、何を勉強してるのかわからない……』
『人間の脳を甘く見るな。寝不足だろうが何だろうが、一度覚えたことは早々忘れるものじゃない。わかったらさっさと問題を解け! 泣き言いってるうちに二分も無駄にしちまってるだろうが!!』

『圭ちゃん、ひもじいよぅ……』
『そうか。だからどうした?』
『お……お願い、何か食べさせて』
『あと問題集を二冊終わらせたら食わせてやる。喜べ、なんと食パン半分だ』
『白いおまんまが食べたいぃぃ…………もう三日もろくに食べてないんだよぅ……?』
『甘ったれるなボケ! 胃袋に物を詰め込むと眠くなるんだよ! ええい、チョコレート一欠片に格下げだ!』
『お、鬼ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ』
『鬼の末裔はお前だろうが!! ざけたこといってると簀巻きにして沼に沈めるぞ、ああん!?』

『け、圭ちゃん? こ、これ、この間の模擬テストの結果……』
『おー、よく出来てるじゃねーか。前回からさらに点数がアップしてるな』
『で、でしょ?』
『もう少しで目標に届くな。よし、ノルマを二割増やすか』
『…………』
『ん? どうした魅音。立ちくらみか?』

 暴力こそ振われなかったが、それがまったく慰めにならないという恐ろしいスパルタ教育であった。
 かのケンタ君のモデルとなった元大佐とて、ここまで過酷な新兵しごきはやらなかったであろうと断言できる。
 まあ、おかげで一年の間に中学・高校六年間で学ぶほぼすべての範囲の知識を身につけて、鹿骨大学に合格できたわけだが。
 だがしかし、あのような生き地獄をもう一度拝みたいと思うほど、魅音は人生を捨てていなかった。

「お、おじさん、何か一気に眠気が覚めたよ。うん、超やる気。意気軒昂。もう単位なんて一つも落とさないね」

 唐突に情熱に満ち溢れた顔で国際政治概論のテキストを開く魅音を、圭一は不思議そうに見つめた。

「そうか。なら、いいんだが」
「うんうん! だから圭ちゃんも心配しないでね!」

 いえむしろ後生ですから心配なんてしないで下さいお願いします――といいたい園崎魅音。心に消えないトラウマを負った二十一歳。

「まあ、心配というほどの心配はしてないけど……魅音、一つ突っ込ませろ」
「なに?」
「今は行政諸法の講義だ。国際政治概論は明日だろう」
「……あ」

 お約束を外さない女、園崎魅音。

「やれやれ、先が思いやられるな。やっぱり勉強は俺が見てやらないと――」
「け、圭ちゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんんんんんんんんん堪忍してぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」
「何故泣く。ええいすがりつくな、何なんだ一体?」

 

 

「――というわけで、何故かそれから、魅音が絶不調なようなんだが」

 昼時の学生食堂、テーブルの一つでレナと向かい合いながら、圭一は首を捻った。話題の主の魅音は、お手洗いで席を外している。

「あ、あはははは。な、何でかな?」

 乾いた声でレナは相槌を打つ。彼女は一昨年の現実を知っている。というか、最初は一緒に勉強をしていたのだが、翌日から志望学部が違うことを理由に逃げたのだった(レナはそれなりに優秀な成績を維持していたので、圭一としても強いて引きとめる理由はなかった)。
 竜宮礼奈、通称レナ。引き際を知るクールな娘である。
 ――あのときの魅ぃちゃんは、市場に売られる子牛さんの目をしてたっけ。
 あまり懐かしみたくない思い出に浸りつつ、レナは水筒のお茶をすすった。
 ちなみに昼食は、例によって家で作ってきた弁当である。一つのテーブルで皆で弁当を突っつく、雛見沢分校時代から変わらないスタイルだが、現在彼らの弁当はすべて(この場にいない沙都子と梨花の分も)その日の朝の料理当番が手がけているため、かつてのようにおかずを交換し合うことはない。

「にしても魅音の奴、遅いな。俺たちを飢え死にさせるつもりか」

 手付かずの弁当を眺めながら圭一はぼやく。魅音は「先に食べてて」といっていたのだが、律儀に待っているのだ。もちろんレナにも異存はない。このあたりの律儀さは、仲間内では当然の作法として認識されている。
 卵焼き、きんぴらごぼう、煮つけ、エビフライなどなど、まばゆいばかりのおかずを圭一は見つめ、

「……沙都子も梨花ちゃんも、料理が上手くなったなぁ」

 感心したように呟いた。
 実際、部活年少組の腕前は、興宮に引っ越して以来飛躍的に進歩している。かつては当人たちの年齢及び家計の都合上、手軽さを重点に置いた料理を主体としていたのだが、今ではかなり凝った料理も当たり前のように作り上げてしまう。
 やはり二人とも女の子なんだな――などと圭一は率直に感心しているのだが、彼はしかし、以前夕食時に皆の前で同様の感想を漏らしたとき、「二人ともいいお嫁さんになれるぞ」などとうっかり口にして、魅音及びレナから殺人的な眼光を向けられた事実を完全に忘却していた。

「うん、そうだね。たしかに二人とも、すごく上達してるね」

 レナがにこやかに相槌を打つ。しかし、細められた目が何やら異様な輝きを秘めていることに、圭一は気付いていなかった。

「でも、レナだって負けてないんだよ? だよ?」
「おう、そうだったな」

 自明のこととして応える圭一。
 彼にとってはまったく完全に周知の事実であるが故、あまりにあっさりとしていたその声音に、レナの眼がさらに危険な色合いを帯びていくことに、彼は微塵も気づいていなかった。
 ――前原圭一、二十歳。かつて園崎詩音嬢(只今デザイナーの卵として活躍中)より朴念仁世界一と評された男。
 しかし、神は彼を見捨てなかった。

「お、竜宮じゃん」

 ちょうど通りかかった青年が、レナを見て声をかけたのだ。

「何、昼飯? うまそー」

 テーブルの上を覗き込み、感心したようにいう。どうやら、レナの学部での知人らしい。
 顔立ちは、まずハンサムな部類に入るだろう。長身で、体格もそこそこたくましい。平たくいうなら、いかにも女受けしそうな青年ではあった。

「知り合いか?」

 不躾な態度に少し眉をひそめつつ訊ねた圭一にレナはうなずき、去年の語学の講義で一緒だったの、と説明した。レナには珍しく型通りの、言葉少なな様子から察するに、彼女の方ではあまり親しくしたくない類の相手だったようだ。

「どーも」

 ハンサム君(仮名:圭一はレナから聞いたばかりの彼の名前をすぐさま忘却した)は一応の儀礼として圭一に会釈したが、すぐさまレナに向き直った。実に態度がわかりやすいというか、ある意味素直である。

「昼飯に誘っても断わるからどーしてかなって思ってたけど、いつもここで飯食ってたのかー」
「うん……まあね」
「あ、この席、いい? 一緒に食おうぜ」

 と、返事も待たずに椅子を引いて腰掛ける。円形のテーブルに三つずつ備えられている椅子の最後の一つ、つまり魅音の席だ。
 圭一はさすがに口を挟んだ。

「悪いけど、そこ、塞がってるんだ。どっかのテーブルから新しい椅子を持ってきてくれねぇかな」

 とりあえず、同席したいというなら強いて断わるつもりもない圭一は、そういった。
 しかし、青年にとっては十分に気の触る差し出口だったらしい。

「あん? 別にいいじゃねぇか。放っといてくれよ」
「よくねぇよ」

 さすがにカチンと来て、圭一は語調を鋭くする。魅音の席を横取りされるというのがまず不快だったし、最低限の常識も護らない態度も気に入らない。

「マナーの一つも知らねぇ馬鹿か、てめぇは」
「ンだとぉ!?」

 ハンサム君(仮名)はがたんと音を立てて立ち上がる。
 もちろん圭一にも臆する理由はない。応じて立ち上がりかけたとき、さらに別の声が割って入った。

「おう、どうしたんだよ」
「何だ何だ?」
「あ、お前ら!」

 ハンサム君(仮名)が弾んだ声で振り返る。どうやら彼の知り合いらしい二人連れが、にやにやした笑いを浮かべながら歩み寄ってきていた。

「喧嘩かぁ?」
「知らねぇよ。こいつが、いちいち俺に難癖つけてきやがるんだ」
「へぇぇぇ」

 二人連れの片方が、圭一の顔を見上げるようにして眺める。

「そりゃいい度胸してやがる」

 もう一方の男もせせら笑うようにいう。
 三対一か――ま、勝てない差じゃないわな、と圭一は相手を睨みつける。雛見沢に引っ越して以来、部活で鍛え込まれた彼は、並の連中なぞ三対一が五対一でも臆することはなくなっている。

「圭一君、加勢するよ」

 レナがきっと三人を睨みつけながらいってくる。さすがは「いざとなると学校一つ吹っ飛ばすくらいはやりそうな女」とかつて圭一が評しただけあり、こうした場合の反応はタフという表現を通り越している。
 だがしかし。
 彼女の気迫――というよりその台詞が、ハンサム君(仮名)の仲間二名に劇的な動揺を走らせた。

『け、圭一……?』

 何やら裏返った声音をハモらせてから、先ほどいい度胸云々と笑っていた男が恐る恐る口を開いた。

「あのぅ……もしかして、雛見沢の前原圭一さん、ですか……?」

 唐突な低姿勢であった。
 圭一が呆気に取られつつうなずくと、二人組は悲鳴のような声を上げた。

「うそ、マジ!? いや、マジですかー!?」
「か、勘弁して下さいーっ!!」

 ずざざざざーっと数歩後退りにながら、口々に喚く。

「お、おい、お前ら、一体何を……」

 呆然とした口調で、ハンサム君(仮名)が訊ねる。

「ば、馬鹿、この街にいて知らないのか……!?」
「一声かければ数百人の舎弟が動き、ヤクザにまで顔が利くっていう……」
「雛見沢でもっとも危険な男、ミスター・K!」
「その昔、どっかの組の女親分と日本刀でやりあったって……」
「いや、違うって。舎弟引き連れて警察署に殴り込んだんだって」
「他にも、たった一人で数十人のチンピラを殴り倒したとか」
「市長や議員でさえも道を開けるとか」

 何やらすごいことをいわれている。しかも、微妙に事実に掠っているあたりが尚更タチが悪い。
 圭一はとりあえず頭を抱えたが、ハンサム君(仮名)の顔色は面白いように青くなった。どうやら圭一の伝説(事実の超拡大解釈)を耳にしたことがあるらしい。

「バ、バットで頭割って埋めるのだけは勘弁して下さいーーーーっっ!!」

 これまた、どこで聞いたのか定かではない物騒なことをいいながら、土下座せんばかりの勢いで頭を下げる。顔面蒼白、歯の根がカチカチと鳴り、全身が震えている。

「あー、いや、まあ。わかってくれたなら別に」

 もはや圭一にも戦意はない。伝説というのはこうして膨れ上がった挙句に「真実」として認知されていくんだろうなぁ――などと、いささか歴史学的な思いにふける彼であった。

『あ、ありがとうございますっ! それでは、我々はこれでっ!!』

 びしりと声を合わせ、ハンサム君(仮名)以下三名は一斉に頭を下げた。
 しかも、その姿勢のまま――実に器用なことに――後ろ歩きで去って行く。なかなか芸達者な連中であった。

「あ、あはは。け、圭一君、さすがだねっ」

 褒め称えるレナの声もさすがに引きつっている。
 ――この日、前原圭一の伝説に、また一つ新たなページが書き加えられた。遠くから騒ぎを見物していた野次馬や、命からがら逃げ帰った(本人たちは真剣に命の危険を覚えていた)三人組が、口々に広めたのだ。
 眼光一つで大の男三人を退けた、興宮大学の影の総番。
 その眼差しはあたかも氷のように冷たく炎のように激しく、ただ睨みつけるだけであらゆる敵意を蒸発させる。
 ミスター・K、「雛見沢でもっとも危険な男」。

 

 

「へー、おじさんがいない間にそんなことがねー」
「圭一さんの伝説は背鰭尾鰭に胸鰭までつけて広がってございますからねぇ」

 その日の夕食は、魅音・レナの合作によるおでんだった。
 各々大根やらガンモだのを突っつきながら、舌鼓を打ちつつ、その日起こったことを話題にし、ネタにする。
 年長組――特に魅音と圭一 ――は時折ビールを傾けつつ、いつも以上のテンションで話題を盛り上げるのだ。ちなみに梨花もしばしばビールをねだるのだが、良識担当のレナの妨害、もとい尽力により、それがかなえられることはほとんどない。

「梨花ちゃんと沙都子は、学校、うまくいってんのか?」
「おーほっほっほ! 愚問ですわね、圭一さん。興宮高校一年にしてゲーム同好会会長を務めるこの〈トラップマスター〉、学校生活でも遺憾なくその力を発揮していましてよ?」
「いや、トラップは使うなよ。部活はともかく学校生活で」
「沙都子はすごいのです。この間も、生意気だっていってきた上級生を返り討ちにしたのですよ。その人たち、今では年下の沙都子を『姐御』と慕っているのです」
「褒めていいのか恐ろしいというべきか、微妙だよな……」

 圭一の慨嘆に、魅音とレナが引きつった笑い声を上げる。
 ちなみに興宮高校のゲーム同好会は、魅音が同校の二年生のときに――つまり圭一とレナが一年遅れて入学してきた直後に――設立したものだ。当然ながら初代会長は〈ゲーム・マスター〉魅音、彼女の卒業後を〈口先の魔術師〉圭一が継ぎ、さらにその後を〈魂の双子〉富田・岡村の二名が(二人とも同格の会長格として)継いだ。
 この同好会は、規模こそ小さく正式な部ですらないというのにその勢力は生徒会にすら匹敵するといわれ、歴代の会長はいずれも傑出した個性で学校史に名を残している。
 現在は、雛見沢分校OBから指名を受けた沙都子が一年ながら会長に選ばれ、〈トラップマスター〉の令名を知らしめている。梨花は副会長という形でそれを支えているが、この一年生会長・副会長のコンビは同好会創立期の魅音・圭一コンビに匹敵すると、早くも囁かれているという。

「……ま、やり過ぎないようにな」
「わかっておりますですわ。私の本気について来れるのは、やはり圭一さんや魅音さんたちのレベルでないと」
「会の先輩たちも、それなりの腕前なのですよ? ただ、比べる相手が悪すぎるのです」
「こ、心強いというべきなのかなぁ」
「み、魅ぃちゃんの教育が行き届いてるよね」
「ど、どっちかというとおじさんじゃなくて詩音の教育のような気がするんだけどねー」

 年少組の将来性に恐怖を抱きつつ、顔を見合わせる年長組であった。
 和やかなのか何なのか判断に苦しむ団欒が終わった後、しばしの食休みを過ごしてから、魅音とレナは風呂へ入りに自分の部屋に戻って行った。さすがに入浴は各自の部屋ですませることになっているのだ。もっとも、このマンションに五人が入居した当初は、梨花が「圭一、一緒に入りませんですか?」などと誘ったり、魅音がそれを聞いて真っ赤になって人倫を説いたり、レナが発作的に圭一をRFIで沈めたりといろいろあったのだが。
 梨花と沙都子は食器などの洗い物を済ませるために残っている(ちなみにこの洗い物を行う権利を巡っても熾烈なジャンケンが行われたりしたのだが)。
 圭一は、せめてもの手伝いとして汚れた食器を洗い場に運ぶなどして立ち回っていたが、そのていどの仕事はすぐにすんでしまう。
 結果、まったりと居間で茶などすすりつつ、そろそろ風呂を沸かすか、それとも手早くシャワーですませるか……と、ぼんやりと考えついたとき、

「あの、圭一さん?」

 洗い物をすませたらしい沙都子が、ひょいと顔を出した。

「ん? どした?」

 首を傾げる圭一に、沙都子は煮え切らない表情で、

「その……、そう、お弁当、どうでした?」
「美味かったぞー。文句なしだ。特にあの煮つけ、沙都子が作ったのだろ? 味がよく染みてて美味かった」

 率直な賞賛に、沙都子は顔を綻ばせた。

「と、当然ですわ。このくらいのこと、私にかかれば……」
「うむうむ、よくがんばった」

 圭一は微笑みながら、ちょいちょいと沙都子を招いた。
 小犬か何かのように首を傾げながら近寄って来る彼女へ笑いかけ、その頭をぽんぽんと撫でてやる。

「…………」

 沙都子は真っ赤になって俯いた。口調は素直でないわりに、彼女は態度がわかりやすい。このあたり、魅音とよく似ている。

「あ、あの、圭一さん……」

 撫でられながら、沙都子は圭一の顔を上目遣いに見た。
 真っ赤に染まった顔で、しかし何をいえばいいのか迷っている風だ。
 圭一はしかし、このときばかりはそれを誤解しなかった。

「ほれ、来い」

 あぐらをかいたまま腕を開く。
 沙都子は相変わらず真っ赤な顔で、しかし素直にそれに応じ、圭一の懐に小さな体を滑り込ませた。圭一は同世代に比しても長身の部類に入るため、小柄な彼女の体をすっぽりと抱きかかえられる。
 ここ数年で以前よりよほど素直に甘えるようになった妹分の少女を、ぬいぐるみか何かのように抱きかかえつつ、圭一はその頭を撫でた。恋人というより重度のシスコン・ブラコンの兄妹にふさわしい姿であったが、少なくとも圭一に関する限り、その感覚は当たっている。彼にとって、沙都子は相変わらず、頼りになって甘えん坊な妹分なのだった。
 もっとも、沙都子の方ではどうなのか定かではない。
 圭一は、沙都子がこれほど無防備な姿を見せるのは、自分以外には存在しない――そう、梨花ですらだ――事実に気付いていなかった。
 昭和五十八年の六月、叔父の鉄平に連れ去られた沙都子を救うため、圭一が雛見沢すべてを巻き込んで行った陳情工作――「裏切り者の北条家」を白眼視していた村の空気を、一気に吹き飛ばした奇跡の一日。村人すべてがそれまでの行いを詫びて、以来梨花に対するのと同じくらいに親切になってくれた。
 圭一にとっては仲間として当然の行為であったが、助けられた沙都子はそれを片時も忘れたことはない。それはもう、深層意識下への刷り込みに近いレベルで、北条沙都子にとっての前原圭一を絶対的な存在へと変えていた。

「…………」

 完全な安堵と幸福に包まれながら、沙都子は目を閉じる。
 時折、他の誰もいないところでこうして圭一に甘え、子猫のように抱かれて、頭を撫でてもらう。それが彼女にとって、一番の幸せだった。
 夢現の気分のままに、彼女は呟いていた。

「圭にーにー…………っと……緒…………」

 

 

 沙都子が何か囁いてきたような気がして、圭一は彼女の頭を撫でる手を止めた。

「……ん? 何かいったか?」

 訊ねて見るが、沙都子は答えない。
 替わりに、すーすーという心地よさそうな寝息が聞こえてきた。
 参ったな、寝ちまったか――などと呟きながら、圭一の顔はまったく困っていない。
 可愛い妹が(と、しつこいようだが圭一の方では思っている)自分の腕に中で眠ることに、困るべき何事もない。

「昨夜、あまり寝てないのですよ。今日のお弁当は自分が作るんだって、ずっと準備してたのです」

 圭一は顔を上げる。台所へ続く引き戸の傍で、梨花が微笑んでいた。

「準備って、アレか? ベランダから忍び込む準備か?」

 呆れたように、しかし沙都子の眠りを妨げないよう小声で圭一は訊ねる。
 梨花はいつもの如くにぱーと笑って答えない。
 やれやれ、と肩をすくめる圭一に、梨花は歩み寄り、

「……幸せそうな寝顔なのです」

 親友の顔を見つめながら、そう呟いた。

「ボクと一緒に暮らしていたときですら、こんな顔は見たことがないのですよ」
「妬ける?」
「……少し」

 梨花は柔らかく苦笑した。
 そのまま静かに、彼女は圭一の後ろに回り込み、

「……ちょっとごめん」

 がらりと口調を変えて囁くと、圭一の広い背中にもたれかかった。

「梨花ちゃん……?」
「……しばらくこのままで。じっとしていて。……お願いだから」

 囁くような声音。
 圭一は無言でそれに従った。

「……幸せね……幸せで幸せで……本当に、泣きたくなるほど」

 そういった声は、どこか憂いを帯びていた。

「――何か不安でもあるのか?」
「……いいえ、何も。不安なんて、一欠片もない」

 百年を生きた少女は、言葉とは裏腹に圭一の胸へ手を回し、その背中へぎゅっとしがみついた。

「……でも、時々怖くなるのよ。こんなに幸せでいいのか、って。幸せすぎて、怖くなる」

 ――それは、彼女にしかわからない恐怖だ。
 幾百の死の山脈を越え、幾千の絶望にくじけかけてきた少女。
 彼女ほど、日常の尊さと、その脆さ儚さを知る者はいない。
 そんな彼女が得た、無限の可能性から成る未来と、紛れもなく幸福な現在。
 ただそれを満喫するには、古手梨花は死と絶望を見つめ過ぎていた。
 ――微かな震えが、圭一の背中に伝わってくる。
 彼はしばし、無言だった。
 古手梨花の感じる恐怖――それを、前原圭一だけはいくらか共有する立場にある。何の因果か偶然か、この世で唯一、魔女と同様に循環する時間軸での記憶を取り戻していたからだ。もっとも、彼の取り戻した記憶は彼女ほど鮮明ではなく、ごく一部のものでしかないのだが。――それでも、十分過ぎた。
 だからこそ梨花は、圭一の前でだけは恐怖をさらけ出す。

「…………」

 圭一は、己の胸の中で寝息を立てる沙都子の顔を見下ろし、

「――馬鹿いってんじゃねえよ」

 怒ったような口調で、そういった。

「幸せで、いいじゃねえか。これまでがアレだったんだ、幸せになって悪いことなんて何もない。もし、これを壊されそうになったとしても――」

 彼は首を巡らし、梨花の顔を見つめた。

「――俺たちなら、絶対乗り越えられるさ。あの昭和五十八年をも乗り越えた俺たちに不可能なんて何もない。奇跡の十や二十、駄菓子屋の飴玉よりも安っぽく起こしてやる。俺たちはそうやってこれまでやって来た。そしてこれからもそうして行く。それだけのことだ。違うか?」

 にやりと不敵に笑ったその顔は、当たり前のように奇跡を起こした昭和五十八年の頃と、何一つ変わっていない。
 梨花は泣きそうな顔で、広い背中に一層強くしがみついた。
 圭一は微笑みながら、前と後ろ、その二つの体温を確かめる。
 未来への不安など知ったことか。
 俺たちはここに、こうして在る。
 ならば、恐れる物など何一つ、ない……
 そう断言してやろうとして。
 何気なく視線を巡らせた圭一は、とある一点に目を留めて瞬時に凍りついた。

「…………………………………………………………………………………………」

 さっき梨花が立っていた、居間の引き戸。
 その向こうに、前原圭一の恋人(ただし非公認)であるところの園崎魅音嬢が立ち尽くしている。

「…………」

 圭一は己の状況を再確認した。
 あぐらをかいている、これはよろしい。
 ただし、胸元にはすやすやと幸せそうに眠る北条沙都子十六歳、背中には古手梨花十六歳が抱きついている。
 これは多分、きっと、おそらく、あまりよろしくない。
 いや彼個人としては後ろ暗いところはないつもりだが、恋人であるところの園崎魅音二十一歳はよろしく了解してくれるものだろうか?

「…………」

 魅音の存在に気付いたらしい梨花が、凍りついた圭一の表情をたしかめた後、すっと彼の背中から離れて立ち上がった。
 圭一はすがるようにその顔を見上げる。
 かつて繰り返された時間軸の一つ、「おいで、鉈女」と言い放ったあのときと同じくらいの毅然とした面持ちで、梨花は庇うように圭一の前に立ち、

「圭一は私たちがもらうから、大人しく家に帰ってもらえるかしら?」

 挑戦的というにも生ぬるい声音できっぱりと言い放った。

「!?」
「うぉいっ!?」

 憤怒に顔を歪める魅音に、怯えまくる圭一。
 梨花はその長い黒髪をふぁさ……とたなびかせ、えらく意味ありげな目で圭一を見つめた。

「――いえ、もともと圭一は私のものだし。六年前にはすでに私は圭一に身も心も……ふふっ、これ以上はいわない方がいいわね?」

 意味ありげどころではない問題発言であった。
 魅音の目つきが危険な角度まで釣り上がる。

「り、梨花ちゃんっ!? な、なんの……こ……」

 何のことだ、と反問しかけた声が、尻すぼみに小さくなる。
 ――かつて繰り返された時間軸、その連鎖の何度目かで、実は何事かしでかしてしまったことがあるらしい。

「圭ちゃん……?」
「い、いや、誤解するなよ魅音? その、お前にいっても理解できるかどうかわからんけど……」
「ええ、いいのよ、圭一? まあ、私も過去で貴方を縛ろうとは思わないから。かつての貴方が私に何を――そう、ナニをしたとしても、今の貴方は気にする必要はない」

 どこまでも優しげな声で言い放つ梨花であった。

「だから今から改めて、貴方を私のものにするわ。それでいいでしょう?」

 よくねぇ! と叫びたくても叫べない前原圭一。実は梨花の流し目にちょっとドキっとしてしまった健全な二十歳。
 いや待てそうじゃなくて、と慌てて我に返り、愛しい恋人へと視線を戻す。
 どうか誤解しないでくれ――いや、無理だろうけど。そもそもまったくの事実無根じゃないしなー。
 半ばは諦めの境地に達しつつ、それでも一縷の希望を託して、圭一は溢れる想い(それはもう恐怖とか懇願とかいろいろ)を無言の視線に込めた。

「……こ……こ……この……」

 ――やっぱり無理だった。
 圭一は天を仰ぎ、せめて無関係のこの妹分だけは巻き込むまい……と、胸元で眠る沙都子の耳をそっと塞いでやった。

「この甲斐性なしの浮気者ーーーーっっ!! 責任取れこん畜生ーーーーっっ!!」

 その悲痛な叫びは、マンションの部屋すべてに響き渡った――と、後日オーナーである園崎組に苦情が寄せられることになる。

 

 

 ……後に「園崎大戦」とも「乙女戦争」とも称され、ミスター・Kの伝説を神話の域にまで高める熱く激しい時代の、これが始まりの号砲であった。
 それは、乙女たちの愛と汗と涙と、
 皮肉と嫉妬と謀略と闘争と退廃と抑圧と陥穽と破壊と欲望と淘汰と混沌と侵略と粛清と略奪と、
 ほんのちょっぴりの感動に満ちた、
 かけがえのない青春の時代でもあったのである……多分、きっと、おそらく。

(平成X年 園崎詩音の独白)

 

 

ひぐらしのないた後・終

 



後書き

 お馬鹿なSSその第三段。
 基本的には魅音派なのに、梨花にも転びつつある七瀬由秋でございました。
 あの「おいで、鉈女」以来、梨花の雄々しさに惹かれ、皆殺し編ですっかりお気に入りになってしまったのです……あ、ちなみに羽入がどうなったかについては深く考えないで下さい。このSSを書き始めたのが皆殺し編をやる前で、羽入についてはさすがにストーリーに絡めるのは無理だったもので(苦笑)。

back

 

inserted by FC2 system