ラジオはノイズを奏でていた。

 スピーカーから漏れ出すそれは砂音のようでもあり、波音のようでもある。
 海沿いのこの街には、その双方の音が大して珍しくはない。それでもシンジはずっと聞き入っていた。
 規則的な波長で上下するノイズは奇妙に耳に柔らかく、染み込んでくる。
 シンジは目を閉じた。
 視界が暗闇に閉ざされ、意識が音に占拠される。
 音に流されるままに、彼は心に景色を描く。
 風に渦巻く砂。見渡す限りに広がる海。抜けるように広がる青い空。漂う雲。金色の太陽。
 砂は流れ、波はさざめく。
 風に帆を張って、錨を巻き上げ、船はどこまでも進む。
 空と海に果てはなく、夏はどこまでも続いていく。
 それはとても心地いい空想だった。



砂の城

七瀬由秋





 ドアが開いて、アスカが朝食の時間を告げた。
 そのとき、いまだ付けっぱなしだったラジオに気付いて、彼女は咎めるように彼を睨む。

「電池がもったいないじゃない」

 そういった口調は、しかしさほど尖ってはいない。
 シンジは苦笑して、ラジオの電源をオフにした。
 部屋を見渡し、姿のないもう一人について尋ねる。
 綾波はもう起きてるの?

「洗濯してるわよ。今日一番のねぼすけはあんたに決定」
「ああ、それは、ごめんね」
「謝るくらいならさっさと来なさい。ご飯、冷めるわよ」

 他愛のないやり取りの後、彼女は彼にふっとかすめるようなキスをして、微笑を浮かべる。

「それと、おはよう。今日もいい朝よ」
「ああ、そうだね」

 ――うん、今日も海を見に行こうか。
 そう提案すると、アスカは顔を輝かせた。

「うん、お弁当作ろ」

 うなずきながら、彼も笑顔を返す。
 彼女の笑みは自然と深まる。
 二人はごく自然な動作で、もう一度唇を重ねた。
 夏は暑く、とこしえに続く。
 アスカの唇からはほんの少しの汗の匂いと、どこか懐かしい香りがした。
 今日もいい日になるだろう。
 理由もなく、そう確信できた。


 食卓ではレイがすでに待っていた。
 トーストが一枚ずつに紅茶はセルフで。
 それがいつもの朝食。
 その朝は、シンジは珍しく、二枚目のトーストをオーブンに入れた。
 朝はあまり食べない彼には珍しいことだ。
 レイは目を丸くして、アスカは訝しげに訊ねて来た。
 えらく食欲あるじゃない?

「昨夜は激しかったからね」

 顔色一つ変えずに答えると、レイは真っ赤になって俯いて、アスカは怒ったような照れたような顔で、彼の頭をぽかぽかと殴る。
 叩かれながら二枚目のトーストを頬張ったとき、頬にバターが引っ付いた。

「碇君、子供みたい」

 レイが笑ってそういって、舌でそのバターを舐め取った。
 彼はトーストを持つ手を止めて、くすぐったそうに目を細める。
 彼女は罪のない表情で、そのまま彼の顔を舐め続けた。
 シンジが子供ならあんたは小犬ね、と。
 アスカはそういって呆れて見せた。



 太陽が南中にさしかかる頃、海辺に出た。
 常夏の光に照らされて、波飛沫が宝石のように煌びやかに輝く。
 砂の上に何枚かビニル袋を敷いて、その上に三人で座り込んだ。
 海沿いの田舎町には観光客はいない。
 地元の人々も、海水浴など特にありがたがるべき遊びではないのだろう、彼ら以外に人影はいなかった。
 こんなに綺麗な海なのにね。
 アスカは周囲を見まわしてそういった。

「いいじゃないか。貸し切りだと思えば気分いいだろ?」

 彼は笑う。
 まあね、とアスカはうなずいて、やおら立ち上がると波打ち際に駆けていった。
 そぉれ、と掛け声をかけて、服を着たまま海に飛び込む。
 波に煽られて、彼女はじたばたと後ろに倒れ込み、ようやくのことで立ち上がると、しょっぱい、と情けない声でうめいた。

「どっちが子供なんだろうね」

 シンジはレイを見ていう。

「でも、楽しそう」

 彼女はそう答えた。
 ――んじゃ、僕たちも行きますか。
 彼は立ち上がり、レイに手を差し伸べた。
 うん、と彼女はうなずいて、その手を取った。

「あんたたちも早く来なさいよぉ」

 波打ち際で叫ぶアスカの元へ、二人は駆け出した。



 その日一日、三人揃って海で遊んだ。
 服を着たまま浅瀬を泳いで、水を掛け合っては笑い声を弾かせた。
 お腹が減ると、濡れ鼠のまま持参してきた弁当を突っつき、滴る海水で少し塩辛くなったおにぎりを頬張った。
 子供のように、小犬のように。
 遊んで遊んで、遊び呆けて。
 太陽が西に傾きかけた頃、肩で息をしたままアスカがいった。

「ねえ、アレをやって見ない?」

 ――アレって?

「ほら、昔のドラマとかでよくあるじゃない。波打ち際で追っかけっこするの」

 ――アスカって、意外に少女趣味だよね。
 茶化すようにいうと、彼女は赤くなってそっぽを向いた。

「いいじゃない。あたしだって女の子なんだから」

 苦笑してレイを見ると、彼女もこっくりとうなずいた。

「私もやってみたい」
「よし、二対一。多数決よ。文句ある?」

 シンジは肩をすくめた。

「わかったよ、まあ僕もちょっとだけやって見たかったし」

 ちょっとだけ?
 ちょっとだけ?
 からかうように二人は声をハモらせる。

「はいはい、すごくやって見たかったよ」

 素直でよろしい。
 アスカは満足げに笑い、レイは嬉しげにうなずいて見せた。

「それじゃ、いいわね」

 アスカはレイに声をかけ、互いにうなずき合う。
 シンジは肩をすくめてそれを見守る。
 よーいどん!
 二人は駆け出した。
 波打ち際を、わざと足首が海水に浸るていどの深さで走るので、あまり速くはない。
 二人の脚が水を蹴るたびに、きらきらと飛沫が舞った。
 呆れながら、それでも十分以上に楽しみながら、彼はそれを追った。

「遅いわよー、シンジ!」
「碇君、遅い」

 時折振りかえりながら、二人はからからと笑う。
 何でそんなに元気なんだ。そう悪態をつきながら、彼の顔から笑みが尽きることはない。
 どこまでも続くように見える波打ち際を、三人は駆け続けた。
 ひょっとすると、この海の向こうにあるだろうどこかまで駆けぬけたかったのかも知れない。
 三人揃って地平線の果てまで駆け抜け、水平線の向こうに到達する。その先には何がある? それを確かめに行くのだ。
 宝石の敷き詰められたような海を渡り、もっと素敵な何かを探しに行く。
 誰もいないどこかへ、三人だけでたどり着く。もっと楽しいことを見つけるために。
 心踊る、それは夢物語。
 やがて、二人の少女が息を荒らげ、わずかにペースが落ちたところへ、彼は一気にスパートをかけた。
 数歩分の距離を、文字通り飛び越える。
 二人の背中に手をかけて、のしかかるように引き倒す。
 悲鳴のような歓声のような声を上げて、二人の少女は海辺に転げ倒れた。
 海水にもろに顔を突っ込んだアスカは、うわっぷと潮くさい水の塊を吐き出した。

「もう、捕まえるにしてももうちょっと考えてよ」

 ぶつくさいいながら彼女は彼を見上げる。
 やっぱドラマはドラマよね。現実はせちがらいったらありゃしない。

「でも、楽しかった」

 レイがそういうと、アスカはそうね、と案外素直にうなずく。
 三人して波打ち際に座り込む。
 今更に気付いたことに、二人の着ている白いワンピースが海水に濡れてべったりと張り付き、体のラインをはっきりと浮び上がらせていた。
 思わず彼はごくりと唾を飲み下す。
 目ざとくそれを見咎めたアスカが、えっち、と呟いた。
 夕焼け空の海に、三人分の笑い声がこだました。




 家に帰るとシャワーを浴びて、くたくたに疲れた体をベッドに横たえた。
 潰れた民宿を勝手に借りて住みついているこの家には、三人それぞれに個室はあるのだが、レイもアスカも当然のようにシンジの部屋に転がり込んでいる。
 それを見越して、というわけでもないが、彼の部屋のベッドは若干大きめだ。
 とはいえ、三人で寝そべればさすがにきつい。
 皆で重なるように寄り添わねば、誰かが落ちてしまう。
 今日も楽しかったね。
 彼の胸に顎を乗せて、アスカがうっとりとそういった。
 右腕に抱きついたレイが、夢見るようにこくりとうなずく。
 夜はもう更けていた。
 海から帰る前に弁当の残りを胃に放り込んだだけだが、奇妙にお腹は減っていない。

「ね、今夜も、しよっか?」

 悪戯っぽいような照れたような顔で、アスカが訊ねる。
 レイも期待に満ちた目でじっと彼を見上げている。

「ちょっと疲れてるんだけどな」

 シンジはとぼけたような顔で答える。
 途端に、胸と右腕をつねられた。
 ごめんなさい、嘘つきました。僕もしたいです。
 彼は降参の証に、自由な左手を挙げて見せた。
 二人の少女が艶っぽく微笑する。
 下着は最初からつけていない。二人とも、素肌にTシャツを羽織っただけの姿だ。
 シンジだけが、Tシャツに加えて律儀に短パンを履いていたが、三人とも服を脱ぐのもわずらわしげに、そのままの格好で互いの体にむしゃぶりついた。
 夜はもう更けていた。
 だが、夏の一日は、いまだ長く続く。
 きっとそれは、永遠に思えるほど続くのだろう。



 汗だくになって肌を重ね合い、貪るように体を求め合って、泥のように眠りに落ちる。
 混濁した意識の淵で、彼はまどろみに夢を見る。
 もしも世界に三人だけだったなら。
 きっと素敵なことになるだろうに。
 そんなことを夢想する。
 もちろん、たった三人で生きていけるはずなどないことはわかっている。
 夢はあくまで夢に過ぎず、彼らは現実に生きている。
 あの三度目の裁きの日から、外界は徐々に、確実に立ち直りつつある。
 彼らを知る者たちが彼らの住みかを探し当てるのも、遠い未来ではないかも知れない。
 だから、今の生活は、きっと夢の続きだ。
 いずれ覚めることもあるだろう。壊れることもあるかも知れない。
 そんな脆さ危うさを含んで、三人の世界は回っていく。
 ねえ、綾波、アスカ?
 夢現にシンジは問い掛ける。
 僕らはいつまで一緒にいられるのかな?

「それはもちろん」
「この世界が果てるまで」

 遠ざかる意識の中で、たしかにそう応える二つの声を聞いたように思った。
 
 ――ああ、そうか。
 彼は微笑んだ。
 意識が闇に落ちて行く。
 明日また目が覚めて、明日また新たな喜びを知るために、眠りに落ちる。

 ――おやすみなさい、よい夢を。

 いつの間にスイッチが入っていたのだろう、ラジオからあのノイズが流れ出ていた。
 流れて落ちる砂の音。寄せては返す波の音。
 それははるか昔、母の胎内に在るよりさらに昔を思い出させるようで。
 子守唄よりもなお優しいその調べに包まれて、彼と彼女たちは眠りに落ちる。

 ――おやすみなさい、よい夢を。

 夏はどこまでも続いていく。
 たった三人の、ちっぽけな夢を包み込んで。
 硝子のような弱さまでも呑み込んで。
 泣きたくなるほど幸せな思い出と、溢れんばかりの愛おしさを織り上げながら。
 夏はとこしえに続いていく。
 やがて陽が陰ったときも、夢が終わったときも、想いが忘れられたときも、骨が朽ちた後も、
 海はどこまでも広がり、砂礫は陸を覆うのだろう。

 ――だから、今は。
 おやすみなさい。

 子供の頃にそうしたように、楽しい夢をたくさん見て。
 そして、もっと楽しい明日を迎える。




 

 ラジオはノイズを奏でている。
 それはきっと、彼らの築く砂の城。

 

終劇

 




後書き

 本作は、2004年正月の年賀状メールに添付したSSの改訂版です。
 不特定多数に発表することを前提にしてなかったため、趣味丸出し。
 短くて頭空っぽにしても読めてそれでいてまぁほのぼのしてる奴、というコンセプトのもとに書いたものですね。
 一部で(?)ダーク系SS書きと目されている七瀬由秋ですが、たまには毒のない文章も書きたくなるのですよ。
 そう、世の中はラヴ・アンド・ピース……っ(←拳を振り上げ喉を震わせながら)。
 ……の割に、えらい退廃的な雰囲気も漂うような気もするのは、きっと錯覚だと思いたい今日この頃。

 

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