初めに感じるのは安堵感。
 次に感じるのは尽きせぬ独占欲。
 真清水の如く透明で、深海よりも底がない。その想いを、もう何度も確かめてきた。
 次も、そのまた次も、自分は飽きずに同じことを繰り返すだろう。
 そんな予感があった。
 何故こういうことが起こるのかはわからない。
 多分、自分にわからないのだから、他の誰にもわからないのだろう。
 結局のところ、事実は一つで、それで十分だった。
 そう、十分すぎるほどだった。








円環舞踊

七瀬由秋








 

 公衆電話は何度十円玉を入れても不通のままだった。
 碇シンジは当惑に顔をしかめる。
 一体何が起こっているのか、さっぱりわからなかった。
 彼はつい先刻、乗っていた列車から非常事態とやらで強制的に降ろされたばかりだった。
 目的地の――手紙で指定された駅までは、まだ二駅残っている。
 これでは今日中に父のところへたどり着くのは難しいかも知れない。
 ため息をついて鞄を持ち上げる。
 周囲の街並を何となく眺める。
 どこで宿を取ろうか、とぼんやり考えた。
 ――そのとき、彼は見た。
 灰色のアスファルトの向こうに立つ、一人の少女。
 蒼銀の髪に、真紅の瞳の。
 何故かしら喉が焼けついた。肌が粟立った。臓腑が軋むような音を立て、頭が爆ぜたように視界が切り替わる。
 いつしか彼は、誰もいない何もいない街角に、一人立ち尽くしていた。



 葛城ミサトにとって、初対面の少年は戸惑いとともに同情をもよおすに足る存在だった。
 一見したところでは、物静かという以外の形容詞が見当たらない。
 悪くいえば、陰気。
 車に乗せられてからこれまで、ただの一言も口を利かない。
 あれこれとミサトが語りかけても、どうでもいいようにうなずくていどで、表情すら満足に動かさない。
 先刻、国連軍のN2地雷の爆風に巻き込まれ、車が横転したときですらその表情は変わらなかった。
 状況が状況であれば、ミサトの方が仏頂面を決め込んだだろう。
 しかし、それも仕方ないのかも知れない。
 ミサトは哀れみをこめてそう考える。
 碇シンジ、十四歳。ネルフ総司令・碇ゲンドウの息子。
 三歳で母と死別し、その後は父方の親戚の家に預けられる。
 総司令としての有能さでは疑問の余地がない碇ゲンドウは、父親としてははっきり失格だった。
 人によっては冷酷だとすら評するかも知れない。
 この十一年、碇ゲンドウは金を出す以外の父としての役目を何一つ果たしていなかった。
 幼い息子に手紙一つ出すわけでなく、こまめに顔を合わせることもない。
 最後に親子が顔を合わせたのは三年前と聞いている。
 その父親からの突然の手紙。自分の元へ来い、という。
 そして来たら来たでアレだ――
 ミサトは苦虫を噛み潰した。
 少年の来訪と、使徒の襲来が物の見事に重なったのは、何かの皮肉か因縁か。
 列車が途中の駅で停車したという知らせを受けたミサトが、車を飛ばして駆けつけたとき、彼はまさに使徒と国連軍の戦闘に巻き込まれかけているところだった。
 すぐ目の前に撃墜された戦闘機が落下してきたほどだ。
 ミサトが自分の車を盾にして爆風を防がなければ、怪我の一つもしていただろう。
 ただでさえ自分を捨てた父との対面を控え、緊張が高まっているところに、あのような異常な光景を目の当たりにし、危険にさらされれば、呆然自失とするのもやむをえない。
 ミサトはまったく人としての情でそう考えていた。
 助手席のシンジは相変わらず無表情に、焦点の合わない瞳でぼんやりと宙を見据えている。
 精巧な玩具のようなその視線に、一瞬、ミサトは戦慄を覚えた。

「……これから」

 目の前の彫像が、初めて口を開いた。

「……これから、何処へ?」

 声に抑揚はなく、顔に表情はなく、答えを期待している様子ですらなかった。

「お、お父さんのところよ、もちろん」

 ミサトの声が上擦ったのは、意外さのためだけだったのか、本人にすらわからなかった。

「…………」

 少年はうなずきすらしなかった。
 ミサトの返答にも存在にも、まるで関心がないようだった。
 胸中に浮かんだ得体の知れない不安、それが休息に膨らんでいくのを感じながら、ミサトはハンドルを握り締めた。




 ジオフロントのネルフ総本部へは、滞りなくたどり着けた。
 もっとも、着いてからが道に迷い、リツコを呼び出さなければならなかったが、それはご愛嬌というものだろう。
 軍人が自分の陣地で道に迷うというのは、控え目にいっても外聞の悪いことではあったが、ミサトは最近ドイツから着任してきたばかりだ。
 かてて加えて、機密の塊ともいえるネルフ総本部の施設は、新参者に親切な構造はしていない。

「この子が?」

 呼び出しに応じるなりミサトに小言をこぼしてから、リツコはシンジに視線を移した。穏やかな微笑を取り繕ってはいるが、その目つきは実験動物を観察するそれに等しい。

「そ。マルドゥックの報告にあったサード・チルドレン」

 サード・チルドレン。エヴァンゲリオンの三人目のパイロット。
 ネルフ作戦部長・葛城ミサトの、三枚目のカード。実力は未知数でも、ようやく見つかった貴重な戦力だ。
 人間的な感情は別として、ネルフの軍人たるミサトはシンジのことをそう認識していた。

「…………」

 半ば以上予想していたことだったが、シンジに反応はない。

「赤木リツコよ、よろしく」

 リツコがそう自己紹介したときだけ、挨拶のつもりか会釈するように首を傾けたが、それだけのことである。
 さすがのリツコも戸惑った様子で、

「……変わった子ね?」
「そうなのよー。無愛想は父親譲りなのかも」

 本人の目の前で口に出すべき評価ではなかったが、ミサトとしては冗談で少年の緊張を和らげたつもりである。
 多少の打算もある。正式にシンジがサード・チルドレンとなれば、彼は自分の指揮下で戦うことになるのだ。仲良くしておくに越したことはない。
 少年は初めてミサトに顔を向け、微笑する形に唇を歪めた。どこか神経に障る、哀れむような表情だった。
 自分の打算を見透かされたような気がして、ミサトは一瞬、薄気味の悪さを覚えた。
 しかしすぐに彼の経歴を思い起こし、父親を引き合いに出したのが不用意だったのだろうと自分を納得させる。

「とりあえず、着いて来てもらえるかしら? お父さんに会う前に、見て欲しいものがあるの」

 シンジの表情には気付かなかったらしいリツコが、平坦な声音でいった。



「これが人類の最後の切り札。汎用人型決戦兵器・人造人間エヴァンゲリオン、その初号機よ」

 演出たっぷりに照明に照らされた紫の巨人。
 常軌を逸したその存在感、鬼神を思わせるそのフォルムにすら、碇シンジは動じた様子を見せなかった。
 少年の動揺と、それによる会話のイニシアティブを狙っていたリツコは密かに眉をしかめたようだ。
 彼は心底どうでもよさそうに――あるいは鬱陶しそうにリツコを横目で見やり、

「…………」

 それから無言のままに、エヴァの頭部よりさらに上、ケイジのモニタ室を見上げた。

「久しぶりだな、シンジ」

 いつの間に現れたのか――あるいは最初からそこにいたのか、碇ゲンドウが立っていた。
 ミサトは慌てて居住まいを正す。
 モニタ室のガラス越しに息子を見下ろすゲンドウの視線に、温かみはなかった。道具を品定めする冷ややかな理性があった。
 対する息子の方の視線も、褒められたものではなかった。
 錆びの浮いた無機物を眺めるような、曰く言い難い退廃的な目つき。
 ミサトは背中に伝う冷や汗の存在すら感じながら、先刻からの疑問をさらに深いものにした。
 前もって諜報部が入手していた資料によれば、碇シンジは内気で内罰的な傾向はあるにせよ、まず平凡といってよい少年だったはずだ。
 養育されていた家では、はっきりいって冷遇されている――養父も養母も、決して粗略な扱いはしなかったが、要はそれだけであった。
 手間のかかる荷物、招かれざる客。ひらたくいえばそんな扱いだったらしい。
 自分をそんな境遇に追い込んだ父を前にして、怯えることはあろう。怒ることもあるかも知れない。
 しかし、このような目つきだけはできない少年だったはずだ。
 シンジの沈黙を、しかしゲンドウは深く考えなかった。
 もとから彼は、そうした生き方を選んでいない。
 他人の心情をかえりみない。
 他人の理解を求めないかわりに、他人を理解することもない。
 碇ゲンドウの対人行動原則はたった一つ、いかにして自分の要求を通すか。ただそれだけに尽きる。
 彼はこれまでの生涯で、たった一人の例外を除いてはすべからくその原則を貫いており、そして今もそれは変わらなかった。
 息子の態度など、頭から気にしていない。

「出撃」

 その原則の赴くままに、ゲンドウは冷ややかに命じた。
 驚いた顔をしたのはミサトだけだった。
 彼女は一瞬、上官の真意を図りかねる表情を浮かべ、ついで愕然とした目でシンジを見た。

「……まさか司令!?」
「そのまさかよ、葛城一尉。私たちに手段を選んでいる余裕はないわ」
「だからといって、そんな無茶な!」

 ミサトもネルフの軍人である。今更子供を戦地に送ることに是非はない。
 シンジをパイロットに任じることに関しても了解している。
 しかしそれは、あくまでそれなりの訓練期間を置いた上での話だと思っていた。
 素人を戦場に立たせるなど、当人にとっても指揮する側にとっても災難以外の何物でもない。

「座っていればいい。それ以上は望まん」

 ゲンドウは冷然と言い捨てて、息子に視線を移した。
 シンジは相変わらず表情らしきものを浮かべていない。ゲンドウはそれを状況の無理解ゆえと受け取った。

「シンジ。お前が乗るのだ、これに」
「……無理ですよ」

 返答は素早く、明快だった。
 息子が三年ぶりに会う父に向けた、最初の言葉がそれだった。

「説明を受けろ」

 ゲンドウは表情を動かさない。

「……無理です」

 シンジはもう一度繰り返した。
 不可解なことに、その声は拒絶というよりも、幼子に言い聞かせるような響きすら含んでいた。
 日が沈めば夜が来る、というのと同じような、ただ事実を告げる口調。
 ゲンドウの表情に不快の色が走った。

「ならば帰れ! 乗らないのならば用はない」

 冷厳という形容詞そのままの口調で、ネルフ総司令は言い放つ。
 そのためだけに呼んだのだという明快な意思表明、他にお前の価値はないといわんばかりの口振りに、ミサトは思わず眉をしかめた。
 シンジは答えなかった。
 彼はただ、哀れみすら感じ取れる静かな表情で、父を見上げていた。
 ゲンドウは顔をしかめ、手元の回線を開いて腹心に呼びかけた。

「……冬月。レイを起こせ」
『レイを? 碇、本気か?』
「死んでいるわけではない」

 短いやり取りの後、回線の向こう側で沈黙が広がり、わかった、という返答があった。
 ミサトは声もなくそれを見つめる。
 なかなかあざとい真似をする、と思った。
 ゲンドウは、あのレイの姿――重傷を負いながら、決して命令に逆らわない少女の姿を見せて、息子に決断を促すつもりなのだ。
 ありがちなヒロイズムに訴える手法というわけだが、そこまで理解しつつもミサトは無言を通した。
 私人としての感情は別として、彼女もまた、目的のためには手段を選ばぬよう教育された軍人だった。
 ケイジの扉が開いて、レイの載せられた移動ベッドが運び込まれてきた。
 体のあちこちを包帯に覆われた銀髪の少女は、ぐったりと寝込んでいるように見える。

「レイ。予備が使えなくなった」

 ゲンドウは呼びかけた。
 しばしの沈黙が落ちる。

「レイ!」

 ゲンドウはもう一度呼びかける。
 しかし少女は、よほど深く眠りに落ちているのか、その声に応えない。あるいは麻酔か何か効いているのかもしれない。
 さすがにそのことに気付いたか、ゲンドウはリツコに目配せをした。
 やれやれ、といった感じで、リツコは移動ベッドに歩み寄る。
 脇に立ち、少女の顔に手を伸ばす。
 その手が不意に、宙で制止した。
 訝しむような表情が、唐突に蒼白に染まる。
 足元のボールを蹴飛ばしたらそれが人間の生首でしたというような、そんな表情だった。

「――死んでますよ、それ」

 乾いた少年の声が、ケイジに響いた。



 空間に亀裂の入る音というものを、ミサトはたしかに聞いたように思う。
 衝撃的な言葉は、衝撃的な現実そのものであることを、リツコの表情が教えた。

「赤木博士!?」

 ゲンドウの声がひび割れるのを、ミサトは初めて聞いた。

「い、医療班! あなたたち、何をしていたの!?」

 動揺もあらわな親友の声。
 ミサトはなす術もなく立ち尽くした。
 頭の中でいくつもの単語が回る。
 綾波レイ。死。パイロット。何故。使徒。父さん。仇。地上。戦時。迎撃。どうやって?
 彼女は自分が錯乱しかけていることに気づいていた。
 気付いていたが、それを留めようもないことも知っていた。
 無数の単語が駆け巡り、やがて一つの命題が脳裏を占めた。

 ――どうする?

 どうする?
 どうする? どうする? どうする?
 どうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうするどうす

 熱に浮かされたような目が、不意に一人の少年を捉えた。
 乾いた無表情で、周囲の狼狽すべてを睥睨する少年。
 マルドゥック機関の見出したサード・チルドレン!

「シンジ君!」

 ミサトは彼に駆けより、その腕を掴み上げた。無意識に渾身の力がこもった。
 腕を捻り上げられる形になったシンジがうるさそうに顔をしかめる。

「エヴァに乗りなさい! 今すぐに!!」

 もはや言葉を飾る余裕もなく、ミサトは叩きつけるように命令した。

「……無理です、といいました」

 この期に及んでなお冷淡を極める口調が、ミサトの理性を蒸発させた。

「っざけてんじゃないわよ! あんたが乗らないとどうしようもないのよ!」

 もはや彼女には、シンジの意思や境遇を思いやる余裕が完全に失せていた。
 本来、人としての情を豊かに持ち合わせている女なのだが、同時に骨の髄まで現実主義を叩き込まれた軍人としての価値観が、今の彼女を支配している。

「…………」

 シンジは彼女の表情をちらりと眺め、それから嘲るようにため息をついた。
 ミサトに残っていた最後の自制心が、その仕草で消し飛んだ。
 がんっ、と。
 ホルスターから拳銃を抜き放ち、銃杷で少年の頬を殴りつけた彼女の姿を、しかし気に留める者などどこにもいなかった。
 リツコは移動ベッドの死体とともに緊急治療室へ直行しており、モニタ室のゲンドウもいつの間にか姿を消している。
 扉の陰に控えていた保安部の部員たちに至っては、ミサトの命令があり次第力づくでシンジを取り押さえる準備を整えていた。もともと彼らは、綾波レイの死亡という状況の変化を待つまでもなく、あらかじめゲンドウからそう命令されていた。

「……もう一度だけいうわ。乗りなさい」

 乱れた呼吸を必死に整えながら、ミサトは命じた。
 これはおそらく無意識の仕草であったが、拳銃の引き金に指がかかっている。

「…………」

 シンジはなおも応えない。
 ミサトはもう、彼のペースに付き合う気はないとばかりに、周囲に向けて声を張り上げた。

「この子をエヴァに乗せて出撃準備! 急ぎなさい!!」

 使命感に満ちた作戦部長の姿は、凛々しくすらあった。


 一体何が起こっているのか、リツコは判断に迷っていた。
 目の前にはにわかに信じ難い現実――ファースト・チルドレン綾波レイの、まごうことなき遺体がある。
 死に至るほどの重傷ではなかったはずだった。
 脳挫傷などの検査もかなり入念に行われていたはずだ。
 それはリツコ自身がその目でチェックしている。
 事実、この日の午前、快方に向かいつつあるレイの姿をリツコは確認している。
 突然死に至る要因など、あろうはずがなかった。
 ――死因は徹底的に調べて見る必要があるわね。
 リツコは冷たい目で遺体を見下ろしながらつらつらと考える。
 多少の同情はある。道具として使い捨てられ、訳のわからぬ原因で死に至った少女。少女は結局、最後まで人形としてその生涯を終えた。
 だが同時に、それが綾波レイにとって存在の終焉を指すものではないこともリツコは承知しており、わずかな同情よりも学術的な好奇心の方がはるかに大きかった。
 そして、それよりもさらに大きいのが、堪え切れぬ嘲弄。
 どうせ次の体があるのだから、多少は痛い目にあえばいいのだ、と。そんなことすらリツコは考えていた。

「……赤木博士。ただちに次のレイを用意したまえ」

 明らかに狼狽を取り繕った表情のゲンドウが、いわずもがなの命令を口にする。
 その必死さに、リツコは冷然たる表情の奥で失笑を噛み殺した。

「それはむろんですが……現在は使徒迎撃が急務ではないでしょうか」

 リツコは完全な嫌味として反問した。
 ミサトがシンジをエントリープラグに放り込んだという報告は、つい今しがたもたらされたばかりだ。
 通信回線で報告を寄越してきたマヤは口を濁していたが、力づくで事に及んだのは明らかだった。
 保安部員あたりに命じて文字通り放り込んだか、それとも殴りつけていうことを聞かせたのか。
 まあ、予定通りに事が運んでいるとはいえる。目の前を死体を除けばだが。

「そんなことはどうでもいい! レイの重要性は君にもわかっているはずだ」

 使徒殲滅のために組織された特務機関の総司令は、リツコの反問を歯牙にもかけずに言い切ってのけた。もともと、彼の本来の計画において、使徒の殲滅など過程でしかない。
 それに実際問題として、実戦においてはゲンドウがいてもほとんど役に立たないのだ。
 彼は科学者であり政治家であって、戦闘に関わる実務のすべては葛城ミサトに委ねていた。
 それはそれで間違ったやり方ではない――どころか、まったく正しくもある。幹部士官の役割分担を明確にし、その遂行に必要なすべての権限を与えるというのは、総司令としての器量を示すものですらあったろう。
 とはいえ、初の実戦に際して総司令が現場に顔を出さないという事実が、ことに下部職員に対してどのような意味を持つかについては、ゲンドウはまったく考慮していないようだった。
 表立って批判する人間こそいないだろうが、総司令の権威は確実に地に落ちる。いざというときに奥に隠れている(としか解釈できない)総指揮官に、忠誠を誓える兵士などいない。
 普段は傲岸不遜なまでの威厳と疑う余地のない政治的才覚によって、絶対的ともいえる統率力を発揮できる男なのだが、レイが関わると途端にこれだ。
 ……まったく、代わりはいくらでもいるというのに馬鹿馬鹿しい。
 リツコは冷徹そのものの論理でそう考えた。
 いずれにしても、レイの新たな肉体は早急に用意する必要があるのは事実であった。
 シンジが敗れた場合、それが最後の切り札として消費されることになるのだから。
 先刻、ミサトに目撃された死体は、実は仮死状態に陥っていただけだとでも言い逃れればいい。
 ゲンドウとともにセントラルドグマに赴きながら、リツコは冷静に思考を巡らせていた。


 ――どこまでも冷徹だった赤木リツコの理性が音を立てて崩れ落ちるのは、それからわずか十五分後のことである。
 セントラルドグマ、綾波レイの予備の肉体が保存されている水槽にたどり着き、その様子を確認した瞬間、リツコとゲンドウは呆けたように立ち尽くした。
 偽りの命すらも消え果てた、文字通りの肉の塊の群れ。
 粘土細工のように崩れ落ち、朽ち果てた肉塊を眺めながら、それまでの労力と計画が根底から瓦解したことを、リツコは理解した。
 傍らに立つゲンドウの表情を、彼女は確認しなかった。
 正視に耐えなかったのだ。
 碇ゲンドウは衝撃と絶望と悲哀とに囲まれて、「何故」という問いかけをいつまでも口ずさんでいた。


 発進準備は急速に進められていた。
 鬼気迫る勢いで指令を発した作戦部長の熱気が部下たちに伝染した感すらあった。
 発令所の職員すべてを見下ろすような位置にあつらえられた司令席は、先刻から空席のまま。
 憮然とした表情の副司令だけが、その脇にぽつんと立ち尽くしていた。
 ミサトは主不在の司令席を苦々しく見やり、次いでそんな自分を振り払うように頭を振った。
 総司令があてにならない以上、作戦指揮の全責任は彼女が負うことになる。
 それはむしろ、彼女がネルフに籍を置いたそもそもの理由からすれば望ましいことではあった。
 ただし、看過できない点もある。
 技術部長たる旧友すらも、発令所に姿を見せないことだ。

「伊吹二尉、リツコを呼び出せないの?」

 苛立たしげに、オペレーターの中では唯一技術部長直属の立場にあるマヤに尋ねてみる。
 童顔の技術士官は泣きそうな顔で頭を振った。

「先刻から呼び出しを続けているんですけど、ドグマに入られて以降連絡が取れません」
「……そう」

 苦虫を噛み潰した顔で、しかしマヤに当り散らすわけにも行かず、ミサトは不承不承うなずいた。
 このようなときに、司令だけでなく技術部長までもが不在とは、どう楽観的に考えても磐石の布陣からほど遠い。
 得体の知れない機密の塊であるエヴァンゲリオン、その運用に技術的アドバイスを行える人間がいなくてどうするというのか。

「プラグとの回線を開いて」

 ミサトは気を取り直してせめてもう一つの不安材料だけは補強しておこうと考えた。
 考えようによってはこの状況下で最大の不安材料――すなわち素人のパイロット、である。

「シンジ君、聞こえる?」

 プラグ内映像に映る少年は、瞑想するように目を閉じていた。
 落ちつきがあるといえば聞こえはいいが、単に状況を認識していないだけのようにミサトには思われた。

「手荒な真似をしたのは謝るわ。けれど、これだけは理解して。あなたが戦って、そして勝利してくれないと、人類に明日はないの」

 今更のように弁解したのは、むしろミサトなりの良心の発露ではあった。もっとも、だからといってシンジをエヴァから降ろすつもりも毛頭ないのだが。
 シンジは目を開いた。
 ミサトの言葉に反応したというより、単に騒音に顔をしかめた様子だった。
 モニタ越しに発令所を見下ろす視線は、およそ人間に対するものではなかった。
 地面の蟻を眺めているような、乾いた無関心だけがある。
 ミサトは叩きつけるように通信を切った。

「エントリースタート!」

 もともと、シンジと長々会話する余裕も時間もない。
 乗せた経緯が経緯でもある。発令所職員の注目する中でそれを糾弾されては、士気にも影響する。
 ミサトの命令を受けて、周囲の職員は慌しく動きを再開した。
 プラグ注水、神経接続、回路起動といった手順が踏まれ、少年の精神をエヴァに同調させる。
 やがて計器を睨んでいたマヤが報告した。

「シンクロ率、9.86%。起動指数ギリギリです」
「動けば文句はないわ」

 立って銃を取れるのならば死人でも使う軍人の表情で、ミサトは言い切った。

「シンジ君、行くわよ」

 ミサトはもう一度、プラグ内への回線を開いた。
 最後通告のつもりだった。
 返答はない。予想はしていたが。
 彼はただ、そこにいるだけという風に座っていた。
 一瞬だけ、ミサトは微妙な違和感を覚えた。
 初めて写真を見たときから思っていたことだが、碇シンジは線の細い、端整な顔立ちの少年だった。
 しかしこのとき、ミサトはただ純粋に、彼の顔はこれほど綺麗だったのだろうかと思ったのだ。
 静かで穏やかで、波紋一つない湖面のような。

「……発進!」

 躊躇も違和感もすべてを振り払うように、ミサトは命令した。
 彼女の望んだ戦いが、これから幕を開けるのだ。つまらないことで時間を潰すつもりはなかった。



 エヴァに乗せられて発進するまでに数十分が費やされたとするならば、敗北するには数十秒で十分だった。
 リフトオフの直後、光の槍で脳天を串刺しにされ、使徒の顔らしきものから発する衝撃波で吹っ飛ばされて、初号機はなす術もなく大破した。
 だから無理だといったのに。
 プラグの中で紅いLCLを眺めながら、シンジはつらつらと考えた。
 シンクロ率十パーセント以下。起動指数ぎりぎり。人間に例えるならばようやく二本足で歩き始めた赤子のようなものだ。
 それが実戦で成果を上げられるならば、世の中はよほど単純にできていることになる。
 こうなることはわかっていた。
 わかりきっていた。
 にも関わらず、こうならざるを得ないというのは、一つの運命というものだろうか。
 今のところ、頭部の損傷を除けば、初号機の被害はそれほどではない。
 眼部のメインカメラが片方イカれているが、戦闘を続行するのは決して不可能ではないだろう。
 ――ただそれも、動かせれば、の話だが。
 もはやピクリともしなくなった初号機、その胎に包まれたシンジは、迫り来る使徒の姿を他人事のように眺めていた。


 発令所では悲鳴のような命令が響き渡っていた。

「シンジ君、立ちなさい、シンジ君!」

 沈黙を返す通信回線に、ミサトは何度も声を張り上げる。
 何十度目かの命令が無為に終わってから、彼女は大きく舌打ちして唇を噛み締めた。
 絶望。
 一言でいえばそんな雰囲気が漂う中、二十九歳でネルフの実戦指揮官を任された女は、いまだ戦意を失っていなかった。
 この場は確かに負けたかも知れない。
 それは仕方がない。
 だが、最終的な敗北を意味するものでは決してない。
 初号機を回収し、応急処置を施してどうにか実戦に耐え得る状態へ持っていく。
 それに並行して国連軍に協力を要請、N2爆雷の投下で街を焦土と化しても使徒を足止めし、ダメージを積み重ねる。
 そして最終的に、弱った使徒に修復したエヴァで近接戦闘を挑む。
 素人のパイロットでも、これなら勝算はある。
 だがそのためにも、いましばらくは初号機に時間を稼いでもらわねばならなかった。
 おそらくはネルフへのあてつけのためだろう、指揮権を委譲した国連軍はさっさと全軍を後退させており、本格的な再攻撃にはもうしばらく時間を要する。
 人類科学の最終兵器であるN2兵器――もちろんエヴァの登場以前の、という意味だが――にしても、どこにでもあるわけではない。
 問い合わせて見たところ、この近くでは海を隔てた中国の国連軍基地にしか、ミサトが求める規模と数のN2兵器は貯蔵されていないという話だった。
 徴収するにしても、まずは運んでこないことには話にならない。
 国連軍の再編、N2兵器の空輸、それを待っての再攻撃開始まで、シンジには粘ってもらわねばならなかった。
 本来、この役目はレイにやらせるつもりだったが、そのレイが失われた今となってはシンジを使う以外にない。
 明確な意思のもと、再度叱咤の声を張り上げようと、ミサトは息を吸い込んだ。

「初号機とシンジを戻せ!!」

 忘れられかけていた男の大声が響いたのは、そのときだった。
 ミサトはあからさまな嫌悪感を伴った視線を向ける。
 司令席に碇ゲンドウの姿があった。
 よほど急いで駆けつけたのか、呼吸が荒い。ただ目だけが爛々と尋常ならざる光を放っていた。

「碇司令、困ります」

 苦虫を噛み潰したような声と表情で、ミサトはいってのける。

「戦術的判断は自分に一任されていたはずです。碇司令はどうか、大局的な見地に立った戦略・政略に集中していただきたく思います」

 口調は丁寧だが、要約すれば「口出しするな」ということに他ならない。
 冷ややかな態度は、しかしミサトに限ったものではなかった。
 その場にいたほとんどの職員が、突如現れてとんでもない台詞を叫ぶ総司令に対し、礼儀正しい無視か非礼一歩手前の侮蔑を態度に表している。

「……状況が変わったのよ、葛城一尉」

 発令所の扉が開いて、今度は技術部長が顔を見せる。どこか疲れた表情だった。

「レイを失った今、シンジ君は替えの利かない重要な戦力なの。碇司令は初戦でそれを失うことを何より恐れているのよ」
「状況が変わったからこそ、有効に使い切るべきなのよ」

 冷徹な軍人そのままの態度でミサトは言い切った。
 むろん彼女は、ゲンドウやリツコにいわれるまでもなく、シンジと初号機の生還を第一に考えた作戦を組みたてている。
 今後予想される第二第三の戦いを考えれば、シンジには生き残ってもらわねばならない。
 私人としても、短い時間とはいえ言葉を交わした――例え会話とは呼べないような代物だったとしても――間柄だ。多少、人格的にいけ好かない部分があるにせよ、目の前で死なれるのは気分が悪い。
 だが、彼女は軍人であり、これは戦争だった。
 負ければ後のない決戦なのだ。彼女個人に関していえば、亡父の弔い合戦でもある。
 いかなる犠牲を払っても、目の前の敵に勝利しなければ明日はない。
 極端な話、ミサトは必要とあれば初号機に使徒を足止めさせて、丸ごとN2爆撃で焼き尽くすことすら選択肢に入れている。
 素人のパイロットで勝つにはそれもありだろう、と、己を構成する人間的な部分を意図的に休眠させて、そう考えていた。
 リツコはため息をつき、頭上からミサトを睨み付けるゲンドウを横目で見やった。
 哀れな男、率直にそう思う。
 綾波レイの突然の死亡、スペアの肉体の原因不明の崩壊といった現実は、堅固な鋼に鎧われたあの男の精神に亀裂を入れた。
 妻の面影をあの人形に見ていたゲンドウからすれば、さぞかし刺激が強い光景だったのだろう。
 補完計画も根本から修正を迫られた。
 もはやリリスを用いての補完は不可能に近い。
 ここで、碇シンジという予備の駒が、正真正銘唯一無二の駒に昇格したわけである。
 ヒステリックになるのも、まあ、やむを得まい。無様も極まるが、理屈としては理解できる。
 リツコから嘲弄まじりの同情を受けていることには気付かぬ様子で、ゲンドウは語を重ねた。

「使徒には作戦部の装甲部隊と国連軍をもって対処したまえ、葛城一尉。初号機の保全が最優先だ。貴重なパイロットを無用の危険にさらすことは許さん」
「エヴァ以外の通常戦力では十分な足止めが出来ず、被害が大きすぎます。だからこそ、我々ネルフとエヴァが必要とされているはずです」
「意見を求めた覚えはない! これは命令だ。多少の犠牲は構わん、初号機を回収し、当面は通常戦力でのみ使徒に対処したまえ! 従わぬというなら、抗命罪をもって君を処断する!!」
「…………!」

 ミサトは沈黙した。
 冷徹無比の総司令がとうとう発狂したのかとすら思った。
 しかし、軍規はその男に彼女を処断する権限を与えている。
 従わないわけにはいかなかった。

「……了解しました。ただ、小官が意見を具申したことは、ご記憶いただきたく存じます」

 歯軋りするような捨て台詞を吐いて、ミサトは上官を睨み付けた。


 その後、数時間に渡って第参新東京で行われた戦いは、作戦とはとても呼べない凄惨な様相を呈した。
 最優先で初号機を回収するため、ろくな準備も編成もされていない部隊を投入したのだから、当然の結果ではある。
 ネルフ作戦部が少ない予算の中でどうにか揃えていた――ネルフ自体には潤沢な予算が与えられているのだが、その大半はエヴァンゲリオンと兵装ビルに振り分けられている――装甲部隊は、わずか三十分で壊滅した。
 要請の名を借りた強権発動で、無理やり呼びつけた国連軍の航空部隊も、ほどなくして同じ運命をたどった。
 どうにか初号機を回収し終えたとき、費やされた人命は四桁に達し、しかもこれは順次増加することが確実になっている。
 航空部隊に続いて、やはり呼びつけられた国連軍地上戦力も同じ運命をたどるだろうから。
 ミサトが当初計画していたように、十分な再編をすませた上で再出撃を行っていたのなら、国連軍は勝てないにしても最小限の損害で時間を稼ぐことに成功していただろう。
 しかし、ネルフ総司令の望んだ状況はそれを許さなかった。
 脱落者が出ても構わない、布陣など組む必要もない、とにかく急いで駆けつけて来い。そして使徒に特攻しろ――ゲンドウが国連軍に求めたこととは、つまるところそれに尽きたからだ。
 結果、不幸にして足の速い者から順に接敵し、各個に撃破されるという、消耗戦というのも生温い戦力の逐次投入という愚に陥っている。
 そして、膨大な血量を代償に生み出される成果も、徐々に少なくなっていった。
 投入できる戦力自体が激減したことと、事態を知った国連軍上層部及び現場の指揮官らが、何のかのと名目をつけて撤退ないし進軍停止――要はサボタージュを始めたのだ。
 ミサトはその事実に気付いていたが、ゲンドウに何ら忠告しようとはしなかった。
 同じ軍人として、国連軍の行動に反感よりもシンパシィすら感じたのだ。
 そもそも、今更大声あげて叱咤したところで、サボタージュを始めた兵士がいうことを聞くはずもない。のらりくらりとはぐらかされるに決まっている。
 誰にも止められないままに状況は悪化し、そして戦闘再開から四時間後、ついに使徒のジオフロント進入という段階に達していた。
 本来、二十二層に及ぶ装甲防御で覆われたジオフロントは、容易に進入を許さない。
 しかし使徒は、エヴァンゲリオン射出用リフトを逆に伝うことによって、難攻不落のはずのジオフロント進入を成し遂げた。
 使徒に通常戦力での波状攻撃をかけながら初号機を回収したとき、手近なリフトを使用したのが見られていたらしい。
 学習能力があることはあるていど予想はついていたが、まさかここまでとはミサトも思っていなかった。
 また一つ総司令を憎む理由を積み上げながら、ミサトはリツコに向かって問いかけた。

「司令は満足かしら? 大事な息子さんと初号機をどうにか回収できて?」

 嫌味たっぷりな口調は、ミサトの性に合うものではなかったが、さすがの彼女も疲労と怒りで精神がささくれ立っている。

「――さしあたって必要な時間は稼いでいるわ。N2爆雷もじきに到着するんでしょう?」
「ええ、おかげさまでね。で、本来の主役である初号機とパイロットの具合はどうなの?」
「大破したとはいえ、素体部分がそれほど傷んでいないのが不幸中の幸いだったわ。装甲の取替えさえすめば、何とか。パイロットは肋骨にヒビが入っている以外に大した怪我はなし」
「再出撃にかかる時間は?」
「おおよそ半日。あとそれだけ稼いでもらえれば、殴り合いをさせても心配ないていどには復旧するはずよ」
「半日、ね。気が遠くなるような未来だわ。それまでにここが残っているのかしら?」

 嘲るような口調でミサトはいった。
 実際、あと半日も時間を稼ごうと思えば、それこそN2兵器を多用するしかない。
 ミサトもそれは予定のうちだったが、まさかジオフロント内部で使用することになるとは思っていなかった。
 使われるN2兵器の規模と数にもよるが、使徒も素直に足止めされてくれるかどうか。
 ただでさえ高い学習能力と再生能力を確認されている相手である、最初にN2攻撃を食らったときほどの効果を望むのは楽観的に過ぎるような気がする。
 ミサトは初号機の修復を素体部分に限定し、防御装甲は諦めることで再出撃を急がせるよう具申したのだが、またもやゲンドウがそれを却下した。
 とにかく万全に、安全に、初号機を運用することが最優先だと総司令は言い放ったのだ。
 馬鹿ですか、あなたは――思わずそう叫びかけたミサトを責められる人間はいないだろう。
 兵器というのは壊れることを前提に造られるものだ。
 そして何より、それは道具であり手段であって、目的ではない。少なくともミサトにとってのエヴァとはそういうものだった。

「総司令閣下は初号機がよほどお大事なようね? それとも息子さんが可愛いのかしら」

 荒んだ気分のままに、ミサトは言い放った。自分の台詞の、特に後半の部分は、欠片も信じていなかったが。



 総司令執務室では黒々とした陰鬱な空気がとぐろを巻いている。
 その源泉となっているのはむろん部屋の主であったが、このときばかりはその右腕たる老人もそれに一役買っていた。

「――我々の計画は八割方修正を余儀なくされるわけだな。それも成功率が低い方へと」

 デスクのゲンドウを横目で眺めながら、ソファに座り込んだ冬月はぼんやりといった。
 手元の書類――人類補完計画の中間報告書を、ただの紙切れであるかのように弄ぶ。

「ダミープラグの製造計画も頓挫。初号機の覚醒にロンギヌスの槍の始末。アダムの処理。どうにもならないことだらけだ」

 老いた声は、投げやりにすら響いた。
 もともと、ゲンドウほどの妄執はなく、市井の学者としての良識をどこかに残していた冬月である。
 もたらされた衝撃の巨大さに、いっそすべてを諦めるべきかとすら頭の隅で考えていた。

「で、当面の問題は、目の前に迫っている使徒だが。勝算はあるのか?」
「……それは葛城一尉の仕事だ」
「ああ、そうだろうな。だからといって、総司令がさっさと奥に引っ込んだのも問題だと思うが」

 冬月は皮肉った。
 戦況は膠着状態に陥っている。
 つい先刻、ようやく到着したN2兵器による爆撃が実施されたばかりだ。
 使徒はそれを受けて、現在自己再生中。頃合を見て三度目四度目のN2爆撃も実施される予定であり、ひとまず時間を稼ぐことには成功している。
 冬月は一応、そのことを確認してからこの執務室に足を向けたのだが、ゲンドウに至っては初号機の回収を見届けた直後には発令所から姿を消していた。
 そのときの発令所の部下たちの眼差しを、冬月はよく覚えている。無能、臆病者、政治屋、声にならない罵倒が凝縮されたような視線だった。
 冬月はそれを咎める立場にあったが、何をいう気にもなれなかった。弁護のしようもないし、そもそも致命的に意欲が湧かなかったのだ。
 もっとも、ゲンドウや自分が発令所にいたとてどうにかなるとも思っていない。
 リツコが嘲弄まじりに看破したように、碇ゲンドウは――そして冬月自身も――、科学者であり政治家であって、軍事に関しては素人に等しい。
 今回の使徒戦に際しても、二人の頭にあったのは初号機の暴走を期待するていどのことで、はっきりいってこれは作戦などと呼べる代物ではなかった。
 そしてこの「作戦」も、今となっては望み得ない。
 あまりにリスクが大きすぎる。
 彼らが、起こるかどうかもわからない暴走に望みをかけられたのは、仮に暴走しなくても――それによって初号機が敗れても、後にレイが控えているという安心感があったためだ。
 レイは重傷を負っていたが、いざとなればスペアの肉体に魂を移せばそれですむ。
 シンジはしょせん予備に過ぎず、レイさえいればとにかくどうとでもなるという事実が、二人の無責任とすらいえる「作戦」に安心感を与えていた。
 しかし現実は、彼らの安寧を突然に消失させた。
 もはやシンジが敗れても後に続く者はなく、予備に過ぎなかったはずのパイロットは掛け値なしの切り札と化した。
 暴走などという不確定の事象に望みを託すわけにはいかない。
 こんな初戦で、シンジを失うことなど論外になった。
 ゲンドウが異様ともいえるほど初号機の保全にこだわったのも、それに起因している。
 いや、あるいは――レイを失ったことで、初号機に対する傾倒がより病的になったのかも知れない。
 冬月はかなり皮肉っぽい気分で考えた。
 いまやゲンドウにとって、初号機が戦闘で損傷を負うのは、愛する妻が傷を負うのとまったく同義になりつつあるのかも。

「私はそろそろ発令所に戻る」

 冬月はソファから立ちあがり、意味もなく弄んでいた書類をゲンドウのデスクに置いた。温厚な紳士然たる副司令には珍しい、投げつけるような仕草だった。
 自分がこの部屋にいることがひどく馬鹿らしくなっていた。

「お前も顔を出せ。暇を潰すのに飽きたらで構わん」

 最後にそう言い捨てて、冬月は旧友にして共犯者である男の部屋を後にした。



 技術部総出で初号機の修復作業が行われているケイジを一通り見回ってから、リツコはシンジのいるはずの医務室を覗いてみた。
 シンジのことが気になっていた、わけではない。
 発令所に戻るのがどうにも億劫になっていたのだ。
 総司令の余計な差し出口により、いらぬ苦戦を強いられた親友の機嫌は最悪に近く、それは発令所のスタッフ全体に伝染していた。
 批判を受けるべき当人がさっさと執務室に引っ込んだため、彼らの憤慨は自然鬱屈したものになり、幹部士官の中でも特に総司令に近いとされているリツコにまで白い目が向けられるようになっていたのだった。
 もっとも、エヴァが出撃していない以上、ゲンドウらと同じ意味で発令所にリツコの居場所はなく、修復作業の行われている現場に顔を出した方がよほど建設的、というのも事実ではあったが。
 同様に、パイロットの様子を見て、話をしておくのもまったく無意味なことではない。
 むしろ、エヴァに乗る以前にすませておいて然るべき事柄ではあった。
 リツコが訪ねたとき、シンジは治療を既に終え、ベッドで本を読んでいた。

「シンジ君、具合はどう?」

 リツコは問いかけた。
 先の戦闘で、彼は肋骨二本にヒビを入れていた。
 棒立ちに近い有様で一方的に攻撃を受けたことを考えれば、むしろ軽傷とすらいえる。
 本来、戦闘に復帰するには半月ほど療養するのが望ましいが、現状はそのような贅沢を許さない。
 初号機の一応の修復が終わり次第、痛み止めを注射してでも出撃してもらうことになるだろう。
 シンジは本を閉じ、

「……別に」

 と、心底どうでもよさそうに答えた。
 彼からの好意や信頼などまったく期待していなかったリツコは特に気分を害することもなく、何気なくシンジの読んでいた本の題名を確かめる。
 一昔前にヒットした恋愛小説だった。暇潰しがてらに休憩室の本棚あたりから借りてきたものだろう。

「もう聞いているかも知れないけれど、明日にもあなたには再びエヴァに乗って戦ってもらうことになるわ」

「乗って欲しい」、「乗ってもらわなくてはならない」ではなく、それがあたかも既成事実であるかのようにリツコはいった。人間的な甘さ、あるいは優しさをどうしても捨て切れないミサトと違い、彼女は己の冷徹さを自覚している。

「もちろん、私たちとしても最大限勝算を上げるよう力を尽くすわ。事実、ミサトが今、必死で時間を稼ぎながら使徒の力を削っている最中。あなたはとにかく落ち着いて戦うことを心がけて……」
「……無理ですよ」

 遮るように、シンジはいった。
 それは彼が父と対面したときに発したのと同じ口調、同じ台詞だった。
 少年はまるで謡うように、

「無理です。何も、かも。とうの昔に、終わっている」

 豊かな抑揚のついた彼の声を、リツコは初めて耳にしたように思う。
 彼女はまじまじと少年の横顔を見詰めた。
 母親譲りであろう、端整で柔らかな顔立ち。
 高校生の時分、何度か顔を合わせた天才科学者の顔を、リツコは思い出した。

「……そうと決めつけることもないでしょう。たしかに、先刻は一方的な敗北を喫したけれど、条件が揃えば……」

 シンジは無言で、そしてはじめてリツコに視線を合わせた。
 深海を思わせる底の見えない瞳。
 諦観ではなく、悲哀でもなく、絶望ですらない。
 蜘蛛の巣であがく蛾の羽を観察するような、悪意のない残酷さがそこにあった。
 声を失ったリツコの耳に、廊下をバタバタと走る誰かの足音が響いた。
 音を立てて病室の扉が開かれ、顔見知りの技術部員が飛び込んでくる。

「赤木博士、すぐに発令所にお戻りください! 緊急事態です!」

 リツコは悪夢から覚めたような気分で振り返り、最後にもう一度少年の表情を観察した。
 碇シンジはこのとき、幼児を慈しむように微笑んでいた。



 発令所のメインスクリーンには、信じ難い光景が映し出されていた。
 都合四度目のN2爆撃を食らいつつ、使徒は事も無げに前進を再開していたのだ。
 その姿は、最初に確認されたときから一回り大きくなったようにすら見える。
 いや、実際に巨大化していた。
 四肢らしき部分はさらに太く逞しく、背中には巨大な翼らしきものが生えている。
 それはすでに異形の人型というより、異形の鳥――あるいは天使とも称しうる姿に変貌していた。

「もう一度! 今度は二つ同時に投下しなさい! 本部施設に爆風が来ても構わない!」

 リツコが駆け込んだとき、ミサトは叫ぶようにそう命じているところだった。
 ほどなくして国連軍の爆撃機が飛び立ち、二基のN2爆雷を投下する。国連軍も必死なのか、まさに打てば響くような行動だ。
 西に傾いた陽光にきらめく爆雷が、使徒の頭上に降りかかる。
 着火。爆発。
 途端、スクリーンがホワイトアウトし、計器の類が一時的に麻痺した。
 誰もが固唾を飲んで見守る中、カメラが切り替わり、偵察衛星からの画像が映し出される。
 そこかしこからいっせいに呻き声が漏れた。
 使徒は巨大な翼をマントのようにして自分の体を覆い、N2爆雷の熱と衝撃を完全に防ぎ切っていた。
 ATフィールドの発生反応はない。
 あの怪物は度重なるN2爆撃を受けている間に、生身でそれに耐え得るよう自分を作り変えたのだ。

「リツコ! 初号機の発進準備を急いで!」
「わ、わかったわ」

 もはや余裕も皮肉もないミサトの声に、リツコは慌ててうなずいた。
 初号機の修復はまだ終わっていないが、それを口にできる状況でないことはさすがに理解できる。

「技術部員はただちにすべての修復作業を中断、全力で発進準備に取りかかって! それと誰か、シンジ君を医務室から連れてきて!」

 命じる合間にも、事態はさらに悪化していた。
 N2兵器を凌駕する肉体を手に入れた使徒は、どんな意味でも国連軍の手に負える相手ではなくなっていた。
 戦車砲やミサイルを雨霰と受けながら、それを防御する必要すら感じていないように前進を続けている。
 国連軍にとっての唯一の幸運は、使徒に敵以下の存在と見切られたためか、反撃を受けることもなくなったことだろう。
 ただし、悠然と通りすぎる使徒の背中を見送る将兵の顔には、完全な絶望が張りついていた。
 ミサトはなす術もなくその光景を見守る。
 噛み締めた唇から血が滲んだ。握り締めた拳は小さく震えている。
 ――甘く見ていた。
 そのことを彼女は痛切に後悔していた。
 使徒がいつまでもN2兵器で足止めされてくれるかは疑わしい、それは自分も考えていたことではないか。
 何か他にやりようはなかったのか。
 ささやかな可能性は、今、最悪の現実として形を取っている。

「……第参新東京全域に避難命令。国連軍も撤退……いえ、民間人の避難を誘導してもらって」
「…………! ミサト!?」
「D級以下の職員はただちに退去。……副司令、よろしいですね?」

 見上げた司令席は相変わらず空席のまま。ただその傍らに立ち尽くしていた初老の副司令が、無言でうなずいた。
 彼だけではない。その場にいた全員が、目の前に迫った運命に言葉を失っていた。

「……日向君」

 ミサトは感情を殺した視線で、自分直属のオペレーターに声をかける。
 彼は何かを受け入れた表情でうなずきを返した。

「パイロット、エントリー準備完了しました」

 あえてミサトの命令には反応を示さず、マヤが報告した。年齢に比しても幼く聞こえるその声は、泣き出しそうなほどに震えていた。



 再びエントリープラグの内壁を眺めながら、シンジはしばし無言だった。
 出撃が早められたことについて、彼には毛ほどの疑念も抵抗もない。
 殺気だった技術部員に医務室から連れ出されたときも、不気味なほど大人しくしていた。

『――シンジ君、事態は一刻の猶予もないわ』

 通信回線から早口の台詞。ミサトの声だ。

『あなたはどんな手段を使っても、使徒を倒して。もちろん私たちも全力でバックアップします』

 バックアップ。今更どんな?
 シンジの口元に苦笑が浮かんだ。
 彼はもう潮時だということを知っていた。
 この世界も、自分自身もだ。
 後悔はなく、未練もない。
 ただ、もう少し楽しむ余地はなかったかなと自問していた。

『エントリースタート。第一次接続開始』

 かすかに聞き覚えのある技術部員の声。
 この期に及んでも職務に忠実なのは素直に賞賛すべきだろう。
 けれど、気の毒に。

『シンクロ率……』

 まったくもって気の毒だ。
 だって――

『シ、シンクロ率……2.08%!? エヴァ初号機、起動しません!!』

 ――だって、すべてはもう終わっているのだから。



「どういうことよ、リツコ!?」

 ミサトはリツコの胸倉を掴み上げていた。
 両目からは理性が消し飛んでいる。
 まるで一連の事態の原因がリツコにあるとでもいわんばかりの表情だった。
 普段であればここまで感情的になりはしない。葛城ミサトは少なくとも発令所の部下の前では沈着で冷静な軍人だった。
 つまりは事態がそれほど切羽詰っているということか――リツコは親友とは眼を合わさずにそう考えた。
  いや、考えるまでもなくその通りだ。絶望以外の何をしろというのか。現に今の自分だって、事態の打開にはまるで役に立たないこんなことを考えている。

「……考えられる理由としては、この数時間の間にシンジ君の深層意識で何かしら変化が起こったこと……身体的には大した怪我でもないから、精神の問題ね」
「変化って、どんなよ!?」

 リツコは嘲るように口元を歪め、

「自分を捨てた父親から冷たい態度を取られ、殴りつけられて妙なロボットに乗せられた挙句、得体の知れない怪物に殺されかけた。十四歳の少年にとってはどれだけの衝撃だったのかしらね?」
「…………!!」

 ミサトの手から力が抜けた。
 リツコは文字通り一息つきながら、今しがたの自分の言葉を考える。
 十四歳の少年にとってはどれだけの衝撃だったのかしらね? ――多分、何ほどのこともない。
「無理ですよ」、と。碇シンジは最初からそういっていた。
 その言葉がまさに的中している。きっと、それだけのことなのだろう。
 リツコは奇妙に安らいだ気分で目の前の現実を受け入れた。
 いい気分だった。
 何しろ、もう後のことを考える必要がない。
 これまでの自分の人生にも諦めがついた。
 すばらしきかな我が人生。どこにでもいる愚か者の人生。

「……初号機を射出して」
「は? ……し、しかし」
「地上のM−56番よ。その後は国連軍に……」

 ミサトと日向の会話が聞こえた。
 リツコは微笑を噛み殺した。
 M−56といえば、第参新東京市の郊外といえる地点――つまりこのジオフロントから一番遠い射出口だ。

「ジオフロント内の全職員は緊急避難。ええ、すべての職員よ。……それがすんだらあなたたちも急いで逃げなさい」

 囁くように命じてから、ミサトはリツコに顔を向けた。
 何か憑き物が落ちたような、晴れやかな顔だった。
 きっとそれは、今の自分と同じような顔なのだろう。リツコは自分の推測を疑わなかった。

「リツコ、あんたもよ」
「馬鹿いわないで」

 リツコは即答した。

「話したことなかったかしら? MAGIは私の母さんの遺作であるだけでなく、母さんの思考パターンが移植されたもう一人の母さんなの。不肖の母で、親不孝な娘だったけれど、置いていくなんて論外ね」

 ミサトはしばらく、大学以来の親友の表情を見つめていた。
 馬鹿ね、と呟く形に唇が動くのをリツコは見たように思った。



 最初の出撃よりさらに長い時間、Gを感じたように思う。
 細い体が悲鳴を上げ、そしてそれが絶叫に変わる寸前、シンジはようやく地上にたどり着いたことを知った。
 外部カメラを作動させる。
 まるで開発の手が付けられていない山地がモニタに広がった。
 遠くに使徒との戦いで半壊した市街地が望める。
 多少、意外ではあった。
 シンクロできないことはわかっていたが、それを承知で使徒の前に放り出されるのではないかと思っていたのだ。
 ――葛城ミサト。彼女は最後に、復讐者ではなく軍人として、あるいは人間としての判断を行った。
 つまりはそういうことか。
 シンジは端末を操作して、プラグを排出させた。
 LCLに濡れた体で外に出る。
 時は夕刻。陽は西に落ち、気の早い夜陰の冷気が微風とともに肌を刺した。

「黄昏……か」

 シンジは物言わぬ初号機の姿を一瞥し、歩き出した。
 終りが来た。この世界の終りが。
 ならばそれを看取ってやらねばならない。
 ――落陽の最後の煌きが目を焼いた。



 ネルフ本部には警報が鳴り響いていた。
 何の警報であるか、今更説明されるまでもない。
 人類最後の砦として築かれた要塞都市が、最初で最後の役割を果たそうとしているのだ。
 総司令執務室のデスクで、ゲンドウは忙しく端末を操作していた。
 MAGIシステム――人類補完計画――E計画――ダミープラグ――ロンギヌスの槍――アダムとリリス――S2機関――
 およそネルフにおいて最重要機密とされるデータを、大容量のデータディスクにまとめる。
 これさえあれば、再起は不可能ではない。
 そう、自分の身柄を保証するこのデータ、エヴァ初号機、そしてパイロットが揃っていれば、彼の悲願も終りはしない。
 尽きせぬ執念、果てしない妄執を糧に、ゲンドウは執務室の壁にカモフラージュされた緊急脱出用カプセルの入り口を開いた。内部に入ってスイッチを入れてしまえば、エヴァの発進用リフトに並行して造られたシューターにより、黙っていても地上に射出される。
 一昔前の古城じみたこの仕掛け、つまり城塞陥落に際しての最後の逃げ道の存在は、冬月にすら教えていない。
 まさか使うことになるとも思っていなかったが、備えはしておくものだ。
 データディスクといくらかの現金を胸元に納め、ネルフ総司令は振り返ることなく己が城と部下たちを捨てた。




 メインスクリーンには破滅を意味する光景が映し出されていた。
 異形の天使がネルフ本部施設にたどり着き、外壁を破壊して侵入を果たしたのだ。
 それを阻む兵士の姿も既にない。
 作戦部長の命令を受け、ほとんどの職員が逃げ散っている。
 発令所で腕を組みながら、ミサトは最後の刻を待っていた。
 発令所の中を見まわす。
 当たり前の、普段と同じ光景――端末に向かって黙々と職務を果たす部下たちの姿がそこにあった。
 彼らは一人も欠けることなく、日常の業務とまるで変わらない様子で端末に向かっていた。
 再三命令したにも関わらず、彼らは結局、彼らの上官と運命をともにすることを選んだ。
 国連軍や各国政府から金食い虫と囁かれていた特務機関、しかし今このときに彼らが示した態度は、人類の存亡を担う軍隊にふさわしいものだった。

「使徒、ドグマに到達」
「ヘブンズ・ドアが破られました」

 淡々とした報告が上がってくる。
 ミサトはため息をついて、傍らの親友を見やった。

「ね、リツコ?」
「何かしら」
「地獄って、あるのかしら?」

 リツコはまじまじと親友の顔を見つめ、ややあってから応えた。

「ないんじゃない?」

 そっか、とミサトは残念そうに首を振った。
 二人の女は、まるで大学時代に――彼女たちが初めて出会った頃に帰ったような顔で、微笑を交し合う。
 この期に及んで何を言い残すこともなかった。
 ただ彼女たちは、最後の瞬間まで彼女たちであろうとしていた。
 発令所上部、空の司令席の脇には、冬月がやはり普段通りの態度で佇んでいる。
 眼下の部下たちを見下ろす視線には、悼ましいものを見る光があった。
 自分がこれほど部下に恵まれていたことに、ついぞ気付かなかったことを、老人は後悔していた。
 もっと早くに彼らを知るべきだった。痛切にそう思う。
 彼らに相応しい副司令たることも、できたかも知れないというのに。
 だが、もう遅い。遅いのだ。

 ――すぐ近くで何かが崩れ落ちる音がした。
 発令所全体が左右に揺れる。
 ミサトは部下たちを振り返る。
 いつしか全員が立ちあがり、彼女に向かって敬礼していた。
 ミサトは軽くうなずいて、国連軍の上級将校すらも満足するであろう敬礼を返した。
 最後に確認したそれぞれの表情は、たしかに微笑んでいた。



 どん、と。
 全身を貫くような音と衝撃が轟いた。
 ゲンドウの周囲が暗闇に閉ざされ、脱出用カプセルそれ自体が大きく揺さぶられた。
 カプセルの耐震設計を大幅に越える衝撃と震動。
 広くもないカプセルの中でゲンドウの体は前後と左右に飛び跳ね、全身を何度となく打ちつける。
 ぼきりと胸の辺りで鈍い音が鳴った。
 同時に、臓腑を文字通り掻き回されるような激痛が走る。
 折れた肋骨が内臓に刺さったのだ。
 荒い息をつきながら、それでもゲンドウは胸元のデータディスクを探った。
 ――あるはずの感触がない。
 暗闇の中で床を探り、それらしき固形物を捜し求める。
 足元でがちゃりという音がして、それと同時にカプセルが運動を停止した。
 カプセルの扉がわずかな軋みを建てながら開かれる。
 扉から射す光の中、ゲンドウは床に散らばったデータディスク、そのなれの果てを見た。
 思わず呻き声を上げる。ディスクは真っ二つに破損していた。
 それでもゲンドウの意思は不屈だった。ディスクの欠片を拾い上げ、傷つけないよう抱え込む。やりようによってはおさめられたデータの一部なりとも回収できるかも知れない。
 よろめく足で外に出る。第参新東京市郊外の丘の上。
 ――見下ろす周囲の様相は一変していた。
 第参新東京市の地上部分は、その半ば以上が吹き飛んでいた。
 使徒の攻撃とN2兵器の爆撃で、いい加減ジオフロント天井部の地盤が限界に来ていたところへ、ネルフ本部の自爆が仕上げを行ったのだろう。
 遠目に見下ろせる地底では、いまなおいくつかの火球が連続して生じていた。
 日も暮れた薄闇の中、カプセルの扉から射した明かりはこれだったのだろう。
 特務機関ネルフ、建前にしか過ぎなかったはずのお題目に、忠実に殉じた部下たちの最後の誇りがそこにある。
 ゲンドウは心を動かさなかった。そのような感傷は、とうの昔に捨てている。
 ―― 一刻も早く遠くへ逃げなければ、ここも危ない。
 そう思いつつも、しかしゲンドウは動けなかった。
 崩壊するジオフロント、連続する火球の中に、彼は一つの奇跡を見たのだ。
 爆発よりもなお鮮やかに輝く、巨大な光の翼。
 大きく羽を広げた異形の天使。
 あれだけの爆発の中で、あの使徒はなおも生きていた。
 そして、その本懐を果たしたのだ。
 ジオフロントの奥深くに封印されていた女神と、あの天使はついに邂逅した――
 忘我の一瞬が過ぎた後、ゲンドウは慌てて振り返り、わき目も振らず走り出した。
 折れた肋骨、負傷した内臓が激痛を訴えるが、それどころではない。
 これから始まるのは彼がもっとも恐れていた事態――彼の見捨てた部下たちがその命を賭して食い止めようとした現象。
 すなわち、サード・インパクト。
 この距離で逃れる手立てはないのかも知れない。
 だが、ゲンドウは諦めるつもりはなかった。
 生きるのだ。何としても生き延びて、もう一度妻と会う。
 それだけのために自分はこれまで生きてきた。
 今更それを諦めるつもりはない。
 だいたい、サード・インパクトとはいえ、死ぬと決まったわけではない。
 セカンド・インパクトを経ても人類はなお存在しているし、発生地の南極にいながら生き延びた女もいた。
 自分もまた、生きぬいて見せる。
 碇ゲンドウは遠い妻の思い出にそう誓約していた。
 ――背後から射す光はなおも輝きを増していた。
 背中にちりちりと焼きつくような熱すら感じる。
 振り返って確かめる勇気はなく、その余裕もない。
 よろめく足取りで、ただひたすら遠くへと逃げる。
 瞬間。
 重力が消失するような感覚があった。
 強烈な爆風に吹き飛ばされたのだと知ったのは、地面に叩きつけられてからのことだ。
 さらに何本かの肋骨が砕け、口から血の塊が飛び出した。
 足にも亀裂くらい入ったのかも知れない。腕もだ。
 地面に這いつくばりながら、ゲンドウはなおも逃げようとしていた。
 ユイ。ユイ。ユイ。
 その名前だけが脳裏に回る。
 そしてその名だけを糧として、ネルフ総司令は生き延びようとしていた。
 例え芋虫のように這ってでも、どこか安全な場所へ――
 そのとき彼は、自分のすぐ傍に人影が佇んでいることに気づいた。
 痛む体に鞭打ち、顔を上げる。
 いつの間にか亀裂の入っていた色付き眼鏡の視界の中に、ゲンドウは見覚えのある輪郭を見た。
 ――黒いズボンに白いシャツ。どこにでもある中学生の夏服。

「……シン……ジ……?」

 閃光に横顔を照らしながら、それはすぐ傍に立っていた。
 爆風にひるがえるその髪は、記憶にあるそれよりも妙に長く――蒼銀にきらめく。
 血よりもなお濃い紅の瞳が、静かにゲンドウを見下ろしていた。

「…………レ……イ……」

 それは――もう「彼女」とでも称すべき姿になっていた。
 中性的と評されていた顔立ちは、もはやはっきりと女性的なラインを取って。
 もとより細かった四肢はさらに細く白く、胸もわずかに膨らんでいる。
 破滅の光に照らされて、吹き荒ぶ風にさらされながら、その姿はどこまでも静かで、美しい。
 ゲンドウは崇めるような眼差しで、ただ呆然とそれを見上げていた。

「…………」

 沈黙の数秒間、「彼女」はゲンドウを観察してから、不意に興味をなくしたように踵を返した。
 何の躊躇もない、残酷なまでの無関心。

「シンジ……レイ…………!!」

 ゲンドウはうわ言のようにその名を叫びながら、遠ざかるその背中に手を伸ばした。
 求めた背中は振り返ることなく小さくなっていく。
 ゲンドウは蠢きながらもその背中を追い続けた。
 いつしか視界が暗くなっていく。
 体の感覚もなくなっていく。
 世界から音が消え、それでも果てぬ妄執だけが体を満たした。
 ――やがて、ついに動かなくなったかつてのネルフ総司令の体は、しかし腕だけが何かを求めるように宙に伸ばされていた。









 壊れゆく世界の中心に向かって、彼女は無表情に歩き続けた。
 小高い丘を登り、はるか遠くに破滅を見下ろす。
 異形の天使の光の翼は、数えられるだけで六対ほどにも増えていた。
 彼女はただ静かに見下ろしていた。
 この世界とともに、この体もまた終わりを迎えることを知っていた。
 もともと、異形の天使の羽ばたきを待つまでもなく、限界が近くなっていた体だ。
 アレと同じ、異形の女神たる自分の魂は、ヒトであるこの体には大きすぎる。
 何度となく繰り返したことだ、今更恐怖はない。
 それに何より、もうこの体からは「彼」の魂の気配が失せつつある。
 ならば――
 この世界への未練など、どこにもない。

 異形の翼が光を増していく。
 世界が白く漂白される。
 膨大な熱に埋め尽くされる。

 三度目の裁きの光にその身を任せながら、彼女はただ、静かに佇んでいた。
























 ――そして気が付くと、「彼女」はまた、あの夏の街角に立っていた。
 遠くのビルの隙間に使徒の姿が見える。
 UNのロゴを付けた戦闘機が、虚しくミサイルを吐き出している。
 ああ、よかった。
「彼」とまた一つになれたことに、「彼女」は安堵する。
 もう間もなくすると、作戦部長が車を飛ばして駆けつけてくる。
 そして、エヴァに乗って戦わされるのだろう。
 もはや自分には無理なのに。
「彼女」と「彼」、本来二つであった魂が、一つの肉体に詰め込まれたそれを、エヴァはパイロットとして受けつけない。
 おそらく、精神のありようそのものが、ヒトとも使徒ともかけ離れた中途半端なものになるからだろう。
 時間がたつごとに、「彼」の肉体は「彼女」よりへと徐々に変質していく。肉体に満たされた二つの魂に、どうしようもない質量の差があるからだ。
 意識の上でも、「彼」であった頃の自我は少しずつ消えていく。「彼」を感じられないエヴァは、ますます自分を受けつけなくなる。
 ――今ごろはネルフの医務室でも、本来この世界で生きるはずだった「綾波レイ」が死を迎えているはずだ。
 一つの世界に二つの同じ魂が生きる余地はない。
 あるいは、この世界における「綾波レイ」に、自分の記憶と自我が宿り、そしてそれがこの肉体へと移り住むのかも知れない。
 そのあたりの理屈は「彼女」にもよくわかっていない。
 いや、わからないといえば、この果てのない世界の連鎖についても同様だ。
 破滅するごとに同じ時間軸へと巻き戻されているのか、それとも破滅するごとに新しく世界が造り直されているのか、それは「彼女」にもさっぱりわからない。
 ただ現象として、世界が滅び、そのすぐ後に「彼女」はこの日の街角に立つ。
 それだけが何度となく繰り返されている。

 ……けれどまあ、そんなことはどうでもいいことなのだ。
 重要なのはたった一つ。たった一つきり。
「彼」と一つになれた「彼女」が、この上なく幸せだということ。
 もうおぼろげになりつつある最初の生で、その意識を閉じる瞬間、彼女は全身全霊で願ったのだ。
 死にたくなかった。生きていたかった。
 彼と一つになりたかった。ずっと離れず、一つでいたかった。
 狂おしいほどのその願いが、今、かなえられている。
 何度も何度もくり返しかなえられている。
 新しい世界で、新しい「彼」と融け合う都度、「彼女」は幸福に満たされるのだ。
 無限に連なる幸福の連鎖、これを喜ばずしてどうするのか。
 この体が果てるまで、この世界が尽きるまで、「彼女」は「彼」との蜜月を楽しんで、そしてまた次の世界の次の「彼」と融け合うために旅立つ。
 ――それはなんて、目のくらむような幸福な生。

 視界の端に撃墜される戦闘機が見える。
 逆の方からは見覚えのある車が駆けてくる。
 そのすべてを無関心に眺めながら、「彼女」はただ、自分一人の楽園に幸せを感じていた。












終劇

 



後書き

 まるは様のキリリク、「サキエル戦で初号機が暴走せず、サード・インパクトが起こる」SSでしたー。
 えれー難産に、何度構想を練り直したか。
 んで、リクエストに七瀬風のアレンジを施したのが本作でございます。
 この作品での「彼女」は、Moonのイメージに近いですね。
 ラスト辺りは書いててかなり楽しかった記憶が(笑)。
 私が書いてて楽しくなるキャラというのはたいがいこうなります、はい。

 ……どーでもいいですが、これってもしかして七瀬由秋初の逆行モノに分類されるような気も。うーん、初体験(笑)。

 

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