EVA -- Frame by Frame --

 

<第12話 秘蹟の価値は>

 

 15年前。二度目の最後の晩餐−−

「ナザレの予言者の封印が解ける」

「魚座の二千年期が終わる」

「光と闇の合一。天国と地獄の結婚の時」

 

***

 

 今でも夢を見る。悪夢だ−−2000年9月、南極大陸。

 葛城ミサトは、上半身を起こした。薄暗い部屋の中でも、胸から腹にかけて刻まれた傷跡は見える。この夜が終わるまでは、まだいくらかの時間がある。額に浮かんだ汗は、暑さのせいではなかった。むしろ、悪寒。半透明のオレンジ色をした羽根がゆっくりと天に向かって広げられる映像が再現される。

 くっ...過去に絡め取られている時ではない。あの加持が、情報を出してきた。何かの意図をもった工作ということも考えられるが、事態が予想を越えた展開をしているのは、間違いない。

 ミサトは起き出して台所に向かい、ビールのシックスパックを取り出した。そう、日本人は、昔から朝はご飯と味噌汁、それからお酒と決まっているのだ。朝ぼらけを前に、ビールを一足お先に飲んで悪いということはない。

 プシュ。ガブガブ。

「ミサト?」

 目だけ声の方に向けた。アスカだった。薄闇の中、少女は一瞬呆れたそぶりを見せるが、いつもと違うミサトの陰気な飲みっぷりに気づくと、無言でその様子を見つめた。アスカは何か言いたそうに見えたが、手にしたミネラルウォーターをごくりと飲み、台所から立ち去った。

 冷蔵庫のとなりのワゴンには、水を満たしたビーカーと薬の袋。それを心象風景の一部としていた少女は、まだ隣室でまどろみの中にいる。

 

***

 

 朝はキライ。

 また、名も知らぬ鳥の鳴き声で目がさめた。榎本ミヲには朝を告げるその声がうとましかった。枕元では、お約束のようにハローキティの人形がミヲを見守っている。

 潮くんが、行ってしまう。登校日にヒカリから彼の転校のことを知らされたとき、ミヲは目の前が真っ暗になった。しかも、ネルフ勤務のマドカおねえさんはもう東京を去ったという。ほんとうなら、夏休みが終わり、新学期の来るのが待ち遠しいはずだった。内気な少女には、学校で思い人の姿を見かけ、偶然をよそおって言葉をかわすことが精一杯だったから。けれども、今は時の過ぎるのが恨めしい。

(言わなくちゃ)

 ベッドから身を起こしながら、ミヲは思う。しかし、それがいかに難しいかは、自分がいちばん良く知っていた。キャンプの夜に、友達に想いを打ち明けただけでも、大変な決断だったのだ。

 シャワーを流す。濡れた髪がうつむいた頬に貼りつく。綾波レイほどではないが、白く細い体の輪郭をなぞるように、水が流れ落ちていった。

 ミヲの一日は、今朝も涙で始まった。

 

***

 

 この不安はどうしてだろう。

 碇シンジは思う。気持ちは通い合っている...のだと思う。

「帰りたくない...」

 そう言って、レイはこのマンションにやってきた。シンジとレイは、互いにすがるように寄り添い、離れようとしなかったので、ミサトはかれらを自由にさせることを選んだ。しばらく経って、ミサトがシンジの部屋にようすを見に行くと、そこには中学の制服も脱がず、抱擁し合ったまま、すやすやと眠る二人がいた。やがて気配に気づいたか、シンジがうっすらと目を開いた。

「ありがとう...ミサトさん...」

 それだけ小声で言うと、シンジはまた眠りにもどっていった。

 その翌朝、目覚めたシンジは腕の中にレイがいないことに気づき、弾かれたように部屋から飛び出した。一瞬ののち、恐慌は安堵に変わる。リビングには、独り静かにたたずむレイの姿があった−−

 

(綾波が、ここにいる)

 早朝の透き通った光の中、「昨日」と「今日」の結節点。彼女とともに新たな一日が始まる。

 気配を感じたのか、レイはシンジの方を向いた。前髪がわずかに揺れる。

 刻が、静止した。

 そのときの横顔を、シンジは一生忘れないだろうと思う。儚い、しかし決して失わせてはいけない少女がそこにいた。

 

−−それからレイはミサトのマンションに移り住み、しばしの時が過ぎた。荷物は事実上なかった。彼女の持ち物は、ネルフからの支給品ばかりだったから。

 今では、朝起きれば、彼女がいる。言葉少なに、リビングで夏休みの宿題をする。失敗しながらいっしょに夕食を作る。奇妙に静かな、しかし危うい均衡の日々。しかし、考えは巡り巡って、ドグマ最深部で起きたことに戻っていく−−崩れていく幾多の綾波レイたち。

 あの時、シンジはレイの想いを拒絶した。溶け合う心が、怖かった。それが初号機に迫り来る使徒の狂った情念であったことはわかる。しかし、あれがレイの想いをうけたものだったことも確かだ。そのことは、シンジの心の奥深くを傷つけていた。ならば、もし使徒の想いを受け入れていたら?

 それから、ずっと答えのない問いかけばかり続けている。けっきょく、自分は何もわかってない。エヴァの操縦はできる。でも、それだけだ。重要なことを、何も確かめないまま、日々が走り過ぎていく。確かなことは、一つだけだ。

 綾波が愛しい。

 だから、僕は今ここにいる。もつれ合った糸は、多分そこからほぐしていくしかない。その先に何があっても。

 そんな思案を、小さく開いたフスマからきこえるレイの声がさえぎった。ほのかに石鹸の香りがただよう。

「シャワー、済んだから...」

 

***

 

 ネルフ本部、射撃練習場−−

 伊吹マヤはゴーグルの位置を調節した。硝煙の臭いは、どうしても慣れることができない。彼女の階級章を見て、隣の軍属の青年は位置をゆずろうとしたが、マヤはわずかに頭を下げて遠慮した。

(お父さんが見たら、嫁に行けなくなるって心配しそうね)

 マヤの親は、彼女が国連機関にコンピュータ専門職として勤務することを知るのみだった。尉官となっていることや、嫌々ではあるがこうして射撃訓練を行っていることなど、思いもよらぬだろう。

 支給の軍用拳銃は重すぎて、マヤにはとても扱えなかった。その後、小型のものに替えてもらい、近距離の目標には当たるようになった。だが、指先に加えた数十グラムの力で人体を破壊し、生命を強制停止させることの力学的ギャップは、彼女には忌避すべきものに思えた。

 隣りでは、マヤとさほど年の変わらぬ女性が、真剣な面もちでサブマシンガンの扱いの講習を受けている。

 

***

 

 「UN」の文字が凍てつく寒気に震えている。

 ネルフ総司令・碇ゲンドウを乗せた国連艦隊は、かつて南極とよばれた海域を進んでいた。海は鮮血の赤。生命反応は絶無。それは原初の無原罪の海だった。

「これが補完計画の行き着く先だというのか」

 小声だが、深い悔恨のこもった口調で、冬月コウゾウは言葉を吐いた。隣りに立つゲンドウはしかし、副官の言葉には返答せず、眼下に砕ける赤い氷の層を見つめるばかりだった。

 

***

 

 急に降り始めた雨は、勢いを増していった。昼間だが、夕暮れ時のような暗さだ。

 葛城家に雨宿りの二人の少年−−鈴原トウジと相田ケンスケ−−はタオルで雨をぬぐっている。シンジにはタオルを頭からかぶった友人の顔は見えないが、タオルごしに少年たちは大いなるメッセージを発信していた。

「???」

「!!!」

 リビングにはシンジと共に、水色の髪をもつ寡黙な少女がいた。妙齢のおねーさんとドイツ系クオーターのタカビー美少女だけでなく、レイまでもがシンジの同居人となっている。ましてレイが、少年たちに見覚えのあるプリントのTシャツを、肩のあたりなど余らせて着ていたとなれば、好奇心に悶えるのはとうぜんだ。

 その時、問題の一人が顔を出す。

「あっ、アンタたち何してんのよ?!あたし目当てに来たんじゃないのぉ?アンタたち三バカは、無愛想なお姫様のとりまきがお似合いよっ!」

 そういってアスカがぴしゃりと戸を閉めてから、トウジとケンスケは顔を見合わせた。いったい、同居生活を始めた三人のエヴァパイロットのあいだで、どんな騒動が日々起きているのやら。ケンスケの眼鏡が妖しい光をはなつ。

 シンジはそんな疑問にも気づかず、ひとごこちついた仲間に麦茶を入れてやった。同じテーブルでは、レイが本から目をはなし、不思議なものでも見るように、少年たちのようすを観察している。

「スイカ、出そうか?」

 こくり、とレイはうなずいた。雨宿りの少年たちがきょとんとする中、シンジが冷蔵庫から出して綺麗に切り分けたスイカに、レイはごく自然に手を伸ばした。

 軽く、視線が重なる。

 レイはクラスメートの誰も見たこともない−−唯一の例外は、時々遊びに来る洞木ヒカリだろうか−−柔らかな微笑みを返した。

「ありがとう」

 あっ、綾波が感謝の言葉!?トウジもケンスケも、顔を見合わせてボーっとしたままだ。見てはいけないものを見たような、というか大変なものを目撃してしまったような−−

「加持さんに、分けてもらったんだ」

「「ん?」」

「あ、ネルフの人で、ミサトさんの大学時代の友達だって言ってた」

 ここでふつうなら、ケンスケはメモ取りとなるのだが、レイの「微笑み返し」のインパクトからぬけられない。そのレイはといえば−−

 はぐはぐ。はぐはぐ。

 スイカと悪戦苦闘中だ。

 ふと、レイは顔を上げてじっと少年たちに視線を送る。小さく開いた唇の端が、スイカの赤に少しだけ染まっている。彼らは、またしても見てはいけないものを見てしまったかのように、顔を伏せて食べることに専念した。

 その時、ミサトが姿をあらわした。ちらりとレイに目をくれて、それからアスカにも聞こえるように大声で今晩のハーモニクステストの予定を告げる。

 その襟章の変化に、ケンスケが目ざとく気づいた。

「このたびは、ご昇進おめでとうございます!」

 

***

 

 再びネルフ本部、サービスエリア−−

 休憩時間、旧世紀のマンガの復刻版を広げながら、日向マコトは別のことを考えていた。地下にいても、光ファイバーからの日射しの弱さで、「外」では雨雲が広がっていることが察せられた。

 日向は頭の中で、封じていた疑問を解放する。

 使徒がやってくるのは、なぜか−−求めるものがあるからだ。

 一つの可能性は、エヴァ。ではエヴァがなければ使徒は来ない?そうかもしれない。しかし、ネルフ本部に来ないということと、現れないということは同義ではない。そのばあい、被害は世界のどこで起きるかわからず、予測もつかない厄災がもたらされるだろう。

 そんな思いをめぐらしつつ、筋も追わずにまたマンガのページをめくる。あるいは地下には、まだ自分の知らない施設があるのかもしれない。それによって、ネルフは、使徒を引きつけるための囮となっている?

 いや、と日向は小さく渋面を作る。囮とはふつう、価値のないものだ。しかし、本部にある何物かは、使徒が接触することによって、サードインパクトを引き起こし、世界を破滅に導くことができる。使徒がドグマに侵入したときの感覚が、また生々しくよみがえる。同僚の青葉シゲルや伊吹マヤが大学の研究室から引き抜かれたのとは違い、もとから国連軍の養成機関を出て任官された日向は、自分の生死については、それなりの覚悟をしていた。しかし、ネルフ本部とジオフロントの大勢の人々とひきかえに、全世界を救うというのは、彼にとっても想像の範囲をこえたことだった。胸の奥につかえる塊が、また重くなる。

「よっ、渋い顔して、なに読んでるんだ?」

 肩をたたく者がいた。シゲルだった。作り笑いの必要な仲ではない。見ると、オーディオシステムのカタログをかかえている。そういえば、ボーナスでツートラサンパチのレプリカモデルを買うのだと言っていたのを思い出す。

「まっ、色々とな」

「ん、<魂のふるさと>とはまた、大げさなセリフだな」

 マンガに出てくるボロ布をまとった、怪物じみた人物の絵をのぞきこみながら、青葉はつぶやいた。同じページでは、ビルの上に立って「おろか者め」と指弾する、無表情な仮面をつけた男が描かれている。

(こんな時代でなけりゃ、こいつやマヤちゃんと飲みに行って、オロカメンごっこでもやってたろうにな)

 コーヒーサーバの前でかがむ青葉を見ながら、日向は泣き笑いのような表情を一瞬浮かべたが、再び目もくらむ激務が待つ発令所へと踵を返していった。

 

***

 

 ミサトがこぼした通り、シンクロテストの成績をほめられても、シンジは嬉しそうな顔をしなかった。アスカは不機嫌そうにプイと帰ってしまった。現場に復帰してからも、まだ考え込んでいる時の多いシンジだったが、今もまた浮かぬようすでエレベータを待っていた。

 そんな彼を、加持がいつもの飄々とした調子で呼びとめる。

「こ、こんにちわ」

「聞いたよ、シンジ君。めざましい進歩だそうじゃないか。エースパイロットの座につくのも時間の問題だな」

 スイカのお礼でも言おうと思ったシンジだったが、ついつい加持のペースになってしまう。

「そんな...ほめられても、あまり嬉しくないです」

 加持はそれには答えず、いつもの曖昧な笑いをうかべて歩き去った。

(どうしてアスカ、怒ったんだろう...何が悪かったんだろう)

 その時、エレベータがごとりと停止し、扉が開く。

 扉の向こうには、ユリアが乗っていた。シンジは狼狽しながら小声で挨拶し、彼女とは反対側の壁ぎわに立った。

 上昇を始めたエレベータを、沈黙が支配する。そういえば、この人と話したことはなかったんだ−−シンジは思う。日本語が上手なのは知っているけど。弐号機といっしょに来たから、アスカのことはよく知っているのかな。

「アスカのことを気にしているの?」

 立ち位置を変えず、気配だけシンジの方に向けて、ユリアが静かに言った。来日した時にくらべると、だいぶ髪が伸びている。西洋人にしては薄く尖った肩。いつもと同じく、重そうな書類をかかえている。

「そういうわけじゃ...」

「リリンは傷つきやすい心をもっている。しかし、それゆえ好意に値する」

 そう言うと、ユリアはシンジに向き直って微笑んだ。ふわりと銀の髪が揺れた。思いもよらぬ穏やかな空気が広がる。

「そう思わない?碇シンジ君」

「えっ?」

 謎めいた大人の女の人の微笑み。エニグマ。そんな言葉だったろうか、ケンスケにきいたことがある。ミサトさんの、人のよさそうな豪快な笑い、リツコさんの、ため息まじりの笑い、そのどちらとも違う。それが何かわからぬまま、やがてエレベータは止まった。

 開いた扉の前には、レイが立っていた。肩を寄せて歩き去る二人を見送ると、ユリアはわずかに寂しげな表情を見せて、再びエレベータの扉を閉じた。

 

***

 

「かんぱ〜い」

 といっても、酒を飲んでいるのはミサトひとりだった。加持とリツコは遅れて合流するとのこと。今は、三人のチルドレンの他には、シンジが呼んだ、というよりはミサトの昇進パーティーの仕切り役を買ってでたケンスケとトウジ、それにアスカの親友のヒカリがいるだけだ。今日もペンペンは、ヒカリの膝の上でひさびさに癒しのひとときを過ごしている。

「加持さん遅いわねえ」

 アスカがぼやく。

「そんなにカッコいいの、加持さんて?」

 ヒカリが身を乗り出す。

「そりゃもう。ここにいるイモのかたまりとは月とスッポン。比べるだけ加持さんに申し訳ないわ」

「なんやて〜?」

 続いて、お約束のバトルが少年少女の間で開始された。だが、シンジはその中に入ることができずに、ウーロン茶をすする。

「まだだめなの、こういうの?」

 小声でミサトがシンジにささやいた。

「いえ...まだ、苦手なんです。人が多いのって」

 何でわざわざ大騒ぎしなくちゃいけないんだろう、などとは今では思わない。この街に来たころに比べれば、人との接触にもずいぶん慣れたように思う。だが、パーティーの歓声あがる時のさなかに、いつ大きな亀裂が走り、暗い深淵が口を開いてみせるのか、不安がチェロの低音のように、鳴りやまない。

 ふと顔を上げる。嬌声をあげるアスカたちの向こう、レイの紅い瞳と視線が合った。ずっと自分を見つめていたのだと、シンジは気づく。ぎこちなく微笑むと、レイは和んだまなざしを返した。

 そのようすに目ざとくミサトは気づくが、出かけた冷やかしは玄関のベルにさえぎられた。

 入ってきたのは、リツコと加持だった。

 

***

 

 その少し前−−

 思い切るきっかけをみつけに、ミヲは街に出た。潮くんの住所は知っている。携帯の番号も知っている。メールアドレスも知っている。だけど、それだけ。

(救いようがないな、あたし)

 あてもなく歩いていくと、旧式の公衆電話があった。ミヲは思う。声が、ききたい。それだけでいい。あたしの携帯でかけたら、ヘンに思うかもしれない。でも、公衆電話からなら、きっと大丈夫。胸の鼓動をおさえながら、ボタンを押す。

 しかし、電話の向こうからは、「お客様がおかけになった番号は、現在使われておりません」というアナウンスが返るだけだった。

 少女は凍りつき、今にも崩れそうに受話器を握りしめた。

 

***

 

「本部から、直なんでね。そこで一緒になったんだ」

「「あやし〜わね」」

 アスカとミサトが異口同音につっこむ。

「あら、やきもち?」

 リツコは照れもせずに返す。

「んなわけないでしょ!」

 その時、ヒカリは携帯が鳴っていることに気づき、ちょっと申し訳なさそうにメールを開いた。ちらりとトウジのようすを確認してから、ヒカリは小声でアスカに言う。

「ミヲが、今日はだめだって...」

 最近のミヲの、元気のかけらもないようすを知っているだけに、ヒカリはせめて気晴らしの機会でももてればと思っていたが、それもかなわぬようだ。先立つストーリーが語られた時には、まだ日本にいなかったアスカだったが、気がつけばヒカリと一緒に、彼女の応援団になっていただけに、残念な気持ちは同様だった。

 料理をする習慣のなさそうなリツコが買ってきたのは、ミサトが買うのと似たりよったりのコンビニ食品だった。それと一緒に、シンジが作り、レイとヒカリのアシストした手料理を並べると、けっこうバランスのとれた盛りつけになった。

 テーブルにもどりながら、気配り屋の委員長・ヒカリはレイにも話題を振ろうとする。

「綾波さんて、いつも本を読んでるけど、どんな作家が好きなの?」

「別に...いない...」

「でも、最近読んだ本とかは?」

 レイは、ふつうの中学生なら間違っても読まない本をあげた。ヒカリは微妙にフリーズするが、気をとりなおして続ける。

「で、でも小説とか読むと、いろんな人の気持ちがわかるでしょ?」

「...そう...」

 ヒカリは話しのつぎようがなく、ちょっと困った顔をした。ここで、意外にもリツコが話題に参加した。

「レイにはかえって古い物のほうがいいかも知れないわね。うちに古典文学の全集があるから、二、三冊こんど持って来るわ」

 天才科学者は、芸事にも通じているのである。気がつくと、彼女の前にもビールの空き缶がすでにところ狭しと並んでいた。

「人の作りしもの−−そこには多くの想いが宿っているから」

「またまた、難しいこと言うわね」

 すでに酩酊状態の第一ステージを越えたミサトが感心して見せた。加持はリツコの言葉に隠された意味を読みとろうとするが果たせず、いそいそと女傑二人にビールを注ぎ足した。

 シンジはまたウーロン茶をかたむけた。アスカの機嫌もなおったようだ。活気に満ちた人の集まりに入っていくことはやっぱり苦手だけど、この空気はイヤじゃない。リツコさんも、いつもの張りつめた感じがない。ケンスケもトウジも、本気で楽しんでいる。僕も、つられて笑ってしまう。

 けれども、使徒はまたやってくる。シンジは心の隅でそのことを自覚していた。

 

***

 

 翌日−−

 インド洋上の高空に不意に発現した巨大な物体は、しばらく気配をうかがうように浮遊していたが、やがて漂うように東の方をめざして動き出した。

 その物体は、羽根の形といえなくもないが、極彩色のリボン状の物体が幅数百メートルにもわたって広がっている、というのが正確だろう。そこには、フリーメイスンも大喜びの目玉模様が衛星カメラをにらんでいる。

「常識を疑うわね」−−それが、新たな使徒の映像を見て最初にミサトの口をついて出た言葉だった。直後、カメラは使徒によって破壊され、画面は砂色になった。

 その物体は、ゆるゆると移動しながら、滴を一つしぼり出した。ATフィールドに包まれた使徒の一部は、膨大な質量と加速によって、着地点に巨大なクレーターを作っていった。使徒の無垢なる破壊の意志は、「前」の時をしのぎ、さらに膨張していった。

 目指すは、東の果ての日出ずる国。地に秘された深き霊所。

 

***

 

「<槍>の固定は済んだか?」

 冬月は作業の完了を確認した。大型空母の甲板には、巨大な柱のような物体が横たわっている。ジャミングで通信がとぎれる直前、入ってきた知らせを彼は告げる。

「第十の使徒が現れたそうだ。その後の状況は確認できん」

「そうか」

 ゲンドウの無表情な横顔に、わずかだけ焦りのようなものが表れたのを冬月は認めた。

「残りは四体...その後はシナリオ次第か?」

 そう言うと冬月は、(修正が必要なのは、どちらも同じだがな)と内心で思いながら、ひとり執務室へとむかった。

 

***

 

「マギは全会一致で撤退を推奨しています」

 マヤはそう報告した。しかし、市民に退避の指示を出した後で、ミサトはエヴァの発進を司令した。リツコが反論する。

「あなたの勝手な判断で、エヴァを三体とも棄てる気?」

 技術部長である彼女が詰問するのも無理はない。勝算のない闘いを挑んでも、無意味なだけだ。冷徹な科学者の心がそう告げていた。

「やることはやっておきたいの。使徒殲滅は、私の仕事です。全力を尽くして初めて、天の恵みもあるはずよ」

「笑わせるわね。自分のためでしょ?あなたの使徒への復讐は」

 だが、そう言い放ったあとで、リツコはフッといつもにまして深いため息をついた。

 このネルフの指導部に、人のために動いている者が、どれだけいるだろうか。天の恵みなんて−−

 わたしは何も、感じない。

 

***

 

 机の上には、「使徒と呼称される物体及び人類補完計画(仮称)に関する第1次中間報告書」と書かれた書類が置かれている。

 すでに「臨時」の名称は外れていたが、日本政府の実態は酷いものだった。政務のかなりの部分は、ここ松代にあるマギのサブセットに代行をまかせている。閣議といっても、市庁の埃っぽい談話室を接収したにすぎない。きしむパイプ椅子。時代遅れのホワイトボード。その上には、マジックで議題が書かれている。

「使徒...補完計画...いったい何が起きているというのだ?」

 総理となった男が問う。総理の椅子が、折りたたみのパイプ椅子とはな、そう内心で恨み言をこぼしながら。彼もまた、第二新東京市が壊滅する以前は、権力の座にあったわけではない。内閣官房の一部の人間だけが握っていた情報は、事実上失われた。まして、机の上にある報告書が、加持リョウジという男によってダミーをまぜてあしらわれたものだとは、知るはずもない。

「情報公開法をタテにとっても、多くは望めません」

 書類を見ながら、総理の側近と思われる者が発言した。新たな使徒が第三新東京市をめざしているといっても、とても対応のできる状態ではない。黙り込んで書類に目を落とす総理を横目で見ながら、側近の男は言葉をついだ。

「国連などからも、公式発表以上の情報は引き出せないのが現状です。内調の者がネルフに探りを入れていたはずですが、部局の責任者が行方不明となっているため、いまは情報ルートを再構築することで手いっぱいです」

「そもそも、ネルフの人型兵器の実力はどうなのだ?」

「さて...戦自のN2兵器でも、足止めしかできなかった化け物をこれまで倒してきたのは、事実ですな」

 不機嫌さを隠そうともせず、閣僚の一人が答える。

「今度も打つ手なし、か」

 総理は議題を切り換えることにした。

「それで、訪米のことだが」

 宗主国の力が衰えたいまも、ワシントンへの表敬は新総理のつとめとなっていた。来月には、欧州連邦−−ブリュッセル壊滅の後、ストラスブールに本部を移していた−−への歴訪が決まっている。

 閣議はやがて些末な話題へと移り、これといった成果もないまま散会した。

 

***

 

「松代へのデータ転送を開始して下さい」

「ヴァイオラ、ビアトリス、準備よし。双方向回線、開きます」

「ロザリンドへの接続まで、あと11秒」

 

***

 

 作戦会議−−

 これまでとはケタ違いの巨大使徒の急降下をエヴァ三機で直接受け止め、近接戦闘によって倒す。言うのは簡単だが、未知の要素が大きすぎる。

「これでうまくいったら、まさに奇跡ね」

「奇跡ってのは、起こしてこそ初めて価値が出るものよ」

「つまり、何とかしてみせろってこと?」

 アスカはミサトを睨みつける。年の差など関係ない、互角の迫力だ。

「僕が、先行します。初号機で使徒をくい止めている間に、零号機と弐号機でコアを破壊して下さい」

 シンジが、不意に思いつめた様子で言う。

「いえ。私が先に出ます。碇君はオフェンスに回って」

 レイがきっぱりと言う。いつもの無口ぶりとはほど遠い。

「ちょっとアンタたち、このアスカ様をさしおいて、何勝手に決めてんのよ!?」

 ていうか、さしおかれてるのは、このあたしなんだけど、とミサトは思い、三人に一喝をくれてやる。

「こういう状況って−−」

 ミサトは言葉を切った。

「共倒れの伏線なのよね」

 まったく、この子らときたら。このさい、作戦部長としては言っておかないとね。

「あたしはあなたたちを量りにかける気はないわ。それに、今度の使徒の重量は、エヴァの物理的強度の限界ギリギリなの。三人同時にスタートして、全員で支えるしか勝つ見込みはない。だから、誰が何をするかは、使徒を受け止めてから、ジャンケンでもして決めなさい!無事、作戦が終ったら、そうね−−」

 ステーキおごるから、とミサトは言いかけたが、レイが肉を食べないことに思い当たった。炊事役のシンジの奮闘ぶりが頭をよぎる。

「お寿司の食べ放題で、どう?」

 

***

 

 人の流れ、というが濁流に近い。街からは人がうねるように流れ出している。

 通常兵器からの援護とエヴァによる肉弾戦、という戦闘形態をもとに作られた要塞都市であっただけに、街全体をクレーターに変えてしまうようなスケールの敵に対しては、全面的な退避以外に、対処するすべはなかった。市街の中心部には、ネルフ関係者が多く、これまでの経験から避難も手際よく進んではいたが、何といってもこれほどの大集団を市外まで退避させようとすれば、荒々しい流れになるのはやむをえなかった。

 愛犬を抱きしめて、少女が急ぎ足で臨時列車の乗り場へと向かう。

 初老の夫婦は、庭木に最後の水やりを済ませて家を出る。

 親の遺した旧世紀の写真のネガを入れたカバンを大切そうにかかえた若者がいる。

 そんな人の流れの中に、夢遊病のように足を運ぶ榎本ミヲもいた。家から持ってきたのは、少女の嘆きの聞き役のぬいぐるみと、お気に入りのキャラクターグッズが少しだけ。出張中の両親は、急ぎ帰路についているところだ。

 潮くんはどこ?この街にはもういないの?ミヲは人の流れに乗り切れず、漂うように進んでいった。

 ちょっと色白で、長い顎の彼。いつも冗談を言ってクラスの子たちを笑わせている。でもよく見ると、大人っぽい感じ。ケンヂくんって、一度でも言えたら...また、ミヲの歩みは遅れ、バックパックがずり落ちそうにった。肩にかけ直そうと、ミヲがストラップに手をかけた、その時だった。

 猛烈な爆風とともに、ミヲの華奢な身体が浮かび上がった。思い切り殴られたような感覚につづき、暗闇の底に落ちていくような喪失感とともに地面に落ちていく。何だろ、これ?やだ、体が動かない。

 しばらく経ち、ミヲの五感は少しずつだが戻ってきた。体中がひどく痛む。

 あたし、生きてる?

 半身をなんとか起こし、ミヲはあたりを見回した。すると、倒れ伏した人々の中から、同じく体を起こし、こちらを見つめる人影があった。ミヲは不意にあふれ出した涙でいっぱいの瞳を見開き、かすれる声でその名を呼ぶ。

「潮くん...」

 

***

 

「まずいわね。逃げ遅れた人を大至急、最深部のシェルターまで誘導して!」

 使徒の滴、とでもいうのか。その巨体の欠片が降ってきて、市の郊外の何か所かに打撃をあたえたという知らせが入ってきた。この使徒の攻撃力は、尋常ではない。

「目標のATフィールドをもってすれば、そのどこに落ちても、本部を根こそぎ抉ることができるわ」

 リツコが淡々と告げてから、しばしの時が経っていた。残された人々の誘導が軌道に乗ったことを確かめると、ミサトは大型スクリーンでエヴァの配置状況を確認した。市の中心部をとりかこむ形で、エヴァが正三角形に配備されている。

 自分の立案した作戦が、とうてい作戦の名に値しないものであることは、分かっていた。今度も、エヴァの力に頼るほかない。ミサトは奇跡の種子を芽ぶかせるべく、不安を残す二人に声をかける。

「シンジ君−−」

「はい」

「あなたはレイが好きなのね」

「はい」

 それはためらいの微塵も感じられぬ返事だった。

「彼女を大切にしたい」

「はい」

「レイ−−」

「はい」

「あなたも同じ気持ちね」

「はい」

 即答。

「シンジ君と、また手を取り合いたい?」

「はい」

「二人とも、その気持ちで、全力で駆けなさい。そうしないと、使徒の落下速度についていけないから」

「「はい」」

 子供たちのぎりぎりの想いを戦闘に利用するとは、あたしも立派な指揮官ね。地獄行きは確定−−ミサトはおのれを褒めてやりたい気持ちだった。

 弐号機の中では、アスカが不敵な笑みをうかべた。

(アンタたち、ほんとについて来なさいよ!)

 

***

 

 シェルターの内部に、何度も衝撃波が伝わってくる。周囲の壁が不気味な音をあげてひび割れていく。

 不意に、電源が落ちた。その時、転びかけたミヲは、気がつくと潮少年に支えられていた。暗闇の中、少女は身をこわばらせる。

 本当に、終わりかもしれない。いえ、ぜんぶ夢なのかも。暗くて、何も見えない。でも、潮くんがこんなそばにいる。夢なら、そう、夢なんだから、言っていいよね。

「潮くん...」

「ん?」

「...好き...」

 

***

 

「みんなも退避して。ここはあたし一人でいいから」

「いえ、これも仕事ですから」

 青葉が軽く言う。

「子供たちだけ、危ない目にあわせられないですよ」

 これは日向。

 ありがと、そう言ってミサトはスタンバイ中のチルドレンを見やった。

 変わらぬ静かさの中に、シンジの力を信じ、そして自分の想いを信じて、こころもちうつむき、瞑目するレイ。

 自信満々に、リラックスして出撃を待つアスカ。

 やや神経を高ぶらせながらも、視線はじっと零号機内のレイを映すモニタを見続けるシンジ。

 その間にも、切れ切れに落下する使徒の滴は、都市の骨肉を揺さぶっていった。

 

***

 

 リツコは研究室でディスプレイに向かい、独り作戦の最終チェックをしていた。使徒とエヴァの衝突は、通常の力学的な要素のほかに、互いのATフィールドの強度や波動の特性がはいってくるため、予測は難しかった。

 どちらにせよ−−作業を終えたリツコはディスプレイに古い写真を出す。くすぶる妬みと、やるせない乾きを感じつつ。

 一緒に死ねないなら、今は生きること。


 

Episode 12: She Said, "You Won't Feel the Benefit (Won't Feel the Benefit)".

 


「エヴァ全機、発進!」

 アンビリカルケーブルをパージし、三機のエヴァがダッシュする。抜けるような青空は、大気の激烈な異変で、陰気なまだら模様となっていた。

「使徒接近、距離およそ二万」

 疾走する初号機の中で、シンジはさきの使徒戦の時、機能停止した街の中を駆け抜けたことを思い出す−−

 

 あの時、最後かもしれないと思った。胸が裂ける思いで走り続けた。ネルフ本部に近づいたとき、声が聞こえた。

(会いたいんだ)

 今もまた、レイの心が全力で走り続けているのを感じる。

(ただ、それだけなんだ)

 少年と少女は幾度も倒れた。それでも、互いを激しく求めて駆けていった。

 きっと会える。レイは願い続けた。

(あなたを、抱きしめたくて)

 今もまた、シンジの心が全力で走り続けているのを感じる。

(肌を重ねたくて)

 

−−使徒の落下速度はさらに増し、三機のエヴァは、あるいは送電線を、あるいは小山を軽々と飛び越えて、鬼神のごとく疾走していく。

「距離、一万二千」

 シンジは走り続ける。そして本部施設の暗い闇のむこう、レイと再開したときの感覚が、鮮やかによみがえる−−

 

 その時、体力はとうに限界を超え、両の足は鉛のように重くなっていた。それでも、呼び合い、ひかれ合う声が、暗黒の世界をみちびく灯火となって、道を示していった。

 静止した闇の中、近づく足音。一瞬の逡巡。

 やがて、二つの吐息は重なり、少年と少女は震える声でいとおしむように名を呼びあう−−幾度も。

(綾波!)

(碇君!)

 シンジは暗闇の中でレイの手をとり、崩れるように抱き合った。空調システムが切れて、走りづめだった少年は汗まみれだったが、抱き寄せた少女はひんやり冷たかった。とても哀しくて、声が震えて、涙がとまらなかった。

(何も、できなくて...ごめん...)

(...)

(僕は...弱くて...綾波の心をわかろうとしないで...)

(...)

(ほんとうに、僕は...)

(...かまわない...)

(え?)

(...あなたが、ここにいてほしいから...)

 それで、十分だった。

 やがてレイの体温が感じられてきたとき、シンジの中に、今まで一度も感じたことのない気持ちが湧き上がってきた。

 離したくない。

 それは真実。それだけが真実。

 

−−パイロットへの通信システムは絶たれている。だが、みんなの祈りは、三人のパイロットに確かに伝わっていった。

(いける!)

 かつてない闘気の高まりを感じたミサトだったが、送られてくる切れ切れの映像に、今次の使徒戦において幾度目かの絶句をする。

「うそ...」

 その状況はあまりに悪意に満ち満ちたものだった。

 使徒からのATフィールドの滴は、欠片どころではなく、今や豪雨となっていた。「前」以上に巨大化した使徒は、そのあり余る質量を大量に垂れ流しながら落下しているのだった。まるで第三東京市が絨毯爆撃に遭っているようなものだ。激しく降り注ぐ使徒の滴は、すでに都市の何か所かを、原形を全くとどめぬほどに破壊しつつあった。

 だが、ミサトの前で、新たな奇跡が起きる。スクリーンの一角では、使徒の降らせる豪雨が弾け飛び、消滅していくのが見えた。何が起きているのか?発令所の者にもわからない。一瞬おいて、日向が必死の操作で叩き出したサブスクリーンの画面に、一同は息をのんだ。

 目の前では、六角形の朱金の壁が、八方に投げ放たれては使徒からの無数の滴をはねのけ、瞬時に消し去っていった。そこには、巨大使徒の中心部をめがけ、猛烈なスピードで走り抜ける真紅の影。

「アスカ!」

 使徒は、目の前だ。激しく降り注ぐ使徒の雨滴は勢いを止めようとしない。アスカがいち早く使徒の直下を取る。

「「フィールド全開!」」

 零号機と初号機は、同時に最大出力でATフィールドを展開する。パーソナリティが近似するエヴァ二機が展開するフィールドは、その共振効果によって、単独で形成された場合をはるかに上まわる強度と広さをもって、第三東京市を覆っていった。それはかつてキャンプファイヤーの時に、緊急出動で子供たちを土石流から守るために必死で心を一つにしたことの再現だった。

 守りたい。

 二人の意志はさらに強さを増し、使徒の豪雨攻撃を封じ込めていった。

「こ・れ・で 最後っ!!」

 今、三機のエヴァが一点に出会う。直上には使徒のコア部分。初号機が軋みをあげる両の腕で使徒をくい止め、零号機が切り裂いた使徒の中心部に、弐号機がプログナイフを裂帛の気合いとともに突き立てる。白熱したコアを貫かんとするアスカのナイフからは金色の火花が散り、そのせめぎ合いは永劫とも思えた。

 やがて、使徒のコアはついに輝きを失い、最期の大きな羽ばたきとともに、活動停止した。中心部で起きた爆発は、意外なほど小さなものだった。

 

***

 

 列車が走り出す。

 ミヲは必死に追うが、列車は加速し、すぐに窓ごしの潮ケンヂ少年の姿は見えなくなった。警報レベルは下げられ、みな帰路へとついていったが、ミヲはホームにただ一人、立ちつくしていた。

 告白への返事は、なかった。

 そう、思い出でいい−−ミヲは自分を説得しようとするが、その瞳からは涙がいつまでも止まらなかった。

 

***

 

「褒めてもらってよかったわね、バカシンジ」

 ローストビーフとアボカドの手巻きを頬ばりながら、アスカが冷やかす。使徒殲滅の後、ゲンドウからの音声通信で、シンジがお褒めにあずかったことを言っているのだった。

「う、うん」

 ほぐしたカニとカイワレをご飯にのせると、シンジはお行儀よく手巻きを作り、レイに渡した。続いて自分にも同じ一品を作る。ミサトの財布の中身を見通したアスカが、テレビで見たことのある手巻き寿司パーティーを提案したのだった。素材に多少ぜいたくしても、こっちの方がずっとお手軽だ。

「でも、よく分からない...父さんに認められたいから、エヴァに乗るって、思ったこともあった。今日だって、嬉しかった。だけど、何か...どこか...違うような気がする」

「ふ〜ん」

「聞くだけヤボよ、アスカ」

「はいはい」

 慣れぬ手つきで、こんどはサラダ巻きをシンジのために作っているレイを見ながら、アスカは肩をすくめた。その時、携帯にメールが届いていることにアスカは気づいた。

 見ると、ミヲからだった。無事だったことを確かめ、ほっとするが、思いもよらぬ長さのメッセージをフォローしながら、アスカは自然と笑顔になっていった。避難の最中に思い人と偶然出会い、シェルターの暗闇で告白したこと、東京を去っていく彼を泣きながら見送ったこと、そして−−

<さっき潮くんから、また会おうなってメールが来たの。すっごく嬉しかった。応援してくれて、ほんとにありがと、アスカ! ミヲ>

 やれやれ、アスカは小声でつぶやく。

「よくやったわ、ミヲ」

 

***

 

 最後の聖杯水曜日。司祭たちが老人の周りを恭しく取りまいている。

 「書物」の上に老人は手を置いた。闇の中、司祭たちは微動だにしない。やがて、聖文字の刻印された「書物」から、ほのかな光芒が放たれる。

 老人はゆっくりと目を開いた。バイザーなしには、その白濁した両眼は何物も認めることはできなかったが、それもどうでもよいことだった。やがて、老人は眉間を小さく歪める。ついに開きつつある眼界を感じながら。

 それまで石像のように静まっていた司祭たちが、おののき身を揺らす。

 老人には見えていた−−それは原初の光。闇を圧する輝きとともに、「書物」の彼方に神の領域が立ち現れる。司祭たちにはその光を見ることはかなわなかったが、何が起きているかは畏怖とともにありありと感じられた。

 やがて、老人の眉間にゆっくりと亀裂が走る。血の滴りもなく−−すでに老人は十分過ぎるほどの血に染まっていたので−−亀裂は広がり、半透明の粘膜が出現する。「書物」の輝きはなお強まり、老人は受肉の歓喜にうち震える。

 次の瞬間、粘膜が弾け、老人の眉間には第三の眼が露出していた。やがて重く低い声で、彼は神への階梯をまた一段、登ったことを宣言する。

「アダムは我と共にある」

 

<つづく>

2003.5.30(2008.2.19オーバーホール)

Hoffnung

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